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2012年1月の31件の記事

2012年1月31日 (火)

ラクして成果が上がる理系的仕事術/鎌田浩毅

_  「体は頭よりもつねに賢い」ーーこのキーフレーズはクリエイティブな生産をしようとするときの黄金律である。高度な頭脳労働は、体のしなやかな動きと密接に関連しているからだ。
  したがって、体調を整えることは、どのような場合にも知的生産の要になる。大事なことは、身体感覚に敏感になって、よいものがひとりでに産まれ出てくるのをゆったりとした気分で待つ、ということである。
  経済学者の内田義彦は、ものを考えるときの姿勢についてこう語る。

私自身社会科学者の一人としてがっかりさせられるのは、芝居や映画に出てくる学者なるものだ。大体において深刻な顔をしてうつむいている。(中略)うつむいたまま硬直した姿勢である。自然体としての直立した姿勢から来たものでもなければ、そこに戻りうるものでもない。すなわち考えるという作業とはおよそ遠い姿勢である。(内田義彦「学問への散策」岩波書店、17~18ページ)

  うつむいた姿勢では、クリエイティブな思考には向かないのだ。もっとリラックスした体の状態をつくりだす必要がある。うつむくのとは反対に、天井を向いてポカンとしている姿勢が、知的活動の出発点となる。

体と頭とは切っても切り離せない関係にある。

ところが、日本では昔から体と頭とを切り離して考える傾向にあったように感じる。

子供の頃、秀才といえば、昼休みの時間もみんなと遊ばないで、青白い顔をして教室の片隅で教科書を開いて勉強しているガリ勉タイプというイメージがあった。

一方、体を動かすのは得意だが、勉強はからっきしダメ、まるで脳みそまで筋肉で出来ているのでは、と思われてしまうような体育バカ。

両極端に考えがちだった。

でも、今、考えてみるとおかしな話しである。

頭も体をも身体の一部。

密接な関係があって当たり前。

切り離して考えること自体がおかしい。

ただ、どちらを優先させて考えるべきか、という問題はある。

プロゴルファーの青木功は「体技心」と言い、まず「体」という土台がきちんと据えられていてはじめて「技」と「心」が成り立つと言っている。

長い間、結果を出してきたアスリートの言葉だけに重みがある。

いずれにしても、近年、身体活動の脳に与える影響が注目されてきていることは喜ばしいことではないだろうか。

2012年1月30日 (月)

野球型 vs. サッカー型/林信吾、葛岡智恭

Znp1a   世界的にみればサッカーの方がずっと盛んであるにもかかわらず、日本人が主たる観戦スポーツとして、野球を選択したのはなぜか。
  このあたり、多分に想像を交えての議論になってしまうが、サッカーよりも野球の方が秩序正しく行われるスポーツである、との印象があって、それが日本人の感性に合っていた、ということではないかと思われる。
  まず第一に、野球は役割分担がしっかりしている。投手がマウンドから投げることでゲームが動くし、打順も事前に決められていて、代打という制度はあるものの、打者は順番通りにしか打席に入れない。
  これに対してサッカーは、チーム11人のうち、1人を必ずゴールキーパーとすることと、ゴールキーパーは他の競技者および審判員と区別のつく服装であることが定められているだけで、あとは誰がどんな位置でプレイしようがまったく自由である。ゴールキーパーでさえ、極端に言うと最前線まで攻め上がってシュートすることも可能なのだ(手を使える範囲は限定されている)。(中略)
  サッカーはまた、ルールがアバウトである一方、一度試合が始まってしまうと、監督や選手がタイムを要求するということはできないため、作戦とか監督・コーチの指示といったものが機能する範囲は、きわめて限られる。逆に言うと、選手が自分の判断だけでゲームを動かす度合いが非常に高い。
これに対して野球は、極端に言えば一投一打ごとにベンチの指示を仰ぐことも可能である。(中略)
  つまり野球の試合というのは、監督を頂点とする頭脳集団によって動かされており、選手は与えられた役割の中で「いい仕事」をすることを求められるのだと言って過言ではない。ルール上、そのようになっているのだ。
  このことが、集団で規律正しく動くことを好む日本人の感性に合っていたのだ、という見方は、決して皮相ではないであろう。

近年、企業の組織を、野球型とサッカー型に区分する考え方がある。

野球型組織とは、ちょうど高校野球で打席に入った選手が一球一球、監督の出すサインを見て、その通りに動くことを求められるように、

組織の形態がピラミッド型になっており、ピラミッドの頂点に位置するトップが指揮命令を下し、その下の階層は、その通りに実行することを求められる組織。

基本的に現場の裁量権はあまりなく、むしろ上司のいう通りに実行することが求められる。

それに対して、サッカー型組織とは、ちょうどサッカーの試合で監督が試合前に試合の戦術を示すことはできるが、いざ試合が始まれば個々の選手にすべて任せざるを得ないように、

組織の形態はフラットになっており、トップは大まかなビジョンや戦略は示すが、それをどう実行するかは現場の社員の判断に任せる組織。

どちらが優れているかは、時代の要請や、その企業のビジネスモデル、戦略等によって決まってくるので一概には言えないが、

大きな流れとしては、サッカー型の組織が求められているのは明らかだ。

しかし、日本人に向いているのは、どうも野球型組織のようだ。

それは古くから、野球がメジャーなスポーツで、サッカーはずっとマイナースポーツだったことからも明らか。

ただ、向いていないからといって、そのままでいいわけがない。

日本人にとって、自分の判断で動くということは苦手科目のようだが、

今後は、この苦手科目克服のために取り組む必要がある。

2012年1月29日 (日)

夢を持ち続けよう!/根岸英一

4764106248  夢を持つのは素晴らしいことです。ただ、同時に皆さんにお伝えしたいのは「自己評価」の大切さです。
 自己評価というのは、ただ優秀だとか優秀でないなどということだけでなく、自分の志向性といいますか、自分がやりたいことや好きなこと、それが自分に適していること、「適性」を客観的に評価することです。これが夢に向かって進む第一歩だと思います。
 若い方にも「自分を客観的に評価してみたらどうでしょう」とまず言います。駄目だったら何かほかのこと、政治でも経済でも何でもよいのですが、適性を見極めることが大切です。サイエンスでは特にそれが重要です。
 適性を探すには、いろいろな局面においてコンペティティブである(競争心を持つ)ことも必要だと思います。競争心は何も悪いことではありません。競争が極まって戦争になったら困りますが。
 オリンピックも競争だし、最近ではサイエンスオリンピックなんていうのもあります。若い人たちは本質的に競争が嫌いではないと思います。だけど勝てば好き、負ければちょっと嫌いになる。残念ながら負けた人は「このゲームでは自分は駄目なんだ、だから別なゲームにしなくちゃ」と適性を探すことになります。

夢を持つことは大事なことだ。

ただし、同時に自分の適性を客観的に評価する目を持つ必要がある。

この二つは、車の両輪のようなもので、どちらか一方だけではうまくいかない。

例えば、夢を持っているが、自分の適性を客観視する目を持っていない人はどのような人生を送るのだろう。

おそらく、一部の人は運良く夢をつかむだろうが、大部分は一生を棒に振る。

今、問題になっているフリーターやニートの一部はそのような人たちである可能性が高い。

ただ、自分の適性を知っているが、夢を持っていない人も、堅実ではあるが面白味のない人生を送ることになるかもしれない。

また、そもそも、その適性の自己評価も低すぎる可能性がある。

バランスの問題ということになろうが、そのためには根岸氏も言っているように、いろんな局面において競争心を持つこと。

夢を持っているのであれば、それをつかむために、競争せざるを得ないような局面に自分の身をおいてみる。

そのような中で勝てば適性があると判断できるし、負ければ適性はない可能性が高い。

要は競争を避けては自分の適性を知ることすらできないし、夢をつかむこともできない、ということであろう。

2012年1月28日 (土)

「NO」は言わない!/林田正光

Znp2a   ある雑誌に、組織についての興味深い調査結果が掲載されていました。
  それによると、「自分が所属する組織が達成しようとしている目標と、その理由を明確に理解している人」の割合は組織のメンバーの37パーセントにすぎず、「チームや組織の目標達成に熱意を持っている人」は20パーセント足らず、「自分の目下の課題とチームや組織の目標との間に明確な見通しを持っている人」は20パーセントとのことでした。
  これをラグビーのチームで考えてみましょう。
  なぜ勝利を目指すのかを理解してプレーしている人は15人中5~6人、勝利のために熱心にプレーしている人は3人、自分のポジションとやるべきことがわかっている人も3人です。つまり、多くのメンバーは、フィールドに立ちながらも、自分が何をするべきかがわかっていないのです。

今、多くの企業では生き残りのために、どのような戦略をとるべきなのかということが大きな課題になっている。

確かに大企業はそうだろう。

だが、私が普段関与している中小企業では、別の問題が大きいように感じている。

それは、トップが打ち出した会社の方針や目標に対して、大部分の社員が理解しておらず、自分の役割は何かがわかっていないということ。

つまり、企業理念やビジョン、方針、目標といったものが絵に描いた餅になってしまっている。

これが一番大きな問題であるように感じている。

どんなに優れた戦略を打ち出しても、社員がそれにそって動かなければ意味がない。

ところが、中小企業の場合、そもそも社員が会社の目標にそって動く仕組みがほとんどない。

結局、目標がスローガン化し、何も変わらないということになる。

また、最近よく言われている「自律的社員」というのも、中小企業の場合、違和感がある。

そもそも中小企業には、自律的に人からいわれなくとも自分で考え、行動し、結果をちゃんと出せる人材など皆無。

社長と社員の関係は、それこそ「笛吹けども踊らず」という状態になっている。

会社の理念や目標にそって社員がきちんと理解し動く仕組みを作ること、

中小企業はまずこのことを真剣に考えるべきだろう。

2012年1月27日 (金)

