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2011年1月の31件の記事

2011年1月31日 (月)

日本人の階層意識/数土直紀

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 2005年から2006年にかけておこなわれ、人々の価値観を国際比較した世界価値観調査の、各国に共通する質問として、“家庭で子につけさせる性質で大切だと思うもの”があった。実は、この質問に対して“勤勉さ”を選択した回答者の割合は、他国と比較すると、日本で際だって低かったことがわかっている。この結果から、日本人は他国と比較してとりわけ努力を重視するような価値観をもっているとはとうてい主張しがたい。
 日本人が実績に基づいて地位や財を配分することよりも、努力にもとづいて地位や財を配分することを望む理由として、日本人が“努力する”ことに高い価値をおいているからだと考えることは必ずしも適当ではない。むしろ、日本社会には人々に努力を強いる組織・システムが存在し、そういった組織・システムの中で努力を強いられているために人々は努力による配分をのぞむようになるのだと考える方がより適当である。いわばそれは、日本的な組織・システムに適応する課程を通じて形成された価値意識だったのである。(P214)

2005年SSM調査によると、“私たちの社会において、いったいどのような人であれば、高い社会的地位や経済的な豊かさを与えられてしかるべきか”という質問に対して、

一番多かった回答は“人よりも努力した人が地位や財産を優先的に配分されることが望ましい”というものだった。

この回答結果から、「日本人は“努力すること”に高い価値をおいている」と考えがちだが、上記の別の調査結果からは、必ずしもそれは当たっていないという結果が導き出されるという。

結論から言えば、日本では“結果がでなくとも、努力すれば報いられる”という組織・システムが存在し、それに適応しようとした結果、“努力すること”を重視する価値が形成されていったということ。

つまり、日本人の“努力重視の価値観”は、日本人が元々もっていたものではなく、日本の組織・システムによって後から形成されたものだということである。

確かに、日本的なシステムの象徴である、年功序列・終身雇用というシステムでは、とにかくまじめにコツコツと働いていれば、昇給・昇格し、報いられた。

このシステムで長い間、働いていたサラリーマンには、当然、“努力すること”を重視する価値観が形成されたことであろう。

逆に言えば、組織・システムが変われば、その中で働く人の価値観も変わっていくということである。

今、日本では、終身雇用・年功序列という組織・システムを捨て、新しいシステムを導入する企業が増えてきている。

おそらく、それによって新たな価値基準が生まれてくるであろう。

それが、良い方に働くのか、悪い方に働くのか、今後の動向に注視していく必要がある。

2011年1月30日 (日)

「ハッタリ」力/小林昌平・他

A9rec70  ベトナム戦争のさなか、ジャングルで頭のすぐ上を弾丸がかすめ、九死に一生を得たとき、開高はじっと地を這うアリが葉っぱのかけらを運ぶのを見ていた。「戦場のファーブル昆虫記」とも言うべきだが、どんな地獄も、引いて見られるだけの余裕が人間には備わっている。その場を支配する空気とは別のところに楽しみを見いだせる。しんどい時は切り替えこそがすべてなのだ。(P77)

開高健は、九死に一生を得たとき、じっと地を這うアリが葉っぱのかけらを運ぶのを見ていたという。

つまり、生か死かという場面で、視点を切り替える術を心得ていた。

それによって、危機を乗り越え、また、それをバネにして更に大きな仕事をすることができるようになった。

私たちが生きていく中で、順風の時もあれば、逆風の時もある。

問題は、逆風の時、窮地に追い込まれた時に、どのようにそれを乗り越えることができるかである。

いろんな方法があると思うが、その中の一つは、その場で支配する空気とは別のところに楽しみを見いだし、「切り替える」ということである。

つまり、その場の空気に支配されずに、一歩引いて、自分とその場を客観視するということができるかどうかということ。

場の空気に支配されやすい日本人だが、

だからこそ、それができるかどうかで、後の人生が違ってくるのではないだろうか。

2011年1月29日 (土)

「才能」の伸ばし方/折山淑美

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 「一番大切なのは、指導者がビジョンを持っているかどうかだと思うんです。どのくらいまで才能があるのか、泳ぎをどう変えていったらいいのか・・・・いろんなことを含めて僕らがビジョンをもっていないと、選手を不安にさせてしまう。現状を把握する目と先を見る目を同時に持たなければダメなんです。選手というのは、どうしても目先の大会など、いまのことにいちばん興味があるわけです。コーチはその気持ちを理解しつつも、来年どうするかを考えないといけない。僕自身を振り返っても、そういう意識は康介を担当するまでは少なかったと思います。」(P16)

アテネ、北京五輪でメダルを取った北島康介、中村礼子のコーチ、平井伯昌、

指導者にとって一番大切なのは、ビジョンを持っているかどうかだと言う。

これはスポーツに限らず、すべての分野の指導者に共通することではないだろうか。

しかし、このビジョンを示すという点が、日本の指導者に最も欠落している部分でもある。

私の関与している中でも、指導者である社長が社員に対して明確なビジョンを語っている中小企業はごく一部である。

そうすると、今の時代、その元で働く社員は、日々不安を抱えながら働くことになる。

先が見えないので、働きがいも感じないという悪循環に陥ってしまう。

先の見えない今の時代だからこそ、ビジョンが必要だ。

そして、日本の指導者に最も欠けているのが実は、このビジョン構築能力である。

日本のリーダの場合、たまたま、なんとなくリーダーになったという人が多い。

それによって優れたリーダーに成長していく人もいるのだが、一方で、しっかりとリーダーを養成する試みも必要なのではないかと思う。

日本の教育は、できるだけ脱落者を出さず、平均値を上げるといったものである。

これはこれでよい点もあるのだが、欧米のようなエリートやリーダー養成の教育は少ない。

これはあえて差をつけるという教育であり、日本人の国民性ではなかなか受け入れがたいやり方だからだろう。

教育をすれば優れたリーダーを養成できるとは限らないのだが、

これからの日本、国や企業を引っ張っていくリーダーの養成に真剣に取り組む時期に来ているのではないだろうか。

2011年1月28日 (金)

歴史の使い方/堺屋太一

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 戦国時代の武士は競争社会、戦いで勝てば領地が拡がり、手柄を立てれば石高は増え、家来も増やせた。戦国時代を生き抜いた大名家はみな「成長企業」である。
 競争社会の成長企業は大抵、過剰雇用と先行投資の実行者だ。多めに家来を抱えても、次の合戦で勝って領地を増やせば養える。大名がそれなら家来も同じことをする。高度成長時代の日本企業と同じで、成長志向の「行け行け」経営だった。
 ところが、豊臣秀吉の天下統一が達成されると、全体の石高はもう増えない。武士社会は完全なゼロサム社会になったのである。
 俄然、各大名家もその家老たちも、過剰雇用と過剰投資に苦しみだした。「何とかせねば」という苦悶から二つの案が出た。一つは外国貿易で稼ごうという経済路線、対馬出身の堺商人、小西隆佐・行長父子らがその代表格である。もう一つは外国で領地を増やそうという軍事侵略路線、加藤清正らはこの主張者だった。
 秀吉はどちらも採用した。石田三成らの側近の官僚たちは小西の経済路線を支持したが、それでは商才の乏しい武辺者たちは承知しない。だから「両論併記」のような決定をした。
 歴史の教科書や歴史物語では、朝鮮出兵は、ただただ豊臣秀吉の野心と大ボラではじまったようにいわれているが、その内実は成長社会から安定社会への転換時点で生じた大惨事、一種のバブル弾け現象だったのである。(P170~171)

