« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

2011年8月の31件の記事

2011年8月31日 (水)

ジャーナリズム崩壊/上杉隆

A9r80c7  ピュリッツァー記者でもあったその人物は、米国ならば誰もが知っているような人気ジャーナリストだった。タイムズではコラムを持ち、望みさえすれば、ほとんどいつでも、比較的大きなスペースで署名記事を掲載することが可能だった。米国のジャーナリズムの世界では、彼の名前は常に輝かしい栄光とともに語られていたのである。
 ところが、歳には勝てないのだろうか、年々、彼の記事は本来持っている鋭さを失っているのではないかという評判が広がり始めていた。
 そんな中、編集主幹にハウエル・レインズ氏が就任すると、ニューヨーク・タイムズは、功労者ともいうべき彼に対して、突如、警告を発したのである。

昨今の貴殿の記事の内容には不満がある。一定の期間内に改善が認められないようであるならば、契約を解除する。

 ニューヨーク・タイムズ内でそのニュースは衝撃をもって伝わった。はるか極東の一支局で働く特派員たちの間でも大きな話題になったほどであった。それから数カ月して、この警告は現実のものとなった。記事に改善が見られないとして、ニューヨーク・タイムズはこの記者との契約を打ち切ったのだ。(P64~65)

上記のようなエピソードは日本ではあり得ない話。

こうした厳しさを日本の新聞社で見かけることはない。

ほとんど記事も書いていないのに、ただ長くいたというだけで、実に多くの「名物記者」たちが我が物顔で社内を闊歩し続けている。

社内で高いポストに居すわっている彼らのほとんどが「過去の人」。

お粗末な誤報を連発してもクビになるどころか、部署異動によって社員として、定年まで生活を続けることができる。

日本の新聞記者はまったく優雅な職業である。

彼らにとっては、良質な記事を書けるかどうかはさして問題ではない。

問題は、社内でいかにいいポジションをキープし続けることができるかがすべてなのである。

それでは第一線の記者はどうなのか。

記者クラブという談合集団の中で、何の苦労もなく、一定の情報を得ることができる。

そして書かれる記事は、ほとんど無署名記事。

書いた者の責任を問われることはない。

また決して自分たちは間違っていないと思い込んでいる。

仮に間違った記事を載せたことがわかったとしても、何とか隠そうとする。

問題が大きくなり、どうしても謝らざるを得ない状況に追い込まれた場合は、目立たないように新聞の片隅に謝罪記事を載せただけで済まそうとする。

これではクオリティーの高いジャーナリズムが育つはずがない。

ジャーナリズムという点では、日本は明らかに後進国である。

中国を笑うことはできない。

そして、最大の被害者は、その記事を読む国民である。

2011年8月30日 (火)

人生の目的/五木寛之

A9ref18  広さが三十センチ四方、深さが五十六センチの砂のはいった木の箱に、一本のライ麦の苗を植える。そして四カ月あまり水をやって育てる。するとライ麦は貧弱な姿ではあるが、ともかくその木の箱の上に育つのである。次は木の箱をこわして、砂の中にどれほどの麦の根が伸び広がっているかを計測する。砂をふるい落とし、根とその先についている目に見えないような根毛までも、くわしく長さを計るのだ。その結果、そのライ麦が砂の中にびっしり張りめぐらして、水分やカリ分や窒素などを必死で吸いあげて麦の命を支えてきた土中の根の総延長数が、なんと一万一千二百キロメートルに達していたことが判明したというのである。(中略)
 自己の運命と宿命を受け入れた上で、さて、それからどうするのか。答えは一つしかない。それはく生きる〉ことである。生きて、この世界に存在することである。見えない砂の中に一万一千二百キロメートルの根を張って生きた一本のライ麦にならって、なんとか生きる。生きつづける。自分で命を投げだして、枯れたりせずに生きる。みっともなくても生きる。苦しくとも生きる。
生きていればどうなるというのか。何かが起こる可能性があるというのか。
 私はあると思う。(P77~80)

五木氏は、人の人生を木の箱に植えられたライ麦にたとえている。

ここで三十センチ四方、深さ五十六センチの木の箱とは、そのライ麦が背負った宿命にほかならない。

そして実験室に植物として発芽したことは、その麦にあたえられた運命。

その苛酷な運命と宿命の交錯する場所で、一本のライ麦は命を枯らさずに生きた。

一万一千二百キロメートルに達する根を、見えない砂の中にびっしりと張りめぐらせて生きつづけた。

五木氏は人生というものも、それと同じようなものだと言う。

私たちは人間として地上に生まれたという大きな運命を受けている。

そして、どんなにながくとも百年前後でこの世界から退場するという運命をあたえられて生まれてきた。

アジア人としての肌の色と体質をあたえられ、二十一世紀という時代の中を生きている。

それは私たちの運命である。

逆らうことはできても、変えることはできない。

こうして私たちが選ぶもっとも自然な道は、あたえられた運命と宿命を、人生の出発点として素直に受け入れること。

〈受容する〉と表現してもよい。

受容することは、敗れることではない。

絶望することでも、押しつけられることでもない。

運命を大きな河の流れ、そして宿命をその流れに浮かぶ自分の船として、みずから認めることである。

そこから出発するしかないのだ。

だから、自分で命を投げだして、枯れたりせずに生きる。

みっともなくても生きる。

苦しくとも生きる。

生きていればどうなる。

何かが起こる。

これは、生きることに絶望している人とっては心に響くメッセージではないだろうか。

2011年8月29日 (月)

50代からの選択/大前研一

A9rea8e  都会ではごく普通のスキルを、地方の会社に持ち込んだところ、驚くほどの効果が上がった、というケースが実は非常に多い。
 というのは、地方では、会社の形をいちおうはとりながら、会社になっていないところ、利権だけで商売をしているところ、県庁など役所のお抱え出入りの業者になっているところなどが多く、東京のような厳しい企業間の競争はほとんどないのである。それでいて経済規模は大きい。そんなところへ、本当の企業経営をちょっとでも持ち込めば、そのメリットは計り知れないほど大きなものになるのだ。
 だから、地方の会社に転職すれば、あなたのスキルが重宝がられ、大切な人材として扱われるのは確実。子会社とか事業部を経験した人であれば、やってきたことがほぼそのまま生かせる可能性が非常に高い。(P118~119)

ここで書かれていることを一言で言えば、「地方ではまともな経営が行われていない」ということ。

これを読んで腹を立てる地方の会社の経営者や社員は多いかもしれない。

ただ、残念ながらこれは事実である。

私自身、山口という地方で人事コンサルの仕事をしているのだが、これは実感とするところだ。

私が長年働いていた東京から、生まれ故郷の山口に戻ってきたのは9年前のこと。

そして人事コンサルの仕事を始めた。

様々な企業に関わってきて感じたのは、まさにここで語られていること。

東京では「当たり前」と考えられている手法が、地方では当たり前ではない。

だから私程度の人間でも人事コンサルタントとして食っていけるのだろう。

まだ、都会では埋もれてしまっている優秀な人材が多いのではないだろうか。

特に都会で定年退職した人の第二の活躍の場として、地方の企業を考えてみてはどうだろう。

そうすれば地方企業も活性化すると思うのだか。

2011年8月28日 (日)

「見せかけの勤勉」の正体/太田肇

Bt000012728500100101_tl  部下は上司から「やる気を出せ」と言われ続けると、そしてやる気が評価や処遇に結びつくとなると、「そんなに言われてもやる気は出ない」ではすまない。とにかくやる気を出さなければいけないと焦り、やる気を絞り出す。その結果、やる気が自己目的化する。カラ元気を出して、同僚やライバルに負けないよう、がむしゃらに働く。しかし、やる気の出る原因そのものが存在しないのだからそれは長続きしない。
 そこで、だんだんやる気を装うすべを覚えるようになる。
 高校野球を観ていると、野手は飛んできた打球を捕れないとわかっていてもダイビングする。プロ野球ならノックアウトされた投手はベンチでグラブを投げつけたり、ロッカーを蹴ったりするし、チャンスで三振をした打者はバットをへし折る。そうしなければ、「ファイトがない」、「口惜しさが感じられない」と言われ、つぎから使ってもらえないかもしれないからだ。(中略)
 会社のなかでも「やる気」の演技者をいたるところで見かける。自分の中の存在感を示そうと、周りの迷惑を顧みず必要以上に大きな声を出す人。会議で延々としゃべり続ける人。できもしないのに大言壮語する人。上司に取り入る人。仕事をやたらたくさん抱え込む人。そして口癖のように「忙しい」という言葉を連発し、せわしくなく動き回る人。休暇は少しも取らず、毎晩遅くまで残業している人。(P195~197)

