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2010年12月の30件の記事

2010年12月31日 (金)

港区ではベンツがカローラの6倍売れている/清水草一

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 今回の取材を通して私は、今日本が大きな変化のただ中にいることを実感した。日々、市場が流動化し、状況が変わり、新しい何かが生まれている。それを目の当たりにするのは実に楽しかった。
 それは、多様化の許容であり、本質的には良いことに思えたのだ!
 もちろん、そこにはさまざまな問題もあるわけだが、それでも私は、皮肉でもなんでもなく、多少の思い込みを込めてこう叫びたい。
 「日本はいい方向に向かっている」

今日本では格差が問題になっている。

ワーキングプアの問題も深刻だ。

このような問題に対してはやはり国の支援が必要であろう。

しかし、だからと言って、格差がすべて悪かというと、それは違う。

私がまだ20代の頃は、終身雇用、年功序列が当たり前だった。

一つの会社で定年まで働くのが常識だった。

しかし、今は、一つの会社で定年まで働くのは、ごく一部の人である。

多くの人は、転職を経験している。

転職を繰り返す中で、“天職”を発見する人もいる。

逆に、転職を繰り返すたびに貧しくなっていく人もいる。

それらはすべて、“自由”に仕事を選べるようになった代償である。

つまり今、日本全体が変化しているということのあらわれである。

どんどん新しいものも生まれている。

この変化をむしろ楽しむこと、これが大事なのだろう。

2010年12月30日 (木)

どんな時代もサバイバルする会社の「社長力」養成講座/小宮一慶

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 企業は、社運など簡単にかけてはいけないとわたしは思います。社運をかけたりしなくてもいいように、常に小さなリスクをとりながら挑戦し続けるのがよい。それは、人生でも同じではないですか?
 小さなリスクを常にとり続ける会社は、社内でも「挑戦」する社風が生まれやすくなります。小さなリスクをとらず、最終的に大きなリスクをとらざるをえなくなる会社には、ふだんは挑戦を行わず、言われたことを言われたようにやっている社員が増えます。会社に躍動感がなくなりがちです。
 小さな挑戦は、前向きな社風づくりの基礎となるのです。

「社運をかける」よく聞く言葉である。

どちらかと言うと、業績の悪い企業が使う言葉という印象である。

問題は、社運をかける状況まで追い込まれるに至った経緯である。

恐らくそのような会社は、「挑戦する」とか「新しいことを始める」といった言葉とは無縁の風土であろう。

そのような社風の会社の社員に、社長が「社運をかける」と言ったとして、果たして、前向きな気持ちになれるのだろうか。

経営も人生も普段(不断)が大事である。

2010年12月29日 (水)

龍馬「海援隊」と岩崎弥太郎「三菱商会」/童門冬二

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 幕末の開明的な思想家佐久間象山が、今のことばに直せば、「私は二十歳のときに長野県民であることを知り、三十歳のときに日本人であることを知った。そして四十歳のときに国際人であることを知った」
 と、個人の人格が年をとるにしたがってだんだん広がりを持つ宣言をした。

人が年をとるということは、人格に広がりを持つということ。

「年をとるということはこういうことなのか」と納得させられることばである。

そして、もしこれが本当に実質となれば、「年をとることもまた善し」と言える。

高齢化社会大歓迎である。

しかし、現実はどうであろうか?

年をとるとともに、現実に妥協するようになり、夢がなくなり、あきらめの気持ちが強くなる。

人格的にもだんだん卑屈になってくる。

または、牙を抜かれた、物分かりのよい常識人が増えてくる。

このような人が圧倒的多数なのではないだろうか。

しかし、年をとるということは、人格的に広がりを持つことである。

そう心に決めて、人格を磨いていくことが必要なのではないだろうか。

2010年12月28日 (火)

スティーブ・ジョブズ 驚異のプレゼン―人々を惹きつける18の法則/カーマインガロ

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 マイケル・ジョーダンなどのトップアスリートのほか、チェスプレイヤー、ゴルファー、医師、ダーツ選手などさまざまな分野で傑出した成績を残した人々について、心理学者のK・アンダース・エリクソンが行った研究がある。その結果、トップクラスの人々は、みな、意識的に練習していることが明らかになった。なんとなく同じことを繰り返すのでなく、具体的な目標を設定し、他人から意見を聞き、長期的よくなるほうへ進もうと努力を続ける。一つ一つのスキルを繰り返し繰り返し、何年も練習するのだ。
 スピーカーとして普通の人が上手になるには練習が必要だ。20世紀有数のコミュニケーションだと言える人物にウィストン・チャーチルがいる。説得力も影響力も強かったし、人にやる気を起こさせるのも上手だった。このチャーチルも、第2次世界大戦中、何百万人という英国民を奮い立たせるために必要なスキルを意識的に練習していたという。
 「議会で大事な演説をするときは、何日も前から、想定されるヤジへの切り返しや受け流しなどの練習をしていた。十二分に練習していたから原稿なしでしゃべっているように見えたのだ・・・・・だから聴衆はチャーチルに惹きつけられた」
 チャーチルの孫娘のシリア・サンズと共著者のジョナサン・リットマンは『しくじるわけにはいかない(We Shall Not Fail)』にこう書いている。「言うは易く行うは難しである。練習は必ず必要。自然な話し方をしたいのであればなおさらだ」。世界的なコミュニケーターはみな、練習で練り上げなければ「自然」にならないことをよく知っているのだ。

政治や企業のリーダーがスピーチやプレゼンをする時、欧米と日本で明らかに違うと感じることがある。

欧米のリーダーは原稿なしで、自分の言葉で話す、

一方、日本のリーダーは、原稿を読みながら話す。

単なる能力の差なのか?

そうではなく、練習量の差である。

欧米のリーダーはスピーチやプレゼンの持つ意味をよく知っている。

その重要性を認識しているからこそ、十分な準備をしてその場に臨む。

原稿なしに自然に話すには、それなりの練習量がどうしても必要なのである。

ところが、日本のリーダーは、場合によっては、人の書いた原稿をその場で読み上げる。

それで人を動かすことができるわけがない。

人に感動を与えることができるわけがない。

日本のリーダーに最も、そして決定的に欠けた部分である。

2010年12月27日 (月)

だから、社員がやる気になる!/小西正行

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 世の中に変わらないものなどない。
 時の流れと共に、あらゆるものが変化している。長期的な目で見れば、日本の領土も地球の形も変化している
 いまは特に変化のスピードが増している時代だ。
 価値観、ライフスタイル、仕事のやり方、人との関係、コミュニケーションツールなど、目まぐるしく変化し続けている。そんな時代にあって、変化を拒んだところで、結局は自分だけが取り残されてしまうだけだ。
 元来、人間は変化を恐れ、できるだけ現状と同じ選択をしようとする生き物だ。しかし、周囲が変化している以上、自分だけ変わらないわけにはいかない。「どうせ変わるんだ」と開き直って、積極的に変化を受け入れていくことが大切だ。(P148)

現代ほど変化のスピードが早い時代はかつてなかった。

ITが進化することにより、今後この変化のスピードは益々速くなっていくことだろう。

かつては、しばらくまわりの様子を見て、ある程度方向性が見えた頃、変化すればそれで十分だった。

しかし、今はそれでは遅すぎる。

環境に適応し絶えず変化することが求められる。

いやそれどころか、場合によっては、変化を先取りし、変化を創り出すことが必要なこともある。

しかし、そのような中でも変わらないものもある、変えてはいけないものもある。

これらを明確に区別し、変わるべきことについては、大胆に変化させることが今求められている。

2010年12月26日 (日)