朝鮮出兵は、豊臣秀吉の野心からきたものというのが一般的な理解である。

しかし、その背景を見てみると、そこには高度成長時代から低成長、安定社会に変化したことに対する時代の見誤り、対応の失敗が見えてくる。

これは、今の日本にそのまま当てはまる。

高度成長期はとっくに終わり、バブルも弾け、失われた10年、20年と長期低迷が続いている日本。

しかし、今だに高度成長期の発想の残っている部分が随分あるように感じる。

大企業はどんどん海外へ進出し、規模の経済を追い求めている。

大企業の場合は、ある程度それはやむを得ない部分もある。

しかし、日本企業の99%以上を占める中小企業はどうなのであろう。

いつまでもその大企業の下請や、大企業追随で良いのだろうか。

もっと独自の道を開拓し、進むべきではないだろうか。

今の時代、特に中小企業にとっては、危機の時代であると同時にチャンスの時代でもある。

中小企業独自のビジネスモデルがどんどんでてきてもよさそうなものだが、どうだろう。

しっかりと見ていく必要がある。

2011年1月27日 (木)

歴史からの発想/堺屋太一

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 既成の概念をとらわれない「価値からの自由」。それを徹底した織田信長が、奇妙な自己流の考え方を実行し、多数の部下を納得させ得たのはなぜか。それはおそらく、既成概念に代わる明確な尺度を示し得たことであろう。つまり、信長の言動は、一見、非常に奇怪に見えても、決して気まぐれではないことが、家督を継いでから数年間に、多くの人々に理解され納得されたのである。
 信長が既成概念・・・伝統、慣習、既存の制度や体制、その時代の常識や通説など・・・に代えて打ち出した新しい尺度とは、「唯目的的評価」ということであった。
 日本史のなかで、織田信長ほど自己の目的を明確に示した政治家は珍しい。信長は、永禄10年、美濃稲葉山城を奪った段階で、早くも天下平定の大目的を明確にする。稲葉山を岐阜と改名したのも、「天下布武」の印を使い出したのもそれである。また、この段階で楽市楽座を行うことも、宗教的勢力の世俗権力化を排除することも明らかにした。
 織田信長は、こうした理想、つまり自己目的に実に忠実であり、すべてをこの目的に沿うかどうかによってのみ評価した。この目的を達成するために有利なものはためらうことなく取り入れ、目的に沿わないものはすべて排除したのである。(P07~108)

自由奔放で奇怪な行動が多いように見える織田信長、

しかし、そこには明確な目的があった。

そして目的に沿うかどうかによってすべてを評価し判断した。

そこには、終始一貫、しっかりと一本筋が通っている。

これだから、部下や側近もついていったのであろう。

もし信長が、なんの目的も示さずに、天才的なひらめきだけで、部下をひっぱっていこうとしたのであれば、決してうまくはいかなかったであろう。

自由奔放で無軌道に見えるようで、実はしっかりとした目的に沿った判断や行動が信長にあった。

このことは、リーダーにとって目的を示すということがいかに大事かを示している。

大きな目的を示さずに、細部にばかり口出しするリーダーに、人は決してついていかない。

リーダーの第一の務めは、明確なビジョンを示すということ。

これに尽きる。

そして、このことのできていないリーダーがあまりにも多いのもまた事実である。

2011年1月26日 (水)

ソニーをダメにした「普通」という病/横田宏信

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 「ソニーで働いても楽しめないと思ったら、すぐに辞めなさい」
 ソニー創始者である盛田さんがまだ健在であった頃、入社式での盛田さんのこのスピーチに吃驚仰天するところから、新卒のソニー人生は始まることになっていた。
 これは、会社と社員がもたれ合うことのない、ソニーの持つ独自自尊の企業文化の宣言であり、人は「会社のため」に働くのでない、という既存社員も含めた社員全員への年に一度の強烈なメッセージだ。
 だから、本来ソニーでは、「会社のため」に働くなんてあり得ない。ソニーという会社を通じて「社会のため」に働くのだ。それこそが、働く個人にとっての社会的な自己実現の道であり、この上なく楽しいものである。
 私は、ソニーに入社してからの数年間、「会社のため」という台詞を社内で聞いたことがまるでない。今思えば、こんな会社も珍しい。なのにいつの頃からか、ソニーでも、「会社のため」が禁句でなくなった。
 「会社のため」に働くという個人は、世界中、どこにでもいるものだ。おそらく、企業における最もポピュラーな個人レベルでの本末転倒なのであるが、日本企業でとりわけ多く見られる。
 そして怖いのは、この本末転倒の蔓延が、「会社のため」本位の、社会の論理から乖離したいわゆる「内輪の論理」を社内に積み上げてしまうことだ。(P14~15)

「会社のため」という言葉の持つ危うさ、問題点について、考えさせられた。

確かに、多くの会社の不祥事は、その会社の社長や社員が、「会社のため」に行ったことに原因がある。

そして、その行ったことは、「会社のため」にはなっていても、「社会のため」にはなっていない。

いや長い目で見れば、「会社のため」にもなっていない。

いわゆる「内輪の論理」なのだ。

そして、「内輪の論理」がまかり通る会社に、未来はない。

どこかで、問題が起こる。

また、市場のニーズにあった商品やサービスを生み出すこともできないだろう。

なぜなら、その会社のつくった商品やサービスは「会社のため」につくったもので、「社会のため」にはなっていないのだから。

市場に受け入れられないのは当たり前である。

しかし、一方、多くの会社で、「会社のため」という言葉が当たり前のように使われている。

ここに大きな問題がある。

2011年1月25日 (火)

この国を出よ/大前研一、柳井正

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 昔、ある新聞記者が、アメリカでの日本企業の失敗がなぜ日本に伝わらないのか、という研究をしたことがあります。その原因は、日本企業の経営者は成功したことは語るが、失敗したことは話さないという点にありました。失敗談を話すと、日本企業ではマイナス評価になってしまうため、語ることができないのです。
 日本企業では、「失敗」という最も貴重な経験が共有されていない。だから、他の会社だけでなく、同じ会社の中でも別の事業部が同じ失敗をすることが多いのです。(P69)

楽天イーグルスの野村元監督が、その著書の中で、「私は『失敗』と書いて『せいちょう』と読むことにしている」と書いている。

企業や人が成長するためには、失敗が必要だというのは、誰もが頭ではわかっていることだ。

しかし、このことを実行している企業や人は少数派だと思う。

どんな物事であっても、失敗すれば実害を被る。

問題は、この実害をどう見るかだ。

これを単なる損失と見るか、先行投資と見るか。

ポイントは「時間軸」だと思う。

短い時間軸で見れば、失敗は単なる損失、

長い時間軸で見れば、失敗は先行投資である。

今は変化の速い時代、何事もスピードが求められる。

しかし、だからこそ、長いスパンで物事を見ることが大事だという視点を持つ必要がある。

2011年1月24日 (月)

教科書が教えない歴史21 『教科書が教えない歴史』誕生秘話/自由主義史観研究会

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 実際、こんなことがありました。私がアメリカに滞在していた時期の、1991年12月7日は、日本がパール・ハーバーでアメリカに攻撃をかけ日米戦争が始まってからちょうど50周年にあたりました。テレビでは、日本に関連する特別番組をいろいろ放送していました。その中の一つの番組で、画面に登場した一人のアメリカ人労働者が、こう言ったのです。
 「湾岸地域に、日本の旗を立てて、ナース一人でもいいから日本人がきてくれていたら、どんなによかったことか。日本は、ナース一人すら送ってこなかった」。いざというときに、ともに血を流す覚悟のない国は、本当の友達ではない、とこの人は言っているのです。私は、その言葉に反論するすべのないことに気づかざるを得ませんでした。
 日本人からすれば「平和憲法」は、理想の憲法だということになります。学校で多くの先生は、そう教えています。世界の最先端を進んでいると自賛する学者もいます。しかし、それは、世界に通用する論理ではありませんでした。残念ながら世界に紛争がなくならない現実がある時に、日本だけが「よい子」を決め込んで、一切のもめ事に関わらないという態度をとっても、世界は必ずしもそれを立派なことだとして評価しないのです。

