« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »

2012年4月の30件の記事

2012年4月30日 (月)

ブレーン・ハッカー 巨人の「肩」に乗れ!/デイビッド・マレイ

Photo_3 アイザック・ニュートンは、微積分法を生み出すために、ジョン・ウォリスやルネ・デカルトのような他の数学者たちからアイディアを借りた。別の数学者から盗作だと非難されたとき、彼は「巨人の肩の上に乗ったのだ」と言ってごまかした。映画「パルプ・フィクション」の脚本・監督を手がけた、クウェンティン・タランティーノは、「見た映画すべてから盗んでいる」と、もっと率直な言い方をしている。

本書の主題は、本当の意味でのオリジナルなアイディアなどない、といったもの。

独創性とは、他の概念の上に構築されるもの。

いかにも独創的に見えるアイディアであっても、実はその出発点は模倣である。

スティーブ・ジョブズもビル・ゲイツもジョージ・ルーカスもエジソンも、みんなモノマネの達人である。

だから、臆することなく、積極的に模倣せよと主張する。

それが本書のタイトル「巨人の肩に乗れ」という意味である。

ただ、模倣するといっても、一目でモノマネとわかるやり方はダメ。

やはり、それなりの方法論がある。

それは6つのステップにまとめられる。

1.定義する「解決しようとしている問題を定義する」

2.借りる「似たような問題のあるところから、アイディアを借りる」

3.組み合わせる「借りてきたアイディアを、結び付け、組み合わせる」

4.培養する「組み合わせた材料を培養して、解決に導く」

5.識別する「解決策の長所と短所を見分ける」

6.育てる「短所を排除し、長所を伸ばす」

これは意外と使えるかもしれない。

2012年4月29日 (日)

19人のプロが明かす「仕事」論

19 とにかく若いうちは、自分の将来のことを考えて、自分のためになることをやる。
 目先で考えると不利なことでも、とにかく喜んで前向きに取り組んでいかなくてはダメだと思います。
「長時間労働するのはバカだ」と言って、なんとかスマートに時間内で収めて「頭を使って利口にやろうよ」と言う人がいますが、僕はその考えには反対です。そういうことをやる人で大成した人を、あまり見たことがありません。成功していく人たちは、みんなバカみたいに一生懸命に、真面目に目先のことに必死になって取り組んでいます。
 そういう経験を積み重ねることで、何事も短期間で仕上げるのが上手になっていく。
 それを私は「量は質に転化する」と言っていますが、量をこなした人は仕事のスピードも速くなるし、質も上がってくる。
 そして、いつも量、質、スピードを意識して仕事をしている人は、何も考えていない人よりも圧倒的に仕事の基礎体力がつくのです。

本書は、その道のプロといわれる人たちが、さまざまな角度から仕事について語っている。

多くのプロといわれる人たちに共通していることがある。

それは、人生のある一時期は圧倒的な量の仕事をこなしていたということ。

そしてそれを続けている中で量から質に転化させてきているということ。

つまり最初から効率化を求めてはいないのである。

これは、重要な視点だ。

最近はワークライフバランスが盛んに主張されるようになってきた。

確かに意味のない長時間労働は問題だ。

それによって心身を病んでしまうのはやはり避けなければならない。

ただし、最初から効率よくやろうとしてもできるものではない。

「量から質への転化」があって初めて効率化が可能なのではないだろうか。

その側面を無視したワークライフバランス論は、はっきり言って意味がないように感じる。

2012年4月28日 (土)

時代の“先”を読む経済学/伊藤元重

C__docume1__locals1_temp_znp1f   モッテルリーニという人の『経済は感情で動く』(紀伊国屋書店)という本はこうした点を考えるうえで興味深い視点を提示している。この本は「行動経済学」あるいは「経済心理学」と呼ばれる分野を一般読者向けに解説したものである。経済の現場には単純な合理性だけでは説明できない心理学的な要素があるという。著者はいろいろな心理的現象を取り上げているが、ここで紹介したいのは「現状を維持したい」と人々が考える傾向が強いという指摘である。
  無作為に選んだ二つのグループの一方に「あなたは安価だが基本的機能はついている携帯電話を使っている。高価だが機能が豊富な機種に買い替えますか?」という質問を、もう一方のグループに「あなたは高価だが豊富な機能がついている携帯電話を使っている。基本的な機能しかつかないが安価な機種に買い替えますか?」という質問をぶつけたところ、(無作為に選んだはずの)二つのグループともに、現状維持を選んだという。
  どうも人々の意識の底には「生来の保守主義」が潜んでいるようだ。現状維持を無意識のうちに選択するという傾向は、行動経済学のいろいろな実験で検証されているようだ。

人は元来、保守的なものだと思う。

変革だとか改革とかはできればやりたくないと多くの人が思っている。

だから、変革を求められたとき、多くの人は抵抗する。

いろんな例をあげて現状維持の優位性を説明しようとする。

私も仕事で関与先の人事制度改革を進めようとすると、必ず大きな抵抗に会う。

全社員が諸手をあげて賛成するということはあり得ない。

特に現状維持の方が居心地がよいが、今変えなければ将来、様々な問題が起こる、といった場合、現状維持を選ぶ人は多い。

特に何かを変えれば、必ず不利益を被る人は出てくるものだ。

その人は強く抵抗する。

今の消費税の問題、年金の問題、原発の問題、すべてこの公式が当てはまる。

だから、リーダーはこのことをいつも頭に置いておくべきだ。

リーダーとして変革を求めるときには、必ず大きな抵抗に会うということを覚悟しておくべきなのだ。

リーダーは人気取りではできない。

多くの人から憎まれることもあるのだから。

大事なことは「覚悟」である。

2012年4月27日 (金)

高学歴でも失敗する人、学歴なしでも成功する人/勝間和代

C__docume1__locals1_temp_znp23  日本で最も人気がある病院のひとつ、亀田総合病院の亀田信介院長と話をしていた時に、伺った話では、亀田総合病院では「TKK出身の医者には気をつけろ」ということばがあるそうです。
  TKKとは、東大、京大、慶應の頭文字でして、この3つの大学の医学部は最も受験偏差値が高いところです。そして、そこに入ることができたアカデミック・スマートなお医者さんには、高い確率で、打たれ弱い人が多いのだそうです。
  例えば、新人の医者は点滴や注射など、どれも下手に決まっています。それを患者さんや、看護師さんに指摘されると、自分の失敗が許せず、恥ずかしくて、病院に出てこなくなったりしてしまうそうです。それもそのはずで、TKK出身の医者はもともと医者になりたかったのではなく、たまたまアカデミック・スマートだったので成り行きで周りの勧めから偏差値の高い大学の医学部に入ってしまって、気がついたら医者になってしまった人がいる確率が高いからです。しかし、医者というのは大変な長時間重労働で人に奉仕をする仕事であり、そこになじめないという悲劇が起きているのです。

