2012年2月 1日 (水)

JAL崩壊

Znp16   世間では「パイロット」と聞いてどの様な印象をもつでしょうか?
  多分、「かっこいい、高給だ、エリート、羨ましい、自分もなってみたい、モテそう」などというのが一般的かもしれません。しかし、私たちのように彼らと一番身近なところで仕事をしている者から見れば、パイロットほど「食えない」人種はいません。彼らこそ、今後も決して発見することができない「絶滅危惧希少価値動物」であると断言できます。とにかく、わがまま、世間知らずといった形容しか思い浮かばないのです。この様な感情は、社内で彼らと業務上接する機会の多い関係部署、部門の者ほど共通して抱いています。なぜそうなったのか?簡単に言うと、長年にわたり会社が何かに付け甘やかし、「社会的常識」に基づいた適正な給与、待遇を施してこなかった結果、彼らはいつの間にか「勘違い集団」と化してしまったのです。その「甘やかし」と「社会的非常識」の典型と揶揄されているのが、世界一高い給料とぬるい労働条件です。私たちからみると、「充実した幸せな人生だ。この世に生まれてきてよかったなあ。二人目の奥さんもスッチーさ。ハイヤーで出勤するのも楽しいな」と、さぞや充足した生活を送っているに違いないと思いきや、彼らは今日も一層の欲求を満足させるべく、さらなる待遇、労働条件改善を求めて活発な活動を続け、会社と鋭く対立しているのです。本当に頭が下がるくらい熱心かつ執拗、エネルギッシュなのです。

2010年1月、JALが経営破たんした。

負債総額は2兆3222億円にものぼったといわれる。

本書は、その経営破綻したJALの現役・OBによる内部告発本。

8つの労組の実態から居眠りパイロットの実態まで、事細かに書かれている。

ここでは機長のあまりの厚遇と非常識さが書かれているが、やはり普通の人の感覚ではない。

破綻前の機長の年収は三千万円、それでもなお満足せず、さらなる昇給と労働条件の改善を求める機長組合。

読み進むに連れ、「潰れて当然」と思えてきた。

破綻後の経営再建を引き受け、先日会長職から退いた稲盛氏が、「ラーメン屋さえも経営できない」と述べていたことを思い出す。

そのJALが今後、どのようにして立て直してゆくのか、注視して行きたい。

2012年1月31日 (火)

ラクして成果が上がる理系的仕事術/鎌田浩毅

_  「体は頭よりもつねに賢い」ーーこのキーフレーズはクリエイティブな生産をしようとするときの黄金律である。高度な頭脳労働は、体のしなやかな動きと密接に関連しているからだ。
  したがって、体調を整えることは、どのような場合にも知的生産の要になる。大事なことは、身体感覚に敏感になって、よいものがひとりでに産まれ出てくるのをゆったりとした気分で待つ、ということである。
  経済学者の内田義彦は、ものを考えるときの姿勢についてこう語る。

私自身社会科学者の一人としてがっかりさせられるのは、芝居や映画に出てくる学者なるものだ。大体において深刻な顔をしてうつむいている。(中略)うつむいたまま硬直した姿勢である。自然体としての直立した姿勢から来たものでもなければ、そこに戻りうるものでもない。すなわち考えるという作業とはおよそ遠い姿勢である。(内田義彦「学問への散策」岩波書店、17~18ページ)

  うつむいた姿勢では、クリエイティブな思考には向かないのだ。もっとリラックスした体の状態をつくりだす必要がある。うつむくのとは反対に、天井を向いてポカンとしている姿勢が、知的活動の出発点となる。

体と頭とは切っても切り離せない関係にある。

ところが、日本では昔から体と頭とを切り離して考える傾向にあったように感じる。

子供の頃、秀才といえば、昼休みの時間もみんなと遊ばないで、青白い顔をして教室の片隅で教科書を開いて勉強しているガリ勉タイプというイメージがあった。

一方、体を動かすのは得意だが、勉強はからっきしダメ、まるで脳みそまで筋肉で出来ているのでは、と思われてしまうような体育バカ。

両極端に考えがちだった。

でも、今、考えてみるとおかしな話しである。

頭も体をも身体の一部。

密接な関係があって当たり前。

切り離して考えること自体がおかしい。

ただ、どちらを優先させて考えるべきか、という問題はある。

プロゴルファーの青木功は「体技心」と言い、まず「体」という土台がきちんと据えられていてはじめて「技」と「心」が成り立つと言っている。

長い間、結果を出してきたアスリートの言葉だけに重みがある。

いずれにしても、近年、身体活動の脳に与える影響が注目されてきていることは喜ばしいことではないだろうか。

2012年1月30日 (月)