日本の憲法がもはや賞味期限切れになっているのは、多くの事実が物語っている。

しかし、その憲法を改正するということになると、日本ではなかなかそれが進まない。

なぜなのだろう。

世の中はどんどん変わってきている。

そして、その変化に、国や地方自治体や企業は適応していかなければ生き残っていけない。

これは当たり前のことである。

ところが、その当たり前のことが、こと憲法の問題になると、まったく例外的な扱いになってしまう。

日本国憲法を絶対的なものとし、聖域にしてしまっているからだろう。

そもそも世の中に「絶対」といえるものがあるのだろうか。

欧米の多くの国では、「絶対」と言えるものは「聖書」である。

逆に言えば、聖書以外はすべて相対的なもの、つまり、環境が変われば、どんどん変えて良いもの、いや変えなければならないものである。

ところが、日本にはそれがない。

何が絶対的なもので、何が相対的なものなのか。

これが曖昧なので、すべてのことが曖昧になってしまう。

このままだと、日本は世界から孤立してしまう。

そんなことすらも懸念される。

グローバル化という言葉だけが一人歩きし、実態はまったく変わっていない、これが今の日本ではないだろうか。

2011年1月23日 (日)

教科書が教えない歴史20 日本の心を伝えた外国人/自由主義史観研究会

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 「占領が終わらなければ、日本人はこの本を日本語で読むことはできない」
 これは、日本占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーが1949年8月に書いた手紙の一節です。マッカーサーが日本語への翻訳を禁じた本は、その前年にアメリカで出版された『アメリカの鏡・日本』のことです。著者はヘレン・ミアーズ。占領軍の労働政策に携わった女性東洋学者でした。
 占領軍は、巧妙な言論統制や、ラジオ・新聞等によるキャンペーン、極東軍事裁判などのイベントを通じて、「日本人洗脳計画」と名付けられた作戦を実施しました。そのねらいは、次のような戦争のとらえ方を日本人の常識にすることにありました。
 大東亜戦争は、侵略的な日本人の国民性と封建的な伝統文化の結果である。日本の軍隊は史上まれに見る残虐な軍隊だった。軍国主義日本は野望を持ってアジア諸地域な侵略したが、アメリカをはじめとする民主主義諸国の正義の前に破れたのだ、等々です。
 ヘレン・ミアーズは、こうした占領軍による宣伝がいかに誤っているかを、歴史の事実に即して明らかにしました。そして、次のように、占領軍の戦争宣伝の不公平と欺瞞を批判したのです。
 「アメリカもイギリスも対中国関係では、自分たちの特権的な地位を話し合いで放棄しようとしなかった。・・・日本が韓国民を『奴隷化』したことは、歴然たる事実である。しかし、国際社会そのものが、私たちが標榜する原理に合っていない。いかなる大国も日本を処断できるほど潔白ではないのだ。・・・日本の指導部が満州と中国における行動を説明するのに使っている言葉と、今日私たちの政策立案者や著名な評論家がアメリカの政策を説明するのに使っている言葉は、全く同じなのだ」
 日本の戦争は、その国民性や伝統に原因があるのではなく、日本が近代西洋諸国のルールと行動を学んできた結果である。いまアメリカは、勝者の立場から、日本を「犯罪国家」に仕立て上げようとしているが、戦争も植民地支配も、日本がやってきたことのすべては、「私たち」西洋諸国がやってきたことではないか。それは鏡に映った己の姿である。
 「私たちは自分たちの行為なら犯罪とは思わないことで日本を有罪にしている。これは正義ではない」

ヘレン・ミアーズは、日本を礼賛しているわけでも擁護しているわけでもない。

事実を事実として見ることが必要だといっているのだと思う。

勝者が敗者を一方的に悪者にし、裁くことからは、この悲惨な戦争の経験から真の教訓を得ることはできないと主張しているのであろう。

大事なことは、起こってしまった事実から、客観的な立場に立って、物事の本質を究明すること。

しかし、物事を客観的に見るということほど難しいことはない。

客観的にみているつもりであっても、どうしても一方に肩入れしてしまっていることがほとんどではないだろうか。

私たちは多かれ少なかれ、周りの環境の影響を受けて生活している。

そして、知らず知らずの内に、思考の枠組みを作ってしまい、そこから発想してしまっている。

日本人であれば、どうしても日本という環境の中で培われてきた思考の枠組みができてしまっており、そこから発想してしまう。

限界のあることだとは思うが、

大事なことは、多様な考え方を、色眼鏡をかけずに、まずは受け入れ、

そこから発想する習慣を付けることではないだろうか。

2011年1月22日 (土)

教科書が教えない歴史19 近代日本の外交/自由主義史観研究会

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 1937年7月7日の蘆溝橋事件で日中戦争が始まってから2年半後の1940年2月2日のことです。帝国議会の開幕早々、民政党の代議士、斎藤隆夫は壇上から政府に質問しました。「何のためにこんな戦争を続けるのか。この戦争の目的は何か」。驚くべきことに、当時の米内内閣の大臣は誰一人としてこの質問にまともに答えることはできませんでした。
 一つの国家が戦争目的のない戦争を続けることなどあってはならないことです。したがって、いつ戦争をやめるかの基準もなく、いつまでもダラダラ戦争を続けてしまうことになるのです。

日本の問題の一つに、誰が最終的に意思決定をしたのかがはっきりしないというところがある。

何となく、その場の空気で決まってしまう。

これがいかに多いことか。

あえていうならば、「空気」が決めたということになる。

以前、山本七平が書いた「空気の研究」という本を読んだときのことを思い出す。

第二次大戦中、戦艦大和の出撃の決定に関わった専門家が皆、

それは無謀であって勝ち目はない、と思っていたにもかかわらず、反対できなかった様子が、

「空気」の支配の典型例として描かれている。

この本で書かれていたのは、日本独特の意思決定のプロセスである。

そもそも「空気」が意思決定に影響を及ぼすのは、世界広しといえども日本だけだろう。

そして誰もが「KY」にならないようにする。

少なくとも、このような意思決定のプロセスが、日本特有のものであるということを、はっきりと知ることであろう。

2011年1月21日 (金)

教科書が教えない歴史18 日本統治下の台湾・朝鮮/自由主義史観研究会

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 戦前、朝鮮を統治していた日本に対し、韓国・朝鮮人からは「国を奪っただけでなく、名前まで奪った」と厳しい批判がなされています。創氏改名のことです。今日、在日韓国・朝鮮人のうち、かなりの人は日本名をもっています。これは差別的なまなざしを受けることの不愉快さや、仕事などで不利益、不便を避けるためではないでしょうか。当時もこの理由により日本名を希望する人が相当数いたと思われます。
 そこで、政府が簡単に「希望するなら改名を許そう」と考え、通達を出したのが発端でした。1940年2月11日、朝鮮では「朝鮮人氏名に関する件」、台湾では「改姓名制度」という政令が施行されました。
 このうち朝鮮では「新しく氏を創り(創氏)、改名することを認める」もので、建前は決して強制ではなく、当時の朝鮮総督、南次郎も3回も「強制してはならない」と訓令を出しました。しかし地方の行政機関が創氏改名者の数を増やそうと競争した結果、事実上強制になったのです。極端な例としては学校の校長が生徒を呼び、「君の家は創氏しないから、学校にきてはならない」というような例もあったということです。この結果、半年の届出期間に79%の人が届け出たのです。

