2018年8月18日 (土)

翔ぶが如く(3)/司馬遼太郎

Photo 会議が始まったのは、午後一時すぎからである。
 一同、テーブルに付いた。
 正面に太政大臣三条実美三十七歳がすわり、その横に右大臣岩倉具視四十九歳がすわった。
 参議は、八人である。
 西郷隆盛が最年長で、数えて四十七歳になる。副島種臣の四十六歳がこれに次ぎ、大久保利通の四十四歳、佐賀の大木喬任四十二歳、同江藤新平四十歳、あとは三十代であった。板垣退助、大隈重信、後藤象二郎である。

明治6年10月の廟議は、征韓論をめぐって激しく火花を散らした。

当時、参議だった西郷はこの会議をきっかけにして東京を去った。

西郷が東京を去ったという衝撃は、その一事だけで歴史をゆるがしたといっていい。

西郷の離京とともに、反政府思想や世論が、沸々としてわきおこってきた。

それにしても、驚くのは国家の意思決定をするために集まった面々の若さである。

30代、40代ばかり。

最年長が岩倉具視の49歳。

彼らが中心となって進められた様々な改革。

これらは若さというエネルギーがなければ成し得なかったのかもしれない。

人間というものは年を取ればとるほど保守的になるもの。

それを考えると、今の日本のリーダーたちは少し年を取りすぎているのかもしれない。

2018年8月17日 (金)

翔ぶが如く(2)/司馬遼太郎

Photo やがて西郷が出てきた。
 山県は一世一代の雄弁をふるい、廃藩置県の必要を説いた。喋りはじめると、とまらなかった。西郷はそれを最後までじっときいていた。山県はやがて、「貴意やいかに」ときいた。
 西郷は木戸さんのご意見はいかがです、ときいた。山県はじつはまだ木戸にうちあけていないというと、西郷はうなずき、
「私のほうはよろしゅうございます」
 と、鄭重に答えたのには、山県はあっけにとられる思いであった。山県はかえっておびえ、念を押すと、西郷はもう一度うなずき、おなじ返事をした。
 廃藩置県という空前の変革は西郷の一言で済んでしまった。

西郷隆盛がもし廃藩置県に反対していたら、明治政府の政策は大きく躓いたかもしれない。

それほど、西郷の影響力は大きなものだった。

「西郷は哲学をもっているという点でこの国の歴史に出現した最初の政治家であった」と著者は述べているが、その通りなのかもしれない。

同時にそのことが、西郷がこの国に生まれたことの不幸にもなっている。

西郷は精密な哲学書を書いたわけではなかった。

しかしその日常の起居動作から政策論、歴史観にいたるまでいっさいが論理的有機性と精密さを持っていた。

その場かぎりの言動というものはなく、しかも行動というその文体は感性のゆたかさからきた豊潤さをもっていた。

西郷のような、いわば存在することによってすでに世間的威力をもつという男は、その実態が何ものかということがわかりにくい。

斧をふりあげてたち割ってもなにも出て来ないかもしれない。

ただ、その得体のしれない大きさが西郷の魅力となり影響力となったのかもしれない。

2018年8月16日 (木)

翔ぶが如く(1)/司馬遼太郎

Photo この時期、日本の朝野を問わず征韓論で沸騰しており、西郷はその渦中にいた。
 というより、西郷がこの渦をまきおこした張本人のように見られており、事実西郷という存在がこの政論の主座にいなければこれほどの騒ぎにはならなかったにちがいない。
 といって西郷の心境は複雑で、かれは扇動者というより、逆に桐野ら近衛将校たちが「朝鮮征すべし」と沸騰しているのに対し、
「噴火山上に昼寝をしているような心境」
と、西郷自身がこの時期の心境を書いているように、自分の昼寝によってかろうじて壮士的軍人の暴走をおさえているつもりであった。