情報のさばき方/外岡秀俊

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 これまで、「予断を持たない」ことがいかに大切かを書いてきましたが、疋田さんは一見、これと相反するようなことを、口癖のように語っていました。それは、現場に取材に行く前に「仮説を立てろ」という教えでした。先の聞き書きの中で、疋田さんは「これは誤解をされると困る話ですが」と断った上で次のように話しています。
 「現場のまなざしさをうまくすくいとるために何回か試みた私の方法がある。それは現場に行く前に、あるいはインタビューの相手に会う前に、たぶん現場はこうであろう。たぶんこの人はこういう人だろう。こういう発言をするだろうと、事前に自分の頭の中で架空の状況をつくってみるのです」
これでは、「予断をもつな」という教えの正反対ではありませんか。なるほどこれは認めた上で疋田さんはこういいます。「つまり先入観、固定観念にとらわれた頭で、これを承知でウソ記事をわざとでっちあげておく」。
 この先が大切な勘所です。「そうしておいてから、私は現場に行く。すると、もちろん私の貧弱な頭ででっち上げた情景、ストーリーとは違っているところがどんどん見つかる。逆に言えば事前に架空の記事を作っておいたために、それであえってナマの現場が細部までよりよく見えるということがあるのではないか。同じ理由で、現場に立ってはじめて知り得たことや感じたことを拾い集める作業の専心しやすくなる。そんな気がしたものです」。つまり、あえて意識的に先入観や固定観念を抽象化して仮説モデルをつくり、その仮説が現場で裏切られることを「発見」する作業をしろ、ということなのです。(P93~94)

仮説を立てることが大事であることはよく語られる。

しかし、その意味するところを誤解してとらえてしまっている人は意外と多いのではないだろうか。

その中の一つに、「仮説を立てると、それが固定概念や先入観となってしまい、目の前に起こっていることを偏った目で見てしまうのでは」というものがある。

これなどは「仮説を立てる」という意味を誤解している一つの例だと思う。

仮説を立てる目的は、あえて意識的に先入観や固定観念を抽象化して仮説モデルをつくり、その仮説が現場で裏切られることを「発見」する作業をすることにある。

つまり仮説とは、あたらないのが前提だということ。

そして、自分の考えが仮説に過ぎないのだということをはっきりと自覚しているということ。

物事を偏って見てしまうのは、自分が物事に対して固定概念や先入観を持っていることを自覚していないことからくる。

しかし、仮説を立てるということは、固定概念や先入観を、あえて、意識的に作る作業をするということであるから、意識しないで固定概念や先入観に陥っている状態とは全く逆である。

この点をはっきりと区別する必要がある。

2010年12月25日 (土)

プロ弁護士の思考術/矢部正秋

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 日常の些事と思えることにも多くのオプションを検討し、その中から最適なものを選んで実行する。そうした工夫の上に、ビジネスも私生活も成り立っているのである。私はあらゆる場面で、オプション思考がきわめて効果的であると思っている。
 50代の中頃、私は一日1キロメートル、年間300キロメートル泳ぐのを日課としていた。だが、仕事で遅くなった日は、さすがにジムにいくのが億劫になる。
 こんなときでも、「行くか行かないか」の二分法ではなく、中間のオプションを考えるのが有効である。
 一度休むと、その後も何となく行きそびれ、再開するのがつらくなる。つぎの日に取り戻すには二倍以上の労力を必要とする。
 そこで私が発見したコツは、「行くか行かないか」ではなく、「とりあえずジムに行こう。少し泳ごう」と考えることである。「今から1キロ泳ぐ時間はない」と考える。こうして水泳の習慣を維持してきた。
 つまり、私が経験から学んだ方法はこうである。
 それがよいか悪いかをあらかじめ判断せずに、とりあえず一度は試してみる。「恐らくだめだろう」とか「それは無理だ」とかは、できるだけ考えないようにする。否定的な考えはいったん脇に置き、「一度は試してみよう」と考えるのである。
 われわれは旅行にいくときやレストランに行くときは、多くのオプションの中から選ぶだろう。あれはダメ、これはダメと安易にオプションを狭めないことが大切である。
 試してみても、すぐによしあしの判断をしないで、やり方を変えてみる。なぜなら、はじめから一度で「最適解」に至ることはほとんどないからである。やり方を変えることにより、よい結果が出てくるものである。
 多くのものに当たって失敗し、その中からよいものを見つける。試して失敗したときは、失敗の原因を考え、あとに役立てる。日々の生活で小さな実験と小さな失敗を繰り返し、成功への法則性を見出す。
 このように失敗から学ぶ習慣を身に付けると、失敗を恐れなくなるという大きな副産物を得ることができる。(P81~82)

二分法ではなくオプション思考、これがポイント。

私たちは何かを始めようとする時、「やるかやらないか」と二分法で考えることが多い。

しかし、少しでも物事を前にすすめるには、この二分法では行き詰まってしまう。

そうではなく、このような場合はオプション思考をする。

つまり、「やるかやらないか」ではなく、「とりあえずやってみる」という思考法を持つということ。

このオプション思考が物事を前にすすめるコツである。

特に、弁護士である著者が、このオプション思考を勧めているにのは意外であった。

私たちの弁護士に対して抱いているイメージは、物事をとことんまで考えて、最適解を導き出し、判断する人だというものである。

しかし、著者にいわせると、このような思考法をするのは、できない弁護士だという。

できる弁護士はオプション思考を身に付けているとのこと。

そうであるならば、なおさら凡人である私などは、オプション思考を身に付ける必要がある。

2010年12月24日 (金)

アホの壁/筒井康隆

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 実際にあった話である。
 誰でも知っている、ある有名なビール会社のパーティで、ビール発送用の箱を作っている下請会社の社長が挨拶しなければならなくなった。ところがこの社長、これも有名な商売敵のビール会社の名前をあげて、大声で万歳をさけんでしまったのである。
 全員がしらけてしまい、失策に気づいた社長は真っ青になった。あわてて「いやこれはどうも、ギャグが強烈過ぎましたようで」などと誤魔化し、改めて万歳をやった。
 なんということか、彼は二度目もまた、商売敵の会社の名前を大声で叫んでしまったのである。
「もう一度やらせてください」と言って泣きわめく社長は、手取り足取り会場から連れ出された。
 こういうアホなことは、違った形で、さまざまな局面で、日常的に起こっている。
 その局面で、一番言ってはならないことを言ってしまう。
 よりによって一番言ってはならぬ人にそれを言ってしまう。
 言ってはならない、言ってはならないと思っていながら一番強烈な表現でそのことを言ってしまう。
 こうした局面暴言は、それが言ってはならないことであることを本人が必要以上によく自覚している時に起こることが多い。意識せずして言ってしまう場面よりも多いのである。意識的に、言ってはならぬ、言ってはならぬと自分に言い聞かせることによって、どうしようもなく言ってしまうのだ。
 これはつまり、潜在意識では、それを言いたいのだということになる。(P27~28)