世の中、高学歴の人ができる人だとは限らない。

むしろ、大した学歴がなくとも、高い業績を残したり、会社を興したりする人がいる。

本書は、そのことを「アカデミック・スマート」と「ストリート・スマート」という言葉で説明している。

「アカデミック・スマート」とは、学歴が高いとか、与えられた勉強に対してよい成績が取れること。

一方「ストリート・スマート」とは、人情の機微や人の動きをよく分かっていて、どういう状況でも正しい判断がよくできて、かつ、自立心が旺盛である、独りよがりではない、というイメージ。

日本はこれまで「アカデミック・スマート」偏重主義に陥っていた。

確かに、そのような人は実務能力に長けている。

問題処理能力があり、即座に解を出す能力を持っている。

その典型例が官僚である。

しかし、それは、正解がある問題を解く能力。

世の中、正解のある問題は、そう多くはない。

多くは、正解のない問題。

または、なにが問題なのかすらはっきりしないといったもの。

そのような中で前に進んで行かねばならない。

求められるのは、状況理解・判断能力がある人。

気持ちの機微がよく分かる人。

自立心が旺盛だが、独断的ではない人。

そして打たれ強い人。

つまり「ストリート・スマート」な人である。

そろそろ日本も「アカデミック・スマート」偏重主義から脱すべき時だろう。

2012年4月26日 (木)

社員力革命/綱島邦夫

C__docume1__locals1_temp_znp3e  どうも思ったほど問題解決がうまくいかないことがわかってきて、社員たち皆に元気がなくなってきたとき、一人のリーダーが問題提起をした。
  「どんなに優れた企業でも、どんなに優れた人間でも、その視野は狭いものだ。自分たちの経験は、世界全体から見れば、ごく一部の小さなものにすぎない。その小さな経験に基づいて問題を見つけようとしても、本当に重要な問題は必ずしも見つけることはできない。真に優れた解決策を導き出すことはさらに難しい。私たちの狭い経験範囲の中でいくら目を皿のようにし、知恵を絞り出しても、堂々巡りから抜け出せないかもしれない。ここは思い切って、世界中の企業を訪ね、頭を下げて勉強させてもらおうじゃないか」優れた企業運営の方法を世界中の企業から真似てこようとするこの運動は「ベストプラクティス運動」と名づけられた。

上記は、GEの中で1980年代後半に起こったエピソード。

GEと言えば、エクセレントカンパニーの代表格。

これだけの世界的な企業であれば、真似されることはあっても、真似するという発想はなかなか生まれないのではないかと思ってしまう。

ところが、ある時、GEの中から、「世界中の企業を訪ね、頭を下げて勉強させてもらおうじゃないか」という声があがったという。

そしてこの運動は「ベストプラクティス運動」と名づけられた。

成長し続ける企業と、どこかで頭打ちになってしまう企業との差はこのようなところに表れるのかもしれない。

これは企業だけでなく、スポーツ選手であっても芸術家であってもビジネスマンでも共通する。

一流と言われる人ほど、普通の人からでも貪欲に学ぼうとするものだ。

2012年4月25日 (水)

ホンダ・インサイト革命/赤井邦彦

C__docume1__locals1_temp_znp1f  ここで最も重要なのは、ホンダがインサイトに189万円という価格を付けたことだ。
  この価格が基準になってホンダのこれからのハイブリッド車開発、あるいはハイブリッドを越えた環境対応技術へと話は広がっていく。ホンダはなぜインサイトを189万円で売りたかったのか。答は簡単だ。この価格こそ、ハイブリッドは高価といわれた神話を崩壊させ、出来る限り多くの人がインサイトを購入しようと心を動かす価格だったからだ。
  「一流の技術でも、みんなが使わなければ存在の意味がない。みんなが使って初めてその技術は生きた技術と言える」と、かってホンダ創始者の本田宗一郎は言った。つまり、高度な技術も安価に分け与える。それが出来て初めてその技術は世の中に広がり、その技術が持つ役割を果たすことになるのだ。
  インサイトのハイブリッド・システムを開発する時、それに携わった技術者は恐らく自分を殺して作業にかからなければならなかったはずだ。それは、完成したクルマを189万円で販売するという取り決めが最初にあり、その価格を実現させるために許される技術開発にしか手が出せなかったからだ。

大ヒットした、ホンダのハイブリッド自動車「インサイト」。

自動車販売苦戦の時代に、なぜインサイトは売れたのか?

そこから見えてくるものがある。

近年、新興国の安い人件費を基礎とした安い商品に日本の製造業は押され気味である。

一つの原因は、ガラパゴスと揶揄される日本の商品の過剰品質にある。

いくら品質がよくても、高すぎては一般大衆は買えない。

安かろう悪かろうでは話にならないが、そうは言っても適正価格というものがある。

ここにホンダがインサイトに189万円という価格を付けた意味がある。

なぜ189万円でなければならないかというコンセプトも明快である。

189万円という価格に落ち着かせるために、何ができて何ができないのか。

そのようにしてできたのがインサイトだった。

インサイトの成功は、日本の製造業が生き残るための一つのヒントを与えてくれる。

2012年4月24日 (火)

フィンランド教育成功のメソッド/諸葛正弥

C__docume1__locals1_temp_znp23  教師は「どうして?」と問うことによって、生徒に物事を考えさせるだけではなく、生徒自身に自分の考えを表現させることで、より深く考えさせているのです。受け身ではない自ら学ぶ姿勢が、この問いかけによって身につくだけでなく、「読む」「書く」「話す」という力のバランスが整います。
  どれだけ知識を詰め込んだとしても、それを表現してカタチにしなかったのなら、結局、誰にも伝わりませんし、そうやってカタチにしようとすることで浮かび上がる疑問や新しい発想も得ることができません。
  フィンランドの「どうして?」と問いかける習慣には、意見を言わせることで、新しい知識を子どもたちに習得させる効能があるのです。
  こうして見ると、日本がインプット(暗記)の教育であるのに対し、フィンランドはアウトプット(表現)の教育であることがわかります。

フィンランドと言えば、「学力世界一」ということで有名。

一方、学力が年々下がってきているのが、この日本である。

何か学ぶべき点があるのではないだろうか。

日本とフィンランド、どこが違うのか?

