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2012年2月の29件の記事

2012年2月29日 (水)

なぜ男は暴力をふるうのか/高井高盛

Znp14   人間は、前途が不透明になったとき不安にかられる。そして、不安になったり追いつめられると、それが引き金になり攻撃に向かうとされている。攻撃は防御の一種でトカゲの尻尾切りと同じであり、攻撃を自分に向けるのが自殺であり、外に向けるのが暴力であり殺人である。
  こうした他者への攻撃を、どのように捉えたらよいのだろうか。一つの視点として、自己増殖してやまない科学技術の進歩と、二百万年前と同じ構造をもつ人間の脳とのミスマッチと考えることも可能である。すると、それが自己責任だけでは片づけられない問題であることに気がついてくる。つまり、新しい時代にふさわしい国の文化のあり方が問われているのである。それは、壊れかけている古い社会秩序をどう構築するかという問題である。

本書は、「なぜ男は暴力をふるうのか」という命題に対する、動物的な側面を下敷きにしたアプローチである。

人間を生物学的側面から見ることによって、心の奥にひそむ暴力について考えようとする試みである。

動物は追い込まれると攻撃的になる。

同様に、人間も追い込まれると攻撃的になる。

その攻撃は内側と外側に向けられる。

内側に向けられた攻撃が自殺であり、外側に向けられた攻撃が他殺である。

今、我が国の自殺者数は毎年三万人を超える。

しかも、他殺による死者の数はこれに比例するという識者もあらわれている。

この数字は、戦時における一個師団の戦死者数以上であり、普通ではない。

理由は一様ではないが、これを大きく捉えると社会的動物としての人間が適応への努力にもかかわらず、時代の変化についていけず不適応を起こしたためと推察することができる。

今は変化の激しい時代である。

それ故に、多くの人がそれについてゆけず不適応を起こしている。

今後益々、そのような人は増えてくるのではないだろうか。

そうすると、それはある時点で内と外への攻撃となって現れる。

そのことを考えると、ちょっと怖くなってくる。

2012年2月28日 (火)

日本に国家戦略はあるのか/本田優

Znp16   中曽根氏は自らの著作で、「日本は伝統的に国家戦略が欠落してきた」との見方を示し、特に戦後については「敗戦と米占領政策の影響を受けすぎて、ややもすれば自主性の欠けた大国依存型の功利的国策から出発し、その延長線で現在も自らの国家戦略が脆弱な状況で推移している」と指摘している。
  この点について、さらに筆者とのインタビューで、こう説明している。
  「日本に欠落しているのは、国家の主体性という考え方。一つには、国家の主体性と言うと、戦前の軍国主義の時代の影響もあって、国家主義の右翼的発想ととられた。
  もう一つは、冷戦下で日本は米国体系に入り、米国に依存した。政治とか安全保障の面では、日米安保条約というもので、自分で自分の体を縛っていた。したがって、国家戦略的なものを公に持ち出すことを怠った」

日本には国家戦略がないとよく言われる。

現に、著者が防衛大学校の戦略論の専門家の一人と話していたら、興味深い事実を教えてくれたという。

防衛大学校には戦略全般や、米国、ロシア、中国の戦略の専門家はいるが、日本の戦略についての専門家がいないのだという。

その人は「日本の戦略を研究したら、必然的に政府批判になってしまいますからねえ・・・」と言ったという。

日本に国家戦略が欠落していることを指摘せざるを得ないから、ということらしい。

国家戦略がないなんてこと、独立国家であれば考えられないこと。

どうして戦略なき国家になってしまったのか。

恐らく、過去、軍部の独走によって悲劇的な戦争に突入してしまったことから、「戦争」とか「戦略」という言葉そのものにアレルギー反応を起こしてしまうということが戦後長く続いたからではないだろうか。

しかし、よくよく考えてみたら、戦略的思考ができなかったからこそ、軍部の独走を許してしまったのではないだろうか。

戦略的思考ができたら、勝てない戦争、無意味な戦争はしないはずである。

これから日本が生き残っていくためには国家戦略がどうしても必要になってくる。

そろそろ、戦略アレルギーから卒業する時ではないだろうか。

2012年2月27日 (月)

ウェルチ リーダーシップ31の秘訣/ロバート・スレーター

Znp1a  「組立ラインの人たちの目の前に、二つのレバーを取り付けた。ひとつは、ラインを停止するレバー。もうひとつは、完壁な出来だと満足したときに初めて、部品を次の工程に送るレバーである。ラインの作業員は突如、品質に関する最終権限を与えられたのである。このやり方を提案したとき、作業が混乱する、生産ペースが落ちると言って、鼻で笑う者もいた。しかし、その後どうなったか。品質は飛躍的に向上し、ラインはそれまでより速くスムーズに流れるようになった」

この事例は権限委譲がいかに大事かということを示している。

マネジメントがうまくいかない理由の一つとして権限委譲がうまくいかないことがある。

管理職がいつまでも自分の仕事を手放さないことが原因だ。

その言い分は、「任せられないから」ということ。

そしていつまでも仕事を抱え込む。

結果として、ますます管理職は仕事が忙しくなる。

中には忙しぶっている管理職もいる。

忙しいということにのみ、自分の存在理由を見いだしているような輩だ。

しかし、任せられるかどうかは任せてみないと分からない。

実際、任されれば人間、自覚が生まれ、これまで以上の力を発揮する人はたくさんいる。

これは実際に、自分の関与先をみているとよく分かる。

多くの管理職が忙しいのは、権限以上がうまくいっていないから、このことに尽きる。

これは上司にとっても、部下にとっても、機会の損失につながる。

2012年2月26日 (日)

政治家の殺し方/中田宏

Bt000014772200100101_tl   利権のあるところにはら、甘い蜜を吸おうという人々が集まってもいる。そこに無造作に手を突っ込んだのだからたまらない。蜂が巣の周りをブンブン飛び回るように反撃を食らうのは当然だった。というか、いくら汚い政治の世界とはいっても、ここまでとは思ってもみなかった。
  改革をやる以上、恨みつらみも買うわけで、そういう意味では脇をしめて行動するようにしていたが、もっと用心すべきだった。とはいえ、「政治とは汚いものだ」と思い、返り血を浴びることに開き直っている自分もいた。そんな私に降りかかったのが、スキャンダルの嵐だったのである。
  私を恨んでいる勢力とは何か。代表的なものは、建設業界、公務員組織、暴力団がらみの風俗業界などだ。それこそタブーといえるこの3つの利権構造に手をつけたために、私は彼らから恨まれることになった。

37歳という若さで横浜市長となった中田氏。

ある日、突然襲ったスキャンダルの嵐。

いったいなぜそのようなことが起こったのか?

裏には何があったのか?

「政治家を殺すのに刃物はいらない。スキャンダルをでっち上げればいい。」と中田氏は言う。

「火のないところに煙は立たない」とよく言うが、「火のないところでも煙は立つ」という実例であろう。

建設業界、公務員組織、風俗業界、これらはすべて利権の温床になっているということは誰もが知っている。

中でも公務員組織の腐敗ぶりは、横浜市だけではないだろう。

今、話題になっている大阪市ももちろんそうだし、地方になればなるほどその腐敗ぶりは目に余る。

ところが、ほとんどの市や県の首長は手をつけようとしない。

やはり、彼らを敵に回すと中田氏のようになってしまうことがよくわかっているからだろう。

今、大阪市の橋下市長が労組ともめている。

少々やり方が過激なところがあるが、ああでもしなければあの組織は変わらないのではないだろうか。

2012年2月25日 (土)

キャリアをつくる9つの習慣/高橋俊介

15245_l   プロフェッショナルとサラリーマンの違いは何かといえば、それは仕事を通じて価値を生み出し、それを顧客や社会に提供することを常に意識しているかどうかの差だ。自分の仕事が誰にとってどんな意味をもつのかなどということには思いを馳せたこともなければ、自分がどんな価値を提供できているかにも無頓着。ただ、上司から言われたことを無難にこなしているだけ、そういう人を指してサラリーマンと呼ぶのである。
  では、スペシャリストというのはどうだろう。自分の専門分野に関してはコミットメントと自信があるというスペシャリストは、一見するとプロフェッショナルのような気もするが、価値提供ということに対して自覚的でなければ、やはりプロとはいいかねる。