創氏改名は韓国や北朝鮮が日本を批判するときに、よく出てくる。

確かに自分たちの名前を強制的に変えられ側の気持ちを考えると、もっともなことだと思う。

しかし、そもそも本当に強制的にこのことが行われたのかということを振り返ってみると、どうもそうではなかったようだ、という事実も出てくる。

ただし、当時の日本政府が強制したという事実はなくとも、その末端の地方の行政機関では、確かに強制があったということであるから、この問題の根は深い。

私は歴史の専門家ではないので、この事実を深く掘り下げることはできないが、組織の性質という側面からみると非常に興味深い。

つまり組織では、トップの言ったことがそのまま、その末端で実行されるとは限らないということ、

またそのような性質を組織は元々持っているということである。

これは会社という組織においても当てはまる。

会社では、トップである経営者が言ったことが、末端の社員にそのまま伝わり、実行に移されるとは限らない。

社長の言ったことは、まず部長に伝えられ、課長、係長、主任、一般社員への伝えられる。

しかし、その伝達の過程で、それぞれが自分なりに、そして自分に都合よく解釈をして、下に伝える。

そうすると、伝言ゲームのように、一般社員に伝わるころには、かなり違った意味で伝わっていることがある。

これを防ぐには、さまざまな手法を使って、普段から縦横のコミュニケーションを密にする取組をすることである。

そして組織の問題の大部分は、このコミュニケーションの問題に集約される。

2011年1月20日 (木)

教科書が教えない歴史17 近代日本を描いた文学/自由主義史観研究会

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 司馬は、民族の存亡のかかっているこの戦争を、日本人が国民的気概をもって戦ったさまを、史実にもとづき描写しています。そのひとつの例を旅順港の閉塞作戦を参加する志願者77名を募ったときの様子から紹介します。
 「たちまち2千人が応募し、有馬や広瀬をおどろかした。なかには血書をして応募する者もいた。『この戦は勝つ』と広瀬は真之にいった。広瀬のいうには、自分たち士官は年少のころから志願し、礼遇をうけ、戦いで死ぬことを目的としてきたが、兵は外国でいうシヴェリアンの出身である。それがすすんで志願したということは、この戦争が国民戦争であることの証拠である」
 司馬は、明治という時代がすべての日本人が国民国家の誕生を素直に喜び、その経営に献身的に参加した「感動の時代」であったことを、現代の日本人に伝えようとしています。
 また、同時に、現代の日本人が、明治人がもってきた国家意識(公意識)を失い、国家に無関心の生き方を善しとすることによって、「無感動の無秩序の時代」を招き寄せていることを、司馬は憂えているように思います。

司馬遼太郎は、『坂の上の雲』で、明治時代の日本人の姿を描いている。

その中でも、特に中心となるのは日露戦争についてである。

戦争の是非について、論じることは重要だが、この当時の日本の置かれた状況を考えると、これ以外の選択肢はなく、日露戦争はやむを得なかったと見るべきだろう。

そして、その中で、多くの日本人がどのように考え行動したのかを描いている。

特に、今の日本人と大きく違っているのは、国家に対する意識である。

偏狭なナショナリズムは、私は反対だが、だといって、国家というものを全く考えない生き方もまた問題だと思う。

今の日本人が日本に誇りを持てなくなっていることには危機感を覚える。

その意味では、日本の歴史を正しく知ることは非常に意味のあることであろう。

特に教育の現場で日本の歴史を正しく伝えることができるようにならなければならない。

2011年1月19日 (水)

教科書が教えない歴史16 明治の改革/自由主義史観研究会

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 江戸時代に庶民の子や軽輩の武家の次男坊たちが、生まれた以上の暮らしをしようとすれば、僧侶になるか養子縁組をすることぐらいしか方法はありませんでした。身分を超えたぜいたくを不道徳とする「分限思想」と「身分制度」があったからです。
 明治維新の諸政策は、そのような身分制度を否定し、個人の能力をもとに実力主義を採用することで実施されました。そして、その基礎作りは「学制」や「学校令」などの教育制度が担っていたのでした。
 明治期の人々は、この実力主義をよく「立身出世」と呼び、ときの合言葉のように使いました。「立身出世」は立身と出世の合わさった言葉です。「立身」とは武士が勤めに励み、加増されるようになることです。また「出世」は、町人・庶民の家業の発展や家産が増えることを指していました。それが維新後は「立身出世」とひとつの言葉として使用されることが多くなりました。というのは、明治維新により、実力次第で「末は博士か大臣か」という社会的上昇が可能になったからです。
 明治・大正期のわが国の興隆は「立身出世」という考えを多くの国民が認め、実行した結果といえるのです。

明治期に生まれた立身出世という言葉、

この言葉に象徴される、国民のエネルギーが、明治期以降の我が国の興隆を支えたといってもよい。

しかし、この「立身出世」という言葉、今ではほとんど死語になっているようだ。

今、子どもたちや子どもたちの親に、「将来就きたい職業は」というアンケートを取ると、必ず上位にくるのが「公務員」や「サラリーマン」という職業。

「公務員」や「サラリーマン」が悪いわけではないが、何とも情けない。

この国の、内に秘めているエネルギーが、枯渇してきているように感じる。

日本が物質的に豊かになり、先進国と言われるようになった結果なのだろうか。

では、先進国では先輩格であるアメリカはどうであろうか。

この「立身出世」という言葉、アメリカの場合は「アメリカンドリーム」という言葉に置き換えることができるであろう。

そしてアメリカでは、今も「アメリカンドリーム」という言葉は生きている。

それがこの国を底支えし、爆発的なエネルギーの源となっている。

日本はもう一度、明治維新の頃の、原点に立つべきときにきているのではないだろうか。

2011年1月18日 (火)

教科書が教えない歴史15 続・勇気と友情の物語/自由主義史観研究会

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 この旅順攻略戦の指揮をとった日本の司令官が陸軍大将乃木希典でした。国内では旅順の戦況が一行に進展せず、死傷者が増えたことから乃木をやめさせろという声も出ましたが、明治天皇は「乃木なればこそ、兵士たちも苦しい戦いを戦い抜いているのだ」と続けさせました。
 乃木が死んでいく兵士たちのことを何よりも気にかけていたことは、戦いが進につれて、顔に刀傷のような深いしわが刻み込まれていったことからもわかりました。また、この戦いでは乃木の二人の息子も戦死しましたが、乃木は出征に当たって「だれが先に死ぬかわからない。たとえだれが死んでも葬式は出さず棺桶が3つ揃うまでまて」と言い残し、死を覚悟していました。だからこそ「乃木将軍のためなら」と兵士たちは突撃できたのでしょう。
 日本軍はついに敵陣の一角にとりつくことができました。有名な203高地です。ここからは旅順港を見下ろすことができ、ここへ大砲をすえることで、敵の艦隊を全滅させました。

乃木将軍は戦略家としては、無能の部類に属する。

しかし、リーダーシップということを考えたとき、乃木将軍のようなリーダーシップもあるのではと考えさせられる。

つまり、部下が「この人のためなら死んでもいい」と思わせるような人格をもっていることは、リーダーとして不可欠なものであるからだ。

特に、このような生死をかけた戦いの中では、部下を感服させるような人格を持っていることが重要だ。

そして乃木将軍にはそれがあったようだ。

技術論だけで語ることができない所に、リーダーシップ論の難しいところがある。

2011年1月17日 (月)