勇気の出る経営学/米倉誠一郎

Znp16   いま日本に必要なのは、“転んだ奴を笑わない”ことと、それから“失敗を嫌うシステムをなくす”ことです。ベンチャーというのは失敗するのが普通です。よく『成功するベンチャービジネス』というような題のついたビジネス書がありますが、こういう感覚自体がすでに違うと思います。
  アメリ力のように、失敗を許容して、失敗に寛容な世界をつくらないといけないと言いますが、じつはアメリカは失敗に寛容なのではなく、合理的なのです。失敗というのは人生のなかでも最も大きな経験だし、その経験をした者は多くのことを学ぶはずだという前提があるからです。それを学んだ人物を、日本の場合だと、二度とビジネスシーンに出てくるなという叩き方をして、足腰を立たせなくしてしまいます。あいつは倒産者だと言われるようになったらどうしようもなくしてしまうのです。

アメリカでは過去会社を倒産させたことのある経営者は、むしろ投資家から高く評価される、ということを聞いたことがある。

それに対して、日本では会社を倒産させた人は、社会的な信用もなくしてしまう。

多くの場合、二度とチャンスは与えられない。

この違いはどこから来るのか。

アメリカは失敗者に対して寛容であり、日本は不寛容な社会だからなのか?

単なる国民性、民族性の違いなのか?

米倉氏は、それはアメリカが失敗した者に寛容な社会だからではない、

合理的だからだと言う。

合理的に考えれば、失敗したというのは人生の中でも大きな経験だし、その経験をしたものは多くのことを学ぶはず。

そのような者に再度チャンスを与えるのはきわめて合理的な考え方だという。

では、そう考えられない日本人は非合理なのか?

確かにその通りなのだろう。

日本人は、物事を合理的に考えるより、周りの目や空気、雰囲気、そして人の和を中心に物事を考え判断する。

特に、日本社会は、ウチとソトをはっきり分けるムラ社会。

例えばベンチャーを立ち上げて起業する人は、そもそも「ソト者」であり、和を乱す「けしからんヤツ」

まして、その者が失敗でもしようものなら、「それ見たことか」と潰しにかかる。

二度とチャンスは与えない。

日本に起業家が少ないのは、そのような非合理な考え方が社会に蔓延しているからではないだろうか。

2012年1月26日 (木)

「攘夷」と「護憲」/井沢元彦

Znp2a  本来なら、黒船を見た瞬間、日本人すべてが一丸になってこの方向に向かって動くべきでした。ところが実際に日本人全員がこの方向へ向かうようになったのは、黒船から数えて15年後、明治維新の成った1868年からです。
  なぜ、15年もかかったのでしょうか。
  しかもこの間、いわゆる開国近代化に向かって、真っ直ぐ進んでいたのかというと、そうではありません。日本が本当の意味で開国の方向に向かって進みだしたのは、1853年の黒船来航から10年後の63年以降なのです。そこから明治維新までは、わずか5年しかありません。つまり10年間も、日本は議論の空転をしていたのです。
  その議論の空転を招いたのは、世論の中心であった「攘夷論」です。

幕末、黒船が開国を迫る中、「攘夷」という空理空論に固執して、明治維新までに15年もの時間を浪費した日本。

井沢氏は、それはそのまま現実を直視せず、空理空論に走る護憲派の発想につながっていると説く。

今から20~30年前からつい最近まで、護憲派と言われる人たちが言っていたことを繰り返せば、次のようになる。

ソビエトや北朝鮮は労働者の天国であり、中国は文化大革命というすばらしい改革をやった国。

これらの国には食料が満ち溢れ、貧困も差別もない。

共産主義国家の軍が持っている原水爆や軍備は、平和の脅威ではなく、むしろ資本主義国家の持っているもののほうが危険。

朝鮮戦争はアメリカと韓国の陰謀であり、北朝鮮は被害者。

北朝鮮は拉致など行っていないし、そういうのは右翼の陰謀。

北朝鮮のテポドンは人工衛星の実験であって、平和を目的としたものであり、日本にとって何ら脅威ではない。

北朝鮮に帰国した何万人もの在日朝鮮人は、今も平和なすばらしい暮らしを送っている、等々・・・と。

今から考えれば、「なんてバカなことを」と思ってしまうが、現実に朝日新聞を代表とする、進歩的文化人と称される人たちは大真面目で論じていた。

こういったことを口にしていた人間が、今や同じ口で護憲を唱えている。

「日本は平和憲法を持つ国であり、その平和憲法は絶対に正しい。それを改悪することは許されません」と。

つまり「攘夷」の時代から、根っこの部分はまったく変わっていないのである。

黒船が開国を迫る中、「攘夷」という空理空論に固執して、明治維新までに15年もの時間を浪費した日本。

今度はどれだけの時間を浪費するのだろう。

2012年1月25日 (水)

不安の力/五木寛之

_   いま、不安はこれまでになかったほどの社会的現象としてひろまっている。それは、逆の見かたをすれば、〈人間らしさ〉の最後の砦が守られているということにほかならないと思います。不安を感じるのは、人間がまだ〈人間らしさ〉を失っていない、という希望に通じていることだ。ぼくはそんなふうに考えています。
  ぼくたちはみな不安を抱えている。不安に苦しんでいる。そんななかでは、不安を抱えていることが人間らしいのだ、と頭を切り替えたほうがいい。自分が不安を感じ、ときにはパニックに陥ったりするのも、自分が人間らしい柔らかいやさしいこころを持っているからだ、と考えかたを変えてみる。むしろ、不安を肯定的に受けとめて、不安とどう共生していくか、ということを考えてみたらどうでしょうか。
  不安を感じるこころというのは、人間の自由を求めるこころであり、やさしさであり、愛の深さであり、感受性の豊かさです。その不安をどんなふうに希望に転化させていくか、ということを考えるべきなのです。
  ですから、あえて言えば、不安は希望の土台です。不安を感じることが、人間が人間としてあるということの出発点なのです。

今、多くの人が不安の中で生きている。

不景気、失業、そして政治に対する不信感、ITなどの技術革新のスピードについていけず、取り残されることへの恐れもあるだろう。

あるいは、うつ病やパニック症候群というようなこころの病気になってしまい、心療内科に通っている人もいる。

若い人たちは若い人たちなりに大きな不安を抱え、年配の人たちは、年配の人たちなりの大きな不安を抱えている。

企業は企業で、グローバル・スタンダードというような大きな枠組みのなかで、円高に苦しめられ、生き残りに必死だ。

しかし五木氏は、これはとても正常な反応だと言う。

今の不安の時代には、こころに不安を抱えているということが、むしろ正常な反応。

なぜなら、私たちが今、生きているこの世界のありかた自体が、人間に不安を与えるよう歪んだ構造になってきているから。

環境そのものがいま病んでいるから。

たとえば、日常的に口にしている食べ物にしても、これを食べたら危険だ、と警告を発するような本がひろく読まれている。

それは、放射能に汚染された食物や、遺伝子組み換え作物や、残留農薬や、食品添加物などに不安を感じている人がいかに多いか、ということ。

食べ物だけではない。

空気や水に対しても不安がある。

水道の水はいっさい飲まない、必ずミネラルウォーターを飲むという人もいる。

それだけでなく、外出する際には玄関の鍵を三つかけないと不安だという人もいる。

マンションなどで、ピッキングと呼ばれる空き巣の被害が急増しているためだ。

つまり、正常な感覚を持っていれば、不安を感じて当たり前の世界で、今、私たちは生きているのである。

だから、ここは発想を変えて「不安を感じることが、人間が人間としてあるということの出発点」と考えるべきだ。

不安を打ち消そうとするのでなく、不安と共生する。

このように考えた方が、生きるのが楽になるのではないだろうか。

2012年1月24日 (火)

勇気の出る経営学/米倉誠一郎

Znp29   3Mという会社はイノベーションを組織化しようとずっと努力しています。イノベーションだけが企業を成長させることを知っているからです。3Mが全従業員に「15%ルール」を適応しているのは有名です。全社員は自分の夢に、自分の予算と時間の15パーセントを使ってもいいのです。しかし、3Mは一方で各事業の売上げの四分の一は常に四年以内の新製品でなければならないと決めています。絶えず新しいイノベーションへ向けて圧力をかけているのです。
  同時に同社の制度も徹底しています。社員の創意工夫を高めるために、「提案制度」を取り入れようと、どこの会社も言います。しかし、そのあとがどうなったかは誰も知らない。だいたいが、そのまま宙に浮いて、そのうちに消滅してしまうものです。3Mでは、上司は部下の提案を却下するときには「挙証責任」が必要である、としたのです。部下提案に対して「ノー」と言った時はその理由をつけなければならないのです。上司は常になぜ却下したかと理由が問われるとなると、サンプルテストの結果だめだったとか、消費者百人に意見を聞いたけど九十八人がノーと答えたとかの実証的な理由が必要となります。
そういうものをつけなければならないとなると、まず部下の意見や考えをよく知ろうとします。と同時に、論理的に言葉にする、すなわち形式知にする訓練が上司に生まれ、経営に緊張感がみなぎるのです。

現在、イノベーションを経営課題にあげる企業は多い。

そして、そのために提案制度を導入する企業も多い。

ところが、大部分の企業はそこで終わってしまう。

結果、「何も変わらない」ということになる。

何故、提案制度を入れただけでは何も変わらないし、変われないのか?