思わず言い間違えてしまうことは誰もが経験することである。

以前、国会で「開会します」と言うべき場面で、「閉会します」と言い間違えた政治家がいた。

これなど、おそらく潜在意識では、「早く終わらせてしまいたい」と思っていたのだろう。

つまり、言い間違いとは、単なる言い間違いではなく、それを深く掘り下げていくと、その人の潜在意識に行き着くということである。

更に考えていくと、潜在意識は言い間違いという局面だけで表れるのではない、日常生活のあらゆる場面で私たちの言動に影響を与えている。

そして、潜在意識は、眠っていて思考をストップしている時にも考え続けているということである。

そのように考えると、自分の行動を本当に変えようとするならば、潜在意識を無視するわけにはいかないということになる。

最近は、潜在意識を変えるアプローチの手法が多くの書籍で紹介されている。

これらを参考にしながら、自分なりに潜在意識を変えていく取り組みをする必要がある。

2010年12月23日 (木)

会社をぶっ壊してチームを創ろう!/吉田典生

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 「なぜ、するか」がはっきりすることは、クルマにたとえればガソリンが満タンになることだ。する意味がわかって自分の存在理由がわかり、その喜びがエネルギーに変わる。
 次は、そのエネルギーを効率的に使うことを考えなければいけない。
 「そうか、自分の仕事には、こんな意味があるんだな」という気づきから、「そこで、いつまでにこれを実現させるぞ」という具体的なゴールを導き出すのだ。ゴールがはっきりすれば、エネルギーを有効活用できる。〈「なぜ、するか」=ガソリンをぶちこむエンジン〉に対応するのが、〈「何を実現させるか=ゴール〉である。
 自分にとっての「仕事の意味」が会社全体としての「事業の意味」の一部をなし、「一部の中に全体がある状態」をイメージしてほしい。こういう状態になったとき、はじめて会社のゴールが自分のゴールだと実感できるようになる。
 そして錆びついた会社は破壊され、瑞々しいチームに変わっていく。(P79)

会社がチームに変わっていくために必要なことは、仕事や会社の「意味」と「ゴール」だということ。

特に大事だと思えるのは、「なぜ、するか」という「意味」の部分だ。

仕事の意味を見失っている人がたくさんいる。

今の日本、えり好みしなければ、何かの仕事につき、食べていくことはできる。

しかし、そのような時代であるだけに、何のために仕事をするのかという「意味」の部分が大事になる。

そして、チームビルディングは、その「意味」を共有することから始まる。

会社をチームに変身させるために、このようなアプローチの方法も具体的に考えていく必要がある。

2010年12月22日 (水)

無知との遭遇/落合信彦

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 サッチャーは頑強な女性ではあるが、クスリとも笑わない堅物だと思ったら大間違いだ。彼女はユーモアのセンスも兼ね備えた政治家だった。
 彼女の首相在任中に、下院で、ある法案についての議論が戦わされていた。サッチャーが法案についての説明をしている間、野党である労働党の議員たちからは次々と野次が飛び、議場は騒然としていた。
 そこでサッチャーは、野党議員たちを一瞥すると、こう言い放った、
「お黙りなさい。この法案は、あなた方のためにもなるものなんですよ!」
 その時、審議していたのは「野生動物保護法案」だった。
 野党議員たちに対して、「動物みたいにギャーギャー騒ぐんじゃない!」と怒鳴りつけるのは簡単だが、世界の優秀な政治家はこういった当意即妙の機知を持ち合わせている。
 日本にも党首討論が導入されたが、本家であるイギリス議会の「クエスチョン・タイム」とは全く違っている。イギリスでは、知識の幅広さのみならず、プレゼンテーション能力やユーモアのセンスまで問われることになる。(P27~28)

以前、日本について「経済一流、政治三流」と言われたことがある。

今では、経済についても一流とは言えない状況だが、

政治については三流どころか、四流、五流とさえ言える。

今の政治家のゴタゴタを見るにつけ、もうあきれてしまい、何も言う気にならない。

特に、日本の政治家に決定的に欠けているのは、ユーモアのセンスであろう。

今、日本では「グローバル化」が叫ばれているが、日本人がグローバルに活躍できない原因の一つとして、このユーモアのセンスがある。

これは、一個人の問題と言うより、日本社会全体の成熟度に関係があるような気がする。

結局は、政治家もその国の国民のレベルを写す鏡にしかすぎないのであろうから。

2010年12月21日 (火)

ユニクロ増収増益の秘密/梛野順三

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 柳井氏が組織論の中心に据えるのは、意外にも終身雇用制度だ。極めて日本的なものだが、終身雇用を維持するには企業が成長し続けることが大前提。成長しないと死ぬという柳井氏の考えが反映されている。
 「経営というのはスポーツのようなもので、経営者のフィールドを与え、実践で勉強や練習をさせれば身に付いていく」という経営論を持つ。(P150)

増収増益を続けるユニクロ、

その経営者である柳井氏が経営論の中心に据えるのは終身雇用制度であるという。

終身雇用制度というと、ある意味、一度会社に就職すると、定年まで雇用が保障されるということから“ぬるま湯”と思われがちだが、

よくよくその中身を見てみると、むしろ非常に厳しいものだということがわかる。

終身雇用制度を維持するためには、企業は成長し続けなければならない。

企業が成長し続けるためには、社員にもそれなりの働きが要求される。

もちろん、経営者にも相当な覚悟が必要となる。

つまり、企業の成長、経営者の覚悟、そして社員のコミットメント、

これらが一体となったとき、はじめて可能となる厳しい制度が終身雇用制度である。

これらをすべて踏まえた上で、終身雇用制度を掲げるところに、柳井氏の経営者としての非凡さがうかがえる。

2010年12月20日 (月)

先の先を読め/樋口武男

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 「安全に、と思うたら即、危機を招くゾ」
 創業者は、しばしばそう説いた。「組織の人間なら、身の安全を第一に考えるのは大方の人情や。なるべく冒険を避け、前任者と同じ道をたどろうとするのはサラリーマンの常やが・・・・・」
 いままでが安泰だったから、仕事を従来通りに続けていれば今後も大丈夫だろう。そう思った瞬間に「停滞」が始まる。企業にとってきわめて危険なことだが、安全志向を克服するのは容易なことではない。
 いかにして時代の変化に対応していくか。結局はトップの姿勢しだいなのだ、と創業者は言い、
 「樋口くん、“先の先”を見てくれよ。“先の先”やぞ」と、私の顔を見るたびに繰り返し念を押した。
 創業者自身、事業家としての48年間を通して、つねに“先の先”を見据えて俊敏に行動してきた。(P183)

「先の先を見る」

経営者にとってこれは当たり前のことだと思うが、実際にこれを実践できている経営者は少数派だ。

今の時代、安全策こそ最大のリスクだと考えた方がよい。

これほど変化の激しい時代は、かつてあっただろうか?

