2019年8月26日 (月)

終わりの始まり――ローマ人の物語Ⅺ/塩野七生

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 ギボンの『ローマ帝国衰亡史』も、マルクス・アウレリウスまでのローマ帝国の総括に冒頭の三章をさいた後ではじまる本文を、コモドゥスから筆を起している。ローマ帝国の衰亡は、皇帝コモドゥスの治世からはじまった、というわけだ。そして、この考え方は、ギボンから二百年以上も過ぎた現代でも、まったく変わっていない。

五賢帝の最後を飾る人であり、哲人皇帝の呼び名でも有名なマルクス・アウレリウスほど、評判の良いローマ皇帝は存在しない。

同時代人から敬愛されただけでなく、現代に至るまでの二千年近くもの長い歳月、この人ほどに高い評価を享受しつづけたローマ皇帝はいなかった。

しかし、その彼の時代に、ローマ帝国衰亡への序曲が始まっていたのだとしたら、それをどう考えればよいのだろうか。

五賢帝の最後、マルクス・アウレリウス帝の治世から蛮族の侵入など「終わりの始まり」が起こり、平和ボケしていたローマ帝国は衰退してゆく。

こうした時期に最も指導者に要求されたのは軍事的才能であった。

哲学に傾倒しているマルクス・アウレリウスは、人間の良き原理を、良き魂を、正直さを、公正さを探求するのには熱心だが、国家とは何であり、どうやればそれを良く機能させられるかという問題には熱心でない。

残念ながら国家には、先祖たちが示してくれたように、剣と法が必要なのだ。

だが、実直ではあっても軍事経験の乏しい哲人皇帝には荷が重すぎて戦役は長期化する。

帝国の制度の疲労によって矛盾や問題点が次々と顕在化する不運が重なる。

そして実子コモドゥスを後継としたことにより、帝国の瓦解はさらに進み国力は疲弊する。

よく軍の暴走を防ぐために、シビリアンコントロールという言葉が使われる。

しかし、歴史を見てみると、意外にも「シビリアン」のほうが、戦争のプロでないだけに、世論に押されて戦争をはじめてしまったり、世論の批判に抗しきれずに中途半端で終戦にしてしまう、というようなことをやりがちだ。

つまり、後を引くという戦争のもつ最大の悪への理解が、シビリアンの多くには充分でないのだ。

コモドゥスも、この意味では「シビリアン」だった。

そして、この「シビリアン」は、結果はどうなれ、戦争状態を終えることしか頭になかった。

能力の無い皇帝に排除の論理が働くとしたら、それは悲劇的な暗殺しか選択肢が無い。

そしてさらに権力抗争の内乱により混迷は進んでいく悪循環を辿る。

マルクスが傾倒していた哲学は、いかに良く正しく生きるか、への問題には答えてくれるかもしれない。

しかし、人間とは、崇高な動機によって行動することもあれば、下劣な動機によって行動に駆られる生き物でもある。

それが、人間社会の現実だ。

そして、それを教えてくれるのは、歴史である。

2019年8月25日 (日)

すべての道はローマに通ず――ローマ人の物語X/塩野七生

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 ローマ人は、現代人から「インフラの父」と呼ばれるほどインフラを重視した民族だった。インフラストラクチャーという合成語をつくるときも、ラテン語から引いてくるしかなかったほどに、ローマ人とインフラの関係はイコールで結ばれていると言ってよい。すべての道はローマに通ず、の一句は、誰もが知っているように。


