偶然のチカラ/植島啓司
われわれはつい人生には多くの偶然があって、それによってどういう進路を歩むか決められてしまうと考えがちだ。しかし、本当にそうなのだろうか?これほど多くの人々が繰り返し同じような問題で悩んでいるというのは、どうにも納得できないことである。われわれは永遠に運に翻弄されるがまま生きていかなければならないのだろうか。
それとも、いっそ自分の身に起こったことを、すべて必然と考えてみることはできないだろうか。
それがいかに好ましくない結果だとしても、自分の身に起こったことをすべて必然として受け入れるとしたらどうだろう。誤った判断を下したのも必然だったのだし、その結果抱え込むことになった面倒なこともすべて必然だったと考える。「もしも」とか「別の道を選んでいたら」とは考えない。この世はすぺて必然の連鎖によってできあがっている、そう考えると、ずっと楽にならないだろうか。一般に、悪い出来事は連鎖反応のように続いて起こるというが、実はよい出来事も、そうと自覚しないだけで、やはり同じように続いて起こっているのかもしれない。幸福とか不幸というのはもともと主観的なものでしかない。それに一喜一憂するというのは愚かなことではないか。(P22~23)
私たちの人生は好むと好まざるとに関わらず、偶然という目に見えない力に翻弄されることが多い。
自分のこれまで歩んできた道を振り返ってみても、偶然の連鎖によって、今の自分があると言っても良い。
偶然出会った人や本、偶然入った学校、偶然知った仕事、偶然出会った結婚相手、等々
考えてみると、自分で選びとったと思っている事柄であっても、偶然の要素がかなりの部分入っている。
すべてが偶然によって今の自分があるのであれば、努力しても無駄なのか?
そうではない、努力することによって、よりよい偶然を呼び込むことができる。
しかし、努力しても、不幸が襲って来ることも起こる。
それとても、時間軸を短くとると不幸と思えることも、長い時間軸で考えると幸福だと思えることもある。
幸福、不幸も単なる主観に過ぎないのだから。
だったら、すべての偶然を必然と捉えてみたらどうだろう。
すべてを必然だと考える。
“神の見えざる手”という言葉があるが、その感覚である。
人生の細部に至るまで、神の見えざる手が及んでいる。
そして、神は愛である。
決して、自分に悪いものを与えはしない。
悪いことと思えることも、それは神が私に何かを教えようとして、気づかせようとして与えているに過ぎない。
こう考えてみる。
そうすれば、人生はもっと楽しくなるのではないだろうか。
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