倒幕の立役者の一人である西郷隆盛。

明治政府になり、この人物の立ち位置は微妙になる。

明治政府の廃藩置県等の政策は旧士族の反発を買った。

西郷はこの当時の薩摩出身の近衛の士卒の状況を、「噴火山」と形容し、自分はあたかもその噴火山上で昼寝をしているようなものだ、といった。

この形容はすこしの誇張もなさそうで、西郷が自分の悲鳴をそのように表現したともいえる。

この当時、征韓論が国論を二分していた。

確かに、朝鮮からみれば日本は奇妙な国というほかない。

ほんのこのあいだまで尊王攘夷という非現実的スローガンをかかげて革命勢力が幕府を突きあげていたはずであるのに、その革命勢力が明治政府をつくるや掌をひるがえしたように開国をやってのけた。

さらには、「貴国も開国せよ」と、余計な忠告の国使を朝鮮へ送りつけてきたのだから。

朝鮮は日本の使者を犬猫同然にあつかい、そのつどはずかしめ、そのつど追いかえした。

こんな中で起こったのが征韓論である。

明治政府は様々な矛盾を抱えていた。

西郷隆盛という人物そのものがその矛盾の象徴といえるのではないだろうか。

2018年8月15日 (水)

ヒトは「いじめ」をやめられない/中野信子

Photo もしかしたら「いじめを根絶しよう」という目標そのものが、問題への道を複雑にさせているのではないでしょうか。「いじめは『あってはならない』ものだ」と考えることが、その本質から目をそらす原因になってしまっているのではないでしょうか。

年に何回か、いじめによって自殺した子供のニュースが流れる。

その度に、「何でこんなあってはならないことがおこったのだろう」と思ってしまう。

しかし、著者によると、それは間違っているという。

そうではなく、いじめは人間の本能なのだというのである。

いじめとは集団の中で異質なものを排除しようとする行為のひとつ。

実は 社会的排除は、人間という生物種が、生存率を高めるために、進化の過程で身につけた「機能」なのだという。

人間社会において、どんな集団においても、排除行動や制裁行動がなくならないのは、そこに何かしらの必要性や快感があるから。

しかし学校は、通う目的も、年齢も同じ子が集まり、そこで均一の教育を受けているため、そもそも「類似性が高い」「獲得可能性の高い」人間関係。  

つまり、学級という空間は、妬みの感情が非常に起こりやすい環境が整っているということ。

妬み感情は人間にもともと備わっている感情なので、止めることはできない。

妬み感情がある場合には、その妬みの対象に不幸なことがあると、脳内で快感を司る〝線条体〟と呼ばれる部分の活動が活発になり、喜びを感じてしまうことがわかっている。

これを学術的に「シャーデンフロイデ」と呼ぶ。

いわゆる、「他人の不幸は蜜の味」と思ってしまう感情。

つまり、いじめとは人間の本能に属する行為だということなのである。

「いじめはあってはならないこと」という議論の出発点そのものが間違っているというのである。

とすると、「いじめをしてはいけません」と学校で教える程度ではなくならないのは当たり前のことと言えよう。

学校に監視カメラを入れるとか、もっと抜本的な対策が求められるということではないだろうか。

2018年8月14日 (火)

イノベーションを起こす組織/野中郁次郎、西原文乃

Photo 旭山動物園の成功の本質は、動物園の動物は「自己実現を求める命ある存在」であるということを、行動展示や共生展示を通して発信し続けているところにあるといえるだろう。動物は展示されるモノではなく、そこで人間と共に生きている存在(コト)なのだ。

今、企業は同じことをしていては生き残れない。

イノベーションがどうしても必要だ。

本書ではイノベーションを起こす組織の実例の一つとして旭山動物園が挙げられている。

旭山動物園の成功は、前園長の小菅正夫と現園長の坂東元が立役者であることは間違いない。

しかしながら、現場の飼育員の動物たちに対する愛情と飼育員同士の信頼。

一方で動物たちの生態に関する正しい知識と豊富な経験が結合したことによって、行動・共生展示が現実になったといえるだろう。

経営トップがどれだけ善い思いを持っていても、どれだけ善い未来像を描くことができたとしても、それを現場で実現する現場のリーダーたちがいなければ、絵物語りで終わってしまう。

つまり、イノベーションを実現するには「現場リーダーの善い目的や思いを起点とした共創の場づくり」と「目的や思いを実現する集合的な実践力」が必要となるということである。