ここではプロフェッショナル、サラリーマン、スペシャリストの違いについて述べている。

大きな違いは顧客への提供価値を常に意識しているかどうかという点。

この点から考えると、私達が普段「プロ」と言っている人の多くは、実はスペシャリストであって、プロフェッショナルではないといえる。

たとえば、この道一筋の頑固職人。

彼らは顧客への提供価値を常に考えて仕事をしているわけではない。

あくまで、自分の仕事に対して強いこだわりがある人たちだ。

このような人を「プロ」と表現することがあるが、そうではなく、あくまでそれはスペシャリストだと言える。

まして、多くのサラリーマンは、顧客への提供価値を絶えず考えて仕事などしていない。

上司から言われたことをただやっているだけだ。

会社という組織の中で上司がいないのは社長以外はいない。

社長以外はすべて上司がいる。

しかし、たとえ上司からの指示命令であっても、自分なりに顧客への提供価値を主体的に考えて仕事をしていれば、それはプロフェッショナルといえるのだろうが、なかなかそのような社員はいない。

かつて日本はサラリーマン天国といわれた。

しかし、これからの時代はどうなってくるのだろう。

恐らく、誰でもできるような単純な仕事はどんどん海外に流れていくだろう。

それこそ、主体的に顧客への提供価値を考え、それを形にできるプロフェッショナルがこれらかは求められてくるのではないだろうか。

2012年2月24日 (金)

使えるマキャベリ/内藤誼人

Znp17   一軍の指揮官は、一人であるべきである。指揮官が複数の人間に分散しているほど、有害なことはない。それなのに、現代(十六世紀)では、国家はこれとは反対のことを行っている。行政面にいたるまで、複数の人間にまかせるという有様だ。結果は、実害をともなわずにはすまない混乱である。ゆえに、わたしは断言する。同じ権限を与えて派遣するにしても、二人の優れた人物を派遣するよりも、一人の凡人を派遣したほうが、はるかに有益である、と(『政略論』)(中略)
  ミシガン州立大学のノーバート・カー博士は、75名の大学生を集めて、1人で、または2人でペアを組ませて、ポンプを使って空気入れを行う作業をやらせてみた。
  この実験では、350ミリリットルの空気を入れれば成功ランプがつくことになっていたのだが、1人きりで取り組んだ場合には、88・9パーセントの人が成功したという。それだけ頑張ったのだ。頼れる人がいないのなら、自分で頑張るしかない。
  ところが、ペアでやらせた場合には、75パーセントしか成功しなかったそうだ。ペアの人が一生懸命にやってくれれば、自分はそんなにマジメにやらなくてもよい、という意識が働いて、お互いに手を抜いてしまったのである

いわゆる集団的手抜きという現象。

これはあらゆる場面でみられる。

特に、日本人の場合、決定権者がはっきりせず、責任の所在があいまいということがよく起こる。

集団指導体制といえば聞こえはよいが、結局、誰も責任をとらない、誰も決めないということである。

逆に、今、企業の中でも業績が伸びている企業は、ワンマン経営者が君臨している場合が多い。

アップルのジョブズ氏がそうだったし、日本のユニクロの柳井氏やソフトバンクの孫氏もそうだ。

経営者の顔がはっきりと見える企業は決まって業績が良い。

逆に、業績の悪い企業は決まって経営者の顔が見えない。

そして、最も顕著なのは政治の世界。

日本の政治はトップの顔が見えない。

一様、トップとしての首相がいるのだが、誰もドジョウがリーダーシップをとっているとは思っていない。

典型的な集団指導体制である。

そして、結果として、何も決まらないということが起こる。

これがダメだということは、はるか五百年前にマキャベリが言っていることである。

2012年2月23日 (木)

あの頃日本は強かった/拓植久慶

Znp11   日露戦争における日本の頭脳は、誰が何と言おうと児玉源太郎大将ーー参謀次長である。
  内相兼台湾総督の地位から、格下の参謀次長に就いたのは、ただロシアとの戦争に勝つため、という一言に尽きた。(中略)
  児玉の立案した計画は、宮中での御前会議で一人の反対もなく、すんなりと承認されている。しかしながらより重要なのは、戦争が長期化した場合の対処方法であろう。児玉は早くもこの時点で、アメリカの調停を依頼すべき、と主張したのだった。(中略)
  驚くべきことは、戦争指導に当たる児玉自身が、まだ一発も双方が銃火を交えないうちに、もう終戦を考えていた点だろう。後世の日本の軍人ーーとりわけ政治に絡んだ人たちには、全く見られない先見性であった。

日露戦争で日本がロシアに勝利したことは奇跡だと言われている。

日本は圧倒的な軍事力で勝ったわけではない。

もしあの戦争が長期化していれば日本は敗れたであろう。

児玉は明治38年3月の奉天会戦後、東京に帰って講和の進捗状況をたしかめに出かけている。

日本陸軍が満洲において限界点に達したのを、彼は百も承知していた。

日露戦争を通じて、児玉の戦略眼は多くの分野で発揮されれいるが、その最も顕著なものは、この和平工作を早い段階でスタートさせたことだと言える。

もし旅順での苦戦が明らかになってからだとしたら、後手を踏んだであろうと言われている。

この戦争に勝利したのは、「このタイミングを逃したら、もうチャンスは二度と来ない」という落としどころを正確に見極め、絶妙なタイミングで戦争を終結させたからに他ならない。

「最初から、この戦争をどのように終結させるかを考えて戦争をはじめる」

「始めるからには、終わらせなければならない」

このあたり前のことをきちんと考えられるかどうかであろう。

残念ながら、昭和の軍人にはそれがなかった。

だから、あんな無謀なことをしてしまった。

そして、今もそのように考えることのできる指導者は少ないのではなかろうか。

なるほど、今は軍事的な戦争が起こる可能性は小さい。

しかし、経済戦争は今後ますます激しくなってくるであろう。

その時、日本の指導者はちゃんと落としどころを見極めた交渉ができるだろうか。

「あの頃日本は強かった」、でも今はどうなのだろう?

歴史に学んでほしいものだ。

2012年2月22日 (水)

キャリアデザイン入門/大久保幸夫

Znp18  少々荒っぽく聞こえるかもしれないが、最初につく職業が何であるかはそれほど大事ではないのだ。大学時代に「すごくやりたい!」と思ったことでも、社会に出てみると数年以内にはすっかり変わってしまうことが往々にしてあるからだ。むしろ、初級キャリアは、「筏下り」の時期なので、自分が鍛えられる会社=「激流」を選ぶことのほうが大事なのだ。激流か否かは30歳前後の社員を見ればわかる。成長していると顔に充実感があふれる。忙しくても顔に覇気がある。そして激流企業は、辞めた人もさまざまな転職先で活躍しているものだ。「迷ったら激流を選べ」l私は常に大学生にはこのようにアドバイスしている。
  やりたいことが見つからないからといって、立ち止まってしまうことが最も悪い選択なのである。

近年、キャリアデザインへの関心が高まっている。

昔は一つの会社に就職すれば一生面倒をみてくれたわけだから、それほど個人のキャリアについて考える必要はなかったが、今はそうではない。

これからは、会社の寿命よりも個人の職業人生の方が長いということが起こるであろう。

年金だって、今の高齢者のようにもらえない可能性が高い。

そうすると、個人が主体的にキャリアデザインしていかないと幸せな人生を送ることもできない。

ところが、では個人のキャリアをどのようにデザインしていったらよいのか。

これは難しい問題である。

本書の中で大久保氏は、個人のキャリアをデザインするプロセスの中で、30代半ばまでが「筏下り」、そして30代半ばからが「山登り」のイメージだと言っている。

30代半ばまでは、そもそも何が自分に向いているのかさえもはっきりしない。

仮に、「自分にはこれが向いている」「これをやりたい」と思っていても、浅い経験からでてきた思いなので、ともすると思い込みにすぎない場合がある。

だとすれば、流れに身を任せてみるのもよいというのである。

「筏下り」のイメージである。

そしてそのなかで、次第に自分の特性や向き不向き、そしてやりたい事がはっきりしてきたら、今度は主体的に「これをやろう」と決めて一心不乱に前に突き進む。

つまり、「山登り」のイメージ。

このように言っている。

そして、大学を卒業してはじめて就職する時は「筏下り」の時期なので、はっきり言って仕事は何でもよい。

あえて言うならば激流企業の方がよいと言っている。

激流に身を任せて必死に漕いでいるうちに、新しい自分を発見できるかもしれないというのである。

少々乱暴な考え方のように感じるところもあるが、案外核心をついているのではないだろうか。

2012年2月21日 (火)

