2020年7月13日 (月)

波に乗る力/武田双雲

Photo_20200708063201

 赤ちゃんは、つねに今を生きていて、ものごとをフラットに観ていて、だから疲れない。

夢や志を持つのはとても良いことだ。

だが、やり方によっては危険なことがある。

夢や志が実現した未来が素晴らしいと考える半面、まだ実現していない今は素晴らしくない、よくないという考え方に陥ってしまうことがある。

未来が自分をおとしめる。

大事なことは、夢や志というものが、とにかくいいもの、力を与えてくれるもの、幸せにつながるもの、という見方をしないこと。

危険性も忘れないようにしたほうがいい。

本書のタイトル、「波に乗る」とはどういうことか?

簡単に言うと、「いい機嫌」であり、「いい気分」であり、「いい感情」のこと。

それが「いい波」だ。

未来志向、未来に縛られた状態から脱して、今を生きる。

今、いい波に乗れるようになって、幸せになる。

そんな生き方を本書は提案している。

誰でも部分的にいい波に乗って、今を生きることはできる。

温泉につかって、「気持ちいいな~」と思っているとき。

おいしいものを食べているとき。

好きな作家の新作を、徹夜で夢中になって読んでいるとき。

お気に入りの自転車で走っているとき。

付き合い始めたばかりの恋人と過ごしているとき。

子どもを見守っているとき。

愛犬と遊んでいるとき。

映画館の暗闇のなかで、息を詰めてスクリーンを見つめているとき。

こんなときは、誰もが未来に縛られてなんかいない。

間違いなく、今を生きている。

いい波、いい感情、いい気分、いい機嫌に、上手に乗れている。

いま、この瞬間に生きる、これがいい波に乗るということ。

現代人が幸せになれないのは、達成にとらわれているからだといえるかもしれない。

競争に勝てば、何かを達成すれば、成功すれば、人から認められれば、評価を受ければ、夢が実現すれば……。

何かを獲得すれば幸せになれるという幻想にとらわれている。

だから、結果を求めて一所懸命仕事をがんばるというのは、どこかに無理がある。

大事なことは「今、この瞬間に生きる」ということ。

本書はそのことを教えてくれる。

2020年7月12日 (日)

アメリカ大統領制の現在/待鳥聡史

Photo_20200707082301

 アメリカの現代大統領制は、有権者をはじめとする国内外からの大統領に対する役割期待が変化したにもかかわらず、合衆国憲法の明文改正は行われず、憲法に定める権力分立のあり方を根本から変えることなく対応しようとしたところに特徴がある。

今年の11月、4年に一度の大統領選挙が行われる。

トランプとバイデン、どちらが大統領になるのか?

興味が尽きない。

アメリアか大統領というと強大な権力が付与されているという印象があるか、実際にはそうでもないという。

極めて限定的だというのである。

理由はその成り立ちを振り返ってみるとよくわかる。

1788年に今日まで続く合衆国憲法が発効したときから、アメリカの政治制度は二つの柱によって成り立ってきた。

一つは、首都ワシントンにある連邦政府と、カリフォルニアやテキサスなど各地の州政府が分業する「連邦制」である。

もう一つは、連邦政府内部で行政部門の長である大統領、立法を担う議会の上院と下院、そして司法部門である裁判所が、分業しながら抑制と均衡の関係を形成する「権力分立制」である。

大統領制は、権力分立制の別の呼び方だといってよい。

そして現在では、州政府よりも連邦政府の存在感が、そして連邦政府の内部では大統領の影響力が、それぞれ大きくなっている。

間違いなく、大統領は現代アメリカ政治の主役である。

合衆国憲法の制定に当たっては、具体的に二つの課題が存在した。

一つは、君主がいない政治体制でありながら、いかにして議会の権限行使を行き過ぎたものにしないか、ということである。

もう一つは、各邦がめいめい勝手な行動をしないようにすると同時に、長い歴史と立憲政治体制を既に持つ各邦を解体しないようにするにはどうしたらよいか、という課題である。