一番の違いは、日本の教育がインプットを中心であるのに対して、フィンランドの教育はアウトプットが中心であるということ。

どちらが実践的かといえば、当然アウトプット中心の学習。

そのための大切なことは「どうして?」と問いかけること。

この問いかけによって、自ら学ぶ姿勢が身につき、「読む」「書く」「話す」という力のバランスが整うという。

「どうして?」と問いかけること。

これは教育の現場だけでなく、あらゆる場面で使えるスキルかもしれない。

2012年4月23日 (月)

会社人生で必要な知識はすべてマグロ船で学んだ/齋藤正明

C__docume1__locals1_temp_znp22 船長・・・「ええか、齋藤。おいど-らがマグロを捕りに行くとき、一番大事なことを知っちょるか?」
私・・・「いえ、知りません」
船長・・・「それは『決める』ことど。おいど-らも、どこにマグロがいるかなんてわからん。情報を集めて、『ここで漁をしよう』と、えいやで決めちょる。当たり前じゃが、そこにマグロがいるなんて保証はね-んど」
私・・・「保証がないのに、決めるのって勇気がいりません?」
船長・・・「そりゃ、勇気がいるに決まつちよろ-が。でもの、決めないといつまでも海をウロウロすることになるんど。どうせ、ウロウロしたって、『ここでならマグロが必ず捕れる』なんてわからんど。それであれば、早く『ここで漁をする』と決めて、漁をしたほうがええ。マグロが捕れるかどうかは、じっくり考えても、すぐに決めても、結局、確率は50%ど。それであれば、早めに舵を取ったほうがええ。ダメだったら次の漁場に移動すりやええことじゃね-か。決めた回数を多くすれば、漁ができる回数も増やせるからの」

民間企業の研究所に勤めマグロの鮮度保持剤の開発をしていた著者は、ある日、上司から「お前はマグロ船に乗ってこい」と命令される。

その命令を断ることができず、泣く泣くマグロ船に乗るハメになった著者が、船上で目にし、耳にしたものが本書では書かれている。

ここで、船長は「決める」ことの大切さを語っている。

あれこれと悩むよりも、早く決めて行動する。

そして、間違っていたら、次にやることをまた決めて、それを実行する。

この繰り返しの回数を増やした方が結局は、多くのマグロを漁ることができる、と。

これなど、ビジネスにそのまま応用することができる。

あれこれ考え結局何も決められずにいるよりも、仮説、検証のサイクルを早く回した方が結果的に正解に早く近づくことができるということ。

船長の語る言葉は、自らの体験に裏打ちされた言葉であるだけに、知恵と教訓に満ちている。

2012年4月22日 (日)

「本気」になって自分をぶつけてみよう/小柴昌俊

C__docume1__locals1_temp_znp23   人に聞いたことや読んだ知識だけでは「自信」にはつながらない。自分のアタマで、「自分のこと」として考えて、はじめて「自分の考え」になる。当たり前のようだが、自分のアタマで考えている人は現実には少ないのではないか。(中略)
  ハトは遠くで放しても、必ず自分の巣に戻ってくる。
  わたしは中学のときにそのことを知って「これはすごいことだ」と思った。
  それで生物の先生に尋ねると、「それは、ハトには帰巣本能があるから帰ってくるんだ」と説明してくれた。
  「なるほど帰巣本能とはすごいもんだ」わたしはわかったような気になっていた。
  ところが、後からよ-く考えてみると、これは「ハトが帰ってくるという事実」を「帰巣本能」という別の難しい言葉に置き換えただけだ。
  なぜ帰ってくるのか、帰巣本能とは何か、何の説明もしていない。

「わかった」ということと「わかったつもり」になっているということとは、天と地ほどの差がある。

現代は情報化社会。

私たちの周りには多くの言葉が行き交う。

周囲の人を通して、テレビや新聞というメディアを通して、そしてネットを通して。

わからない事柄は、ネットの検索にかければ、一様の概要はつかむことができる。

しかし、ここで危険なことは、この時点ではまだ借り物の知識だということ。

ここでとどまっていたのでは、それは「わかったつもり」になっているにすぎない。

大事なことは、ここから先、いかに自分の頭で考えることができるかということ。

とことん考え抜いたとき、初めて「わかった」というレベルに達することができる。

でも、そこまで考え抜いている人はどのくらいいるのだろう?

小柴氏は「自分のアタマで考えている人は現実には少ない」と言っている。

ノーベル賞受賞者の言葉であるだけに、説得力がある。

2012年4月21日 (土)

ポリティカル・セックスアピール/井上篤夫

Fax   2008年1月3日、大統領予備選挙を争う民主党候補のヒラリー・クリントンは、アイオワ州の民主党党員集会で、それまで互角に戦ってきたバラク・オバマに大きく水を開けられ惨敗し、窮地に立たされていた。ところが、5日後のニューハンプシャー州の予備選では、地盤的に不利と言われていた予想を覆し、一気に立て直しに成功する。
  それには、実はある計算されたひとつの仕掛けがあった。
  この予備選の前日7日、ヒラリーは支持者との対話集会に出席していた。そのとき、彼女は突然、感極まったように彼らの前で目をうるませて、熱っぽく国の未来を憂える心情を語りだしたのだ。ヒラリーの表情はハリウッド映画のヒロインのようにも映った。このシーンが報道されるや、人びとの共感を呼び、一位を獲得することになったのである。いかにもアメリカならではの世論の作られ方と言えよう。
  しかし、これが“演出された”ヒラリー陣営の戦略だったとしたらどうだろう……。

本書は、ルーズベルトからオバマまで、ハリウッドとワシントンがいかに結びついてきたかが書かれている。

大統領選の裏側で、もはや映画製作者たちは欠かせぬ存在となっている。

どの陣営も有能なスタッフを抱え込みイメージ戦略を練っている。

ちょうど映画スターを売り出すように。

たとえば、大統領予備選挙を争う民主党候補のヒラリー・クリントンはこのイメージ戦略を駆使した。

ヒラリーは「強い女」のイメージを払拭しようと必死になっていた。

ヒラリーは個性が強い政治家。

それだけに、支持者が多いと同時に「ヒラリー嫌い」も極めて多い。

そのため彼女は、幅広い層の支持を獲得する作戦に打って出て、専属のハリウッド・プロデューサーをスタッフに置いていた。

だから、上記のヒラリーの涙の裏には、実はハリウッド・チームの綴密な計算がなされていたというのである。

かつて俳優出身のレーガン大統領は「大統領を演じた男」と言われた。

アメリカ大統領に必須の条件は、カリスマ性はもちろんのこと、映画俳優のようなセックスアピールに溢れた魅力、それにそう見せるための表現力。

大統領選における過剰と思えるような演出には、ちょっとついていけないと思える部分もあるが、日本人も学ぶべき点はあるような気がする。

やはり人々はリーダーに「人を惹きつける力」を求めるものだ。

また、それによって人々が動くのもまた事実である。

その意味では、日本の政治家も、リーダーらしい立ち居振る舞いを少しは研究した方がよいような気がする。

2012年4月20日 (金)