過去の成功体験があまり通用しなくなっている時代、

かつての安全策が、安全策とはなり得ない時代、

あらゆる点で、思考をリセットする必要がでてきている。

しかし、経営者を見る限り、かつての松下幸之助や本田宗一郎といった経営者と比較すると小粒になってきているように感じる。

そして、日本全体が閉塞感に覆われている。

変化に適応する、いやむしろ変化の先取りをし、変化を創り出すことが今の経営者に求められているのではないだろうか。

2010年12月18日 (土)

「すぐ動こう」動けば必ず答えがでる!/和田秀樹

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 最近の心理学では、行動が変わっていくうちに、こころも変わっていくということが言われています。非行少年が悪いことをしなくなれば周囲の接し方も変わってくるでしょうし、少年もまじめになった自分が好きになっていくかもしれません。最初は売名で「いいこと」をしていた人も、そのうち、世の中に役立つことが気分よくなってくることがあるでしょう。どれも行動から入ってこころを変えていくということですね。そう、動くことでこころも変わるのです。
 こころはなかなか変えられないが、行動は変えられます。その結果、こころも変わるのなら、やはり「まず動く」しかありません。(P5)

心を変えるには、まず行動を変えること、こう和田氏は主張する。

これまで一般的に定着していた考え方は、まず心を変える、その結果として行動も変わる、といったものだった。

しかし、心を変えるのは正直言って難しい。

カウンセリング等の専門知識が必要であり、素人には無理だ。

また、「心」そのものが、実体のはっきりしないものであるため、仮に心が変化したとしても変化を実感できないという面がある。

行動は違う、行動が変われば、本人にも周りの人にも、はっきりとわかる。

変化が実感できると、本人の意識も変わる、また周りの人の本人を見る目も変化する。

そうすると、よい方向へとスパイラルが回っていくことになる。

それにより、ますます行動を変えることにドライブがかかる。

結果として、心も変わっていく。

このようなよい流れをつくることだ。

それには、まず行動を変えること、そしてそのための第一歩を踏み出すことだ。

2010年12月17日 (金)

無責任のすすめ/ひろ さちや

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 競争は常に勝者と敗者を作る。敗者は屈辱を味わうものだ。その時に、勝者は敗者を侮辱するような行為をしてはいけない。そうした行為は人間の品性に関わる。
 日本には競争原理しかないから、勝者は何をしてもいいということになってしまう。それが日本の社会の恐ろしいところだ。
 強い者と弱い者が戦ったら、強い者が勝つに決まっている。だから、強い者と弱い者が戦わなくてはいけないときは、必ずハンデキャップをつける。それでフェアプレーになる。そんなところも日本人はわかっていない。強い者が善だからだ。そうした競争社会を我々日本人は無闇に礼賛している。あるいは是認している。こんな社会は地獄だと私は言いたいのだ。
 強い者は、弱い者よりも大きな義務を負わなければいけない。勝負に勝った人間は、負けた人間以上に慎ましやかにしなければいけない。逆に、負けた人間は別にのほほんとしていていい。それが競争原理の根本にあるべき思想だ。ヨーロッパではこれを、「ノブレス・オブリージュ」という。日本語に訳せば「高貴なる者の義務」となる。社会においても金持ちやステータスの高い人間の義務は庶民よりも大きいという意味だ。政治家も権力を握っているのだから、ステータスの高い人間だ。だから義務も大きい。そこをわかっていない。(P64~65)

勝者や強者には、それにともなう義務がある、と著者は言う。

確かに、日本には「勝てば官軍」と、勝負に勝てば何をやってもいいという考え方がある。

過去、「儲けるが勝ち」「カネで何でも買える」と言った経営者もいた。

これは決して成熟した社会ではない。

社会に競争は大事だが、それと同時に、勝者として当然負うべき義務についても考える必要がある。

これからの時代、企業間や個人間の競争は益々激しくなることだろう。

しかし、健全な競争原理の働く社会であるとともに、強者や勝者としての義務をきちんと負う社会も目指さなければ、日本に未来はない。

2010年12月16日 (木)

そうか、君は課長になったのか。/佐々木常夫

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 人事評価では、その人を「A」と評価するか「B」と評価するかなどということよりも大事なことがあります。それは、君がひとりの人間として、部下の仕事を認めてあげることです。
 人は仕事を通して何に生きがいを見出すかというと、もちろん報酬ではありません。報酬よりも、納得のいく仕事であり、自分が成長していくことが実感できる仕事であり、仕事の結果としを正しく認めてもらうことです。そして、一般社員に対して、これらを与えることができるのは課長にほかならないのです。(P107)

通常、課長の役割の一つとして部下の人事評価がある。

この人事評価をどう捉えるかは重要だ。

多くの場合、人事評価とは、その人の給料や賞与の額を決めるために行うという受け止め方が多い。

しかし、もし、人事評価の目的がそのようなことのためだけにあるとしたら、虚しい。

そもそも、給料の額がアップしたからといって、本当に人はやる気になるのか。

そりゃあ、給料は少ないより多い方がよいに決まっている。

しかし、それで本当にやる気ができかということになると、それは別の話だ。

人がやる気になるのは、自分の仕事が面白かったり、自分のやった仕事で人が喜んでくれるのを見たり、あるいは自分の仕事が認めてもらえたりすることであり、給料はあまり関係ない。

とするならば、人事評価も、そのような人を認めたり、仕事の目的や意味を再認識させたりするために活用すべきだ。

人事評価は何のためにやるのか?

この点を評価にたずさわる人は、真剣に考えるべきだ。

2010年12月15日 (水)

ニート/玄田有史、曲沼美恵

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 どんな理由であれ、自分が本当にやりたいと思うことが見つからず、苦しんでいることだけは、ニートの多くに共通している。でも、そもそも、やりたいことがない、っていうのは、本当にそんなにダメなことなんだろうか。
 私は、そうは思わない。やりたいことなんてなくてもいい、むしろないほうがいいとすら思っている。あんまり今の自分のやりたいことに凝り固まってしまうと、自分もまだ知らない、本当の自分のやりたいことを、見逃してしまう。
 人生が終わろうとするとき、「ああ、これが自分の本当にやりたかったことだったのか」と気づくことは、今の自分が求めているものとは、きっと違う。自分のやりたいこと、実現したい自己なんて、本当は誰にもわからない。
 やりたいこと、特にやりたい仕事があるのは、幸せなことかもしれないけど、やりたいことがないからといって、それは決して不幸なことではないのだ。
 ニートの背中を後押しする仕事を続けている工藤啓さんは、世の中には3万種類もの職業があるのに、そこから一つだけ本当にやりたい仕事をみつけるなんて、3万分の1の確立だ、難しいのは当たり前という。だから「一番やりたいこと」よりも「やってもいいこと」「関心のあること」「好きなこと」くらいから、少しずつ広げていけばいい。やりたいこととは反対に「どうしてもやりたくないこと」を3万から減らしていっても、やりたいことに出会う確立は、高くなる。やりたいことがなくても、やりたくないことなら、いくらでもみつけられる。
 大人は、やりたいことをみつけなさい、自己実現をめざして頑張りなさいと、言い過ぎだ。でも本当は、ほとんどの人がやっている仕事は、自分のめざすものを実現しようとしてやっているわけじゃない。仕事を通じて夢を実現する大人は、いつの時代も、ごく一握りの人間だ。
 それに無理にやりたいことなんてみつけようとしなくても、チャンスはやってくる。ある日、突然やってくる。そしてチャンスの訪れる確率は、仕事をしていない場合よりも、仕事をしている場合のほうが高い。働かないよりは、できれば働いていたほうがいい理由は、ただそれだけだ。
やりたいことを実現するために、仕事をするんじゃない。今の自分も知らない、自分のやるべき「本当」に出会えるかもしれないから働く。そのために一歩だけ、踏み出すことだ。(P259~260)