見せかけのやる気と、本物のやる気とは性質が全く異なる。

本物のやる気は内側から出てくる。

そのためやる気が継続し、目的に向かっていく。

つまり成果を出すための心理状態であり、結果として成果が出る。

しかし、見せかけのやる気は、人に見せるためのやる気。

あくまでポーズ。

内容が伴っていないため、人が見ているときだけ、やる気を出している振りをする。

無理があり、長続きしないため、当然成果は出ない。

また場合によっては、心理的な無理がたたって、うつになることもある。

つまり本物のやる気と見せかけのやる気は全くの別物ということ。

そして、日本人の場合、見せかけのやる気の場合が非常に多い。

日本人の場合、小さいころから集団の中での自分をいつも意識して生きてきている。

考えることは「人は自分をどう見ているのだろう」ということ。

だから、「やる気を出せ」と言われた場合、「見せかけのやる気」に走ってしまう。

それそも、「やる気」とはあくまで内発的なものであるはず。

にもかかわらず「やる気を出せ」と外側から働きかけるのは、どう考えてもおかしい。

そして、この論理的に矛盾していることがまかり通るところに日本の組織の特殊性がある。

2011年8月27日 (土)

経済ニュースが10倍よくわかる 日本経済のカラクリ/三橋貴明

A9rf2de  そもそも日本のメーカーは、海外の需要のために製品を開発し、成長してきたわけではない。1億3000万人近い人口がいる巨大な国内市場でもまれにもまれ、叩かれに叩かれて磨き上げた製品だからこそ、海外でも売れたのだ。
 その「根っこ」を忘れてはいけない。グローバルスタンダードなどと言い出すと、日本企業の本質を忘れた物言いを始める人が少なくないのだ。(P105~106)

この本は、私たちが知らず知らずの内に常識だと思い込んでいる事柄に別の角度から切り込み、いろんな気付を与えてくれる。

例えばグローバル化の問題。

近年、サムソンに日本のメーカーが追い抜かれてしまったことを引き合いに出し、「競合企業が国内で消耗戦を続け、わずかな余力しか海外に振り向けられないようでは、韓国企業に追いつけない」といった論調。

そして日本にいくつかある企業を合併させ、ガリバー企業を作りグローバルでの戦いを優位に進めるべきだというもの。

しかし三橋氏は、日本の企業が強いのは、日本人という世界で最も品質にうるさい消費者に揉まれ切磋琢磨して技術革新、品質向上に努めてきた結果だとのこと。

日本企業が世界で勝つためには、あくまで世界一厳しい日本市場で切瑳琢磨し、オリジナリティあふれるものを作り出す。

その上で評判の良い物を輸出するという流れでなければいけない、と説く。

だから、ガラパゴス化大歓迎。

言い方を変えれば、ガラパゴス企業こそが、新しいグローバル市場の覇者となると言う。

ガラパゴス化を諸悪の根源のように批判する論調とは一線を画する。

いかに私たちがマスメディアによってマインドコントロールされているかということであろう。

2011年8月26日 (金)

お金の流れが変わった!/大前研一

A9r6a89  ほかの通貨に対して円高が進んでいるというのに、個人資産が海外に出て行かず、ほとんどの人がいまだに0.2パーセント程度しか利息のつかない円預金を続けている状態は、覇気のなさを通り越して、異常としかいいようがない。
 仮にも表面的には円がここまで“高評価”されているのは、世界が日本に「来てください」といっているに等しい。相手から「銃に弾を詰めてやったぞ、さあ撃て」といわれているのに、なぜか日本人は引き金を引こうとしないのだ。撃たなければせっかくの銃も宝の持ち腐れ。やがて火薬が湿気て、撃とうにも撃てなくなってしまうだろう。(P241)

今、円高が進んでいる。

これに対して悲観論、否定論が多い。

しかし、これは見方を変えればチャンスということ。

もし、現在の強い円を使えばエネルギー、食料、鉱物、木材といった資源がバーゲンセール状態で買える。

世界最大の天然ガス企業であるガスプロムや、同じく世界最大の鉱山会社のBHPビリトン、穀物メジャー大手のコンアグラやバーゲルなども、いまなら簡単に買収、または資本参加できる。

また日本には1400兆円もの個人金融資産が手つかずで眠っている。

こんな国は世界のどこを探してもない。

国民の消費マインドが高まってこれが市場に出てくれば、景気は一気に回復する。

つまり、日本に関していうなら、リーマン・ショック後の不況は決してピンチではなく、むしろチャンスとしなければならないというのが大前氏の主張である。

物事の見方には必ず両面がある。

日本のマスコミ報道は、片面だけに偏り過ぎる傾向がある。

報道を受け取る者がもっと賢くなり、自分で物事を考えるクセをつける必要があるということだろう。

2011年8月25日 (木)

地頭力を鍛える/細谷功

A9rd526  「流れ星に三回願いごとをすると願いが叶う」と言われている。読者はこの話を信じるだろうか?実はこの話にはれっきとした根拠があるのである。流れ星を実際の星空で見たことがあるだろうか?実物の流れ星というのは、たとえ「○○座流星群」のようなかなり集中的で数の多いものであっても、何分かに一回ほんの一瞬だけ現れてすぐに消えてしまうものであり、実際にこの瞬間に願いごとを三回も言うというのは至難の技である。しかもいつ現れるかわからないので、よほどの「準備」を事前にしておかない限りはそんなことは不可能である。(中略)
 もうおわかりであろう。この「神様のエレベーターテスト」に合格するためには、片時も忘れずに願いごとを単純に凝縮した状態で強く心に思い続けることが必要なのだ。一つのことをそこまで強く継続して思い続ければ、叶わぬ願いなどないはずがないというのがこの話のメッセージである。スポーツの世界でもビジネスの世界でも、夢を叶えた人たちというのは「神様のエレベーターテスト」に合格した人ばかりなのだ。これには普段から「結論から」「全体から」「単純に」考えることをとことん追求しておく必要がある。(P209~210)

コンサルタントの世界に「エレベーターテスト」と呼ばれるものがある。

例えばあるコンサルタントがクライアントにプロジェクトマネジャーとして駐在し、社長が最終報告先であるプロジェクトを実施しているものとする。

ある時偶然エレベーターホールの前で社長とぱったり会って「プロジェクトの状況はどう?」と聞かれたとする。

多忙な社長に説明できるのは、エレベーターに乗って降りるまでの30秒だけ。

こうした場合にいかに簡潔かつ要領を得た説明ができるか?

これがエレベーターテスト。

これをうまくこなすにはどうすればよいか?

ここでのポイントは、自分の取り組んでいるプロジェクトの状況を「いつでも」「短時間で」説明できるよう、心の準備をしておかなければならないということである。

だから「流れ星に三回願いごとをすると願いが叶う」というのは迷信でもなんでもなく、極めて合理的な考え方だというのである。

確かに、一瞬の内に、自分の一番の願いを凝縮した短い言葉で語るというのは、普段から考え抜いていないとできることではない。

そして、普段から考え抜いていることであれば、おそらくそれは潜在意識の中にもしっかりと刻み込まれているだろうから、実現される可能性が極めて高いといえる。

つまり「流れ星に三回願いごとをすると願いが叶う」言い伝えは、極めて合理的な考え方であると言うこと。

そのように説明されると、「ナルホド」と思わずうなってしまう。

2011年8月24日 (水)

仕事を通して人が成長する会社/中沢孝夫

9784569790831_1l  このように頑張っている久保社長は、経営に関して少し辛辣なところがある。例えば「不況で倒産が増えているといわれていますが、景気が理由で経営が立ち行かなくなるのではなく、時代に適合できないところがつぶれるのです」と言う。たしかにそれはいえる。景気はきっかけに過ぎない場合が多いのだ。景気の悪化が、その会社の欠陥を明るみに出してしまうのである。(P150)

