シェア神話の崩壊/前屋毅
こうして、高度経済成長期において、日本企業のシェア至上主義は加速され、定着していったのである。日本企業を牽引していく経営トップたちの関心は、シェア獲得に集中されていった。高いシェアを手中に収められる経営者だけしか、認められなくなったといってもいい。シェア至上主義は、高度経済成長期を経て急激に成長してきた日本の企業風土のなかから生まれた、唯一の経営ヴィジョンだったといっていいかもしれない。
しかし、織烈なシェア競争のなかで、企業の社員たちはシェア獲得のために「ビジネス戦士」として酷使されていった。没個性の製品を背負わされて、より大きなシェア獲得のために、「戦士」たちは朝早くから夜遅くまで戦いつづけたのである。その結果が、「仕事中毒」とまでいわれ、仕事にしか生きがいをみつけられない、没個性の画一的なサラリーマンの群れだった。シェア至上主義の結果ともいえる。それが、日本人が追い求めた自らの姿だったのだろうか。それは、日本企業の「愚」の結果ではなかったのだろうか。
その高度成長期も、すでに過去の出来事となってしまった。にもかかわらず、シェア至上主義だけは日本企業の体質として染みついてしまっている。
本書が書かれたのは1994年のこと。
この当時からすでにシェア至上主義では日本企業は行き詰まってしまうということを著者は言っている。
そして、おそらくそれは当時、多くの日本企業の課題でもあったことだろう。
ところが、20年近く経った現在、依然として多くの日本企業はシェア至上主義から抜けきれていない。
シェア至上主義、多く生産して多く売るスタイルを貫きとおそうとすれば、強引な売り込みや極端な値引きで無理やり消費者の購買意欲をかきたてるしかない。
同じスタイルで同じようなものを売るライバルが多ければ、それだけ競争も織烈化する。
まして、今は経済がグローバル化し、安売り競争だけでは、安い労働力によって安い商品を作ることのできる新興国に負けてしまうのは明らか。
結果、ビジネスのモラルは低下し、企業としての収益も伸びずに自らの首を絞めることにもなりかねない。
まさにシェア至上主義の「落とし穴」である。
今日、顧客ニーズは多様化してきている。
高度経済成長期のように、同質の市場に同質の商品を大量に提供するわけにはいかなくなってきている。
ここに、本書のタイトルにあるように「シェア神話の崩壊」がある。
従来のシェア競争のかたちに固執していては競争に勝ち残ることはできないだろう。
この20年間、日本企業は、シェア至上主義の呪縛から抜け出し、発想の転換を求められ続けてきたと言ってよい。
もし20年前から真剣に取り組んでいれば、日本企業を取り巻く環境は今とは違っていたかもしれない。
失われた20年と言ってもよいのではないだろうか。
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