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2011年10月の31件の記事

2011年10月31日 (月)

国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ/廣宮孝信

4883926788  国の借金は確かに大きい。しかしそれ以外の要素にしっかり目を向けてみれば、日本ほど「勝てる要素」を持った国は他に類を見ない。
 以下、本章で紹介した、日本が「勝てる」理由を改めて列挙しておく。
・国全体で「連結」した金融純資産は282兆円でバブルのころよりも230兆円も多い。日本は世界最大の債権国で、個人に例えれば「破産寸前」どころか、ビル・ゲイツやウォーレン・バフェットも真っ青の大金持ちである。
・バブル崩壊以降、民間の金融純資産の伸びは政府の金融純負債の増加を上回っている。「もうすぐ破産」どころか政府が借金をする余裕はむしろ拡大中である。
・日本政府の債務は全て日本円建てである。日本円を発行する権限を持つ日本政府が「カネ詰り」になって破産することは、原理的にあり得ない。
・日本のインフレ率・金利はともに世界最低水準である。財政出動や通貨増発をしてインフレが進行したとしても、他国並みのインフレ率になるだけであり、国債を増発して仮に金利が上昇したとしても、他国並みの金利になるだけである。つまり、日本は世界で最も余裕のある国なのである。
 これが日本の置かれている現実の状況である。これほど良好な経済的環境に置かれている国は他に存在しない。「国の借金が大変だ」などというのは、たちの悪いジョークに過ぎない。

少子高齢化、年金制度の崩壊、格差社会、増税・・・

これらの問題がなぜ生じるのか?

その理由は、国にカネがないからだ。

もうすぐ国の借金は1000兆円に達する。

もはや、増税なしには日本国はやっていけない。

このような報道がマスコミを通じて、垂れ流し状態となっている。

では、「国の借金は問題ではない」とすると、どうだろうか?

そうであれば、「国にカネがない」ということにはならないはずだ。

あっという間に、これらの問題は解決する。

「国にカネがある」という前提に立てば、いくらでもセーフティーネットを張ることができる。

そうすれば、雇用についての不安も解消するし、カネさえあれば、政府はいくらでも景気対策を打つことができる。

そうなれば、企業の経営者も将来に展望を持てるようになり、リストラをしなくても済むようになるはずだ。

むしろ雇用を拡大し、非正規社員の正社員化への転換も進むことになるであろう。

このようになれば、人々の心の中の「将来への不安」はどんどん解消し、消費は盛り上がり、税収も企業利益も増え、それがまた国民に還元されるという好循環が生まれるはずだ。

そう考えると、国民全体を不安に駆り立てている諸悪の根源は、まさに国の借金を問題にすることだと言える。

本書は、日本が破綻することなどあり得ない。

むしろ日本は他国もうらやむほどの金持ち国家だ、と主張する。

しかも、数字をもってその根拠をしっかりと説明している。

そして、その説明には説得力がある。

経済に疎い私であっても、思わずナルホドと唸ってしまった。

この説明が本当に正しいのかどうかは私にははっきり言ってよくわからない。

ただ、この国のマスコミ報道はあまりにも一方に偏りすぎており、ある意味国民はマインドコントロールされてしまっているというところはあると思う。

この本の主張していることもひとつの意見として読んでいくと、非常に面白い。

新たな視点を与えてくれる。

2011年10月30日 (日)

今、世界経済で何が起こっているのか?/三橋貴明

Bt000013261300100101_tl   そもそも、一口に「政府の負債」と呼んでいるが、最低でも三つの視点から見なければ、正しい状況はつかめない。三つの視点とは何かといえば、
  Ⅰ  誰から借りているのか
  Ⅱ  何建てで借りているのか
  Ⅲ  何に使ったのか
  の三つになる。
  逆に、この三つの視点から「政府の負債」を見ることで、その国に何が起きたのか、あるいは何が起きるのかを、明確化することができるのである。
  最も典型的な例として、ギリシャを取り上げる。(中略)
  ギリシャ政府は、外国から自国で金利調整ができない共通通貨ユーロ建てでお金を借り、経済成長への効果が薄い国民への手当系に費やしていたのである。
  より噛み砕いて書くと、ギリシャは政府はドイツやフランスからお金を借り、国民に手当としてばら撒いていたわけだ。ばら撒いてもらった国民の方は、それを自らの財産として銀行に溜め込んでおくことができるわけだが、GDPは一円も増えない。それはもう、破綻して当たり前だろう。
  この「外国から(Ⅰ)」「共通通貨ユーロ建て(Ⅱ)」で政府がお金を借り、「手当系(Ⅲ)」に費やしていたギリシャと日本を比較する際に、政府の負債対GDP比率のみを用い、
  「ギリシャは破綻した。日本の国の借金の状況はギリシャよりも悪い。だから、日本も破綻する」
  などとやっているわけであるから、国内のマスコミのレベルの低さに、改めてため息がでてしまう。

昨日の新聞に、「財務省は、2011年度末の国債や借入金などを合計した『国の借金』が、前年同期に比べ1年間で99兆7451億円増え、過去最大の1024兆1047億円に達するとの見通しを明らかにした。」との記事があった。

ついに国の借金が1000兆円を超えるということを聞くと、「この国は大丈夫なの?」とつい思ってしまう。

マスコミも「このままではギリシャのように破綻する」と恐怖心を煽る。

しかし、「どこまで信じていいのだろう」というのが本音である。

そんなこんなで本書を読んでみた。

ここで三橋氏が言っていることは、一言で言えば「日本は絶対ギリシャのように破綻はしない」ということ。

その根拠として、日本は「国内から(Ⅰ)」「自国通貨日本円建て(Ⅱ)」で政府がお金を借りている。

問題の使い道だが、少なくともこれまでは公共投資や政府最終消費支出など、直接的にGDPを拡大する使い方が多かった。

と、根拠をあげている。

どの国にも借金がある。

問題はどんな種類の借金であるかということ。

経済に疎い私だが、マスコミの報道を鵜呑みにすることがいかに危険であるかということを考えさせられた。

やはり、国民はもっと自分の頭で考えることが必要なのだろう。

2011年10月29日 (土)

ハリウッド女優になったOL奮闘記/中村佐恵美

Bt000012940200100101_tl  「答えはすべて自分のなかにある」
  あのシャーリー・マクレーンの本の一節が頭に浮かんだ。私は変わらなくてはいけない。一誠君を当てにしたり、周りの人に自分の人生を決めてもらうのではなく、自分で何がほしいのか、やりたいのか知るべきなのだ。私は恐る恐る自分に尋ねてみた。
  「私は何がしたいの?」
  「・・・・・・」
  しばらく待ってみたが、自分のなかからは何の答えも聞こえてこなかった。自分は本当に中身の何もない人間なのだろうか。もう一度気を取り直して聞いてみることにした。今度はなんとなく遠慮がちに、
  「じゃあ、何か夢みたいなものはないのかな」
  と聞いてみた。すると、
  「夢、夢ねえ・・・・・・」
  と反応があった。
  「何でもいいのよ。すごく馬鹿げているような、子どものころに持った非現実的なものでもいいから、何かなかったかな」
  「高校時代に、映画『フェーム』とか『フラッシュダンス』を観て、あんなふうに貧乏しながらも夢に向かって頑張っているのって素敵だなって思ってたじゃない。ソニーのコマーシャルでウェートレスして家に帰る途中の女の子が、ショーウィンドウに飾ってある真っ白いチュチュを見ながら、自分がそれを着て舞台で踊るのを想像してマンハッタンの夜の街角でルルベをするの、そしてそのときに♪エブリナイト、サクセ~ス♪って歌が流れるの聴いて、鳥肌が立つほど感動してたじゃないの。あんなふうに一生懸命に生きるのが夢なんじゃないの。外国で生活するのは子どものころからの夢だったし、演劇勉強しにアメリカに行ってみたら」
  「・・・・・・」
  思いがけない答えが自分から返ってきて、今度は聞いたほうの自分が黙ってしまった。

「夢」という言葉、口にする人は多いが、本当に夢の実現のために一歩を踏み出す人はそう多くはいない。

その意味では、著者は稀な存在だ。

私の夢っていったい何?