本書は「インフラの父」と呼ばれたローマ人の最大の強みを解明したシリーズ番外編。

歴史上比類なき一大強国を築き上げ、数百年以上にわたり、維持・発展させたローマ帝国。

本書では、街道や橋の美しい写真などがふんだんに使用されている。

街道の位置は地図が参照につけられ、橋、水道などとともにその構造や工事方法も解説されており、興味深い。

合理性という側面において、ローマ人は古代でも稀な民族だという。

このことは帝国発展の一因でもあるが、インフラ整備の重要性を彼等が当たり前のように認識していたという事実に、驚かされる。

ローマの真の偉大さの源泉は、インフラストラクチャーの整備にあったといえる。

すべての道はローマに通ず、よりも、すべての道はローマから発す、と考えたほうが実態の正確な把握には役立つのではないだろうか。

人間の肉体のすみずみにまで張りめぐらされた血管のように帝国の全域を網羅することになるローマ式の街道網も、アッピア街道からはじまっている。

そして、街道には欠くことのできない橋も、首都ローマを流れるテヴェレ河にかけられた一本の橋からはじまった。

人と物が頻繁に交流するようになれば、経済も活性化する。

帝国全域に張りめぐらされたローマ街道網は、ローマ帝国を一大経済圏に変えた。

このローマ経済圏は、現代のEUどころではない。

ヨーロッパと中近東と北アフリカを網羅するという、二千年後の現代人でさえも実現していない規模の広域経済圏であった。

そして、経済圏が機能するのは、平和が持続できてこそである。

「ローマによる平和」とは、外敵に対する防衛に成功したから持続できたとするのは、半ばしか正解でない。

多民族国家ゆえに起りがちな帝国内部の紛争の解消にも成功したから、長命を保てたのである。

しかも、ほぼ三百年の長きにわたっての平和だ。

そして、この「パクス・ロマーナ」を維持していくうえで貢献したのが、ローマ街道であった。

人間でも健康を保つには、その人間の体内のすみずみにまで血液を送れる血管が機能していなければならない。

ローマの街道網が、それであった。

これが、20万にも満たない軍団兵だけで、大帝国の安全保障が維持できた最大の要因であった。

本書は街道、橋、水道のハード・インフラと医療、教育のソフト・インフラの両面から「ローマの本質」を描き尽くしている。

2019年8月24日 (土)

賢帝の世紀――ローマ人の物語Ⅸ/塩野七生

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 「パクス・ロマーナ」は、外敵の排除に成功するだけで達成できたのではない。帝国内部の紛争を収拾することにも成功していたからこそ、「ローマ人による世界秩序」に成りえたのである。


第9巻では、ローマ時代の「五賢帝」のうちトライアヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウスの3人を取り上げている。

トライアヌスは、ローマ帝国初の属州出身の皇帝でありダキアとメソポタミアを併合して帝国の版図を最大にする。

ハドリアヌスは、トライアヌスが拡大した帝国内をくまなく巡察し統治システムの再構築をする。

ハドリアヌスの性格は、複雑だった。

厳格であるかと思えば愛想が良く、親切であるかと思うと気難しく、快楽に溺れるかと思えば禁欲に徹し、ケチかと思うと金離れが良く、不誠実であるかと思えばこのうえもない誠実さを示し、残酷に見えるほどに容赦しないときがあるかと思うと、一変して穏やかさに満ちた寛容性を発揮する、という具合だ。

要するに、一貫していないということでは一貫していたのが、ハドリアヌスの人に対する態度であった。

だが、この性格であったからこそ、真の意味でのリストラクチャリング、つまり再構築を、成し遂げることができた。

ダキアを征服することでドナウ河防衛線の強化に成功したトライアヌスと、帝国全域を視察することで帝国の再構築を行ったハドリアヌスが、「改革」を担った人であった。

この二人の後を継いだアントニヌスの責務は、「改革」ではなく、改革されたものの「定着」にあった。

そしてアントニウスは穏やかな人柄ながら見事に帝国を治め、帝国内の政治を充実させた。

本書では、当時のローマ人が「黄金の時代」と言った時代を生み出した皇帝たちの治世の手法をさまざまな側面から見事に描かれている。

2019年8月23日 (金)