プロジェクトXリーダーたちの言葉/今井彰

Znp14 「人材を育てる方法は、ただ一つ。仕事をさせ、成功させることである。成功経験が人を育てる。さらに大きな仕事をさせる。人と仕事の美しい循環を成立させることである」

「チームワークの要件は、目的に対する共感、誇りと恥の意識である。過度の功名心・功名の独り占め意識は、チームワークの大敵である。抜け駆けの功名では、困難な仕事は達成できない」

「同じ性格の人たちが一致団結していても、せいぜいその力は『和』の形でしか増さない。だが、異なる性格の人たちが団結した場合には、それは『積』の形でその力が大きぐなるはずだ」

「チャンスは逃がすな。まず決断をせよ。石橋を叩くのは、それからである」

「作る人は、良い製品・人に喜んでもらえる製品を作る為に魂を込める。良い品質は、作る人の魂の証である」

「人間は一人一人の許容の幅が異なるのに、一定の型にはめて管理すればトラブルが起こる。主体性を認めて、理屈に合う型ならば理解を得られる。あとは『異質の協力』や。同じ人間が何人いても、こういう探険のような場では役に立たんから」

「個性は、変えられない。能力は、変えられる」

「もっと能率よくやりなさいよ。能率というのは『目的を果たしながら、もっとも要領よく手をぬくこと』である」

「人にとって最も恐ろしいのは、惰性で日を送ることである。向上心があれば、飽きることがない。仕事・生活の中に、向上の道を残さねばならない。向上を求めねばならない」

上記は、昭和32年の南極越冬隊の隊長、西堀栄三郎の言葉。

これらの言葉、あらためて解説する必要もないほど物事の核心をついている。

そして、言葉そのものに説得力がある。

やはり、リーダーは言葉を持たねばならないということであろう。

2012年2月20日 (月)

強い社員の育て方/小山昇

51mhubmd34l__sl160_   社員は、「言われたことをやればいい」のに、素直な心を持たぬ社員は、それができません。「守破離」の「守」さえままならないのに、「破」を実行しようとする。
  社長が決めた「方針」は、社長自らが試行錯誤の末に成し得た「成功体験」をベースにしています。それに対して、社員にはそこまでの経験がありません。ならば、社長の方針に疑問をはさまず、まず実行することが大切です。
  どうして「それ」をするのか。どうして「そう」するのか。その「理由」を深く、つぶさに考える必要はありません。
  どうして数字の「1」は「1」と書くのか。そんなことをいくら考えても、時間のムダ。社員は、社長の教えられたとおりに実行するのが正しい。形から入るうちに、おのずと、その意味に気づけるようになります。

本書は「日本経営品質賞」「経済産業大臣賞」などの受賞歴を持つ、株式会社武蔵野の社長、小山昇氏の著書。

自らの成功体験をもとに、数多くの中小企業に経営サポート事業を展開している著者が、社員を育てる評価制度等について論じている。

ここで小山氏は、社員は「言われたことをやればいい」と言っている。

この言葉だけ読むと、「なんと傲慢で思い上がった社長だろう」と思ってしまう。

しかし、これは意外と大事なことではないかと思う。

というのは、多くの場合、「素直にまず実行してみる」というステップを踏まなければ、次のステップに進むことはできないからである。

スポーツや芸術の世界でも功成り名を遂げた人は、素直さという共通項を持っているものだ。

「何でも疑問をもつ」ということは大事なことだが、かといって、すべてのことに疑問ばかりを持っていては、一歩も前に進めなくなってしまう。

最近よく、「自律的社員」の育成が叫ばれているが、この点についても私は少し違った考えを持っている。

私の関与している中小企業に限って言えば、自律的社員など皆無である。

むしろ大事なことは社長のいうことにまず素直に従うこと。

こちらの方が中小企業ではよほど重宝される。

そして、そのような社員がやがては優秀な社員に育っていく。

まさに、「守破離」を地でいくこと。

人が成長する上で、これが王道ではないだろうか。

2012年2月19日 (日)

ThinkPadはこうして生まれた/内藤在正

4344998065  大和研究所は、ThinkPadの唯一の開発拠点です。その点はIBMでもレノボでも変わりません。その中で、私もそうですが、エンジニアがこの買収を前向きにとらえられたもう一つの理由がありました。
 それは少し時間がかかって確信できたことですが、レノボになればIBMの時代以上にエンジニアとしてのパワーが発揮できると考えたからです。これまでIBMがアドレスしてこなかった分野にも展開ができる、新たなチャレンジができると考えたのです。
 IBMはメインフレームを中心として展開する巨大なITカンパニーであり、大和研究所は、その一事業部にすぎません。それに比べてレノボはPC専業メーカーですから、同じくグローバル企業ではあっても、PC部門の置かれる位置づけは自ずと違ってきます。
 IBMのトータル・ビジネスの中で、PC事業がいくら頑張っても、逆に業績が悪くても、IBM全体に対する影響度は高くはありません。ThinkPadがいくら売れても、おそらくIBMの株価は大きくは変わりません。レノボであれば、そこが全く違うはずです。ThinkPadの業績は、きっと株価に反映すると思えました。主力事業になるからです。
 実際に、PCの開発に投入される研究開発費はレノボになって大幅に増加しました。
 IBMに比べ、レノボのほうが、PC事業部門の主張を通しやすいのも事実です。自分のビジネスが会社のコア・ビジネスであるということ、主流にいるということは、働くうえで大きな喜びになると知りました。より大きな意欲が湧くものなのです。
 その点を如実に嗅ぎ取ったから、エンジニアたちも、自分たちが会社を成長させるためのキーを握っていると考え、オーナーシップが高まり、さらに皆がモチベートされたことは確かです。

一つの事業部門が他社に買収されたとき、買収された側の社員はどんな気持ちだったのだろう。

そんな素朴な疑問と好奇心から本書を読んでみた。

ThinkPadは私が永年愛用しているPCである。

その堅固さやトラックポイント、キーボードのクリック感が自分にはピッタリとあっており、ずっと愛用していた。

それだけにIBMがPC部門を中国企業レノボに売却する、というニュースが流れたとき、正直ショックだった。

いち消費者でさえこんなにショックを受けたのだから、そこで働く社員はさぞかしショックだったのだろうと想像した。

ところが、本書を読んで意外に感じたのは、中国企業レノボに買収された大和研究所の社員のモチベーションは下がらなかった、むしろ上がったということ。

理由は、それまで自分たちの事業部門は傍流であり、その働きが社内であまり評価されなかったのが、買収されると主流になり、正当に評価され、自分たちの主張も通りやすくなったから、というもの。

これは、人間のやる気はどこからくるのか、という疑問に対する一つの解答を与えてくれる。

こう言っては何だが、IBMの社員と、レノボの社員とでは、やはり前者の方がステータスを感じられる。

しかし、人間のやる気の源泉は会社のブランドや見栄えだけではない。

むしろ自分のやりたいことができること。

そして、人から正当に評価され認められること。

これらが人のやる気を喚起する。

ThinkPadはずっと日本の大和研究所が研究開発しており、それはレノボに買収されてもまったく変わっていないという。

そして、ThinkPadは独自のブランドを築き上げている。

それを読んで少し安心。

今度買い換えるときにはまたThinkPadを買おうと思ってしまった。

2012年2月18日 (土)