恐れるな!/イビチャ・オシム

C__docume1__locals1_temp_znp1e_2  日本人は、誰もが、責任を回避しようとする。
  サッカーにおいて責任感の果たす役割は大きい。現代サッカーは責任感に基づいていると言っても過言ではない。責任感のある選手だけが、プレーできるのだ。責任感の無い選手、いいかげんな選手、エゴの強すぎる選手、彼らが成功することは難しい。ジャージーを着る資格がないのかもしれない。しかし、日本人は総じてプレーにおける責任感に欠けている。まるで疫病から逃げるようにして責任から遠ざかる。
  責任感は日本の学校教育、社会システムと絡まるようにリンクしている。常に上の立場の人間が誰かの責任を負うという風習、仕組みがあることが、ピッチ上のプレーにおける責任感というものに少なからず影響を与えている。

サッカーの日本代表の元監督、オシム氏が言うには、「日本人は誰もが責任を回避しようとする」という。

そして、それは常に上の立場の人間が誰かの責任を負うという風習から来ているという。

そういえば、責任ということばに対する日本人の反応は独特なのではないだろうか。

以前、「自己責任論」で日本中が沸き立ったとき、何とも言えない違和感を感じたことを覚えている。

自分の言動に責任を持つことは、大人であればあたりまえのこと。

本来ならば、そんなことは議論の対象にもならないことではないだろうか。

それが、大議論になる。

ここに日本社会の特殊性がある。

そして、この誰もが責任を回避しようとする日本人の特性が、サッカーのプレーにも現れているというのがオシム氏の分析である。

だから、日本のサッカー選手は、リスクをとろうとしないという。

そのため、得点が生まれない。

以前からいわれ続けてきた日本サッカーの「決定力不足」もこんなところから来ているのかもしれない。

2012年4月19日 (木)

ウェブ新時代の「口コミ」戦略/小池晋一

C__docume1__locals1_temp_znp36   あなたの勤めている会社が、インターネット時代のビジネススタイルに関して、昨日の延長が今日で、明日はその延長にあるのだから大きな変化はないと思っていたり、時間はたっぷりとあるから、他社の取り組みなども見ながらじっくり検討していけばいいと思っていたりするならば、その会社にはもう赤信号が点灯しているかもしれない。
  「いきなり、何をバカなこといってるんだ!」と不愉快に思うかもしれないが、ここは一度そう思って、視野を広げてみたほうが理解しやすい。
  まず、はじめにいいたいことは、従来のマーケティング指針といえた購買行動プロセス「AIDMA(アイドマ)の法則」が、インターネットの普及により、どうも「AISAS(アイサス)の法則」に変わってしまったらしいということである。(中略)
  AISASは、Attention(注意)、Interest(関心)、Search(検索)、Action(行動)、Share(共有)の五つのプロセスにより、消費者の購買行動を定義している。従来のAIDMAとの違いは、Desire(欲求)とMemory(記憶)が削除されて、かわりにSearch(検索)とShare(共有)が追加されていることである。
  これは、Interest(関心)をもったらDesire(欲求)しMemory(記憶)するかわりに、すぐにネットに入ってSearch(検索)し、ほしい情報をすぐに入手するように変わってきたことを示している。インターネットが普及した今日では、だれもが納得しやすい指摘である。

AIDMAの法則は販売に携わる人であれば誰もが知っている法則である。

私も以前勤めていた会社の研修で習ったことがあるので、よく覚えている。

確かにこれは仮説にすぎないのだが、実際に人が何かを購入する場合には、このステップを踏むということは間違いないと思っていた。

ところが、今のネット社会ではAISASの法則だというのである。

これはまさに目からウロコである。

しかし、いわれてみれば確かにそう。

自分自身の行動を振り返ってみてもDesire(欲求)とMemory(記憶)の代わりに、Search(検索)とShare(共有)という形に変わってきている。

ということは企業もこれを前提にマーケティングの戦略を立てなければ生き残れないということ。

従来型の販売方法が通用しなくなるはずである。

でも、どれだけの企業がこのことに気づき対策を立てているのだろう。

相変わらず従来型の販売方法に固執している企業が大半なのではないだろうか。

2012年4月18日 (水)

これが答えだ!/カート・コフマン&ゲイブリエル・ゴンザレス=モリーナ

C__docume1__locals1_temp_znp21   社員と才能に関して言うと、多くの企業は二十世紀の変わり目頃の手法を用いている。彼らはいまだに、高い成果をあげる人間は生まれるものではなく、作られるものだと固く信じている。社員は、たんに情報(知識)を与えられ、充分な期間、訓練を受ければ(スキルを習得すれば)、質の高い仕事をするはずだと考えられている。
  この考えはまちがっている。神経科学によれば、人はもともと脳に張り巡らされた回路に従って、学習し、行動する。よって、あることを学び、応用することは、ある人にとっては容易で、別の人にとってはそうでない。企業が社員に対する情報のハイウェイを広げても、それぞれの社員が情報を取捨選択する方法は変えることができない。どの情報を使い、どれを無視するかは、脳が決定するのだ。
  どんな企業もこの自然の摂理を変えることはできない。たとえ何百万ドルという金を無意味に注ぎ込んだとしても。(中略)
  では才能とはいったい何だろう。多くの人は、才能はひと握りの人間だけに与えられる特別な能力と考えている。四回転ジャンプを成功させ、オリンピックで金メダルをとるような幸運な人間だ。または、七歳の指で心揺さぶるバイオリンの音楽を奏でる神童だ。あるいは、白黒の映像の中に、ある田舎の雰囲気を表現する映画製作者だと。
  彼らは魔法の手を持っていて、トースターから年代もののサンダーバードまで、何でも修理するこあかとができる。あらゆるものの在り処を知っていて、必要になるまえに手に入れられる。わずらわしい手順が必要な場所を見抜き、それを回避する方法を考えつく人たちだと。
  しかし才能はこれを超える。一般的に考えられているよりはるかに広範なものだ。才能はわれわれ全員に備わっている。何かの点で、われわれの一人ひとりに力を発揮させる生まれつきの素質だ。才能~繰り返し現れる思考感情行動パタ-ン~が適切な役割を与えられたときにこそ優れた成果が生み出される。重要なのは、それぞれの才能を最大限に活用できる役割を見つけることだ。

ここでは「才能」について三つのことを言っている。

第一に、成果は才能によって生み出される。

第二に、才能は持って生まれたものなので変えることはできない。

第三に、才能はわれわれ全員に備わっている。

と、いうこと。

大事なことは自分に与えられた才能を発見し、それを最大限に活用できる役割を見つけること。

そして、マネージャーの仕事は、部下の才能を発見し、それを最大限に活用できる役割を与えることだという。

ギャラップ社のコンサルタントである著者が、認知神経科学を用い、膨大な調査の統計分析を行うことによって導き出した答えがこれだ。

圧倒的なデータに基づいた分析であるだけに説得力がある。

2012年4月17日 (火)