一代で全国区の豆腐屋を創り発展させている幸伸食品の久保社長。

福井県の永平寺町で、胡麻豆腐を中心とした各種の豆腐の製造販売と、豆腐料理のお店を開いている。

従業員数は35名。

パートもアルバイトもいるけれど、正社員にならないのは勤務時間などを理由とする本人の都合であって、会社の都合ではない。

だから全員が社会保険に加入している。

継続し発展している会社の経営者は、みな自らの「経営」や「仕事」に関する「哲学」あるいは「説明する力」をもっている。

久保社長もその一人。

会社の基本方針は、理念としての「健康と幸せ」と、「量ではなく質を追う」となっている。

「量」を追いかけると大企業に負けるからだという。

また「質を追いかける」とは、商品の質と経営の質をともに向上させるという意味があるそうだ。

会社の具体的な戦略も、この理念を具体化する形で落とし込まれている。

驚くことに、この規模で、「世界への発信」を考え、もう具体的に動き、試行錯誤を重ねている。

このように経営に真剣に取り組んでいる久保社長だからこそ、「景気が理由で経営が立ち行かなくなるのではなく、時代に適合できないところがつぶれる」と言えるのだろう。

確かに今は経営者にとっては大変厳しい時代だと言える。

しかし、そのような環境にあって、言い訳をせず経営努力を更に重ねる経営者と、国や自治体に要求や文句ばかりを言っている経営者がいる。

今はある意味、経営者がふるいにかけられている時代だとも言えよう。

2011年8月23日 (火)

貧乏人の発想金持ちの行動/大谷将夫

Bt000012899700100101_tl  従業員に求められる能力は、仕事によってさまざまだが、どの仕事にも共通しているのは創造性である。新しい事業を企画するのも、仕事のより効率的なやり方を見つけ出すのも、創造性が発揮されてのことである。
 創造性が弱まると仕事はマンネリ化し、改善や改革は進まない。変化に乏しい停滞した会社になりかねない。
 会社の発展は、社内にある人の創造性の総合力で決まる、というのが私の持論である。社長以下、取締役から現場の担当者まで、どれだけ創造性を発揮するかで、会社の将来は決まってくると思えるのだ。(P255)

社長としてタカラ物流システムグループを9期連続増益に導き、10年近くにわたり赤字をたれ流していた長崎運送を買収後わずか8カ月で黒字に導いた大谷氏。

会社が生き残り利益を上げるためには何が重要でどのようにすればいいのか?

大谷氏は、社員に求めるのは創造力だと言う。

この裏にあるのは、ただガンバルだけではダメだということ。

業績の悪い会社のトップがよく口にする「頑張ろう」とか「全社一丸となって」といった言葉がある。

間違ってはいないのだろうが、問題は「どの方向で頑張るのか」ということである。

今のような変化の激しい時代、ただやみくもに頑張っても社員は疲弊するだけだ。

むやみやたらに「頑張る」ことより、「考える」ことの方が価値のある時代だ。

そして考えることをさらに進化させ、創造性の域まで至ること。

これが全社に浸透したとき、その会社は変化する。

特に中小企業の場合、業績悪化の原因の9割以上は経営者の側にあると考えて間違いない。

その意味で、まず経営者から、その意識や考え方を変える必要がある。

社員が考えないのは、経営者が考えないからだ。

2011年8月22日 (月)

街場のメディア論/内田樹

Bt000011954200100101_tl  それと同じようなことを村上春樹さんも柴田元幸さんとの対談の中で言ってました。
 「いい小説が売れない。それは読者の質が落ちたからだっていうけれど、人間の知性の質っていうのはそんな簡単に落ちないですよ。ただ時代時代によって方向が分散するだけなんです。この時代の人はみんなばかだったけど、この時代の人はみんな賢かったとか、そんなことはあるわけがないんだもん。知性の質の総量っていうのは同じなんですよ。それがいろんなところに振り分けられるんだけど、今は小説のほうにたまたま来ないというだけの話で、じゃあ水路を造って、来させればいいんだよね。」
 この村上さんの言葉の中の「小説」という単語は「書物一般」に拡げて考えることができると僕は思います。書籍が売れなくなったのは、これまてメディアについて言ってきたのと同じように、やはり出版する側に、読み手の「知性の質の総量」に対するリスペクトが足りないことが原因なのではないでしょうか。(P221~222)

今、マスメディアの凋落現象が起こっている。

一番の原因として上げられているのはインターネットの出現。

これまで新聞とテレビを中心として組織化されていたマスメディアの構造がインターネットの出現によって崩壊してしまったというもの。

しかし、本当にそうだろうか。

例えば、テレビ番組の質はどうなのか。

相変わらず程度の低いバラエティーがやたらに多い。

あまりにも内容の浅い制作者の意図がミエミエのドラマ。

どの局も同じ視点で同じことしか言わない報道番組。

いかにもしたり顔で、庶民の代弁者のような態度でコメントする、年収数千万のキャスターたち。

はっきり言ってこれでは見る気がしない。

テレビを観ること自体が時間の無駄だと感じてしまう。

つまり、マスメディアの凋落は、マスメディアにかかわっている人たちの力が落ちたことが原因であり、インターネットはそのきっかけを作ったに過ぎないということ。

内田氏は、その原因は視聴者や読者に対するリスペクトが足りないからだと述べている。

程度の低い情報しか提供せず、それは読者が或いは視聴者がそれしか求めていないからだという考え方がその根底にあるという。

今後、インターネットは益々広がりと深みを増してくるであろう。

そして、既存のメディアは、これをきっかけとして、もう一度自分たちの存在価値、存在意義というものを考え、原点に立ち返っていく必要があるのではないだろうか。

これが生き残りへの唯一の道であるように感じる。

2011年8月21日 (日)

史伝 吉田松陰/一坂太郎

Bt000012834400100101_tl  名門のひとり息子だけに晋作はわがままで、負けん気が強い。プライドも異常なほど高い。子どものころ、誤って晋作の凧を踏み破った武士に激しく抗議をし、土下座させて謝罪させたという伝説が残るほどだ。友人たちからも「鼻輪の無い暴れ牛」と呼ばれ、恐れられていた。
 それだけに、松陰は晋作の欠点を指摘しなかった。人間、欠点を指摘されるのは面白いものではない。短所を戒め、指摘するのは控えめに、美所、長所を誉めて伸ばすというのは、松陰が影響を受けた中国の王陽明の教えでもあった。
 そこで、松陰はさらにしばらく晋作の観察を続ける。
 すると、晋作は一つ年少の久坂玄瑞に大変なライバル意識を抱いていることが、分かってきた。(中略)
 そこで松陰は、晋作を発奮させるため、一計を案じる。何かにつけて、晋作がいる前で玄瑞を誉めた。傍らでみている晋作は内心面白くない。ひそかに猛勉強を始めた。
 すると晋作の学力はみるみるうちに伸び、議論は卓越したものとなってゆく。塾生たちから一目も二目も置かれる存在へと、急成長を遂げた。(P212~213)

幕末から明治維新にかけて数々の偉人を輩出した松下村塾。

中でも高杉晋作、久坂玄瑞は、「識の高杉、才の久坂」と称され、「松下村塾の双璧」と呼ばれた。

上記は、高杉晋作を吉田松陰がいかにして育てたが記されている。

入門してきたばかりの晋作は学問が未熟だったという。

一方、直感力で、物事の正か否かを見分ける嗅覚が備わっているという優れた点があった。

本気で学問をさせたら天性の才能に磨きがかかり、素晴らしい人物になるに違いないと松陰は考える。

そこで、試みたのは、一歳年下の玄瑞を晋作のいる目の前で誉めるというやり方であった。

普段から玄瑞に対してライバル心を持っているということを松陰は見抜いていた。

プライドが人一倍高い晋作としては面白くない。

ひそかに猛勉強を始めたという。

つまり「人をみて法を説け」ということであろう。

誉めるのと、叱るのと、どちらが効果的かということではない。

その人その人にあった育成の仕方があるということである。

2011年8月20日 (土)

池上彰の大衝突/池上彰

A9re885 中国のEEZ(排他的経済水域)の面積約96万㎢(世界第22位)
日本のEEZの面積約451万㎢(世界第6位)
●海洋政策研究財団

中国の対外援助額 年間15億〜20億ドル(推定)
日本のODA(政府開発援助) 総額7002億円(2008年度予算)
●産経ニュース


日本の輸入生鮮、冷蔵野菜のうち
中国産の割合(数量ベース)55.6パーセント(2008年)
●『中国情報ハンドブック[2009年版]』(P384~386)