野球型 vs. サッカー型/林信吾、葛岡智恭

Znp1a   世界的にみればサッカーの方がずっと盛んであるにもかかわらず、日本人が主たる観戦スポーツとして、野球を選択したのはなぜか。
  このあたり、多分に想像を交えての議論になってしまうが、サッカーよりも野球の方が秩序正しく行われるスポーツである、との印象があって、それが日本人の感性に合っていた、ということではないかと思われる。
  まず第一に、野球は役割分担がしっかりしている。投手がマウンドから投げることでゲームが動くし、打順も事前に決められていて、代打という制度はあるものの、打者は順番通りにしか打席に入れない。
  これに対してサッカーは、チーム11人のうち、1人を必ずゴールキーパーとすることと、ゴールキーパーは他の競技者および審判員と区別のつく服装であることが定められているだけで、あとは誰がどんな位置でプレイしようがまったく自由である。ゴールキーパーでさえ、極端に言うと最前線まで攻め上がってシュートすることも可能なのだ(手を使える範囲は限定されている)。(中略)
  サッカーはまた、ルールがアバウトである一方、一度試合が始まってしまうと、監督や選手がタイムを要求するということはできないため、作戦とか監督・コーチの指示といったものが機能する範囲は、きわめて限られる。逆に言うと、選手が自分の判断だけでゲームを動かす度合いが非常に高い。
これに対して野球は、極端に言えば一投一打ごとにベンチの指示を仰ぐことも可能である。(中略)
  つまり野球の試合というのは、監督を頂点とする頭脳集団によって動かされており、選手は与えられた役割の中で「いい仕事」をすることを求められるのだと言って過言ではない。ルール上、そのようになっているのだ。
  このことが、集団で規律正しく動くことを好む日本人の感性に合っていたのだ、という見方は、決して皮相ではないであろう。

近年、企業の組織を、野球型とサッカー型に区分する考え方がある。

野球型組織とは、ちょうど高校野球で打席に入った選手が一球一球、監督の出すサインを見て、その通りに動くことを求められるように、

組織の形態がピラミッド型になっており、ピラミッドの頂点に位置するトップが指揮命令を下し、その下の階層は、その通りに実行することを求められる組織。

基本的に現場の裁量権はあまりなく、むしろ上司のいう通りに実行することが求められる。

それに対して、サッカー型組織とは、ちょうどサッカーの試合で監督が試合前に試合の戦術を示すことはできるが、いざ試合が始まれば個々の選手にすべて任せざるを得ないように、

組織の形態はフラットになっており、トップは大まかなビジョンや戦略は示すが、それをどう実行するかは現場の社員の判断に任せる組織。

どちらが優れているかは、時代の要請や、その企業のビジネスモデル、戦略等によって決まってくるので一概には言えないが、

大きな流れとしては、サッカー型の組織が求められているのは明らかだ。

しかし、日本人に向いているのは、どうも野球型組織のようだ。

それは古くから、野球がメジャーなスポーツで、サッカーはずっとマイナースポーツだったことからも明らか。

ただ、向いていないからといって、そのままでいいわけがない。

日本人にとって、自分の判断で動くということは苦手科目のようだが、

今後は、この苦手科目克服のために取り組む必要がある。

2012年1月29日 (日)