弁護士の仕事術・論理術/矢部正秋

C__docume1__locals1_temp_znp24   哲学者サルトルは「地獄とは他人である」という。自分とは育ちも環境も違う他人は、自分とは完全に違う価値観や世界像をもっている。
  だが、ふだんからそう考える日本人は少数派だろう。
  日本のような擬似同質社会では「話せばわかる」を暗黙の前提にしがちである。日本人は、「とことん話し合っても絶対にわかり合えない他者」の存在に慣れていない。相い容れない価値観を認めず、対立を暖昧にしたまますべてが流れていく。家庭でも、職場でも、社会でも、「個人の存在」は希薄である。
  とはいえ、それは単に表面上のことであって、個人の間の溝は意外に大きく、他者の内面はうかがいしれない。
  たとえばリストラ、不況、離婚、事故、災害など、危機的状況に直面してはじめて自分と他人との暗く深い溝に気がつく。同じ価値観をもち、同じものの見方をしていると思っていたのが、人生の裂け目に直面して、実はまったく相反する見方をしていたことに驚く。

『日本人は、「とことん話し合っても絶対にわかり合えない他者」の存在に慣れていない』

これは国際弁護士として活躍する著者だからこそ言える言葉だと思う。

確かに、私たちが人と接するとき、「話せばわかる」と安易に考えてしまいがちだ。

しかし、「話しても絶対に分かり合えない関係」が、世界には多く存在する。

いやむしろ、そのような関係が世界ではあたりまえなのかもしれない。

そして、それを前提に、ではどうしたらよいのかと考えること。

これが交渉術というものなのかもしれない。

2012年4月16日 (月)

「決定」で儲かる会社をつくりなさい/小山昇

C__docume1__locals1_temp_znp33   経営上の決定をするとき、多くの社長は帰納的に考えます。売上はこれこれ。経費は、減価償却費はこれだけ。将来的な見通しはこう。したがってこう決定する、と。
  一見論理的な考え方のようですが、間違っています。これは「決定している」のではありません。「決定させられている」のです。
  こういう決定の「させられ方」を許すとどうなるか。単純な話、取り返しがつかないほどの赤字があったとすれば「会社を倒産させる」という決定以外にはできない理屈になる。
  私は演鐸的に決定します。最初に「こうしたい」「こうでありたい」と決定する。そしてその決定を実現するためにはどうしたらいいかを考える。まず決定ありき、なのです。
  経営とは、いわば決定の集積です。会社を赤字にするのも黒字にするのも社長の決定次第です。「利益を出す」「倒産させない」と決定するからこそ会社は黒字になり、勝ち残ることもできるのです。社長としてはそのことにもっと敏感になっておくべきです。

「決定している」のか「決定させられている」のか、この違いが優れた経営者かどうかの違い。

優れた経営者は演繹的に考えるという。

つまり、最初に成功のイメージを描き、そのためにはどうすれば実現できるのか、と、演繹的に考える。

確かに、今、業績を上げている企業のトップは、まず「こうなりたい」「こうあるべきだ」とまずビジョンを示し、社員をその方向に引っ張っていっていることで共通している。

トップの仕事は決定すること。

これは企業経営の世界だけではなく、すべてのリーダーに求められることではないだろうか。

最悪なのは、何も決まらない、決められないトップだ。

2012年4月15日 (日)

まず、ルールを破れ/マーカス・バッキンガム&カート・コフマン

C__docume1__locals1_temp_znp20  ある寓話を紹介することで、すぐれたマネジャーが共通して待っている考え方を理解していただくことにしよう。
  昔あるところにサソリとカエルが住んでいた。
  サソリは池の向こう岸に渡りたかったが、サソリであるために泳げない。そこでカエルのところに行って頼んだ。
  「カエルさん、僕を背中に乗せて池の向こう岸まで連れていってくれないか」。
  「いいよ」とカエルは答えた。「でも、よく考えると断固お断りだ。泳いでいる最中に君は僕を刺し殺すかもしれないからね」。
  「なんでそんなことを考えるんだ」とサソリは反論した。「君を刺し殺そうなんて考えるわけがないだろ。だって君が死んでしまったら、僕も溺れてしまうんだぞ」。
  カエルはサソリがどんなに危険かよくわかっていたにもかかわらず、このサソリの論理に納得してしまった。カエルは考えた、この状況ならサソリはおとなしくしっぽをおさめているはずだ。カエルは引き受けた。背中にはい上がったサソリを乗せてカエルは池に入った。ちょうど池の真ん中にさしかかったとき、サソリはやおらしっぽを動かしてカエルを刺した。息も絶え絶えにカエルは叫んだ。
  「どうして刺したんだ。刺しても自分のためにならないだろ。僕が死ねば君も溺れるんだぞ」。
  「わかってるよ」と池に沈みそうになりながらサソリは答えた。「だけど僕はサソリなんだ。君を刺すのが仕事なんだよ。それが僕の自然の本性なんだ」。
  伝統的常識をもとにすれば、カエルのように考えたいという気になる。人の本性は変わるものだと。
  そうした知恵はこうわれわれにささやく。一生懸命努力さえすればだれでも望む姿になれる。そうした変化の方向性を決めることがマネジャーの責任である、ということは間違いない。規則や方針を定めることによって、自分の部下が勝手な行動に走ろうとするのを抑えるべきだろう。部下に能力や技能を身につけさせて、足りないところを補うようにする。マネジャーとして最大の努力を傾注すべき目標は、人が持って生まれたものを抑えたり、修正したりすることだ。
  すぐれたマネジャーはこの考えを即座に否定する。カエルが忘れたことをいつも頭に置いている。
  すなわち個人一人ひとりは、サソリと同じように自分自身の独自の本性に忠実なのだ。それぞれが違った動機づけで行動している、つまり個人個人は自分なりの考え方や他人との接し方があるということがよくわかっている。人一人を改造するにはそれなりの限界があることも認識している。とはいえ、こうした違いが存在することを嘆いたり、それを握りつぶしたりしようとはしない。反対に、その違いをうまく活用している。個人一人ひとりが、ますますその人自身になるように力を貸そうとしているのだ。
  すぐれたマネジャーが何万人も、こだまのように口にした、ある一つの考え方を紹介する。

  人はそんなに変わりようがない。
  足りないものを植えつけようとして時間を無駄にするな。
  そのなかにあるものを引き出す努力をしろ。
  これこそ本当に難しい。

