海の都の物語 4/塩野七生
しかし、マキアヴェッリも書いているように、現実主義者が誤りを犯すのは、自分たちが合理主義者でリアリストなものだから、非合理的に行動する相手を理解できないからなのだ。まさかそんなバカなまねはすまい、と思ってしまうのである。
「今こそ、イスラムの時代だ」
とか、アレクサンダー大王を理想像にして、
「大王は東に進軍したが、わたしは西へ向う」
などと叫ぶことになる若者が、トルコの宮廷で、ギリシア人やローマ人の伝記を熱心に読みながら成長しつつあるとは、ヴェネツィア政府の情報網の及ぶことではなかった。(P41~42)
トルコ民族は、本質的に遊牧の民である。
商業には、彼らは一度たりとも得意であったことがなかった。
だから、不得手な商売をヴェネツィア人をはじめとする西欧人が受け持っても、彼らは、少なくともその当時のトルコ人は、不都合な状況とは思っていなかった。
ヴェネツィア人も、このような状態ならば、共存共栄も可能であると信じていたらしい。
実際、テッサロニキを奪った以後のトルコは、バルカンには遠征しても、ヴェネツィア領には軍隊を送らなかった。
この時期、徹底したリアリストであるヴェネツィアにとって、トルコが攻めてくるなど、考えられないことであったに違いない。
トルコがどうして攻めてくる必要があるのか、ヴェネツィアには合理的理由が見出せなかった。
しかし、そこに落とし穴があった。
その後、1453年、トルコ帝国はコンスタンティノープルを攻め落とし、ビザンチン帝国が滅亡。
東方での貿易を最大の糧とするヴェネツィアは、強大な軍事力を誇り、さらに西へと勢力を広げようとするトルコ帝国と攻防を繰り広げることになる。
1479年に平和条約が締結され終結することとなるこの戦争で、ヴェネツィアは東地中海における地位を大きく後退させざるを得なくなる。
そして、領土の損失よりも深刻だったのはトルコがヴェネツィアを上回る海軍を作り上げたこと。
東地中海を支配しているのはヴェネツィアではなくトルコとなってしまう。
ヴェネツィアは陸上のみならず海上でもトルコに脅かされるようになる。
海軍国と陸軍国というちがいをふくめて、あらゆる点でちがう民族を敵としなければならなくなったヴェネッィアの苦悩は、並大抵のものではなかったであろう。
交易立国であるヴェネツィアは、絶対に他者を必要とした。
それなのに、この他者を必要とする国は、十五世紀後半に至って、他者を必要としない、つまり自分たちとはまったく別の価値観を持つ国家を、敵に持ってしまったのである。
このような相手に対して「自分たちだったらこう考える」という思考は通用しない。
ヴェネツィアの衰退は、この時に決定したと言ってよいだろう。
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