3つの原理/ローレンス・トーブ

_3   「社会的チームワーク」の精神を反映して、日本の政府官僚と大企業は、手に手をとって日本のビジネスや経済力の向上のために働く。彼らは政府主導で計画された貿易政策や産業政策を自由市場の流れに合わせて調整すべく協力する。政府と産業の双方ともに、一般大衆の習慣や姿勢と調和をとりながら、全員が共有する国家目標に向けて進む。ゆえに 「日本株式会社」と呼ばれるのだ。
  こうしたチームワーク精神が日本を経済的なスーパースターへと押し上げた。この見方に賛意を示さない者は少ないだろう。日本の労働者カーストの世界観とチームワーク精神は次第に弱まりつつあるが、それでもまだまだ日本の勢いは強い。また、日本は極度に「徹底した個人主義」や、チームワーク無視の態度、敵対的な関係、弁護士や訴訟の重視など、アメリカに代表される「商人の時代」の特質を受け容れることはないだろう。日本はいまもチームワーク精神の模範であり、その深化の先頭に立ちつづけているからだ。

人類の歴史を動かしてきた大きな原理を「性」「年齢」「社会階層」の変化であるとし、本書は、この3つの原理にもとづく理論によって、人類の過去・現在・未来を大胆に分析し、予測している。

あまりにも大胆すぎて、ついていけない面もあるが、それなりに面白く読める。

その中で、時代は「精神・宗教の時代」「戦士の時代」「商人の時代」「労働者の時代」へと進み、未来は再び「精神・宗教の時代」となるであろうと予測している。

そして「労働者の時代」のスーパースターが日本だったと言っている。

しかし、ここであげられている官民一体となった「日本株式会社」、そしてチームワーク精神、これらは高度成長期の日本であり、今は昔といった感がある。

もしかしたら日本が今おかしくなっているのは、本来の日本の強みを捨ててしまったからではないだろうか。

2012年2月17日 (金)

ぼくらの頭脳の鍛え方/立花隆、佐藤優

Znp14 立花
  佐藤さんがギリギリのところでこらえることができたのは、やっぱり読書体験があるからですか。一種の擬似体験というか。
佐藤
  そうです。読書による擬似体験の力はものすごく強い。あの檻の中で耐えられたのは、ソ連崩壊のときにいろんな人間模様を見た経験と読書による擬似体験、その二つがあったおかげです。既視感があったんです。たとえば供述調書を見る。そうすると、カレル・チャペックの小説『山淑魚戦争』(岩波文庫)なんかが思い浮かんでくるんです。物語の中で山淑魚が異常に発展して技術的な能力を身につけていくんだけれども、音楽、文学、絵画、芸術を一切解しない。そういう山淑魚のイメージと官僚たちが重なってくる。書籍の力というのはすごい強いんですよね。

本書は立花隆と佐藤優との読書についての対談。

「知の巨人」立花隆と「知の怪物」佐藤優が古典の読み方、仕事術から、インテリジェンスの技法、戦争論まで、知性の磨き方を余すところなく語り合っている。

ここでは、2004年に佐藤氏が逮捕されたとき、同じ容疑で逮捕された東大法学部卒のキャリアは容疑を認めてしまったのに、佐藤氏はどうして最後まで耐えられたのかというところに話が及ぶ。

佐藤氏の答えは「読書による擬似体験」があったから、というもの。

これはどういうことなのか。

推測するに、擬似体験とは、本来の自分から幽体離脱して、検察官から尋問されている自分を、上から見ているような状態なのではないだろうか。

検察官から問い詰められている自分がいる一方、それを上から、冷静に、時には第三者的に見つめている自分がいる。

だから、冷静になれるし、厳しい状況にも耐えられる。

こんなイメージだろうか。

結局、自分を客観視するとはこういうことではないだろうか。

それが読書によって得られるとしたら、本代など安いものだ。

2012年2月16日 (木)

世界を知る力 日本創生編/寺島実郎

Znp14   スペイン・バルセロナの「カタルーニャ国際賞授賞式」の場で、作家の村上春樹氏が受賞記念のスピーチをした。(中略)
  今回の福島の原子力発電所の事故は、われわれ日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害です。しかし今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。わたしたち日本人自身がそのお膳立てをし、みずからの手で過ちを犯し、みずからの国土を汚し、みずからの生活を破壊しているのです。そして「どうしてそんなことになったのか」と自問し、次のような答えを導き出した。
  答えは簡単です。「効率」です。
  つまり、便利で快適な生活を求めるあまり、原子力推進派の「『夏場にエアコンが使ふたえなくてもいいんですね』という脅し」に屈し、「地獄の蓋を開けてしまった」のだと。
  わたしたち日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の個人的な意見です。
  私たちは技術力を総動員し、叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求するべきだったのです。

3・11は、私たち日本人にとって多くの点でターニングポイントになる出来事になると思う。

「核」対する考え方も変えた人が多かったのではないだろうか。

これまでは「核」を平和利用するのであれば推進してもいいのではないかという「核容認派」の多くが、「核と名がつく以上、戦争目的であろうが、平和利用であろうが、とにかく核は反対」という意見を持つようになったのではないだろうか。

かくいう私自身も、これに近い。

やはり、3・11以前は、何となく「核」は必要ではないだろうか、と、漠然とではあるが考えていた。

ここで村上氏が問いかけているのは「効率」という名のもと、私たちは「核」に魂を売り渡したのではないかということ。

辛辣だが、非常に考えさせられる言葉だ。

2012年2月15日 (水)

続ける力/伊藤真

Znp2d   人間は誰もが必ず死ぬという「結果」がわかっているからといって、結果どおりに早く死んでしまえばいい、とは誰も思いません。子孫を次世代に残すという生物としての機能を果たし終えたあとでも、まだ多くの人間には命が残されています。
  このように考えると、人が生きることの本質は、結果を残すことにあるのではなく、コツコツと時間をかけて生命現象を継続させていく、そのこと自体にあるとはいえないでしょうか。人間は「結果」ではなく「プロセス」に意味を見出さずにはいられない存在なのです。
  「続ける力」とは、そんな根源的な充実感・達成感を享受するために、私たちすべての人間のDNAに刷り込まれた力なのだと、思わずにはいられません。

結果主義ということばがある。

きちんとした結果をだしたのであれば、プロセスなどは関係ない、問わない、といったもの。

確かに、仕事でも何でも、きちんとした結果を残さなければそれは自己満足だ、という考え方はできる。

しかし、本当にそうなのだろうか?

例えば、「1億円稼ぐ」という結果を残すために、ある人はワンクリックで株式の売買を行い、それを達成する人がいるかもしれない。

一方、1日1万円の仕事を何十年も続けて、やっとの思いで1億円を稼ぐ人もいるかもしれない。

この場合、結果は1億円で同じなのだから、同じ価値だと見るべきだろうか?

私は違うと思う。

同じ1億円でも重さが違う。

それは、何かを成し遂げようとするときのプロセスに意味があると思うから。

現代は効率を重んじる社会。

しかしここにとんでもない落とし穴が隠されているように思えてならない。

2012年2月14日 (火)

決断できない日本/ケビン・メア

Znp14   政治とは本来、ぶつかりあう価値を調整し、利害のせめぎ合いにぎりぎりの折り合いをつけて、最終的な決断を下す営みですが、日本の政治エリートはいつの間にか、そうした本来の仕事を棚上げする傾向が出てきた。決断しなければ、責任を取る必要がないからです。責任を取りたくないために決断しないという悪しき文化は、現代日本の政治社会の深刻な病巣となっていると言わざるをえません。
  「和をもって貴しとなす」
  この聖徳太子の筆になるという言葉は、正しい決定を下すためには党利党略を乗り越え、互いに敬意をもって議論を進め、より高い叡智にたどり着こうという、日本の政治文化の優れた点として米欧で紹介されてきました。ところが、かっては長所だった日本の「和の文化」はこのところ、「過剰なコンセンサス社会」に堕落してしまい、その弊害は目に余るようになっています。

決められない民主主義、最近の日本の代名詞のようになってきた。

東北大震災以降、特にその点が目に余るようになってきた。

最近の年金問題のゴタゴタも、見ていて情けなくなる。

「和をもって貴しとなす」という聖徳太子の言葉も、「和を重んずるが故に、何も決めないほうがよい」という風に、意味が変わってきているように感じる。

どうしてこんな国になってしまったのか?