  この考え方が、すぐれたマネジャーに備わった知恵の源泉なのだ。部下にどのように接するか、部下のために何をしているか、そのすべてがこの考え方に反映している。すぐれたマネジャーがマネジャーとして成功するための基本なのだ。

少し引用が長くなってしまったが、ここではマネージャーとして大事なことが述べられている。

すぐれたマネジャーは何をし、何をしないのか。

世論調査で有名なアメリカの調査機関ギャラップが、8万人のマネジャーと100万人の従業員に行ったインタビュー調査をもとに、その点を解明したのが本書である。

多くのマネージャーは、自分の力で部下を変えることができると思い込んでいる。

またはそうするのがマネージャーの仕事だと思っている。

確かに、ちょっとした行動の改善やスキルの向上はマネージャーの力によって可能だ。

しかし、部下の本質的な部分はそう簡単に変えることはできない。

全く不可能とは言えないが、それには多大なコストと時間がかかる。

本書は膨大なマネージャーの調査データから、優れたマネージャーほど、こんなことに時間を費やしてはいないということを証明する。

世の中の傑出した人物の言葉を即、真理と決めてしまうのではなく、それをあくまでサンプルとして扱い、より深い原則を見ようとする実証的スタンスである。

それだけに、この「調査結果」には説得力がある。

確かに、人間的な想いから「俺の力でこいつを一人前にしてやる」と気張っても、かえってそれが空回りすることが多いもの。

「人はそんなに変わりようがない」

確かにそうなのだ。

その前提の上に立って、「では、何をすべきなのか?」とやるべきことを考えること。

これがマネージャーに求められている。

2012年4月14日 (土)

壊れる日本人 再生編/柳田邦男

C__docume1__locals1_temp_znp26   江口氏の人生を決定づけたのは、次男の出生時に医師が語ってくれた言葉だった。
  一九八二年のことである。江口氏はその頃、アメリカ西海岸にあるYKKU・S・A社のシアトル支社に勤務していた。その年の九月、シアトル市内の病院で、次男・裕介君が生まれた。シアトルに転勤する前のロサンゼルス時代に生まれた長男の俊介君はとくに障害もなく元気に育っていたので、次の子も無事生まれたことを、江口夫妻は心から喜んだ。しばらくして、医師は夫妻を前に赤ちゃんの診断結果を告げた。
  「残念ながら裕介君は、染色体検査の結果、ダウン症候群であることがわかりました。知的障害もあるのです」
  夫妻は大変なショックを受け、すぐには言葉も出なかった。体中の力が抜けた感じだった。しかし、医師は医学的な診断結果の説明をしただけでは会話を終わりにしなかった。倒れそうな夫妻の心を支えて、こう続けたのである。
  「あなた方は障害をもった子どもを立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。どうぞ愛情深く育ててあげてください」・・・と。
  夫妻はこの言葉で我に返った。この子を自分たちが育てなくて、誰が育てられようか。この子の親として選ばれたからには、愛情をこめて育てなければならない。医師が言ってくれたように、自分たちには力があるはずだ。可愛いこの子のためなら、できないことはない。江口夫妻は医師の言葉によって勇気づけられ、思い直すことができたのだった。

言葉は重要だなと思う。

ひと言が人を絶望から救い出してくれることもあれば、人を絶望のどん底に投げこむこともある。

とくに医師が患者やその家族に対して使う言葉は重要である。

絶望のどん底だった江口夫妻にとって、医師の「あなた方は障害をもった子どもを立派に育てられる資格と力のあることを神様が知っておられて、お選びになったご夫婦です。」という言葉は、単なる慰めの言葉ではなかった。

「なんで私たちだけが」と、被害者意識に陥りがちな思考を、知的障害者の子を持つ親になるということの意味を考えさせ、前に向かって歩んでいく勇気を与える言葉だった。

人間、どんなに不幸に見舞われても、その意味を自分なりに自分の頭の中で自覚できたとき、前に進む勇気が得られるもの。

事実、江口氏はその後、勤務するYKKで、障害者でもできる仕事を請け負う特例子会社をつくることを提案し、設立の先導役を果たす。

今はその会社の社長を務め、障害者を積極的に雇用し、立派に利益を出しているという。

言葉は大切だ。

2012年4月13日 (金)

私たちも不登校だった/江川紹子

C__docume1__locals1_temp_znp27   傍から見ていると決して効率はよくないけれど、今の恭子自身は、自分が歩んできた道も悪くはないと、思っている。
  「ゆっくり歩いていくのもいいな、と。車だったら、そこらへんで咲いている花が見えないけれど、歩いていたらいろんなモノが見えてくると思うんですよ」
  今でも自殺を図ったり、実際に命を落とす十代がいる。そういう人たちに何か言ってあげたいことはない?そう水を向けると、彼女はゆっくり言葉を探しながら、こう語った
  「死にたい時って、さみしいのよ。自分が歩いている道には先がないんじゃないかっていうのと、誰も私のそばにいないという、この二つが大きいんじゃないかな。はたから見ていると、そんなに絶望的な状況とは思わなくても、本人にとってはそうなの。
  でも、悩んでいる最中は分からなかったけど、道がないとか誰もいてくれないというのは、自分の心の中で作っているイメージなのよね。道は作っていくもんだし、人は誰か探せばいるもんだし。だから、とりあえず誰かに話してみること……かな」
  自殺未遂の後、恭子は「これからの道」という題の、生きていくことへの不安と希望が入り交じった作文を書いている。
〈人生という名の道を歩きだして、約十五年十ヵ月。どうにか歩けるようになってきた。(中略) これから先のことは見当もつかない。五年後、十年後に私はどうしているだろう。明日のことすらわからないんだもの。迷子になっているかもしれない。もう歩いていないかもしれない〉〈私の夢。保母になりたい。そして、児童福祉関係の仕事につきたい。(中略)この夢、私にはあわないかもしれないし、なれないかもしれない。これから歩いていくうちに、また気が変わるかもしれない。だけど、とりあえず今の夢。大きな夢。そのまえにしなけりやいけないことがある。まず高校を卒業しなけりゃなんない。大学受験。短大までは行きたいな。それぞれがひとつの夢。一歩先が夢。ともかく前を見て、歩き続けたい。もう五年は歩いていたい。あと十年間歩き続けられたら満足だと思う。
  五年後、私は二十歳。何をしているだろう。どんな道を歩いているかしら。十年後、二十五歳余り。どうなっているだろう。戻ることの出来ない、人生という名の道。一歩先も霧中。見えない。回り道したって、寄り道したって、それが私の道なんだから・・・・・・無駄足じゃないと思う。よく分からないことばかりだし、後悔することもあるかもしれないけれど……私は、やっぱりむつかしいけど、小さな夢を見続けながら、大きな夢にむかって歩いていこうと思う〉

