人事部は見ている。/楠木新
日本では、役職、役割に関係なく、結果的に能力の高い人が低い人の仕事をカバーすることによって仕事を進めているケースもある。
極端な場合には、力量のある部下が年功で昇格した上司を支える構造になっていることもあるだろう。役職と能力が逆転しているのでおかしいのは間違いがないが、互いに助け合うことが共同体の力を強める面もある。
特に、まだ経験が浅い社員に対して知識や技能を伝授して、支援して育てるということはこうして見てくると、職能資格制度、職務主義、目標管理制度、コンピテンシーなどの評価制度のどこかに正解があって、それを導入すればうまくいくなんていう方策はないことが分かってくる。
人事評価は公平に行うべきと主張する見解もあるが、どんな評価基準を導入しても客観的な評価などありえない。そもそも人の評価は主観的なものであり、感情を伴っている。先ほども述べたとおり、客観性、公平性よりも、一緒に働く社員たちから「うん、そうだ」という納得感をどれだけ得られるかがポイントになる。
私は人事コンサルの仕事をしているわけだが、よく出てくる要望に「誰がやっても公正・公平で客観的な評価ができる人事考課表をつくってほしい」というものがある。
確かに言っていることはよくわかるのだが、これはまず不可能。
公正・公平・客観性、こればかりを求めると、迷路に迷い込みそこから抜け出せなくなってしまう。
ではどうしてこのようなできもしないものを求めるのか?
それは、「公正・公平・客観性 = 納得感」という枠組みができあがってしまっているから。
しかし、これはおかしい。
少なくとも、「イコール」ではない。
公正・公平でなくとも、納得感を高める方法はいくらでもある。
そもそも納得するかどうかは極めて主観的な問題。
極論すれば、客観的でなくても、公正・公平でなくても、本人が納得すればオーケーなのである。
だとしたら、ここで発想の転換が必要になる。
つまり、「たとえ公正・公平でなくとも、本人が納得する方法はないものだろうか」というアプローチ。
そうすると、いろんな方法が浮かんでくるものである。
これらは人事考課の例だが、現代は様々な分野で、既定の枠組みにとらわれずに発想するということが求められているのではないだろうか。
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