やりたいことが見つからない、だから働かない、

多くのニートに共通して言えることだという。

しかし、やりたいことが見つからないというのは、ニートだけではない、

今、実際に働いている人の大部分もそうなのではないだろうか。

しかし、「だからダメなんだ」といってしまってはいけない。

むしろ、やりたいことが見つかる、というのはラッキーなことなんだと考えるべきだ。

そもそも、そう簡単にやりたい仕事が見つかるわけではない。

いろんな仕事を経験してみて、死ぬ前に「自分が本当にやりたかったことはこれだったんだ」と思えればそれでいいのかもしれない。

あまりにも仕事に自分の夢や自己実現を求めすぎているような気がする。

大事なことは、まず一歩を踏み出すこと。

そうすれば、ある日、突然、やりたいことに出会えるかもしれない。

2010年12月14日 (火)

プロフェッショナル原論/波頭亮

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 プロフェッショナルは顧客との関係のあり方が、不特定多数の相手を顧客として仕事をしている通常のビジネスとは大きく異なっている。プロフェッショナルと顧客との関係は一言で言うと、対等の関係である。お客様はプロフェッショナルにとって神様ではないし、さりとてプロフェッショナルは自分が“先生”として顧客を下に見ているわけでもない。プロフェッショナルと顧客は対等の関係として共同で問題解決に挑むパートナーとしての立場で仕事が行われるのである。
 プロフェッショナルの仕事は顧客が抱える重大な問題を自分の知識と技術を提供して解決することであり、両者の歩調が合ってはじめて成功するものである。医者が一人相撲でがんばっても患者本人に病気を治したいという意欲がなければ治癒しないし、弁護士がいかに緻密な論理を組み立てようとも依頼人が隠し事をしていると勝訴はおぼつかない。プロフェッショナルと顧客の間には強い信頼関係と共同意識が不可欠で、そのためにはどちらが上でも下でもない対等の関係が最も合理的なのである。(P78)

私の仕事は人事コンサルタント、プロフェッショナル職の一種である。

仕事を進める上で、重要な点として顧客との関係がある。

顧客との関係で一番重要なのは“対等関係”であるということ。

これは仕事を進める上で、どうしても押えて置かねばならないポイントである。

つまりどちらが上でも下でもなく対等な立場で問題の解決に当たるということ。

問題を解決する上で、どちらかが相手に丸投げという姿勢では、決して問題は解決しない。

人事コンサルとは、会社の問題や課題を人事という切り口から解決することだ。

この場合、コンサルタントの役割は自らが問題を解決するのでなく、クライアントが問題を解決する支援である。

クライアントの側に問題を解決しようという姿勢がなければコンサルは失敗に終わる。

だからこそ、コンサルタントと顧客との関係は、どちらが上でも下でもなく、“対等”でなければならないのである。

2010年12月13日 (月)

史上最強の人生戦略マニュアル/フィリップ・マグロー

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 出来事をどう見るかで、あなたにとってのその出来事の意味が決まる。
 大事なのは、こと認識に関する限り、望めば今とは「違う選択」をする能力が、あなたにはあるということだ。あなたは、物事をどう受け止めるか選ぶことができる。
 この事実を想像できるかぎりでもっとも過酷なかたちで試すような出来事が、オーストリア人の精神科医、ヴィクトール・フランクル博士の人生に起きた。彼は第二次世界大戦中、ナチに逮捕され、アウシュヴィッツの強制収容所に入れられていた。
 ナチの親衛隊(SS)は、彼の妻と両親を殺し、今度は考えられるあらゆる侮辱を彼に加え、彼の命をその手に握っていた。後に収容所での体験について綴ったものの中で、フランクル博士は、看守の異常なまでの統制ぶりについて述べている。彼や仲間の捕虜たちは毎日、いつ座り、いつ立ち、いつ働き、いつ食べ、いつ寝るか命令された。生きるか死ぬかについても命令された。
 強く心をとらえる感動的な著書「夜と霧」の中で、フランクル博士は、こうしたいつ果てるともない悲惨な状況に直面し、SSの看守にも統制できないきわめて重要な面が自分にあることを発見したと書いている。看守たちは、彼が苦しみに対してとる態度を統制することはできなかった。看守たちは、彼が自分に対する扱いをどう解釈し、どんな反応を示すかといったことを、強制することはできなかった。
 捕虜生活のある瞬間に、フランクル博士は人生の決断を行った。なんの意味もないことのために、こうしたひどい目に遭わされているとすれば、自分は気が狂うだろう、と彼は考えた。そこで「自分がこの人生に持たせる意味や適切な認識を通してのみ、私たちはこの人生について知り、経験する」という原理に従って生きる決心をした。(P227~228)

過去に起こった出来事を私たちは変えることはできない、

しかし、過去に起こった出来事に対する認識とその意味は、自分の力でどうにでも変えることができる。

そしてこのことは、アウシュヴィッツという極限状態においても当てはまる。

それを考えると、人生に起こっていることすべては、自分の責任、

そして、自分の意思によって人生はどうにでも変えることができる、という言葉も真実味を帯びてくる。

人生において、自分でコントロールできる部分とできない部分がある。

まずはこれらをはっきりと区別することだ。

そして、コントロールできる部分については、しっかりと自分でコントロールし、

コントロールできない部分については悩まないことだ。

これによって、この後の人生は確実に変わっていくことだろう。

2010年12月12日 (日)

あ~ぁ、楽天イーグルス/野村克也

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 結果はプロセス、すなわち過程によってもたらされるということを忘れてはならない。よい結果は、よいプロセスを経てはじめて生まれると私は信じている。きちんとしたプロセスを踏んでいない結果というものは、かりにそれがよいものだったとしても偶然の産物。続くことはありえない。
 ほんとうに身についたものではないからである。
 その意味で、プロフェッショナルの「プロ」とは「プロセス」のプロでもあると私は考える。「失敗と書いてせいちょう(成長)と読む」と私はしばしば口にする。選手は失敗することではじめて、自分の力不足やいたらなさに気づき、次に何が悪かったのか、どうすれば成功するのか考える。そうして努力を重ね、試行錯誤しながら成功に近づいていく。まさしくその過程で選手は成長するのである。そのプロセスを経てこそ、真の実力を獲得できるのだ。そして、それができる人間をプロと呼ぶ。(P147)

プロセスがよければ必ず結果がでる、

結果がでないのはプロセスが悪いから。

野村元監督の言葉には、この考えが根底にある。

プロセスが大事だといえば、多くの人はその通りだと言うだろう。

否定する人はまずいないだろう。

問題は、それを徹底できるかどうかだと思う。

とかく、なかなか結果がでないと、プロセスを無視して結果だけを追い求めてしまうところがある。

そんな時であっても、結果が出るまで、ただひたすらプロセスを踏むことをやる続ける。

あるいは、結果がでない場合は、プロセスそのものに原因を求め、プロセスの改善していく。

これを愚直に続けることにより人間は成長するものだ。

そしてトップがその考えをブレずに持ち続ければ、その下の者は必ず成長するであろう。

2010年12月11日 (土)