夢を持ち続けよう!/根岸英一

4764106248  夢を持つのは素晴らしいことです。ただ、同時に皆さんにお伝えしたいのは「自己評価」の大切さです。
 自己評価というのは、ただ優秀だとか優秀でないなどということだけでなく、自分の志向性といいますか、自分がやりたいことや好きなこと、それが自分に適していること、「適性」を客観的に評価することです。これが夢に向かって進む第一歩だと思います。
 若い方にも「自分を客観的に評価してみたらどうでしょう」とまず言います。駄目だったら何かほかのこと、政治でも経済でも何でもよいのですが、適性を見極めることが大切です。サイエンスでは特にそれが重要です。
 適性を探すには、いろいろな局面においてコンペティティブである(競争心を持つ)ことも必要だと思います。競争心は何も悪いことではありません。競争が極まって戦争になったら困りますが。
 オリンピックも競争だし、最近ではサイエンスオリンピックなんていうのもあります。若い人たちは本質的に競争が嫌いではないと思います。だけど勝てば好き、負ければちょっと嫌いになる。残念ながら負けた人は「このゲームでは自分は駄目なんだ、だから別なゲームにしなくちゃ」と適性を探すことになります。

夢を持つことは大事なことだ。

ただし、同時に自分の適性を客観的に評価する目を持つ必要がある。

この二つは、車の両輪のようなもので、どちらか一方だけではうまくいかない。

例えば、夢を持っているが、自分の適性を客観視する目を持っていない人はどのような人生を送るのだろう。

おそらく、一部の人は運良く夢をつかむだろうが、大部分は一生を棒に振る。

今、問題になっているフリーターやニートの一部はそのような人たちである可能性が高い。

ただ、自分の適性を知っているが、夢を持っていない人も、堅実ではあるが面白味のない人生を送ることになるかもしれない。

また、そもそも、その適性の自己評価も低すぎる可能性がある。

バランスの問題ということになろうが、そのためには根岸氏も言っているように、いろんな局面において競争心を持つこと。

夢を持っているのであれば、それをつかむために、競争せざるを得ないような局面に自分の身をおいてみる。

そのような中で勝てば適性があると判断できるし、負ければ適性はない可能性が高い。

要は競争を避けては自分の適性を知ることすらできないし、夢をつかむこともできない、ということであろう。

2012年1月28日 (土)

「NO」は言わない!/林田正光

Znp2a   ある雑誌に、組織についての興味深い調査結果が掲載されていました。
  それによると、「自分が所属する組織が達成しようとしている目標と、その理由を明確に理解している人」の割合は組織のメンバーの37パーセントにすぎず、「チームや組織の目標達成に熱意を持っている人」は20パーセント足らず、「自分の目下の課題とチームや組織の目標との間に明確な見通しを持っている人」は20パーセントとのことでした。
  これをラグビーのチームで考えてみましょう。
  なぜ勝利を目指すのかを理解してプレーしている人は15人中5~6人、勝利のために熱心にプレーしている人は3人、自分のポジションとやるべきことがわかっている人も3人です。つまり、多くのメンバーは、フィールドに立ちながらも、自分が何をするべきかがわかっていないのです。

今、多くの企業では生き残りのために、どのような戦略をとるべきなのかということが大きな課題になっている。

確かに大企業はそうだろう。

だが、私が普段関与している中小企業では、別の問題が大きいように感じている。

それは、トップが打ち出した会社の方針や目標に対して、大部分の社員が理解しておらず、自分の役割は何かがわかっていないということ。

つまり、企業理念やビジョン、方針、目標といったものが絵に描いた餅になってしまっている。

これが一番大きな問題であるように感じている。

どんなに優れた戦略を打ち出しても、社員がそれにそって動かなければ意味がない。

ところが、中小企業の場合、そもそも社員が会社の目標にそって動く仕組みがほとんどない。

結局、目標がスローガン化し、何も変わらないということになる。

また、最近よく言われている「自律的社員」というのも、中小企業の場合、違和感がある。

そもそも中小企業には、自律的に人からいわれなくとも自分で考え、行動し、結果をちゃんと出せる人材など皆無。

社長と社員の関係は、それこそ「笛吹けども踊らず」という状態になっている。

会社の理念や目標にそって社員がきちんと理解し動く仕組みを作ること、

中小企業はまずこのことを真剣に考えるべきだろう。

2012年1月27日 (金)