教科書が教えない歴史14 近代日本と発明・発見/自由主義史観研究会

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 湯川秀樹の創造性は、どのように培われたのでしょうか。
 秀樹は1907年、理学博士小川琢治の三男として東京に生まれました。秀樹がまだ小学校のあがらない5つか6つの頃のことです。おじいさんが論語や孟子など中国の古典の読み方を教えてくれました。
 おじいさんが一字ずつ字をつきながら読んでくれる後を、秀樹はただついて読むだけです。その辛さに、時々漢籍の上に涙をぽとぽと落とすこともありました。
 ところが、後に学校で漢字や漢文を非常に楽しく学べたそうです。そして、模倣すること、つまり、己を空しくして他のものを素直に取り入れることは独創的な研究をするための先駆となるの述べました。
 湯川秀樹は、自分が独創性を発揮し得たのは、日本人特有の模倣性や美的直感によるものであると、後に述べています。

創造性と模倣性、一見全く逆の特性のように受け止めがちだ。

しかし、湯川博士の言うには、創造性の基礎として模倣性があるということ。

確かに、創造性といっても、無から有を生み出すということはあり得ない。

自分のもっている知識や経験をアレンジして、新しいものを生み出すと理解した方が正解である。

つまり、創造性を身に付けようとするならば、その基礎となる知識や経験の蓄積が必要だということになる。

そう考えると、古くから日本の教育で行われていた「素読」は非常に意味のあることであったということになる。

「守・破・離」ということばがあるが、「守」の部分が「模倣性」、「離」の部分が「創造性」と理解するとしっくりくる。

そもそも、創造性ということばの意味を「無から有を生み出すこと」と理解すること自体が、間違いのもとであるということを知るべきだろう。

2011年1月16日 (日)

教科書が教えない歴史13 日本国憲法/自由主義史観研究会

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 1946年2月4日午前10時、GHQの民政局員25人は会議室に呼び集められました。全員を前にしてホイットニー局長は「これから一週間、民政局は憲法制定会議の役割を果たすことになるだろう」と言いました。そして、今の日本で最も急がなければならない問題は新憲法の制定だ。しかし、日本側が作成した草案は全く不満足なものなので(マッカーサー)最高司令官は自分が介入する必要があると判断し、日本国民のための新しい憲法を起草するという歴史的な意義ある仕事を民政局に任せたと述べました。
 さらにホイットニーは黄色い紙に書かれた「マッカーサー・ノート」をゆっくりと読み上げ、憲法制定作業はリンカーン誕生日の2月12日までに終えること、作業は極秘にすること、秘密を守るため暗号を使うことなどを指示しました。出席していた民政局の人々は一様驚き、興奮しました。
 委員会はそれぞれ立法、行政、人権、四方、地方行政、財政、天皇・条約、前文の各分野を担当します。25人のメンバーの内訳は陸軍将校11人、海軍士官4人、軍属4人、秘書を含む女性6人で、弁護士資格を持つ人が3人いましたが、憲法の専門家はただ一人としていませんでした。 当時のメンバーは、ホイットニーの話を聞いたときの印象をおよそ次のように述べています。
 「とても興奮しました。しかし、同時に私は、このようなことはとても不幸なことだと思いました。なぜなら、外国人によって起草された憲法は正当性を持たないと思ったからです。私は、民主主義を理解している日本人を何人か知っており、彼らに自国の憲法をつくらせるべきだと思いました。そしてそのことを上司に述べたのですが、採用されませんでした」(行政委員会・エスマン陸軍中尉)
 「興奮しましたが、私には憲法を作る能力も知識もなかったので不安でした」(立法委員会・ホージ陸軍中佐)
 日本国憲法草案は、憲法にはほとんど素人といえる人々の手によって2月10日にできあがりました。たった一週間の憲法制定作業でした。

明治憲法が対外的にも評価され日本国民としても誇るべきものであったのとは対照的に、

日本国憲法は、あまりにもお粗末としか言いようがない。

外国の素人の手によってわずか一週間で作られたのが日本国憲法、

このことを忘れてはならない。

憲法改正論議は度々行われているが、

当時の制定の作業を振り返ってみるにつけ、

やはりこの憲法は、あくまで戦後の米国占領下という特殊な状況での、

暫定的な憲法の域をでないのではないかと考えざるを得ない。

2011年1月15日 (土)

教科書が教えない歴史12 明治憲法/自由主義史観研究会

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 1889年、2月11日、紀元節の日に明治憲法が発布されました。日本はアジアで最初の立憲国家になったのです。新憲法は翻訳されて世界各国に通告されました。また、各国の新聞にも大きく報道されました。憲法の先輩である先進国はこれをどのように受け止めたでしょう。
 『タイムズ』は今もロンドンで発行されているイギリスを代表する有力新聞ですが、発布1ヶ月後の3月23日付で、明治憲法を批評した長文の論説を発表しました。
 それは、まず「東洋の地で、周到な準備の末に議会制憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と称賛しています。
 そして、これまではトルコやエジプトで似たような試みがあったが、それは「本物にほど遠い」ものであった。しかし、日本の試みは本格的で、「解体した封建制度から新しい秩序を発展させようとする考え抜かれた企て」だと高く評価しています。

明治憲法は日本人が他国に対しても誇るべきものであった。

当時の先進各国も、高く評価し称賛している。

それは、他国の憲法を参考にしたものの、日本人の手で作られた憲法であったからであろう。

それに対して、現在の日本国憲法はどうであろうか。

日本国憲法は、明治憲法を土台としているとはいいながら、残念ながら日本人によって作られた憲法ではない。

この、いわば借り物の憲法の状態が公布後60年間、続いている。

もう、賞味期限をとっくに過ぎてしまっているのが、現在の日本国憲法ではないだろうか。

2011年1月14日 (金)

教科書が教えない歴史11 近代日本と子どもたち/自由主義史観研究会

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 江戸時代、薩摩藩の鹿児島城下でのことです。毎朝6時を告げる鐘の音とともに、武士の家々から風呂敷包みを抱えた少年たちが先を争ってかけ出します。年齢は6歳から14歳までさまざまで、稚児と呼ばれていました。
 まだ小学校も中学校もない時代のこと、朝早くから稚児たちが向かったのは、本読みを教えてくれる先輩の家でした。教えるのは二才(にせ)といって、14歳以上の青年でした。稚児は毎朝、二才から本の読み方を習ったのです。走るのは、到着順に個人教授してもらえるからでした。
 数十戸の家が集まる「郷」内で、青年が少年を教え、鍛えたので「郷中教育」と呼ばれています。大人はかかわらず、二才どうし鍛え合い、稚児は二才に従って学びました。青少年の自治に任された教育は、長幼の序の厳しさによって維持されました。
 この教育が一番大切にしたのは、知識でも武道の技でもありません。それは潔く勇敢で、弱い者へのいたわりをもった「爽やかな心」でした。逆に最も卑しまれたのは「臆病」でした。弱者や年少者にいたわりのない者は手厳しく軽蔑されたのです。
 西郷隆盛・従道兄弟、大久保利通、大山巌、山本権兵衛、東郷平八郎といった明治日本のリーダーたちは、みな郷中教育の中で成長しました。

多くの明治日本のリーダーを育てた郷中教育、

特長は、青年が少年を教えるシステムであったということ、

そして、最も大切にしたのは、潔く勇敢で、弱いものへのいたわりをもった「爽やかな心」であったということ。

いずれも、今の日本の教育で欠落している部分のような気がする。

特に、できるだけ早い時期に、教える側に立たせるということ。

これは非常に合理的な教育システムだ。

人は教える側に立ったとき、一番成長する。

人に教えるとき、実は自分に教えているのである。

このことを仕組みとして取り入れているところに、多くのリーダーを輩出した秘訣があるような気がする。

リーダー不在と言われるようになって久しい日本だが、知識偏重の現在の日本の教育システムにも問題があるのではないだろうか。

2011年1月13日 (木)