ユニクロ型デフレと国家破産/浜矩子

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 戦後復興期の日本や今の中国のように、無から発展していこうとする段階の経済ならば、目標ははっきりしているし、方法も一つしかない、だが、成熟経済の段階に入り、21世紀を生きる我々は、「その時代は終わった」と強く自覚しなければ、先に進めないだろう。
 では、日本がどういう方向へ向かえばいいかと考えると、答えは案外、簡単に出てくる。集権的管理が役割を終えたのだから、思い切ってその反対へ行く。つまり、“集権的管理モデル”から、“競争的分権モデル”へ移行するのだ。
 グローバル化時代を経験してみるまでは、グローバル化とは、世界が大きくなることを意味し、みなが同じスタンダード(グローバル・スタンダード)につき従うことだと考えられてきた。しかしこれは間違いで、グローバル化とは、“巨大化”ではなく、むしろ“微小化”に通じ、グローバル時代とは、ローカルスタンダード、さらに言えば、マイ・スタンダードの時代なのだ。(P210~211)

今、日本は、いや世界はグローバル化時代へと突き進んでいるというのは確かなことだ。

しかし、そのグローバル化という言葉の持つ意味は、もっと深く考える必要がある。

一般にグローバル化というと、“巨大化”と捉えがちだ。

世界標準のモデルがあり、すべての国や企業がそれに合わせようと同じ方向に向かっていく、これがグローバル化だと。

しかし、この方向に向かっていくと、おそらく規模の経済が働く、

つまり大きくて強いものが勝つという世界だ。

企業であれば、規模を大きくすることにより、商品の単価を限界まで下げていく。

そのチキンレースに勝った一握りの企業が勝者、あとは敗者という構図になっていく。

でも、誰がそんな世界を望んでいるのだろうか。

誰も望んでいないにもかかわらず、世界はその方向に向かっていっているような気がする。

しかし、グローバル化を“微小化”“多様化”“個性化”と捉えればどうだろう。

小が大に勝つことも可能だ。

この細くて狭い道に、少しでも多くの企業や個人が参加し、道を切り開いていく。

これこそがもう一つのグローバル化への道だと思う。

2010年12月10日 (金)

会社という砂漠がオアシスに変わる100滴/杉山弘道

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私は仕事柄、多くの社長とかかわっているが、そのほとんどがサラリーマンになれなかった、または、それを続けることができなかった人ばかりだ。自分の意志で社長になったと思っている人も多いようだが、社会から、会社組織からドロップ・アウトしただけだ。組織の一員としては、使いものにならなかった。
ただし、「仕事ができない人」という意味でもない。
むしろ学生時代の成績やサラリーマン時代の営業成績は、よかったことだろう。
そんなことよりも社長は、身ぐるみ担保だということだ。
会社がコケたら自分の資産はすべて失うし、家族も路頭に迷う。
それが、世の中にたくさんあふれている社長の本当の姿だ。(P144~145)

多くの社長とかかわっているといった点では、私も同じだが、その実感としているところも、著者とほぼ共通している。

特に中小企業の社長と接していると、「この社長、サラリーマンにはなれないだろうな」と思うことが多くある。

ある意味、わがままで、何でも自分の思い通りにやりたがる、

非常に我が強く、人のいうことを聞かない、

やたらに夢のようなことを語りたがる、

まるで、ガキ大将がそのまま大人になってしまったようなところがある。

確かに、こんな人はサラリーマンとしてはやっていけないだろう。

しかし、だからそこ、この社長という人種と接していると、飽きないし面白いというのも確かだ。

2010年12月 9日 (木)

ご機嫌力で仕事がもっとうまくいく/村上力

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 1987年に、トヨタはGMと合併会社を作った。一緒になってみてわかったのは、GMの社員は問題を見つけたとき青くなったが、トヨタの社員は問題を見つけて喜び、元気になったことだった。あまりに文化の違いに両方の社員が驚いたという。
 トヨタの社員が問題を見つけて喜ぶのは、それが改善につながるからである。逆に彼らは問題がみつからないと心配になるのだ。
 GMの社員は、問題が発生したとき「ヤバイ」「どうしよう」、「誰かが見つけるまで、しらないフリをしよう」と青ざめる。
 たとえ上長に自分が報告をしなければならないとしても、「あまりたいしたことではないのですが・・・・・」というように、オブラートに包んで報告します。「たぶん、誰々の責任で・・・・・」というように、前置詞をつけて。
 一方、トヨタの社員はというと、問題を発見するとまずうれしい気持ちになります。問題を発見したら喜ぶようにと言われて育っているのです。
 そして、その問題の原因はどこにあるのかを喜んで自分で突き止めようとします。
「こういう問題が起こりました。その原因はおそらくここにあります」というように、みんなの前で鬼の首をとったように発表するのです。
 つまりご機嫌なんです。
 さらに、みんなでその問題をやっつけるために、どうやったら二度とその問題が起こらないかを、ワクワクしながら改善していくのです。
 簡単に言ってしまえば、この、問題が発生したときに青ざめるか、それとも喜ぶかの差が、二兆円の利益を出す会社か、大赤字を出し続ける会社かの差です。その組織の人間性の差が、優良企業か否かの違いになります。(91~92)

問題が発生したときの、受け止め方の差、これがその後の成長に大きな違いをもたらす。

トヨタといえば「改善」ということばが代名詞となっている。

それほど改善が組織文化になってしまっているのがトヨタであり、それが強さとなっている。

そして、その前提は「問題」対する受け止め方だ。

「問題」をどう見るのか?

「問題は解決することのできるもの」という考え方が根底にあれば、問題を隠したりすることはなくなるであろう。

また問題を見つけ、解決する度に、組織も個人も強くなっていく。

まず、日常生活の中で、問題を解決することを習慣化することだと思う。

2010年12月 8日 (水)

自分を知れば、経営が変わる!/朝妻秀子

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 私たちは幼い頃に、自分の人生はだいたいこんなものだろうという脚本を書いてしまうのだそうです。
 そして気づかないうちに、その脚本にしたがって人生を進行させてしまっているそうです。
 ハッピーエンドで終わる脚本を書いていれば問題ないでしょう。でも、もし悲劇的な結末の脚本だったらどうでしょう。
 私たちが書く脚本には、大きく分けて3つの種類があると言われています。
(1)勝利者の脚本
 人生のゴールを自分で決めることができ、そこに向かって生きていくことができる人が書いている脚本です。
(2)非勝利者の脚本
 決められた線路の上を無難にいきていこうとする人が書いている脚本です。
(3)敗北者の脚本
 前にあげた禁止令に縛られてしまっていて、自分はきっと不幸になると考える人が書いている脚本です。
 自分がどの脚本を書いているかは、何か失敗をしてしまった時にどう考えるかによってわかります。
 3人が同様の失敗をしてしまっても、
(1)の勝利者の脚本の人は、「失敗してしまった!何がいけなかったんだろう?次はきっとうまくやるぞ」と思います。
(2)の非勝利者の脚本の人は、「専門家に聞いてもうまくいかなかったんだからしょうがない」とか「みんなと同じようにやったのに、失敗してしまったのだからしょうがない」と思います。
(2)の敗北者の脚本の人は、「やっぱり今回のダメだった。自分はいつもダメだ。これからも成功することはないだろう」と思います。(P51~53)

