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2011年3月 6日 (日)

日本を滅ぼす「自分バカ」/勢古浩爾

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 日本語の一人称には「わたし」「ぼく」「おれ」「自分」「うち」がある。そして二人称には「あなた」「きみ」「おまえ」「さん」「様」「あんた」「貴様」「おたく」「自分」「てめえ」「おめえ」(限定的だが「おのれ」「おまえさん」「おんどれ」など)がある。わたしたちはこれらの人称を、それぞれの関係において臨機応変に使い分けなければならない。
 わたしたち日本人はこの一人称を自分の自由に使うことができない。社会的に許されないのである。平社員が社長相手に「おれ」ということは絶対にありえない。親に向かっては「おれ」といえても、部活の上級生に対しては絶対にいえないのである。だが英語ならすべて「I」である(フランス語では「Je」、ドイツ語では「Ich」)。
 日本では、相手の年齢、社会的地位、性別によって、使うべき一人称が決まってくる。つまり相手の位置によって自分の位置が決まるのだ。すでにして主体的ではない。客体なのである。自分にとっての自分ではない。相手にとっての自分なのだ。わたしたちの自我の位置は多くの場合、他人によって規定されている。そのひとつがこの人称である。そこに日本人の上下関係と依存体質が表れる。(P54~55)

最近、やたら耳にする「自分探し」「自分らしく」といった言葉、

社会的に問題になっているクレーマーやモンスターペアレント、

キーワードは「自分」である。

やたら「自分」を主張する。

確かに個性的であることは大切だ。

しかし、個性的であることと、自分勝手、自己中心であることとは違う。

どうも、この辺り、ボタンのかけ違いがあるようだ。

そもそも、日本人はいつも他者との関係性によって自分を考える。

その一つの例が、上記の一人称、二人称の多様性である。

英語であれば、「I」と「You」ですんでしまうものが、

日本語の場合、相手との関係性において、瞬時に言葉を選択し、使うことが求められる。

目上の人に「オレ」「オマエ」なんて言ったら、すぐに目をつけられてしまう。

そして、いつもまわりの空気を読むことを求められる。

これを小さいころから、無意識の内にやっていて、「個性だ」「個の確立だ」といっても、何か地に足がついていない。

この結果が、「自分バカ」の出現である。

日本には日本の文化があり、風土があり、歴史がある、

このなかにあって、個人はどのようにあるべきなのか、

また、何をすればよいのか、

どう生きていけばよいのか、

こんなことを考えさせられた。

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