2020年1月22日 (水)

哲学的探究における自己変容の八段階/諸富祥彦

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〈哲学する〉ことは、ものごとを「自分自身で」「できるだけ最初から」考えていくことである。これは、きわめて骨の折れる、しんどい作業である。しかし、哲学的な知識の断片をペダンティックに振り回すための〈思想〉ではなく、自己の生き方を根っこから組み立て直すに足るだけの力を持つ〈哲学〉を求める時、この「考えぬく力」は欠くことのできないものとなるのである。


本書で言う〈哲学〉とは、自分の「生き方」について自分自身で考えぬく方法のことである。

そうすることを通して、それまでの自分を破壊し、新しい自分へと自分を根本からつくり変えていく技術のことである。

〈哲学〉することにおいて人は、一般通念に捕らわれた自分の生き方・考え方を、あえて徹底的に疑い、その根拠にまで遡って問うていく。

なぜ人は自分の〈幸福〉を求めるものだし、また当然そうしてよいと言えるのか、と。

その理由をどこまでも突き詰めて問うていく。

真に納得のいく答えが得られるまで。

すると多くの場合、通常は「当たり前」と思われているそのような考えに、実は明白な根拠などないことに気づいていく。

だから〈哲学する〉人は、自ずとそうした一般通念から解放されてゆく。

と同時に、それまでとはまったく異なる新たな生き方を問い求め始めるのである。

〈哲学〉とは、「ものごとを、できるだけ最初から、自分の頭で考えぬく」思考の過程そのものに他ならない。

答えのない時代であるからこそ、時には〈哲学的に〉自分の生き方を考えてみるのもよいのかもしれない。

2020年1月21日 (火)

哲学/小川仁志

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 そもそも哲学とは物事の本質を探究する営みである。ということは、そのためのプロセスを修得してもらう必要があるわけである。それは、疑う、関連させる、整理する、創造するというプロセスにほかならない。さらに付け加えるなら、最後にその思考の結果を言葉にすることである。

一言でいうと、哲学とは物事の本質を探究する営みである。

つまり、自分を取り囲むこの世界を、言葉によって理解し、意味づけるための道具だといってよい。

本質というのはその物事のすべてだということができる。

フランスの哲学者ジル・ドゥルーズが、まさにこういっている。

哲学とは概念の創造であると。

だから思考の探検は、すでにあるものを探すのではなく、自分自身が新しいものを作り出す営みである。

哲学を身につければ、物事を批判的に見ることができるようになるだけでなく、論理的に考えらえるようにもなる。

対象を頭の中でさっと整理して、まとめる力がつく。

また、物事の本質をとらえることができるようになる。

物事の本質を探究するためには、そのためのプロセスを修得する必要がある。

それは、疑う、関連させる、整理する、創造するというプロセスだ。

まず疑うとは、常識や感覚でとらえたものや、思い込みを否定することである。

あえて違うと否定するのだ。

たとえば、「パソコンとは何か?」。

おそらく多くの人は便利なツールと考えていることだろう。

しかし、あえてそれを疑うのである。

そうやって疑ったら、今度は新しい情報を関連させる。

なぜなら、これまで抱いていたパソコンの像が破壊され、答えがわからなくなってしまったからだ。

ここではじめて、一からパソコンとは何かを考えるのである。

そして次にこれらの情報を整理する必要がある。

この場合、同じような情報はグループにまとめて、最終的に一文にしていく。

そうすると、「パソコンは便利である一方で、人間から思考力や時間を奪うネガティブな側面もあるインフラだ」といっていいだろう。

これをもっとブラッシュアップする。

その際、最後の創造を意識する必要がある。

「哲学する」とは、物事の意味を自分の知識と論理と言葉を使って再構成する営みである。

とりもなおさず、それは意味の創造にほかならない。

ここではパソコンの新しい意味を創造しているわけだ。

すると、「パソコンとは便利さと厄介さが同居するインフラ」、もっというと、「矛盾を抱えたインフラ」なのだ。

これがパソコンの本質である。

そしてこれが哲学するということなのだ。

自分の周りのものを、疑う、関連させる、整理する、創造するというプロセスで再構築することによって、これまでと違った全く新しい見方ができるようになるのではないだろうか。

2020年1月20日 (月)

はじめての哲学的思考/苫野一徳

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 哲学とは何かという問いにひと言で答えるなら、それはさまざまな物事の〝本質〟をとらえる営みだということができる。

哲学者と呼ばれる人たちは、さまざまなことがらの「そもそも」を、どこまでも考えずにはいられない人間だ。

だからまともに相手をしたら、はっきりいって面倒くさくて仕方ない。

人はどうすれば幸せになれるのか?

