なぜ「ことば」はウソをつくのか?/新野哲也
よいアイデアがうかばないときは、だれもが腕を組み「イメージがわかない」と嘆く。
音楽家なら五線紙、画家ならキャンバス、作家なら原稿用紙の前で髪の毛をかきむしるかもしれない。だが、アイデアがうかばないときは、いくら脳みそを絞っても、どんなに身悶えても、何も頭にうかんでこない。
こんなとき、窓の外に小鳥がやってくると「おや、かわいいなあ」と見とれる。
たいていはすぐに飛び去ってしまうが、しばらく残像をたのしむ。何かがひらめくのはその瞬間である。頭の片隅にもやもやとした白いものがうかびあがり、それがみるみる一つの形になってゆく。
「これだ!」というアイデアがうかぶのは、たいてい、そんな瞬間である。
それまでの悪戦苦闘がうそのように目の前がひらけ、音楽家なら妙なるメロディ、小説家なら奇抜なプロットが思いうかぶ。それまでまったくでてこなかった名案が、なぜ、小鳥が飛び去ったあと、ふいに思いうかんだのであろうか。
使われた脳の部位がちがったからである。(P138~139)
物事を考えるとき、私たちは、論理矛盾に陥らないようにできるだけロジカルに考えようとする。
ところがこのとき、余計な考えが排除される。
アイデアは、もともと余計な考えである。
論理を外れた余計な考えのなかから、きらりと光るものが見つかる。
筋道をたてて考えれば考えるほどアイデアがでてこないのは、論理的な思考が、アイデアが隠れていたはずの余計なものをはねつけてしまったから。
考えれば考えるほどアイデアが浮かばないメカニズムはこんなところにある。
この本で繰り返し書かれていることは、「直観は正しい、もっと直観を信じて行動せよ」ということ。
ことばを過信するひとは、堂々めぐりに陥ってつまらないことにこだわる。
「ことば」や「理屈」に縛られて、人生の大事なことを見失っていないか、と問いかける。
この新野氏の書いていること、半分はその通りだと思う。
確かに現代人はことばで考えることをあまりにも偏重しすぎるきらいがある。
そして、直観といったものを軽視する傾向がある。
しかし、ことばで考えることもそれなりに重要ではないだろうか。
特に直観で考えたことを、他者に伝えるこめには、やはり論理的に組み立てられたことばが必要だ。
直感的なことばだけでは相手は理解できないことが多い。
それこそ、長島茂雄氏のことばのようになってしまう。
第三者として聞いていれば面白いが、その直観的なことばで選手が直接指導されたとしたら、まずわからないだろう。
要はバランスの問題だと思う。
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