それは組織の力学を考えるとよくわかる。

通常、組織の構成員の中で、変革を心の底から望んでいる人は一部だ。

多くの構成員は、「できれば変わりたくない」「変えたくない」思っている。

人間とはそれほど保守的な動物なのである。

しかも組織の上層部に行くほど、保守的な人の比率は高くなる。

仮に、そのような組織の中で、革新的な提案が部下から上がってきたら、どういうことが起こるのか。

おそらく、上司は部下の提案を握りつぶす。

その結果、本当の意味でイノベーティブな提案は陽の目を見ず、どうでもいいような、お茶を濁すような提案が採用される。

結果、組織は何も変わらない。

そのうち提案制度そのものも消えてしまう。

これが多くの企業がたどる道。

組織にはこのような力が働くのである。

その点、3Mでは、上司は部下の提案を却下するときには「挙証責任」が必要とされる仕組みがある。

こうなると、上司は下手に部下の提案を握りつぶせない。

ここに違いがある。

つまり、変われない企業は、この辺りの詰めの甘さがあるのである。

2012年1月23日 (月)

クオリア入門/茂木健一郎

Znp93 今、私の目の前に広がっている牧場の景色は、私の外にあると思っているけど、本当は私のこの小さな頭蓋骨の中にしか存在しない。私の頬をなでているこの風も、実は私の小さな頭蓋骨の中にある表象に過ぎない。私に見えていることの全ては、本当は、私の外にあるのではなくて、私の頭蓋骨の中にあるニューロンの発火の結果生ずる現象に過ぎないのだ。
私は、私の心は、どうあがいても、この頭蓋骨の中の狭い空間から逃れることができない。
どんなに雄大な景色の前に立っても、たとえ、グランド・キャニオンや、木星の巨大赤斑を目の前にしても、それを見て、感じる私の心は、この頭蓋骨の中に閉じ込められている。
私の心は、あくまでも、この一リットル足らずの頭蓋骨の中にある……
  この結論は、とても驚くべきもののように思われた。その考えの衝撃が、広く深く、私の心の中に広がっていった。私は、生まれてはじめて、私という存在が、そして、私にとっての世界の存在が脳内現象に過ぎないことを実感したのだった。
  それから、私は、牧場の中を散歩し続けたが、周りの景色が、今までとはまるで違ったもののように感じられた。

「私に見えていることの全ては、本当は、私の外にあるのではなくて、私の頭蓋骨の中にあるニューロンの発火の結果生ずる現象に過ぎない」

これは、脳科学者の世界では常識だという。

確かにそうなのだろう。

私の周りでどんなことが起ころうと、私の脳がそれを認識しなければ、なにも起こっていないのと同じ。

すべては脳内の現象に過ぎない。

確かにそうなんだろうが、何か違和感がある。

理屈ではそうなのだろうが、本当にそう断言できるものなんだろうかと思ってしまう。

脳科学自体、それほど歴史のある学問ではない。

最近にわかに注目を浴び出した分野である。

それだけに、これからどのように脳科学が進化していくのか注目して見て行きたい。

それにしてのもこの本、「入門書」と言っておきながら、読んでいて非常にわかりにくい。

著者のまだ若かりし頃の著作なので、無理からぬところがあるが、

いかにも内容が書生っぽく、最近の著作の方が余程わかりやすく、「入門書」と言える内容になっているように感じる。

2012年1月22日 (日)

2022――これから10年、活躍できる人の条件/神田昌典

4569797601  今後10年間の、私の予想を要約するなら、次の二語になろう。
 破壊と創造――私たちは、これから、ひとつの社会体制が壊され、ひとつの社会体制が創られる場面に遭遇する。2015年までに日本は「圧倒的な欠落」を経験。その結果、国民全員を巻き込む新たな価値観が生まれ、新しい日本の70年がスタート。ようやく国内安定化の兆しが見えはじめるのは、おそらく2020~2022年頃だ。
 私たちは、まさに稀有な、歴史的な時間を共有することになる。

今、マスコミを通して語られている日本の将来像は悲観的なものばかり。

政府の借金は今年中に1000兆円を超える、円高、増税、少子高齢化・・・・・等々。

しかし、本当にお先真っ暗なのだろうか。

本書で神田氏は、まったく逆のことを言っている。

日本は、新たな価値観が「創造」されようとしている。

そして、そのためにはまず「破壊」が行われなければならない。

今は、まさに「破壊」のための「圧倒的な欠落」を経験している時なのだ、と。

時代が動くということは、いままでの日常との間に、ギャップが生まれるということ。

そしてギャップが大きければ大きいほど、そこには大きなニーズが生まれる。

消費者が求めるものと、市場で提供されている既存商品が異なってくるからだ。

そこに大きなチャンスがある。

例えば、昨年の震災後、LED照明は飛ぶように売れた。

単に明るければよかった電球が、省エネと耐久性が優れていなければ話にならなくなった。

手軽に食べられるファストフード一辺倒から、健康を考えるスローフードを求める人が増えてきた。

軽自動車はダサい、せいぜいセカンドカー扱い、と思われていたのが、今や普通車の販売台数を追い越そうという勢い。

これから高齢者が増えることも、発想を変えればビジネスチャンスだ。

つまり今、不景気だとは言うけれども、実は、至るところにビジネスチャンスが溢れている。

大事なことは、この時代の流れをしっかりと見極め、半歩先を見据えて行動することだ。

2012年1月21日 (土)

「職場ストレス」「仕事うつ」に強くなる本/斎藤茂太

Znp1a  私事で恐縮だが、妻の長電話に腹が立って仕方がないときがあった。とくに夕食の支度をしているときに電話がかかってくれば、こちらは待ちぼうけとなる。私には、どうでもいいような会話に聞こえるが、妻の声は上機嫌である。そのうちに「いつまで話すのか、いつ切るのか」と、イライラしてくる。
  これに文句をいったからといって、妻には妻の都合もあるのだろう、長電話をやめるわけではない。そんなイライラ体験に何回か耐えた後、私は考え方を変え、妻が電話口に出たときにはストップウォッチとメモ用紙を携えて観察することにした。
  話の内容と時間とには、どのような関係があるか。「じゃ、さようなら」といってから、「あ、それからね」と再度話し始め、実際に受話器を置く「ほんとうのさようなら」まで、何回くりかえすのか・・・・・・といったことを丹念にメモし、その最高記録や平均値を求め、「妻の長電話」の実態を研究した。
  これがあんがい楽しめる。妻がどこかに電話をかけるのが待ち遠しくなり、また、電話のベルと同時に小走りしている妻を見ると、私は空腹のイライラも忘れた。これが、ストレスから「快いもの」への転換であり、私なりのストレスと「上手につき合っていくコツ」と心得ている。

斎藤氏のエピソードは、ストレスとは上手につきあうことが大事だということを教えてくれる。

妻の長電話にイライラさせられることは私にもあるので、ナルホドと思わされた。

仕事のプレッシャー、わずらわしい人間関係、めまぐるしい社会の変化、IT社会、人との競争、将来への不安……と、現代はまさにストレス社会。

生きている限り、ストレスはつきまとう。

だとしたら、斎藤氏のいうようにストレスを楽しんでやろうという姿勢が大事。

つまり、発想の転換。

腹を立てるのではなく、ストレスの逆手を取ってやろう、この状況を楽しんでやれ、と考える。

イライラしながら過ごすのではなく、その状況を何とか楽しもうとする気持ちを持つ。

どうすれば自分を楽しませることができるかを考える。

どんな環境の中に置かれても、自分なりの対処法、楽しみ方を見つけ出すのが、人生の知恵と言えるものではないだろうか。

2012年1月20日 (金)

一流の習慣術/奥村幸治

Znp34   ニューヨーク・メッツのキャンプに参加させてもらっていた当時、メッツに在籍していた野茂英雄さんと吉井理人さんに「日本のプロ野球とアメリカのメジャーリーグで、何に違いを感じましたか?」と質問したら、ふたりとも同じことをおっしゃいました。「コーチングが違う」と言うのです。
  「技術面や体格面の差よりも、とにかくコーチングの違いが大きい」ふたりはそう言いました。
  コーチングとは、馬車(コーチ)から来ている言葉です。御者が馬車を目的地まで確実に導くように、望んでいる目標達成のためのサポートや援助を行うプロセスをコーチングと言います。コーチとは「コーチングをする人」という意味です。
  野茂さんと吉井さんが言うには、日本のコーチングの基本は「与える」こと。ピッチャーのフォームを見て「こうした方がいい」というアドバイスをくれるのが、日本流のコーチングだというのです。
  一方メジャーリーグのコーチングの基本は「聞き出す」こと。
  「お前のことはお前がいちばんわかっているはずだ。だから、私にお前の気持ちを伝えてくれないと私は何もわからない」監督もコーチもそう言うのだそうです。
  そして選手の目的や悩みを聞き出したうえで、「だったらこうした方がいい」というアドバイスが返ってくるのです。

