深夜特急5―トルコ・ギリシャ・地中海―/沢木耕太郎
西への途上で出会う誰もが危うさを秘めていました。とりわけそれがひとり旅である場合はその危うさが際立っていました。一年を超える旅を続けていればなおのことでした。しかし、と一方では思うのです。このような危うさをはらむことのない旅とはいったい何なのか、と。
次から次へと生み出される現代日本のシルクロード旅行記なるものも、その大半が甘美で安らかなシルクロード讃歌であるように思われます。肉体上の苦痛、物理的な困難については語られても、ついに「一歩踏み外せば」すべてが崩れてしまうという、存在そのものの危機をはらんだ経験について語られることは決してないのです。(中略)
しかし、何かが違う、と今の僕には思えてなりません。
僕が西へ向かう途中に出会った若者たちにとって、シルクロードはただ西から東へ、あるいは東から西へ行くための単なる道にすぎませんでした。時には、彼らが、いつ崩れるか分からない危うさの中に身を置きながら、求道のための巡礼を続けている修行僧のように見えることもありました。彼らは、もしかしたら僕をも含めた彼らは、頽廃の中にストイシズムを秘めた、シルクロードの不思議な往来者だったのかも知れません。しかし、彼らこそ、シルクロードを文字通りの「道」として、最も生き生きと歩んでいる者ではないかと思うのです。
滅びるものは滅びるにまかせておけばいい。現代にシルクロードを甦らせ、息づかせるのは、学者や作家などの成熟した大人ではなく、ただ道を道として歩く、歴史にも風土にも知識のない彼らなのかもしれません。彼らがその道の途中で見たいものがあるとすれば、仏塔でもモスクでもなく、恐らくそれは自分自身であるはずです。
「シルクロード」、日本人はこの言葉から何をイメージするのだろう。
異国の香り、エキゾチズム、ロマンチシズム・・・、
そんな言葉が浮かんでくる。
しかし、そこに欠落しているものがある。
それは「生活者」の視点。
生きるか死ぬかの危うさ。
かつてシルクロードはどのような形で生まれ、何のために利用されてきたのか。
それは生活のため、生きるためである。
人々はこの世で生き抜くために、東から西へ、西から東へと旅する必要があった。
そのためにできた道がシルクロード。
そこにあるのは、生活のための厳しさであり、肉体的な苦痛、物理的な困難さである。
喉の渇き、空腹、暑さ、寒さ、恐怖・・・・、
このようなきわめて具体的なものである。
「シルクロードについて」語る日本人は多くいるだろう。
しかし、「シルクロード」を語ることのできる日本人はほとんどいない。
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