上記の3つの数字は日中の複雑な関係を表している。

1つ目の数字。

意外なことに、国の管轄下にある海の範囲で見ると、日本のEEZ(排他的経済水域)の面積は、中国のなんと五倍近くもある。

このことは、日本が海洋資源などに恵まれていることを示しているのと同時に、EEZをめぐって、日中両国が衝突しかねない問題をはらんでいることも意味している。

そのいい例が、中国が東シナ海で実施した海底ガス田開発をめぐる問題。

今後、ガス田に限らず、こうしたEEZをめぐる問題が、他でも生じないとは限らないということ。

2つ目の数字。

中国は、国際的な影響力を強めるために、途上国への巨額の経済援助を増やしてきている。

その額は、推定で日本の約四分の一の規模にまで増えてきている。

援助先は、資源国であることも多く、今後、欧米諸国も巻き込んだ資源獲得競争が激化することが予想されるということ。

3つ目の数字。

こうした激しい競争の一方で、日中の経済的な結びつきは強まっている。

たとえば食料品や雑貨などでは、中国産がかなりの割合を占めている。

生鮮、冷蔵野菜にいたっては、輸入量全体の五割以上が中国から来たもの。

また中国は、日本からの輸出品の大きな受け入れ先でもある。

日中両国は、お互いに依存しあう関係でもある。

この3つの数字が示していることは、

好き嫌いにかかわらず中国との関係を抜きにして、日本の発展はあり得ないということ。

今、日本の置かれている状況とはこのようなものであるということはしっかりと捉えておく必要があるのだろう。

2011年8月19日 (金)

いま、働くということ/大庭健

A9rc9ed  なるほど、仕事も趣味も、一見したところ、ともに私人として個人的な達成を追い求める私的な活動であり、その点で同じだ、と見えるかもしれない。しかし、そうではない。仕事の成果は、協業のネットワーク全体をつうじてさまざまに伝送され、最終的には、人々が各自の生命と生活を再生産するために用いられる。どんな仕事であれ、仕事であるかぎり、それが停止してしまったなら、協業のネットワークに変調をきたし、最終的には人々の生命・生活の再生産に支障をきたす。(P54)

著者によると、仕事とは社会の形成のため、それぞれが役割を分担し合い遂行される協業の網の目となる個々の活動だという。

例えば「やっと一人前になれた、なれそうだ」という仕事に特有の安堵。

それは自分の活動が、人々の生活の再生産に寄与するものを作り出すのに役に立っている、ということが確認できたという安堵。

つまりやっと自分は社会を形成する役割の一端を担っているという自覚を持てるようになったという感覚。

これが仕事の満足感ややりがいにつながる。

「仕事とは自己実現のため」という考え方がある。

そのため、いつまでも「自分探し」をし続け、定職につかない若者が増えている。

しかし、そこには社会を形成する役割の一端を担うという視点が欠落している。

極端に言えば、それは趣味の世界である。

個人的な趣味の場合、どれだけその活動に打ち込み、その充実感が、仕事をするときのそれを遥かにしのいでいるとしても、その活動が停止したことによって、人々の生命・生活の再生産に支障をきたす、ということはない。

少し哲学的なアプローチにはなるが、「何のための仕事をするのか」ということも考える必要があるのではないだろうか。

2011年8月18日 (木)

型破りのコーチング/平尾誠二、金井壽宏

Isbn9784569774770  よく「チームワーク」と言いますよね。ぼく、あの言葉が大嫌いなんですよ。ワークというのは、だれかに命令されてやらされるということじゃないですか。そんなの楽しくないし、やらされていると思うから、じゃあ見えないところで手を抜こう、サボろうという気持ちになるのではないですか。
 それで、ぼくは「チームワーク」ではなく「チームプレー」と言うようにしています。これは仕事じゃないよ、遊びなんだ、って。遊びだからこそ必死になれるのです。遊びは真剣に取り組まなければ成立しませんからね。
 子どもの鬼ごっこを見てください。なんであんな単純なことで、あそこまで楽しめるのかといえば、だれもが必死だからですよ。必死にやらず手を抜いたら、とたんに楽しくなくなる。そういうことを子どもたちは、無意識のうちに感じ取っているのかもしれませんね。それに、真剣だからこそ秩序やルールもそこから生まれるともいえます。
 ですから、組織と個人の関係を考えるにあたっては、まず、遊び=プレーの概念を全員が共有し、そのうえで自由と規律のバランスを考えるのが、ぼくなりのやり方なのです。(P56~57)

「チームワーク」ではなく「チームプレー」。

この視点は新鮮だ。

言われてみれば確かにそうだ。

「ワーク」といった場合、どうしても「やらされ感」というものが出てくる。

日本の組織がどうも窮屈に感じられるのは、規律の割合が大きすぎるからではないだろうか。

どうも日本人は、組織の一員となったら、自分のやりたいことを我慢しなければならないと無条件に思い込んしまうようなところがある。

しかし、やらされ感があった場合、どこかで「手を抜こう」とか「サボろう」という感覚がでてくる。

だから、平尾氏はあえて「チームワーク」ではなく「チームプレー」だと言うのだろう。

そして「遊びだからこそ必死になれる」という。

確かにそうだ。

必死に真剣に遊ばなければ、遊びは楽しくない。

「遊び」という感覚が真剣さを引き出すといってもよい。

「仕事は遊びじゃないんだ」という人がよくいるが、

それは「遊びの本質」を間違ってとらえているのではないかとも言える。

2011年8月17日 (水)

広報室沈黙す/高杉良

A9r4b2a  「私は、昭和三十四年からこの仕事をしています。いろいろ言うに言われぬ辛い経験もしてますが、そんなとき、これをつぶやくことにしているんです」
 江藤は、定期入れの中から紙片を取り出して、木戸に手渡した。
 紙片には、次のような言葉がタイプで印刷されてあった。

   男の修業
 苦しいこともあるだろう
 云いたいこともあるだろう
 不満なこともあるだろう
 腹の立つこともあるだろう
 泣きたいこともあるだろう
  これらをじっと
  こらえてゆくのが
 男の修業である

 「山本五十六元帥が遺した言葉と言われてますが、二十年以上も広報をやってますと、ときには死にたくなるようなひどい仕打ちにあうこともあります。そんなとき“じっとこらえてゆくのが男の修業である”と、わたくしは二度三度と繰り返しつぶやくことにしてるんです」(P127~128)

新任広報課長木戸徹太郎が、会社とメディア・社会の狭間で悩みながら気骨をもって立ち向かう経済小説。

モデル企業は安田火災海上保険(現在、損保ジャパン)。

ある日、経済雑誌によるスキャンダル報道で社内は大揺れになる。

超ワンマンで会社を私物化する会長。

言うことは立派だが行動が伴わない社長。

独断専行する常務。

いやな仕事をすべて部下に押しつけて報告は聞かなかったことにする室長。

こんな中、新任の広報課長木戸は企業の矛盾を一身に背負いこむこととなる。

対応に追われた広報課長の木戸は、その裏に隠された社内派閥抗争を知り、中間管理職としてどう対処すべきか悩む。

上記は、木戸が記者クラブで知り合ったE新聞島村記者に、広報のことならこの人に聞けと紹介された「広報の権化」、日本モーターズ江藤東京広報部長を訪ねるシーン。

江藤は広報マンとして自分がよりどころにしている山本五十六の言葉を紹介する。

「男の修行」と題するこの言葉、広報マンに限らず、中間管理職として立つものは身にしみるのではないだろうか。

現代でも中間管理職は「多重債務者」と揶揄されることがある。

昭和の時代を描いているが、現代においても中間管理職の置かれている立場や状況はあまり変わっていないように思われる。

2011年8月16日 (火)

燃ゆるとき/高杉良

A9r5b14  横須賀水産設立時の従業員はわずか五人、森を含めて六人の世帯だった。
 設立登記を終えた三月二十五日の夜、事務所で茶碗酒で乾杯してから、森は五人を前に照れ臭そうな顔で挨拶した。
 「横須賀水産はゼロからの出発どころかマイナスからの出発という厳しい門出になりました。しかし、僕は必ず会社は大きく成長すると確信しています。チャレンジ精神を忘れず、誠意とやる気さえあれば、仕事はいくらでも増えると思うし、多くの人々から信用もされると思います。人に対して威張らずに謙虚であってほしいと思います。そして僕自身、正義の味方でもありたいと願ってます」
 森にとって、いわばバージンスピーチでもあった。
 話してるほうも、聞いてるほうも皆んなナッパ服にゴム長スタイルだった。(P29)

築地魚市場の片隅に興した零細企業が、「マルちゃん」ブランドで一部上場企業に育つまでを実名で描いた経済小説。

わずか4パーセントの生存率といわれるノモンハンの激戦を生き抜いた森和夫は、「どんな苦労も苦労のうちに入らない」と、築地魚市場の片隅に従業員5人で起業する。

商社(現三井物産)の横暴、ライバル企業(日清食品)との特許抗争、米国進出の苦難を乗り越え、東洋水産は、「マルちゃん」のブランドと「赤いきつね」のCMで知られる大企業へと育つ。