元メジャーリーガーの野茂と吉井の語った、日本とメジャーリーグとでの最も大きな違いは、コーチの教え方だということ。

日本での教え方は、事細かに教えることが中心。

それに対して、メジャーリーグの場合は、「聞き出すこと」が中心だったという。

どうしてこのような違いがでてきたのだろう。

単なる文化の違いなのか。

それもあるとは思うが、ひとつ気づかされることは、日本人の教え方は、先生と生徒という上下関係という土台があってはじめて可能だということ。

上下関係という土台があるからこそ、下の者は上の者のいうことを素直に聞く。

言葉を換えて言えば、「お前はバカだから俺が教えてやる。しっかりと聞いて覚えろよ」、「ハイ」という関係。

確かに昔は教える前提の土台がしっかりとあった。

しかし、どうだろう、今はそのような土台もぐらつき始めてのではないだろうか。

そうすると、日本式の教え方そのものも、見直すべき時期にきていると考える必要があるのではないだろうか。

日本でもひところコーチングのブームがあったが、そのような背景があったのではないかと思う。

2012年1月19日 (木)

「言語技術」が日本のサッカーを変える/田嶋幸三

03426  Jリーグが発足した当時、人気は一気に高まり、チーム数も14に増えました。ところが、日本人監督が率いているチームは、なんと全体の2割にしか達しなかったのです。
  その理由はいったい何か。
  「日本人の監督は、自分のチームの選手たちを自身の『論理』と『ことば』によって説得しプレーさせる力が足りない」。私たちの眼には、そう映っていました。とくに、外国から招聘された綺羅星のようなスター選手たち、ジーコ(鹿島アントラーズ)、リネカー(名古屋グランバス)、リトバルスキー(ジェフ市原)・・・が、彼らの鍛え抜かれた論理で意見をしてきたとき、日本人監督はまったくお手上げの状態でした。
  たとえば、外国人選手たちは「なぜこの練習をするのか?」と聞いてくる。彼らにとっては、練習には理由があるのが当たり前。ところが、日本人監督は説明ができないし、外国人選手から責められていると感じてしまう。それもそのはずです。それまでの日本サッカー界では、部長がいて、課長がいて、という日本的な年功序列体質と同様だったのですから。

今でこそ、Jリーグでは日本人監督が増えてきたが、それとて、ここでいうところの「言葉」の問題が解決されたからではない。

日本人監督が増えてきたのは、むしろお金の問題。

つまり、ほとんどのチームが財政難で、外国人監督を招聘するお金がなくなってしまったということ。

結果として比較的安く雇える日本人監督が増えてきた。

しかし、依然として監督の「言葉」の問題は解決していない。

そしてこれはJリーグの問題ではなく、日本の組織はほとんどこれと同様の問題を抱えている。

つまり、他者に対して論理的に言葉で説明し動かす能力の欠如という問題。

リーダーとして立っている人の中にも、この能力の劣っている人が多くいる。

どうしてなのか?

恐らくそれは、上下関係で人を動かすという形に長年慣れ親しんだ結果。

つまり、人に対して論理的に説明し納得してもらって動かすのではなく、

あくまで、上司と部下という上下関係の枠組みの中で、ポジションパワーで部下を動すという手法を当たり前のこととしてきたから。

上下関係で部下を動かす場合には、説明は必要ない。

「あれをやれ」「これをやれ」と指示・命令すれば良いだけ。

もし従わない部下がいれば、評価を下げればいい。

あるいは、いい仕事を与えないか、

そうすれば、いやいやながらでも、部下は上司に従う。

この手法に長年慣れ親しんできた日本型の上司が、いまさら、仕事の意味と目的を丁寧に部下に説明し動かそうとしても、まず論理的な説明ができない。

部下から「なんでこの仕事をしなければならないんですか」と問われた場合、

「上からやるように言われたんだから仕方ないだろう、いいから黙ってやれ」としか言えない。

しかし、時代は明らかに変わってきている。

指示・命令だけでは従わない部下が増えてきた。

人の上に立つ人は、最低限、自分の言葉で論理的に説明する能力を付ける必要があるのは明らかだ。

2012年1月18日 (水)

言葉の力/猪瀬直樹

Znp16   小泉さんの言葉に感動がともなうのは、俳句のように凝縮した1行の力強さがあるからではないか。「ワンフレーズ」といって揶揄するだけではなく、言葉を選び、吟味している一面があることを見逃してはならない。
  小泉さんは1行しかないように見えるが、1ページのなかに余白をつくったうえでの1行なのである。俳句と同様に、余白をすべて生かしている。だから印象に残る。
これに対して、軍人の宇垣一成や元市民運動家の菅さんの言葉は、ページに言葉が埋まっているだけなのだ。
  小泉さんには「言葉」があった。その後を継いだ首相たちを見ていると、「言葉の力」が次第に失われている。
  安倍さんで「緊張感」が消え、福田さんで「夢」が消え、麻生さんで「知性」が消えた。
  ″宇宙人″の鳩山さんで「リアル」というものが完全にすっ飛んでしまった。
  そして菅さんで跡片もなく消えたもの。「言葉の力」である。

短い言葉を連発して、「ワンフレーズ・ポリティクス」と批判を浴びた、小泉首相。

しかし、今振り返っても印象的な言葉がいくつもある。

所信表明演説のとき語った「痛みを恐れず、既得権益の壁にひるまず、過去の経験にとらわれず。」という言葉。

大相撲夏場所で優勝した貴乃花に言った「痛みに耐えてよく頑張った。感動した。おめでとう。」という言葉。

そして「郵政解散」直後の記者会見で語った「ガリレオは「それでも地球は動く」と言った。私は、国会で郵政民営化は必要ないという結論を出されたが、もう一度、国民に聞いてみたい。」という言葉。

いずれも非常に印象に残っている。

それに比べ、そのあとを継いだ首相の言葉は、正直言って全く思い出せない。

小泉首相のやったことが全て正しかったとは思わないが、少なくとも言葉に力があったとは言えるのではなかろうか。

リーダーは言葉を持たねばならない。

2012年1月17日 (火)

日本人の正体/養老孟司、テリー伊藤

Znp16 養老:バリエーションが増えたのはたしかだけれど、現代人が食べている食材が昔の人に比べて増えているのかといったら、そうじゃないんですよね。縄文時代の食生活を調べている人に聞いたんだけど、縄文人は何千とかいう種類の食材を食べていたらしい。
テリー:品目っていうことですか?
養老:そう、いまは30とか50とか、食材の品目が十桁なの。縄文人は千桁食べていたっていうんだ。
養老:そう、多様じゃないんだ。決まりきったもので、いろんな食べ方をしているだけ。
テリー:アレンジしているだけなんだ。それって、逆に文化のキャパシティが狭くなったっていうことですよね。

本書は、養老孟司とテリー伊藤が語りつくした新日本人論とも言うべきもの。

ここで、対談の話題が、食べ物が多様化してきた、というところにきたとき、養老氏は、実際はちっともそんなことはない、むしろ縄文時代よりも食材の品目は減ってきている、と、述べている。

言われてみれば確かにそうかもしれない。

表面的には多様化してきているように見えて、その根っこの部分を探ってみると、ちっとも多様化なんかしていないということ。

そして、これは他のことにも通ずる見方かもしれない。

最近よく出てくる言葉に、「価値観の多様化」「多様な人材」 「ダイバシティ」 「多品目小ロット化」等々、「多様」であるということがトレンドであるかのような感覚になってしまう。

「でも、本当にそうだろうか?」 「多様化してきているのだろうか?」・・・と、考えてみる必要もあるかもしれない。

そもそも「多様化」という言葉の中に全部を押し込めて考えようとすること自体、多様化ではない。

これは思考の固定化、であり、硬直化だ。

何がことの本質なのか、見極める目を持ちたいものだ。

2012年1月16日 (月)

会社は毎日つぶれている/西村英俊

Znp32   会社は成長を続けていくために産業の流れ、社会の変化、技術の進歩に対応して、そしてまた、自分の会社自身をグローバル市場に適合させていくため、成長のエネルギーを得るた
めに、新しい事業に投資をしていきます。会社の資金と技術と人材を新しい事業に振り向けていきます。このプロセス、新しい事業展開を決めていく、会社の将来の運命を決める投資を、社長、あなたの責任で決めていくのです。
  この投資の決定いかんによって会社は成長もし、またつぶれもします。社長であるあなたにとって、またはあなたが権限を委ねた投資執行責任者の役員にとって、会社の将来にわたるこの上ない重要な決定を求められる場面です。
  日本の企業は意思決定が遅いと一般に言われます。欧米や中国、インドなどの新興国に比べ、物事を決めるのに著しく時間がかかると言われています。実際、時々多国間のコンソーシアム(共同事業体)に時間切れで乗り損なうことも珍しいケースではありません。一番大きな理由は、日本人が歴史的に水田での稲作民族であって、狩猟民族の末裔である欧米人の企業とも、個人のオーナーシップで運営される新興国企業とも、意思決定における実務的な、また心理的なプロセスが全く異なっているというところにあります。

日本企業は意思決定が遅いとよく言われる。

そして、その理由の一つとしてあげられるものに、「日本人は稲作民族だから」というものがある。

確かに、稲作では、和を乱さず、集団に同化して、まじめにコツコツと働くことが求められる。

日本は民主主義が入ってくるずっと前から、合議制である。

対立した意見があっても、その集団の長がうまく根回しをしながらまとめあげ、合意形成をする。

また稲作は、自然が相手なので、ジタバタしてもしょうがないというところがある。

台風がきたら、干ばつがきたら、もうそれを受け入れる以外ないのである。

さらに稲作では、年間を通じて完壁なチームプレーが求められる。

一日の日照も取り込み損なってはいけない、一滴の水も無駄にしてはいけないという、それこそ水も漏らさぬ計画が作られる。

この計画は経験あるリーダーの指導の下に精緻に定められる。

そしてその地域で稲作に携わる人々すべてが計画を理解して同意し、それぞれの役割を果たす義務を負う。

仮に、構成員の一人が理解を誤ったり、義務を果たさなかった時には、村八分という制裁を受ける。

なぜなら、誰かがどこかで誤れば、チーム全体が一年分の収穫をふいにするというリスクがあるから。

これに比べれば、狩猟型集団の意思決定はもっと単純。

この森には獲物がいそうか、いそうでないか、いるとしたらどんな方法で攻めるのが最適かを、リーダーが中心になって経験から割り出し、実施するだけ。

実施にあたっては、多少の突出者や反対者がいてもしょうがないと受け入れられる。

大した成果がなければ、さっさと割り切って、次の猟場へ向かう。

つまり、リーダーに求められる能力が全く違うのである。

稲作民族の場合は対立する意見をうまくまとめあげる調整力であり、狩猟民族の場合は、適切な判断をし、集団を引っ張る判断力とリーダーシップ、というように、全く違っているのである。