成功者の話を聞いたり読んだりすると、「成功するまであきらめなかった」とか、

「成功するまで続けることが成功の秘訣」という内容の言葉が多い。

ではどうして成功するまで続けることができるのか。

恐らくそれは、自分の心の内に、「勝利者の脚本」が書いてあり、それに無意識に従ったからではないかと推測する。

そして成功者は「誰でも自分と同じように成功するまであきらめなければ成功者になれる」という内容のことをよく言う。

しかし、成功するまであきらめないためには、その前提として、自分は必ず成功すると信じていることが必要である。

成功者は、それを容易に信じることができるのだが、いつも失敗してしまう人は、「必ず自分は成功する」と信じられないのである。

問題は、自分でも気づかない内に、人生の脚本を書いてしまっていることであり、自分でもそれに気づいていないことである。

これらのことを考えてみると、自分はどのような人生の脚本を書いてしまっているのかを探ることが重要な作業のように考えられる。

もちろんそれは、心理学的なアプローチなのだろうが、時間とチャンスがあればやってみる価値がありそうだ。

2010年12月 7日 (火)

創造力をみがくヒント/伊藤進

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「文章を書くという作業は、無から有を創造することである」
 最近出た文章の書き方についての本を読んでいたら、こんなセンテンスに出っくわしました。
「ええっ? この著者、いったい何を考えているんだろう?」
 思わずひとりごとを言ってしまった私。
「無から有を生み出す」。文章を書くことばかりでなく、一般に創造性のことが話題になるときには、以前、よく出てきた言い方です。
 これは、一つの言葉のあやとして言っているんだと思いますが、こういう言い方は誤解を招きやすいというか、物事の本質を曇らせて見えにくくしてしまう言い方ですので、このさい、きれいさっぱりさよならすることにします。
 何も無いところから何かが生み出されるなんて、そんなばかなことは、現実にはぜったいありえません。これは、例えば料理などを考えればハッキリします。いくらおいしいものを作ろうとしても、材料や道具がなかったら、ぜったい、何にも作れない。アイデアなどもそうです。頭の中にもとになる知識があって初めてアイデアが生まれて来る。作るものが料理であれ、アイデアであれ、文章であれ、そのほか何であったとしてもです。
 ここで、創造性の定義をちょっと思い出してみると、創造性とは、新たな問題にぶつかったとき、自分なりに対処する力ということでした。問題を解決する方法を考え出したり、そのための具体的な行動を生み出す力と言ってもいい。
 しかし、創造性というのはそういった力ですよと言うだけだと、その力って、なんだかすがた形のないパワーといったイメージです。無から有の「無」ではないにしても、「無形」といった感じです。
 でも、創造性という力は、決して無形の力なんかではなく、ちゃんと実体のある力なのです。(P84~85)

「無から有を生み出す」ことを創造性だと考えている人は多くいる。

また、そのような先入観がある故に、それを天性のものだと考え、多くの人は「自分には創造性はない」と初めからあきらめてしまう。

しかし、実際に創造性を発揮している人を調査してみると、決して無から有を生み出してはいないことがはっきりとわかるという。

つまり創造性とはちゃんと実体のあるものなのである。

実体のあるものである限り、人は努力によってその創造性を手に入れることができる。

そして著者が言うには、創造性は、M(motivation・情熱)、R(resource・資源)、S(skill・スキル)が互いに影響しながら作用しているダイナミックな力だという。

情熱も資源もスキルも、結局は努力によって得ることができる。

こう考えると、創造性も努力のたまものだと言える。

少なくとも努力してみる価値はあるということである。

2010年12月 6日 (月)

宮大工の人育て/菊池恭二

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 大事になるのは、「木の癖」を読み、上手に組み合わせて使うことです。これをうまくやらないと、年輪に見合うだけの長命を御用材に吹き込むことができません。
 木というのは、山の南側、北側、谷、峰など育つ場所によって、同じ種類の木でも成長や材質に違いがでてきます。生育環境の違いによって、右にねじれたり左にねじれたり、節が多かったり少なかったり柔らかかったり、硬かったりと、それぞれに異なった特性を持つようになります。山の木は一本一本みな違います。これを「木癖」と言います。
 宮大工の大切な仕事の一つに、その癖を見極め、建物のどの部分にどう使うか決めていくことがあります。温度や湿度の変化よって木は曲がったり割れたりします。木は「暴れる」のです。
 木癖を無視して、たとえば、右にねじれる木ばかりを組み合わせたりすれば、建物は右にねじれてしまいます。これを防ぐには右にねじれる木と左にねじれる木をうまく具合に組み合わせて、ねじれの力を相殺してやる必要があります。
 木癖を読み切り、適材を適所にあてがうことで、建物の歪みを防ぐとともに、長年用の風雪に耐え得る堅牢な社寺建築を実現するわけです。それが宮大工の「技」です。
 これは「人」を育て、使うことにも通じます。木がそうであるように、人もまた一人として同じ者はおりません。(P4~5)

宮大工の仕事とは、木の癖を見極め、それを使って社寺を建てること。

それはそのまま、人を育てることにも通じる。

人は一人として同じ人間はいない。

問題は、そのような人を、ちょうど宮大工が癖のある木を組み合わせて社寺を建築するように、組み合わせて組織を形成し、人を活かしつつ、組織を目的を達成することである。

人にはそれぞれ癖がある、しかし癖のある木を組み合わせることによって、強い社寺が建築できるように、癖のある人を組み合わせることによって、強い組織を作ることができる。

人の癖を積極的に活用するような組織作りが必要だ。

2010年12月 5日 (日)

キリスト教文化の常識/石黒マリーローズ

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 欧米、中東の政治家たちは、自分たちの心のふるさとである宗教のことを口にするのをためらいません。日本の人の感覚だと、公の席で神だの仏だのといいだすと、ちょっとおかしいと思われるかもしれません。実際、日本の政治家で仏教の教典を引用したり、仏さまの名を口にしたりする人は、私が聞いた限りではあまりいないようです。
 でも、多くの人の命と生活を預かる偽政者たちが、その責任の重さに畏れを感じて神の名を口にする、もしそのことが政治家としての謙虚さと職務への使命感につながるのならば、それは素晴らしいことではないでしょうか。そういう気持ちのまったくない人がいたら、私はそういう人に政治を委ねたくないと思います。もちろん、政治家が神を畏れ、行動の規範として信仰を持つことと、それを他人に強制することはまったく別のことです。でも、個人として神を信じ敬う気持ちをもっていることを欧米の政治家は隠しませんし、またそういう人柄の方が人々の信頼を勝ち得ることが多いようです。(P111)

一国のリーダーである政治家が、自ら信じる神の名を口にする、

多くの欧米の政治家は、そのことを何のためらいもなく行う。

それは政治家としての謙虚さと職務への使命感の表れであると言う。

私もその点は共感できる。

やはり、それだけ国の政治を司るということは、重いものである。

ある意味、神への畏れがなければ、できるものではない。

その意味では、日本の政治家は、まず根本問題として、神への畏れがない。

自らの野心や名声のために政治家になっているのではないかと思える人が多くいる。

本当にこの人に、この国の将来を託せるのかと思えるような人があまりにも多い。

確かに、日本の政治家で、自らの信じる神の名を公の場で口にすることはない。

しかし、ある人が「日本の常識は、世界の非常識」と言ったように、この点がむしろ日本の弱い部分ではないだろうか。

あらゆる分野でグローバル化が叫ばれている昨今、

そのためには、その人は何を核にして考え行動しているのか、という根本問題が重要になって来るように思える。

2010年12月 4日 (土)