教科書が教えない歴史10 異文化のはざまを生きた人々/自由主義史観研究会

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 勝海舟が幕府の軍艦咸臨丸の館長となってアメリカに行ったのは1860年1月のことでした。ペリーの黒船来航からわずか7年後、勝海舟38歳のときのことです。
 勝は到着後、サンフランシスコの町をくまなく見聞しています。造幣局、新聞社、印刷所、消防署、造船所、劇場などアメリカの躍進する国力の実際を見てますます日本の立ち遅れを実感します。
 けれども、勝海舟がもっとも強く心にとめたのは、そんな科学技術や物質的な豊かさではありませんでした。
 帰国後、勝は幕府の老中にアメリカの印象を問われて次のように答えているのです。「人間のすることは古今東西同じもので、アメリカだからとて別に変わったところはありません。が、少し目につきましたのはアメリカでは政府も民間も、およそ人の上に立つ者は、みな地位相応に、りこうでございます。この点ばかりは我が国とは反対のように思います」
 このように、勝海舟がアメリカから学んだのは「士農工商の差別なく人々はみな市民であり、身分家柄にこだわらず能力のある者が世に用いられる国だ」という点でした。

勝海舟は帰国後、坂本龍馬や西郷隆盛と面識を持ち、「能力のある者が世に用いられる国」にする必要を説いた。

この考え方が、後々の大政奉還、明治維新につながったのであろう。

しかし、今の日本は、本当に能力のある者が上に立つ社会となっているのだろうか。

能力のある者が上に立つ社会というのは、実際にはなかなか難しい。

最初は能力によって上に立った人であっても、いざ、人の上に立つと、それはそれでいろんな力が働く。

特に、人は上に立つことによって、権力を得る。

権力は、一度持つと、なかなか手放せないものだ。

会社であれば、一番の権力者は社長だが、社長として一番問われるのは、その引き際と後継者選びであろう。

引き際を見誤ったり、自分の権力を保持するがために世襲により後継者を選んだ多くの社長が、晩節を汚している。

組織も、能力のある者が上に上がれる仕組みを作ったはずが、いつのまにか身分制度になってしまう。

組織は制度疲労を起こすのだ。

どんな組織であっても、定期的にチェックし、改革していかなければならないのはそのためである。

2011年1月12日 (水)

教科書が教えない歴史9 生活文化の変遷/自由主義史観研究会

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 めざましい経済復興をとげた昭和30年代はスーパーマーケット台頭の時代でした。歴史と伝統を誇るいわゆる百貨店に対し、スーパーマーケットは低価格・大量販売で時代のニーズをつかみ台頭したのです。ところが、このスーパーマーケットも昭和40年代に売上も利益も伸び悩み始めました。
 それは物不足時代の終焉を意味していました。生活者がまだ物を十分に持っていなかったときは商品は並べるだけで売れていきました。しかし、40年代の中頃になると生活者は生活に必要なものをほとんど所有するようになりました。つまり物不足時代が終わり、日本人の消費構造が変化したことがスーパーマーケットの売上伸び悩みと深く関係しているのです。
 消費構造の変化とは「売り手市場から買い手市場へ変化」したことです。つまり、消費者が「売っていただく」弱い立場から「買ってやる」強い立場へと変化したのです。
 こうした中、新業態の開拓を目指すイトーヨーカ堂がアメリカのセブンイレブンに注目し、コンビニエンスストアのチェーン展開に着手しました。

企業が生き残るカギは、どのように環境変化に適応していくかにかかっている。

今、日本はデフレだと言われている。

物の値段がどんどん下がってきている。

それと同時にサラリーマンの賃金も下落傾向だ。

大企業は、M&A等で規模の拡大を追い求め、規模の経済によって、価格競争の勝者になろうとしている。

しかし、もう一面では、特に日本ではどんどん物余りが進んでいる。

各家庭には、必要最低限の物はすでに揃っている。

消費者は本当にほしいものでなければ買わなくなった。

これがもう一つの流れだ。

小売の業態が百貨店からスーパーへ、そしてコンビニへ、

そしてコンビニそのものも時代の変化とともにその内容を変えていったように、

すべての業界で、変化に適応し変化を先取りしていく必要がでてきている。

その面で、歴史に学ぶことは大切だ。

2011年1月11日 (火)

教科書が教えない歴史8 経済成長/自由主義史観研究会

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 1959年1月3日の読売新聞紙上に、経済学者中山伊知郎の小論が掲載されました。このなかで中山は「現在までの比率で上昇を続けていく限り賃金の水準はいつかは2倍になるであろう。2倍どころではない3倍にも4倍にもなるであろう」と述べました。
 この中山の考えに刺激を受け、それを自らの政策に取り入れた政治家がいます。のちに首相となった池田勇人です。池田の政策は「所得倍増計画」の名で今日まで知られることになります。
 「所得倍増」というわかりやすいスローガンが宣伝効果をもたらしたのか、民間企業は、こぞって倍増計画に合わせた長期計画を策定しました。重化学工業を中心に思い切った投資が行われ、太平洋岸に次々と新しい工場が建設されました。

「所得倍増計画」は時代の流れに乗ったスローガンだともいえるが、これが投資を呼び込み経済を刺激したことは確かだ。

「景気」の「気」は「気分」の「気」とよく言われる。

今の日本、不況の原因の多くは、国民の気分が落ち込んでいることにある。

特に日本人は、どちらかというと未来を悲観的に捉える傾向がある。

こんな時、必要なことは、未来に向けて明確なビジョンを示すことである。

ビジョンさえ示せば、日本はまだまだ成長できる。

ビジョンを示すリーダーが今日本に求められている。

2011年1月10日 (月)

教科書が教えない歴史7 検証・東京裁判/自由主義史観研究会

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 この裁判で、日本が侵略戦争を始めたことは「平和に対する罪」という国際犯罪にあたるとして、わが国の指導者たちが裁かれました。
 当時の国際社会のルールブックには、通例の戦争犯罪(民間人の殺害、捕虜の虐殺など)について違法とするルールはありましたが、戦争を始めたことそれ自体を違法とするルールは存在しませんでした。
 アメリカのミネソタ大学のフォングラーン教授は「侵攻戦争と呼ばれる行為を主権国家が計画し、実行することを禁ずる国際法の規定はない。当時も今日も『平和に対する罪』など存在しないことを支持する理由などいくらでも挙げることができる」と述べています。
 さらに、後に作ったルールで過去の行為を裁くことを事後立法と呼んで、このような裁判はきびしく制限されています。ところが東京裁判では、日露戦争の時点にまでさかのぼって、事後に作ったルールを無理やりあてはめようとしました。このため、イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿は世界人権宣言第11条の「行われたときには国際法でも国内法でも犯罪とされなかった行為について有罪とされることはない」という条文を引き合いにだして「東京裁判は世界人権宣言の規定と相いれず、国際法を退歩させた」と批判しています。

東京裁判の本質的な問題点について、ここで指摘している。

戦争の勝者が敗者を一方的に裁くというやり方、

そして何よりも、戦争の後に作られたルールで、戦争前あるいは戦争中の行為を裁くという行為、
素人の私から見ても、おかしいとしか思えない。

そして、そこで裁かれたA級戦犯の扱いの問題は、現在に至るまで、中国や韓国との関係がギクシャクする度に、表面化する。

しかし、そもそも東京裁判そのもの正当性についてはどうなのだろうか。

もっと議論されてよいのではないのだろうか。

2011年1月 9日 (日)