創業者が一代で一部上場の大企業に育てるのは並大抵のことではない。

どのようにして東洋水産は倒産の危機を何度も潜り抜け現在のように輝く大企業として生き残ってきたのか。

その秘訣は、その創業時の森氏のスピーチに語られている。

「チャレンジ精神を忘れないこと」

「誠意とやる気を持つ」

「人に対して威張らずに謙虚であること」

「正義の味方であれ」

森氏はこの創業時に5人の社員の前で語ったことを愚直なまでに実行する。

結局は成功する経営者の条件とは信念を曲げず「強い思いを持ち続ける」ことではないだろうか。

これは簡単なようで難しい。

2011年8月15日 (月)

「意識の量」を増やせ!/齋藤孝

Bt000012789900100101_tl  細部の意識をはっきりとさせることがどういう効果があるのか、指揮者の小澤征爾さんがおもしろいことを書いている。
 小澤さんは、1959年、24歳のときにブザンソン国際指揮者コンクールに入賞した。そのとき、桐朋学園で師事していた斎藤秀雄先生のメソッドが基礎訓練としていかに効果的なものだったかを、こう表現している。

 斎藤先生は指揮の手を動かす運動を何種類かに分類して、たとえば物を叩く運動からくる「叩き」とか、手を滑らかに動かす「直線運動」というような具合に分類する。そのすべてについていつ力を抜き、あるいはいつ力を入れるかというようなことを教えてくれた。(中略)
 ぼくはどんなオーケストラへいっても、そのオーケストラが、ある難しい曲で合わなくなったり、アンサンブルが悪くなったりしているときに、僕のもっているテクニックを使って、必ずみんなのアンサンブルを整えることができるという自信を持っている。それはすなわち斎藤先生のメトーデによるものだ。それがオーケストラのほうからみると、セイジの棒は非常に明瞭だという答えになって表れるので、僕としては、指揮する場合に非常に有利な立場に立つことができるのだ。(『ボクの音楽武者修行』小澤征爾)(P111~114)

指揮の動きを「叩き」「平均運動」と部分的に分け、一つの動きを徹底強化させる。

しかもその力の緩急をはっきり教える。

それが斎藤メソッドだったということ。

オーケストラを指揮する時の指揮者の意識量は膨大だ。

鋭敏な感覚をとぎすませながら、大河のような水量で意識を張り巡らす。

その基本が、部分に分けて細部を強化することだというのが興味深い。

つまり、膨大な行動量も、細分化して一つ一つの行動を意識して確実に自分のものにしていくことが重要だということ。

これは様々な仕事のスキルを身につける時の参考になる。

どんな仕事でもそれは小さな行動に細分化することができる。

逆に言えば、仕事とは小さな行動の集積の結果である。

だから仕事の質や量を高めようとするならば、最初から大きな枠組みで考えないで、小さな行動に細分化してみる。

そして、その行動を一つ一つ身につけていく。

これが仕事の質や量を高めるコツではないだろうか。

そして、仕事の達人と言われる人たちの多くは、おそらくそのような方法論を自分なりに確立し自分のものにしている人たちではないだろうか。

2011年8月14日 (日)

ハリウッドではみんな日本人のマネをしている/マックス桐島

A9r1acc  サムライ・ジャパンがWBC連覇を達成した影響は、大物プロデューサー、すなわち「プレイヤー」だけではなく、撮影現場のスタッフたちにも及んでいる。
 映画制作の現場には、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)やUSC(南カリフォルニア大学)の映画学科の生徒たちが、インターンとしてやってくる場合がある。このインターンたちの中で、特に評判がいいのが日本人の学生なのだ。
 「インターンを雇うなら、アメリカ人よりも日本人」それが、ハリウッドの合い言葉になっているほど。そして彼らの仕事ぶりは、スタッフたちに日本野球の素晴らしさと結びついた形で考えられている。(P23)

アメリカ式ベースボールの典型は「俺がヒーローになってチームを勝利に導く」というもの。

WBCでは「俺がホームランをかっ飛ばしてヒーローになってやる」とみんながバットをブンブン振り回し、それが見事に裏目に出た。

対する日本野球の真骨頂は「仲間がヒーローになれるお膳立てをすることで勝利へ近づく」というもの。

いわゆる「つなぎの野球」だ。

「スモールベースボール」とも表現された。

サムライジャパンはこのつなぎの野球に徹した結果、優勝した。

つい最近のなでしこジャパンのサッカー女子ワールドカップ優勝も同様の例である。

ハリウッドでは、この「つなぎの野球」が理解されるにつれ、日本人インターンの素晴らしさも、これまで以上に高く評価されるようになったという。

彼らがやっているのも、野球選手のような「つなぎ」に徹する価値ある仕事じゃないか、というわけだ。

確かに、日本人は自然と「次の人のことを考える」ことができているように思う。

たとえば、日本の学校では、自分たちの教室を自分たちで掃除するのが当たり前。

これは「自分たちの使うものだから」という理由だけでなく、「次にこの教室を使う後輩たちに、椅麗な状態で教室を受け渡したい」という気持ちも込められているはずだ。

公衆トイレでも、使用後にトイレットペーパーの先端部分を三角に折っておく人が多い。

これもやはり、「次に使う人が使いやすいように」という考えから。

つまり、日本人にとって当たり前と思えることが、アメリカ人にとっては決して当たり前ではないということが多くあるということ。

これは日本の文化とも言えるものだが、これからの時代、ハードだけでなくこのようなソフトの部分も積極的に海外に輸出すべきではないだろうか。

ここに日本が生き残っていくヒントが隠されているように感じる。

2011年8月13日 (土)

スポーツニュースは恐い 刷り込まれる(日本人)/森田浩之

A9r8630  日本のメディアには、他国にはない一大ジャンルがある。「日本人論」だ。この分野では数えきれないほどの本が出版され、文化や言語、社会、精神構造まで、あらゆる分野について「日本人は特殊である」と唱えつづけている。
 内外を問わず多くの研究者が、日本人論のイデオロギー性を研究対象にしている。アメリカの日本研究者ブライァン・マクベイは日本人論を、日本人の「特殊性」に関する「国を挙げての思索」と位置づける。
 マクベイによれば、日本人論には「自然決定論」とでも呼ぶべき特徴がある。日本人の特殊性を論じるために、日本人論は日本の自然や気象、風土などを強調する。最もよく見られる「自然決定論」的な論理は「日本は小さな島国だから、私たち日本人は○○である」というものだという。
 日系アメリカ人の社会人類学者ハルミ・べフは、日本人論は「現代の修身の教科書」のような役割を果たしており、「国民の文化的アイデンティティー」をつくりだす源になっているとみている。このため、日本人論に書かれたとおりに行動しないと「日本人らしくない」とみなされるという。(P165~166)

この本の著者森田氏は、スポーツニュースは日々、特定のメッセージを発し、日々その刷り込みをしていると主張する。

確かに、スポーツニュースでは、パターン化した表現が多く使われる。

女子選手に対してやたら「ちゃん付け」をするのも目に余る。

「Qちゃん」「ヤワラちゃん」「アイちゃん」等々

少し若くでイケメンな男子選手に対しては、やたら「○○王子」という表現を使う。

努力と根性を必要以上に礼賛したり、

そしてサッカー等の国際試合では必ず出てくる表現は「日本の強みは組織力」というもの。

また「絶対に負けられない戦い」というフレーズをやたら連呼する。

アフリカ系は「高い身体能力」、ドイツは「ゲルマン魂」・・・

ステレオタイプの表現が目に余る。

そして国際試合の場合、だれもが抵抗なくナショナリストになる。

ナショナリズムという言葉に普段抵抗を覚える人であっても、スポーツでは抵抗なく日本人を応援する。

歴史上これをうまく使ったのがナチスドイツのヒットラーだ。

確かにこのようなパターン化した表現をすることによって、スポーツというものがより身近なものに感じるのは確かであろう。

一方で、このニュースを毎日日本国民の多くが観ているわけで、

無意識の内に日本人とはこのようなものであるという「刷り込み」が行われていると考えると、本当にこれでいいのだろうかと考えてしまう。

2011年8月12日 (金)