この永い歴史の積み重ねによって出来上がってしまった体質・気質が、今の日本のリーダーの土台となっているのは、否定しようがない。

問題は、変化の激しい現代は明らかに、狩猟型のリーダーが求められているということ。

もう今どき稲作型、狩猟型と区分するのもどうかという考えもあるのだが、かといってそれを否定できない部分を明らかに内側に持っているということも認める必要があるのだろう。

2012年1月15日 (日)

自分の中にいる「困った人たち」/デヴィッド・リーバーマン

_   困難にも動揺せず、物事をありのままに受けとめるようにしよう。アメリカの神学者ラインボールド・ニーバーの『静かな祈り』の言葉を借りると、
「神よ、変えられぬものを穏やかな心で受けとめられるよう、われわれに潔さを与えたまえ。また、変わるべきものを変えられるよう、勇気を与えたまえ。そしてものの区別ができるよう、知恵を与えたまえ」
  この言葉をよく頭に入れておこう。でなければ、書きとめて、毎日、目に触れるところに置いておこう。今度、何かについて不安を覚えたら、それは自分でコントロールできるものなのかどうか、自問してみよう。

人は誰もが悩む。

悩むことによって人は成長すると言っても良い。

しかし、合理的に考えれば、悩む必要のないことは、できれば悩まない方が良い。

では、悩む必要のないこととは何だろうか。

それは、自分の力では変えることのできないもの。

例えば、過去のこと。

たとえ過去どんな過ちを犯したとしても過去は変えることはできない。

過去のことを教訓として、今後同じ過ちを犯さないようにすることはできるが、過去そのものを変えることはできない。

過去の過ちは受け入れることが大事。

また、今起こっていることであっても、自分の手に負えないことであれば、受け入れることが大事。

そして自分がコントロールできる事を変えるためにベストを尽くす。

そういう生き方をすれば、より多くのことを成し遂げることができるであろう。

でも、そううまくできないのもまた人間というもの。

変えられないこととわかっていても悩み苦しむことで、優れた哲学や小説が生まれる。

先日観た映画でも、過去の過ちに悩み苦しむ主人公に、ある老人が「過ちは人生の深みを増すものだよ」と語る場面があった。

つまり、そのような矛盾した部分を持っているからこそ人間なんだと言えなくもない。

ニーバーの『静かな祈り』の言葉も、頭でわかっていてもそのようにできない人間であるからこその、内側からのうめきのようににじみ出てくる祈りではないだろうか。

2012年1月14日 (土)

仕事に効く「断捨離」/やました ひでこ

_   高い山を見上げてしまっては、その高さに登頂の意欲が萎えてしまうことも。いきなり「全社的な断捨離をしなさい」と言われても、どこから手をつけていいか困惑してしまいますね?
  日々の仕事も同じです。大きな仕事に関わることは嬉しいことですが、いきなりその全容を示されて「やれ」と言われても、どこから手をつけていいのか、悩んでしまうのではないでしょうか。
  だったら、ひとつでいいから突破口を探してみることです。足元に不要なモノがあったら「捨」てることです。
  整理における突破口は、自分で判断できるので簡単ですよね。それは、個人の問題であり、他人との調整が不要なこと、加えて、私たちの頭脳がおのずと要るモノ、要らないモノに"分類"しているからではないでしょうか。

「断捨離」とは元々、ヨガで使われている「断行」「捨行」「離行」のこと。

心の執着を手放す行法哲学で、

「断」=いらないものを断つ、

「捨」=いらないものを捨てる、

「離」=執着から離れる、

というもの。

まず、"自分軸"と"今"という2つの軸をしっかり持つ。

その上で、不要・不適・不快と感じるモノを取り除く。

それにより、机まわりや引き出しなどの仕事場が片づく。

大事なことは、一つでいいから突破口を見つけ、動き出すということ。

目標を持つことは大事だが、実際には目標を持っただけでは何も変わらない。

目標という"着地点"を持ったら、次はアクションを起こすこと。

つまり"着地点"をみつけたら、次は"着手点"をみつけることである。

"断捨離"はそのための一つの切り口となる考え方である。

2012年1月13日 (金)

バブル再来/ハリー・S・デント・ジュニア

Znp165  人口特性トレンドからひとつ予測できることは、2010年頃から世界はかってないほど分裂し、機会にも恵まれるが、脅威も高まりそうなことだ。こうしたトレンドはすでに平均の法則、大数の法則によっておおむね決まってしまっているので、マクロ規模で大きく変えることはできない(そもそもこうした法則があるおかげで、人口特性トレンド等の統計科学はこれほど予測性が高いのだ)。
  だが、個人的には、投資やビジネス、人生の決断でうまく立ち回り、繁栄を続けることも可能なはずだ。この時代が人類史上、最も素晴らしい時代になるかもしれないのだから。
  アメリカなどの多くの先進諸国が2010~22年の大規模な淘汰を脱するにつれて、それまで高まっていた世界的な文化の衝突は収まり、再びグローバル化が進むだろう。結局のところ、グローバル化は、カスタム化、ネットワーク・コミュニケーション、80年周期の新たなニュー・エコノミー・サイクルの組織構造や富裕層の大量出現と並ぶメガトレンドのひとつなのだ。
  この経済ライフサイクルの成熟ブームと、グローバル化の次の段階は、比較的大きなものとなるだろう。それは主に、新興諸国が急速に欧米の生活水準に追いつく一方で、欧米諸国の相対的な進歩のベースが落ちるからだ。

本書は人口特性のトレンドから将来の経済を予測している。

経済の予測はあたらないことが多いものだが、ただ一つ、ほぼ確実に言えることがある。

それは、日本やヨーロッパの人口はこれから減少に向かっていくが、新興国はまだまだ伸び続け、全体的には2065年あたりまで伸び続けるであろうということ。

そして世界の人口の増加と経済成長とは切っても切れない関係にあるということ。

つまり、日本国内に目を向ければ、経済は縮小傾向だが、世界に目を向ければ経済は成長するであろうということ。

問題はこれを脅威と見るか、チャンスと見るかということであろう。

2012年1月12日 (木)

司令官たち/ボブ・ウッドワード

Znp16   午前十時半、ブッシュは執務室で内輪の会議を開いた。クエール、ベーカー、チェイニー、スコウクロフト、パウエル、スヌヌ、ゲーツが出席した。ブッシュはトップシークレットの国家安全保障指令(NSD)の二ページの草稿を前に広げた。
草稿は二つの条件をふくむように修正されていた。砂漠の嵐作戦の実行は次の条件で認可される。
(一)最終的に外交的な突破口が開けなかったとき。
(二)議会に適正に通告が行なわれたとき。
  その文書は基本的に、期限が来たらすみやかに攻撃を開始するという政府の主張をならべたものだった。そこには、イラクをクウェートから撤退させるのがアメリカ合衆国の方針であると書かれていた。以下ーー外交手段経済制裁、十以上もの国連決議をふくむ、イラクに撤退を促すためのあらゆる平和的解決は失敗した。イラクはクウェートの戦域に増強部隊を移動させ、占領下のクウェートの防御を強化しているから、ここで手をこまねいていればアメリカの国益を害することになりかねない。イラクはクウェートの略奪を継続し、国民に虐待行為を働いている。
  イラク軍は、アメリカ軍ならびに多国籍軍を防衛する意味でも攻撃されなければならない。同時に、イラクの一般市民の死傷者ならびに損害は、味方の部隊の保護と矛盾しないかぎり最低限に抑えるべきであり、イスラムの聖地も保護されなければならないと指示されていた。
  大統領はその文書にサインした。NSDには意図的に日付が入れられていなかった。日時は二つの条件が満たされた時点で入ることになっていた。
  ブッシュは、チェイニーが公式の執行命令にサインして、その日のうちにシュワルツコフにそれを送り出すことを承認した

この後、アメリカは湾岸戦争に突入する。

本書はボブ・ウッドワードによる湾岸戦争開戦にいたる意思決定プロセスを追った作品。

ウッドワードといえば、カール・バーンスタイン記者とともに、ウォーターゲート事件における卓越した調査を本にした「大統領の陰謀」があまりにも有名。

本書ではイラクのクウェート侵攻からイラク攻撃開始までのことがリアルに描かれており、興味深い。

特にイラクのクウェート進行が明らかになってから開戦までの国家中枢でのやり取りは本当に緊迫感が伝わってくる。

開戦までの意思決定にはいろんな立場の人々の思惑もからみ、様々な角度からの議論がなされている。

やはり戦争をするということは、それだけの議論を重ねる必要があるのだろう。

そしてよくこれだけの克明な取材ができたものだと改めて感服させられた。

アメリカという国は危うい面を抱えている国だが、それでも何とか持ちこたえているのは、健全なジャーナリズムが生きているからだろう。

それにしても、湾岸戦争の時代は、様々な思惑が絡んでいたとは言え、大義らしきものがあった。

ただ9.11の後は、大義のない、まやかしの戦争が増えてきたような気がする。

どこかでまた、揺り戻しがくるのではないだろうか。

2012年1月11日 (水)