歴史を振り返ってみると、決して日本人は決断力の劣っている民族ではない。

優れた決断の故に、危機を救ったリーダーは、いくらでもいる。

「決められない」というのは、日本人のDNAというより、最近かかってしまった病だと思った方がよい。

もしかしたら、政治や行政のシステムに問題があるのかもしれない。

だったらシステムを変えればよい。

どうも日本人は間違った民主主義を身につけてしまったようだ。

2012年2月13日 (月)

フィンチの嘴/ジョナサン・ワイナー

Znp15   人類が近縁種と劇的に異なっているのは脳である。人間の脳もダーウィンの法則通り、ダーウィンフィンチ類、ハト、イスカのくちばしのようにきわめて変異に富んでいる。人間の脳容量は、ダフネ島のガラパゴスフィンチのくちばしよりも変異が大きい。
  精神はわれわれのくちばしである。人間の心の変異は脳よりもさらに大きい。

ピュリッツァー賞を受賞した本書は、ガラパゴス諸島のダーウィン・フィンチという鳥の、気候による自然選択を解説した作品。

ガラパゴス諸島では乾期と雨期で生成する植物が変わるので、その植物に合わせて餌をとりやすいよう、フィンチの嘴が長くなったり短くなったりする。

なぜそうなるかというと、その時に有利な嘴を持っているフィンチの方が生き延びやすく、配偶者を得る確率が高いため。

乾期で堅めの大きい実しかならない時代は、固くて長い嘴を持つフィンチが子孫を残しやすくなるために、種全体の嘴が長くなり、それが雨期に変わるとやわらかい種子が増えて逆に長い嘴ではつまみにくくなるため、子孫の嘴が短くなっていくという話。

同様のことを企業に置き換えてみると、この話は教訓に富んでいる。

すなわち、企業は環境の変化、すなわち乾期か雨期なのかを見極め、エサをついぱむために適した嘴を発達させなければならない。

もし嘴がどんな気候でも長いままで変化がなかったとしたら、絶滅してしまうかもしれない。

本書によると、人間の脳や心は、このフィンチの嘴より更に変化に富んでいるという。

生き残るために環境に適応し、変化し続けること。

このことを企業もそこで働く人も求められている。

絶滅種となってしまわないために。

2012年2月12日 (日)

リーダーシップの旅/野田智義、金井壽宏

Znp19   読者の皆さんは映画『フォレストガンプ一期一会』を憶えているだろうか。トム・ハンクス演じる主人公ガンプは、恋人ジェニーに失恋し、走り始める。たった一人で延々、黙々と走っていると、そのうち「一緒に走っていいかい。何か走る理由があるんだろう」と言って、後からついてくる男が現れる。ガンプが何年間もかかってアメリカ大陸を往復するうちに、ふと後ろを振り向くと、大勢の人たちがついてきていた。
  私は、リーダーシップの旅のイメージを説明する際に、この印象的なシーンをしばしば引用する。ガンプがリーダーだと主張するためではない。リード・ザ・セルフから出発する旅におけるフォロワーの役割を示すためだ。リーダーにはコミュニケーションのうまさや先見性など、ある程度の能力や資質が求められる。けれども、リーダーシップの本質は、そのような能力や資質にあるのではなく、リーダーがリード・ザ・セルフによって行動する際に発するエネルギーにこそある。「背中を見てついていく」「言葉ではなく背中で語る」といった言い回しがあるように、時にはリスクを冒してまで行動しようとする人の背中に、フォロワーはエネルギーを感じ、自発的についていこうと思う。

著者はリーダーシップの本質を、映画『フォレストガンプ一期一会』の一場面を例に説明している。

本書で語られていることを要約すると次ようになる。

社長になろうと思って社長になった人はいても、リーダーになろうと思ってリーダーになった人はいない。

リーダーは自らの行動の中で、結果としてリーダーになる。

はじめからフォロワーがいるわけではなく、「結果としてリーダーになる」プロセスにおいて、フォロワーが現れる。

リーダーシップは、本を読んで修得するものでも、だれかから教わるものでもない。

それは私たち一人一人が、自分の生き方の中に発見するもの。

リーダーシップはだれの前にも広がっている。

何かを見たいという気持ちがあれば、可能性は無限に膨らむ。

自らが選択し行動することで、人は結果としてリーダーと呼ばれるようになる、と。

リーダーは「結果として」なるものなのだ。

若くして利己と利他がシンクロしている人などいないだろうし、少年少女の頃から真の意味での社会性を帯びていたら、それはむしろ変人だろう。

人は旅を始め、続けていくうちに、いつ振り返っても人がついてきてくれる経験をし、自分の夢がみんなの夢になるプロセスの中で、利他性や社会性に目覚め、責務感を身につけていく。

「すごい人」だから身につけるのではなく、身につけなければ、旅を続けられないから、自然に人間が磨かれていく。

これが「リーダーシップの旅」である、と。

近年「リーダーシップ論」がさかんだが、人がリーダーになるプロセスを「旅」にたとえているところは新鮮な切り口ではないだろうか。

2012年2月11日 (土)

会社に人生を預けるな/勝間和代

9784334034962   私たちの将来の変動幅が大きくなった理由は、「再帰性」という概念を使って説明することが可能です。この概念を分かりやすく説明すると次のようになります。
  たとえば、Aさんの行動はAさんの友だちであるBさんの行動に影響を与えますが、BさんはBさんでCさんの行動に影響を及ぼします。これと同じように、Cさんの行動はDさんの行動に、DさんはEさんに、そしてEさんの行動は再びAさんの行動に影響を与え……と、こうした影響の連鎖というものは誰しも想像できると思いますが、これが「再帰性」と呼ばれるものです。
  この影響の連鎖がグルグルと動き始めると、その動きは時間とともに加速し、誰もが予想できないような状況にまで発展することがあります。しかも、この流れがインターネットを使ってグローバルに起きると、過去のように数年間かけてゆっくりと変化していたものが、ほんの数時間で一気に起きてしまうのです。

本書で著者は「終身雇用」の問題についてかなりしつこく述べている。

現代は変化の激しい時代と言われる。

それは、この「再帰性」という言葉で説明できる。

つまり、影響は人から人へと波及するものだが、現代はインターネットの影響でこの速度が極端に早くなった。

しかも以前はその人の生活圏だった影響が、グローバルな形で影響を与え、与えられる形になってきている。

変動幅が極端に大きくなり速度も早くなった、これが現代である。

ところが、日本の多くの企業の雇用形態は、数十年来変わっていない。

確かに派遣や期間雇用社員が増えてきたが、基本的に日本企業は終身雇用である。

企業も入社してくる社員にずっと働き続けることを求め、社員も企業に雇用し続けてくれることを求める。

ところが、変動幅の早く大きくなった現代は、この終身雇用が大きなリスクになる。

もちろん、持続可能であれば会社にとっても社員にとっても終身雇用ほどよい制度はない。

しかし、あくまで「持続可能であれば」という条件付きである。

そうでなければ、終身雇用は大きなリスクになる。

報道によると、米国は景気が回復基調に乗ってきたようだ。

日本はまだまだ。

この一つの原因は、企業の雇用形態にある。

米国の企業は、景気が落ち込めば、すぐに社員を減らす。

そのため、影響を最小限にとどめることができる。

そして景気が回復してくれば、社員をどんどん雇い入れる。

どうしてこのようなことが可能かといえば、米国の場合は、社員の解雇制限が日本ほど厳しくないからだ。

景気が悪くなれば社員を減らし、景気がよくなれば社員を増やすことが比較的ラクにできる。

対して、日本はどうだろう。

景気が悪くなっても、会社は社員を雇い続ける。

その間、企業の体力はどんどん弱まってくる。

そして、いざ経済が回復してきても、大胆な社員の雇用はできない。

なにしろ、また景気の悪くなった時のことも考えなければならないから。

こう考えると、変動幅が大きくなった現代においては、日本企業の終身雇用がますます大きな足かせになってくるであろうということが予想される。

会社も社員も、「働く」ということについて、そろそろ意識を変えるべき時期に来ているのではないだろうか。

2012年2月10日 (金)