本書は「東京シューレ」という不登校児のケアセンター出身の8人の社会人をインタビューしてまとめたもの。

8人の方のインタビュー当時の立場は、旅行代理店支店長代理、二級建築士、高齢者ホームヘルパー、団体職員、主婦、料理人、放送大学生、社会福祉士。

上記のその中の一人、社会福祉士をしている元不登校の女性へのインタビューの内容の一部。

彼女は中学生の時、不登校になり、その後何度も自殺未遂を繰り返している。

私たちの生きている社会の中には、最短距離で頂点まで登り詰めるようないわゆるエリートと呼ばれる人たちもいれば、亀のような足どりで、一歩一歩、歩んでいる人もいる。

両者とも大切な社会の構成員の一人である。

傍から見たらイライラするようなゆっくりした足どりで歩んでいる人であっても、その人なりに人生を味わい、夢をもって一歩一歩前に進んでいるとしたら、それも人生かなと思う。

少なくとも、そのような人の居場所がある社会であるべきだと思う。

2012年4月12日 (木)

1940年体制/野口悠紀雄

Bt000012844200100101  この条件を生かして日本経済を根本から改革するための必要条件は、古いものを助けないことだ。それにもかかわらず、自民党政権は、自動車買い替え、エコ家電によって需要を喚起し、雇用調整助成金によって過剰雇用を温存しようとした。これは、従来型の産業構造を維持しようとするものにほかならない。民主党も、この政策から脱却していない。法人税の減税が必要と言われるが、それを実現しても古い産業構造をさらに延命させることにしかならないだろう。経済政策を大転換させる必要性は、緊急のものである。

本書で野口氏が主張しているのは、「現在の日本経済を構成する主要な要素は、戦時期に作られた」という仮説である。

そして、現在の日本の経済体制はいまだに戦時体制であることを指摘している。

本書のタイトル「1940年体制」はここから来ている。

その意味するところの第一は、それまでの日本の制度と異質のものが、この時期に作られたこと。

日本型企業、間接金融中心の金融システム、直接税中心の税体系、中央集権的財政制度など、日本経済の特質と考えられているものは、もともと日本にはなかったものであり、戦時経済の要請に応えるために人為的に導入されたもの。

第二の意味は、それらが戦後に連続したこと。

これは、終戦時に大きな不連続があったとする戦後史の正統的な見方には反するものだ。

特に重要なのは、官僚や企業人の意識の連続性である。

日本企業の特徴とされる、年功序列、終身雇用、企業別労働組合も、その象徴であるとする。

私たちが「日本的」であると思っているものの多くは、実は日本に古来からあったものではなく、戦時期につくられたものであり、それが今に至るまで続いているのだという指摘はナルホドと思わされた。

そして、今まさに日本では1940年体制が崩壊しようとしている。

これはある面、チャンスではないだろうか。

ここで変われなければ、日本はもっと衰退していくような気がする。

2012年4月11日 (水)

そうだったのか!アメリカ/池上彰

Bt000014889100100101_tl   一九八〇年七月、共和党大会で大統領候補に指名されたロナルド・レーガンは、「神がお創りになり、私たちにお与えくださったこの広大な大陸の素晴らしさを言葉で言い表わすことはできません」と演説しています(リチャード・V・ピラード、ロバート・D・リンダー著、堀内一史ほか訳『アメリカの市民宗教と大統領』)。
 さらにレーガンは、一九八七年に、こう演説しています。「神意の導きの手は、このアメリカという新国家をアメリカ国民だけのためではなく、もっと崇高な目的のために創られました。すなわち、人類の自由という聖なる火を守り、広げるためでもあるのです。これはアメリカの厳粛なる義務なのであります」(同前)
 アメリカは、神によって創られた。理想を世界に広げるために。アメリカは、なぜ世界の国々にさまざまな介入をするのか。ここに、その理由が説明されています。

アメリカという国は矛盾に満ちている。

自由と民主主義の象徴としてのアメリカの姿がある一方、独善的で超保守的、平気で他国の政治にも圧力をかけ、ある時には軍事力をもって介入するアメリカの姿もある。

なぜなのか?

池上氏は本書で、このことをわかりやすく解説している。

特にアメリカが宗教国家であるという点は、日本人にはなかなか理解できないのではないだろうか。

ギャラップ2004年の調査によると、アメリカ人の約90%は、「神を信じる」と答えている。

また、天国の存在を信じる者は81%、地獄の存在を信じる者は70%。

多くの国民が、神を信じているのである。

聖書の示す神を唯一絶対の神として信じるアメリカ人。

アメリカ人の価値基準はすべてここからきている。

これは事実上、無宗教の日本人にはなかなか理解できないのではないだろうか。

上記のレーガンの演説を、もし同じ内容の演説を日本でやったら、どうだろうか?

「神意の導きの手は、この日本という国家を日本国民だけのためではなく、もっと崇高な目的のために創られました。すなわち、人類の自由という聖なる火を守り、広げるためでもあるのです。これは日本の厳粛なる義務なのであります」・・・と。

恐らく狂信的だと思われるだろう。

それが拍手喝采のもとスンナリと国民に受け入れられるところに、宗教国家アメリカの本質があるような気がする。

2012年4月10日 (火)

必ず売れる!ゲリラ・マーケティング/ジェイ・C・レビンソン

C__docume1__locals1_temp_znp20   アメリカ経済だけを見ても、現在の成長の半分は、10年前には存在しなかった企業によるものだ。世界に目をやれば、さまざまな業界において収益を増やしている企業は、既存の業務をうまく遂行しているだけではない。
  ゲームのルールを大胆に変革し、新しいチャンスを生み出すような環境、製品、サービス、市場、経験を作り出しているのである。こういった企業は、「革新せよ、創造せよ、さもなくば退場せよ」を地で行っている。
  新製品やサービスの導入、ビジネスの拡張、新しい市場の開拓は、業績を向上させるための唯一の方法なのだ。
  進歩や前進は、ゲリラ企業の血液、すなわち活力源である。進歩を求めなければ、あなたの会社は停滞し、現状維持に陥り、最後には滅亡する。

ゲリラ・マーケティングというタイトルだが、内容はマーケティングの基本そのもの。

まずマーケティングの目的を明確にし、競合を調査し、ターゲットを明確にし、自社のポジショニングをしっかりと確立し、ニッチを狙え・・・と。

いずれもマーケティングの基本と言っても良い内容。

ただし、それを忠実に実践している企業はそれほど多くはないであろう。

大事なことは実践である。

アメリカでは、現在の成長の半分は、10年前には存在しなかった企業によるものだという。

日本はどうだろう。

アメリカほどは新陳代謝が進んでないように感じる。

しかし、日本もやがてそのような時代がくるのではないだろうか。

新製品やサービスの導入、ビジネスの拡張、新しい市場の開拓、すべての企業にこれらが求められてくるであろう。

そしてこれができない企業は淘汰されていくのではないだろうか。

その意味ではマーケティングは一部の専門家のものではなく、すべての企業にとっての必須科目になってきたといってよいだろう。

2012年4月 9日 (月)