本書ではイノベーションを起こす組織の条件を6つ挙げている。

第1に、参加メンバーがその場にコミットしていること。

ただ人が集まっただけでは、場はできない。

第2に、その場が、目的をもって自発的にできていること。

目的がなかったり、強制されて集まっていたりするのでは、やらされ感があるので、新しい知は創られにくい。

第3に、メンバー間で、感性、感覚、感情が共有されていること。

メンバーそれぞれが持っている暗黙知を解放することで新しい知が創られる。

第4に、メンバー間の関係のなかで、自分を認識できること。

自分が他のメンバーから受け容れられているという安心感や信頼感があることで、暗黙知が解放される。

第5に、多様な知が存在していること。新しい知を創るには、多様な知が必要となる。

同じ知を掛け合わせても同じ知しか出てこない。

第6に、場の境界は開閉自在で常に動いていること。

境界がいつも閉じていると、メンバーだけの知識で閉じてしまうことになり、多様性が失われてしまう。

境界を開くことで、多様な知を新たに取り入れることができる。

イノベーションとは、既存の静態的な均衡を破ることである。

言い換えれば、イノベーションは、対立や葛藤を「あれかこれか」の二項対立としてとらえるのではない。

状況に応じて「あれもこれも」の二項動態のチャンスととらえること。

いわゆるWin-Winの状態をつくって対立や葛藤を超えていくことである。

イノベーションを起こす組織作りを多くの企業は目指すべきではないだろうか。

2018年8月13日 (月)

「産業革命以前」の未来へ/野口悠紀雄

Photo AIやブロックチェーンに、失業を生むというディスラプターの側面があるのは、やむを得ない。しかし、これはコンピュータと人間の戦いではない。人間がコンピュータをうまく使うことによって、人間でなければできないような仕事に特化していくことは可能である。

これかどんな時代が来るのだろう。

AIやロボットの進化によって、多くの人間の仕事が奪われるのは確かだろう。

しかし、人間にしか出来ない仕事は必ず残る。

それは「人間の仕事が残る」というだけではない。

価値がこれまでよりも高まる仕事があるということだ。

産業革命によって、それまで人間が行っていた多くの仕事が機械に代替された。

しかし、人間の仕事がなくなったわけではない。

むしろ、経済活動が促進されて、人間の仕事は増え続けた。

さらに、残る仕事は、創造的な仕事だけではない。

例えば、掃除だ。

「何がゴミであるか」を判別するのは、それほど容易なことではない。

一見したところ単なる紙切れに見えても、そこに重要なメモが書いてあるかもしれないからだ。

著者は、産業革命に先立つ時代が、これからの時代のモデルになる、「歴史の循環」「先祖がえり現象」が生じている、と述べている。

これは、新しい技術を活用して、人類のフロンティアを大きく拡大するチャンスでもあるというのである。

見方によっては、ワクワクするような未来が到来しようとしているということではないだろうか。

2018年8月12日 (日)

OJTで面白いほど自分で考えて動く部下が育つ本/松下直子

Ojt 意外に思われるかもしれませんがパワハラは日本の造語で、セクシャルハラスメントが世界で大きな問題になってから日本で生まれたカタカナ英語です。

パワハラが日本の造語であるということは初めて知った。

今、パワハラが問題になっている。

日本ボクシング連盟会長の山根会長、日大アメフト部長の内田監督、等々、次から次へと出てくる。

確かに問題であることに違いないのだが、あまりにも騒ぎすぎるような気がする。

パワハラには一様の定義が定められている。

第1に、身体的な攻撃

第2に、精神的な攻撃

第3に、人間関係からの切り離し

第4に、過大な要求

第5に、個の侵害

といったものだ。

難しいのは、それぞれの線引きだ。

例えば、部下を育成しようと思ったら、出来る仕事ばかりをやらせていてはダメだ。

ある程度、難易度の高い仕事を与える必要がある。

上司は、部下の能力開発のために、意識的にちょっと背伸びが必要な難易度の仕事を与えることと、複数の能力が必要な仕事を与えることの2点が不可欠になる。

ところが、これを「過大な要求」「個の侵害」と部下自身が受け取ってしまったらパワハラになってしまう。

こんなことを言ってしまったら、昭和の時代の育成手法はほとんどがパワハラになってしまう。

この辺りのことはよく考えてみる必要があるのではないだろうか。

2018年8月11日 (土)

