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2011年3月18日 (金)

下流志向/内田樹

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 「自分探し」というのは、それまでの生活をリセットして、どこか遠いところに出かけてしまいたいという若い日本人の欲望にジャストフィットしたせいで、ひろく流布した言葉です。あまり知られていないことですが、「子供たちの『自分さがしの旅』を扶ける営み」としての教育という言い方が最初に登場したのは、橋本内閣時代の中教審答申(『二一世紀を展望した我が国の教育の在り方について』第一次答申)においてなのです。
 「自分はほんとうはなにものなのか?」「自分はほんとうはなにをしたいのか?」
 ちょっと申し上げにくいのですが、このような問いを軽々に口にする人間が人格的に成長する可能性はあまり高くありません。少し考えてみればわかります。
 「自分探しの旅」にでかける若者たちはどこへ行くでしょう?ニューヨーク、ロサンゼルスへ。あるいはパリへ、ミラノへ。あるいはバリ島やカルカッタへ。あるいはバグダッドやダルエスサラームへ。どこだっていいんです。自分のことを知っている人間がいないところなら、どこだって。自分のことを知らない人間に囲まれて、言語も宗教も生活習慣も違うところに行って暮らせば、自分がほんとうはなにものであるかわかる。たぶん、そんなふうに考えている。
 でも、これはずいぶん奇妙な発想法ですね。
 もし、自分がなにものであるかほんとうに知りたいと思ったら、自分のことをよく知っている人たち(例えば両親とか)にロング・インタビューしてみる方がずっと有用な情報が手に入るんじゃないでしょうか?外国の、まったく文化的バックグラウンドの違うところで、言葉もうまく通じない相手とコミュニケーションして、その結果自分がなにものであるかがよくわかるということを僕は信じません。
 ですから、この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。(P83~84)

一時流行った「自分探しの旅」という言葉、

この言葉の持つ矛盾点について、著者は指摘する。

確かに、本当に自分を知りたいと思うなら、自分をよく知っている人に、率直に聞けばいい。

そうすれば、新たな発見があるだろう。

あるいは、なんでもいいから仕事に就いて、それにとことん打ち込むことである。

それによって、おそらくいろんな意味での気づきが生まれるであろう。

なにも、外国へ行く必要はない。

何か、「自分探しの旅」という言葉に酔ってしまっているような気がする。

単なる、自己逃避ではないかとさえ思ってしまう。

ただ単に、自分のこれまでの外部評価が気にくわず、それをリセットしたいという思いから、その場を離れる、

これでは、自分を発見することはできないだろう。

本当の自分に向き合うこと、これはもっと厳しいことではないだろうか。

そうしようと思うなら、むしろ、その場から離れてはならない、

何がなんでもその場にとどまることだ、

それによってのみ、自分と向き合うことができる。

すなわち、一般に言われている「自分探しの旅」とは、

実は「自己逃避の旅」なのである。

それならそれで、そのまま「自己逃避の旅」言えばいいものを、

ただ、それではあまりにもカッコ悪いので、

「自分探しの旅」という言葉に逃げてしまっている、

それによって、見たくない現実を上手にオブラートに包んでしまっている、

これが実態ではないだろうか。

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