金融無極化時代を乗り切れ!/丹羽宇一郎

A9r2148  ちなみに、今回の金融危機が「世界同時恐慌だ」と騒がれるようになって、あるアメリカ人から手紙が届きました。彼は企業の元経営者で、私の友人です。この手紙はタイプされたものでしたから、私にだけではなくて、世界中にいる彼の友人に一斉に送られたものでしょう。ここには、サブプライム問題について、二つの忠告が記されていました。
 一つは、現金を持ち、流動性を高めて債務を減らせ。
 もう一つは、ムダを省いてコストを抑制し、スリム化しろ。不要なものを捨てろ「わかりきったことを言うな」と感じる人もいるかもしれません。どちらも当たり前の話です。しかし、この当たり前ができていないから、わざわざ彼はこうして書き記しているのです。要するに経営の原点に戻れと言っているのですが、実際はなかなか難しい。(P48~49)

現金を持ち、流動性を高めて債務を減らす。

ムダを省いてコストを抑制し、スリム化する。不要なものを捨てる。

不況のとき、これをしなければならないことはどんな経営者であっても知っている、いわば「当たり前のこと」である。

しかし、この「当たり前のことを当たり前にやる」ことは意外と難しい。

現役時代3度の三冠王に輝いた落合博満選手が一流選手の条件を聞かれ

「当たり前のことを当たり前にやること」

と答えたことを今でも覚えている。

おそらくアスリートに限らず、どの世界でも「当たり前のことを当たり前にやる」ということが一流の条件なのだろう。

その道で一流と言われる人は、せいぜい百人に一人、或いは千人に一人といったところ。

逆に考えれば、「当たり前のことを当たり前にやる」人もその位の確率かもしれない。

ではどうして「当たり前のことを当たり前にやる」ことが難しいのか。

それは動物の血が流れているからだと丹羽氏は言っている。

人間がきわめて不可解で非合理的な判断をするのも、この動物の血のなせる業だという。

ちょっとお金が入ったら、質素倹約なんてとっくに忘れてしまう。

賛沢が当たり前になってくると、もっと金ぴかにならなければ気が済まなくなる。

いつの間にか顧客の存在を忘れて、自分が会社の利益のすべてを稼いだような気になってくる。

利益が出なければ、出たように粉飾する。

悪いことだとわかっていても、それに手を染めてしまう。

「こんなことをしていたら、いつか塀の向こうに落ちてしまうぞ」と頭では理解していても、つい魔が差して、それと反するような行動をとってしまう。

つまり人間は合理的に判断し行動するのでなく、極めて動物的なのだ。

しかし、だからこそ、そこから一歩抜け出すためには、合理的に判断し行動することが必要だと言えるだろう。

2011年8月11日 (木)

「船井流経営法」の原点/船井幸雄

A9rf2d0  ケネディとジョンソンはどこがちがっていたのだろうか。
 一番大きなちがいは、人間性のもつ謙虚さと、アタマの柔らかさであったようである。
 ケネディは、エクス・コムメンバーに意見を充分に出させ、それらを「包みこみがベスト」という発想で検討して意志決定をした。
 エクス・コムメンパーは、自分の意見が充分とりあげられるので、それこそ真剣に、全知能をかたむけ、それが衆知結集されたのである。普通「包みこみ」と「衆知結集」はリーダーが謙虚でアタマが柔らかくないと、絶対にできないといってよい。といっても、ケネディはワンマンであった。強いリーダーシップを持っていた。
 一方、ジョンソンも、大統領としては超ワンマンであり、リーダーシップを持っていた。
ただ、他人の意見を意志決定には取り入れなかったようにみえる。いうならば、自分の考えだけで意志決定をしたといわれても仕方がないように私には思われる。
 ジョンソンも、優秀なアドバイザーグループをもっていたし、手続き的には、これらのメンバーに諮問し、出てきた勧告案を集団討議にかけてから決断したのだが、メンバーは、ジョンソンの意向に反するような意見は出せなかったようである。それは彼の個性の強さと権力行使法のせいであったと考えられる。(P107~109)

日本に優れたリーダーがいないからかもしれないが、リーダーシップということがよく話題になる。

ただ、「強いリーダーシップ」という言葉を誤解して受け止めてしまっている人が意外と多い。

人の意見を聞かず何でも自分ひとりで決めてしまうのが強いリーダーと受け止めている人は意外と多い。

確かに人の意見を聞きすぎて、優柔不断になり、何も決断しないリーダーは最低だが、

かといって何でもひとりで決めてしまうリーダーが強いリーダーとは言えない。

本当の強いリーダーとは人の意見を十分に聞いた上で自分の責任において意思決定をする人だと言える。

ケネディは、キューバ危機のとき、ギリギリのところで戦争を回避した。

一方、ジョンソンは、ベトナム戦争を泥沼化に導いてしまった。

どこが違っていたのか。

ひとつ言えることは、リーダーシップの型が違っていたということ。

ケネディは、エクス・コムメンバーに意見を充分に出させ、それらを「包みこみがベスト」という発想で検討して意志決定をした。

一方、ジョンソンも優秀なアドバイザーグループを持っていたが、彼らの意見を意志決定には取り入れなかった。

歴史をみると優れたリーダーとはどのような存在なのかがよくわかる。

2011年8月10日 (水)

働く女の胸のウチ/香山リカ

A9r9d  以前、ある週刊誌に、新潟県中越地震のボランティアたちの“あきれた現状”のリポートが載っていた。
 被災者を支援しようと全国から若者が集まったのはいいが、“学園祭気分”に浮かれて歌を歌ったり、自衛隊などが配る食事の列に並んで「今日のラーメンはコクがあった」などとのんきに語り合ったりしているのだという。
 この記事を大学の学生たちに読んでもらい、感想を聞いた。男子学生の多くは「そんな人たちが行くのは迷惑」「ボランティアの意味をはき違えている」と、“お気楽ボランティア”たちに批判的だった。
 ところが女子学生たちの中からは「いいんじゃないの」という声も聞かれた。「一生懸命、仕事したあとに食事を楽しんで、どこが悪いの?」「被災者の邪魔にならない程度に、歌を歌ったり語り合ったりして楽しくすごすのは大事なこと」。
 つまり、やることさえきちんとやれば、「被災現場なのだから暗い顔をして地味に過ごさなければ」と思う必要はない。むしろ食事や語らい、おしゃれなども楽しむべきだというのだ。
 そういえば、阪神大震災のときに、市民ボランティアとして活躍した田中康夫長野県知事も、被災地を走り回ったあとはガールフレンドと大阪で豪華な食事を楽しんだりしていた。自分の楽しみまで自粛するのは、かえって偽善的だと思ったのだろう。(P92~93)

ある週刊誌に載ったという、新潟県中越地震のボランティアたちの“あきれた現状”のリポートは日本人のメンタリティーを考える上で非常に興味深い。

このボランティアたちの行為を「けしからん」と見るか「やることはちゃんとやっているんだから、いいんじゃないの」と見るか、

これまでの日本人のメンタリティーから考えると、前者の「けしからん」ということになる。

また、だからこそ、週刊誌の記事になったのだろう。

しかし、「こんなことをするのは、あれだけ苦しんでいる被災者に申し訳ない」という感覚が、今回の東北大震災の復興を遅らせているという一面もしっかりと見る必要がある。

例えば、震災後の消費の低迷は、明らかに日本人のメンタリティーがマイナスに働いたケース。

「被災者があれだけ苦しんでいるのに、自分たちだけが楽しむのは申し訳ない」という心情が消費を低迷させた。

震災後、テレビCMを民間企業が自粛し、ACジャパンのCMばかりが流されたことも記憶に新しい。

これも震災後の復興ということを考えるとマイナスである。

目的合理的に考えるならば、今こそ消費を刺激し、景気を回復させ、その収益を復興に持っていく必要があるのだが、どうも日本人のメンタリティーは逆の方向に働く。

私は両面があっていいと思っているのだが、問題は、日本人はどちらか一方方向に偏りすぎるということ。

つまり、多くの人が一方方向に流されていこうとしているとき、異なる意見を言いにくいということ。

また、それを排除する力が必要以上に働くということ。

つまり、今だに、日本はムラ社会という一面を強く持っている国だということ。

やはり、これは変える必要があるだろう。

2011年8月 9日 (火)

悪の民主主義 民主主義原論/小室直樹

A9rd590_2  今の日本の議会は、立法権を役人に簒奪されきってしまっている。ではなぜ、簒奪されきったか。その理由は、男・角栄を思い出すことによって理解されよう。
 戦後日本の民主主義における政治家・田中角栄の最大の遺産は何か。答えは簡単だ。田中角栄だけが立法府たる議会を機能せしめた。
 これに尽きる。具体的に言えば、33の議員立法を行ったことだ。いまや立法機能は、官僚に簒奪されきっているが往時、議員の本分たる「法律をつくる」ことをやってみせた。(中略)