危機と克服――ローマ人の物語Ⅷ/塩野七生

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 歴史家ギボンは、ローマがなぜ滅亡したのかと問うよりも、ローマがなぜあれほども長く存続できたのかを問うべきである、と言った。多民族、多宗教、多文化という、国家としてはまとまりにくい帝国であったにかかわらず、なぜあれほども長命を保てたのか、ということのほうを問題にすべきだ、という意味である。だが、それに対する答えならば簡単だ。ローマ人が他民族を支配するのではなく、他民族までローマ人にしてしまったからである。大英帝国の衰退は各植民地の独立によるが、ローマ帝国では、各属州の独立ないし離反は、最後の最後まで起こっていない。


初代アウグストゥスの血統がネロで途絶え、以降は属州に駐屯する総督が、周囲の軍団から推挙される形で皇帝に就任する。

紀元69年はガルバ、オトー、ヴィテリウスと、1年間で3人もの皇帝が現れては消えた混乱の年となった。

その後登場したヴェスパシアヌスは帝国を立て直し、ヴェスパシアヌスの子であるティトゥス、ドミティアヌスと、フラヴィウス朝の治世が3代続く。

ドミティアヌスの死後は、五賢帝最初の1人として数えられるネルヴァがショートリリーフとして登場し、トライアヌスへと続く。

ガリア属州兵の反乱、ゲルマン民族の侵攻、ユダヤ戦役などの、帝国の辺境で起こる数々の反乱と、それに対する対処などが本書では書かれている。

共和政・帝政を通じてのローマ全史は、蛮族の侵入の歴史と完全に重なり合うと言ってよい。

独裁政体の国家では、その国のもつ軍事力の真の存在理由の第一は、国内の反対派を押さえることにあって、国外の敵から国民を守ることにはない。

ローマ帝国は、この一点においても独裁国家ではなかった。

ローマ帝国は、本国のイタリアに一個軍団すらも常駐させていない。

ローマ軍の主戦力である軍団はすべて、帝国の国境、というよりも防衛線に配置されていた。

ローマ帝国では、共和政時代からすでに、その首都であるローマの内部には武装した軍隊は入れないという決まりがあった。

決まりも、8百年も守られつづければ伝統になる。

この伝統を破ったのはマリウスとスッラだが、それも一時的なことで、国法破りと同じことであった「ルビコン」を渡ったカエサルでさえも、ローマに武装した兵を入れないという伝統は尊重した。

首都ローマにまで侵入された紀元前390年から、ローマが再び蛮族に蹂躙される紀元後410年までの8百年をローマが持ちこたえることができたのは、一にも二にも、防衛力が健在であったからだった。

ローマ皇帝の二大責務は、安全と食の保証であった。

そして「食」の保証とは、「安全」を保証できてはじめて成就可能な目標でもある。

英語のエンペラーの語源は、軍事の最高責任者を意味する「インペラトール」である。

そのため、皇帝に対する評価が、軍事上の業績によって左右されること大であったのは、避けようのない宿命なのだと思う。

この時代、皇帝がコロコロと変わるのだが、蛮族の侵入を許さなかったという意味では最低限の仕事はしたのだと言ってよいのかもしれない。

2019年8月22日 (木)

悪名高き皇帝たち――ローマ人の物語Ⅶ/塩野七生

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 ティベリウスは何一つ新しい政治をやらなかったとして批判する研究者はいるが、新しい政治をやらなかったことが重要なのである。アウグストゥスが見事なまでに構築した帝政も、後を継いだ者のやり方しだいでは、一時期の改革で終ったにちがいないからだ。アウグストゥスの後を継いだティベリウスが、それを堅固にすることのみに専念したからこそ、帝政ローマは、次に誰が継ごうと盤石たりえたのである。


アウグストゥスから帝国を引き継いだ四人の皇帝、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ。

何一つ新しい政治をやらなかったと批判されたティベリウス。

愚政の限りを尽くし惨殺されたカリグラ。

悪妻に翻弄され続けたクラウディウス。

「国家の敵」と断罪されたネロ。

これら悪名高き皇帝たちの治世の実態とはいかなるものだったのか。

ユリウス・カエサルが青写真を引き、それにそってアウグストゥスが構築し、ティベリウスによって盤石となった帝政ローマ。

カリグラが受け継いだのは、このローマであった。

しかしカリグラが即位してから3年も過ぎないうちに、皇帝の私有財産はもちろんのこと、国家の財政の破綻までが明らかになった。

ティベリウスが遺した2億7千万セステルティウスもの黒字分は、種々の娯楽スポーツの提供で、とうの昔に使い果していた。

その後はやりくりして穴を埋めていたのだが、それも治世が3年目に近づく頃ともなると、やりくりの手段もつきてしまう。

だがカリグラには、これまでのやり方を一変させることなどできなかった。

クラウディウスは身体的コンプレックスを抱え、歴史研究を愛しながらも図らずも皇帝となる。

帝国のインフラ基盤を整備しブリタニア遠征を行うなどしたが、内向的な性格が災いを招くこととなる。

ローマの歴史で、帝政時代にかぎらず共和政時代をもふくめた全歴史中で最も名の知られた人物は、ユリウス・カエサルでもなくアウグストゥスでもなく、ネロであろう。

もちろんそれは悪い意味でである。

ネロには、問題の解決を迫られた場合、極端な解決法しか思いつかないという性癖があった。

それは、彼自身の性格が、本質的にはナイーブであったゆえではないかと想像する。

しかし、これら無能で悪の権化のような皇帝が治めるローマはなぜ崩壊しなかったのか。

比較少数であろうと複数の人が統治権をもつ共和政とちがって、一人に統治権が集中する君主政の欠陥は、チェック機能を欠くところにあると考えられている。

事実、帝政であろうと王政であろうと、人類が経験した君主政のほとんどはチェック機能を欠いていた。

ところが、アウグストゥスが創設したローマの帝政にだけは、チェック機能が存在した。

つまり、カエサル、そしてアウグストゥスの築き上げた遺産によって、この時代の帝政ローマは維持されていたといえるのではないだろうか。

2019年8月21日 (水)

パクス・ロマーナ――ローマ人の物語Ⅵ/塩野七生

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 アウグストゥス自身が、誰にでも心を開く人ではなかった。状況が苦であろうと楽であろうと関係なく、常に周囲には笑いが絶えず、その向日的性格が周囲の人々までも巻きこんだカエサルとは反対に、アウグストゥスの周辺には常に静けさが漂い、人々は離れたところから彼を見つめるのが、アウグストゥスという人物の対人関係であったのだ。前者が、人々を感動に巻きこめば、後者は、人々を感心の想いで満たした。

志なかばに倒れたカエサルの跡を継いだオクタヴィアヌスは、共和政への復帰を宣言。

元老院は感謝の印として「アウグストゥス」の尊称を贈った。

古代のローマでは、アウグストゥス(Augustus)とは、神聖で崇敬されてしかるべきものや場所を意味する言葉。

カリスマ性のあるカエサルの後を継いだカリスマ性の全くない人物が、いかにしてカエサルが到達できなかった目標に達したか。

ローマを安定拡大の軌道にのせるため、構造改革を実行し、「ローマによる平和」を実現したかが描かれている。

カエサルが、その人間的魅力で周囲を巻き込んでいったオープンで強力な個性の持ち主だったのに対して、アウグストゥスはどちらかというと地味で物静かな性格だった。

しかし、政治家としては、カエサルよりむしろアウグストゥスの方が優れた資質の持ち主と評する人も多い。

実際、彼は、周りに気付かれないように、また、元老院の反発を招かないように、少しずつ権力を手中にしていった。

カエサルから後継者に指名されたアウグストゥスは、目標とするところは同じでもそれに達する手段がちがった。

なぜか。

第一に、何ごとにも慎重な彼本来の性格。

第二は、殺されでもすれば大事業も中絶を余儀なくされるという、カエサル暗殺が与えた教訓。

第三、演説であれ著作であれ、カエサルに比肩しうる説得力は自分にはないという自覚。

これらがあったから。

アウグストゥスは、見たいと欲する現実しか見ない人々に、それをそのままで見せるやり方を選んだ。

ただし、彼だけは、見たくない現実までも直視することを心しながら、目標の達成を期す。

これが、アウグストゥスが生涯を通して闘った、「戦争」ではなかったかと思う。

アウグストゥスは、アレクサンダー大王やカエサルのような、圧倒的な知力の持主ではなかった。

しかし、あの時期の世界は、彼のような人物こそを必要としていたということであろう。  

2019年8月20日 (火)

ユリウス・カエサル ルビコン以後――ローマ人の物語Ⅴ/塩野七生

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 「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない」

ルビコン川を渡ったカエサルは、たった5年間であらゆることをやり遂げる。

地中海の東西南北、広大な地域を駆けめぐり、全ての戦いに勝ち、クレオパトラにも出会う。

ついにはローマ国家改造の全改革をなし遂げて、元老院・共和政に幕を引く。

カエサルのリーダーシップや聡明さ、また敗者に対する寛容な態度については前巻に引続き描かれている。

2000年前に古代ローマ現れた英雄、ユリウス・カエサル。

歴史上の聡明な人物との出会いを、本書を通じ存分に味わうことができる。

武将には、全軍の準備が整うのを待って決定的行動を開始する人と、自分がまず行動を開始し、後から追い着く兵士たちを待って決戦にのぞむ人の、二種があるように思う。

ポンペイウスは前者であり、カエサルは後者だった。

カエサルという男は、失敗に無縁なのではない。

失敗はする。

ただし、同じ失敗は二度とくり返さない。

カエサルの考えた「祖国」には、防衛線はあっても国境はない。

本国に生まれたローマ市民の、しかもその中の元老院階級に生まれた者だけが、国政を専有しなければならないとも考えていない。

だから被征服民族の代表たちに元老院の議席を与えて、ローマ人純血主義のキケロやブルータスらの反撥を買ってしまった。

カエサルには、国家のためにつくす人ならば、ガリア人でもスペイン人でもギリシア人でも、いっこうにかまわないのであった。

ただし、カエサルの「祖国」は、ローマ文明の傘の下に、多人種、多民族、多宗教、多文化がともに存在しともに栄える、帝国であったことは言うまでもない。

このような考え方も相まって当時の支配階層の反発を買い、カエサルは暗殺される。

カエサル暗殺の真の首謀者は、ブルータスではなくてカシウスだった。

だが、暗殺グループは、ブルータスがリーダーになることではじめて機能した。

ブルータスには、高潔な精神は不足していなかった。

しかし、キケロの教養が先見性を欠いていたのに似て、ブルータスの高潔な精神も、ローマ人に、進むべき道を指し示す役には立たなかった。

それにしても、もしもカエサルが殺されていなかったら、暗殺直後からはじまって紀元前30年でようやく終わる、混乱と破壊と無秩序と殺戮の13年は避けられたのではなかろうか。

カエサルが暗殺された「3月15日」は、それゆえ、単なる最高権力者の暗殺、ではなかった。

弱気になったときのキケロが吐露しないではいられなかった「不毛の悲劇」であった。

殺した側にとっても、殺された側にとっても。そして何よりも、ローマ世界に住む人々のすべてにとっても。

「人間ならば誰にでも、すべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない」。

カエサルのこの言葉、いつの時代でも陥りがちな我々人間の普遍的な行動パターンとして腹落ちするフレーズだ。

2019年8月19日 (月)

ユリウス・カエサル ルビコン以前――ローマ人の物語Ⅳ/塩野七生

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 ルビコン川の岸に立ったカエサルは、それをすぐには渡ろうとはしなかった。しばらくの間、無言で川岸に立ちつくしていた。従う第十三軍団の兵士たちも、無言で彼らの最高司令官の背を見つめる。ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚たちに言った。「ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅」そしてすぐ、自分を見つめる兵士たちに向い、迷いを振り切るかのように大声で叫んだ。「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」

第4巻では、カエサルの登場からルビコン川を渡るまが書かれている。

前人未到の偉業と破天荒な人間的魅力、類い稀な文章力によって英雄となったユリウス・カエサル。

指導者に求められる資質は、知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志。

カエサルだけが、このすべてを持っていた。

カエサルはアレクサンダー大王やスキピオ・アフリカヌスやポンペイウスのような早熟の天才タイプではない。

カエサルが「起つ」のは40歳になってから。

彼は、部下を選ぶリーダーではなかった。

部下を使いこなす、リーダーであった。

使いこなすには、部下の必要としているものは適時に与えねばならなかった。

カエサル個人の辞書には、復讐という言葉はない。

復讐とは、彼にすれば、復讐に燃える側もその対象にされる側も、同じ水準にいなければ成立不可能な感情なのである。

しかし、兵士たちならば、同輩九千の死に復讐心を燃やすのこそ当然なのだ。

ただし、それを活用する者は、燃えるよりも醒めていなければならなかった。

なぜなら、感情とはしばしば、理性で必要とされる限界を越えてまで、暴走する性質をもっているからである。

総司令官に求められるのは、戦略的思考だけではない。

待つのは死であるかもしれない戦場に、兵士たちを従えて行くことのできる人間的魅力であり人望である。

カエサルにはこれがあった。

カエサルには、容易にしかも洗練された文章を書ける作家の才能ばかりでなく、自らの意図するところをたぐいまれな明晰さで人に伝える才能も充分だった。

スッラとカエサルは多くの共通点をもっている。

まず、二人とも、コルネリウスとユリウスというローマきっての名門貴族に属していながら、スッラ、カエサルという、それまでのローマ史にはほとんど登場しない傍系の出身であったこと。

第二に、経済上の理由から、ギリシア人家庭教師に囲まれて育つという環境には恵まれなかったにかかわらず、当代きっての知性の持主であり、第一級の教養人でもあったという点。

第三は、背が高く痩せ型の体型で、品位ある立居振舞いでも、いつでもどこでも目立つ存在であったこと。

第四に、二人とも早熟の天才タイプではなく、活動の全開期は四十代に入ってからである点。

第五、金の重要さは知っていたが、私財を貯えるとなるとほとんど無関心であったこと。

第六、二人とも目的をはっきりさせる性質で、それゆえに部下の兵士たちからは、したわれると同時に敬意を払われていたこと。

第七、元老院にはもはや統治能力がないと見透した点でも、二人は共通していた。

第八、二人とも、従来の考え方に捕われることなく行動はすこぶる大胆であった点では似ていたが、スッラには不安も迷いも見られないのに、カエサルはそうではない。

カエサルは生涯、自分の考えに忠実に生きることを自らに課した男でもある。

それは、ローマの国体の改造であり、ローマ世界の新秩序の樹立であった。

ルビコンを越えなければ、「元老院最終勧告」に屈して軍団を手離せば、内戦は回避されるだろうが新秩序の樹立は夢に終わる。

それでは、これまでの五十年を生きてきた甲斐がない。

甲斐のない人生を生きたと認めさせられるのでは、彼の誇りが許さなかった。

しかも、名誉はすでに汚されていた。

まるでガリア戦役などなかったとでもいうふうに、「元老院最終勧告」に服さなければ共同体の敵、国家の敵、国賊と見なすと宣告されたことで、すでに充分に汚されていた。

それがルビコン川を渡ることにつながる。

「賽は投げられた!」とカエサルは語る。

この言葉はあまりにも有名だ。

2019年8月18日 (日)

勝者の混迷──ローマ人の物語Ⅲ/塩野七生

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 いかなる強大国といえども、長期にわたって安泰でありつづけることはできない。国外には敵をもたなくなっても、国内に敵をもつようになる。外からの敵は寄せつけない頑健そのものの肉体でも、身体の内部の疾患に、肉体の成長に従いていけなかったがゆえの内臓疾患に、苦しまされることがあるのと似ている。──ハンニバル──

この第3巻では、これまでと打って変わりローマの「内政混乱」描いている。

国を挙げて団結し、国内の巧みな協力関係によりカルタゴの勝利したローマだったが、一旦敵がいなくなると、あるべき政治体制をめぐって、争いが起きるようになる。

大国への道のりの速さゆえに、ローマは内部から病み始める。

もともとローマは、執政官・元老院・市民集会の三権分立により民主政治を支えてきたが、この三者間のあるべき力関係をめぐって、指導者が変わるたびに揺れ動いた。

若き護民官グラッススは、権力が集中しすぎた元老院に対して改革をせまったが、結局殺されてしまう。

一方、スッラは、反対派を粛正してまで、元老院を質量ともに強化した。

しかしスッラの死とともに、彼が懸命に修復に努めた元老院主導による共和政ローマという「革袋」は、再びほころびはじめる。

それも、スッラの独裁下でも生きのびた、反スッラ派によってなされたのではない。

親スッラ派に属す人々によってなされたところが問題だ。

まさに本書のタイトルにあるように“勝者の混迷”である。

元老院への反発、反発を試みた政策立案者の暗殺、国勢改革、それに対する既得権階層の反発、……

いつの時代も起こることは一緒だ。

2019年8月17日 (土)

ハンニバル戦記──ローマ人の物語Ⅱ/塩野七生

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 歴史はプロセスにある、という考え方に立てば、戦争くらい格好な素材もないのである。なぜなら、戦争くらい、当事国の民を裸にして見せてくれるものもないからである。

この巻のメインは、3度にわたって行われたポエニ戦争だ。

ポエニ戦争とは、共和政ローマとカルタゴとの間で地中海の覇権を賭けて争われた一連の戦争である。

紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで3度にわたる戦争が繰り広げられた。

カルタゴ国滅亡という結果に終るポエニ戦争。

興隆の途にあるローマ人は、はじめて直面した大危機を“ハンニバル戦争”と呼び、畏れつつ耐えた。

戦場で成熟したカルタゴ稀代の名将ハンニバルに対して、ローマ人は若き才能スキピオとローマ・システムを以て抗し、勝った。

ハンニバルとスキピオは、古代の名将五人をあげるとすれば、必ず入る二人である。

現代に至るまでのすべての歴史で、優れた武将を十人あげよと言われても、二人とも確実に入るにちがいない。

歴史は数々の優れた武将を産んできたが、同じ格の才能をもつ者同士が会戦で対決するのは、実にまれな例になる。

第三次ポエニ戦争で、カルタゴ側の戦死者は、二万をはるかに越えた。

そのうえ、二万の兵が捕虜になった。

他は、十日の行程にある首都カルタゴに向って敗走した。

ハンニバル自身は、数騎を従えただけで、ハドゥルメトゥムに逃げた。

ローマ側の戦死者は、千五百。

スキピオの完勝だった。

カルタゴを滅ぼして西地中海の覇権をにぎったローマは、東方では、マケドニアやギリシア諸都市をつぎつぎに征服し、さらにシリア王国を破って小アジアを支配下に収めた。

こうして、地中海はローマの内海となった

ローマ人とカルタゴ人とのちがいの一つは、他民族とのコミュニケーションを好むか否か、であったような気がする。

ローマ人の面白いところは、何でも自分たちでやろうとしなかったところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなければならないとは考えないところであった。

ローマ軍といえばローマ人だけで構成されており、闘うのも彼らだけであったと考えがちである。

ところが、ローマ人くらい、他民族を自軍に参戦させ、彼らとともに闘った民族もいない。

総指揮権は、ローマ人がにぎりつづけたことは事実である。

また、ローマ市民兵が主戦力でありつづけたことも事実である。

だが、イタリア内では中伊のエトルリア人や南伊のギリシア人、アフリカではヌミディア人、マケドニアが相手のギリシアではマケドニア以外のギリシア人というように、ローマ軍は〝多国籍軍〟であるほうが普通だった。

このような柔軟性がローマ帝国が千年以上も続いた要因の一つではないだろうか。

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