深夜特急3―インド・ネパール―/沢木耕太郎
ある時、七、八歳の少女についてこられたことがある。ついつ弱気になり、小銭をあたえようかな、と立ち止まった。すると、少女が小さな声でひとこと言う。
「十ルビー」
物乞いに金額を指定されたのは初めてだった。しかも十ルビーといえば大金だ。首を振って歩きだすと、慌てて私の目の前に廻り込んで、言い直した。
「六ルビー!」
私がまた首を振ると、やがてそれは五ルビーになり、四ルビーに、三ルビーになった。その時になって、やっと意味がわかった。少女はその金額で自分の体を買ってくれないかといっていたのだ。
まだ七、八歳にしかならない少女が、僅か三ルビーの金で体を売ろうとしている。しかし、彼女がそのような申し出をするからには、どこかに必ず買う男がいるのだろう。(中略)
私は少女に三ルビーを手渡し、グッドバイと言ってそこを離れた。だが、少女は私のあとについてこようとする。いいのだ、これをあげたのだから、といくら手真似で説明をしても理解できないらしい。仕方なく、走るようにしてそこから遠ざかった。
香港には、光があり、影がある、と思っていた。光の世界がまばゆく輝けば輝くほど、その傍らにできる影も色濃く落ちる、と思っていた。しかし、香港で影を見えていたものも、カルカッタで数日過ごしたあとでは眩しいくらいに光り輝いて見えた。
以前、貿易関係の会社の社長と話した時、「東南アジアで本当に貧しい人たちを自分の目で見てしまうと、不況だ、不況だ、と騒いでいる日本人の感覚の方がおかしいのではと思えてくる」と話していた言葉を思い出す。
確かに「格差社会」「貧困」「ワーキングプア」と言ったことが日本では問題になってきているが、沢木氏がインドのカルカッタで体験したことと比較すると、そもそも今の日本人は本当の意味での「貧困」を知らないのでは、と、思えてしまう。
日本では、どんなに貧しくても、七、八歳の少女が体を売るほどではない。
ほとんどの人の場合、贅沢を言わなければ、とりあえず最低限食べていくための仕事はある。
かつて日本人は一億総中流などと言われた。
その時代と比較すると、確かに格差は広がりつつある。
しかし、今の格差は、まだ許容範囲だと言える。
私たちは「貧困」という言葉を使いすぎることにより、その言葉を軽くしてしまっているようなところがないだろうか。
私たち日本人は、この国に長く住むことにより、正常な感覚を失ってしまっているようなところがあるのかもしれない。
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