バリューアップ経営/七ツ矢和典

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 会社とはいったい何か。辞書をひもといて「カンパニー(Company)の意味を調べると「一緒にパンを食べる人」とある。comが「一緒」でpanyが「パン」。だから「一緒にパンを食べる人」というのがカンパニーの語源なのだ。つまり、人が集まってきて小麦粉や砂糖、ふくらし粉を購入し、さらにはオーブンをレンタルか何かで調達してきてパンを焼く。そして、焼き上がったパンをみんなで分かち合って生きていくのが企業というわけだ。これからもわかるように、企業(カンパニー)とは、人が集まって新しい価値を創造し、分配していく場を意味する。(P18)

カンパニーの語源が「一緒にパンを食べる人」というのは初めて知った。

しかし、そう考えてみると、「人が集まって新しい価値を創造し、分配していく場」という意味がしっくりとくる。

また、これが会社の原点なのだと納得できる。

では果たして、多くの会社は、果たして、「人が集まって新しい価値を創造し、分配していく場」となっているのだろうか?

確かに人が集まってはいるだろう。

しかし、パンを焼いて分配するように、新しい価値を創造しているのだろうか?

また、ただ「儲ければ良い」というのは会社とは言えないということも明らかだ。

迷ったときには、いつも、Company「一緒にパンを食べる人」、この原点に立ち返るべきだろう。

2010年12月 3日 (金)

姜尚中の政治学/姜尚中

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 もし、イラク戦争を、冷戦終結以降の湾岸戦争の顛末から見直し、さらにはベトナム戦争と比べることができれば、もっとも新しい戦争の動機とその経過、そして結末が予想できたはずです。歴史の時間を、今という一点だけに凍結させて判断すれば、第六感は単なる直感的な思い込みにすぎなくなります。しかし、歴史の時間の幅を広くし、そして過去との「類比」を行う「思考実験」を試みてみれば、眼前のシーン(この場合はイラク戦争の新しい局面)は、違った意味を帯びてくるのです。
 このような「思考実験」が可能となるためには、いわば「生もの」だけを扱うメディア的な情報だけでは限界があります。喩えは悪いかもしれませんが、「干物」の知識が必要なのです。「干物」であるから、確かに鮮度は落ちているし、メディア的にはほとんど価値はありません。しかも、それは、視覚偏重の世界とは別物です。
 だが、迂遠はあっても、そのような「干物」の知がなければ、じつは「生もの」情報のうち、どれが危険でどれがそうでないのか、その識別は不可能になってしまいます。しかも、「生もの」に当たれば、普通は食中毒を起こし、苦しみが全身に回るのに、アクチュアルな出来事の世界では、当たっていてもその感覚がなく、むしろ快適な場合だってありえるのです。(P167~168)

知識には「生もの」と「干物」の知識がある。

即効性という意味では、「生もの」に分がある。

「生もの」の中でも、もっとも影響のあるのがメディアの情報である。

しかし、現代はあまりにもメディアの情報に偏りすぎてしまっているのではないだろうか。

そして「生もの」だけで判断しようとしている。

そうすると、場合によっては「生もの」に当たってしまうことも有り得る。

歴史という「干物」を通して、目の前に起こっている現実を見る。

情報という「生もの」が氾濫している現代だからこそ、「干物」をしっかりと味わうことが必要になってきている。

2010年12月 2日 (木)

だまされ上手が生き残る/石川幹人

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 人間の優れたウソつき戦術のひとつは、自分だまし(自己欺瞞)です。私たちは、無意識のうちに自分を欺いていることが、心理学者によく知られています。たとえば、7割ほどの人が「自分の能力は平均以上だ」と考えています。おかしいですよね!
 自分のウソに自分がだまされて信じ込んでいれば、それを主張するときの説得力が増します。他人をだましているわけではありませんので、偽装あばきもできません。どうしてそんなありもしないことを信じているのだと、同情(ときには糾弾)されるだけです。
 ところが、こうした「だまされやすさ」は、偽装のためだけではなく、人間が生きる上でも重要な機能を持つようです。
 精神疾患というと、精神的機能が低下するものと通常思われますが、うつ病の人は、そうではない人にくらべて、自分の評価が適切にできる傾向があります。たとえば、「自分の能力は平均以下だ」などと、ちゃんと自分の評価ができるのです。
 また、健常者は一般に、偶然のことであっても、それに自分の支配力がおよんでいるとの確信(妄想とも言えますが)をいだきやすいのですが、うつ病の人は、その度合いが低い傾向があります。結果的になにか良い出来事が自分にもたらされたときでも、それを自分の力でやったことではない、ただの偶然であると正しく判断できるということです。
 うつ病の人は、こうした現実的な判断力をもつがゆえに、自己防衛の仕組みを発動できなくなっている可能性があります。もしくは、それが原因でうつ病になったのでは、とも考えられています。(P231~233)

「だまされやすさ」は人間が生きる上でも重要な機能だと著者は言う。

確かによくよく考えてみると、自分を客観的に見れないが故に、生きていけたという部分が多いということに気づかされる。

一般的に優れた人とは、自分を客観視する能力にたけていると考えがちだが、この本を読んでみて、むしろ、自分をうまくだます、思い込む力が強い人なのではないかと考えさせられた。

考えてみれば、夢とかビジョンと言っても、微にいり、細にいり検証されたものではない。

むしろ、その夢やビジョンに、好んでだまされるという行為がなければ、それに突き進んでいくことはできない。

つまり、ある面、だまされやすさとは、生きる力なのだと言える。

2010年12月 1日 (水)

非モテ!/三浦展

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 高名なジャーナリスト大宅壮一も「男の顔は履歴書である。男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言ったそうだ。男は、それまでの人生の中でとんな経験をしてきたか、どんな責任ある仕事をしてきたかが顔に表れるという意味であろう。「じゃあ、女はどうなのか」と聞かれて大宅は「女の顔は請求書である」というオチをつけたという説もあるが真偽のほどは定かではない。
 それはともかく、大宅の言葉には暗に、男の魅力は顔の美醜ではなく、仕事を通じて形成されてきた人間的魅力であるという意味が含まれている。(P35~36)

大宅壮一がこのことばを語ったとされる時代は昭和40年代、高度成長期である。

その時代は、誰もが一つの仕事を続けていけば、人間的魅力を身につけ、それが顔にも表れるようになると、多くの人が信じていた時代だとも言える。

では、現代はどうであろうか。

一生を一つの会社で過ごすサラリーマンは、年々減少傾向にある。

一つの仕事をやり続けること自体が非常に困難になってきている。

専門知識を身につけたといしても、その陳腐化のスピードは非常に速くなってきている。

それどころか、今や全体の3割は非正規社員である。

非正規社員の場合、一部の専門職を除き、熟練を必要としないような仕事を与えられることが多い。

そのような仕事を続けたからといって、人間的魅力が身につくのだろうか?

どうもそんなことを考えると、「男の顔は履歴書である。男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」という言葉そのものが、何か現実離れした、古き良き時代の言葉のように思えて来る。

一人一人が、「自分にとって働くとは何なのか?」ということを自らに問い、自分なりの答えを持つべき時期にきているような気がする。

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