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2011年2月13日 (日)

坂の上の雲(八)/司馬遼太郎

A9r5130

 要するに東郷は敵前でUターンをした。Uというよりもα運動というほうが正確にちかいかもしれない。ロシア側の戦史では、
「このとき東郷は彼がしばしば用いるアルファ運動をおこなった」
という表現をつかっている。
 繰りかえすと、東郷は午後二時二分南下を開始し、さらに145度ぐらい左(東北東)へまがったのである。後続する各艦は、三笠が左折した同一地点にくると、よく訓練されたダンサーたちのような正確さで左へまがってゆく。
 それに対しロジェストウェンスキーの艦隊は、二本もしくは二本以上の矢の束になって北上している。その矢の束に対し、東郷は横一文字に遮断し、敵の頭をおさえようとしたのである。日本の海軍用語でいうところの、
「T字戦法」
を東郷はとった。
 T字戦法の考案は、秋山真之にかかっている。真之がかって入院中、友人の小笠原長生の家蔵本である水軍書を借りて読み、そのうちの能島流水軍書からヒントを得たものだということは以前にふれた。ただこの戦法は実際の用兵においてはきわめて困難で、場合によっては味方の破滅をまねくおそれもあった。
 げんに、敵とあまりにも接近しすぎているこの状況下にあっては、真之もこれを用いることに躊躇した。
 三笠以下の各艦がつぎつぎに回頭しているあいだ、味方にとっては射撃が不可能にちかく、敵にとっては極端にいえば静止目標を射つほどにたやすい。たとえ全艦が十五ノットの速力で運動していても、全艦隊がこの運動を完了するのは十五分はかかるのである。この十五分間で敵は無数の砲弾を東郷の艦隊へ送りこむことができるはずであった。
 戦艦アリョールの艦上からこの東郷艦隊の奇妙な運動をみていたノビコフ・プリボイ
も、「ロジェストウェンスキー提督にとって、一度だけ運命が微笑したのである」

と、書いている。
 戦艦朝日に乗っていた英国の観戦武官W・ペケナム大佐は東郷を尊敬することのあつかった人物だが、この人物でさえ、このときばかりは東郷の敗滅を予感し、
「よくない。じつによくない」
と、舌を鳴らしたほどであった。
 稀代の名参謀といわれた真之でも、もしかれが司令長官であったならばこれをやったかどうかは疑わしい。かれはおそらくこの大冒険を避けて、かれが用意している「ウラジオまでの七段備え」という方法で時間をかけて敵の勢力を漸減させてゆく方法をとったかもしれない。
 が、東郷はそれをやった。
 かれは風むきが敵の射撃に不利であること、敵は元来遠距離射撃に長じていないこと、波が高いためたださえ遠距離射撃に長じていない敵にとって高い命中率を得ることは困難であること、
などをとっさに判断したに相違なかった。
 「海戦に勝つ方法は」
と、のちに東郷は語っている。
「適切な時機をつかんで猛撃を加えることである。その時機を判断する能力は経験によって得られるもので、書物からは学ぶことができない」
 用兵者としての東郷はたしかにこのとき時機を感じた。そのかんは、かれの豊富な経験から弾き出された。(P111~114)

上記は有名な「T字戦法」の記述、

日本海戦は二日間続く。

しかし、秋山真之は終生、

「最初の三十分間だった。それで大局が決まった」

と語ったという。

それほど、この戦法はリスキーなものだった。

確かに、素人考えでも、敵の射程距離内で、Uターンするなどと言うことは、危険きわまりないということがわかる。

そして、この危険きわまりない戦法を、とっさの判断のもと決断したところに、東郷平八郎が名提督と言われる所以がある。

また、この場面で印象的なのは、参謀と指揮官の役割分担が明快になっているということである。

作戦を考えるのは、参謀である真之の役割、

決断するのは指揮官である東郷の役割、

T字戦法を考案したのは、参謀である真之、

しかし、彼には、その局面でT字戦法を選択する決断力はなかったし、決断する必要もなかった。

決断するのは指揮官である東郷の役割だった。

そして、東郷にはその決断力があり、実際に決断した。

非常に明快である。

参謀は参謀の役割を果たし、指揮官は指揮官の役割を果たした、これが勝因の一つであろう。

また、これはすべての組織に共通して言えることである。

組織の構成員がそれぞれ自分の役割を果たす。

これは当たり前のことのように感じるのだが、多くの組織はそうはなっていない。

特にすべての責任を負って決断するリーダーは非常に少ない。

リーダーの役割とは、決断することと言っても良いのだが、

それを実行しているリーダーは本当に少ないものだ。

そのくせ、参謀の役割にやたら口出しするリーダーは多い。

日露戦争の日本海海戦は、リーダーと参謀がそれぞれの役割を果たし、勝利に結びつけた希な例といえるのではないだろうか。

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