日本人にはもう売るな!/菅谷義博

Znp39_4   日本人メジャーリーガーのパイオニアとなった野茂英雄投手が、米国に渡ったばかりのころにインタビューを受けていました。うろ覚えですが、確かこんな感じだったと思います。
  インタビュアー「英語はしゃべれるようになりましたか?」
  野茂投手「いや、僕は英語の勉強に来たわけじゃないんで……」
  あの仏頂面で、ボソッと野茂投手がいった言葉。しかし私には、最高にカッコよく間こえました。
  そうです。別に私がやりたいのは、英語をしゃべれるようになることじゃないんです。
  英語は単にツールにすぎなくて、問題は何をやりたいかです。やりたいことがあって、その実現のためのツールとして英語があるだけなのです。英語を使わないとできないことがあるなら、あくまでツールとしての英語の使い方を学べばいい。野茂投手のフォークのような強力な武器(=商品)があるなら、英語なんてできなくたっていいのです。
  こう考えると、結構気楽に海外向けビジネスもスタートできるんじゃないでしょうか。

日本は人口減少社会に突入している。

少子高齢化はますます進み、社会保障費は拡大の一途、消費税も引き上げられるだろうし、政府の借金も今年中には1000兆円を超える。

しかし、ビジネスの眼を世界に広げてみれば、好景気で活気に溢れた国がたくさんある。

しかも、クールジャパンという言葉に象徴される日本のゲーム・漫画・アニメなどのポップカルチャーは、世界から羨望のまなざしで見られている。

国内市場を相手にしていると先行き不安があるが、世界を相手にすると思えば明るい展望が開けてくる。

本書はこんなことを説いているのだが、そこで問題になるのが、言葉の壁。

特に英語をしゃべれないということを理由に、海外に打って出ることに二の足を踏んでいる人はたくさんいるだろう。

しかし、英語を相手とコミュニケーションをとるためのツールと考えれば、英語がペラペラとしゃべれなくても、それほど問題とすべきことではない。

ブロークンで何とか相手に伝わる程度でも良いではないか。

むしろ完璧を求めすぎることによってチャンスを逸してしまうことの方がよほど大きな損失。

「海外でビジネスをするためにはまず英語ができなければ」という固定概念からまず変えていくべき。

つまり、海外でのビジネスの障害となっているのは、「英語ができないこと」ではなく、「英語ができないと海外でビジネスは出来ないと思い込んでいる自分」ということだ。

2012年1月10日 (火)

リンゴが教えてくれたこと/木村秋則

Znp19   当時小学六年生だった長女が「お父さんの仕事」という題の作文で「お父さんの仕事はリンゴづくりです。でも、私はお父さんのつくったリンゴを一つも食べたことがありません」と書きました。これにはズシンと来ました。食べさせたくても一つも実らないから食べさせてやれないのです。
  あのころ、家族はちょっとバラバラになりました。今日一日をどう生きるか、女房も胸を痛めていたことでしょう。私が悪いのです。私がこういう無農薬栽培というものをやらなければ、家族もこれほど苦しむことはなかった。この頃女房に「いつ別れでもいいから」と言ったことがあります。こんなバカと結婚して、このままでは幸せになれないから、再婚してやり直してくれと。
  女房はウンともスンとも言いませんでした。
  何度もやめようと思いました。ところが雪が消えて春が来ると、今年一年やらせてくれないか と女房に言っていました。女房は私が一度言い出したら聞かないことをよく分かっていました。
  これほど家族を苦しめても無農薬をやめなかったのです。
  一度、女房に「これを最後にもうやめよう」と言ったことがあります。それを女房から聞いた長女が「じゃあ、今までなんで我慢してきたの」と問い詰めたそうです。
  そのずっとあとで長女がこう言ってくれたのです。
  「お父さんのやってきたことはすごいこと。答えのない世界でゼロから始めてここまで来た」。
  うれしかったですね。

絶対不可能と言われたリンゴの無農薬・無肥料栽培を成功させ、「奇跡のりんご」で一躍時の人になった木村氏。

その成功までの道のりは決して生半可なものではない。

何がその原動力となったのだろう。

何かを成し遂げて世に成功者と認知されている人に「成功の秘訣」をきくと、「成功するまでやめないこと」と答える人が多い。

確かにその通りで、成功するまでやめなければ、成功するしかない。

或いは一生を棒に振るかだ。

木村氏とて、無農薬栽培が成功したから良かったものの、成功しなかったら単なる偏屈な大バカものである。

常人はこの成功しなかった場合の代償の大きさと成功とを天秤にかけ途中で断念する。

もし続けることができるとすれば、その原動力は本人の強固な意思と信念、と言いたいところだが、これだけでは不十分。

プラス家族の支えが必要。

これは木村氏とて例外ではなかったようだ。

昨年の大震災で「絆」という言葉が広まったが、結局のところ、本人の力以上のものを出させるのは、家族や友人の絆という非科学的、非合理的な世界にゆきつくのかもしれない。

2012年1月 9日 (月)

わが経営に定石なし〈徳増須磨夫追想録〉

Znp19   こうして何年かが経過し、「イノベーション」という言葉を打ち出しても良さそうな環境が整った。1985年頃のことである。徳増は「イノベーティブな雰囲気を創り上げよう」ということを全社員に呼びかけた。「イノベーションが必要だ。イノベーションの気風をみなぎらせよう」という徳増の言葉は、徳増自身が「イノベーション」というカタカナの横文字を使うことを心配した割には、社内に受け入れられた。特に、若い層にはすんなりと受け入れられた。
  「活力ある」、「魅力ある」、「信頼される」の三つをチームカラーとして掲げて、BIG3への道を切り開こうと先頭に立って旗を振る徳増の行動に、いつしか住友海上の社員は「知恵と行動力を武器とする攻めの住友海上」を目指す戦闘集団に生まれ変わりつつあった。(中略)
  こうした中での仕上げの改革は、86年12月に人事考課に加点主義を導入したことである。
  前向きな思考をさらに進めるために、当時の小野田隆・常務取締役人事部長(その後、徳増の後任の社長に就任)が徳増の考えを汲み取って、考課制度の改革を進めた。減点主義から加点主義への転換である。
「チャレンジすれば50点、チャレンジして成果を上げれば100点、いずれもしなければ零点」
  というようなキャッチフレーズを作り、全社員に積極的にチャレンジすることを求めた。

徳増氏が住友海上の社長になった当時の住友海上は業界では5番目の会社であった。

そうした中で徳増氏は、何としても2社を抜き去り3番日の地位を占めること、業界でBIG3になることを目標にし、全社員に号令を掛ける。

当時の住友海上の社員像は、優秀でおっとり型、大きな老舗の坊ちゃんという感じであった。

優等生タイプで知性派ではあるが、モーレツ社員でもファイターでもない。

とりわけ柔軟性への評価が低くなっているとの評価だった。

競争に打ち勝ち、BIG3を目指していくためには、もっと積極性や気迫に満ちた会社にすべきだ。

「競争ばかりがすべてでない」と言っているうちに、いつしか社内の気風が現状維持に傾いていた。

業界の地位はジリ貧になっていた。

住友海上の企業イメージは、時代の大きなうねりの中で、社外から、また社内でもイメージチェンジの必要に迫られていた。

徳増氏はこうした住友海上に根付いた風土を変えるために「イノベーション」運動を起こす。

ここでいうイノベーションとは、「新しいものに取り組む」、「チャレンジする」という社員の意識改革のことである。

徳増氏は社内で「イノベーション」を声高に叫び、先頭に立って、プラス思考の考え方を繰り返し説いたり、ムードづくりをすることに努めた。

そしてその総仕上げとして手を付けたのが、人事考課制度の改革であった。

人事考課は単に社員の給与や賞与を決めるための行事ではない。

最も重要な機能は、「人事考課制度はメッセージである」ということ。

例えば「失敗を恐れずチャレンジする人材を評価する」人事考課制度を作れば、社員には強烈なメッセージとして伝わる。

何しろ、「チャレンジしない社員は給料が上がらない」ということになると、社員はそのことに対して無関心ではいられなくなる。

徳増氏のやってきたことは、会社を変えようとしている人にとっては、大いに参考になる事例である。

2012年1月 8日 (日)

借金バンザイ!/小堺桂悦郎

_ 「月商の三カ月分の預金残高のある方は眠っててもいいです。でも一カ月分もあるかないかの人は、ちゃんと私の話を聞いてくださいね」
  これは、あるセミナーのオープニングでの私の話である。
  私が主演講師ではないセミナーだった。私は何人かの講師の中の一人。
  私の講演のテーマは「借金のドロ沼」。
  100人くらいいた会場のほとんどの人は、「ああ・・・自分には関係ないや」と思っているような感じ。
  ところが、冒頭のひと言をしゃべったとたん、会場の空気がビーンとした。
  「月商の一カ月分の預金だって?何言ってんだ?」
  そんな感じだ。
  だって、もし月商が1億円なら、預金残高1億円って話。
  そんな会社は、なかなかないでしょうね。
  月商の一カ月分の預金残高もない人は・・・って言われたら、そりゃ目の色も変わるってもん。
  じゃあ、月末の預金残高が一カ月分ないってことの意味は?それは、翌月の支払いが、翌月の売り上げが入ってこないと支払いできないってこと。
  どうもピンとこない?
  ん・・・・質問を変えましょう。
  来月一カ月、もし売り上げが一切なかったら、支払いできますか?売り掛けの入金がもしなかったら、それでも家賃やらなにやら払えますか?
  無理?
  そう・・・入ってくるお金を待って、支払いをする・・・そうなんです。
  月末に月商一カ月分の預金がなければ、自転車操業なんですよ。それが自転車操業の一歩目。