間違いだらけの経済政策/榊原英資

41hsjjkjecl__sl500_aa300_   そこで重要になるのが原子力です。原子力発電の量を大きく増加することが求められます。
  日本の原子力にかかわる技術は世界のトップ水準。その安全性も多くの他の国に勝ります。
  チェルノブイリやスリーマイルズといった大きな事故は起こっていませんし、問題になった柏崎原発でも原子力本体の事故ではありません。周辺機器の火災が起こったというだけであれほどマスメディアが騒いだというのが不思議な気がします。
  もちろん、原子力発電所で本格的な事故が起これば影響は甚大ですから、安全性に万全を期することは必要ですが、日本のマスメディア、特にテレビは騒ぎすぎの感があります。
  原子力発電なしで充分な電力が供給できるならともかく、現状では化石燃料による発電に代わるものは原子力発電しかありません。マイナス成長でもいいと言うならともかく、そこそこの成長を望むなら、原子力発電に頼るしかありません。

本書は2008年11月に出版されたもの。

今、著者の、この主張を読むと「何を寝ぼけたことを」と思ってしまうのだが、本書が出版された当時は、このような意見が大半だった。

「原子力は安全」「日本はもっと積極的に原子力を売り込むべし」ということを多くの識者が主張していた。

電力会社もテレビのCMなどで原発の安全をしきりに訴えていた。

ところが、これが3.11以降激変してしまった。

今、原発の推進を積極的に語る識者は本当に少ない。

また「日本の原子力は安全」などとおおっぴらに言える空気でもない。

でも、ここは発想を変えて、プラスに受け止めるべきだろう。

もし、3.11が起こらず、あのまま日本が積極的に原発を推進していったらどうなったか?

恐らく、時間の問題で、いつかは事故が起こっただろう。

3.11よりもっと甚大な被害をもたらす事故かもしれない。

もしかしたら、日本以外の国で、日本の作った原発が事故を起こすかもしれない。

そうなってしまったら、日本の信用は一気に失墜する。

日本バッシングが始まる。

悲劇的なシナリオが予想される。

そう考えると、3.11は、日本にとってよかったのかもしれない。

それによって、原発政策の大幅な方向転換を迫られたのだから。

もちろん、それによって直接被害を被った方々は、本当に大変だったと思うのだが。

もし、あのまま、原発を推進していったら、日本は、そして世界はどうなったのだろう。

そう思うと、こちらの方がよほど怖い。

2012年2月 9日 (木)

知事の世界/東国原英夫

Znp14  県知事というのは、自分から何か進んでやりたいと考える人には実に窮屈なポジションだ。やりたくてもその事業に注ぎ込む予算がない。どこか別の予算を削って捻出していくしか方法はないのだ。
  逆にいえば、何もやりたくない人にはこれほど楽なポジションはない。

本書は、東国原氏が知事選に当選し知事となってまだ間もない、2008年に書かれたもの。

当選してまだまもない頃の知事は、宮崎のセールスマンとして、全国区のテレビなどでマンゴーや地鶏等の売り込みをしていたイメージが目に浮かぶ。

自らの知名度を武器に宮崎をアピールし、宮崎を売り込んだ貢献はある程度評価しても良いだろう。

その東国原氏が、ここでは知事の仕事を「自分から何か進んでやりたいと考える人には実に窮屈なポジションだが、何もやりたくない人にはこれほど楽なポジションはない」と言っている。

面白いことを言うな、と思ってしまった。

知事職に限らず、「何もやらない、変えない」と決めてしまえば、これほど楽な仕事はない、といった類の仕事はこの世には掃いて捨てるほどある。

お役所などはその最たるものであろう。

とかく人間は保守的なものである。

できれば、これまでのやり方を変えたくない、と考えているし、変化を好まない動物、それが人間である。

だから、組織を変えようとする人に対しては拒否反応を示す。

拒否反応を示すだけだったらまだマシな方で、最悪、潰してしまう。

右肩上がりに経済が成長していった時代はそれでも良かったろう。

しかし、いまは経済が縮小してきている時代。

去年と同じことを何の疑問も持たずにやることは死を意味する。

今、日本全体がそのことを問われているような気がする。

2012年2月 8日 (水)

技術の伝え方/畑村洋太郎

Znp19  有名な古典落語で「目黒のさんま」という話があります。
あるとき目黒に鷹狩りに出かけた殿様は、立ち寄った茶屋でさんまをはじめて食べます。当時、さんまは庶民しか食さないものでしたが、旬の時期は脂がのっていて、ただ焼いただけでもその味は絶品です。はじめてさんまを食べた殿様はその味が忘れられず、お城に帰った後に家来にさんまを出すように命じます。しかし、お城の料理方は殿様が食べるのだからと気を利かしてさんまの脂を抜き、食べやすく骨抜きして蒸し焼き状態で出します。当然そんなさんまは食べてもおいしくないので、興ざめした殿様に「さんまは目黒にかぎる」と言わしめるというのが話のオチです。
  いきなり「目黒のさんま」の話を持ち出したのは、多くの技術伝達の現場で、この話に似たことが起こっているからです。
  「目黒のさんま」の中でさんまを調理した料理方がやったことは、技術を伝えるときに伝達者が犯しやすい間違いと同じです。本人は「食べやすく」(わかりやすく)と配慮をしているつもりですが、そのことがさんまを「おいしくないもの」(つまらないもの)にしているのです。さんまをこのような魅力のないものにしてしまったのは、さんまが持っていた脂などの旨味の属性を必要以上に落としてしまったことにあります。
  技術を伝える現場で、伝達者が犯しやすい間違いとは、「わかりやすいためには客観的でなくてはいけない」と思うあまり、話自体を整理しすぎてつまらないものにして、結果として伝わらないものにしてしまうことです。私にはそれが「客観という名のお化け」に振り回されているように見えます。

技術を部下や後輩に伝えるというのは難しいものである。

しかし、分かりやすく伝えようとするあまり、その技術に込めた思いのような部分が伝わらず、味気ないものになってしまうということはよくある。

通常、一つの技術を身につけ一人前になるためには何年もの年月を要する。

年月の積み重ねがあれば、当然、その技術に対する愛着やこだわり、場合によっては執着心というものが生じる。

だから、よい技術者は、その人独自のこだわりや執着心を持っているものである。

そしてその人を技術者たらしめているものも、実はその思いの部分であることが多い。

これらは、極めて主観的なもの。

世の中の多くの人は、主観は悪、客観は善というイメージを持ちがちである。

しかし、本当にそうなのだろうか。

これが極端な方向に進んでいくと、誰かになにかを伝えるときには、まわりの誰もが理解できる言葉で、事実しか話してはいけないということになってしまう。

そもそも、客観とはなんだろうか。

客観というのは実際には「外から見る」という程度の意味しかない。

極論すれば、この世に客観というものは存在しない。

ある技術に対する見方は十人十色なので、フィルターが違えば違うものに見えるのは当然。

それでいてこれらはどれも事実なのだから、逃げを打たず、遠慮をせずに自分にとっての事実である主観をそのまま語ればよい。

その方が相手の興味を引き、伝わりやすくなるのではないだろうか。

もっとも、思いの部分ばかりが強すぎで、伝えるスキルがまったくないのも問題なのだが。

2012年2月 7日 (火)