教科書が教えない歴史6/事件の真相

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 1972年2月19日、「連合赤軍」と呼ばれる極左集団の残党が、長野県軽井沢町のあさま山荘に進入し、管理人の女性を人質にして立てこもるという事件が起きました。その日から10日間、彼らは包囲した警官隊のライフル銃などを乱射して頑強に抵抗し続けました。これが「あさま山荘事件」です。
 この救出・逮捕のもようは終日テレビで放映され、国民の目を釘付けにしたのですが、後日犯人たちの自供によって明らかになった事実はさらに全国民の心を凍らせるほどにすさまじいものでした。
 連合赤軍のメンバーが29人であることをつかんでいた警察は事件後まだ逮捕されていない16人の所在の追求に全力をあげました。その結果、彼らのうち14人が「総括」という名のリンチにかけられ、きわめて残忍なやり方で殺害されて、群馬県の山中や千葉県印旛沼のほとりに埋められていたことが判明したのです。

あさま山荘事件は、私が中学生の頃の事件である。

まだそのことの背景が理解できるような年齢ではなかったが、

その後、関連する映画や書物を通して、その残酷さに驚愕したことを覚えている。

人間にこんな残酷なことができるのか?

いや、人間だからこそ、このような残酷なことができるのだろう。

特に、人間が集団となった時、常識では考えられないような残虐性や凶暴性を発揮することがある。

人間の理性というものがいかにもろく、狂いやすいものなのかをこの事件は表している。

2011年1月 8日 (土)

教科書が教えない歴史5/歴史を生きた女性たち

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 1904年(明治37年)9月、歌人の与謝野晶子は雑誌『明星』に長詩「君死にたまふこと勿れ」を発表しました。時あたかも国運を賭けた日露戦争の真っ最中でした。出征した弟を思い「死ぬな」と歌いあげた詩は、世間に少なからぬ反響を巻き起こしました。とりわけ「親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしへしや」「旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても何事ぞ」などの詩句は明治人の度肝を抜きました。
 早速、論客の大町桂月が雑誌『太陽』10月号で激しくかみつきました。これに対して晶子は『明星』11月号誌上で反論します。まず「この国に生まれ候私は、私等は、この国を愛で候こと誰にか劣り候べき」と祖国に対する愛情を明確にして、この詩は出征兵士の家族が駅頭などで「無事に帰れ、気をつけよ、万歳」と見送っているのと同じ意味であり、どこが悪いのかと切り返したのです。

私たちはとかく人にレッテルを貼りたがる。

与謝野晶子は一般には「反戦詩人」と言われている。

そして「君死にたまふこと勿れ」も「反戦詩」と言われている。

しかし、詩を書いた本意は、書いた本人にしかわからない、

その本人が、自分の詩は弟を思う気持ち歌っているのであって、国に対する愛情も同時に歌っていると反論している。

恐らく、当時、肉親を戦争に送り出す人の多くは、国を愛する気持ちと肉親を思う気持ちの狭間で揺れ動く気持ちを抱いていたであろうから、この晶子の詩はそれを率直に表したものであったと思う。

これは矛盾した心情ではない。

一人の人間の中に宿る生きた感覚とは、そういうものなのである。

そこには好戦思想もなければ反戦思想もない。

だから、与謝野晶子の一面だけを取り上げて「反戦詩人」として強調する見方は、

結局人間の全体像を矮小化してしまうことになる。

人を等身大で見る目を持ちたいものだ。

2011年1月 7日 (金)

教科書が教えない歴史4 近代日本と戦争/自由主義史観研究会

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 アメリカは、サウジアラビアや西ドイツなどとともに、日米安保条約を結んでいる同盟国であり、アメリカの核の傘の下で経済大国に発展した日本にも、戦費の拠出と共同行動を求めてきました。石油輸入の7割を湾岸地域に依存している日本、世界平和の恩恵を最も受けている日本に対して必ずしも不当な要求とはいえません。
 ところが、要請を受けた日本は、政府も国民も大騒ぎとなりました。軍需物資の輸送を政府から要請された海運業界では、海員組合がこれを拒否しました。あわてて国会に上程された「国連平和協力法案」は廃案となりました。ある主婦グループは何を勘違いしたのか、イラク大使館ではなくアメリカ大使館に反戦デモをかける始末でした。
 1991年1月17日、同盟国による軍事行動が開始されました。その後の地上戦を経て湾岸戦争は2月28日、同盟国の勝利に終わりました。しかし、日本は130億ドルという巨額の資金を出しながら、クウェート政府が出した感謝決議の対象国からもはずされるという屈辱を味わいました。湾岸戦争は、経済大国となった日本が道義を忘れた醜い国家になってしまっていること、いやそもそも国家の体をすらなしていない国となっていることを、白日のもとにさらす深刻なできごとでした。

湾岸戦争当時のゴタゴタは、今も記憶に新しい。

しかし、このゴタゴタは今も、普天間問題や尖閣諸島問題等、違った形で続いている。

いつごろから、日本はこんないびつな国になってしまったのか。

戦後、日本は確かに物質的には豊かになった。

だが、失ったものも多い。

その意味で、もう一度歴史に学び、原点に立ち返るべき時期にきているのではないだろうか。

2011年1月 6日 (木)

教科書が教えない歴史3 勇気と友情の物語/自由主義史観研究会

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 敵対したロシア軍人の中にも広瀬を敬慕した将兵はいました。旅順に赴任した海軍少尉ボリス・ヴィルキツキーは広瀬を「タケ兄サン」と呼んで兄のように慕った一人でした。彼は開戦に先立つ1ヶ月前に「タケ兄サン」にあてて親愛をこめた手紙を出しています。もちろん広瀬は返信の筆をとりました。
 「これは国と国との戦いで、あなたに対する個人の友情は昔も今も少しも変わらない。いや、こんな境遇のうちにいるからこそ、かえって親しさも増してくる。平和が回復するまでは、かねて申し上げたように、武人の本懐をお互いに守って戦い抜こう。さらば、わが親しき友よ、いつまでも健在なれ」
 この手紙を発信したのち広瀬は旅順湾口に沈める船の船橋にロシア語でサインを施しました。当時のロシア語新聞に報じられた事実です。その文句とは「尊敬すべきロシア海軍軍人諸君、請う余が名を記せ、余は日本の海軍少佐広瀬武夫なり」というものでした。広瀬にとってなし得る精一杯の友情のサインだったに違いありません。

広瀬武夫中佐については、先日放映されたNHKの「坂の上の雲」でも登場したので記憶に新しい。

今、日本の課題の一つにグローバルな人材の育成があげられる。

社内の公用語を英語にする会社も出てきた。

しかし、単に英語を習得すればよいというものではない。

本当のグローバル人材とは、知識、教養、人格、あらゆる面で他から尊敬を受ける人物である必要がある。

広瀬は駐在武官ではあったが、軍事を学ぶだけの狭い研究から抜け出して、

語学、歴史、文学、さらには異国の人々との交流などを通じて

仮想敵国だったはずのロシアに対する愛情までも育てあげた。

そうした生きざまがロシアの人々に「心からの友情」を感じさせたのであろう。

軍人広瀬武夫は、真のグローバル人材であったと言える。

2011年1月 5日 (水)