どうすれば平和な社会を築けるのか?

どうすれば人と人は分かり合えるのか?

恋とは何か?

愛とは何か?

宗教とは何か?

言葉とは何か?

生きる意味とは何か?

こうしたさまざまな問題に、哲学はこれまでにちゃんと〝答え〟を見出してきた。

もちろん、それは絶対の正解というわけじゃない。

でも、「なるほど、それはたしかに本質的だ!」とうなってしまうような考え方を、哲学者たちは長い思考のリレーを通して築いてきたのだ。

哲学、それは、さまざまな物事の〝本質〟を明らかにするものだ。

恋の本質、人間の本質、言葉の本質、教育の本質、よい社会の本質……。

〝哲学的思考〟とは、こうした物事の〝本質〟を明らかにする思考の方法なのだ。

今のような変化が激しく価値観が多様化している時代であるからこそ、哲学が必要なのかもしれない。

2020年1月19日 (日)

吉田松陰と幕末志士たち/橘龍介

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 日本史上最大の改革を成し遂げたのは、驚くほどの奇人変人たちだった。誰もが呆れかえるような大言壮語を吐き、それを実行に移そうとした人物が、松陰を筆頭に多くいたのだ。そして、江戸末期の社会では浮いた存在だった〝変わり者〟たちが、本当に一国を作りかえてしまった。歴史というのは、本当に面白いものだ。

本書は吉田松陰と幕末志士たちを〝変わり者〟と称している。

そして〝変わり者〟だからこそ世の中を大きく変えられたのではないかという切り口で述べられている。

吉田松陰には〝天才と狂気は紙一重〟とでも表現するべき、奇人変人としての要素が備わっていた可能性が高い。

当然、そんな人物が主催する私塾に集まる若者たちも、相当の変わり者だったことは想像に難くない。

松下村塾の場合は、社会不適合者を集めた挙げ句、社会に順応させるどころか〝幕府を倒す〟という目標を掲げて、より反社会的に育成していくのだから、まさに常識外の教育施設と言えよう。

要するに〝社会不適合者の集まりだからこそ新時代を拓くことができた〟という側面もあり、当時の尺度から見て奇人変人だったとしても、吉田松陰の歴史的意義が揺らぐものではない。

松陰は〝開国か攘夷か〟で揺れる多くの若者を前に「いずれは開国だが、今は攘夷だ」と語っている。

実のところ、彼は鎖国したいわけでも、排外主義を採っていたわけでもなかった。

欧米列強の脅しに屈する形で開国するのではなく、早急に近代化を進めて対等の立場で国交を結ぶべきだと考えていたのである。

実際、歴史を変える人物には〝変わり者〟が多い。

考えてみれば、戦国の騒乱を勝ち抜き、天下統一への足がかりを作った織田信長も、若い頃には〝尾張の大うつけ〟と疎まれていた。

時代が大きく動く時に活躍するのが、奇人変人の類いであることは歴史的にも証明されていると言えよう。

そう考えると、今の日本のリーダー、常識人があまりにも多いような気がする。

2020年1月18日 (土)

「期待」の科学/クリス・バーディック

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 人間には自己欺瞞の能力、つまり自分の心を欺く能力がある。しかし、私たちが心に抱える「期待」、「予測」の力はそれを上回る。私たちの見ている世界像は、多くの部分が実はこうした期待や予測から成っている。もちろん視覚や聴覚、味覚、触覚などの感覚情報を基に「ボトムアップ」で組み立てられる部分もあるが、頭の中にある期待や予測を基に「トップダウン」で作られる部分もある。