勇気の出る経営学/米倉誠一郎

Znp16   いま日本に必要なのは、“転んだ奴を笑わない”ことと、それから“失敗を嫌うシステムをなくす”ことです。ベンチャーというのは失敗するのが普通です。よく『成功するベンチャービジネス』というような題のついたビジネス書がありますが、こういう感覚自体がすでに違うと思います。
  アメリ力のように、失敗を許容して、失敗に寛容な世界をつくらないといけないと言いますが、じつはアメリカは失敗に寛容なのではなく、合理的なのです。失敗というのは人生のなかでも最も大きな経験だし、その経験をした者は多くのことを学ぶはずだという前提があるからです。それを学んだ人物を、日本の場合だと、二度とビジネスシーンに出てくるなという叩き方をして、足腰を立たせなくしてしまいます。あいつは倒産者だと言われるようになったらどうしようもなくしてしまうのです。

アメリカでは過去会社を倒産させたことのある経営者は、むしろ投資家から高く評価される、ということを聞いたことがある。

それに対して、日本では会社を倒産させた人は、社会的な信用もなくしてしまう。

多くの場合、二度とチャンスは与えられない。

この違いはどこから来るのか。

アメリカは失敗者に対して寛容であり、日本は不寛容な社会だからなのか?

単なる国民性、民族性の違いなのか?

米倉氏は、それはアメリカが失敗した者に寛容な社会だからではない、

合理的だからだと言う。

合理的に考えれば、失敗したというのは人生の中でも大きな経験だし、その経験をしたものは多くのことを学ぶはず。

そのような者に再度チャンスを与えるのはきわめて合理的な考え方だという。

では、そう考えられない日本人は非合理なのか?

確かにその通りなのだろう。

日本人は、物事を合理的に考えるより、周りの目や空気、雰囲気、そして人の和を中心に物事を考え判断する。

特に、日本社会は、ウチとソトをはっきり分けるムラ社会。

例えばベンチャーを立ち上げて起業する人は、そもそも「ソト者」であり、和を乱す「けしからんヤツ」

まして、その者が失敗でもしようものなら、「それ見たことか」と潰しにかかる。

二度とチャンスは与えない。

日本に起業家が少ないのは、そのような非合理な考え方が社会に蔓延しているからではないだろうか。

2012年1月26日 (木)

「攘夷」と「護憲」/井沢元彦

Znp2a  本来なら、黒船を見た瞬間、日本人すべてが一丸になってこの方向に向かって動くべきでした。ところが実際に日本人全員がこの方向へ向かうようになったのは、黒船から数えて15年後、明治維新の成った1868年からです。
  なぜ、15年もかかったのでしょうか。
  しかもこの間、いわゆる開国近代化に向かって、真っ直ぐ進んでいたのかというと、そうではありません。日本が本当の意味で開国の方向に向かって進みだしたのは、1853年の黒船来航から10年後の63年以降なのです。そこから明治維新までは、わずか5年しかありません。つまり10年間も、日本は議論の空転をしていたのです。
  その議論の空転を招いたのは、世論の中心であった「攘夷論」です。

幕末、黒船が開国を迫る中、「攘夷」という空理空論に固執して、明治維新までに15年もの時間を浪費した日本。

井沢氏は、それはそのまま現実を直視せず、空理空論に走る護憲派の発想につながっていると説く。

今から20~30年前からつい最近まで、護憲派と言われる人たちが言っていたことを繰り返せば、次のようになる。

ソビエトや北朝鮮は労働者の天国であり、中国は文化大革命というすばらしい改革をやった国。

これらの国には食料が満ち溢れ、貧困も差別もない。

共産主義国家の軍が持っている原水爆や軍備は、平和の脅威ではなく、むしろ資本主義国家の持っているもののほうが危険。

朝鮮戦争はアメリカと韓国の陰謀であり、北朝鮮は被害者。

北朝鮮は拉致など行っていないし、そういうのは右翼の陰謀。

北朝鮮のテポドンは人工衛星の実験であって、平和を目的としたものであり、日本にとって何ら脅威ではない。

北朝鮮に帰国した何万人もの在日朝鮮人は、今も平和なすばらしい暮らしを送っている、等々・・・と。

今から考えれば、「なんてバカなことを」と思ってしまうが、現実に朝日新聞を代表とする、進歩的文化人と称される人たちは大真面目で論じていた。

こういったことを口にしていた人間が、今や同じ口で護憲を唱えている。

「日本は平和憲法を持つ国であり、その平和憲法は絶対に正しい。それを改悪することは許されません」と。

つまり「攘夷」の時代から、根っこの部分はまったく変わっていないのである。

黒船が開国を迫る中、「攘夷」という空理空論に固執して、明治維新までに15年もの時間を浪費した日本。

今度はどれだけの時間を浪費するのだろう。

2012年1月25日 (水)

