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2011年2月 8日 (火)

坂の上の雲(三)/司馬遼太郎

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 好古の目の前で、士卒がばたばたたおれた。戦闘がいかに不利であるかは、好古にも十分わかっている。
 さらに、戦術的には退却が妥当であることは、よくわかっていた。退却して後方の院路までひきさがり、そこで防御陣地をつくって敵をささえればよい。
 が、好古の理性がかれに要求しているのは、それではなかった。この場合、この局面のこの段階で退却すればすぺてをうしなうことになるだろうということである。
 かれは、かれ自身が馬ののりかたから教えてきた日本騎兵のチームをつれてきている。いわば自分の手作りの兵種だけにその弱点はよくわかっており、さらに敵の長所も、十分に知っていた。しかしここで退却すればどうなるであろう。
(これが、日露騎兵の第一戦なのだ。つねに最初の戦いが大事であり、ここで負ければ日本の騎兵の士気に影響し、わるくゆけば負け癖がついてしまうかもしれない。ここで退却すればロシア騎兵に自信をつけさせ、今後の戦闘でかれらはいよいよ強くなるだろう)
と、おもっていた。
 ついに最前線の隊長のひとりがたまりかね、馬を飛ばして駈けてきて、好古の前でとびおりた。退却をすすめるためであった。
「閣下」
と、隊長はさけんだ。
「いまわずかながら、わがほうは勢いを盛りかえしております。この機会に後方の院路までさがってはいかがでしょう」
 好古は変わった男で、これに対し、うむと声を出したきりで返事はせず、従卒に目くばせしてブランデー入りの水筒とグラスを出させ、杯に注ぎ入れると、そばのシナ民家のひくい土塀の上に横になり、そのまま隊長から背をむけてしまった。
(寝ているしか、仕方がない)
 そのブランデー杯の上を、銃弾がするどい音をのこして、何度もとびこえた。
ーー旅団長閣下が、最前線の機関銃陣地で不貞寝をしている。
ということが、この惨烈な戦況のなかで兵隊たちのあいだでささやきかわされるほど、好古のかっこうはユーモラスだった。
 シナの民家の塀の上だから、散兵線からみれば高所である。横になって、ブランデーのグラスをなめている。敵にツァイスの優秀な双眼鏡があれば、この日本軍の少将の姿をとらえることができたであろう。
 ぐわあ-ん
と、好古のそばに砲弾が落ち、そこに横たわっていた屍馬の体をふたたび空中に舞いあげたが、好古はブランデーをなめることをやめない。
(いまさら、どうなるものでもない)
と、好古はおもっていた。指揮などは、やりようもない。こんな状況では戦術もなにもあったものではなく、敵のスコールのような銃砲弾の襲来が、なにかの拍子でやむまで当方としては残りすぐなの小銃弾をうちつづけさせるしかないのである。
(もう戦闘は一時間半もつづいている。敵がやがてくたびれるはずだ)
と、好古はおもっている。とにかく自分や将士の体がちぎれようと吹き飛ぼうと、この現場からしりぞかないというのが、好古の唯一無二の戦法だった。
(それしかない)
と、きめこんでいる。戦場での司令官はあまり鋭敏であってもいけない。反応が鋭敏すぎると、かえって事をあやまる。こういう極所には、わざと鈍感になるしかなかった。
 好古は、何度も水筒からブランデーをついではなめた。日清戦争のときは地酒でとうとう酔っぱらってしまったが、この日露戦争の時期にはブランデーをのむほどの経済力になっていた。あのころ少佐だったが、いまは少将であり、給料もあがっている。東京を発つとき、給料の全額をはたいてブランデーを買いこんできたのである。
ーー敵もくたびれている.
と、好古がたかをくくりつづけてきたように午後三時半ごろ、敵がしだいに北方へ退却しはじめた。敵はたしかに優勢だったが、敵の指揮官は好古のように鈍感ではなかったのであろう。
この激戦に神経がたえられなくなり、
ーーあす、再攻する。
といったふうのしかるべき戦術上の理由をつけて夜営のために退却しはじめたのである。ひとつには日本軍の夜襲を警戒し、陣地を遠くへ離しておこうという配慮であるかもしれなかった。
いずれにせよ、この戦闘は両軍指揮官の神経のたたかいだった。ロシア軍指揮官は、好古の神経のふとさに負けた。
 好古とその旅団は、危機を脱した。
 この夜は、この竜王廟付近で宿営した。
 その夜、好古はシナ民家のなかで、
「きょう、退却を意見具申されたときほどこまったことはなかった。なるほど、戦術的にはそうさ。しかし戦略的には退くわけにいかんので、きこえぬふりして寝てやった」
と、副官の中屋にいった。(P299~303)

少し引用が長くなってしまったが、このエピソードは、現場の最前線でリーダーは如何にあるべきかということを端的に示している。

一つは、リーダーは、戦術眼と戦略眼、両方を持たねばならないということ。

好古は、自分の部下が目の前でバタバタと倒れている局面で、そして戦術的には撤退が正しいと思われるなかで、戦略的な判断から、撤退しなかった。

結局は、この判断と決断が勝利を呼び込んだ。

二つ目は、一度決断したら、ぶれてはならないということ。

好古は、自分の判断と決断を、最後まで貫き通している。

三つ目は、それを態度でも示し、体現しなければならないということ。

それを好古は、「最前線の機関銃陣地で酒を飲みながら不貞寝をする」という態度で示している。

この、一見ユーモラスな態度は、ある意味、部下に安心感を与えるものであったろう。

何れにしても、このエピソードは、「リーダー斯くあるべし」ということを鮮やかに示すものである。

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