本書では人間の期待や予測が過去、どういうふうに扱われてきたか、その歴史や科学的な研究の成果を紹介している。

人間の脳には、常に未来を見る癖がある。

それは生来の癖で、どうすることもできない。

私たちは今、この時を生きているつもりだが、脳の関心はほとんど今には向けられていない。

いつでもどこでも脳は「この先はどうなるのか」という予測ばかりをする。

あまりに当たり前になっているので私たちは日頃それを意識しない。

特殊な状況に置かれない限り、自分が自分の脳の未来予測に支配されているなどとは思わないのである。

人間は常に心の中に自らの限界を設けようとする。

これ以上は無理と考え、自分の能力を抑制しようとする。

しかし、この「限界」は変化していく。

例えば、オリンピックの100メートル走。

東京オリンピックまでは10秒の壁があった。

ところが、それを一人の選手が破ると、今や9秒台は当たり前となった。

サッカーのPK戦の結果には一定のパターンがあるという。

まず総じて言えるのは、大事な試合であればあるほどシュートの成功率が下がるということである。

また、最初のシュートと二本目のシュートは、その後のものより成功率が高い。

フォワードの選手はミッドフィルダーよりも、またミッドフィルダーはディフェンダーよりも成功しやすい。

だが、もっと結果に大きく影響する要素がある。

それは選手の抱える不安の大きさだ。

シュートに失敗する選手は多くの場合、不安に覆われた表情をしている。

「認知の具現化」という考え方がある。

この理論は、「感情は脳が身体の自動的な反応の意味を解釈することによって生じる」というものである。

つまり、何か不安があるから心臓の鼓動が早まり、掌に汗をかくのではない、ということだ。

「不安」という感情は心臓の鼓動が早くなったり、掌に汗をかいたりといった身体の反応を脳が解釈した結果として生まれる、という。

この理論が正しければ、様々な推測が成り立つ。

そして実験によってその多くが正しいことも確かめられている。

人は楽しいから笑うというよりも笑うから楽しい。

自信があるから顔を上げるのではなく、顔を上げるから自信が湧いてくる。

憂鬱だからうつむくのではなく、うつむくから憂鬱になる。

だとすれば、未来を変えようと思うならば、まず姿勢や表情や言葉を変えることが大事だといえるのかもしれない。

2020年1月17日 (金)

マネジャーの実像/ヘンリー・ミンツバーグ

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 マネジメントは、アート、クラフト、サイエンスの三要素がそれぞれの頂点をなす三角形の中でおこなわれるとみなせる。アートは、マネジメントに理念と一貫性を与える。クラフトは、目に見える経験にもとづいて、マネジメントを地に足のついたものにする。そしてサイエンスは、知識の体系的な分析を通じてマネジメントに秩序を生み出す

マネジメントは日本語では「管理」と訳すがそんな単純なものではない。

マネジメントとは、管理することであり、ものごとを実行することであり、考えることであり、リーダーシップを振るうことであり、意思決定をくだすことであり、それ以外のもろもろのすべての活動のことである。

しかも、そうしたすべての要素の単なる総和ではなく、すべてが混ざり合ったものだ。

だから、マネジメントの方法論にマニュアル化できる部分はほとんどない。

が、暗黙知はたくさんある。

しかし暗黙知という性格上、簡単にはその全容を把握できない。

マネジャーが欲しがるタイプの情報は、おうおうにして人間の頭の中に保存されている。

デジタル化して保存するためには、その情報を文字にしなければならないが、それには時間がかかるし、マネジャーは多忙をきわめている。

結果として、組織の戦略に関するデータベースは、コンピュータの中と同等、もしくはそれ以上に、マネジャーの頭脳にたくわえられている。

要するに、マネジメントとは、永遠に、一時たりとも解放されることのない仕事なのだ。

マネジャーに仕事を忘れる自由はなく、仕事をすべて片づけたという解放感はたとえ一時的にでも味わえない。

成功するマネジャーは、誰よりも大きな自由を手にしている人物ではなく、手持ちの自由を最大限活用できる人物のようだ。

著者の観察によれば、マネジャーの行動に及ぼす影響が飛び抜けて強かったのは、組織のタイプだったという。

著者は6つのタイプの組織とマネジメントのスタイルを挙げている。

第1に、起業家型組織

一人のリーダーを中心とする中央集権型の組織。

リーダーは戦略ビジョンを打ち出すほか、自分自身で実行と取引を活発におこなう。

第2に、機械型組織

正式な構造をもっていて、単純な反復的業務をおこなう。

マネジャーは、明確に示された指揮・命令関係にもとづいて行動し、コントロールの役割に割く時間がきわめて多い。

第3に、専門家型組織

専門家で構成される組織で、メンバーはおおむね自分の判断で仕事をする。

マネジャーは主に、メンバーを支援し守るために、外部と関わることと取引をおこなうことに力を注ぐ。

第4に、プロジェクト型組織

専門家で構成されるプロジェクトチームを中心に、革新的な活動に取り組む組織。

シニアマネジャーは、プロジェクトを存続させるために、外部と関わり、取引をおこなうことに努める。

一方、プロジェクトマネジャーは、人々を導くことによりチームワークを高め、現場の業務を実行して課題を処理し、外部と関わることを通じてほかのチームとの連携を図る。

第5に、ミッション型組織

強力な組織文化に支配されている組織。

リーダーは、その文化を維持・強化するために、人々を導くことを重んじる。

第6に、政治型組織

トラブル対応に追われる。

マネジャーはときに、問題の火消しのために、自分自身でものごとを実行し、外部と取引することに時間を割かれる。

以上の6つである。

何れにしても、マネジメントとは正解のない仕事であり、マネジャーとして立たされたものは、その中で自分の仕事のスタイルを模索しているということではないだろうか。

 

2020年1月16日 (木)

達成の科学/マイケル・ボルダック

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 脳を、いつも最高の快楽に向かう追跡型ミサイル誘導システムだと考えてみてください。この誘導システムは痛みを遠ざけ、短期的(過程を楽しむ)、あるいは長期的(持続可能な幸福)な快楽を与えてくれるものに近づこうとします。

本書の一貫した主張は、思考は原因であり、生み出された状況は思考からもたらされた結果であるという原理原則に基づいている。

思考とは、自分自身に対する質問だ。

質問すると自分のフォーカスはコントロールされ、フォーカスするものが何であれ、それに向かって生きていくことになる。

さらに、桁違いの生活を満喫できる人は、長期的思考を持っている。

つまり、ずっと先にある快楽を得るために、目先にある痛みを我慢できるということだ。

成功を収めた人は、快楽を遅らせることに長けており、自己規律を守れる人だ。

彼らは長期的な成功を収めるために必要な日々の行動、そして、短期的な快楽を放棄するのに必要とされる日々の行動を継続的に取ることによって自身が何よりも求めるゴールを達成できる。

すべての成功の基盤は自己規律である。

すべての規律ある努力に対しては何倍もの報酬がある。

そして、自己規律を守る痛みか後悔の痛みのどちらかが必ず存在する。

ただし、例えるなら、自己規律を守ることの重みは数グラムであるのに対して、後悔の痛みは数トンである。

成長とは自分の快適領域を広げることであり、その過程を楽しむことが大切だ。

一旦習慣をつくれば、自分の快適領域を広げつづける限り継続的に成長できる。

したがって、特定の結果をすぐに得ようとするよりも、規律を守る習慣を確立させるほうがより重要なのだ。

正しい習慣を確立することに焦点を合わせれば、必ず結果はついてくる。

成功習慣をつくるうえで、人が犯してしまう最大の間違いは、苦痛を克服することによってしか成功習慣をつくることができないと考えることだ。

快楽と習慣をつくる過程を結びつけられず、その瞬間瞬間の幸福を奪われてしまっていると考えてしまうのだ。

大事なことは、行動を変えるほどのモチベーションを与えてくれるワクワクするような長期的ゴールを持つこと。

これがよい習慣をつくり、成功をもたらす。

ワクワクするような長期的ゴールをもつこと。

是非とも実行したいと思う。

2020年1月15日 (水)

苦しまなくて、いいんだよ。/プラユキ・ナラテボー

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 最も大切なのは「今ここ」です。たとえ悩み苦しみにより、暗い深淵に落ち込み、萎れていようとも、今ここから気づきを持って生きれば、明るい光に照らされ、みずみずしい生命力がよみがえってきます。悩み苦しみから解放され、深いやすらぎに包まれ、イキイキと、滋味豊かな人生を送ることができます。

本書は「苦しみ」への向き合い方をブッダの教えを通して説いている。

苦しみの解決に至るための最初のポイントを、ブッダは「苦諦」、すなわち苦の認知であるとした。

これは「苦しみとしっかり向き合う」ということ。

ブッダは「苦しみ」はただ見きわめ、知り尽くす対象であり、苦しむ義務はないとしている。

すなわち、苦しみに苛まれたり、翻弄されたり、ハマり込んだりすることは正しいことではない。

また、そのような必要もまったくないと言っている。

更に、生じてきた苦しみという現象それ自体に対しては、認知するだけでよく、具体的な働きかけはしなくてもよいとしている。

なぜなら、苦という現象は何らかの「原因」によって生じた「結果」であり、単なる「症状」にすぎないから。

大切なのは「今この瞬間」という意識を持つこと。

今この瞬間、目に入ってきている色彩や形、聞こえてくる音、香り、皮膚に感じる感覚など、十分に味わってみる。

たとえ誰に会おうと、どんな出来事に遭遇しようとも、どんな感覚に触れようと、どんな思いが生じてこようとも。

今ここ、今ここ、気づきを持って、心込めて触れ合っていく。

そしてそのために瞑想を勧めている。

少し瞑想への興味がわいてきた。

2020年1月14日 (火)

世界は宗教で動いてる/橋爪大三郎

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 キリスト教文化圏では、宗教が第一で、次が哲学。政治はそのまた次ぐらいに位置します。日本は、おそらくビジネス(生産活動)が一番でしょう。宗教も哲学も、あまり地位を認められていない。中国では、なんと言っても、政治が重要です。経済と比べても、政治がはるかに大事。政府の活動を重視する。政治は経済に介入できるし、介入するのは当然と考えられています。逆に、経済が政治に影響を与えることは嫌われています。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、それぞれの文化圏では宗教が第一、

この考えが分からないと今、世界で何が起こっているのかがわからないというのは著者が本書で述べていることである。

Godは人間を、絶対的に支配している。

なぜそう言えるか。それは、Godが天と地とすべてを創造し、人間も創造したから。

このGodの、「絶対的主権」の考え方がわからないと、一神教は理解できない。

キリスト教はもちろん、ユダヤ教も、イスラム教もわからない。

日本にも宗教がある。

しかし、一神教の世界でのGodと日本のカミとは、まったく違う。

キリスト教徒は、その時どきに力のある統治者に、政治を任せる。

その統治者はキリスト教徒であることが望ましいが、絶対というわけではない。

その統治者に協力する条件は、信仰が守られること。

だからアメリカ大統領は就任時、聖書に手を置いて宣誓する。

地上にある権威は、すべて神が立てたものである、悪を正すために彼らは剣を帯びている、正義のために政治権力はあると聖書に書かれている。

聖書では、最後の審判までの「つなぎの期間」に、人間が人間を統治してよいという政治の仕組みを定めている。

ルターはその政治を、隣人愛の精神で行なうべきだとした。

統治者は合法的に選ばれた人物であるべきで、それは神が人間のために与えたもの。

クリスチャンはそれに従う義務がある。

アメリカはこのように考える。

イスラム教からみると、旧約の預言者に従うのが、ユダヤ教徒。

新約の預言者イエスを神の子キリストだとして従うのが、キリスト教徒。

どちらも、信じ方が間違っているけれども、アッラーの啓示に従っている点はよろしい。

ゆえに彼らは、「啓典の民」であるとして、彼らの信仰を承認する。

まったくの異教徒であるとはみなさない。

この考え方が一神教の文化圏の根底にある。

今、世界で起こっていることを理解したいならば、この一神教を理解する必要があるということであろう。

2020年1月13日 (月)

リモートチームでうまくいく/倉貫義人

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 ピーター・ドラッカーの提唱する知識労働者の仕事は、リモートワークと非常に相性がよいのです。高度に専門化された知識を持ち、肉体労働でなく知識や情報によって企業や社会に貢献する知識労働者は、リモートワークでもその提供する本質的な価値が失われることはありません。

リモートワークを駆使して住む場所や働く場所に関係なくチームを組んで一緒に働く。

その上で、チームワークの本質を変えることなく働けるワークスタイルを実現する。

それが著者の考える「リモートチーム」の姿だ。

リモートワークに最も向いているのは、移動すること自体が本質的な価値を生み出さないような職種だ。

これから先、特にリモートワークで注目される仕事は、誰かの難しい問題を解決するようなコンサルティングだったり、ゼロから新しいものを作り出すクリエイティブな仕事だ。

リモートチームのメンバー同士、仕事中はオフィスにいるのと同じように、いつでも相談や雑談ができて、ときには利害関係を超えて助け合えるかどうか、という点が非常に重要になる。

そのベースにあるのは、人間として尊敬し合える関係を作れるかどうか。

リモートワークを始めると、働く人の意識も変わってくる。

オフィスに行きさえすれば仕事をしているとみなされる状態ではなくなる。

成果を出さなければ、仕事をしていないのと同じ。

リモートワークでは、〝働いているフリ〟はできない。

結果、よりいっそう成果を意識した働き方をメンバーに促すことになり、チーム全体の生産性を高めることになる。

これからの日本で生き残る職業は、体力や頭数を必要としなくても価値を生み出せる知識労働が中心になっていくだろう。

さらに、知識労働とリモートワークは非常に相性がよいため、これまで以上に場所にとらわれずに働きたいという人が増えてくるのではないだろうか。

働き方改革が叫ばれている今、リモートワークは将来の働き方の一つの選択肢になるかもしれない。

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