小堺氏はここで自転車操業とはどういうものかということをいっている。

例えば月商1億円の会社であっても、月末預金残高が3000万円ということはよくある話。

月末預金残高が月商の3ヶ月分ある会社なんて、中小企業の場合、ほぼゼロに等しい。

これは翌月の売り上げの入金を待たないと支払えないということ。

もし翌月の売り上げがゼロだったら、即倒産ということになる。

そうすると、かなりの会社が自転車操業だと言える。

そして多くの会社が、このような危うい経営基盤のうえに立って営業している。

このことはしっかりと認識しておくべきだろう。

そしてこのお金の流れを止めないために銀行がある。

ところが小堺氏によると、多くの経営者は借金の仕方を知らないという。

だから商工ローンとか、金利の高いところからお金を借りてしまう。

結果、ますます泥沼化してしまう。

本書は、元銀行マンが、融資をする立場から、どのように銀行と付き合ってゆけばよいのかを具体的に述べている。

それにしても、決して倒れることなく、うまく自転車を乗りこなせねばならない経営者は大変だ。

2012年1月 7日 (土)

失敗は予測できる/中尾政之

Znp19   重大事故を調べると、上から下へのトップダウンの過程で起きる動脈硬化よりも、下から上へのボトムアップの過程で起きる静脈硬化の方が、失敗のリスク回避を妨げることが分かる。そして現場作業を外部に委託している場合、正社員は基本的に、現場の状況は分からないまま遠隔操作をしている場合が多い。理想的な組織は、非正社員をも自分たちの仲間として待遇し、彼らの目や鼻がセンサとして働くことを感謝し、システム全体を一緒に守るような組織である。

重大事故が起こったとき、現場で起こっていることをトップが全く把握していなかったということがよくある。

著者によると、トラブルや事故の原因の一つとして、下から上へのボトムアップの過程で起こる動脈硬化があるという。

特に近年、多くの企業は正社員のみでは構成されていない。

正社員以外に、派遣社員、請負社員、期間契約社員、パート、アルバイト、と、いわゆる非正規社員が増えてきている。

中でも、正社員が請負社員に直接、「危ないから注意しろ」と注意したら「偽装請負」として訴えられるからやっかいだ。

そして今や非正規社員の割合は3割を超える。

どの組織にも上下の壁は存在するが、それが非正規社員の増加によって、ますます厚くなってしまった。

しかも、情報は、下の階層からから上の階層へと伝わる過程で変化してしまうことがある。

いわゆる「伝言ゲーム」という現象だ。

そして、今後日本の多くの企業が海外に出て行った場合、今度は外国人労働者との情報の伝達の問題も当然、出てくるであろう。

そうなると、下から上へのボトムアップの過程で起きる静脈硬化の問題はより深刻になって来ることが予想される。

重大事故は企業の存続を危うくする。

企業が今後も生き残っていくためにも、新しい情報伝達の仕組みを構築することが急務だ。

もはや昔のやり方は通用しないということだろう。

2012年1月 6日 (金)

なぜ真のリーダーがいないのか/リー・アイアコッカ

Znp18  言葉は大事だ。20世紀を代表する雄弁家であるウィンストン・チャーチルはこういっている。
  「人間が授かった才能のなかで、雄弁さほど貴重なものはない。たとえ仲間に見捨てられ、友に裏切られ、職場を追われても、言葉をあやつる力をもっている者はいまだ怖れるに足る存在である」言葉は心をかきたてる。信じられないほどの高さまで心を飛翻させる力がある。言葉は恐怖と怒りも引きだす。人びとを地に打ち倒すこともできる。
  真のリーダーは、つねに人の心を奮いたたせる。だからといって、怒りが表現できないわけではない。人びとを動かそうとするとき、心のうちにある悪ではなく、善に訴えかける。可能性を示して人にやる気を出させ、脅したりはしない。ドワイト・アイゼンハワー大統領はこんなことをいっている。
「頭ごなしに命令して人を従わせてはならない。それは暴力であり、リーダーシップではない」

本書の著者、アイアコッカ氏は、フォード社の元社長でありクライスラー社の元会長。

その人生は波乱万丈のドラマに満ちている。

フォード社の社長就任8年目にして過去最高の業績を達成しながら、会長のヘンリー・フォード二世と衝突し、突然の解雇。

一瞬にして大企業のトップから転げおち、職を失うという衝撃的な挫折を味わう。

しかしその直後、破産の瀬戸際にあったクライスラーに社長として入り、危機に瀕していた同社の経営を見事に立ち直らせた。

著者のアイアコッカによれば、本書を書くことになった動機は、アメリカに本物のリーダーがいなくなったと感じたことだという。

アイアコッカはリーダー不在による問題をさまざま具体的に述べているが、驚くことに、ほとんどすべて日本でも問題になっていること。

さて、ここで著者は、言葉の大切さを力説している。

特に人を動かす役割を授かっているリーダーにとって言葉は重要だ。

にもかかわらず、最近の国や企業のトップの言葉の軽さと言ったら、本当に情けなくなる。

特に目立つのが政治家の失言の数々。

それを鬼の首を取ったかのように吹聴するマスコミもマスコミだが、そのような隙を与えてしまう政治家はやはり問題だろう。

なぜならリーダーにとって言葉は唯一と言ってよいほどの武器だから。

リーダーはこの言葉によって人々を感動させ、鼓舞し、勇気を与え、夢を与え、希望を与え、そして動かす。

その言葉の大切さをわきまえ、使うことのできない者は、リーダーとして立つべきではない。

少なくとも、この点で日本のリーダーは米国に二歩も三歩も遅れている。

チャーチルの言った言葉、「人間が授かった才能のなかで、雄弁さほど貴重なものはない」

まさにその通りである。

2012年1月 5日 (木)

「なんでだろう」から仕事は始まる!/小倉昌男

Znp1b_2  ならば社長が何もしなくても会社が動くかといえば、むろんそんなことはない。日々の業務の前提となる原理原則を決めるのは社長の仕事だ。そのときに大切なのは、単に基本的な方針を示すだけでなく、会社としての「理念」を明確に掲げることである。理念というとむずかしく聞こえるが、これは要するに、自分たちの会社がどういう心持ちで仕事に取り組み、いかにして社会の役に立つかということ。別の言葉でいえば、「志」ということになるだろうか。
  会社の価値というのは、この志のあり方で決まると私は思っている。単に多くの収益を上げることが「いい会社」の条件なのではない。もちろん企業は利益を追求する集団だからそれも大事だが、いくらもうけても品位の感じられない安っぽい会社は社会的に高く評価されないだろう。最終的には、志の高さが問われるのである。そして、経営者が会社の志を明確にするのは、世間に対して自分たちの存在意義をアピールすることだけが目的ではない。社員たちが仕事に向ける意欲を高めるためにも、これは絶対に欠かせないものだ。

宅急便を世に送り、福祉の世界に身を投じた小倉氏がここでは「志」の必要性について説いている。

「志」という言葉、いかにも小倉氏らしい。

小倉氏はヤマト運輸の経営者だった時代、宅急便の規制緩和を巡り、旧運輸省、旧郵政省と対立し、官僚を相手に時には過激なまでの意見交換をした。

理不尽な要求に毅然として立ち向かう様子は一貫している。

1979年には創業以来の取引先である三越が、岡田茂社長の就任以後運送費の大幅引き下げ等、理不尽な要求を繰り返す様子に耐えかね、同社に対し取引停止を通告したこともある。

この様子は両社のシンボルマークに引っ掛けて「ネコがライオンにかみついた」として話題となった。

まさに高い「志」の故の行為であった。

それと比較し、今の経営者の器の小ささと言ったら、見ていて本当に情けなくなる。

「志」が必要なのはなにも経営者ばかりではない、

個人も同様にも「志」が必要だ。

会社が利益だけを追求する存在ではないのと同様、それぞれの個人もお金のためだけに働くわけではない。

そういうケースもないわけではないだろうが、ひたすら生活の糧を得ることだけを目的にして仕事をするのはむなしいものだ。

逆に、収入は大したことがなくても、社会に貢献することができれば、それだけで充実感を得られるということが人間にはある。

だから多くの人々が、定年退職後もなんらかの形で地域のボランティアなどにかかわろうとするのだろう。

人間にとって何がつらいといって、自分が何の役にも立っていないと感じるほどつらいことはない。

その仕事を通じて社会にコミットメントして、世のため人のために役立っているという実感が得られたときにはじめて、私たちは働く喜びや生きがいを持つことができる。

それが「仕事の楽しさ」というものではないだろうか。

「志」というとなんだか古臭くて、カビが生えてしまった言葉のように受け止めてしまう人もいるだろうが、今のような時代だからこそ見直すべき言葉ではないだろうか。

「会社の価値というのは、この志のあり方で決まる」と小倉氏は言っているが、

「個人の価値というのは、この志のあり方で決まる」と言い換えても過言ではないだろう。

2012年1月 4日 (水)