教科書が教えない歴史2 国づくりの設計/自由主義史観研究会

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 倒幕後三年もたつのに、大久保たちが実質的な統一国家をつくれないのにはそれだけの理由がありました。藩を廃止するということは、それまで各藩が集めていた年貢を政府が集めるということです。それは藩から給料を得ていた武士の失業を意味します。同様に武士に給料を払えなくなった藩の殿様も失業です。つまりそれは、徳川三百年間続いてきた武士という身分を全廃してしまう第二の革命だったのです。彼らがだまってこの改革を受け入れるという保証はありません。
 大久保利通は極秘のうちに周到な準備を進め、1871年7月、廃藩置県を断行しました。それほどの大改革が一滴の血も流さずに行われたのを見た当時の英国代理公使アダムスは「ヨーロッパでは、何百年も軍事力を使わなければ成功できない」と驚いています。廃藩置県によって、本当の意味で徳川封建体制が終わり、統一国家日本が誕生したのです。

大久保利通は西郷隆盛と比べ、日本人には人気がない。

しかし、近代日本の礎を築いた貢献度から言えば、西郷の比ではない。

大久保にはどうしても冷酷非情な印象がつきまとう。

しかし、国家の存亡という広い視野から、様々な改革を断行した大久保という政治家を持ったことは日本人が誇りにしてよいのではないだろうか。

特に、上記の廃藩置県は、大改革である。

それまで、倒幕のために共に戦った武士たちが職を失うということを考えると、大変な決断だ。

しかし、すべての人が利益を得るような改革はあり得ない。

必ず不利益を被る人たちがいる。

しかし、それを大局的な視点にたって断行する。

そこにリーダーのリーダーたる所以がある。

今の日本で、これほどの大きさを持った政治家はいるだろうか。

2011年1月 4日 (火)

教科書が教えない歴史1 日本とアメリカ ./藤岡信勝

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 アメリカ人は、戦後50年を過ぎた今でも「リメンバー・パールハーバー」と言って、多くのアメリカ人に語り継がれているのです。それほどアメリカ人の怒りはすごいものでした。
 では、なぜアメリカ人はそれほどまでに怒っているのでしょうか。日本が戦争を起こしたからでしょうか。いいえ、違います。アメリカ人が怒っているのは、日本が国際間のルールを破ったからなのです。
 当時の国際社会は、「これからあなたの国と戦争を始めますよ」という宣戦布告をすれば、戦争はできたのです。合法的だったのです。これが当時の国際社会の戦争に関してのルールでした。そのルールを日本はこの真珠湾攻撃で破ったのです。
 日本は、宣戦布告前に真珠湾を奇襲しました。しかし、最初からだまし討ちをしようと考えていたわけではないのです。日本政府は開戦25分前に宣戦布告するという考えでした。
 ところが、です。宣戦布告を出したその日。ワシントンの日本大使館は、人事異動による送別パーティーをしていたのです。大使館には、一人の宿直もいません。翌日大使館員が出勤してみると、日本の将来を左右する電報が多くの電報に混じって入っていたのです。
 戦争前のこの当時、重要な電報はみんな暗号でした。重要機密ということで、タイプライターの専門でない上級書記官が暗号を解読し、慣れぬ手つきでタイプを打ち上げました。当然、時間がかかります。ようやく打ち上がったタイプは、野村吉三郎大使がアメリカの国務省に持って行きました。しかし、時すでに遅し。野村大使が出かけた85分前に、真珠湾では爆弾が落ち、魚雷が発射されていたのです。これが日本の後世に残る悲劇の実態です。

許せるミスと、決して許してはならないミスがある。

上記の場合、決して許してはならないミスである。

なぜなら、国家の命運を握る事柄であるから。

これによって、どれほど多くの人命が失われ、損害を被ったことか。

ところが、戦後、政府も外務省も彼らの責任を明らかにせず、追求もしなかったという。

それどころか、彼らの多くは出世したという。

彼らを処罰していたら、「リメンバー・パールハーバー」の言葉はなかったかもしれない。

歴史に「もしも」はないのだが。

2011年1月 3日 (月)

『社長の仕事』

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 経営目標やビジョンを明らかにし、経営戦略を決めても、社内に浸透せず、その実行段階で70~90%が失敗に終わっているという驚くべきデータがあります。失敗の理由は、戦略そのものが間違っていたというより、「その戦略が現場で実行されなかった」ことが理由の大半であるといわれています。
 この数字は、戦略の立案とその実行との間には大きな壁があり、戦略を組織内に説明する段階での挫折、実行する段階での挫折があることを示し、正しい経営戦略を決めても、実行に結びつけることがいかに難しいかをよく表しています。

どんなに経営戦略を立てても、70~90%はそれが実行されずに失敗に終わるという。

これは私自身の実感とも一致する。

そもそも戦略で差別化することは可能なのか?

もし、本当に優れた戦略があったとしても、そうであればあるほどすぐにマネされてしまうことであろう。

経営戦略の目的を、中長期的な優位性を確保するためのものと定義するならば、これでは失敗である。

特に今は、マネするスピードも早くなっている。

そうすると、差別化するのは、戦略ではなく、その他の部分ということになる。

それは業務プロセスであったり、人材能力であったり、いわゆる真似しようとしても容易にマネできないもの、そして、時間のかかるものである。

例えば、人材能力、これをアップさせるには時間がかかる。

半年1年単位でなく5年10年単位の時間軸で計画し取り組んでいかなければならない。

変化の早い時代であるからこそ、そのような時間のかかることに取り組む必要がある。

時間がかかるからやらないのではなく、時間がかかるからやるのである。

最終的には、これが本当の意味での差別化につながるのだから。

2011年1月 2日 (日)

人生余熱あり/城山三郎

Books

 人生は挑まなければ、応えてくれない。うつろに叩けば、うつろにしか応えない。
 挑む老後、激しく全人生を叩きつける老後。そこには「軟着陸」にはないきびしい様相もあるが、同時に「軟着陸」では得られないすばらしい達成感、豊かな満足もある。それに、一度限りの人生とあれば、いかに深く生きたかが問題。「一日の中に天国と地獄がある」いった生を実感できる時間をどれだけ持てたか。生ける験ありとはそのことではなかったか・・・・・と。

「老後」というと、どうしても一括りにしてしまうようなところがある。

しかし、人生いろいろ、老後もいろいろある。

軟着陸するような老後もあれば、この本に紹介されている人たちのように、激しく全人生を叩きつけるような老後もある。

特に、これから高齢者がどんどん増えていく。

そして誰もが老後を迎える。

自分はどんな老後を送るのだろうか。

できれば「日々生を実感できるような老後」を送りたいものだ。

一度限りの人生なのだから。

2011年1月 1日 (土)

ソニーを創った男 井深大/小林俊一

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 井深が最初に手がけたのは、新会社の設立趣意書の作成である。この新会社とは、いうまでもなく昭和21年5月に発足するソニーの前身・東京通信工業株式会社である。設立4ヶ月も前の1月には、早々と設立趣意書を書き上げていたのだった。
 この趣意書は、この節目の時点において井深が胸の内で何を考えていたか、取り巻く環境がどんなであったか、を明らかにする重要な文書である。今も残る井深署名の文書としては大学の卒業論文に次いで古い。全体は七千字余で、前文に続いて《会社創立ノ目的》、《経営方針》、《経営部門》という構成になっている。

ソニーの創業者、井深大が最初に手がけたのは設立趣意書であったということ。

しかも、設立の4ヶ月前に、既に設立趣意書が書き上がっていたということ。

つまり、ソニーは理念から出発した会社であるということである。

ソニーはその後、経営者も変わり、経営環境も変わっていった。

順風の時も逆風の時もあった。

しかし、節目節目で、この設立趣意書に記されている理念に立ち返ってきているようなところが見て取れる。

特に現代のような先の見えない状況では、この理念が一つの道しるべになっていくのではないだろうか。

先の見えない現代だからこそ、企業は理念にしっかり立った経営をする必要がある。

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