率直な疑問をみずからに向けた彼女の答えは「アメリカで女優になるんだ」というもの。

そして夢を実現させるため、大企業のOLを辞め、驚く家族を説得し、恋人を日本に残し、単身ハリウッドに乗りこむ。

しかし、そこで待ち受けていたのは、言葉の壁、孤独、摂食障害。

ある時は、それに負けそうになりながら、ひとつひとつハードルを乗り越え、ハリウッドで役を獲得し、夢を実現させていく。

そのスタートとなったのは、自分への問いかけ。

「答えはすべて自分のなかにある」

その「答え」に忠実に生きたことが今へとつながっている。

誰もがまねできる生き方ではないが、自分の内なる声に忠実に生きる、その生き方には大いに刺激を受けた。

2011年10月28日 (金)

100万人の映画教室(下)/淀川長治

Bt000012792200200201_tl  チャップリンも死にヒッチコックも死んでしまった。人間にはじゅみょうがあるのだから、それを惜しんでくやんではなるまい。チャップリンは88歳の高齢で死に、ヒッチコックも80歳といえば高齢に近い。
 この二人をくやんではいけないが、もうこのような映画作家は現れないのではないかということがこわい。
 チャップリン映画も、ヒッチコック映画も、誰が見てもよくわかるように作られている。だから面白い。
 しかし、日をへて、再び見ると、さらに面白い。三度目はげんかくに、幻覚ではなく、厳格に、面白くなる。
 これはどういうことかというと、見せ方にみがきがかかっている、そのみがきが徹底しているのである。あらゆる芸術の中に〈映画〉を加えると、映画という芸術は、芸術という見栄を親切という文字で表す心がけを持っている。それは〈映画〉は活動写真と呼ばれたルーツを持っているからである。誰もがわかって楽しむもの。しかもこれに本物のみがきをかけると本物の映画芸術となる。
 チャップリンとヒッチコックの作品こそはその代表である。

映画は芸術か娯楽かという議論がある。

そもそも、そのような議論があるのは、娯楽映画というと、ただ楽しいだけの作品、

逆に芸術映画というのは、格調高く、深く考えさせられるテーマを扱っているものの、見ていて退屈でしょうがない作品。

では映画はどちらを目指すべきか、というものだが、どちらかに結論づけること自体がナンセンス。

そもそも映画とは娯楽と芸術を融合させたもの。

そしてそのルーツは活動写真にある。

そのような映画のルーツを大事にし、さらにそれを芸術の域まで高めた映画作家がチャップリンでありヒッチコックであったと淀川氏は言っている。

確かに、この二人の監督した作品は今見ても全く色あせることなく面白い。

ヒッチコックの作品など、結論はわかっているはずなのに未だににドキドキさせられる。

チャップリンの映画も、見るたびに新しい発見がある。

「もうこのような映画作家は現れないのではないか」と淀川氏は言っているが同感である。

この二人の作品と、現在の映画を比較してみると、あまりにも現在の作品が薄っぺらに見えてしまう。

2011年10月27日 (木)

100万人の映画教室(上)/淀川長治

Bt000012792200100101_tl  私たちは感じる人、感激できる人に、なりたいものである。その人たちは、まちがいもなくあらゆる人に優しいにちがいない。
 ところが机上の教科書だけの世界で、ほかには横も見向かぬまま秀才という名のもとに一路出世の道を進んだ人には、ときに冷たい非人間が染まりかねない。これは人と人との肌でふれあった〈人間勉強〉ができていないからである。
 私は世間から見ると、まったく危険な道を踏んで今日にいたったのだが、とにかく生き続け足踏み外して世のいう失敗者には落ちないでいる。
 私には名医がついている。ときに注射もするし、苦い薬も飲まされる。その名医こそは〈映画〉である。注射とは、映画に依ってハッと気づくこと、それはベルイマン監督の「女はそれを待っている」であったかもしれないし、苦い薬とは「バージニア・ウルフなんかこわくない」あるいは「8 2/1」であったかもわからない。その注射も、その苦い薬も、私の人間勉強を深くした。

その独特の語り口からサヨナラおじさんとして親しまれた淀川長治氏。

特に「日曜洋画劇場」の解説は番組開始から死の直前まで32年間続けられた。

その淀川氏、映画こそ人間勉強であると言っている。

私も映画は好きで、学生時代は、池袋の文芸座などで3本立ての映画を週に1回は必ず見に行ったものだ。

最近は映画館に足を運ぶことは少なくなったが、テレビで映画をかなりの本数観る。

いや、観るように義務づけているといった方がよい。

映画を観ることによって、すぐに仕事に生かせるものは、はっきり言ってほとんどない。

では、なぜ映画を観るのか。

私は、それはハンドルの遊びの部分だと思っている。

ハンドルには、ある程度の遊びの部分がないと危険である。

仕事も専門知識だけでやろうとすると危険だと私は考えている。

専門知識で凝り固まった専門家ほど危険な存在はいないと私は考える。

そのことから、映画を観ることは、一見無駄なようで非常に意味のあることだと思っている。

2011年10月26日 (水)

「本物の営業マン」の話をしよう/佐々木常夫

C__docume1__locals1_temp_znp1e  私はかつて部下に「礼儀正しさは最大の攻撃力である」という話を何度もしてきました。そして「礼儀正しさだけでリーダーになれる」とも言ってきました。
 私はリーダーというのは「幼稚園の頃に学んだことをきちんとできる人」だと思っています。
 どういうことかというと、
 「人に会ったら挨拶をしなさい」
 「皆と仲良く遊びなさい」
 「仲間はずれを作ってはいけません」
 「嘘をついてはいけません」
 「間違ったことをしたら勇気をもってごめんなさいと言いなさい」
といったようなことです。これができる社会人はなかなかいません。だからこそ、これができる人は人から信頼されます。
 営業をしていくうえで最も大事なことは「真筆である」ことです。顧客への訪問時には時間を守る。会ったらきちんと挨拶をする。求められた資料は約束の日までに届ける。ミスをしたらきちんと謝る。そうした真塾な行動をとることが顧客との信頼を築き上げる最短コースです。(P172~173)

本書は、営業について書いてあるのだが、方法論、テクニック論というより、むしろ姿勢論と言って良い内容。

営業にたずさわる人間は営業という仕事をどのようにとらえるべきなのか、

「営業」と「販売」とは、似ているようで全く異なる。

「販売」ということであれば「物を売る」ということでよいだろう。

しかし、「営業」ということになると単に物を売ればおしまいということにはならない。

「営業」とは「事業を営む」ことである。

営業とはたんに物やサービスを売る仕事ではない。

顧客や市場からニーズを探り、需要のある商品を会社に作らせ、それを提供し、利益を上げる。

つまり「事業を営む」。

その結果としてお客様を幸せにすることこそが「本物の営業」なのである。

よって、本物の営業マンになるために、最も必要なことは「真摯である」こと。

「真摯である」ことで、思い出すのはドラッカーの言葉である。

ドラッカーの著書を読んでいると、何度も繰り返し「真摯であること」という言葉が出てくる。

そして佐々木氏は「幼稚園の頃に学んだことをきちんとできる人」がリーダーだと言っている。

でも考えてみれば確かにそうだ。

「ウソをつかない」とか「約束を守る」とか「間違っていたらちゃんと謝る」とか、・・・

これらがきちんとできている大人は意外と少ない。

年齢は大人でもどこかで退化してしまった大人が多いということだろうか。

2011年10月25日 (火)

日本復興計画/大前研一

C__docume1__locals1_temp_znp1b  前回、福島原発でいま起きている事態はスリーマイルよりも状況は悪く、チェルノブイリほどではないレベル「6」であり、もしかすると「7」になるおそれもあると述べた。ところが、昨日、原子力安全・保安院は「5」であるとのたまった。私が一週間前に「6」はまちがいない、と言っているのに、昨日までは「4」と言っていたのだ。これはもう世界の恥である。真実を国民に伝えていないのと同時に、世界中から日本政府は信用できないと猛烈なリアクションを呼ぶことになろう(前途のとおり、四月十二日にレベル「7」に引き上げた)。
 スリーマイルよりもはるかに放射性物質を撒き散らして世界中をパニックに陥れているこの状況でレベル「5」とは!確かにスリーマイルは炉心溶融を起こしたけれど、放射性物質は格納容器の中に収まって、ほとんど表には出なかったのだ。緊急避難も福島より控えめで10マイル(16キロ)であった。しかも“自発的”であり、避難命令や強制避難ではなかった。保安院は原子炉のことを全く分かっていない。いや、分かっていないのでなく分かろうとしないのか。(P41~42)

本書は大前氏が衛生放送を通じて放送している『ビジネス・ブレークスルー 大前研一ライブ』で語った内容がベースになっている。

もう、震災から7ヶ月が過ぎた訳だが、もう一度震災直後、語られていたことを読んでみると、考えさせられることが多くある。

上記は震災から8日後の3月19日の放送で大前氏が語った内容。

この時、大前氏は既に今回の福島原発のレベルは「6」であり、もしかすると「7」になるおそれもあると言っている。

最終的にはレベル「7」ということになったわけだから、大前氏の言っていたことは的確である。

つまり、震災8日後の時点で、ほぼその深刻さを言い当てていたということ。

それに比べ、保安院はどうだったのだろう。

この時点で、レベル「5」だと言っている。

いや、その前日まではレベル「4」だと言っていた。

いまから考えれば、よくそんなことが言えたものだと思ってしまうのだが、いかに保安院が原子炉のことを全く分かっていなかったのかということがよくわかる。

その後の迷走ぶりの発端は、すでにこんなところにあらわれていたということである。

2011年10月24日 (月)

人類を幸せにする国・日本/井沢元彦

C__docume1__locals1_temp_znp16  日本人は、今の日本人が思っているほど駄目な民族でもなければ、未来の無い民族でもありません。それどころか、これまでもこの本に書いたとおり、世界の人類を幸せにすることに大貢献してきたし、これからも大貢献できる国であり、民族なのです。
 では、多くの人はなぜそう思っていないのか。それはやはり日本人の特性を理解していないからではないでしょうか。(P176)