衆愚の時代/楡周平

_   思い出すのは、わたしが三十歳頃のことでしたか、毎月集金にやってくる新聞奨学生のことです。元気もいいし、礼儀正しい好青年で、購読料を払う短い時間の中で、たわいもない会話を交わすようになったのですが、ある時「これで、伺うのは最後になります」と言い、希望叶って某有名企業に就職することを告げられたのです。海外に駐在して働くことが夢だったらしく、目を輝かせながら入社後の抱負を語る若者の姿を見ていると、思わず「おめでとう。がんばったね」という言葉が口をついて出ましたつけ。
  いざ会社に入ってしまえば、思い通りに行かぬことも多々あるに決まってます。辛い思いもすることでしょう。だけど、彼には学友たちが楽しい学生生活を送っている四年間、辛い思いに耐え、雑念に打ち勝ったという実績がある。社会人生活を始めるに当たっての基礎なんてものは、充分過ぎるくらいにできている。
  どの世界においても、求められる人材とは、こういう人間なんじゃないでしょうか。

毎年、様々な調査機関が企業が新入社員に求める人材像を発表している。

最近だと、「コミュニケーション能力のある人材」「リーダーシップのある人材」「チャレンジ精神のある人材」等を求める傾向が強い。

しかしその結果を裏読みすると、それだけ求める人材が不足しているということ。

つまり、大学を卒業してある程度の知識を持っていても、使えない人材があまりにも多いという事の裏返し。

もはや、安定した職業なんて存在しない。

日本の産業は益々空洞化していくことだろう。

どんな仕事でも、能力と結果を厳しく問われる時代が来ている。

そのような中で職にありつくのは本当に厳しくなってくる。

それだけに、学生生活で何を身につけるかは重要な課題になってくるであろう。

2012年1月 3日 (火)

ユニクロvsしまむら/月泉博

Znp13   しまむらのパート比率は84%(06年2月期)と業界一高い。そしてこのパート・アルバイトの即戦力化を可能にするのが、独自に整備された「マニュアル」である。
  同社のマニュアルはA4版で全10巻。店舗運営から総務、教育、出店、商品開発等に至るまで、全社員の業務心得とその作業手順が詳細に網羅される。総頁数はゆうに1000頁を超え、ズラッと並べるとその厚さが約1メートルにも及ぶ。
  そのうちの店舗用が、「規則・規程」「レジ・金融・販売管理」「陳列・演出・什器」「資産管理・端末操作」「教育マニュアル」の5巻。誰にでも理解できる平易な分かりやすい言葉で、無駄なく具体的にまとめられており、小売経験が全くない人でも、短期間で一人前の仕事ができるようになる現場のバイブルである。
  ところでユニクロの場合、前述の店舗主導へ移行したきっかけの1つに、「"やや行き過ぎた"硬直的なマニュアルの弊害」(柳井)があった。しかし、しまむらにはマニュアルの弊害は全くないという。なぜなら、しまむらのマニュアルは常に「生きて進化している」からである。
  実際、同社のマニュアルは、いつでも追加や削除が可能なバインダー形式になっている。注目すべきは、パートの提案でこのマニュアルがどんどん改善されていくこと。3年も経てば、中身がガラリと変わるという。

マニュアルという言葉の持つ響きは「マニュアル人間」という言葉に代表されるように、必ずしも良くはない。

「マニュアル人間」といえば融通の効かない人間の代表格のような印象を持たれている。

それが、何も考えずにただマニュアルに書かれていることを実行するだけで、ちょっとイレギュラーなことが起こると全く対応できない人間の事を指しているとしたら、確かにそれはあたっている。

しかしそれは、そもそもマニュアルの使い方を間違っている。

仕事をするに当たり、一番効率的で効果的なやり方というものがある。

通常それは暗黙知として個の中に閉じ込められた状態になっている。

しかしそれではもったいない。

もしそれを皆が同じように出来るようになるためには、文字に落とし込み、皆が共有できるようにする必要がある。

つまり暗黙知から形式知への転換、これがマニュアル化である。

しかし膨大な暗黙知の世界を形式知に転換したとしてもそこには自ずと限界がある。

つまりマニュアルとは不完全なものであり、そのため進化し続けなければすぐに陳腐化してしまう性格を持っているものなのである。

しまむらは、このマニュアルの性格を熟知した上で、うまく業績向上に活用している。

マニュアルを絶えず進化させることにより、社員の育成や業務の効率化にうまく利用している。

マニュアルを批判する人は多いが、その大部分はそれを表面的にとらえてしまっていることによる。

マニュアル化が効果的であることは、しまむらの業績が証明している。

2012年1月 2日 (月)

残念な人の思考法/山崎将志

_  「あなたは仕事で忙しいですか?」「はい」と答えたあなたは、残念なビジネス・パーソンである可能性が高い。なぜなら、できるビジネス・パーソンは例外なく余裕があり、しかも楽しく仕事をしているからだ。なぜ、そんなに違いが歴然となるのかといえば、残念なビジネス・パーソンが、人から与えられた目標の達成に向けて他人のペースで仕事をしているのに比べ、できる人は、自分が決めた目標を達成するために、自分のスケジュールで仕事を進めるからである。
  時間の使い方を自分自身で決めていると、時間の使い方にムダが生じず、しかも仕事そのものが楽しくなる。反対に、他人に時間の使い方を決められていると、ムダな時間が多くなり、しかも仕事は楽しくなくなる。

「忙しい」を口癖にしているビジネスパーソンは多い。

中にはそれを挨拶言葉のように使っている人もいる。

「お互い忙しくて何よりです」と。

しかし、問題は「忙しい」の中身である。

つまり、仕事の優先順位を決め、効率化を図り、無駄な仕事は削除し、それをやった上でもなお忙しいのか、

それとも、仕事の効率化や削減などは全く考えず、ただ言われたことを言われるままにやった結果として忙しくなってしまっているのか、

この点をしっかり区別して見ていく必要がある。

つまり仕事を主体的にやっているかどうかということ。

そして残念なことに後者のタイプが大部分である。

そしてそのような人に限って、そのことを指摘すると、感情的に反発する。

結果、変わらない。

同じことの繰り返しというスパイラルに陥ってしまう。

一日は24時間、これは全ての人に平等に与えられている限界である。

しかし、その限界のある時間に振り回されるのか、時間を主体的にコントロールするのかで忙しさに違いが生まれる。

人間の知恵に限界はない。

この無限の資本である知恵を使おうとしない人を残念な人というのであろう。

2012年1月 1日 (日)

理屈はいつも死んでいる/高原慶一朗

Znp17   自分探し症候群とでもいうべき傾向ですが、しかしはっきりいえば、この世に天職などというものは存在しません。初めから、その人に適した仕事なんかないのです。
天職や適職というのは、目の前の仕事にひたむきに全力投球しているうちに自然に見出すもの。あらかじめ存在するものでなく、少しずつ形成していくものなのです。(中略)
その意味で、天職というのは「後ろにできる道」なのです。歩く前方にあらかじめできている道筋ではなく、歩いたのち振り返って、ああ、これが自分の歩むべき道であったのだと事後確認する。
  それがほんとうの天職であり、適職であると思うのです。歩き出す前に見出すものでなく、歩いているうちにおのずと近づいていくものなのです。
  ですから、若い人が働き出す前から、自分に合った仕事がないと悩むことは、ほとんど意味がなく、いくら探しても見つからないのは当然なのです。
  では、どうしたらいいのか。その仕事が自分に向いているかどうか、そういうことわきはとりあえず脇にどけて、否も応もなく、いまいるその場所で、目の前のすべきことに全力投球してみることです。
  こんなことは三時間も辛抱できないと思ったら、そこで踏ん張って、なんとか三日がんばってみる。三日がんばったら、三週間辛抱してみる。三週間がんばったら三カ月。三カ月辛抱したら三年・・・・・。
  そうして、日々の仕事のなかで苦しさや無力感を味わい、乗り越えがたい高い壁に触れているうちに、しだいに仕事のおもしろさ、楽しさがわかってきて、ほんとうに自分のやりたいことがだんだんと浮かび上がってくるのです。
  仕事は多かれ少なかれ、すべてミスマッチです。初めから百パーセントマッチしている仕事など存在しません。だからまず、仕事を自分に合わせようとするのではなく、仕事に自分を合わせる努力をしてみることが大事。そのうえにこそ天職は構築されるのです。
  私の天職はいまの職業です。しかし、これからまた、別の新しい仕事に出合うかもしれません。自分のすべてを投げ込んで惜しくない、価値ある何かに明日にもめぐり合うかもしれない。七十歳を過ぎたいまでも、私はそう思っています。
  つまり、働くこと、それ自体が永遠の自分探しであり、仕事をするというのは、生涯をかけて自分の可能性を更新しつづけていくことなのです。

『天職というのは「後ろにできる道」』

これは至言である。

天職とはまさにそのようなもの。

「青い鳥症候群」というのがある。

チルチル、ミチルは、幸せの「青い鳥」を探しに旅をしたが見つからず、がっかりして家に帰ったら、「青い鳥」は家で飼っていたキジバトだったことを知るという物語がある。

同様に、自分にあった天職は何だろうと探し回った挙句、ふと立ち止まって考えてみたら、今やっている仕事、または元々やっていた仕事がそうだった、といったもの。

しかし、「青い鳥症候群」だったらまだよい。

何故なら、回り道をしたものの、最後にはこれが自分の天職だったんだ、と気づけるのだから。

問題は、一生自分の天職を探し回り、何も見つけることができずに一生を終えること。

そうならないためには、今、目の前の仕事を全力でやってみること。

何故なら、『天職というのは「後ろにできる道」』なのだから。

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