発信力 頭のいい人のサバイバル術/樋口裕一

Znp16   自分探しという言葉がある。私はこの言葉にかなりの抵抗を感じる。この言葉には、まるで自分というのがどこかに手付かずに存在しているかのように感じられるからだ。
  だが、言うまでもないことだが、自分というのは、どこかに転がっているようなものではない。日々、作っていくべきものだ。毎日していることが、だんだんと自分になっていく。  つまり、毎日の行動によって自分の価値観がだんだんと固まっていく。そうして、自分が成り立っていく。
  もちろん、時に自分の幅を広げ、狭い価値観から抜け出すために、旅行に出たり、未知の人と出会ったりする必要がある。だが、それも、どこかにある自分にひょつくりと出くわすのではなく、そうすることによって、新しい自分を広げるためなのだ。(中略)
  自分というのは、このように日々作られていくものだ。そうだとすれば、少しでも意識的に自分を形作ったらどうだろう。
  自然に任せ、だんだんと自分の好みではない自分になっていくよりも、意識的に自分を好みの形に合わせていくほうが、うまい方法だと言えるだろう。
  自分作りは一つのボディビルディングに近い。自分の肉体を理想の形にするために、意識的に自分を作るように、自分の精神を形作っていく。もちろん、その通りになることは難しいが、少しでもそれに近づこうとする。そうするべきだろう。

樋口氏は、ここで、「自分探し」ではなく「自分作り」をすべきだと勧めている。

これは理にかなった考え方である。

個が確立していない段階でただ単に自分探しの旅に出ても、「自分」を探し出すことはできないのは目に見えている。

それより、「自分はこんな人間になりたい」、「こんな生き方をしたい」と目標(仮説)を立て、それに向かって、かけているものを一つひとつ築き上げていく、

ちょうど、ボディビルダーが鏡をみて、自分のかけているところをしっかりとつかみ、計画的に肉体改造をするように。

こんなイメージの「自分作り」をすることを勧めている。

そうすれば仮に、当初立てた仮説が間違っていたとしても、何かが残る。

それは、場合によっては後々かけがえのない財産になるかもしれない。

何しろ、今は変化の激しい時代。

この先何が起こるか分からないのだから。

だったら、発想を変え、「自分探し」から「自分作り」への転換を図ってみてはどうだろう。

その方がより後悔の少ない人生を送れると思うのだが。

2012年2月 6日 (月)

世界一幸福な国デンマークの暮らし方/千葉忠夫

Znp15   デンマークの子育て支援が確立されてきたのは、1980年代のことです。
  デンマークでも女性が社会進出した1980年代は、出生率が1.4ぐらいまで下がってしまいました。そこで、女性議員が「子どもを産んでも仕事ができるように」と、産前産後休業(産休)や育児休業(育休)などをしっかりと制度化し、地方自治体は、「しっかり子どもの面倒をみる場所がありますよ」と保育園、幼稚園を整備したのです。
  また、子どもが生まれたら、児童手当が支給されます。18歳までは各市町村から四半期に一回児童手当がもらえます。
  日本では障がいのある子どもが生まれた場合、女性はいまの仕事を続けられない状況に陥ってしまうことがほとんどではないでしょうか。
  障がいのある子どもを施設に入れないで自分で育てようとするならば、親は仕事を続けられなくなります。そこで、デンマークではいまの給料の約80%を保障し、子どもの面倒をみられるようにするという制度もあります。
  このように制度をしっかりさせるうちに、少子化が止まったのです。現在の出生率は1.9ぐらいです。

昨年国王夫妻が来日して話題となったブータンは、GNH(国民総幸福度)という考え方を取り入れているという。

GDPだけが国民の豊かさを計る尺度ではないということを考えさせられたことは記憶に新しい。

その意味では、本書で取り上げられているデンマークという国は、国民の幸福度が非常に高い国である。

2008年、アメリカの研究組織、ワールド・バリューズ・サーベイが各国の個人を対象に、現在の幸福度を調査し、ランキングした「幸福度ランキング」によると、デンマークが一位だったとのこと。

しかしこの国、税金はメチャクチャ高い。

直接税は、収入の50パーセント、消費税は25パーセントだという。

いわゆる高福祉、高負担の国である。

それでも、国民から不満はほとんどでないという。

しかも、少子化問題もちゃんと解決している。

どうしてこんなことが可能なのか?

答えは一つ、政治家が国民から信用されているから。

これに尽きる。

どこかの国とは大違いだ。

2012年2月 5日 (日)

わが愛する孫たちへ伝えたい戦後歴史の真実/前野徹

_  東京裁判史観=自虐史観は、わかりやすく言えば、自己否定、卑屈、盲従、無定見をもたらす精神構造の形成です。事実、現在の日本人は何の批判精神も持たず、思考を停止させ、ただ大勢に盲従し、精神的には奴隷のごとき境遇に甘んじています。人が人として生きてはいないのですから、自分自身の存在すら肯定できません。
  自己がないどころか、自己を否定しながら生きる。これでは自尊心や自立心が生まれるはずもなく、自分を粗末にする若者たちが激増しました。自分を大切にできない人間には、他人に対するやさしさや思いやりも芽生えません。いま最大の問題となっている日本人の精神の荒廃は、東京裁判から始まっています。

健全な人格形成には、正しい自己イメージを持つ事が必要だ。

歪められた自己のイメージを持つと、自信過剰、自己絶対化に陥ったり、逆に自信喪失、自己卑下の状態に陥る。

そうなってしまうと、その人は人間関係をうまく築けなかったり、物事をひねくれて受け止めたりと、様々な問題を抱えることになる。

特に困難に直面したとき、自己に対するイメージを正しく持っていれば、乗り越えることもできるのだが、そうでない場合は、乗り越えられないどころか、それが致命傷になり、二度と立ち直れなくなってしまうことすらある。

これは個人の自己に対するイメージの影響についてだが、国家についても同じことがいえる。

国家に対する正しいイメージを持っていないと、健全な国家の形成に影響が出てくる。

特に、ここで言われている自虐史観を持っていたのでは、自分の国に自信を持てなくなる。

これから日本は、多くの困難に直面する。

超高齢化社会、少子化、人口の減少、地球温暖化、増税、等々・・・

これを乗り越えるには、もう一度日本人が自分の国家に対して正しいイメージを持つ事だ。

それさえしっかりと持てるようになれば、どんな困難にも立ち向かい乗り越えることができるだろう。

その意味で、自虐史観は軽視できない問題である。

2012年2月 4日 (土)

なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか/若宮健

_   一昨年訪韓して、SBSテレビのプロデューサーにインタビューしたとき、「パチンコの被害が出れば、その原因を追究して糾弾するのがマスコミの役目ではないですか」と言われて、絶句したことがある。
  まったくそのとおりなので、返す言葉もなかった。最近、日本のマスコミは「強いものに弱く、弱いものに強い」傾向が顕著である。日本のマスコミに、「強きをくじき、弱きを助ける」を期待するのはとても無理のようである。
  業界を批判すべき大新聞、大手出版社、テレビ局が、批判どころか問題提起さえできないでいる理由が広告費にある。
  テレビや新聞は、CM提供者には弱い。からきし弱い。だからパチンコ業界は、売上げには大して効果が見込まれないパチンコ台の新聞広告や、テレビCMに大金をかけるのである。

本書を読んで韓国ではパチンコが全廃されているということをはじめて知った。

理由は簡単、日本のマスコミは全くそのことを報じないから。

パチンコ店に関しては、経営者の8割を韓国、北朝鮮系が占め、残り2割が台湾と日本人といわれている。

なかでも北朝鮮系経営者の占める割合が大きい。

北朝鮮の出先機関と言ってもよい「朝鮮総連」は、直接パチンコ店も経営している。

現在は、直営店は20店舗ほど。

その収益金は北朝鮮に送られている可能性が高いという。

パチンコがも社会にたらしている害悪も無視できないものがある。

依存症でサラ金、闇金の借金まみれになった末に家庭崩壊、自殺という例は跡を絶たない。

炎暑下で赤ちゃんを車中に置き去りにし小さな命を奪ってしまう事故は毎年繰り返されている。

しかもパチンコの景品を換金する行為は違法性が高い。

これだけ社会的に悪を垂れ流しているパチンコであれば、パチンコ全廃の大キャンペーンをはってもおかしくないもの。

だが、そんな動きは全く見えない。

それどころか、お隣の国、韓国ではパチンコが全廃されたということをどのテレビ局も新聞社も報じない。

このような現状を見ると、「何かがある」と考える方が自然というもの。

結局のところ、マスコミも政治家も警察も、パチンコ業界とズブズブの関係になっているのがパチンコを全廃できない理由ということなのだろう。

2012年2月 3日 (金)