今の日本、明るい話題は本当に少ない。

3.11以来、放射線、原発、東電、増税、・・・と、先の見えない、暗くなってしまう話題ばかり。

しかし、こんなときこそ、かつての日本人がどれほど世界の幸福に貢献してきたのか、このことを知るべきである。

井沢氏は「他の民族は科学や技術を、戦争の武器のように自分の利益を追求する道具にしている。けれど、日本人はそれを人類を幸せにするために使ってきた」と主張する。

本書では、日本人の発明発見によるモノが、いかに世界の幸福に貢献したかを独自の史観で検証している。

ホームビデオ、トランジスタラジオ、電卓、ウォークマン、新幹線、乾電池、胃カメラ、カラオケ、インスタントラーメン・・。

振り返ってみると、確かに日本は世界の人々を幸せにしてきた。

これだけのことをしてきた日本人であれば、未来を創ることもできるはずだ。

これからの日本は超高齢化社会になり、人口が3分の1になる。

それならそれを前向きに受け止めようではないか。

これから多くの国が高齢化社会を迎える。

お隣の中国は、日本よりは後ではあるが、日本以上の超高齢化社会に突入するといわれている。

だったら、日本が老人福祉、先端医療、あるいは老人たちが生きがいを持ってその人生を終われるような模範スタイルを作り、それを世界に発信していけばいいではないか。

今回の原発事故で、もはや日本は新しく原発をつくることはできないだろう。

ならば、原発なしでも経済発展できるというモデルを作ればいいではないか。

ピンチはチャンスだ。

こんな時代だからこそ、本当の意味で逆転の発想が必要ではないだろうか。

2011年10月23日 (日)

経済成長って何で必要なんだろう?/飯田泰之、 岡田靖、赤木智弘、湯浅誠

Bt000013502100100101_tl 飯田
 20世紀以降の近代社会をいろいろな国で見ていくと、経済の潜在的な生産力は平均的にだいたい年2%から2.5%で向上していく。はっきりとした理論化はまだですが、いろいろな国、いろいろな時代を見ると、だいたい中長期的に年2%台の成長なんです。
 例えばどういうことかというと、すごく大雑把な話ですが、1日100個の製品を作れていた人が、1年後には102個くらいつくれるようになる。
 もちろん、なかには20%成長する人もいるし成長しない人もいるんでしょうけれど、おしなべて平均すると2%だということです。
 そうすると、もし経済状態がそのままで、つくるモノの量が一定であれば、毎年2%の人間がいらなくなるーー排除されていくわけです。
 例えば、よく「日本は失われた10年もちゃんと成長していたじゃないか」みたいな話を聞きますが、やっぱり実質で年2%以上成長しないと、必ずどこかにしわ寄せがいく。そのしわ寄せがきたのが、氷河期世代だと思うんですね。
 僕自身は、社会全体の雇用の流動化は不可欠だと思っていますが、流動化と経済成長がツイストしていないと、その痛みはあまりにも大きなものになってしまう。

本書は経済学者の飯田泰之氏が行った、エコノミストの岡田靖氏、評論家の赤木智弘氏、活動家の湯浅誠氏との対談3本を中核としている。

この中で飯田氏が一貫して主張しているのは「経済成長は必要である」ということ。

格差と貧困の問題に一番有効なのは長期的には経済成長、短期的には景気対策。

現在起きている問題にとどまらず、システムとしてのセーフティネット確立のためにも経済成長が必要。

今、国の借金は924兆円になったという。

この問題は単に消費税を上げれば解決するというものではない。

基本はやはり経済成長。

年金の問題もそう。

少子化が一番の問題だが、それを解決するためにもお金がいる、つまり経済成長は不可欠。

日本では「経済成長はもういいんじゃないか」という意見がある。

しかし、そうした意見に対する重要な反論が上記の「2%説」。

経済成長しないと、2%ずつ人がいらなくなっていく。

その2%をどうすればいいのか。

ワークシェアをするのか。

しかし、緊急避難的にそれが可能としても、やはり限界がある。

経済成長しなければ、ワークシェアそのものも維持できなくなってしまう。

本書では、経済成長に必ずしも肯定的でない評論家の赤木氏、活動家の湯浅氏と飯田氏が対談することによって、かえって経済成長の必要性が浮き彫りになっているところが面白い。

2011年10月22日 (土)

脳に悪い7つの習慣/林成之

_7   この「決断・実行を早くし、一気に駆け上がる」というスタンスは、仕事やスポーツなどで勝負をかけるシーンではとくに重要です。勝ち負けばかりに執着すべきでないとはいえ、人生では「ここぞ」という勝負どきがあるのです。
  みなさんは、「コツコツ」や「一歩一歩」というスタンスは大切である、と聞かせられて育ってきたことでしょう。いきなり「それではダメだ」と言われると驚かれるのではないかと思います。
  しかし、脳の達成率を上げ、集中してことを成し遂げるためには、「コツコツ」は間違いなのです。仕事の大きな課題をやり遂げようとする、スポーツで勝負に勝とうとするといった場面で達成率を上げるには、全力投球が必要なことは言うまでもありません。
  全力投球することと「コツコツ」は、まったく別のものです。「達成すること」より前に、「どう達成するか」などの達成のしかたを追求し、最後の詰めに執着することで、脳はもてる才能を最大限に発揮できるようになるのです。(P75~76)

一般に「まじめにコツコツやること」「一歩一歩、着実に進めること」は、奨励されていることが多い。

林氏も「コツコツやること」を完全に否定しているわけではない。

ただ、「コツコツ」や「一歩一歩」には、「失敗しないように慎重に進めよう」という「自己保存」のクセが隠れている。

この「失敗しないように」という考えは、「失敗するかもしれない、失敗したらどうしよう」という考えと表裏一体のもの。

「失敗するかもしれない」は脳にとっての否定語。

また、「慎重に一歩一歩」とゆっくり物事を進めていると、どうしても集中力が落ちてしまう。

完成が近づいたときには「そろそろ終わりだな」と考えてしまう。

結果的に最後までやり遂げないまま、「だいたいこんなところでいいだろう」と妥協してしまうことになりやすい。

つまり、「コツコツやること」そのものを否定しているのではなく、そのことによって自己保存、否定、妥協に走ってしまう。

これは脳の働きにはよろしくない、と言っているわけである。

しかし、「まじめにコツコツ」と言えば、古くから日本の専売特許のようなものである。

農耕民族である日本人は、ある意味「まじめにコツコツ」がよく似合っている。

また、これによって製造業などは良い製品を世に送り出してきたということも言える。

しかし、それにも、「脳が守りに入ってしまい、脳の働きにとってはマイナスになる」という罠が隠されているということは知っておく必要があるだろう。

そして、脳の働きを最大限に引き出すためには、「決断・実行を早くし、一気に駆け上がる」というスタンスが重要だという。

普段はまじめにコツコツでもよいが、いざ勝負という場面では、勝ち負けにこだわり、一気に勝負に出るというメリハリをつけることが大事だということではないだろうか。

2011年10月21日 (金)

私は無実です/今西憲之、週刊朝日取材班

Bt000011657300100101_tl  証言台にまっすぐ背を伸ばして座った村木は、30年以上にわたって従事してきた「公務員」という職業についての考えを問われ、こう話した。
 「大学時代の恩師から『国家公務員の役割は国民のニーズを法律や制度に変えて実現する翻訳者だ』と言われた言葉を大切にしてきました」
 と思いを述べた。

2009年6月14日、厚労省の現役女性キャリア官僚、村木厚子が逮捕された。

偽の障害者団体に便宜を図った疑い。

しかし、それは全くのでっちあげだった。

だが、関連した容疑者は、検察の描いたストーリーにそって作られた供述調書に次々と著名させられていく。

ただ一人、村木だけが、容疑事実を強く否定し、無罪を主張する。

そして最後は無罪が言い渡される。

また、その裁判の過程で検察の自白強要が問題となっただけでなく、

その後、この事件を担当した主任検事・前田恒彦、および上司の特捜部長・大坪弘道、特捜副部長・佐賀元明が本事件の捜査中における違法行為の疑いで最高検察庁に逮捕される極めて異例の事態になる。

村木はどうしてあれほど強くなれたのか。

それは自分の仕事に対する使命感ではなかっただろうか。

大学時代の恩師から言われたという『国家公務員の役割は国民のニーズを法律や制度に変えて実現する翻訳者だ』という言葉。

この言葉を心に留め、これを自らの使命として生き続けてきた。

結局、これが強さを生んだのであろう。

2011年10月20日 (木)

ガラスの巨塔/今井彰

_   月澤は労るように西を見つめ、
  「西、俺はもういいんじゃないかと思うんだ」
  「何がでしょうか」
  「チャレンジXだよ」
  「いいというと、つまり・・・・・・」
  「うん、止め時じゃないのかな」
  西は月津の顔をひたと見た。暫し沈思し、口ごもりながら、応えた。
  「今、止めるわけにはいきません--、あまりに規模が大きくなりすぎました。関わっている人間が、これで飯を食っている人間が多すぎます--」
  「それは分かっている。でもな、西みたいに将来、番組局のリーダーになるべき人材がみすみす痛めつけられ、傷つくのが、見ていて俺はつらいんだ」
  「ああ-、ありがとうございます・・・・・・」
  心のうちを汲み取るような人間的な温かさを久しぶりに感じた。
  「俺は人事部に長くいたからよく分かる。嫉妬がね、誰かが上になれば妬みでおかしくなる奴がたくさんいるんだよ、この会社はね。みんなそれなりに学生時代優等生だったろう。格差がつくのがたまらなく嫌なんだ。嫉妬というのは、時に人を滅ぼさないと止まらないもんだよ。これ以上傷つかないでくれ」
  西の身を慮った月津の真情が、西の胸を揺さぶった。(P266~267)

本書は、NHKのプロジェクトXの元プロデューサー、今井彰氏の小説の形をとった自叙伝。

小説の形をとっているので、実名は出てこないが、文面から誰のことを指しているのかはほぼ察しがつく。

1万人を超える社員を抱え、国内外に82の支局を構える全日本テレビ協会。

ここに、三流部署ディレクターから名実ともにNo.1プロデューサーにのし上がった男がいた。

湾岸戦争時に作った1本のドキュメンタリーをきっかけに、受賞歴多数の社会派ディレクターとして名を馳せ、プロデューサーとして手掛けた「チャレンジX」は視聴率20%超の国民的人気番組に。

この「チャレンジX」は、もちろんNHKの看板番組、「プロジェクトX」のこと。

しかし飛ぶ鳥も落とす勢いだった西は、やがて社内の嫉妬の渦に巻き込まれ疲弊していき、最後は依願退職という形で辞めていく。

もちろん、これはあくまで小説であり、著者の脚色があることは否めないが、NHKという巨大組織の闇の部分が余すところなく描かれている。

日本の組織は「出る杭は打たれる」という言葉に象徴されるように、組織の中で抜きんでた成果を上げた社員は、ほんとんどの場合つぶされる。

出世していくのは、むしろ波風立てずに組織の中を上手に泳いでいった人物。

やがてはそのような人物が組織のトップである社長になる。

そして同じようなことが繰り返される。

変革が求められておりながら、日本の組織が変われないのもこんなところにあるのではないだろうか。

2011年10月19日 (水)

東大で教えた社会人学/草間俊介+畑村洋太郎

_   自分で答えが出せないときは誰かに判断してもらうしかない。しかし、所属している会社の上司や同僚に相談しても自分と同じ組織の内側からの視点しか持っていないし、その会社にとって必要な人材なら答えは決まっていて、転職や独立を思い止まらせようとするだろう。社外の友人や知人は親身に相談に乗ってくれるかもしれないが、多くの場合は自分と同じ目の高さでしか判断できない。
  一番頼りになるのは、自分と自分が置かれている状況をより高い視点からワイドに見てくれる人。もっと言えば、視点の高さと視野の広さに加え、過去の経験に基づいて未来のビジョンまでも的確に見通せるような時間軸の視点を持っている人だ。
  それが親分だと私は思っている。
  親分・子分の関係というと、傍に置いてもらう代わりに子分は親分に忠誠を誓うという任侠のイメージが付きまとうけれど、その人の“器量”に惚れて「この人についていきたい」と思えるような人間関係というのは一般社会でもある。
  いい親分は口が悪くても本心では子分を気づかうから、子分が迷ったときには相談に乗ってくれる。「ああしろこうしろ」と問題解決の糸口を与えてくれる。    子分の間違いを時には厳しく、時には優しく正してくれる。そして人生をより高みへと導いてくれる。いい親分に巡り会えば、それは一生の宝を得たのと同じだ。(P186~187)

本書はもともと東大の技術系の学生向けに草間俊介氏が講義したものを書き下ろしそれに失敗学の権威、畑村洋太郎氏がコメントを入れたもの。

ここで草間氏は「いい親分に巡り会えば一生の宝を得たのと同じ」と説いている。

最近、リーダー不在というご時世か、リーダーシップ論がそこかしこで説かれている。

しかし、リーダーとは要するに「親分」なのだと言えば、非常にしっくりくるのではないだろうか。

親分になる資格のある人はどんな人か。

親分には器量が要るわけで、誰でも親分になれるわけではない。

会社組織の部長や社長にはある意味、誰でもなれる。

しかし、親分になれるかどうかは個人の資質の領域だ。

親分の資質を思いつくままに挙げてみると、

知恵のある人、

金のある人、

器量のある人、

経済的に自立した人、

品格のある人、

マクロな視点を持っている人、

責任の取れる人、

信頼できる人、

圧倒的な能力・実力を持っている人、

度量の広い人、

やたらなことではオタオタしない人・・・

まさにこれは、リーダーとしての資質である。

そう考えると、良いリーダーとは、要するに親分なのだと言った方がしっくりくるかもしれない。

2011年10月18日 (火)

わが夫 坂本龍馬/一坂太郎

C__docume1__locals1_temp_znp16  龍馬はそれはそれは妙な男でして、まるで他人さんとは一風違っていたのです。
 少しでも間違った事はどこまでも本を糺さねば承知せず、明白に謝りさえすればただちにゆるしてくれまして、「この後はかくかくせねばならぬぞ」と、丁寧に教えてくれました。
 衣物などもあまり綺麗にすると機嫌が悪いので、自分も垢づいた物ばかり着ておりました。一日、縦縞の単物を着て出て、戻りには白飛白の立派なのを着て来ましたから、
 「だれの」
 と問うたら、
 「俺の単物を誰か取って行ったから、俺は西郷からこの衣物を貰ってきた」
 と言いました。
 長崎の小曾根で一日、宿の主人らと花見に行く時、お内儀さんが、
 「今日は美いのを御召しなさい」
 と言ったけれど、私は平生着の次のを着て行きましたが、龍馬が後で聞いて「よかった、よかった」と言って喜びました。
 「十人行けば、十人の中でどこの誰やら分からぬようにしておれ」
 と、つねに私に言い聞かせ、
 「人に軽蔑される」
 と言えば、
 「それが面白いじゃないか」
 と言っておりました。(P18~19)

本書でおりょうが語る坂本龍馬からは、古き良き時代の不良の臭いがぷんぷんとする。

仲間と変装し妓楼に繰り出す。

奉行所や新選組の捕吏に追いまわされる。

船上で射撃の腕を競う。

霧島で権威の象徴とも言うべき天の逆鉾を引き抜く。

まさにおりょうのいうところの「妙な男」である。

一方、おりょうのことも、龍馬は「面白き女」と言っている。

妹が編されて売られそうになるや、やくざ者相手に大ゲンカをして取り戻す。

男装して一人で怪しげな遊女屋をからかう。

龍馬の実家へ行くが、案の定ケンカして飛び出す。

強盗をピストルで追い払う。

本書は、幕末の風雲児・坂本龍馬の女房おりょうが後年「反魂香」などに残した聞書きから、素顔の龍馬を描いたものだが、ここには、等身大の龍馬とおりようがいる。

いかがわしく、危険で魅力的な不良カップルだ。

しかし、だからこそ変革のエネルギーになったのだと、本書を読みながらつくづく考えさせられた。

2011年10月17日 (月)

スティーブ・ジョブズ名語録/桑原晃弥

Bt000013158700100101_tl  「創造性というものはものごとを結びつけることにすぎない。クリエイティブ担当者は・・・・・・実際には何もしていない。彼らはただ見ただけだ。見ているうちに彼らには、はっきりする。過去の経験をつなぎ合わせ、新しいものを統合することができるからだ。それが可能なのは、彼らがほかの人間より多くの経験をしているから、あるいはほかの人間より自分の経験についてよく考えているからだ」

スティーブ・ジョブズ氏が他界して11日が過ぎた。

改めて、彼がどれほど世界に影響を与えた人物であるかを思い知らされる。

アメリカのオバマ大統領が追悼声明を発表したのも異例だ。

それはジョブズ氏が単なる企業の経営者という枠組みにおさまらない人物だったことを意味する。

彼を通して世に送り出された、iPod、iPhone、iPadは世界を変えた。

そんなこともあり、「スティーブ・ジョブズ名語録」を読んでみた。

ここでジョブズは「創造性」について語っている。

内容は、創造は、必ずしも無から有を作り出すことではない。

既にあるものをガラリと改善したり、着想を思いがけない形で組み合わせたりすることが創造につながる。

だから創造性を発揮するには、多くの経験をして、つなぎ合わせるたくさんの点をもつことが大切だというもの。

考えてみれば、iPodも全く新しい発明ではない。

既にあったMP3プレーヤーにデザインの斬新さを加え、無駄なものを省き、iTunesによって音楽を手軽にダウンロードする仕組みを整え、使い勝手をよくし、結果として独自のものを創り出した。

斬新なものだが、全く新しい発明ではない。

iPhoneやiPadも然り。

まさに「過去の経験をつなぎ合わせ、新しいものを統合」したことの成果物と言える。

そしてそれによって、世界を変えてしまった。

このような人物を天才というのだろう。

2011年10月16日 (日)

経営に終わりはない/藤沢武夫

Bt000013288700100101_tl  「まあまあだな」
 「そう、まあまあさ」
 しかし、実際のところは、私が考えていたよりも、ホンダは悪い状態でした。もう少し良くなったところで引き渡したかったのですが。
 「ここらでいいということにするか」
 「そうしましょう」
 すると、本田はいいました。
 「幸せだったな」
 「おれも礼をいうよ、良い人生だったな」
 それで引退の話は終わった。

戦後の混乱の中、天才技術者本田宗一郎とコンビを組み、経営を一手に引き受けて本田技研を世界的な企業にまで育て上げた藤沢武夫氏。

25年間、裏方に徹し、表に出ることがなかった。

本田宗一郎のような個性的な、ある面わがままな経営者と一緒に経営を行うということは並大抵なことではない。

経営者が二人いる場合、多くの場合、途中で関係はおかしくなる。

ところが、この二人の関係は25年間続く。

藤沢氏は「ホンダの社長は、技術畑出身であるべき。」という言葉を残している。

自分は専務にとどまり、決して社長になろうとはしなかった。

そのような役割分担が明確だったことも、25年間関係が続いた原因だろう。

この方針はホンダにおいて現在まで忠実に守られており、歴代の社長全員が技術畑出身である。

そして、創立25周年の記念日を前に、揃って現役の引退を決める。

上記は、その二人の最後の会話。

晩節を汚す経営者が多い中、その引き際は見事としか言いようがない。

「幸せだったな」「良い人生だったな」と言い合える間柄は最高だ。

そんな人生を送りたいものだ。

2011年10月15日 (土)

挫折と栄光 世界チャンピオン浜田剛史の時代/佐瀬稔

Bt000011583700100101_tl-自分の力を信じてますか。
 「力ではなくて、運を信じています。自分は幸運なのだと・・・・・・」
--それは妙だ。拳を骨折し膝を痛め、それでなおかつ幸運だといえますか。
 「実は、この4月、タイのダウントーン・チュワタナとの試合の40日前、右フックの練習中、腰をひねりすぎて痛めたのです。だが、幸運にも治って試合には支障がなかったのです。拳を4回も痛めながら、こうして試合をやっていられます。今度だって、膝痛の回復がなんとか試合に間に合いました。自分には幸運がついている。自分はそれを信じています・・・・・・」
 怪我ばかりしているボクサーから、こんな話を聞くとは奇怪である。この人物は、むしろおのれの悲運を語るべきなのに、そういうことをいう。
 楽観的だからではない。苦労知らずのオプティミズムとはちがう。それどころか、彼こそはあらゆる悲運にストイックに耐えている。時代後れのストイシズムでおのれをがんじがらめにしばりあげ、なおかつ、幸運を断固として信じている。幼いころ、カメラを向けられるたびに拳を構えて見せたのと全くと同じで、一日たりとも身構えを解かない。構えて生きることこそ、この人物のライフ・スタイルとなったのだ。

度重なるケガなど不運を乗り越えて世界王者に登りつめた浜田剛史。

当時WBC世界スーパーライト級王者だったレネ・アルレドンドを1ラウンドKOした試合は鮮烈なイメージで今でも脳裏に焼き付いている。

しかし、その試合をしたとき、浜田は満身創痍という状態だった。

自らの強打の故に、左拳の同じ箇所を4度骨折。

完全に完治しないままで試合をするので、いつも試合後は拳が腫れ上がっていた。

また左拳をかばい過ぎる為に右拳も指がひん曲がった状態になる。

更にその前の試合で右膝の半月板を損傷していた。

その浜田が、佐瀬氏とのインタビューで「自分は幸運なのだ」と語っている。

意外な言葉だ。

浜田のこれまで歩んできた道は「幸運」などど言えるものではなかった。

あれだけの強打を持っていた浜田がもし拳を骨折していなければ、もっとスゴイ選手になっていただろう。

誰もがそう考える。

しかし、本人は「自分は幸運なのだ」と言う。

考えて見れば、「不運」「幸運」は主観の問題だ。

人から見て「不運」と思える人生を送っている人であっても、本人が「幸運」だと思えば、幸運なのである。

そして自らの人生を「不運」だと思って過ごすより、「幸運」だと思って過ごす方が良い人生を送ることができるに決まっている。

自分の歩んできた人生が「不運」なのか「幸運」なのか、決めるのは人ではない、自分だ。

浜田は度重なる拳の骨折から、このことを体得したのではないだろうか。

2011年10月14日 (金)

心を整える。/長谷部誠

Bt000013252400100101_tl  僕は取材などで「長谷部さんは運がいいですね」と言われることがある。「いいですね」と言われれば、「いいです」と答える。確かにそれは事実だけれど、どこかしっくりこない。「経営の神様」と呼ばれる松下幸之助さんが言うように運というのは、自分が何か行動を起こさないと来ないものだと思っているからだ。(中略)
 以前、代理人のロベルト佃さんと運について話したことがある。ロベさんはアルゼンチンのことわざについて教えてくれた。
 「スペイン語で運(la suerte)は女性名詞。だから、アルゼンチンの人たちは『運を女性のように口説きなさい』と言うんだ。何も努力しないで振り向いてくれる女性なんていないだろ?それと同じで、運もこちらが必死に口説こうとしないと振り向いてくれないんだ」
 異性を口説くのと同じように、運も口説きなさい。ユーモアがあって、堅苦しくなくて、僕はこのアルゼンチンのことわざを一発で好きになった。

長谷部誠はサッカー選手としては、わかりやすい武器があるわけではない。

試合を決定するフリーキックが蹴れるわけではないし、突出したテクニックを持っているわけでもない。

だが、彼はあらゆる指揮官に重宝される日本代表の中心人物だ。

主将として出場した南アフリカワールドカップでの決勝トーナメント進出、アジアカップでの優勝。

彼は一体何を持っているというのか。

それはこの本のタイトルにもなっているように、心を「整える」こと。

実践することはいたってシンプルながら、だからこそ、慌しい現代では意識をしないと難しいもの。

何事も、力を抜いて無理なく自然体で行うことは、意外と難しいものだ。

しかし、自然体で行うといっても、何も努力しないことではない。

むしろ、本書を読むと、長谷部選手が人一倍努力てきたことがよくわかる。

だからこそ、「運というのは、自分が何か行動を起こさないと来ない」ものだと言えるのだろう。

2011年10月13日 (木)

佐藤可士和の超整理術/佐藤 可士和

453219587x  こうして先生の思考を整理しているうちに、あるイメージが浮かび上がってきました。仮説でしたが、先生に躊躇なくぶつけてみました。
 「コンセプトとしては、リハビリテーション・リゾートという感じですよね」
 先生は膝を打って「そう!」とひと言。うまく言えずにずっとあいまいなまま抱いてきたビジョンが、はっきり言葉になったと、すごく喜んでくれました。
 リハビリテーション・リゾート。病院なのにリゾートとは何事だ、と思われる方もいるかもしれませんが、いままでの医療環境に欠けていたのは、まさにこの“リゾート”的な部分ではないでしょうか。この病院は、もちろん身体のリハビリのための施設ですが、気持ちいい空間と真摯なサービスを提供することで、心のリハビリにもなるのです。そして、心のリハビリこそが、身体のリハビリを後押ししてくれると思うのです。

今日、企業から公共・教育機関まで多方面で注目を集めているアートディレクター、佐藤可士和氏。

その佐藤氏が整理術の本を書いた。

アート系の仕事と整理術、一見全く関係がないように思えるのだが、佐藤氏によると、それは間違いだという。

アートディレクターというと、クライアントに関係なく、虚飾のイメージを作り上げるのでは、というイメージがあるがそうではない。

アートディレクターという仕事は、決して自分のなかのインスピレーションをかたちにするわけではない。

クライアントと綿密にコミュニケーションを重ねることで、「これだ」という答えを見つける。

それを的確に表現することで、商品と世の中もスムーズにコミュニケートできるようする。

これがアートディレクションという仕事だという。

たとえるなら、まさに、ドクターと患者という関係。

漠然と問題を抱えつつも、どうしたらいいのかわからなくて訪れるクライアントを問診して、症状の原因と回復に向けての方向性を探り出す。

問題点を明確にし整理し、答えを見つける。

だから、“整理術”なんだと。

SMAP、携帯電話、ユニクロ……佐藤氏の手がけたヒットデザインやアイデアは、思いつきではなく、クライアントの抱える問題に真摯に向き合い、状況を把握し、整理することによって導き出されたもの。

クリエイティブな仕事をするために、整理がいかに大切なものであるかを本書は教えてくれる。

2011年10月12日 (水)

〈わかりやすさ〉の勉強法/池上彰

_  先日、あるテレビの特番の収録後に、担当のプロデューサーが、こんな話をしてくれました。番組のアシスタントやアルバイトの学生に池上の印象を聞いたら、「バカな質問をしても怒られないですみそうな気がする」と話してくれたそうです。
 そこで、プロデューサー曰く、「これが高名なニュースキャスターや有名司会者なら、うっかりバカなことを聞くと『そんなこともわからないのか』と怒られそうな気がする。池上さんだと「うん、それはね……」とバカにせずに答えてくれそうなイメージがあるんですよ」ということでした。
この反応は意外でしたが、なるほど、とも思いました。ここに「週刊こどもニュース」の経験が生きていると感じたからです。(中略)
 とはいえ、私が昔からそういう態度をとれていたわけではありません。
 かつて文部省(現文部科学省)の記者クラブに所属していたときのこと。民放の若い女性記者から、「池上さんに文部省のことについて聞くと、そんなことも知らないのか、という態度をとられるので怖い」と言われたことがあります。これはショックでした。いまでも鮮明に思い出すやりとりです。(P202~203)

池上氏は、テレビの現場で「わかりやすく伝える技術」を試行錯誤しながら身につけ、今や、わかりやすく現代を伝える第一人者となっている。

今も、丁度、「池上彰が伝える世界の今」という番組が放映されている。

しかし、最初からこのようにわかりやすく話せたわけではない。

文部省の記者クラブに所属する記者の時代は、知らず知らずのうちに尊大な態度をとっていたという。

それが今のようにわかりやすく伝えられるようになったのは、やはり「週刊こどもニュース」を経験したことが大きいという。

「こどもニュース」では、出演している子どもたちからの質問に対して、「そんなこともわからないのか」と言ってしまったら、それでおしまいだ。

どんな初歩的な質問をされても、わかりやすく説明しなければならない。

しかし、池上氏が「週刊こどもニュース」を担当したのも、言ってみれば偶然。

偶然がキャリア形成にいかに大きな役割を果たすのかということである。

人生は何が起こるかわからない。

計画通りにはいかないものだ。

キャリア形成も、自分の計画通りいくとは限らない。

しかし、だから面白いといえる。

もしかしたら、10年後、今とは全く違うキャリアを形成しているかもしれない。

こんなことを想像するのもまた楽しいことではないだろうか。

2011年10月11日 (火)

オンリーワンは創意である/町田勝彦

9784166606535  全員が席につくなり、私は切り出した。
 「シャープの将来について、私の考えをみなさんに説明したいと思い、お集まりいただきました。当社の経営理念は、“いたずらに規模のみを追わず、誠意と独自の技術をもって”という一文から始まっています。これからのシャープの目ざすべき姿は、ナンバーワン企業ではなく、オンリーワン企業であると考えます。つまり、世界の中で、独自の特長がキラリと光る企業です。そして、その“オンリーワン経営”の柱になるものこそが、液晶です。私は、国内で販売するテレビのブラウン管を、21世紀に向けてすべて液晶に換えたいと思います」突然の私の発言に、居合わせた誰もが、信じられないといった表情を向けた。(P10)

今でこそ、AQUOS(アクオス)といえば、液晶テレビの世界的な代名詞となっているが、

当時シャープは、特徴のない企業であった。

テレビ事業も肝心のブラウン管は外部調達、

自前のテレビすらもつくることのできない企業だった。

そんな中、町田氏のこの宣言だ。

内容は液晶テレビへの選択と集中。

ここからシャープはブランドの構築へと邁進する。

そしてやがてAQUOSをトップブランドに導く。

また、その過程で「日本で製造業を極める」と宣言し、液晶テレビの生産拠点として三重県に亀山工場を建設する。

それは日本中から「メイドインジャパン」復活として喝采を浴びた。

シャープ激動の10年の軌跡は、21世紀の日本企業のあり方、方向性に、大いなる示唆を与えてくれる。

そしてそのスタートは、町田氏の社長就任間もない時期の、この宣言から始まった。

リーダーシップとは何かを考えさせられる言葉だ。

2011年10月10日 (月)

行動分析学マネジメント/舞田竜宣+杉山尚子

_  行動の問題が起きたとき、多くの人は、やる気、能力、意識、意欲のように、心の中に原因があると考える。これが医学モデルである。すなわち、身体の中の変調が原因で病気の症状が現れるように、心の中の問題が原因で行動に問題が起こると考えるわけである。
 医学モデルを使って行動の問題の原因を見つけようとすることには、二つの弊害がある。一つは、循環論にはまり、本当の原因を見つけられないことだ。
 満足な仕事をしないことの原因は、「やる気がない」ことだと考える。それでは、なぜその部下が「やる気のないやつ」だとわかるのだろう。それは、期日までに仕事を仕上げないし、質の低い仕事しかしないからである。すなわち、「やる気のなさ」というのは、「満足な仕事をしない」ことの言い換えにすぎない。やる気というのは、その人の行動につけられたレッテルなのであって、行動の原因ではないのである。
 二つ目は、他人のことにせよ、自分のことにせよ、行動を心や性格で説明しようとすると、結局最後は個人攻撃になって、肝心の問題が解決しないからである。「あいつはやる気がないから」「私は意志が弱いから」と言うのは、単なる批判や自己弁護である。心理的な問題に関しては、この種の評価をするだけで終わるケースが多いが、そう言ったところで、問題解決にはつながらない。(P15~16)

部下が成果を出さないとき、上司が一番よく使うのは「もっとやる気を出せ」という言葉。

それでも成果が出ないと「あいつはやる気のない奴」とレッテルを貼る。

すべて「やる気」のせいにするところに大きな問題がある。

そのように行動の原因を、やる気、意欲のように、心の中に原因があると考えるのを医学モデルと言う。

これに対して、本書では行動分析学を活用することにより、人間の行動は変わるということを、架空の会社ノルウェー・モバイル社を舞台に解説していく。

行動分析学の創始者、スキナーが発見した行動の原理で最も重要な点は、「行動は、行動直後の結果によって制御される」というもの。

たとえば、たばこがやめられないのは、たばこをすった直後の快感を身体が覚えてしまっているから。

だからたばこをやめられない。

つまり、たばこを吸うという行動は、たばこを吸った直後の快感によって制御されている。

スキナーは数多くの実験を通して、特に行動の頻度に着目し、その行動が今後も繰り返されるか、それともしなくなってしまうかは、その行動をした直後に何が起こるかで決まってくると結論づけた。

人はなぜ仕事をするのか。自己実現のため?給料のため?昇進のため?行動分析学の立場からは、そのどれでもない。

行動は、直後の結果によって制御される。この「直後」とは、まさに“直”後であるほど効果的。

行動分析学では、目安として、「60秒ルール」と呼ぶように、行動をしてから60秒以内に起こらない結果は、ほとんど意味がないと考えている。

仕事をしてから60秒以内に白己実現ができたり、給料がもらえたり、昇進するなどということは現実にはありえない。

したがって、自己実現や、給料、昇進は、人々が仕事をすることを動機づけるような直接の原因にはなりえないのである。

自己実現、給料、昇進が働くことの動機づけにならないとしたら、どうやって社員がいきいきと働けるような会社を作れるのだろうか。

本書は、それについて事例を交えて様々な手法を紹介している。

いかにもアメリカ的な合理的・科学的考え方だが、何事も「やる気」という精神論で片づけてしまいがちな日本人にとっては、別な視点を与えてくれるという意味で、価値ある本ではないかと思った。

2011年10月 9日 (日)

高橋是清と田中角栄/小林吉弥

Bt000010826500100101_tl  二人はまた、「実学」を武器としてはい上がった点で、なんとも特徴的だった。女遊びも大酒もやったが、人一倍の努力家であった。男としての、哀しいほど度胸との戦いでもあった。そうした過程で人心とは何かを学び、人を見抜く「人間学」の“博士号”を取った。二人に共通する弱い者に目が向けられた心は、こうしたなかで育まれたと言っていい。弱い者に本当に目が向けられてこそ、本物、強者である。自分は安全地帯にいて、外でカッコいいことを口にする“自己主義者”はゴマンといる。すべて、ニセ者である。
 田中は言っていた。
 「政治とは、国民の生活をどうするかだ。政治は、結果責任がまず第一に問われる」
 「世の中は、嫉妬とソロバン(計算)の渦だ。嫉妬は、インテリほど強い」
 社会の実相を一言で見抜く、「人間学博士」らしい田中の言葉だ。
 もとより、人間、生き抜くために打算はやむを得ない。しかし、高橋是清も田中角栄も、その打算が改めて「私」四分、「公」六分であったことが白眉だった。行動の発露、人生の力点は、つねに「私的利益優先」を超えて「公的利益優先」へ目がいっていたということである。

「だるま宰相」と呼ばれた高橋是清と、「今太閤」と呼ばれた田中角栄。

二人には驚くべき酷似点があった。

放蕩三昧もあったが、常に「公的利益」を優先、また勤勉だった。

そして何よりも人間を知っていた。

田中角栄は、巧みな官僚操縦術を見せつけ、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力で知られた。

首相在任中には、中華人民共和国との間の日中国交正常化、

第一次オイルショックなどの政治課題に対応、

日本列島改造論で一世を風靡した。

歴史に「もしも」はないというが、もしも、あの時、中国との間で国交正常化がなされなかったとしたら、今の日本はどうなっていただろう。

経済的にとんでもない危機に見舞われ立ち上がれないような状態になっていたかもしれない。

高橋是清は昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第1次若槻内閣に代わって組閣した田中に請われ自身3度目の蔵相に就任、

支払猶予措置を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。

犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止、日銀引き受けによる政府支出の増額等で、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。

いずれも優れた決断力と強い実行力によって、日本を危機から救っている。

二人に共通していること、それは自分の人生を通して人間を熟知していたということ。

今の二世議員が大半を占める国会議員に最も欠けているものを持っていた。

この二人の生き方に、今の閉塞社会を打ち破る多くのヒントがある。

2011年10月 8日 (土)

星野リゾートの教科書/中沢康彦

Bt000011958600100101_tl  企業経営は、経営者個人の資質に基づく「アート」の部分と、論理に基づく「サイエンス」の部分がある。私は経営職に就いた当初から、自分にアーティスティックな経営判断を行う資質があるとは思っていない。どんな時にも自分の直感を信じることができず、それはあまりにもリスクが大きいと感じてしまう。私は自分の経営手法の中でサイエンスを取り入れる必要性を感じ、教科書を根拠とする経営を始めた。

軽井沢の老舗温泉旅館から、日本各地でリゾート施設を運営する企業へと飛躍した星野リゾート。

その成長の背景には、星野氏が実践した「教科書通りの経営」がある。

星野氏は自らについてアーティスティックな経営判断を行う資質がないと言っている。

それ故に、「教科書通りの経営」をするのだと。

そして、その通りに実践し、日本各地のリゾート施設を再生してきた。

その手法が正しいことは、その実績が証明している。

経営ということを考えるとき、どうしても経営者のカリスマ性や、独創性、先見性という属人的な要素に目が向けられがちだ。

松下幸之助、井深大、盛田昭夫、本田宗一郎、これらの経営者の語録や関連書籍は今だに売れ続けている。

確かに学ぶべき点も多いのだが、どうしても「この人だったから」という、経営者個人の資質による部分が大きい。

現在でも、成功している経営者には個人的な資質で成功しているタイプが多い。

むしろ、星野氏のように個人の資質によらず、「教科書通りの経営」をする経営者は少数派と言ってもよい。

しかし、多くの経営者が自らの経営に取り入れることができるのは、星野氏のやり方だ。

カリスマ経営者の手法は、他の経営者はマネすることができない。

本書で、星野氏は戦略やマーケティング、リーダーシップを学んだネタ本30冊と、それらの本に記された理論の実践事例を一挙紹介している。

それにしても、ここで紹介されている書物のほとんどが欧米人の書いたものだというのは、何とも寂しい。

2011年10月 7日 (金)

マネジメント革命/天外伺朗

_  マネジメントとは何かを、まともに問うと、人間とは何か、という根源的な問題に行き着く。簡単に「こうですよ」と答えられるような生易しい話ではない。
 今日のマネジメントの選抜や教育のシステムが、たいして有効に働いていないのには、ちゃんとしっかりとした理由がある。それらのシステムは、組織や人間が合理的な存在だ、という前提のもとに作られているからだ。
 よく考えればすぐ解ることだが、これは大きな錯覚だ!
 多くの人が、組織や人間が本来合理的に動くはずだと、頭では考えている。あるいは、合理的な存在であって欲しい、と願っている。
 しかしながら、その実態はさっぱり合理的でないことは、誰でも心の奥底の方で身体的に把握している。ところが、自分の言動の合理的ではない部分は、「良くないことだ」として、コソコソと隠蔽しようとする傾向がある。他人の場合は、非難の対象にすらなる。
 企業経営や人事のシステムでは、このはみ出した部分を、あたかも存在しないかのごとく考え、無視していることが多い。
 これは間違いだ!救いようがない、大間違いだ!
ーー人間でも組織でも合理性からはみ出した部分は合理的な部分に比べてはるかに大きく、はるかに大切で、はるかに本質的。それを無視した企業経営は欠陥商品!ーー
 いままで、その欠陥商品でも何とかやってこられたのは、従業員たちがその欠陥を、何とも人間的な包容力で補ってきたからだ。タテマエとホンネをうまいこと使い分けて、うやむやにごまかしてきたからだ。合理性よりも、人間的な心温かい情を大切にする人が多かったからだ。
 だから、管理を強化し、近代的で精密な経営手法を導入すると、企業がおかしくなる。(P16~17)

この本の著者名「天外伺朗」は、ソニーの取締役だった土井利忠氏のペンネーム。

AIBOの開発者でもある土井氏が、井深氏、盛田氏の時代のソニーでいったい何がおこなわれていたかを、マネジメントの観点から分析したのがこの本だ。

この本で一貫して著者が主張していることは、

欧米から入ってきた経営論は、「人間は合理的な存在」という前提で考えられている、

しかし、人間はそもそもそのような存在ではない、

そのような前提でマネジメントするので、ソニーはおかしくなってしまった。

もっと人間性に基づいた、指示・命令をしない長老型マネジメントが必要だというもの。

会社はそこに集う人々が人間的に成長するために乗り合わせる乗り物。

利益を出すのはもちろん必要なことだけど、それと同時に利益を出すという活動を通して、社員一人ひとりが人間的に成長することが大事だという。

これは日本的なマネジメントといえるものだが、組織や人間は合理的な存在だという前提で考えると、おかしくなってしまうというのは確かだ。

2011年10月 6日 (木)

強運になる4つの方程式/渡邉美樹

A9rea60   車や時計以外に、バブルの頃は、投資の対象として土地を買わないか、絵を買わないか、株を買わないかといろいろな話がきました。
  けれど、そういった儲け話はすべて断りました。そのようなことで儲けても、私はうれしいと思わないからです。儲けることで会社が弱くなるほうが、ずっと恐ろしいからです。
  店舗で汗水流して働き、ビール一本につき10円儲けさせてもらっているのに、会社が土地を買って、10億円儲けたらしいよということになったら、アルバイトや社員の士気は下がって当たり前。そうなれば、自ずと会社が弱くなります。(P161)

ワタミの創業者、渡邉氏は世界中の「ありがとう」を集めることを理念としている。

ワタミという会社が集める「ありがとう」の量、「ありがとう」の総和、「ありがとう」の数を最大にすることを目標として掲げている。

ただ、立派な理念を掲げる企業は履いて捨てるほどある。

上場企業であれば、すべてといって良いほど立派な経営理念を持っている。

問題は、その理念が、社長室の額縁に飾るためだけのものなのか、本気で実行しようとしているものなのかだ。

それを見分けるのに一番簡単なのは、何かあったとき、経営者がどんな経営判断をするのかを見るということ。

たとえばバブルの時代、多くの企業が土地を買いあさり、本業以外の投資に走った。

いずれも立派な経営理念を持っている会社ばかりである。

それらのバブルに踊った企業は「手段を選ばず、儲けることを最優先させる」と経営理念でうたってはいなかったはず。

つまり理念でうたっているのとは真逆の経営判断をした企業ばかりだった。

なんのための経営理念なのか。

大事な経営判断が必要なときの、礎になるのが経営理念であるはず。

ワタミの渡邉氏はバブルの時代、簡単に儲ける手段があったにも関わらず、その話に乗らなかった。

つまり、理念をかたくなに守り続けたということ。

それが今のワタミにつながっているということであろう。

2011年10月 5日 (水)

孫正義 リーダーのための意思決定の極意

Bt000012597900100101_tl   そのときの株主総会。まさにこの部屋ですよ。全員、目が三角になっている。入るなり「ペテン師!」「うそつき!」「泥棒!」。もうむちゃくちゃですよ。
  それでも私は一生懸命に説明しました。6時間だったか、おそらくソフトバンクの株主総会で最長です。休憩なしでぶっ続けでやりました。
  一人で全部受けて立った。いっさい逸らさないで、真正面から答えた。最後には非難囂々だった何千人かのうち、三分の一以上の人がハンカチ出して泣いていました。
  それは総会の最後に、一人のおばあちゃんの発言があったからなんです。
  「私は主人の遺してくれた退職金の1000万円全部でソフトバンクの株を買いました。それは孫さん、あなたの夢を信じたから、あなたのその夢と志を信じたからです。
  遺産すべてを注ぎ込んで、1000万円が10万円になってしまった。
  だけど、私に悔いはありません。今日、あなたの話を直接聞いて、あなたの夢に賭けて良かったと、心から思いました。信じていますから頑張ってください」
  たまりませんでした。その方の姿がいまでも眼に焼きついて離れないんです。

上記は、孫氏が自身の後継者育成のために開いた学校、「ソフトバンクアカデミア」で語った言葉。

講義は様々な設問に対して、どのように判断するかを孫氏が受講者に問いかけ、答えを 自身が解説する形ですすめられる。

このときは、「ITバブルが崩壊した、あなたがリーダーなら、A.ネット関連事業の縮小・撤退、B.さらにネット事業を強化、のどちらを選びますか?」という設問。

孫氏の選択はB、つまり、「さらにネット事業を強化する」というものであった。

孫氏にとって、自ら打ち立てたビジョンで人々を幸せにし、社員・取引先・株主に還元するためにやり抜けねばならない事業、それがネット事業だった。

当時、ITバブルは崩壊し、99%の人はネット株を売った。

もっと下がる、と片っ端から売った。

ソフトバンクの株も約100分の1に下がった。

当然、株主総会でもむちゃくちゃに言われる。

その時、その会場の雰囲気を一変させたのが、ある一人のおばあちゃんの言葉だったという。

今でも「自分を信じてくださった人を裏切らない、お返ししたい」という想いをずっと持ち続けているという。

成功する経営者の共通点として、「強い想いを持ち続ける」というものがある。

そして、その礎となる原体験を持っている人が多い。

孫氏にとっての原体験の一つは、株主総会でのこのおばあちゃんの言葉だったのだろう。

2011年10月 4日 (火)