不安の力/五木寛之

_   いま、不安はこれまでになかったほどの社会的現象としてひろまっている。それは、逆の見かたをすれば、〈人間らしさ〉の最後の砦が守られているということにほかならないと思います。不安を感じるのは、人間がまだ〈人間らしさ〉を失っていない、という希望に通じていることだ。ぼくはそんなふうに考えています。
  ぼくたちはみな不安を抱えている。不安に苦しんでいる。そんななかでは、不安を抱えていることが人間らしいのだ、と頭を切り替えたほうがいい。自分が不安を感じ、ときにはパニックに陥ったりするのも、自分が人間らしい柔らかいやさしいこころを持っているからだ、と考えかたを変えてみる。むしろ、不安を肯定的に受けとめて、不安とどう共生していくか、ということを考えてみたらどうでしょうか。
  不安を感じるこころというのは、人間の自由を求めるこころであり、やさしさであり、愛の深さであり、感受性の豊かさです。その不安をどんなふうに希望に転化させていくか、ということを考えるべきなのです。
  ですから、あえて言えば、不安は希望の土台です。不安を感じることが、人間が人間としてあるということの出発点なのです。

今、多くの人が不安の中で生きている。

不景気、失業、そして政治に対する不信感、ITなどの技術革新のスピードについていけず、取り残されることへの恐れもあるだろう。

あるいは、うつ病やパニック症候群というようなこころの病気になってしまい、心療内科に通っている人もいる。

若い人たちは若い人たちなりに大きな不安を抱え、年配の人たちは、年配の人たちなりの大きな不安を抱えている。

企業は企業で、グローバル・スタンダードというような大きな枠組みのなかで、円高に苦しめられ、生き残りに必死だ。

しかし五木氏は、これはとても正常な反応だと言う。

今の不安の時代には、こころに不安を抱えているということが、むしろ正常な反応。

なぜなら、私たちが今、生きているこの世界のありかた自体が、人間に不安を与えるよう歪んだ構造になってきているから。

環境そのものがいま病んでいるから。

たとえば、日常的に口にしている食べ物にしても、これを食べたら危険だ、と警告を発するような本がひろく読まれている。

それは、放射能に汚染された食物や、遺伝子組み換え作物や、残留農薬や、食品添加物などに不安を感じている人がいかに多いか、ということ。

食べ物だけではない。

空気や水に対しても不安がある。

水道の水はいっさい飲まない、必ずミネラルウォーターを飲むという人もいる。

それだけでなく、外出する際には玄関の鍵を三つかけないと不安だという人もいる。

マンションなどで、ピッキングと呼ばれる空き巣の被害が急増しているためだ。

つまり、正常な感覚を持っていれば、不安を感じて当たり前の世界で、今、私たちは生きているのである。

だから、ここは発想を変えて「不安を感じることが、人間が人間としてあるということの出発点」と考えるべきだ。

不安を打ち消そうとするのでなく、不安と共生する。

このように考えた方が、生きるのが楽になるのではないだろうか。

2012年1月24日 (火)

勇気の出る経営学/米倉誠一郎

Znp29   3Mという会社はイノベーションを組織化しようとずっと努力しています。イノベーションだけが企業を成長させることを知っているからです。3Mが全従業員に「15%ルール」を適応しているのは有名です。全社員は自分の夢に、自分の予算と時間の15パーセントを使ってもいいのです。しかし、3Mは一方で各事業の売上げの四分の一は常に四年以内の新製品でなければならないと決めています。絶えず新しいイノベーションへ向けて圧力をかけているのです。
  同時に同社の制度も徹底しています。社員の創意工夫を高めるために、「提案制度」を取り入れようと、どこの会社も言います。しかし、そのあとがどうなったかは誰も知らない。だいたいが、そのまま宙に浮いて、そのうちに消滅してしまうものです。3Mでは、上司は部下の提案を却下するときには「挙証責任」が必要である、としたのです。部下提案に対して「ノー」と言った時はその理由をつけなければならないのです。上司は常になぜ却下したかと理由が問われるとなると、サンプルテストの結果だめだったとか、消費者百人に意見を聞いたけど九十八人がノーと答えたとかの実証的な理由が必要となります。
そういうものをつけなければならないとなると、まず部下の意見や考えをよく知ろうとします。と同時に、論理的に言葉にする、すなわち形式知にする訓練が上司に生まれ、経営に緊張感がみなぎるのです。