 六法全書と首っ引きで勉強した法律屋は、法が現実にあわないと現実を現行法の穴ぐらに押し込めようとする.バカな話じゃないですか---法律なんて、人間が生活していくのに役立つようにつくられたものなんです。法律が主人ではなく、人間が法律を使いこなす主人であるべきだ。人間が法律に振りまわされるなんて意味がない。田中は役人が「ご意見ごもつともですが現行法があってできません」と言えば、
 「それならいまの法律を変えればいいじゃないか。現行法を改廃して新しい法律をつくろう」
 と言う。簡にして要を得ている。当然のことでしょう。当然なことだけれども、これが現実にはなかなかできない。とくに、法にたずさわる役人たちがそうなんです。目の前の秩序にこだわる。建前の網の中から出られない。
(早坂茂三『オヤジとわたし』集英社文庫)(P181~183)

国会議員には立法機能がある。

こんなこと三権分立を習った小学生でも知っている。

でも、今の国会をみていると、国会とは立法府であるということをみんな忘れてしまっているのでは、と疑わざるを得ない。

少なくとも国会議員の口から「現行法があってできません」という言葉は聞きたくない。

その意味では、確かに田中角栄の存在は大きかった。

功罪両面を持っていた政治家だが、役人をうまく使いこなして物事を前に進めるブルドーザーのような力量については、今の政治家にはないものをもっている。

よくある議論として「清廉潔白で無能な政治家」がよいか、「毒の部分も持っているが有能な政治家」がよいか、というものがある。

もちろん、「清廉潔白で有能な政治家」がいればそれが一番よい。

しかし、歴史をみてみると、そのような政治家はなかなかでてこない。

有能なリーダーは、ある意味毒の部分を持っている。

あとは、それをどれだけ許容できるかという問題である。

平時であれば「清廉潔白で無能な政治家」でもよいだろう。

しかし、今日本は非常時だ。

速い決断と、実行力、そして国民にビジョンを示すことのできるリーダーが求められている。

無い物ねだりのような気もするのだが・・・

2011年8月 8日 (月)

官僚の責任/古賀茂明

Bt000012798100100101_tl_2  経産省の官僚のなかには、私だけではなく、自由化を推進しようとする改革派が少なくなかった。にもかかわらず、電力自由化はそれほど進まなかった。それは、どうしてなのか・・・・・・。
 一部電力自由化を中心になって実現したのは、当時、公益事業部長という電力やガス会社と直接対峙するポストになったある改革派の官僚だった。電力自由化が進めば、東電をはじめとする既存電力会社は不利益を被ることになる。だからその官僚は東電と激しく対立することになった。東電側からすれば、「こいつだけは許すまじ」という感じだったのだろうと思う。
 その官僚は一部電力自由化を達成し、局長ポストにも就いた。すると、東電が当時の次官に圧力をかけた。
 「万が一、彼が次官にでもなったら、とんでもないことになる」
 東電はさらに自由化が進むことを恐れた。そこで、「絶対にこいつには出世させるな」と働きかけたというわけだ。
 結果、その改革派の官僚は志半ばで経産省を去ることになった。同時に電力自由化論議も進展することはなく、東電の独占体質は温存されたというわけである。
 その官僚が経産省を去るとき、東電がこう言ったとの話がまことしやかに伝わっている。
 「すいませんねえ。ウチがいろいろご迷惑をおかけしたようで・・・・・・」

今回の震災は人災であるというのが、もはや日本国民の共通の認識になっている。

それほど経産省と東電の癒着は目に余るものがある。

経産省にとって東電は最も有力な天下り先であり、持ちつ持たれつの関係にある。

しかし、それが国益を損なうところまでいってしまったところに問題がある。

経産省も東電も、おそらく一流大学を出た、優秀な人材を採用していることだろう。

ところが、組織の中に入って働く中で、見事に染まってしまう。

逆に、染まっていかない人は、排除され辞めていく。

問題は明らかである。

経産省も東電も競争原理が働かないということ。

そして、「顧客」という視点が全くない。

そのため、極めて内向きな組織になってしまっている。

年功序列、終身雇用、そして決して潰れることのない組織、これが諸悪の根源。

健全な民間企業であれば、競争に勝つための自浄作用が働くものだが、それがない。

経営とは合理性を追求するものだが、それもない。

電力会社にも競争原理が働くよう、少なくとも電力はすぐにでも自由化すべきだろう。

2011年8月 7日 (日)

豆腐の如く ありのままに生きてみよう/斎藤茂太

A9r1933

 日本の女性はおしゃれが下手だと言われる。ときどき出かける銀座や渋谷の街角で、大学のキャンパスで、招かれた講演会や会合の席で、目に入る若い女性のファッショナブルな服装からは、彼女たちが“おしゃれオンチ”とはとても信じられない。
 しかしパリやニューヨークに何日間か滞在して日本へ帰ってくると、不思議に納得がいく。外国ではどんな服が今年は流行しているか、さっぱりわからない。ところが東京にいると、ファッションに鈍感な私ですら、シーズンの流行がはっきり読める。
 みんな同じ服を着ているように見えて仕方ないのである。さすがにこの頃は少なくなったけれど、以前はそんなことがたびたびあった。
 つまり欧米の女性ほど、日本の女性はファッションに個性を求めないのだろう。むしろ、バスに乗り遅れまいと流行を追い求める。(中略)
 「軟かさの点では申し分がない。しかも、身を崩さぬだけのしまりはもっている。」
 私がベストダンディー賞を選ぶ際の選考基準は、これ以外にない。すなわち、「豆腐の如く」である。(P95~98)

心理学的に考えれば、まわりと同じであることに安心感を見いだすのは、自我が充分に発達していない証拠だと言う。

「ダンディー」の語源は明らかでないが、キリストの十二使徒の一人で、男らしさで有名なアンドリューの名から派生したという説が、今のところ有力らしい。

十九世紀のフランスでは、芸術家の誇りをあらわす言葉として詩人たちが好んで使ったという。

安易に流行を追うようなおしゃれとは、ちょっとわけが違う。

それを考えると、「ダンディー」という言葉の当てはまる日本人は非常に少ないと言える。

グッチやエルメスが注目されれば、同じ柄のバッグを猫も杓子も持ち歩く。

素敵なロングヘアの女優が人気者になると、自分の顔に似合うかどうかは考えず、誰もが同じように髪を伸ばす。

ひところ女子高生の間で流行ったルーズソックスなど、その典型だと言える。

「個性的」とか「自分らしさ」を強調する人に、何か違和感を感じてしまうのは、その前提となる自我の発達がなされていないからであろう。

借り物の個性であり、自分らしさなのである。

キリスト教的な考え方が根本にある欧米人は、まず「神と自分」との関係を考える。

そこから「個性」が生まれる。

ところが、日本人にはそれがない。

あくまで、「周りは自分をどう見るか」が基準。

そこから「個性」は生まれない。

そんな日本人が「個性的」とか「自分らしさ」と言っても、何か違和感を感じてしまうのは、考えてみたら当たり前なのかもしれない。

2011年8月 6日 (土)

アー・ユー・ハッピー?/矢沢永吉

A9rf8d5001

 「アー・ユー・ハッピー?」ということばには、たぶん、「アー・ユー・ファイティング?」という意味が、隠れているのかもしれない。
 だから、めしがうまい、酒がうまい、家族が愛おしい……。これは、観客席にしがみついて、ことばの遊びだけでなんのかんの言ってるやつには、永遠にわからない歓びだろう。
 選手は予想なんかしない。勝ちたい、ハッピーになりたいと思うからこそ、試合にでているんだ。現役として。(P284~285)

矢沢永吉は、ロック歌手として大成功した。

しかし、側近にダマされて約30億円の借金をし、その金を横領されてしまう。

だが、彼はその30億円を返済し、新たに借金をして自分のスタジオを作る。

そして、「もし30億の借金がなければ、再び多くの人前で歌う今の俺はなかった」と言う。

借金という苦難を通して、人生にとって何が一番重要なのに気づいていく。

成り上がった自分の過去の姿に気づいていく。

何歳になっても、ファイティングポーズを取り続けること、これが本当のハッピーなんだと。

これは数々の苦難を乗り越えた矢沢永吉の幸福論である。

2011年8月 5日 (金)