人はなぜ逃げおくれるのか/広瀬弘忠

Znp14  社会一般の常識と専門家の知識とが、まったく相反していることは、世のなかにけっして少なくない。災害や事故についても同じである。マスコミ情報も含めてのことだが、社会常識は、古い災害観に根ざしたものである。ところが、専門家の知識は日々の研究・調査によって変化していくため、社会常識と専門家の知識とが、時に大きく背馳してしまうのである。たとえば、その一例としてパニックについて取りあげてみよう。
  まず読者への質問である。次の①と②のうち、どちらが正しいだろうか。
  ①地震や火事に巻きこまれると、多くの人びとはパニックになる。
  ②地震や火事に巻きこまれても、多くの人びとはパニックにならない。
  答は②である。
  災害や事故に出合って、平常心でいることは難しい。恐れや不安を感じるのは、ごくあたりまえのことだろう。ただそれが、直ちに大勢の人びとが先を争って、お互いがお互いの進路を邪魔する敵のように、互いに踏みつけたり、押しつぶしたりして死傷者を生じるパニックが起こることにはつながらない。つまり、異常行動としてのパニックは、多くの災害や事故ではあまり起こらないのである。パニックはまれだ、というのが専門家の「常識」なのである。

ひと頃、パニック映画が流行った時期があった。

大地震、超高層ビルの火災、豪華客船の転覆、等々・・・

これらの事故や災害に巻き込まれた人々は、映画では一様にパニックに陥る。

平常心を失い、逃げまどい、人渦の中で老人や子供は踏みつけにされる。

そのため、災害や事故に巻き込まれると、多くの人はパニックに陥るものと思っていた。

しかし、これは間違い。

パニックはまれだ、というのが専門家の「常識」なのだという。

これは意外だった。

そういえば、去年の大地震でも、人々がパニックになったという報道はなかったように記憶している。

むしろ、逃げ後れてしまった人々についての報道がほとんどだったのではないだろうか。

本書によると、現代人は、仮に危険に直面しても、それを感知する能力が劣っているという。

台風や洪水、津波などの災害時に、避難勧告や避難指示がだされた場合でも、これに従う人々は驚くほど少ない。

災害の被害をさけるために避難の指示や命令などが発令されても、避難する人びとの割合が50パーセントを超えることは、ほとんどない。

安全に慣れてしまって、危険を実感できないでいるのである。

私たちの心は、予期せぬ異常や危険に対して、ある程度、鈍感にできているのだ。

それは、日常の生活をしていて、つねに移りゆく外界のささいな変化にいちいち反応していたら、神経が疲れ果ててしまうから。

そのようなわけで心は、ある範囲までの異常は、異常だと感じずに、正常の範囲内のものとして処理するようになっている。

このような心のメカニズムが、身に迫る危険を危険としてとらえることをさまたげて、それを回避するタイミングを奪ってしまうことがあるだという。

人々が危機が迫っても逃げ後れてしまうのは、このような心のメカニズムが、悪い方向で働いた結果だという。

これは私にとっては新しい発見であった。

いかに自分が固定概念で物事を考えていたかということである。

2012年2月 2日 (木)

日本の成長戦略/堀紘一

Znp17   ところが、じつはここに一つ、困った問題がある。
  現在のベトナムでは、資生堂など日本製の化粧品のシェアが、さして大きくないのだ。
  これには理由がある。ベトナムの女性に聞いてみると、日本人の女優や女性歌手で知っているのは、酒井法子くらいしかいない。酒井法子は覚醒剤事件で知られているのではなく、昔の歌、『碧いうさぎ』で知られているそうである。
  ところが、韓国の女優では『冬のソナタ』のチェ・ジウを誰もが知っているし、フィギュアスケートのキム・ヨナの人気も高い。
  そして、この二人が韓国製の化粧品のイメージキャラクターをしているのだ。
  そこで、困ったことが起きてしまった。ベトナムの女性たちのあいだで、韓国製の化粧品のほうが日本製より品質がよいのだろうとの認識が広まっているのである。このまま手をこまねいていると、ベトナムのみならず日本製の化粧品がアジアで思うように売れなくなってしまいかねない。
  私は別に資生堂のために困るといっているのではなく、この現象は「一事が万事」の話なのである。たしかに『冬ソナ』はドラマとして面白いかもしれないが、作品の力だけで韓国製の化粧品が広まったわけではない。
  この背景には、日本政府と韓国政府の姿勢の違いが如実に現われているのだ。
  簡単にいえば、韓国政府の頭がよくて、日本政府の頭が悪いのである。

ベトナム人は本来、韓国のことがあまり好きではない。

何しろベトナム戦争で、アメリカ軍と一緒に戦った国の一つが韓国だったのだから。

ところが、そこに気がついた韓国政府が、何とか関係改善を図らなければいけないと考えて、いろいろと知恵を絞った。

その具体策の一つが、『冬ソナ』など、韓国製ソフトの無料提供だった。

こうして『冬ソナ』だけでなく、ベトナム人が韓国に抱いていたイメージを変えるような作品がテレビで放映されるようになり、若い人のあいだでは韓国アレルギーがなくなり、国全体でも韓国アレルギーがだいぶ減ってきた。

それが化粧品のシェア拡大につながっているという。

ここにははっきりとした韓国政府の戦略がある。

現在のK-POPの躍進も、やはり韓国政府の戦略が透けて見える。

これに対して日本政府には、戦略があるのだろうか。

はっきり言って、無能かつ無策である。

今、日本企業は韓国企業に押され気味だが、これは企業の努力の差だけではない。

むしろ、国家の後押しがあって世界展開できる韓国企業と、国からいつも足を引っ張られている日本企業との差である。

つまり、韓国企業と日本企業は同じ土俵の上で戦っていないのである。

はっきりとした国家戦略をもった韓国政府と、戦略のない日本政府との差がここにきて現れてきていると言ってよい。

2012年2月 1日 (水)

JAL崩壊

Znp16   世間では「パイロット」と聞いてどの様な印象をもつでしょうか?
  多分、「かっこいい、高給だ、エリート、羨ましい、自分もなってみたい、モテそう」などというのが一般的かもしれません。しかし、私たちのように彼らと一番身近なところで仕事をしている者から見れば、パイロットほど「食えない」人種はいません。彼らこそ、今後も決して発見することができない「絶滅危惧希少価値動物」であると断言できます。とにかく、わがまま、世間知らずといった形容しか思い浮かばないのです。この様な感情は、社内で彼らと業務上接する機会の多い関係部署、部門の者ほど共通して抱いています。なぜそうなったのか?簡単に言うと、長年にわたり会社が何かに付け甘やかし、「社会的常識」に基づいた適正な給与、待遇を施してこなかった結果、彼らはいつの間にか「勘違い集団」と化してしまったのです。その「甘やかし」と「社会的非常識」の典型と揶揄されているのが、世界一高い給料とぬるい労働条件です。私たちからみると、「充実した幸せな人生だ。この世に生まれてきてよかったなあ。二人目の奥さんもスッチーさ。ハイヤーで出勤するのも楽しいな」と、さぞや充足した生活を送っているに違いないと思いきや、彼らは今日も一層の欲求を満足させるべく、さらなる待遇、労働条件改善を求めて活発な活動を続け、会社と鋭く対立しているのです。本当に頭が下がるくらい熱心かつ執拗、エネルギッシュなのです。

2010年1月、JALが経営破たんした。

負債総額は2兆3222億円にものぼったといわれる。

本書は、その経営破綻したJALの現役・OBによる内部告発本。

8つの労組の実態から居眠りパイロットの実態まで、事細かに書かれている。

ここでは機長のあまりの厚遇と非常識さが書かれているが、やはり普通の人の感覚ではない。

破綻前の機長の年収は三千万円、それでもなお満足せず、さらなる昇給と労働条件の改善を求める機長組合。

読み進むに連れ、「潰れて当然」と思えてきた。

破綻後の経営再建を引き受け、先日会長職から退いた稲盛氏が、「ラーメン屋さえも経営できない」と述べていたことを思い出す。

そのJALが今後、どのようにして立て直してゆくのか、注視して行きたい。

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