アメリカ合衆国憲法が想定していたのは、イギリスと同様に議会が政策決定の中心であり、それを君主ではなく大統領や裁判所が抑制するという連邦政府運営のあり方であった。

そこでの大統領は、自ら積極的に政策を展開していく存在というよりも、議会が立法を通して形成する政策に対して、事前あるいは事後に注文をつける存在だということが分かる。

しかし、20世紀以降におけるアメリカの国内政治や国際的地位の変化を反映して、大統領の存在感と役割は拡大する。

また、第二次世界大戦後にはマスメディアとしてテレビが急成長を遂げたが、その仕事を一人の人物が体現する大統領は、テレビの政治報道にとって格好の素材であった。

ケネディにおいて典型的にそうであったように、大統領個人の人柄や政治スタイルと政策が容易に結びつけられるため、人物とその画像によってインパクトを生み出すテレビとの相性が良かったのである。

ロナルド・レーガンが提唱したレーガノミックスのように、経済政策に大統領の個人名が冠されるようになったのは、その表れであったといえよう。

メディアに報道されることで、有権者の大統領への期待はますます強まった。

大統領側でも、メディアへの対応をいっそう拡充させるようになった。 

世界的に見ても、議会ではなく大統領が政策決定を主導するのは、20世紀の大統領制諸国においてごく一般的になっていた。

現代大統領制の出現は、このような世界的潮流のアメリカにおける表れと見ることも可能である。 

しかし、他の新しい大統領制諸国には見られないアメリカの決定的な特徴は、大統領の影響力拡大が憲法典の改正によって行われたわけではなかったことである。

アメリカにおける現代大統領制の出現は、合衆国憲法の明文規定を変化させずに、あくまで既存の権限の拡大解釈と、それを連邦議会や裁判所が追認することによって行われてきたことが、大きな特徴であった。

アメリカにおける現代大統領制が、大統領が担う役割の実質を変化させながら、憲法典の明文規定は修正しなかったことは、アメリカの大統領に潜在的制約を課すことになった。

多数派の行き過ぎを抑止することが想定されていた制度構造のままで、多数派の期待を担うという矛盾した役割が与えられ、そこで大きなディレンマに直面することになった。

現代のアメリカ大統領はこのようなディレンマの上に成り立っているということは覚えておいてよいのではないだろうか。

2020年7月11日 (土)

KPIマネジメント入門/堀内智彦

Photo_20200706073201

 目標管理を成功させるには、目標設定は、経営目標→部門目標→個人目標へとトップダウンで行わなければなりません。当然、業績の達成と整合性があり、予算管理に裏打ちされている必要があるわけです。 

目標管理を導入している企業は多い。

ところがそれがうまくいっている企業はまれである。

なぜか?

目標設定がうまくいっていないからだ。

目標には定量的なものと定性的なものとがある。

本来目標は数値化したもの、つまり定量的なものであることが望ましい。

しかし、どうしても数値化できない場合に定性的な目標を設定する。

定性的な目標は評価の段階になってどうしても主観が入る。

では本当に数値化できない目標はあるのだろうか?

目標を定量化するというと、これは「定量化できない」という反論をするヒトがどの会社にも必ずと言っていいほどいる。

しかし、結論から言うと定量化できないテーマはない。

やり方によってかならず定量化できるものである。

そして定量化するための一つの手法がKPIである。

ここ数年、注目を浴びている「KPI」(Key Performance Indicator)というものがある。

「業績評価指標」などと訳されるが、この言葉の意味するところを、簡単にまとめると「目標達成度を測るためのプロセスないし結果の指標」と言える。

今、KPIが注目されているのは、「全社員が経営目標を共有して業績回復に努める」点にあると、筆者はいう。

KPIで採用されるべき指標とは、利益を生み出すプロセスたる会社のマネジメントと直結するものでなければならない。

KPIを導入・運用し、成果を出すためのポイントは次の4点に絞られる。

ポイント① トップダウンであること。

ポイント② 定量化されたものであること。

ポイント③ 業績向上に連動するものであること。

ポイント④ 毎月フォローアップを確実にすること。

目標管理を入れている企業は、KPIの手法を学び導入し定着させる必要があるのではないだろうか。

2020年7月10日 (金)