恐怖の存在(下)/マイクル・クライトン

A9r8a86

 人間の思いこみの歴史は教訓に満ちている。人類は同胞である人間を、その者たちが悪魔と契約し、魔女になってしまったという思いこみだけで、何千人も殺した歴史を持つ。じっさい、いまなお年に千人以上もが、魔術を使ったという理由で殺されている。私見では、カール・セイガンのいう過去の“悪魔にとり愚かれた世界”から人類を救える希望の星は、たったひとつしかない。科学だ。
 しかし、いみじくもオールストン・チェイスがいっているように、
 「真実の探求が政治的意図でひっかきまわされるとき、知識の探求は権力の追求に堕する」
 これこそは、いまのわれわれが直面している危機にほかならない。科学と政治の混合は悪い組み合わせであり、悲惨な歴史を生んだ理由もそこにある。われわれは歴史を憶えておかなくてはならない。そして、世界にまつとうな知識として提示するものが、利害関係ぬきの、公平無私で公正なものであるようにしていかなければならない。(P400)

この小説で説いている環境問題は、そのまま今の日本の原発問題の議論に置き換えることができる。

地球温暖化を率直に批判する者の多くが、引退した教授であるという。

理由は、彼らはもはや研究補助金の心配をする必要もないし、下手に批判をして同僚が補助金をもらえなくなったり出世できなくなったりする心配をする必要もないから。

つまり、真実を探求するはずの科学者が、補助金欲しさに時の権力者の意向に沿った形で結論を捏造してしまっているということ。

これはそのまま原発のヒモつき御用学者が生まれる構図に置き換えることができる。

科学者の使命は真実を探求し明らかにすること。

しかし、科学者といえども国からお金が支給されなければ何もすることはできない。

結果として、お金を出してくれている時の権力者の意向に沿った形に結果を捏造することになる。

原発の安全性に問題があるとわかっていても、それを勇気を持って言える科学者が出てこない所以である。

これこそ、今、世界が直面している危機にほかならない。

この小説は環境問題を取り上げているが、今の日本の原発問題に置き換えて読んでみても非常に面白い。

2011年8月 4日 (木)

恐怖の存在(上)/マイクル・クライトン

A9rada6

 「じっさいには、そうではないんだよ」ボールダーは権威を感じさせる口調で、きっぱりといった。
 「第一に、地球温暖化とは仮説であり---」
 「---もはや仮説といえる段階では---」
 「いいや、仮説なんだ。信用したまえ。仮説でなければ、わたしとしてもおおいに助かるところなのだがな。現実には、地球温暖化はまだ仮説にすぎない。二酸化炭素その他の気体の増加が原因となって、いわゆる“温室効果”が発生し、それによって地球大気の平均温度が上昇するという、ひとつの仮説なんだ」(P128)

「ジュラシックパーク」を始め、大ヒットを連発しているマイクル・クライトンの小説。

一貫して書かれているのは「環境問題には何の根拠もない」ということ。

環境問題の背後にはそれによって莫大な利益を生み出そうとする邪悪な団体がいて、環境問題が必要以上に宣伝され、かえって将来に大変な危機を生じさせかねないと説いている。

環境問題がこの小説に書かれている通りであるかどうかは正直言って私にはよくわからない。

ただ、よく考えなければならないのは、現代がいかに「虚と実」を見分けることを必要としている時代かということだ。

ネット上では検証されない情報が垂れ流し状態。

実際、根も葉もないことが真実のように伝えられることがよくある。

マスコミで報道されていることも鵜呑みにすることは非常に危険だ。

情報が氾濫している現代だからこそ、その情報が真実かどうか疑い、見極めることが大事だと言えよう。

2011年8月 3日 (水)

これで世の中わかる!ニュースの基礎の基礎/池上彰

A9r5f51

 文化庁のまとめでは、日本の宗教の信者の数を全部合わせると2億2000万人になるといいます。なんと日本の人口の倍近くになります。中には信者の数を実際より多く発表している宗教団体もあるかもしれませんが、日本人の多くは、神社の氏子であると同時にお寺の檀家でもあります。神社やお寺など、それぞれの宗教団体が、信者の数として報告するので、こうしたことが起きるのです。
 こういう行動をとる日本人を、世界の人たちは不思議がります。「あなたは、いったいどの宗教を信じているのか」と聞くことでしょう。そこで、「さあ、考えたことないなあ」などと答えると、ますますびっくりするはずです。宗教を信じない人は、「無宗教」という、世界ではあまり一般的ではない特別な考え方を持った人だと思われるからです。
 あなたが無宗教だと知った途端、相手はよそよそしい態度に変わって、あなたから離れていくということが起きるかもしれません。
 世界にはさまざまな考え方があって、「一般的な常識」というものは、あまりないのですが、宗教だけは違います。一般的な常識が存在するのです。それは、「人は何かの宗教を信じているもので、信じている宗教以外の宗教の行事には参加しない」というものです。(P99~100)

たとえば、クリスマス。

日本人は誰でもクリスマス・パーティーをしたり、クリスマス・イブにはケーキを食べたりする。

独身の男女で、クリスマスイブには必ずデートすることにしている人も多い。

中にはクリスマスカードを送ったりする。

しかし、そもそもクリスマスはイエス・キリストの生誕を祝うキリスト教徒のお祝い。

そしてキリスト教徒でもないのに結婚式はキリスト教式で行う人も多い。

そして同じ日本人が葬式は仏式で行う。

おそらく外国人からみたら「日本人はわからない」ということになるのだろう。

以前「日本の常識は世界の非常識」という言葉が流行った。

日本人は自分のことを無宗教だとよく言うが、外国人からみたらそれは「人間ではない」というのと同義語だと聞いたことがある。

日本の国際化が叫ばれている昨今だが、宗教に対する根無し草的な態度は、意外と外国人に不信感をもたらしているのかもしれない。

2011年8月 2日 (火)

人は「感情」から老化する/和田秀樹

A9rb91d

 中高年が本を読むときは流し読みしててもダメで、無理にでもエピソード化していかないと、なかなか記憶に残りにくい。
 そんな「エピソード記憶」する読書法に、イチャモンをつけながら読むという方法がある。これは人生経験が豊富にあればこそできる方法だ。つまりどんな高名な著者でも、自分の体験に照らし合わせると「そうじゃないだろ」と突っ込んだり、言いがかりやイチャモンがつけられる。
 “嫌米物”や“嫌韓物”も、著者の判断を鵜呑みにするのではなく、「それは決めつけがすぎるだろう」「こうしたほうがいい」と、自分なりの価値判断をしながら読むようにすれば、面白く感じるはずだし、記憶に残るようになる。(P155)

読書する場合の問題の一つは、読みっぱなしにしては何も残らないということ。

中高年になると、この傾向は更に顕著になってくる。

これに対する対策は、私の場合、読書をして一箇所印象に残った箇所を抜き書きし、それにコメントをつけるというもの。

このブログも人に読んでもらうためというより、自分自身のために行っている。

はっきり言ってコメントの内容も人に見せられるようなものではない。

時々読み返してみたら矛盾だらけ。

それでもやめないで続けているのは、それなりのメリットを感じているから。

和田氏が言っている「エピソード記憶」する読書法に通ずるものがあるのではないかと思っている。

何よりも大事なことは「続けること」だ。

2011年8月 1日 (月)

グレート・ギャッツビー/スコット・フィッツジェラルド

A9r8a0a

 ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。・・・・・そうすればある晴れた朝に―――
 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。(P325~326)

もう30年以上前に一度読んだことのある小説だが、村上春樹が翻訳したということで興味を持ち読んでみた。

この小説は、デイジー・ブキャナンに対する、ギャッツビーのかなわぬ思いを描いたラブストーリーでもある。

2人の出会いは、物語の始まる5年前。

若きデイジーはケンタッキー州ルーイヴィルで評判の美女。

ギャッツビーは貧乏な将校。

2人は恋に落ちるが、ギャッツビーが海外出征している間に、デイジーは、粗暴だが非常に裕福なトム・ブキャナンと結婚してしまう。

戦争から帰ってきたギャッツビーは、なりふりかまわず、富とデイジーを追い求めることに没頭する。

金持ちになったギャッツビーは、デイジーの住まう高級住宅地のイースト・エッグと、ロングアイランド水道を挟んで向かい合わせの地所に大豪邸を購入し、ぜいたくなパーティーを開いて、デイジーが現れるのを待つ。

そして、彼女が登場すると、物語は、悲劇的な様相を見せはじめる。

貧しさの中から身を起こし、裕福になり、失われた過去をたぐり寄せようと夢を追い求め、あと少しのところで崩壊していくギャッツビー。

読み終わったあと、深い余韻の残る作品である。

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »