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2011年11月の30件の記事

2011年11月30日 (水)

居酒屋の世界史/下田淳

Bt000013562700100101_tl  居酒屋は単に飲食・飲酒、宿屋の機能をもつだけではなかった。そこではさまざまなエンターテイメントがおこなわれた。賭博がおこなわれ、芸人が活動し、性を求めあるいは売り物にする男女が棲息した。
 重要なのは、居酒屋が人々のコミュニティセンターであったことである。情報収集、商談、職業斡旋から金貸しや裁判所の機能まで備えていた。権力批判、謀議の拠点となる場合もあった。ヨーロッパで文明圏では、教会に代わって祭りや冠婚葬祭の祝宴の場となった。中国の茶館もある程度の「多機能性」をもったが、イスラムのカフェや日本の居酒屋は、エンターテイメントと売春のみ付属していたにすぎなかった。居酒屋のもった「多機能性」はヨーロッパ、しかも中近世でもっても発達したと結論できる。

本書では、居酒屋が歴史の中でどのような役割を果たしたのかが記されている。

ドイツ農民戦争やフランス革命は居酒屋から始まった。

農民や革命家は居酒屋で計画を練り、民衆に呼びかけたりした。

居酒屋が売春宿であったということは容易に想像できるが、銀行や裁判所の機能をもった時期もあったとは驚きである。

ヒットラーが演説し、ナチスが成立したのも居酒屋であった。

昔、「歴史は夜作られる」という映画を観たことがあるが、さながら「歴史は居酒屋で作られる」といったところか。

居酒屋とは酒を飲み仲間との交流を楽しむ場所である。

しかし、人々が集まる場所は、物、情報などさまざまな文化の交錯する場所でもある。

単純化して考えれば、居酒屋に限らず、人が集まり自由に語り合える場からは、何か新しいものが生まれるということが言えるのではないだろうか。

2011年11月29日 (火)

問題は、解いてはいけない。/高木幹夫

Ek0014199  考えることは、収束と拡散というふたつの行為のくり返しから成り立っていると思います。
 ある問題について、その要因や背景に幅広く興味を持ち考えるのは拡散思考。それを土台にして結論へ絞り込んでいくのが収束思考。広く情報を収集するのは拡散作業、そのなかから必要な情報を選択するのが収束作業。
 奈良の大仏について、いつ、だれによって建立されたかを知っていることは収束的知識ですが、あんなに大きな大仏が建てられたのはなぜか。どんな時代的背景から建てられ、社会にどんな影響を与えたかなどなど、広がりのある「知」としてとらえられるのが拡散思考といえます。
 この収束と拡散のふたつがあって、人間の思考は成立し、豊かにもなるのですが、「解く」に偏って、考える力をおろそかにすることは、そのうちの収束思考だけをきたえていることになります。

収束思考と拡散思考、

別の言葉で言えば、収束思考とは問題を絞り込み、最終的に解答を導き出す思考法

拡散思考とは、答えのない問題を、自らの創造力を活用して、どんどん広がりを持たせる思考法

この場合、必ずしも正解があるとは限らない。

おそらく、実生活を送るには、両方の思考法が必要になってくるのだろうが、

学校の勉強は、収束思考に偏りすぎているように感じる。

学校の勉強では、必ず答えがある。

必ず一つの答えがあるということを前提に答えを求めていく。

テストであれば、答案用紙に「正解」を書かない限り「○」はもらえない。

もし、学校のテストで「正解」以外の解答を書いても、せいぜい「△」であり、大方は「×」となる。

この時点で、拡散思考は排除される。

学校の勉強では「1+1=2」である。

それ以外は、「×」

しかし、実世界では「1+1=2」にならないことの方が多いのではないだろうか。

世の中に出てみると、正解のある問題はほとんどない。

そして、正解がない中で、仮説を立て、前に進んでいく。

ここで、正解がでるまで前に進めない人は、実世界では何も成し遂げることはできない。

学校秀才が、社会に出てみると、凡人になってしまうのも、ある意味当然と言えるかもしれない。

いわゆる指示待ち世代も、この収束思考の産物といえるかもしれない。

指示待ちとはつまり、よそから問題を与えられるのを待っていること。

彼らは問題さえ出してくれたら、必ず解いてみせる、だれよりも速く正解を出してみせるという収束能力には長けているが、みずから課題を発見し、問題として構造化させ、それに解答を与えていく拡散思考は不得手。

企業でも、上司に「何をすべきか教えてください。教えてくれればやりますが、教えてくれないと、何をしていいのかわかりません」と問う、指示待ちの社員が多くなってきているように感じる。

「解く」ことに忙しく、「考える」ことをおざなりにしてきた弊害は小さくなさそうだ。

2011年11月28日 (月)

原発・正力・CIA/有馬哲夫

4106102498  被爆国の日本で原子力の研究開発を進めることは容易ではない。日本学術会議も、原子力の研究が軍事目的に使われるようなことがあってはならないと決議したほどだ。このような姿勢を変えるとすれば、メディアの力が必要だった。また、当時の日本の経済力と研究状況では、アメリカの援助なしに原子力の研究開発を進めることは難しかった。誰かアメリカから援助を引き出せるような強力なコネを持った人物が必要だ。そこで浮かび上がってくるのが、メディアとアメリカ・コネクションをもった正力だった。(中略)
 正力は日本テレビと讀賣新聞を持つメディア王であるという点でも、財界人の集まりである日本工業倶楽部に出入りし、日本テレビ設立時には総額で七億円もの出資金を集めた実業家であるという点でも、原子炉のセールス・プロモーション上避けて通れない人物だった。これは、GEとRCAにとっても同様だった。「ついに太陽をとらえた」のような原子力平和利用啓発キャンペーンを打てることに加えて、強力なアメリカ・コネクションを持っていることが、日本側の関係者のあいだで正力が貴重なパイプ役として浮かび上がってきた理由だった。そして、まさしくこれと同じ理由で、アメリカ側も正力を原子炉売り込みの鍵を握る人物と考えていた。

アメリカ、とくにCIAと渡り合いながら、原発の日本への導入を成し遂げ、さらに発行部数一千万部の讀賣新聞と数千万人の視聴者を楽しませる日本テレビをあとに残した正力松太郎。

その存在を賛美することはできないが、かといって否定することもできない。

個々の日本人がどんなに節電に努めたとしても、現段階では、原発なしに日本の全ての電力需要を満たすことはできないだろう。

その意味では、原発、正力、CIAはよく似ている。

CIAなど外国の諜報機関にしても、彼らが「謀略」や心理戦をやめて、外交問題をすべて軍事的手段で解決することにしたら、世界は戦争だらけになるだろう。

現実は理想や建前で動いてはいない。

さらにいえば、政府やスポンサーや圧力団体がメディアにいろいろ働きかけるのは、どこの国でも当たり前のこと。

一国の外交部門や情報機関ともなれば、少しでも自国に有利な世論を作り出すよう対象国のメディアを操作しようと全力を尽すのは当然のこと。

本書では、そのような歴史の表にでない部分について語られている。

ある面、今話題の渡辺恒雄会長も似たような所があるように感じる。

2011年11月27日 (日)

日本一勝ち続けた男の勝利哲学/加藤廣志

4344409647  常に全国レベルの戦いをしているわけですから、能代工の練習は大変にハードなものがあります。たとえ練習がきつくても、レギュラークラスはついてこられるのです。彼らには、自分の力で試合に勝つという明確な目標があるからです。
 しかし、目標を失いがちな控えの選手にいかに目標を持たせるか。私は次のことを実践しました。
 彼らにもそれぞれ仕事を与えてやるのです。たとえばデータの処理。彼らの上げてきたデータを基にして、練習をやるのです。
 データにはシュートの回数はもちろん、パスミスの回数など細々とした、いろいろな項目があります。そういったものをさっとつけるのが得意な生徒がいるのです。生徒たちの得意な部分を引き出して、役割を与える。そうすると自分もチームの一員として貢献しているから、やる気も俄然違ってくるのです。実はそのことが非常に大事だと思います。
 なぜならそれをするためには、日頃から生徒と接して、観察していなければなりません。どの生徒はどういったことが得意か。それを知らなければ役割を与えることもできないのです。

能代工業高校のバスケットボール部監督在任中の三十年間でインターハイ七連覇を含む計三十三回の全国制覇を達成した加藤氏。

これだけ勝ち続けるには、選手を育てることが必要になる。

バスケットは一度に五人しか試合に出られないスポーツ。

どうしても試合に出られない選手が多くなる。

しかし、控えの選手が優秀でなければ、決してチームは強くなれない。

レギュラーだけでなく、控えも含めた、まったく試合にでれない選手まで、幅広く育成する必要がある。

ただ、試合にでれない選手のモチベーションを高めるのは簡単ではない。

そのことについて加藤氏は、「生徒たちの得意な部分を引き出して、役割を与える。そうすると自分もチームの一員として貢献しているから、やる気も俄然違ってくる」と言っている。

つまり、普段から選手を観察し、個々の選手にあった役割を与えることがポイントだということ。

人は自分のやっていることが組織にとってどんな意味があるのかを考えるもの。

そして、それがはっきりとわからないとやる気をなくす。

やる気とは、組織に対する自分の貢献が明確になったときに出てくる。

だとしたら、組織のリーダーは、その構成員に対して、個々の特性にあった役割を与え、その意味をしっかりと伝える必要がある。

これはバスケのチームだけでなく、あらゆる組織に共通して言えることではなかろうか。

2011年11月26日 (土)

乱世の帝王学/山本七平

20010_146322_m  岩間大蔵左衛門というひどい臆病武者がいた。合戦となると怯えて癪を起こし、目を回してしまうので一度も戦ったことがない。度胸をつけてやろうと考えた信玄は、馬の背に大蔵左衛門をくくりつけ、おおぜいで馬の尻を叩いて敵陣に追いこませたが、馬にも臆病の気が移って、すぐ引き返してくるという始末だ。
  そこで信玄は、彼に家中の隠し目付を命じ、何事によらず気づいたことは秘かに報告せよ、もし隠し置いて露顕することがあれば死罪に行なうぞとたっぷりおどかした。大蔵左衛門は恐れおののいて、家中の万事に注意し、余さず報告したので、おおいに役立ったという。
 信玄は言っている。
「いやしくも晴信、人のつかいようは、人をばつかわず、わざをつかうぞ。また政道いたすも、わざをいたすぞ。あしきわざのなきごとくに、人をつかえばこそ、心ちはよけれ」
 人を使うのではない、能力を使うのだ。それぞれが持っている能力をフルに生かして使ってこそ、心持ちよいという、おどろくほど合理的な人間活用論である。

人を生かすコツは、その人の強い面、優れた面を生かせる場を与えることである。

これを適材適所という。

しかし、実際にこれを実行している企業は非常に少ない。

もちろん、中小企業などは、そもそもそれほど仕事の種類が多くないので、難しい面があるのだが、それも工夫すれば不可能ではない。

日本の組織はどちらかというと弱みに目を向ける傾向がある。

弱点克服型、そして減点主義である。

協調性がなかったり、少しとんがったところがある人材はなかなか出世できない。

先日、立川談志師匠が亡くなったが、日本の組織では、あのような個性的で破天荒な人材はまず出世できない。

結果として、組織の上の階層は、人間的に面白くない人物ばかりということが起こる。

ドラッカーも「弱みでなく強みに目を向けるべき」とその著書の中で語っている。

それを五百年前に実践していた人物がいた。

もっと歴史に学べということではないだろうか。

2011年11月25日 (金)

交渉術/佐藤優

Bt000013450500100101_tl  このとき、西村氏が、身を乗り出して、鈴木氏に言った。
「大臣、僕の目をみてください。これが嘘をつく男の目ですか」
 西村氏は最終兵器としてこの言葉を吐いたのだろう。しかし、この最終兵器は鈴木氏には通じなかった。鈴木氏が、西村氏の瞳を見据えて言った。
「これは嘘つきの目だ」
 数秒間、沈黙したまま二人は睨み合った。そこで、異変が起こった。西村氏が、突然、「ウ~」といううめき声をあげて、じゅうたんの上で屈み込んだあと、身体を横にして、アルマジロのように丸くなってしまったのである。(中略)
 予想外の事態に鈴木氏が慌てた。
「西村さん、大丈夫か。どうしたんだ」
 西村氏はじゅうたんの上で丸くなったまま動かない。
 私も西村氏のそばに寄った。西村氏は目をつぶって丸くなっている。眼鏡が少しずり落ちていたが、意識を失っているわけではなさそうだ。鈴木氏が西村氏に声をかけた。
「もういいよ。西村さん、今日はほんとうにありがとう。よくやってくれた。もう帰っていいよ」
 西村氏は、すくっと立ち上がって、「鈴木大臣、それでは失礼します」と言った。
「あんた大丈夫か。一人で帰れるのか」
「大丈夫です」
「車はあるのか」
「下に公用車をまたしてあります」
 西村氏は、何事もなかったように、一礼して、長官室を後にした。

まるでマンガのような話しである。

五十代の大臣と外務省の局長が「僕の目をみてください。これが嘘をつく男の目ですか」、「これは嘘つきの目だ」と、まるで小学生のケンカのようだ。

しかし、外務省の局長が、じゅうたんの上でアルマジロのように丸まってしまうというのは、おそらく鈴木氏にとっても予想外の展開であったろう。

事実、このあと、西村氏はこれ以上大臣から虚偽を追求されることなく難を逃れる。

これも一つの自分を守る術の一つなのだろう。

国会議員と比べ、官僚は弱い立場にいる。

このアルマジロのように丸まった「死んだふり」こそが、窮地に陥った弱者にとって最大の武器だったのだろう。

しかし、一般の人には理解できない行動であることは確かだ。

私などは、「人間としての誇りはどこにいったんだ」と思ってしまう。

「そこまで自分をおとしめてでもも、自分と自分の立場を守りたいのか」と思ってしまう。

ただ、これも処世術の一つであることは確かだ。

私にはできなきことだが。

2011年11月24日 (木)

本物の実力のつけ方/榊原英資、和田秀樹

4487799074  日本も含めた世界の主要国が迎えつつあるのは、知識が社会の中心的な資源となり生産手段の基本的役割を担う「知識社会」であることは先に述べた。少なくともそのような社会では、自分の体を使って単純作業をすれば生活はできるという常識は通用しにくくなっているのだ。事実、日雇い労働者の雇用機会が減っているように(世間では不況が原因とされているが)、最近では日本でも単純な手作業で生きる糧を得るのが難しくなっているのである。
 このように、先進諸国においてはいまや、「単純な手作業では生きる糧を得るのが難しくなっている」という状態が社会に広く浸透しているのである。手作業でも技術を必要としない単純な仕事は真っ先にリストラの対象にされ、機械ないし賃金水準の低い国々に奪われる傾向にあるのだ。仮に運良くそのような職を見つけて働くことができたとしても、対価として得られる賃金水準は以前に比べると格段に低い。それは書店で求人情報誌などを手にしてみれば一目でわかることだが、これは日本も含めて先進諸国ならどこでも起こっている問題なのである。
 日本ではそれを長引く景気の低迷やデフレ現象のせいにしているが、経済の構造そのものが変わりつつあることを考えるとその見方はやはりまちがっている。それは本来、日本の社会が知識を経済の基礎とする知識社会へ確実に移行していることの証左として見るべきものなのである。このような見方ができずにのんきに構えているような人は、このままでは将来たいへんな苦労をするのは目に見えている。

今、先進諸国の認識で共通していること。

それは、「知識のない人が社会の中で必要とされなくなったり、勉強をまったくしない人が知識社会では食べていけない危険性がある」ということ。

現に、現在、日本社会では単純労働の単価がどんどん下がってきている。

これは単に、不況のせいでもデフレのせいでもない。

また、派遣労働者や期間雇用労働者が多くなってきているからだけでもない。

もう10年くらい前、「稼ぐ人、安い人、余る人」という本を読んだことがある。

その当時は、「へえ~、そんな時代が来るのかな?」程度の受け止め方だったが、今、まさにそのことが起こってきている。

企業に高い付加価値を与えるようなごく一部の社員、いわゆる「稼ぐ人」はより高い報酬を得るようになってきている。

しかし、一方、単純作業をする労働者、いわゆる「安い人」の単価はどんどん下がってきている。

そして、怖いのは、「余る人」と「余る人予備軍」が日本ではどんどん増えてきているということ。

ドラッカーも、その著書で「知識労働者」の時代が来ると言っていたが、まさにそのような時代が来た。

生き残るには、生涯勉強し続け、成長し続け、それによって変化に適応していくこと。

全ての人にこのことが求められてきている。

これからはもっと厳しい時代が来るのではないだろうか。

2011年11月23日 (水)

習慣力/今村暁

C__docume1__locals1_temp_znp7d  私はセミナーの中で、
「やる気のない人の気持ちになってください」
 と会場の受講生の皆さんに、やる気のない人になってもらうことがあります。
 そしてその次に、
「今度はやる気のある人の気持ちになってください」
 と言って、やる気のある人の気持ちになってもらいます。
 この2つを続けてやると、実は面白い現象が起こります。ここであなたも実際にやってみてください。それから、この先を読み進めてみてください。
 どんな現象が起きるのか?
 私が言ったのは、
「やる気のない人の気持ち(感情)になってください」
 ということでした。しかし、それを聞いた受講生の皆さんがやることは、「頭を下げ、肩を落とし、背中を曲げ、うつむいて無表情になり、顔から力を抜く」なのです。全国のどこの会場でやっても、ほぼ同じ行動を皆さんが取ります。
 次に、やる気のある人の気持ちになってくださいと言うと、皆さんは「イスを座り直し、顔が上を向き、背筋が伸び、そしてニコニコし」始めます。これがやはり全国で老若男女にかかわらず起こります。
 ここから何が言えるか?
 実は私たちは、気持ちや感情を作るときに、姿勢を変えたり、表情を変えたり、動作を変えたりすることから入るのです。「感情」というのは、どんな「言葉」「動作」「表情」「姿勢」を使っているかで、作られてくる一面もあるのです。

よく言われることに、「悲しいから泣くのか、泣くから悲しくなるのか」ということがある。

おそらくどちらも正しいのであろう。

悲しいから泣くことももちろんあるし、泣くことによって悲しくなることもある。

つまり、感情とは私たちの言葉、動作、表情、姿勢によって作られる一面が確かにあるということ。

ところが、多くの場合、感情的に落ち込むと、言葉や態度も否定的になってしまい、ますます落ち込みが激しくなる。

このような場合は、まず言葉を積極的、肯定的な言葉に変え、背筋を伸ばし、いかにも希望にあふれているという姿勢を取ることだ。

このような心と身体のメカニズムは知っておいて損はない。

日常のちょっとした場面で使える知識である。

2011年11月22日 (火)

人事部は見ている。/楠木新

C__docume1__locals1_temp_znp22  日本では、役職、役割に関係なく、結果的に能力の高い人が低い人の仕事をカバーすることによって仕事を進めているケースもある。
 極端な場合には、力量のある部下が年功で昇格した上司を支える構造になっていることもあるだろう。役職と能力が逆転しているのでおかしいのは間違いがないが、互いに助け合うことが共同体の力を強める面もある。
 特に、まだ経験が浅い社員に対して知識や技能を伝授して、支援して育てるということはこうして見てくると、職能資格制度、職務主義、目標管理制度、コンピテンシーなどの評価制度のどこかに正解があって、それを導入すればうまくいくなんていう方策はないことが分かってくる。
 人事評価は公平に行うべきと主張する見解もあるが、どんな評価基準を導入しても客観的な評価などありえない。そもそも人の評価は主観的なものであり、感情を伴っている。先ほども述べたとおり、客観性、公平性よりも、一緒に働く社員たちから「うん、そうだ」という納得感をどれだけ得られるかがポイントになる。

私は人事コンサルの仕事をしているわけだが、よく出てくる要望に「誰がやっても公正・公平で客観的な評価ができる人事考課表をつくってほしい」というものがある。

確かに言っていることはよくわかるのだが、これはまず不可能。

公正・公平・客観性、こればかりを求めると、迷路に迷い込みそこから抜け出せなくなってしまう。

ではどうしてこのようなできもしないものを求めるのか?

それは、「公正・公平・客観性 = 納得感」という枠組みができあがってしまっているから。

しかし、これはおかしい。

少なくとも、「イコール」ではない。

公正・公平でなくとも、納得感を高める方法はいくらでもある。

そもそも納得するかどうかは極めて主観的な問題。

極論すれば、客観的でなくても、公正・公平でなくても、本人が納得すればオーケーなのである。

だとしたら、ここで発想の転換が必要になる。

つまり、「たとえ公正・公平でなくとも、本人が納得する方法はないものだろうか」というアプローチ。

そうすると、いろんな方法が浮かんでくるものである。

これらは人事考課の例だが、現代は様々な分野で、既定の枠組みにとらわれずに発想するということが求められているのではないだろうか。

2011年11月21日 (月)

「Why型思考」が仕事を変える/細谷功

690_l  イノベーションについて語られた古典的名著にクレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』があります。そこで語られている重要なキーメッセージは、「一時代を築いた革新的イノベーションは次世代には負債になりうる」ということです。戦後の繁栄を築いた日本の成功要因が教育システムにあったことは論拠をまたないことですが、下手をすると今それが強力な負債となりかねない事態になっています。それはその産物が大量のWhat型思考の「そのままくん」、しかも「とびきり優秀なそのままくん」であったからです。
 いまや新興国の追い上げに対して真っ向から対抗しなければいけない立場となった日本は、ますます進む超高齢化という大問題を抱え、なんとか大きなモデルの転換を図られなければなりません。そのためにまず必要な「思考回路の転換」の一つが「What型思考からWhy型思考への転換」ということだと思います。

What型人間のことを「そのままくん」とはよく言ったものである。

確かに、唯一絶対の正解がないと落ち着かないWhat型思考の人には「答えがわかっている」と「わかっていない」の二通りしかない。

つまり〇か一かのデジタル的な思考回路なわけである。

確かに学校の勉強の場合には唯一絶対の答えがある。

しかし、世の中の問題は、答えがあるようでない、いわゆる「もやもや」した状態がほとんど。

What型人間は、この「もやもや」に耐えられない。

つい、「正解は何?」と言ってしまう。

これに対してWhy型思考の人にとってみると、程度が違うだけで「もっといい答えがあるはずだ」という一つの状態しかなく、「常にもやもやしている」という点でアナログ的だと言うこともできる。

逆に言えば、この「もやもや」を考えるためのエネルギーに変えるのがWhy型人間。

現代は「視界不良」という「もやもや」の状態がずっと続いているといっても良い。

ただ、この視界不良で正解のない時代だからこそ、これをむしろ楽しむWhy思考が求められる。

今、まさに、それまで社会的に優秀だとされたWhat型人間が役立たずになり、それまで傍流とされていたWhy型人間が重用されるという逆転現象が起こりつつある。

ある意味、面白い時代になってきた。

これから日本がどのように変わっていくのか、あるいは全く変わらないでこのままの状態でいくのか、しっかりと見てゆきたい。

2011年11月20日 (日)

絶対こうなる!日本経済/榊原英資、竹中平蔵、田原総一朗

4776206196 田原 さあ困った。自民党の小泉内閣で経済・財政・金融分野を丸投げされて、一人で全部引き受けてきた元大臣。自民党政権で「ミスター円」とまで呼ばれた元大蔵官僚で、財務大臣の呼び声すらあった民主党最高のブレーン。この二人が、「民主党にはマクロの経済政策がない」と断言するんだから、本当にないんですね。
榊原・竹中 ない。
田原 マクロの経済政策がない先進国って、世界中にありますか?
榊原・竹中 ない。
田原 なんでないんですか? 僕は政治家というのは素人だと思います。官僚はプロだと思います。みんな、ここをよく間違っているんだけど、政治家から発想は出ません。発想は官僚から出るんです。その官僚が出した発想を吟味し、決断するのが政治家なんです。だから成長戦略にせよ経済政策にせよ、自民党からも民主党からも出るはずがない。だから榊原さんから出なきゃいけない。
榊原 もちろん、最終決定をするのは政治家です。しかし、官僚や経済人をブレーンとして使わなくてはいけない。
田原 当たり前の話だけど、官僚のほうが政策をよく知っているんだから、政治家は官僚を徹底的に使わなきゃダメ。それで最終的に政治家が決断すると。榊原さんがせっかく民主党のブレーンなのに、菅直人は、なんで「脱官僚」なんてバカなこと言ったんですか?

「民主党最大の経済ブレーン」榊原氏と「自民党・小泉改革の最高責任者」竹中氏。

犬猿の仲とみられる2人の意見が一致する点、それは「民主党にはマクロの経済政策がない」ということ。

そして、マクロの経済政策がない先進国は世界中、どこを探してもないという。

今、盛んに論じられているTPPの問題。

これも、日本は将来どこへ向かうべきなのかという青写真がなければ、意味がない。

では、そのためにはどうすれば良いのか、官僚をうまく使いこなすことである。

政治家は各専門分野については、はっきりいって素人。

詳しく知っているのは官僚。

だったら官僚をうまく使えば良いのである。

つい半年前の原発事故の問題もそうだし、今回のTPPの問題もそう。

ところが、「脱官僚」といって対立の構図ばかりが目立つ。

今、やっている事業仕分けも、大事なことだろうが、これだけではダメ。

菅首相が「政治主導」と言ったが、今のままでは「素人主導」。

官僚を使いこなすことは、決して官僚の言いなりになるということではない。

企業であっても、社長ひとりでは何一つできない。

社員をうまく使いこなし業績を上げるのが名経営者である。

民主党の政治家が官僚と対立ばかりして、自分たちで何でもやろうとしているところに、今の政治がうまくいっていない原因があるように感じる。

つまり、民主党の政治家はIQは高いがEQは低いということである。

2011年11月19日 (土)

TPPが日本を壊す/廣宮孝信

4594063683  労働については、TPPと同時に締結される予定の「労働協力に関する覚書」というものが存在します。
 覚書によれば、国際労働機関(ILO)加盟国としての義務の確認、「労働における基本的原則と権利に関する国際労働機関宣言およびそのフォローアップ」についての約束の確認、労働についての国際的な約束に一致した労働法・労働政策・労働慣行の確保、労働法制・政策策定における主権の尊重が謳われています。同時に保護貿易のために労働法・労働政策・労働慣行を定めることは不適切であると規定されているのです。例えば日本人労働者に対する労働政策を海外の国々と合わせる、場合によっては労働条件や雇用保険などの社会保障条項も合わせなければなりません。
 このことによって、日本人の労働環境は激変する恐れがあります。TPP参加によって日本的なローカルルールが規定に抵触するということは、終身雇用や社会保障が否定されるということと同義なのです。
 もちろん逆のことも考えられますが、TPP加盟国のなかには発展途上国もあり、これらの国の企業が十分な社会保障を行う体力がない以上これが「国際的な約束に一致した」条件ということになります。日本人労働者の権利は大幅に制限され、海外企業での労働条件とほぼ同じ内容になる可能性があるのです。

今、TPPの問題がマスコミを賑わしている。

ところが、その議論は「経済成長」か、それとも「農業保護」かという二者択一に終始しているように感じる。

しかし、TPPは農業だけの問題ではない。

サラリーマンの雇用や社会保障、地域経済にも甚大な影響を及ぼす。

ところが、あまりにも議論が矮小化され、二者択一という単純な図式にすり変わってしまっている。

私自身、TPPそのものについては、賛成でも反対でもない。

と、言うより、よくわからないのである。

正しく考え判断するに必要な情報が充分に提供されていないのに、賛否を論じることなど論外。

国会で議論している当の議員も、本当にわかって議論しているのだろうかと勘繰りたくなる。

そして、一番の問題は、本来は「国のあるべき姿」という視点を基に、どのような状態が「最も国益にかなうか」を議論すべきで、その結果としてTPPに賛成なり反対といった結論や、もしくは修正付きの折衷案といった結論を見いだすべなのだが、そのようなビジョンが全く見えない。

これを機に、もっと国家のビジョンについて、真剣に論じてもらいたいものだ。

2011年11月18日 (金)

挫折力/冨山和彦

C__docume1__locals1_temp_znp70  日本の優等生の特色は、試験でまんべんなく高得点を取るところにもある。百点中、全課目で七、八十点を取れることが大事で、一科目だけが百点でも、残りの科目が平均レベルでは優等生になれない。すべての科目に通じた優等生といえば格好いいかもしれないが、これまた自己抑制の産物である。現実には、すべての教科がまんべんなく好きという人は、まずいない。嫌いな教科も我慢して勉強しなければ、平均点は上がらない。つまり好き嫌いを抑制する能力も、優等生の条件なのだ。(中略)
 そう考えたとき、全部「優」の人は、決して「優秀な人」とはいえないことがわかるだろう。あらゆることをまんべんなく、ほどほどにこなせるというだけなのだ。そして自分の心に正直に「この学科はくだらない」と表明することよりも、すべての学科の先生にいい顔をすることを優先するタイプだということを意味している。

今の日本で何が起こっているのか。

それはある意味、逆転現象と言われるもの。

つまり、これまで優秀とされていた人が、実はもっとも役に立たない人間になってしまう。

これまで組織の中で全く評価されなかった人が、会社を辞めて事業をはじめ大成功をおさめたりする。

どうしてこんなことが起こるのか。

それは、ひとつに学校のシステムにも問題がある。

日本の学校でいい成績をとるにはどうすればいいのか。

それには苦手科目を失くすこと。

くだらない授業だと思っていてもひたすら我慢してまじめに勉強する。

自分の興味のあることにのめり込むと、他の勉強をする時間が奪われてしまうので、いい点数が取れなくなってしまう。

だから、自分を押さえ込むことが必要。

学ぶ姿勢としては、ある意味で謙虚さが必要であり、そういう姿は日本人的には美しいかもしれない。

だが悪くいえば相手に合わせるために、自分を押さえ込んでいる。

これは答えのない問題を考えたり、あるいは問題設定さえ自分で行い、自分なりの答えを創造していく際には、マイナスに働くことが多い。

人生や企業経営における本当に大事で難しい問題には正解がない。

だから最後は、自分自身の価値観、もっとわかりやすくいえば「好き嫌い」で判断するしかない。

自分の頭で考え、自分の心で感じることが基本なのである。

つまり、本当の意味での自分で考える能力は、日本的教育システムでは育成できない。

今の日本の教育システムでは、好き嫌いを抑制してでも全科目で模範答案に近い答えを書き、いい得点を得ようとする優等生を量産するばかりである。

それは、平時にはよかったかもしれないが、今はそんな時代ではない。

試験で問われる以外のさまざまな能力が、人生を生きていくうえで要求されているのだ。

現在の政権与党である民主党政権には高学歴の政治家が多い。

ところが現実の問題に対時したときに、彼らの多くはおろおろするばかり。

普天間にしても、消費税にしても、最近話題のTPPにしても、いろいろな人たちにあれこれいわれ、皆にいい顔をして全科目合格点を取ろうとして、結局、優柔不断を繰り返す。

あげくに全員が不幸になる惨めな結果が待っている。

今の日本の閉塞感は、優等生がそのままトップに立つ社会の仕組みが作り上げているといっても良いのではないだろうか。

2011年11月17日 (木)

昭和史の教訓/保阪正康

Bt000010860200100101_tl  今まで幾つかの書で書いたことのあるエピソードなのだが、戦時下で東條首相は議会での戦時立法についての質問を受けたときに、「終戦」とはどういうことかと必ず尋ねられている。戦時下の時限立法は「終戦」になればその役割を終えるのだから、まずは当り前の質問である。それに対しての東條答弁は、「戦争が終わるとは平和になったとき」といった意味の驚くほど単純な答えを返していた。法的には説明できないでいる。
 こういう首相でも務まるというのが、戦時下の日本の首相だったのである。その首相が、やはり議会で「戦争とは精神力の戦いである。負けたと思ったときが負けである」といい、だからそのような考えは臆病な考えであるといった内容の答えを返した。それでも議会では通用してしまうのだから、戦時下とはなんとも便利だったといえるわけである。

東條首相の「戦争は負けたと思ったときが負けである」という考え方。

この考え方によると、どんなに状況が悪くなっても、本人が「負けた」と思わない限りは負けないことになる。

勝ち負けの判断に客観的な状況など関係ない、あくまで「負けた」と思うか思わないかという主観の問題。

極論すれば、客観的にその存在すら消えたとしても、「負けた」と思わない限りは負けない。

これはある意味、怖い考え方。

国民総玉砕の道へとつながる。

更に、怖いのは、これが一国の首相の考えだったということ。

こんな精神論が議会の場で首相の口から語られ、誰もそれをおかしいと指摘しない。

あのような悲惨な結果を招いてしまった原因の一つは、このような日本人の精神構造にあったのは間違いない。

そして、今もこの精神構造は変わっていない。

「戦争は起こらない」と思っている限り、戦争は起こらない。

だから、「もし、戦争が起こったら」、「もし、中国や北朝鮮が攻めてきたら」などということは思っても考えもいけない。

だから、シミュレーションは必要ない。

憲法9条を改正するなど論外。

「原発は安全」、「もし、原発事故が起こったら」などということは考えてはいけない。

だから起こったときの対策は準備する必要はない。

あの当時とどこがどう違うというのだろう。

主張していることは違っているが、根っこの部分は全然変わっていない。

怖いことだ。

2011年11月16日 (水)

ビジネスの“常識”を疑え!/遠藤功

4569690823  フラット化はいいことずくめなのかといえば、必ずしもそんなことはない。フラットな組織ゆえの弊害だってあるのだ。
 まず、組織の縦系列が弱いフラットな組織では、部下の面倒をみながら人を育てるということがきわめて難しくなる。それから、階層的組織に比べひとりの人、ひとつの部署が管理する範囲が広がるので、隅々まで目がゆき届きにくくなって不祥事が発生したりしやすい。
 これらの長所と短所を考え合わせると、少なくとも技能やノウハウの伝承、それに人を育てることが重要なモノづくりの現場には、従来の階層型組織のほうが向いているといえる。
 トヨタは昔から、部長の下にひとつのユニットとして課長、係長、担当者を置き、課長が係長を次の課長に、係長が担当者を次の係長に、という具合にそれぞれ自らが責任をもって育て上げるというのが不文律になっていた。
 ところが、ここにきて海外展開が加速化し、人材を海外に送り出す必要性が増したため、階層の中抜けが起こりはじめている。課長―係長―担当者という縦系列が維持できなくなり、過去のようなきめ細かい人づくりができなくなりつつあるといわれている。こうしたことが近い将来、現場の品質の劣化につながるのではないかと危惧されているのだ。
 トヨタの場合、意図的にフラット化しようとしたわけではないのだが、人材不足が結果的に一部の組織の階層を間引いてしまったというわけだ。
 フラットな組織のほうが若手にも責任と権限を与えるので、人が育つスピードが速いとよくいわれるが、技術や技能を伝承する現場では、時間をかけたきめ細かい指導を疎かにしたら人は育たない。

経営にスピード感が求められるようになって、組織のフラット化の必要性が叫ばれている。

ピラミッド型の階層的組織は、情報伝達や意思決定に時間がかかりすぎる。

迅速で柔軟な企業運営には、できるだけ階層の少ない文鎮型のフラットな組織のほうが望ましい。

これが、現在の組織論における一般的な常識。

たしかに組織がフラットになれば、経営トップと現場の間にバイアスがかからず情報のやり取りができ、意思決定はスピードアップする。

企業が以前に比べ格段に変化の激しい環境に置かれていることを考えれば、すばやい意思決定、すばやい伝達ができることが経営にとって有利に働くのは間違いない。

ところが、組織をフラット化すれば全てうまくいくのかといえば、企業によってはマイナスに働くことがある。

そのよい例がトヨタ。

昨年、トヨタは国内外でブレーキやアクセル関連の不具合が指摘され、米国でのリコール問題に発展した。

豊田章男社長は、トヨタ車の安全性問題で生じた事故に関して「まことに残念(deeply sorry)」と述べて謝罪するとともに、「人や組織が成長するスピードを越えた成長を追い求めてきたことは真摯に反省すべき」と述べた。 

人を育てるスピードが会社の成長するスピードに追いつかなかったことが原因だと述べた。

要するに、トヨタのように人材能力が競争力の源泉となっているような会社においては、フラット化は必ずしもベストな選択ではないのである。

今の時代、世間一般で述べられていることを鵜呑みにして、自社に取り入れればうまくいくとは限らない。

本書が書かれたの2007年。

トヨタの米国リコール問題が起こる3年前に書かれている。

そして本書が書かれた3年後に、懸念していたことが現実のものとなってしまったとは、なんとも皮肉なことではなかろうか。

2011年11月15日 (火)

「日本ブランド」で行こう/アレックス・カー

4901391453 ──日本では産学協同の気運が高まっていますが、アメリカではどうなっているのですか。
カー: そういうのはたくさんあります。インターネットだってそうだから。ただ、やり方が違います。アメリカは、国が民間に何かを依頼する。そして自由競争に任せて、その中から自然に出てくるのを待っている。
 日本の場合は初めから官が上から決めますね。たとえば、その典型的な違いの例はハイビジョンです。日本は、NHKが10社ぐらいのグループと組んで、すごいお金を費やした。でもアナログでした。これは有名な話ですね。アメリカの場合は、国はハイビジョンを何とかしてやりたいというだけで「アナログにせよ」とか「○○しましょう」という上からの決めつけがない。だから、シリコンバレーの本当に小さい会社で、いま世界中のハイビジョンが使っているデジタルのシステムができたんです。
 重工業の時代には、日本のような共産主義的なやり方はものすごく成功するんです。日本には省が10ありますが、それは10カ国の共産圏の国があるようなものです。つまり、それぞれが5年計画、7年計画をつくって、役所の中でやることを全部決めて、それを民のほうにおろす。昔のやり方としてはそれもよかったけれども、新しいテクノロジーになってくると、上から決めつけたのでは間に合わないんですね。
 いま同じ問題が起き始めています。最近、コンピュータのチップについての政策で、国が無理やりいくつかの会社の合資で、日本だけのチップをつくるとか何とかで、また問題が起き始めているけれど、そのへんに無理がきているんです。80年代の終わりごろから、日本の官が仕掛けたものは全部失敗しています。ハイビジョンも、ロケットも、チップも、何もかも全部だめ。そういうやり方はいまの時代に合わないんですね。

日本では官僚が民間の産業を育てるという時代が長い間続いた。

官僚が規制をかけ、過当競争を制限し、ある時は高率の関税をかけることによって産業を守り、大事に育ててきた。

しかし、ある時から、その仕組みがうまくいかなくなってしまった。

と、いうより、もうその時代が終わってしまったといった方が良い。

今は、官が守る産業はほとんどの場合、ダメになってしまっている。

その代表的な例が農業。

官が規制をかけ、守れば守るほど、競争力が失われ弱体化していく。

もうそろそろ官僚も気付いてもよさそうなものだ。

今は、民間の活力を削がないように、官は後ろで支えるという役目に変わったのだと。

今だに既得権にしがみつき、許認可権を手放そうとしない官僚に未来はない、ということを。

2011年11月14日 (月)

まじめの罠/勝間和代

 「ま4334036465じめの罠」というのは私の造語ですが、これは、何かに対して、まじめに、まじめに努力した結果、自分を、あるいは社会を悪い方向に導いてしまうリスクのことを指します。
 極端ですが、わかりやすい例を挙げましょう。人類の歴史上、これまで最もまじめで、かつ、まじめの罠にハマってしまった最悪の人は、ナチス・ドイツの総統、アドルフ・ヒトラーの部下だったアドルフ・アイヒマンでしょう。彼はナチス親衛隊のゲシュタポ・ユダヤ人課課長として、まじめに、そして忠実にユダヤ人の組織的虐殺の歯車としての業務を遂行しました。その結果、約600万人ものユダヤ人を死に追いやったのです。
 第二次世界大戦終結後、アイヒマンに対する裁判が行われます。どんな悪人面をした人物が現れるのかと固唾を吞んで見守っていた傍聴人は、アイヒマンの姿を見て驚きます。彼はいわゆる「まじめな小役人」のような人物でした。「自分は上の命令に従っただけ。自分には責任はない」と語ったアイヒマンに対する興味から、アメリカの心理学者、スタンレー・ミルグラムが行った「ミルグラム実験」(アイヒマン実験とも呼ばれる)という有名な実験があります。
 詳しくは『服従の心理』(スタンレー・ミルグラム著、山形浩生訳、河出書房新社、2008年)に書かれていますが、この実験は、白衣を着込んだ「権威者」(実験者)が、隣室にいる見ず知らずの他人に「苦痛をともなう電気ショック」を与えるように被験者たちに指示して、どのような反応があるのかを調べるものでした。
 常識的には、たとえ実験とはいえ、200ボルト以上のショックを他人に与えるのはためらう人が多いと考えるでしょう。ところが、被験者の約6割もの人が、最大で450ボルトのショックを他人に与え続けたというのです。すなわち、この実験は権威者の指示に容易に従ってしまう人間の心理を表したものでもあります。
 私たちの身のまわりには、職場で与えられる目標の他に、あふれ返るほどの法律、または法律にまではなっていなくとも、さまざまな守るべき規則があります。そして、こうした目標や規則に、素直に、そしてまじめに従ってばかりいると、下手をすればいつのまにかアイヒマンと化してしまうのです。したがって、私たちは、いつでも、どこでも、「まじめの罠」にハマってしまう可能性があるということをまずは覚えておいてください。

「まじめにコツコツと」、これは日本人の専売特許のようなものだ。

高度成長期は、この日本人の特性がうまく機能していた。

なぜなら、市場は拡大するばかり、社員は上から言われたことをただまじめに従っていれば、給料は右肩上がり、

そして、よほど悪いことをしない限り、定年まで同じ会社で勤めあげ、定年を迎えたら、ちゃんと退職金と年金がもらえた。

今、このような職業生活は、夢のまた夢、あり得ないこと。

いまだにこのような夢を見ている人は公務員以外はいないだろう。

今は、「まじめにコツコツと」が仇になる時代。

ITの登場によって、あっと言う間に勝者が敗者になってしまう。

既成のものがどんどん破壊されていく。

このような時代、いい意味でのしたたかさが必要になってくる。

日本人としての良いものは残しつつ、新しいものをどんどん取り入れていくしたたかさが求められている。

本書では官僚、日銀、検察がその「まじめの罠」にはまっている代表格として記されていたが、実際、全ての人がそのような罠にはまる可能性があると思わされた。

2011年11月13日 (日)

マネー・ボール/マイケル・ルイス

Bt000013696700100101_tl  他球団はほぼすべて同じような視点で市場を眺めている。20人の指名候補選手をリストアップして、3人つかまえられれば上出来とみなす。ところがアスレチックスは、7人も1位指名できたうえ、ゼネラルマネージャーが選手をまったく独自の物差しで評価する。その物差しが、スカウト陣の豊富な経験より優先される。なにやら1球団だけ別世界だ。結果として、20人の候補者リストのなかからなんと13人も確保できた。投手陣4人に打者9人。自軍のスカウトたちが「背が低すぎ」「やせすぎ」「太りすぎ」「足が遅すぎ」と切り捨てていた選手ばかりだ。速球が走らない投手や、パワー不足の打者。本人がせいぜい15位指名と思っていたような選手を、1位指名する。指名されるはずがないとあきらめていた選手を、2位以降で指名する。本物の野球選手と見込んで獲得していく。
 たとえて言うなら、ウォール街に新しいやり手が現れて、ベジタリアンレストランやら電気自動車の会社やらの株ばかり買い漁るようなものだろう。しかも、事はもっと重大だ。株式市場の動向が上下しても、本質的な価値が直接変化しているわけではない。野球選手市場の再評価は、若者たちの人生そのものにかかわる。アスレチックスのドラフトルームから発せられた探査信号は、まるでレーザービームのように全国を駆けめぐり、いままでいくら成績を上げても注釈つきでしか評価してもらえなかった選手たちを見つけ出す。注釈には、きまってこう書いてある。《この人物はメジャーリーガーに見えないので、ろくな活躍を期待できない》
 ビリー・ビーンは、はからずも“歩く兵器庫”のようなもので、球界の慣習や儀式を破壊していく。

アスレチックスのゼネラルマネージャー、マイケル・ビーンはビル・ジェイムズの著書「野球抄」の唱えるデータ重視の野球に衝撃を受ける。

そして、選手のスカウト活動に利用するようになる。

ビーンは独自の物差しで選手を選んでいく。

選ばれる選手は何れも、「キズモノ」ばかり。

他球団のスカウトたちからは「プロでは使い物にならない」と目にもかけられなかった選手ばかり。

それらの選手をビーンは選び、安い値段で契約を交わしていく。

しかも、面白いことに、他球団のスカウトたちから「使い物にならない」と思われた選手が試合で活躍し、アスレチックスは優勝を争うほどの球団に急成長する。

アスレチックスの年俸トータルはヤンキースの3分の1でしかないのに、成績はほぼ同等。

この不思議な現象はゼネラルマネージャーのビリー・ビーンの革命的な考え方のせいだった。

この実話は、メジャーリーグという世界の話しだが、企業の採用活動にそのまま応用できる。

今は、不況の影響で新卒採用は買手市場だが、このような中にあっても、優秀な人材はいつの時代でも売手市場。

資金や知名度で劣る中小企業は中々採用できない。

しかし、そんな時、ちょっと視点を変えてみてはどうだろうか。

丁度、ビーン氏が独自の物差しで選手を選んで契約し、チームを強くしていったように。

大事なことは、「我が社には資金がない、知名度がない、だからよい人材は集まらない」と思考停止に陥らないことだ。

ちょっと発想を変えればいくらでも道は開けるのだ、ということを本書は教えてくれる。

2011年11月12日 (土)

脳が喜ぶ生き方/久恒辰博

C__docume1__locals1_temp_znp1d  「何でもやってみろ」といわれても困る人がいるかもしれないので、ひとつアドバイスをしたいと思います。それは「読書」です。読書をしているだけで、自然に脳はヒラメくということを覚えておいてください。
 本を読んでいると突然、「これだ!」と合点がいくことがあります。今抱えている問題とはまったく別の分野のことだったり、何の脈絡もないことを急にヒラメくこともよくあります。(中略)
 読書をするとき、誰でも目的を持って本を読みます。したがって、目の前にある本の内容はだいたい想像がつくはずです。だからといって、書かれていることをすべて事前にわかって読みはじめるわけではありません。読みはじめて、「ああ、そうだったのか」と感心し、自分の知らなかったことを知る。これが読書の効用であり、最大の楽しみです。そして、それが「ヒラメキ」に結びついていくのです。
 何かを調べたいとき、また、問題を解決したいときは、読書は少し遠回りな方法かもしれません。しかし、遠回りをするからこそ「ヒラメキ」を得ることができるともいえるのです。
 効率よく問題を解決したいと思ったら、インターネットでポータルサイトに入り、キーワード検索で絞り込んでいくのが近道でしょう。しかし、そこに「ヒラメキ」はありません。
 あらかじめキーワードを考えてしまうと、かならず思考回路は限定されます。極端なことをいえば、思考停止状態に陥ってしまいます。これでは新しいアイデアを発想することは不可能です。ですから、斬新なアイデアをヒラメくためには「読書」がいちばんなのです。

インターネットが登場して以来、何かわからないことを調べようとする場合のアプローチの仕方が全く変わってしまった。

以前であれば、辞書や事典で調べる、人に聞く、図書館に行って調べる。

このような方法をとっていた。

ところが、今はインターネットの検索で大抵のことは調べられる。

しかし、この便利さが落とし穴になることもあるという。

つまり、近道であるが故に、思考回路が限定されてしまい、場合によっては思考停止状態に陥ってしまうとのこと。

確かに読書は、何かを知ろうとした場合には遠回りかも知れない。

一冊二、三百ページある中で、自分の知ろうとしていることがどこに書かれているのかは、読んでみなければわからない。

場合によっては、書かれていないこともある。

しかし、大抵は読書を終えたあとには新しい発見がある。

丁度、ある物を買う目的でデパートに行ったものの、帰る時には全くちがったものを買ってしまっていたといった感覚。

しかし、そのような想定外の発見やヒラメキがあるのが読書の効用なのだろう。

効率性ばかりを追求する世の中はある意味危ない。

便利な時代になったからこそ、遠回りをすることの意味を再発見する必要があるのではないだろうか。

2011年11月11日 (金)

マネジメント信仰が会社を滅ぼす/深田和範

4106104016  「社長は、何を基準に室長を選んでいるのですか」
 人事部員の質問に対して、社長は開口一番次のように答えた。
 「勘だよ」 あまりにはっきりと言われたので、人事部員は戸惑った。これでは基準として社員に示すことができない。そこで、人事部員が「もう少し具体的に」とお願いをすると、社長は次のように答えた。
 「具体的にと言うのであれば、そいつの『顔』ということになる。進路指導の相手は母親と子供だからな。母親や子供が相談しやすい顔をしている者を室長にする」
 人事部員は、社長にからかわれているのではないかと思った。
 「室長登用基準ならば、普通は、『受験に対する知識の深さ』とか『子供や父兄に親身に接する人当たりのよさ』とかだろう。『顔』では、個人的な好みの世界で、基準も何もあったものではない」
 そう思った人事部員は質問を変えることにした。
 「それでは、室長を務めるうえで最低限、身につけておかなければならない知識や能力には、どういうものがあると思いますか」
 「知識や能力なんて、室長になればいやでも身につく。大事なことは、室長に向いているかどうかだけだ。それを見極めるのが社長の仕事だ。こういうことは、基準で決めることではなくて、経験とか勘がものをいう。実際に、それで今までうまくやってこれたんだ。
 逆に、『こういう知識や能力を備えた人を室長にしましょう』なんて基準を作られたりしたら、私にしてみれば迷惑だ。そんなもので室長を選んでいたら、きっと会社はおかしくなる。進路指導の核となる室長は、うちの生命線だ。そういう重要なポストだから、私が自分で選ばなきゃいけない。誰を使って勝負に臨むのかも決められないなら、社長なんてやってられない。というより、社長の仕事なんて、それぐらいのもんだよ」

上記は、ある学習塾の人事部員が、「室長」として必要な知識や能力を明確化して、「室長登用基準」を作ろうとし、その基準の作成にあたり、「何を基準に室長を選んでいるのか」について、社長から直接聞いた時の話し。

私も人事コンサルの仕事をしているが、人事の担当者が陥りやすい過ちの一つは、誰が見ても客観的な基準を作ろうとすること。

公正・公平・客観的な採用、評価、昇格、昇進等の基準づくりをしようとする。

しかし、これはほぼ100パーセントうまくいかない。

どうもマネジメントの世界では、勘や経験で決めるのは時代遅れ、科学的、合理的な手法が優れているという信仰があるようだ。

ところが、「誰を採用するか」とか「誰を昇進させるか」といった人の問題については、むしろ勘と経験がものをいう世界。

公平・公正な基準を作ろうとしても大抵うまくいかない。

結局、その学習塾では、室長登用基準を作ることを断念したとのこと。

そして、教室数と室長が増え続ける中にあって、相変わらず社長が自らの勘で室長を任命しているという。

進路指導に重点をおき、それに適した顔をした室長を社長が選ぶ。

そして、この学習塾は、少子化が進む中、今でも成長を続けているという。

勘と経験は決して時代遅れの考え方ではない。

むしろ人間の能力の結晶した形が勘と経験ではないだろうか。

勘と経験、この人間の最高の能力をもっと見直す必要がある。

2011年11月10日 (木)

暴かれた9.11疑惑の真相/フルフォード・ベンジャミン

459405899x  '06年、ゾグビー・インターナショナルによる世論調査では、アメリカ人の42%が「政府の調査報告を信じていない」と回答している。カナダの有力紙「トロント・スター」による同年の世論調査に至っては、63%の人が「アメリカ政府は嘘をついている」と回答している。
 アメリカでは、9・11に関する真相究明会議が各地で開かれるようになってきている。私は'06年6月にシカゴでのそれに参加したが、そこにはキリスト教原理主義者や元軍人、元ヒッピーといったさまざまな人たちがいた。
 そこで一番大きな動きを見せたのが'70年代にヒッピーだった人たちで、彼らは当時、ベトナム反戦運動に携わり、政府と対峙していた。いま中年になった彼らが再び同じ敵と戦うべく、態勢を整えている。そして、政治活動を通じて真相究明のためのプレッシャーをかけている。
 これが大きな流れになっている要因は、学者や元軍人などの専門家たちが「これはおかしい」と発言し始めていることだ。9・11真相究明会議の理論的中心となっているのも、各分野の専門家が集まった「9・11の真実を求める学者たち」である。(中略)
 あのアドルフ・ヒトラーは著書『我が闘争』の中で次のように言っている。「大きな嘘の中に、常にある真実が宿っている。なぜなら、国民の大多数は常に馬鹿で愚かしいからだ。国民は小さな嘘より大きな嘘に騙されやすいものだ。ほとんどの人は途方もなく大きな嘘をつこうなどとは考えない。そして、他人がいやしくも真実をねじ曲げるほど厚かましいとは考えない」 9・11は、まさに「途方もなく大きな嘘」だったのだ。

最初、この本のタイトルを見て、おそらくトンデモ本の類では、と思ったのだが、

読み進めていくうちに、「もしかしたら、あり得るかも」と思うようになってきた。

本書で言っていることは、

世界貿易センタービルは崩壊ではなく爆破された。

ペンタゴンにボーイング757は激突しなかった。

実行犯意外にテロを事前に知っていた人々がいた。

アメリカの歴史はヤラセの歴史、そして9・11もアメリカ政府のヤラセだ。

と、言ったこと。

これらを数々の証拠をあげながら立証していく。

確かに言われてみれば、つじつまがあわないことだらけ。

これだけ疑問点があれば、「9・11はアメリカ政府のヤラセだった」と言われても、ナルホドと思ってしまう。

ただ、ケネディ大統領の暗殺あたりから、「○○の陰謀説」という類の本は数多く出版されている。

そして、それらは「陰謀説」のままで、そこから真相究明という形になった例はほとんどないのではないかと思う。

いずれにしても、政府の発表を鵜呑みにしないで、疑ってかかるという姿勢が、ある意味アメリカの活力の源になっているのではないかと思わされた。

2011年11月 9日 (水)

敗因の研究

4532191041  左ストレートのカウンターを食らい一瞬のうちに勝負がついた。カンバスに長々と伸びたのはチャンピオン柴田だった。
 ハワイのホノルルで行われた世界ボクシング協会(WBA)公認の世界ジュニアライト級タイトルマッチ15回戦。柴田は3月に対戦相手のベン・ビラフロア(フィリピン)に判定で勝った。それから一度防衛したが、わずか7カ月でビラフロアに雪辱されたのだ。
 1回1分56秒のKO劇。あまりのあっけなさに、衛星の実況画面を見つめていたファンのだれもが拍子抜けした。そんな雰囲気のなか、やおら起き上がった柴田は、日本テレビの本田当一郎アナウンサーが差し出したマイクに「日本の皆さん、ごめんなさい」と甲高い声をあげて頭を下げていた。
 茨城県日立市出身のその抑揚のせいもあるが、その声には敗者とは感じさせない明るさがあった。本田は「あの声に(あきれて)日本中が許した」と回想する。こんな選手はいない。負けて申し訳ございませんは、純朴な柴田らしい表現だったが、同時に「すぐカムバックしますから」という気持ちを込めたという。その自信もあった。
 「負けたのには原因がある。この時、60戦近くやってきて一番絶好調だった。そのためにいろんな意味でのすみませんが頭に浮かんだ」と振り返る。とにかく柴田は全国民に責任を感じ、ファンに謝罪しないと気が済まなかったのである。
 「僕は勝った試合は全然参考にならないんです。たまたま勝ったというか。でも負けには全部原因がある。僕はミスの話ができるのがすごくうれしい」。バブルが崩壊したころ「失敗の話」で全国を講演している。経営に失敗した中小企業のおやじさんたちに、勇気を与えるのを使命とした。金銭のためではない。そうしないと一途な柴田の気が済まないのである。
 このハワイでの初回KO負けは、「ボクシング人生最高の財産」になったと柴田は今も懐かしく思い出す。

本書は、多くの敗者について書かれている。

人は勝利より敗北から学ぶことの方が多いものである。

特にボクシングのKO劇は、勝者と敗者のコントラストがはっきりとあらわれる。

勝者は喜びを爆発させ、敗者はマットに沈む。

まさに天国と地獄。

「負けた試合からより多くを学ぶことができる」と言うには、あまりにも敗者にとっては残酷な瞬間である。

このまま二度と立ち直れずリングから去ってしまう選手も多くいるのではと想像してしまう。

ところが、かつて2階級に渡って3度世界王座を奪取したうち柴田国明は「負けには全部原因がある。僕はミスの話ができるのがすごくうれしい」と語る。

特に、ベン・ビラフロアに1ラウンドKO負けした試合は、私も生中継で試合を観ていて、すごく印象に残っている。

あまりにも呆気なく試合が終わってしまい、立ち上がった柴田選手が「日本の皆さん、ごめんなさい」と甲高い声をあげて頭を下げたシーンが今でも脳裏に焼きついている。

しかし、その後、柴田は再度世界王座に挑み、見事王座に返り咲く。

初回KO負けは、「ボクシング人生最高の財産」になったというのが単なる柴田の強がりでなかったことを実績で示している。

「敗北から学ぶ」、これは言葉で言うほど簡単なことではない。

それだけに、これを本当に実践できる人は、価値ある人生を送ることができるのではないだろうか。

2011年11月 8日 (火)

鈴木敏文の「統計心理学」/勝見明

4532193206  『日本経済新聞』の「私の履歴書」(02年3月)に、世界的な経済学者である宇沢弘文・東大名誉教授が登場された際、「人間の心」と題した回で興味深い話を記されている。83(昭和58)年に文化功労者に選ばれ、文部省(当時)での顕彰式の後、宮中で天皇陛下からお茶をふるまわれたときの話だ。昭和天皇の前でそれまでどんな仕事をしてきたかを話す。宇沢氏は「すっかりあがってしまい」、「ケインズがどうの、だれがどうしたとか自分でもわけが分からなくなってしまった」。
 すると、天皇が身を乗り出され、「キミ。キミは経済、経済と言うけれども、要するに人間の心が大事だと言いたいんだね」。宇沢氏は「そのお言葉に電撃的なショックを受け、目がさめた思いがした」。その理由をこう記している。
 「経済学はホモ・エコノミクス(経済人)を前提にしている。これは現実の文化的、歴史的、社会的な側面から切り離されて、経済的な計算にのみ基づいて行動する抽象的な存在である。経済学では人間の心を考えるのはタブーとされていた。この問題を天皇陛下はずばり指摘されたのだ。私はそのお言葉に啓発され、経済学の中に人間の心を持ち込まなければいけないと思った」
 これがきっかけとなって、宇沢氏は独自の新しい理論(「社会的共通資本」)を構築、国際的にも多大な貢献をし、これが評価されて九七年には文化勲章を授与されている。しかし、世界に名を知られる経済学者が「電撃的なショック」を受けるかなり以前に、「経済学の中に人間の心を持ち込まなければいけない」と考え、実行していた日本の企業経営者がいた。ほかでもない、鈴木敏文氏である。

経済活動をするのは人間である。

だとしたら「経済学の中に人間の心を持ち込まなければいけない」ことは当り前のことのように感じる。

ところが、宇沢氏によると、それは経済学の世界では画期的なことだそうだ。

そもそも、経済合理性だけで人間が動くわけではない。

合理的ではない行動をするのもまた人間である。

「専門バカ」という言葉があるが、専門家という名の人たちの言うことが意外と当てにならないのもそんなところにあるのかもしれない。

ところで、セブンイレブンをコンビニ業界はおろか国内小売店業界最大手にまで育て上げた鈴木氏。

その優れた経営手腕の特徴は、経営学の中に独自の心理学と統計学を持ち込んだことであろう。

しかも、鈴木氏のいう心理学とは、学問としての心理学ではなく、実践の中に培われたもの。

「モノ不足の時代には経済学だけで考えればよかったが、今の経済は経済学だけでなく、心理学で捉えなければならない」

「消費社会は単に経済の問題として捉えるのではなく、人間の心理に基づいて考えなければならない」

ことあるたびにそう力説する鈴木氏の言葉は非常に含蓄がある。

本書は、心理学を経営の場でどのように活用していったのかが、様々な角度で書かれている。

2011年11月 7日 (月)

日本の大問題が面白いほど解ける本/高橋洋一

4334035620  最近、「民主党の経済運営がマズイので、財政破綻してしまう」という話がしばしば出てきます。
 この手の話について、まず指摘しておきたいのは、みんなが心配する恐ろしい話をしておくほうが無難だということです。「日本は絶対に大丈夫」なんていっても、信じてもらうのは大変ですし、「日本は財政破綻する」といって予想が外れても、みんなにとって良い結果なので恨まれることがないからです。ですから、こういう悲観論には、適当に話を合わせておけばいいのです。
 しかし、たまには本当にどうなるのか考えるのもいいでしょう。そのときに重要なのは、言葉の定義をしっかりしておくことです。
 たとえば、国が破綻するという人は、多くの場合「国の破綻とは、国債が暴落すること」といいます。では、国債の暴落とはどういうことでしょうか。それはもちろん、国債価格が急落することです。
 日本で典型的な10年国債の場合、いまは金利が約2%ですが、これが5%になれば、国債価格は25%低下します。金利が10%になれば50%低下します。
 暴落とは、国債価格がどのくらいの期間で何%低下することをいうのか。これを明確にしない限り、議論は無意味です。

最近、「このままでは国が破綻する」という話がよく出てくる。

しかし、問題は、「何がどうなれば破綻するのか?」「そもそも国家が破綻するとはどういうことなのか?」ということが曖昧なまま、「破綻する」という言葉だけが一人歩きしてしまうこと。

「国の破綻とは、国債が暴落すること」というならば、では「国債が何%になれば破綻するのか?」

この点を明確にしなければ、まるで「狼が来た」と叫ぶ少年の話と同じレベルの話になってしまう。

ちなみに高橋氏によると、名目GDP成長率が4%を超えると、国債金利を上回る傾向があるので、4%の名目GDP成長率が黄金率だとのこと。

税金には所得税のような累進構造があるので、名目成長率が高まると、税収はそれ以上に増える。

これは税収の弾性値といって、成長率が1%増えたとき、税収は何%増えるかという指標。

日本では税収の弾性値は1.1くらいで、成長率以上に税収は増える。

だから、名目GDP成長率が4%以上なら、財政再建は問題なくできる。

要するに、国が破綻するかしないかは、名目GDP成長率を4%以上にできるかどうかにかかっているということ。

こう言ってくれると、議論しやすくなる。

ちなみに名目4%成長は、世界から見れば決して高くない。

日本もインフレになれば名目4%成長はそれほど高いハードルではない。

問題は、デフレである。

つまり、日銀がデフレ対策を何もやっていないこと。

これが一番の問題ではないだろうか。

2011年11月 6日 (日)

もうダマされないための「科学」講義/菊池誠・他

4334036449  もっとも、いま社会に広がっているニセ科学問題の多くは、もっとしょうもないものです。しょうもない問題なのだけれども、広がっている。それをどう捉えるか。「薄く広がっているニセ科学」は「カルト化してしまったニセ科学」に比べて重大じゃないのかというと、そんなこともないような気がします。
 そのようなニセ科学の例としては、血液型性格診断、マイナスイオン、『水からの伝言』と波動、ホメオパシー、ゲーム脳、EM菌、天皇家のY染色体継承説、磁気水や活水、百匹目の猿などが挙げられます。ほかにもいくらでも思いつきますが。
 たとえばゲーム脳は、日本大学の森昭雄先生が提唱された、テレビゲームをすると前頭前野が機能的に破壊されてうんぬん、という説です。論文もあるといえばある、ないといえばない程度の話です。全然ないというわけでもないのが微妙なところですが、根拠があるかと言われると、まあ「ある」とは言えないでしょうし、おそらく誰も追試してないだろうというものです。学説としては泡沫と呼ぶべきものですよね。

本書では、科学とはなにか?科学と科学でないものの間は?科学不信はなぜ生まれるのか?科学を報じるメディアの問題とは?といったことについてそれぞれの専門家が語っている。

例えばここで取り上げられているゲーム脳の問題。

まず、このゲーム脳が科学的に根拠があるとは言えない説であることを初めて知った。

今だにゲーム脳については、信じている人も多いのではないだろうか。

実際、「ゲームをやりすぎると頭が壊れてしまう」という記事は読んだことがあるし、テレビでも報道されたことがある。

ではどうしてこれほどに科学的根拠があるとは言えない「ゲーム脳」の説がこれほど日本中に広がったのだろうか。

まずは、その説が立派な出版社から本として出てしまったこと。

そしてそれが教育関係者の強い支持を得たことが大きい。

ゲームをすると頭が壊れちゃいますよ、という話を大学の先生が「科学的事実」として言っている。

それに、子どもがゲームばかりして困っているが、どうやってやめさせたらいいかわからないという人たちが飛びついた。

その人たちにはもともと、ゲームをやめさせるための科学的な根拠があったらいいなあ、という希望が常にあったはず。

そこに、脳が壊れるという説が出て、ぴったりはまった。

だから、日本中にその説が一気に広まった。

そう考えるとよいだろう。

つまり、根拠のないニセ科学であっても、誰かの思惑と結びついたとき、それは増幅され一気に広がってしまうということ。

そう考えると、根拠のないニセ科学を科学的だと思い込んでいる事柄がもっとあるのではないかと思わされた。

2011年11月 5日 (土)

職場は感情で変わる/高橋克徳

4062880164_2  社会心理学者の山岸俊男先生は、「安心」と「信頼」を明確に区別しています。安心とは、相手の損得勘定に基づく相手の行動に対する期待です。逆に信頼とは、相手の人格や行動傾向の評価に基づく、相手の意図に対する期待であると述べています。
 相互監視がなされ、集団のルールが明確であり、そのルールを犯すことは損であるという心理が働くからこそ、相手は予測通りの行動をとる。こうした状態であれば、安心できます。自分が損しないようにと合理的に考えさえすれば、社会的不確実性は存在しない。必ず予測通りの行動をしてくれるという期待が、安心だということです。
 逆に信頼は、社会的不確実性が高くても、相手が期待通りの行動をしてくれるだろうと、相手の意図を信じることです。
 長期的関係がベースにあり、集団主義のもと逸脱行為を許さないかつての日本的経営の中では、人は周囲の意図に反した行動をするとはじかれてしまうのではないかと思い、自分の行動を抑制していました。協力という行為も、ある意味、そうしなければ自分が損をするのだから、自分から協力することが当たり前だと思えたわけです。
 それが、短期的関係を前提にした途端、それぞれが自分の利得のために行動を起こし始めた。だから、相手の行動が予測できない。今まで常識だと思ってきたことが通じない。それが不信感を生む。こんな構造に陥っているのが、今の日本企業であり、日本社会です。

本書はベストセラー『不機嫌な職場』の解決編という位置づけ。

「感情の連鎖」に注目することから良い職場・組織づくりは始まると説いている。

特にここで述べているのは、「安心」と「信頼」について。

「安心」と「信頼」、よく似た言葉だが、社会心理学者の山岸俊男氏によると、明確に区別されるとのこと。

そして、今、「安心」をベースにした人間関係や組織作りが崩壊してきているという。

安心感を持たせるには、周囲が思い通りの行動をするような明確なルールが必要である。

そうした行動をとらなければ損をするという状況をつくり出さなければならない。

自分から周囲に協力しない人は評価を下げ、給与を下げる。

あるいは、周囲に悪影響を及ぼすような行為をしたら、組織から出て行ってもらうといったルールである。

確かにこうしたルールは、誤った行為をさせない、組織の中での不確実性を排除する仕掛けとして、機能する。

それがあると、組織に属する人間は安心して働くことができる。

ただ、そのような組織は終身雇用という前提のもと、成り立っていた。

しかし、ルールに縛られ、その通り行動しなければならないような集団主義的組織は、そこで働く人たちを本当に幸せにするのだろうか。

今、日本的経営が崩れてきていると言われているが、考えてみれば、これは必ずしも悪いことばかりでない。

それによって、個が集団に埋没して、自分の意思を外に伝えることができないという状況が変わってきた。

個々人が自分の意思を伝えられる、自分の意思で行動を起こせるようになってきた。

だからこそ、個性という輝きを手に入れる人たちも増えてきたと言える。

だとすると、職場で求める安心感は、ルールに従わなければ損をするという状況に支えられた確実性の確保ではなく、人格を持った個々人が自らの意思でお互いを思いやり、お互いを守ろうという気持ちに支えられたものへと進化していかなければならない。

正確にはこれは安心ではなく、信頼である。

つまり、「安心」から「信頼」へと人間関係や組織作りの軸が変わってきていると言えるのではないだろうか。

2011年11月 4日 (金)

日本人は死んだ/M.トケイヤー

4817400269  日本語の言葉の表現でおもしろいと思うのは「仕方がない」という表現である。宇宙の変化、さまざまな事件が起こり、そして事件が過ぎ去って行く。人間は、その世界の波のうつろいに漂って流れて行くだけである。つまり、「仕方がない」という表現のなかには、個人としてもつべき意思の働きが表現されていないことになる。どうせそれが起こったならば自然の働きとして起こったものであるから「仕方がない」のである。一つのことがらは、また次のことがらを引き起こすのであろうし、その人間の働きが全くおよばない時元でものごとが起こっているのであるとすれば、全くもって「仕方がない」ことになってしまうのである。
 そこには何の方法も手だてもないのだから、そのままに放置しておくほかない、という思惟と諦観がそこには存在している。「仕方がない」には、また自然に対する敗北の考え方が含まれているようにも思える。時間に沿って、または状況の変化に応じて、人間はつねにそれに服従していかなければならないという感じである。そのほか、〝失うことは獲得することである〟とか、〝女性は従順であるからこそ力をもつ〟というような非常に日本的な逆説的な発想も「仕方がない」の背後に拡散した形で包含されていることになる。
 それは、外国人にとって非常に不思議な表現であり、非常に難解な哲学がそのなかに盛り込まれている言葉なのである。

トケイヤー氏によれば、「仕方がない」という言葉に、日本人の特徴がよくあらわれているという。

よく日本人は農耕民族であり、西洋人は遊牧民族であると言われる。

単純にこのように分類するのは少し問題があるかも知れないが、確かにそのような面もあることは事実のようだ。

もし、ある民族が放牧の時期を経験したならば、彼らは、自然と闘わなければならないということを学びとったにちがいない。

もし日本人が羊飼いの民族であったならば、自然と闘わなければならないということを身に沁みて学びとったはずである。

太陽に抵抗し、水不足に抵抗し、嵐に抵抗し、野生の狼に抵抗することを学びとったにちがいない。

しかしながら、日本人はその全ての歴史を通じて、つねに農民であり続けた。

だから、“自然と闘う”という考え方は日本人においては発生しなかったのではなかろうか。

農民であれば、すべての収穫はその年の気候に依存せざるを得ない。

ある意味、自然の慈悲にすがるよりほかない。

もしその年雨が降らず太陽もよく地面を照りつけなかったのであれば、農民はすべてを失ってしまう。

台風や洪水に見舞われれば、どんなに努力しても、もうどうしようもない。

それこそジタバタしても「仕方がない」となってしまう。

日本人が主体的に行動することが不得意なのも、このような長い歴史の中で身に染みついてしまった体質による部分もあるのかもしれない。

こんなに単純な話ではないのかも知れないが・・・。

2011年11月 3日 (木)

スラム化する日本経済/浜矩子

4062725630  では、グローバル時代が求めるヒーローは、スーパーマンではなくて誰なのか? それは「ドンキホーテ」なのではないかと思う。
 ドンキホーテに若さはない。筋力もない。厚生労働省ならば、彼をただちに後期高齢者だというだろう。ひょっとすると認知症を患っているのかもしれない。
 だが、彼の勇気は優しさに満ちている。彼の知性は理想の高さにおいてとどまるところを知らない。この若武者ならぬ老雄の魂は、謙虚な騎士道精神で一杯だ。無謀にも、純真にも、風車に向かって命知らずの闘いを挑む。
 この人物ならば、統制経済への誘いや「自分さえ良ければ病」を乗り越えらえるはずだ。報復主義者たちの恨みをき立てることもないだろう。そのぶきっちょな高潔さの前には、誰も弄する策なしだ。
 グローバル恐慌の嵐が吹き荒れるなかで、我々はどこにいくのか。我々は資本主義の暴走でもない、グローバル全体主義が支配する世界でもない、「第三の道」を見つけねばならない。
 それを可能にしてくれるのが、二一世紀のヒーローだ。そのヒーローのイメージが、ドンキホーテである。このヒーロー役を果たせる者は誰か。もしかすると、その可能性をかなりの程度まで秘めているのが、日本なのではないかと思う。

かつてアメリカは圧倒的な生産力を背後に経済復興の若き主役に踊り出た。

それは力による統治であり、スーパーマンに象徴される。

若く、たくましく、楽天的、そして迷いも恐れも知らない。

そのイメージはスーパーマンそのもの。

しかし、今のアメリカにその面影はない。

そしてまた、今日の時代が求めているヒーローも、スーパーマンではないだろう。

スーパーマンは颯爽としているが、どこか稚拙で独りよがりだ。

時折、鼻持ちならない善意の押しつけに見えることがある。

今、世界はスーパーマン的なヒーローを求めてはいない。

浜氏は、今の時代が求めているヒーローはドンキホーテではないかという。

理想に燃え、夢を求め、高潔で、恐れずに大きな敵に立ち向かっていく。

そんなヒーローを世界は求めているという。

そして、その可能性のある第一候補は日本ではないかという。

考えてみれば、少子高齢化や原発の問題等、今日本で問題になっていることは、やがては全世界で問題になってくるであろう。

世界の中でいち早く、これらの問題に対する解決の糸口を見つければ、それこそ世界のヒーローになれるかもしれない。

そんな第三の道を是非、切り開いてゆきたいものだ。

2011年11月 2日 (水)

なぜ、脳はiPadにハマるのか?/篠原菊紀

4054048269  ボールペンを指先でくるくる回すクセがある人を見かけたことはありませんか?
 「ボールペンを回す」は単なる身体操作です。習慣的行為です。
 その「身体操作」が、無意識にできる「技」として獲得されていく過程をみると、まずは意識的な活動にかかわる脳の表面、前頭前野、前運動野、運動野などが強く活動します。そして、訓練が進み無意識にボールペンが回せるようになると、前運動野、運動野など脳の表面の活動は小さくなり、かわって線条体、小脳など脳の奥の活動が強まります。
 これが無意識レベルの技の獲得の過程です。
 この過程で、わたしたちは「あっ、今の感じいい」「おっ、うまくいった」などと快感系も活動させます。そして、よりよい動きに「快」のラベルを貼って、その行為を選択的に強化していきます。
 その結果、無意識化された身体操作と快が強固にカップリングされ、「ボールぺンを回す=快」と感じられるようになります。
 このカップリングができ上がると、ストレスを感じる場面などで、知らないうちにボールペンを回すようになります。だからテスト勉強などをしているとき、無意識に「快」を求めてボールペンを回してしまったりするのです。自動化した動作は「快」を貼りつけられ、ストレスをマスクするため、ついその動作をしてしまうことになるのです。
 「貧乏ゆすり」も同じ。
 これが無意識的な「動機づけ」のメカニズムです。
 アイパッドの操作でも、同じような効果が生じる可能性があります。
 指で「はじく」「たたく」「なでる」「つまむ」などの身体操作は、もともと無意識化されている動作です。操作としても簡単に獲得しやすく、アイパッドの世界で得られる快感も簡単につけ加えられていきます。
 だから、アイパッド操作と「快」がカップリングしやすく、「アイパッドを操作するのが何だか気持ちいい」のです。ついアイパッドをいじりたくなります。

人はどうしてアイパッドにハマるのか。

これにはちゃんとした科学的理由がある、というのが本書の主題となっている。

どんな人も「快」を求める。

そしてアイパッドの指で「はじく」「たたく」「なでる」「つまむ」などの身体操作は、もともと無意識化されている動作で「快」に結びつきやすい、とのこと。

つまりアイパッドがこれまでのパソコンとちがうのは、より直観的な操作が可能になったということ。

そして、それによってアイパッドを操作すること、そのものが「快」と感じるようになったということ。

そのようなアイパッドを世に送り出した、スティーブ・ジョブズは本当の意味で天才だったのだろう。

でも、今後アイパッドはどのように進化していくのだろう。

それとも、ジョブズが死んだことによって、アイパッドも進化を止めてしまうのか。

次の一手に注目したい。

2011年11月 1日 (火)

元役員が見た長銀破綻/箭内昇

Bt000013286500100101_tl  95年10月の部店長会議で、大野木頭取着任後のバブル反省報告である「須田レポート」を聞いたときの驚きと落胆は忘れられない。
 「長銀バブルの間接的要因の一つとしてヘイの人事システムがあった」「職に貴賤はないはずなのに、ジョブサイズの導入によって地道に働く部門のモラルを下げた」「業績重視のあまり、目先の数字の積み上げに走った」という趣旨であった。
 そこにはヘイを導入したときの危機感もビジョンもなく、いまだに目の覚めない体質と壮大な誤解があるだけであった。
 職に貴賤がないことは当然であるが、大小はある。昨今になってようやく子会社化して分離した事務部門なども、ジョブサイズの概念があれば、もっと早くできたはずである。また、異常に膨れ上がった本部人員も職務分析を継続していればチェックがかかったはずであった。
 「かわいそう」「何とかしてやれ」。長銀は人間愛に満ちた暖かい銀行であった。しかし、それが銀行の活力をそぎ、結局は行員に「かわいそう」な思いをさせることになったのである。

バブル崩壊後の不況で破綻した長銀。

企業が倒産する場合、ほとんどの原因は経営者にある。

ところが、とかく何かのせいにしたくなるのが経営者でもある。

長銀の場合、破綻前の95年に出された、バブル反省報告である「須田レポート」の内容を見ると明らかに人事制度のせいにしてしまっている。

「長銀バブルの間接的要因の一つとしてヘイの人事システムがあった」

「職に貴賤はないはずなのに、ジョブサイズの導入によって地道に働く部門のモラルを下げた」

「業績重視のあまり、目先の数字の積み上げに走った」

成果重視型の人事制度を導入し、うまくいかなかった会社がその原因として語る内容の典型例である。

しかし、本当の原因はそんなところにあるのではない。

変化しなければ生き残れないというのは、時代の流れである。

人事制度はそれをサポートするシステムの一つにすぎない。

経営者がまず本気になって変わろうとしなければ人事制度が機能しないのは当り前。

本書を読むと、長銀の破綻は、単に「あの外資系の勧める人事制度を入れたから」という表面的なものでなく、もっと深いところにその原因があったのだということがよくわかる。

長年の護送船団方式の中で、危機感を持てなくなってしまった経営者と社員。

能力ある若手を塩漬けにし、大胆に登用できない組織。

バブルに踊った中堅行員たち。

そして巨大な不良債権をひたすら隠蔽する役員。

起死回生策のはずが、逆に崩壊に拍車をかけることになった外資との提携。

時代の流れについていけず変化対応できなかった恐竜のような存在、それが長銀だったということであろう。

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