直観力/メンタリストDaiGo

Daigo

 アメリカで行われたある調査では、出会って一目惚れしたカップルの約半数がそのまま結婚し、さらにそのあとの離婚率も男性が約20%、女性は10%以下と驚くほどに低かったという結果が出ています(約50%というアメリカの離婚率を考えれば驚愕の低さです)。またこれとは別に「一目惚れで結婚した夫婦は幸せになる」という研究報告もあります。
 こうしたことからも、人が第一印象で感じる直観の精度は非常に高いと言えます。 

直観とは何なのか?

脳が意識して考えてから判断するのが普通の判断で、考えないで判断するのが直観。

言ってしまえば、それだけのこと。

なんとなく、気になる。

なんとなく、この人とは気が合いそうな気がする。

なんとなく、これを選んだ。

なんとなく、行きたくない。etc.

普段の生活のなかでそう感じることが多いこの「なんとなく」という感覚の正体こそが、本書のテーマである「直観」だ。

私たちが〝なんとなく〟感じる最初の直観は、ほぼ当たります。 

ああでもないこうでもないと迷ったら、最初の直観に従う。

人はわずか2秒程度で感じる〝なんとなく〟の直観だけでも相手をきちんと評価できる。

例えば野球の野手がフライをキャッチする行為。

ボールの軌道を見ながら「なんとなくここに落ちてくる」という直観によって落下点に入ってキャッチする。

こうした何の変哲もない、誰でもできる行動が、実は脳と直観のとてつもない能力によって生み出されている。

物体がどのように移動してどこに至るかという結果は、物理学に基づいた微分方程式を解くことでしか解明できまない。

しかも空中を移動する野球ボールの場合は、空気抵抗の存在もあり、放物線を描く軌道の計算も必要になるため、より複雑な微分方程式になる。

フライを〝何気なく〟取っているとき、人はみな、脳で直観的にものすごく難しい放物型偏微分方程式を解いている。

意識してしまうと、こんなに複雑な微分方程式を一瞬にして解くことは相当に優秀な人でも難しいだろう。

それを脳は直観で無意識のうちに解いてしまう。

誰もが持っている〝なんとなくの直観〟は、数学者や物理学者が挑むレベルの高度な計算を瞬時にこなせるほどに優秀なのだ。

この「なんとなく」こそが、直観の正体。

直観で決めたことと、熟慮して決めたこと。

どちらが正しい判断かというと前者であることがいくつかの実験で明らかになっている。

直観とは単なる「ヤマカン」ではない。

直観とは、積み重ねた知識や経験、記憶のデータベースから引き出された答えのこと。

科学的根拠のある脳のプロセスなのだ。

直観とは人生における選択と決断の最大の拠りどころとなる能力。

自分の直観を信じることができる人は、とにかく意思決定がスピーディ。

思考をスルーしているから余計なことを考えず、「こうしよう」と決めたら即、行動。信じているから迷わない。

「なんとなく」は、想像している以上に、将来の可能性を大きなプラスに導く〝最強のキーワード〟になるはず。

結局のところ、自分の直観を信じるとは、自分自身を信じるということなのであろう。 

2020年7月 9日 (木)

仕事はおもしろい/斎藤一人

Photo_20200704075801

 もっと仕事に真剣になったほうがいい。真剣になってほしい。真剣にならないからおもしろくない。どんなことでも真剣にならなきゃおもしろくない。


高額納税者で有名な著者。

そのモットーは仕事はおもしろくということだという。

本書を読んでいると「おもしろい」という言葉が何度も出てくる。

「これから日本人に教育しなきゃいけないのは、『仕事はおもしろい』ということ。おもしろくやるんだよ。仕事も遊びのうち、仕事もゲームのうちと思って、楽しんでやるんだよ。」