韓国はなぜ反日なのか/吉井英一

Bt000012978000100101_tl   私は、韓国で多くの人に出会いさまざまな体験をした。ここまで述べてきたように、嫌な目に遭ったことも一度二度ではないが、そんな中、嬉しいことを一つ確信している。
  それは「多くの韓国人は親日である」ということだ。だが、そのことを親しい韓国人に話すと、彼らは「私は親日ではありません」と真顔で否定するのである。
  1910年8月22日、「韓国併合ニ関スル条約(明治四十三年条約第四号)」に調印した大韓帝国首相・李完用氏は、親日派の領袖と目され、現在では売国奴と呼ばれている。
  このように、韓国では「親日=売国奴」の図式ができあがっており、仮に日本や日本人を好きだとしても、公然と親日を名乗ることははばかられるという事情があるのだ。そのため、韓国人が日本寄りの発言をしたいときは、「私は親日ではないが」という枕詞を付けなければならない。
  一方、反日をいくら声高に叫んでも非難される恐れはない。従って韓国人は、オフィシャルには反日を唱えるのである。

吉井氏は長年、韓国人を相手に韓国人と共にビジネスをしてきた経験からこの本を著している。

確かにマスコミで報道される、日本に対する韓国人の行動は過激であり、日本人から見るとちょっとひいてしまうところがある。

何かあると竹島問題、従軍慰安婦問題、日帝の植民地支配の問題等を持ち出し、謝罪を要求する。

しかし、それは吉井氏によると、韓国が国策として押し進めているといっても過言ではないという。

韓国という国家にとって「反日」は非常に使い勝手のよい言葉である。

韓国人は非常に自己主張が強い。

なかなかまとまらない。

しかし、「反日」を掲げると、一致団結することができる。

コンプレックスの解消にもなる。

日本に謝罪させれば自尊心を満足させることができる。

日本からカネをとったり借りたりする口実にもなる。

非常に使い勝手の良い言葉なのである。

だから、日本人はそのような表面上の韓国人の反日の態度をあまりにも真に受けてしまわない方がよい。

彼らは「親日」を叫ぶことはできないのである。

それは「売国奴」を意味する言葉だから。

要するに、表面的な現象だけを見るのではなく、その裏に働く本質を見抜く目を養う必要があるということ。

先日のフジテレビ前の「反韓デモ」のような形で対抗しないほうがよいことは確かだ。

2011年10月 3日 (月)

日本人の9割に英語はいらない/成毛眞

Bt000013161700100101_tl   現在、世界で起きている問題のほとんどが欧米発である。リーマンショックのせいで世界中を不況に陥れ、世界一化石燃料を消費して地球環境を破壊し、世界一戦争を起こしているのもアメリカである。
  わざわざ、このような英語圏の人と同類になり下がる必要はない。英語を勉強しなければいけないという強迫観念にとらわれている人は、無批判に欧米人の考えを受け入れ、英語業界のカモ予備軍になりかけているのである。
  今日本人に必要なのは、日本という母国を深く知り、自分なりの考えをしっかりと持ち、日本語でしっかりと伝えられる“日本人力”である。
  本当はそういう人間こそ、海外で通用するグローバルなビジネスマンなのである。

成毛氏は英語がまったく必要ないといっているわけではない。

日本人の1割は英語が必要、ただ、残りの9割は必要ないといっているわけである。

ところが、現状は本当に英語を必要とされる1割の人間はその必要性に無自覚で、残りの9割は逆に英語が必要だと思い込まされている、というもの。

だから、英語を本気で勉強するのは1割の人間でよい。

そして、必要性を本当に感じれば、ビジネス英語 であれば半年必死に勉強すれば身につく。

また、必要に応じて身につけた英語でなければ、使える英語にはならない、と言う。

私自身は、英語の必要ない9割に属する。

だから、英語は勉強する必要がないと思っている。

ところが、今の世の中、英会話を身につけなければ時代の流れに乗り遅れてしまうとやたらにあおる雰囲気がある。

楽天やファーストリテイリングは社内の公用語を英語にした。

小学校でも英語を学ぶことになった。

特に若い人たちは、これに煽られてしまいがちだろう。

しかし、若い時にはもっと身につけなければならないことが山ほどある。

成毛氏は「英会話を習うより、本を読め」と言っている。

英会話では英語以上のことは学べないが、読書は世界中のさまざまな分野の知識が得られる。

英語はあくまでコミュニケーションの道具。

問題は相手に伝えるべき中身をその人が持っているかどうかということ。

まずは自分自身をしっかりと養うべきだ。

「今日本人に必要なのは、日本という母国を深く知り、自分なりの考えをしっかりと持ち、日本語でしっかりと伝えられる“日本人力”である」と、

まったく同感である。

2011年10月 2日 (日)

35歳からの「脱・頑張り」仕事術/山本真司

Bt000013159400100101_tl   ちょっと話が脱線するが、アメリカ留学中に、気晴らしのために「絵」を習いに行ったことがある。人物画の教室だった。絵は芸術だから才能、感性が大事であり、教室では私の絵に先生が、曖昧だが、芸術的な香りのするアドバイスをくれるんだろうな、と思っていた。
  実態は、まるで違った。「型」のオンパレードなのだ。「首と肩の長さと、腕の長さの比率をこのくらいにすると人間は、自然な姿で描ける」というような技満載の教室だったのだ。芸術家肌の人であったら、嫌悪しそうな光景である。
  でも、私にはそれで良かった。本格的な画家になる才能もないし、日曜画家で十分だ。
  この経験は、アートや芸術と呼ばれる分野でも、あえて「定型化」した「型」に落とし込むことの面白さと、その重要性について気づかせてくれた。これはいろいろな分野で語られることだが、「型」から入って「型」である程度の品質の仕事をして、そして、最後に、自分流に「型」を変えていけば良い。

今、会社の中堅層は非常に厳しい立場に立たされている。

以前のように会社の階層はピラミッドのようにはなっていない。

数の多い上の世代に押しつぶされそうになりながら、少ない部下で、より大きな成果を上げることを求められる。

自分が成果を出すだけでなく、部下を育てなければならない。

多重債務者といわれる所以だ。

ところが、実際は、「部下がやる気を出さない」「上司と部下との板挟みになる」「最後は自分で仕事を引き受けてしまう」というのが現実。

このような厳しい現実があるが故に、頑張り過ぎなくても「自動的に仕事が回る」仕組みをつくる必要がある。

仕組みをつくるとは、ある意味、「型にはめる」ということ。

「型にはめる」というと、いかにも自由度がなく融通がきかないように感じるものだが、実際はそうではない。

仕事以外でも芸術やスポーツ、その他あらゆる分野で、最初は「型」から入る。

マネジメントにもやはり「型」がある。

メンバーが自ら頑張る型、

働いたものが成長する型、

そして最高品質の仕事をする型。

それぞれ一定の型がある。

そして優れたマネージャーは、その型をたくさん持っており、部下には自分たちは型にはめられていると感じられないような形で型にはめる。

逆にそのような仕組みをまったく知らずに、その時その時の思いつきでマネジメントをしたとしても、部下は混乱するばかり、

当然、結果もでない。

現代のマネージャーにとって「仕組み」をつくるということは、自分がつぶれないために必須のことのようだ。

2011年10月 1日 (土)

ラーメン屋の看板娘が経営コンサルタントと手を組んだら/木村康宏

Bt000013079400100101_tl 「それじゃあ、具体的に俺の店はどうしたらいいんだよ?」
「一番をつくることです」
澤村はきっぱりと言い切った。
「一番?」
「そうです。この地域で一番のものを持つことです。それも、些細な点での一番ではなく、圧倒的一番を持つこと」
「そのポイントが1.3倍ってことか?」
「1.3倍では違いがわかるだけです。1.7倍の大差をつけていただきたい」
「1.7倍?」
そうです、1.7倍。すなわち差がわかるだけの1.3倍という数字に、さらに1.3倍をかけた数字、それが1.7倍です。これが圧倒的な違いということです」

題名と表紙を見たとき、「もしドラ」のパクリかとも思ったが、現役の経営コンサルタントが書いた本だということで読んでみた。

話の内容は、かつては繁盛していたが、今は閑古鳥が鳴いているラーメン屋の娘から、一人の経営コンサルタントが建て直しを依頼され、店のがんこな主人とぶつかりながら見事ラーメン屋をV字回復させるといったもの。

いささかできすぎといったきらいはあるが、出てくる内容は、特に奇抜な手法ではなく、コンサルタントの基本的な手法そのもの。

つまり、まずは強みを発見し、それに経営資源を集中し、圧倒的強みにする。

ターゲットを絞り込み、儲かる仕組みを作り、従業員のやる気を引き出し、数字もしっかりと押さえる。

そうすればラーメン屋は繁盛する。

教科書どおりといってもよい内容なのだが、経営の傾いている企業は、ほとんどこれをやっていないのもまた事実である。

業績を回復させるためには、降って湧いたような奇抜なアイデアや、手法を求めるより、まず基本に立ち返れということだろう。

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