ビジネスエニアグラム/木村孝

Photo エニアグラムが単なるタイプ分けで終わってしまっては意味がありません。タイプを通して自分と出会っていくのが、エニアグラムのすばらしいところです。

エニアグラムに取り組むようになって2年になる。

そして知れば知るほど奥が深いのがエニアグラムである。

エニアグラムは単なるタイプ分けではなく、人間の根源に迫っていく。

深めれば深める程、新しい自分と出会うことができる。

そして本当の自分と出会うことによって他者のことが理解できるようになる。

人はタイプによって同じ刺激に対して、さまざまな反応をするものだ。

例えば試合に負けたとき、タイプ1の選手は「何が問題だったのか、みんなで反省しなければならない。そして早速、練習に取り組むべきである」と考える。

タイプ7の選手は「負けたことをいつまでも引きずっていても仕方がない。気晴らしに飲みにでも行って、笑顔で次に向かって進もう」と考える。

タイプ1の選手から見ると、タイプ7の選手は練習に臨む真剣さに欠けた、不真面目な態度に映る。

一方、タイプ7の選手からすれば、タイプ1の選手のような堅苦しい考え方やマイナス思考が足を引っ張って、みんなが自分の力を発揮できないように思える。

このような考え方の違いがチーム内で対立を生んだり、ギクシャクした関係になったりする。

しかし、エニアグラムを学ぶと、「アイツは間違っている」「アイツはわかっていない」ということではなくタイプの違いであることが分かる。

自己理解と他者理解が進めば、無意味な対立やチーム内の不協和音が解消される。

世の中ではこれと似たようなことが日常的に起こっているのである。

エニアグラムは本当の面白い。

2018年8月10日 (金)

顧客獲得セミナー成功法/遠藤晃

Photo 心理学の本によると、ひとりの講師の影響力がもっとも高いのは、参加者が8人までのセミナーだといいます。次に高いのが 15 人。その後は、参加者がひとり増えるごとに、講師ひとりが参加者に与える影響力はだんだん小さくなっていくそうです。

私自身、自主セミナーを年3回開催している。

顧問先もほとんどセミナーを通して獲得したものだ。

セミナーが効果的なのは、参加者と営業されているという意識を持たせずに信頼関係を構築することができること。

参加者は、売り込まれないという安心感があるから、セミナー講師を「営業マン」ではなく「先生」として見てくれる。

そしてその結果、お客さんとの間に信頼関係が築ける。

さらに、セミナーは参加者が多ければよいというものではない。

確かに著者が言うように参加者が15人を超えると、成約率は下がる。

過去の経験から言っても参加者が5、6人程度のセミナーが一番成約に至る確率が高い。

本書を読んで、それには心理学的な根拠があると知って、妙に納得してしまった。

2018年8月 9日 (木)

ユダヤ式WHY思考法/石角完爾

Why なぜユダヤ人の知的生産力が優れているのか、おわかりだろうか。それはユダヤ人が「議論をして考える民族」だからである。 さらにいえば、「なぜ?」「Why?」を徹底的に考えつくす民族なのである。

議論好きというユダヤ人の民族性が知的生産性の基になっていると著者はいう。

確かにユダヤ人は議論が好きだ。

議論するということは場の雰囲気を読まないということだ。

議論するということは場の雰囲気をつぶすということだ。

一方、日本人は場の空気を読む民族である。

そして議論することをあまり好まない。

しかし、場の空気を読むということは停滞するということである。

場の空気を読むということは多数に盲従するということである。

場の空気を読むということは何も創造しないということである。

場の空気を読むということはリスクをとらないということである。

場とは現状である。

しかも自分が置かれた狭い現状なのである。

そんなものを読む人間ばかりの社会が発展しないことは、いうまでもないことだ。

その意味で、ユダヤ人のWHY思考に学ぶべき点は多いのではないだろうか。

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