人生の目的/五木寛之
広さが三十センチ四方、深さが五十六センチの砂のはいった木の箱に、一本のライ麦の苗を植える。そして四カ月あまり水をやって育てる。するとライ麦は貧弱な姿ではあるが、ともかくその木の箱の上に育つのである。次は木の箱をこわして、砂の中にどれほどの麦の根が伸び広がっているかを計測する。砂をふるい落とし、根とその先についている目に見えないような根毛までも、くわしく長さを計るのだ。その結果、そのライ麦が砂の中にびっしり張りめぐらして、水分やカリ分や窒素などを必死で吸いあげて麦の命を支えてきた土中の根の総延長数が、なんと一万一千二百キロメートルに達していたことが判明したというのである。(中略)
自己の運命と宿命を受け入れた上で、さて、それからどうするのか。答えは一つしかない。それはく生きる〉ことである。生きて、この世界に存在することである。見えない砂の中に一万一千二百キロメートルの根を張って生きた一本のライ麦にならって、なんとか生きる。生きつづける。自分で命を投げだして、枯れたりせずに生きる。みっともなくても生きる。苦しくとも生きる。
生きていればどうなるというのか。何かが起こる可能性があるというのか。
私はあると思う。(P77~80)
五木氏は、人の人生を木の箱に植えられたライ麦にたとえている。
ここで三十センチ四方、深さ五十六センチの木の箱とは、そのライ麦が背負った宿命にほかならない。
そして実験室に植物として発芽したことは、その麦にあたえられた運命。
その苛酷な運命と宿命の交錯する場所で、一本のライ麦は命を枯らさずに生きた。
一万一千二百キロメートルに達する根を、見えない砂の中にびっしりと張りめぐらせて生きつづけた。
五木氏は人生というものも、それと同じようなものだと言う。
私たちは人間として地上に生まれたという大きな運命を受けている。
そして、どんなにながくとも百年前後でこの世界から退場するという運命をあたえられて生まれてきた。
アジア人としての肌の色と体質をあたえられ、二十一世紀という時代の中を生きている。
それは私たちの運命である。
逆らうことはできても、変えることはできない。
こうして私たちが選ぶもっとも自然な道は、あたえられた運命と宿命を、人生の出発点として素直に受け入れること。
〈受容する〉と表現してもよい。
受容することは、敗れることではない。
絶望することでも、押しつけられることでもない。
運命を大きな河の流れ、そして宿命をその流れに浮かぶ自分の船として、みずから認めることである。
そこから出発するしかないのだ。
だから、自分で命を投げだして、枯れたりせずに生きる。
みっともなくても生きる。
苦しくとも生きる。
生きていればどうなる。
何かが起こる。
これは、生きることに絶望している人とっては心に響くメッセージではないだろうか。
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