「一行、たった一個の言葉を探すために、何冊も本を読むんだよ。そこがおもしろいんだよね。」

「だから私は、不況なんか来るとおもしろくてしょうがない。これが私の根底にある考えなの。」

「おもしろいでしょ?うちはね。本社が5人、私についてきてくれたお弟子さんが10人。これで日本一になる。」

何度も何度も「おもしろい」という言葉が出てくる。

結局、何事も面白くやるということが成功の秘訣ということではないだろうか。

2020年7月 8日 (水)

カエルの楽園2020/百田尚樹

2020

 次の日、ナパージュのツチガエルの中に、また病気に罹るカエルが出ました。このカエルもウシガエルを案内していたカエルです。ウシガエルから病気を移されたとみて間違いないようです。
 ツチガエルたちの間で病気を恐れる声がどんどん増えてきました。誰かがこの病気を「ウシガエル病」と名付けましたが、デイブレイクの仲間たちが「その名前はウシガエルを不当に貶める」と抗議し、代わりに「新しい病気」と呼ばれるようになりました。

本書は今の日本を寓話という形で描いている。

コロナ禍、習近平の国賓訪問、尖閣の問題が描かれている。

なんといってもネーミングが良い。

彼らを長年にわたって洗脳し続けているデイブレイクというツチガエルは、ナパージュの陰の権力者だが、このネーミングセンスは秀逸だ。

デイブレイクを直訳すると「夜明け」。

「夜明け」には「朝日」がのぼる。

おそらく、あの新聞のことであろう。

マイクというカエルは、報道番組に出てくるコメンテーターを象徴しているように見える。

私たちはふだんの日常生活において、テレビでコメンテーターや学者が語ることを聞く。

国会で議員たちが国政を論じているのを見る。

彼らはいずれも高学歴で、知識も教養もある。

それだけに、その発言ももっともらしく聞こえる。

しかし、彼らをカエルに置き換えて、同じセリフを言わせてみると、滑稽さ、愚かさ、間抜けぶりなどが見えてくる。

これが、著者が『カエルの楽園2020』を書いた理由であろう。

2020年7月 7日 (火)

世界の正しい捉え方/高橋洋一

Photo_20200702064401

「桜を見る会」を〝疑惑〟に仕立て、安倍政権を倒そうとする野党の戦略は、合理的に考えれば筋悪だろう。〝疑惑〟と言いながら、結局はエビデンスが出てこない展開を見ていると、「桜を見る会」をめぐる一件は、結局は森友学園・加計学園問題と同じ構図だと言えるのではないだろうか。


今の世の中、情報が氾濫している。

それとともに、フェイクニュースが横行するようになった。

〝フェイク〟と言えば、アメリカ大統領選に大きな影響を与えたような海外のフェイクニュースのイメージが強いかもしれない。

だが、いつの間にか日本でもフェイクが横行するようになってしまった。

誰もが情報の発信者となり、その情報が瞬時に拡散されるインターネットの影響も多分にあると思う。

だが、新聞やテレビといったオールドメディアでも、事実を意図的に歪曲した印象操作や、エビデンスに乏しいニュースの垂れ流しが行われている。

例えば、官僚からのリーク。

官僚は、その気になれば自分たちの言いたいことを自由に記者に書かせることもできる。

「権力のチェック」がジャーナリストの使命と言うが、新聞記事を書いている記者の中で権力を的確にチェックできるような人は少ない。

多くの場合、不勉強な記者や思い込みの激しいデスクが、こうして官僚から渡された情報に何の疑いも持たずに記事を書いてしまう。

当然、フェイクニュースを報じてしまうこともありえる。

そしてそれらフェイクニュースはテレビのワイドショーなどで拡散される。

いつの間にか、それが世論になってしまうこともある。

「モリ・カケ」「さくら」などはその最たる例であろう。

今の時代、本当の意味でリテラシーをもつ必要があるということであろう。

 

2020年7月 6日 (月)

ハーメルンの笛吹き男/阿部謹也

Photo_20200701075701

 伝説Sageとはおとぎ話・メルヘンと違って本来何らかの歴史的事実を核として形成され、変容してゆくものだからであり、特にこの〈笛吹き男と130人の子供の失踪伝説〉はまったくのフィクションとは考えられないほどの迫力をもって、人々の記憶に深く跡をとどめているからである。

ハーメルンの笛吹き男の伝説を通して、これが生まれた背景を客観的資料によって考察している。

13世紀ドイツの小さな町で起った、ひとつの小さな事件から生まれたローカルな伝説。

この伝説は僅かの間に全世界に知られるようになった。

1284年に起ったこの事件が何であったにせよ、この頃のハーメルンの人々の悲しみと苦しみが時代を越えて私たちに訴えかけているからであろう。

伝説とは本来庶民にとって自分たちの歴史そのものであり、その限りで事実から出発する。

その点でメルヘンとは質を異にしている。

「伝説は本来農民の歴史叙述である」(ゲオルク・グラーバー)といわれるゆえんである。

そのはじめ単なる歴史的事実にすぎなかった出来事はいつか伝説に転化してゆく。

そして伝説に転化した時、はじめの事実はそれを伝説として伝える庶民の思考世界の枠のなかにしっかりととらえられ、位置づけられてゆく。

〈笛吹き男と一三〇人の子供の失跡〉の伝説はハーメルンという一都市の伝説でしかなかった。

だが、市参事会の裏切りに対する鼠捕り男の復讐というモチーフが加わったことによって、この伝説は普遍的な意味をもつことになった。

16、7世紀以来〈ハーメルンの笛吹き男伝説〉は、教会や神学者による民衆教化の手段として、

あるいは不可解な運命に弄ばれてきたドイツ民族の過去の解明の一手段として、

あるいは解放戦争、ドイツ統一運動へ民衆を結集する手段として、

あるいは民衆精神の発露として、

あるいは単なる知的好奇心の対象として、

それぞれ神学、啓蒙思想、ローマン主義、歴史学などの対象とされてきた。

また文学や音楽の分野でもこの伝説は格好の題材とされ、ゲーテも1823年に『鼠捕り男』と題する子供向きの絵入りバラードを書き、大変よく読まれたという。

シューベルトやヴォルフなどの音楽家もそれを使って作曲している。

学者がどのように解釈し、解明しようとも、〈ハーメルンの笛吹き男と130人の子供の失踪〉の伝説はたとえ原型からどんなに変貌しようとも、忘れ去られることはないだろう。

親が成長した子供を旅立たせ、親しい者同士が別れを告げ、あるいは住みなれた土地を去って未知の国に旅立ってゆく時、

あるいは現在の生活に絶望した親たちが子供に美しいバラ色の未来の国を期待している時、

このようないつの世にも変らない情景がみられる限り、人々の胸の奥底に生きつづけることだろう。

また人間が他の人間を差別の目で見ることをやめない限り、〈笛吹き男〉はいつの世にも登場するだろう。 

2020年7月 5日 (日)

統計的な?数字に騙されないための10の視点/アンソニー・ルーベン

10_20200630064601

 アンケート調査でどのような質問をされたのかがわかるかどうかを確認しよう。評判のいい調査会社であれば、それはすぐに見つかるはずだ。路上で誰かに呼びとめられてそんな質問をされたら、その意味がはっきりわかるだろうか。あるいは、あいまいだろうか。特定の答えを出すように仕向けられているかもしれないと感じるだろうか。「愛らしくて、ふわふわで、美しくて、かわいい子猫は好きですか」と訊かれたら、「猫についてどう思いますか」と訊かれたときよりも、猫に対するポジティブな気持ちを込めた返事をしてしまう可能性は高い。

統計的な数字はあらゆる場で出てくる。

世論調査による政権の支持率、失業率、平均賃金、野球のバッターの打率、投手の防御率・・・

世の中、統計数字であふれている。

そして、それを判断の基準にすることが多い。

2割バッターよりも、3割バッターの方がおそらくいいバッターだろう。

年俸も高いことが多い。

その意味では「数字はウソをつかない」といえる。

しかし、「数字にウソをつかせる」こともできる。

BBCの古典的コメディ番組〈イエス・プライム・ミニスター〉にこんなシーンがある。

老練の事務次官サー・ハンフリーが、若く経験の浅い秘書官のバーナードに、若者には生活のなかで規律や管理が必要だと思うかについて一連の質問をする。

それは、徴兵制を再開すべきかどうかという質問に持っていくためだった。

それから、若者たちの意思に反して武器を持たせるべきか、あるいは武器を与えて殺しかたを教えるべきかという一連の質問に移り、それも徴兵制の質問につながるものだった。

バーナードは徴兵制は再開されるべきであることにも、されるべきではないことにも同意していることになって、サー・ハンフリーはそれを「完璧にバランスのとれたサンプル」だと語った。

バーナードは先に訊かれた質問によって、最後の質問に賛成するように誘導された。

世論調査が特定の方向に回答者を導こうとしていることはよくある。

新聞各社の世論調査でも、特定の結論に導こうと意図した質問がみられる。

例えば、「〇〇の法案を強行採決した安倍政権を支持しますか?」と問われれば、「支持しない」と答える確率は高くなる。

「ウソつきは数字を使う」ことを知るべきだろう。

2020年7月 4日 (土)

スーパーヒューマン誕生!/稲見昌彦

Photo_20200629074201

 スーパーヒューマンとは、拡張身体から人機一体、自動化と自在化、脱身体から分身、変身、融身体・合体へと至る人間の計り知れない進化の姿を指している。情報技術、バーチャル・リアリティ技術、機械技術、ネットワーク技術、すべてのテクノロジーが合わさるとき、人間は道具をつくるだけではなく、自らの身体性を自らの手でつくり変えることができる存在、つまりスーパーヒューマンへと姿を変えるのだ。


本書の副題は「人間はSFを超える」というもの。

人間を超える人間の姿、すなわち「スーパーヒューマン」の登場を描くことを目的に書き進められているのだが、そのビジョンを示すものとしてSF作品をあげている。

たとえば、1968に米国で公開されたスタンリー・キューブリック監督の名作映画『2001年宇宙の旅』。

この映画の製作に、MITの天才コンピュータ科学者、マービン・ミンスキーがアドバイザーとして参加していたというのは、よく知られる有名な話だ。

同作品に登場する「HAL9000」は、SFと研究の相互作用の成果であり、その後のAI研究の方向を決定づけ、AIイメージの原型ともなった。

その後、ミンスキーは1970年に設立されたMIT人工知能・コンピュータ科学研究所の創設者の一人となった。

研究者にとって、SF作品が果たしている役割は大きい。

理由は二つある。

第一に、SF作品は一般の人に研究をわかりやすく伝えるための言語として、また研究者同士が互いの研究内容を理解する上での共通言語としても機能しているということ。

第二に、SF作品は「つくりたいもの(WHAT)」を示すことで、人間を、特に研究者を動機づけてくれる存在だ。

研究とフィクションはあるところでは結びつくことがあるが、ほとんどの場合、直接につながることはない。

なぜなら、「つくりたいもの(WHAT)」はフィクションに描かれているが、「どのように実現するか(HOW)」までは示されていないからだ。

つまり、つくりたいもの(WHAT)をどのように実現するか(HOW)が研究者にとっての腕の見せどころであろう。

ただ、SF作品が未来の世界を考えるヒントを与え、研究者の動機付けにつながっていたのだというのは初めて知った。

そういった目で「スターウォーズ」や「マトリックス」を観るのも面白いかもしれない。

«ことばの発達の謎を解く/今井むつみ