ドン・キホーテ 闘魂経営/安田隆夫
結局、開店1年ほどして、私は教えるのをあきらめた。あれほど教えてもダメなのだから、そもそも教えるという行為自体が無意味なのだ。そう結論づけざるを得なかった。
でも教えなければ従業員は動かない。もちろん当時のドン・キホーテには、いちいち指示しなくてもオーナーの意を汲んで動く“できる”社員など一人としていない。ではどうすればいいのか・・・・。「もうダメだ、やめよう」と思ったことも一度や二度ではない。しかし悩みに悩んだ末、私は開き直った。「教える」のではなく、それと反対のことをした。「自分でやらせた」のである。
それも全部任せた。従業員ごとに担当売場を決め、仕入れから陳列、値付け、販売まですべて「好きにやれ」と、思い切りよく彼らに丸投げした。正直なところ、「どうにでもなれ」と半ばヤケクソだった。
「任せた」と言われ、当初は面食らっていた店のスタッフたちだが、本当に自分で好きにやってもいいと分かるや次第に目を輝かせ、それまでと打って変わって生き生きと仕事をするようになった。
これがドンキ流経営の要中の要、「権限委譲」の始まりだ。と言えばカッコいいが、もうお分かりのように、これもまた苦肉の策による「後づけ」である。(P60~61)
人は任せられることによって、自ら考え、動き、成長するようになる。
これはよく言われることだが、実行するとなると難しい。
やはり、社長から見た社員、上司から見た部下は、
いつまでたっても半人前であり、
ことあるごとに口出しをしたくなる存在だからである。
任せるためには、この大きな壁が立ちふさがる。
では、この壁を乗り越えるには何が必要か?
ドン・キホーテの創業者である著者は、「どうにでもなれ」とヤケクソだったと述べている。
つまりそうせざるを得ないところまで追い込まれたということであろう。
しかし、人が何か大きな決断をする場合、ある意味、ヤケクソになるということもあるのではないだろうか。
人にはそれぞれ過去の経験がある。
そして、すべて目の前の出来事を、そのモノサシを基に判断する。
しかし、そのモノサシを捨てない限り、新しい第一歩を踏み出せないことが起こる場面がある。
そのとき、そのモノサシを捨てることができるかどうか、
そのためのキーワードがヤケクソだったとしても、それも有りだと思う。
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