現在、イノベーションを経営課題にあげる企業は多い。

そして、そのために提案制度を導入する企業も多い。

ところが、大部分の企業はそこで終わってしまう。

結果、「何も変わらない」ということになる。

何故、提案制度を入れただけでは何も変わらないし、変われないのか?

それは組織の力学を考えるとよくわかる。

通常、組織の構成員の中で、変革を心の底から望んでいる人は一部だ。

多くの構成員は、「できれば変わりたくない」「変えたくない」思っている。

人間とはそれほど保守的な動物なのである。

しかも組織の上層部に行くほど、保守的な人の比率は高くなる。

仮に、そのような組織の中で、革新的な提案が部下から上がってきたら、どういうことが起こるのか。

おそらく、上司は部下の提案を握りつぶす。

その結果、本当の意味でイノベーティブな提案は陽の目を見ず、どうでもいいような、お茶を濁すような提案が採用される。

結果、組織は何も変わらない。

そのうち提案制度そのものも消えてしまう。

これが多くの企業がたどる道。

組織にはこのような力が働くのである。

その点、3Mでは、上司は部下の提案を却下するときには「挙証責任」が必要とされる仕組みがある。

こうなると、上司は下手に部下の提案を握りつぶせない。

ここに違いがある。

つまり、変われない企業は、この辺りの詰めの甘さがあるのである。

2012年1月23日 (月)

クオリア入門/茂木健一郎

Znp93 今、私の目の前に広がっている牧場の景色は、私の外にあると思っているけど、本当は私のこの小さな頭蓋骨の中にしか存在しない。私の頬をなでているこの風も、実は私の小さな頭蓋骨の中にある表象に過ぎない。私に見えていることの全ては、本当は、私の外にあるのではなくて、私の頭蓋骨の中にあるニューロンの発火の結果生ずる現象に過ぎないのだ。
私は、私の心は、どうあがいても、この頭蓋骨の中の狭い空間から逃れることができない。
どんなに雄大な景色の前に立っても、たとえ、グランド・キャニオンや、木星の巨大赤斑を目の前にしても、それを見て、感じる私の心は、この頭蓋骨の中に閉じ込められている。
私の心は、あくまでも、この一リットル足らずの頭蓋骨の中にある……
  この結論は、とても驚くべきもののように思われた。その考えの衝撃が、広く深く、私の心の中に広がっていった。私は、生まれてはじめて、私という存在が、そして、私にとっての世界の存在が脳内現象に過ぎないことを実感したのだった。
  それから、私は、牧場の中を散歩し続けたが、周りの景色が、今までとはまるで違ったもののように感じられた。

「私に見えていることの全ては、本当は、私の外にあるのではなくて、私の頭蓋骨の中にあるニューロンの発火の結果生ずる現象に過ぎない」

これは、脳科学者の世界では常識だという。

確かにそうなのだろう。

私の周りでどんなことが起ころうと、私の脳がそれを認識しなければ、なにも起こっていないのと同じ。

すべては脳内の現象に過ぎない。

確かにそうなんだろうが、何か違和感がある。

理屈ではそうなのだろうが、本当にそう断言できるものなんだろうかと思ってしまう。

脳科学自体、それほど歴史のある学問ではない。

最近にわかに注目を浴び出した分野である。

それだけに、これからどのように脳科学が進化していくのか注目して見て行きたい。

それにしてのもこの本、「入門書」と言っておきながら、読んでいて非常にわかりにくい。

著者のまだ若かりし頃の著作なので、無理からぬところがあるが、

いかにも内容が書生っぽく、最近の著作の方が余程わかりやすく、「入門書」と言える内容になっているように感じる。

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