長州奇兵隊/一坂太郎

C__docume1__locals1_temp_znp1f   萩市の中心部である江向に、市立明倫小学校があります。松陰や晋作も学んだかつての藩校明倫館の敷地に建てられた、風格も歴史もある小学校で、観光客も訪れる萩の名所のひとつでもあります。(中略)
  この小学校は毎朝、各学級で「松陰先生の詞」を全員で唱和します。
  引用される松陰の言葉は各学年で異なり、学期ごとに新しいものに変わります。だから入学から卒業まで明倫小学校で過ごすと、少なくとも十八種類の松陰の遺訓を毎日唱和し、学ぶことになるわけです。さらに、萩市内の小学校では道徳の授業に『松陰読本』(初版昭和三十四年)という子供向けに書かれた松陰の伝記を副教材としています。
  ニ十一世紀の日本において、ランドセルを背負った幼な子たちが、「今日よりぞ幼心を打ち捨てて、人となりにし道ぞ踏めかし」「天地には大徳あり、君父には至恩あり・・・・・・」といった「松陰先生」の遺訓をそらんじてみせる。そして「松陰先生」が学んだ同じ場所で自分たちも勉強しているのだという、強烈な誇りをもっている。実に末恐ろしい子供たちではありませんか。東京から取材旅行に来た雑誌編集者が、「都会でやったらただちに偏向教育とかいわれ、問題になりますね」といいましたが、確かにそのとおりかもしれません。それが当たり前に行われているところが、長州、萩という土地の放つ個性なのです。

同じ山口県人でありながら、萩市の明倫小学校でこのような教育が行われているとは知らなかった。

しかし、同郷の偉人、吉田松陰に学ぶという機会に恵まれた子供たちは幸せだと思う。

確かに偏向教育は問題だ。

しかし、今の学校教育、あまりにも均一化されすぎているのではないだろうか。

どこもかしこも金太郎飴的な子供たちを量産する工場のような教育機関になってしまっているような気がする。

今の日本、この方がよほど弊害が大きい。

偏った教育なのか、個性的な教育なのか、その差は紙一重。

これからの時代、学校も独自のカラーを打ち出すような方向に行った方がうまくいくのではないだろうか。

2012年4月 8日 (日)

牛丼一杯の儲けは9円/坂口孝則

C__docume1__locals1_temp_znp22   「幸せな家庭はどこも似通っているが、不幸な家庭は多様である」とロシアの文豪トルストイは『アンナ・カレーニナ』のなかで書きましたが、企業に当てはめれば、「儲かっている企業には、それぞれ多様な仕入れの工夫があり、儲かっていない企業の仕入れはどこも似通っている」と言うことができるかもしれません。
  高く仕入れることは、相手の言いなりになっていれば済むことですが、安く仕入れたり仕入れ商品を上手く使ったりすることにはさまざまなアイディアや考慮が必要だからです。
  仕入れによって儲けようとしている企業や店があったなんて知らなかったかもしれません。実は、今日もそんな、儲かるための「仕入れ」をずっとずっと考えている人たちがいます。会社によっては、調達・購買と呼ばれている部署かもしれません。バイヤーとかマーチャンダイザーと呼ばれている人たちかもしれません。

牛丼の並盛り一杯350円としても、それが丸々利益になるわけではない。

材料費、高熱水費、人件費等を一杯当たりの単価に換算すると、儲けはおよそ9円になるという。

ところが材料費が10円下がれば、同じ値段でも儲けは倍になる。

だから仕入れを工夫する必要があるというのが著者の主張。

確かにそうであろう。

売り上げを伸ばすことが困難な今の時代、仕入れ値を下げることが利益をあげる最も簡単なやり方。

しかし、これが行き過ぎると下請けいじめにつながることもある。

さらにこれがエスカレートすると値引き競争になり、最後は自らの首を締めることにもつながる。

やはり程度問題ではないだろうか。

ドラッカーは企業に求められる成果とは「顧客の創造」だと言った。

企業は独自の商品を開発したり、特徴のあるサービスを提供することにより、顧客を創造することを第一に考えるべきではないだろうか。

2012年4月 7日 (土)

思考停止社会/郷原信郎

C__docume1__locals1_temp_znp21   もし、この水戸黄門の印篭が、八時五分に出てきたらどうでしょうか。テーマ音楽が終わり、代官所の奥座敷で代官と商人が密談している場面でドラマが始まった途端、突然、黄門様が助さんと格さんと一緒に乗り込んできて、印篭が示され、代官と商人の二人はその場にひれ伏します。二人がどのような話をしていたのか、まったく明らかにされません(中略)
  このような「八時五分に印篭が登場するドラマ『水戸黄門』」と同じことが、今、日本の社会のあらゆる分野で起きています。
  「法令遵守」が徹底された今の世の中では、何か問題が表面化すると、事実の中身やその背景や原因などより、法令に違反したかどうかが問題にされ、法令違反はいかなる理由があっても許されません。それと同様に、「偽装」「隠蔽」「改ざん」「捏造」に当たる行為を行った者は一切弁解はできません。これらの行為に対しては、マスコミから、そして、世の中全体から、問答無用で厳しい批判、非難が浴びせられます。「法令遵守」や「偽装」「隠蔽」「改ざん」「握造」への非難は、水戸黄門の印篭と同じように絶対的な権威を持っています。この「印篭」が向けられると、それを行った者は、その場にひれ伏し、悔い改めるしかないのです。
  このように「法令遵守」などの「印篭」が登場し、その瞬間から思考停止に陥るという現象が、日本中を覆い尽くしています。法令を遵守したのかしなかったのか、「偽装」「隠蔽」「改ざん」をしたのかしなかったのか、ということだけに関心が集中し、そこでどういうことが行われているのか、何が問題なのか、ということを何も考えなくなってしまっているのです。

本書で郷原氏は、法令順守が思考停止を招くと言い、それを水戸黄門の印篭にたとえている。

最初から法令遵守を持ち出すのは、水戸黄門のドラマが始まって5分後には印篭が出てきてドラマが締めくくられてしまうのと同じ。

これでは、ドラマとしては面白くないし、現実の社会にこれを当てはめると、最初から法令順守を持ち出すのは偽装や隠蔽といった社会的問題の本当の解決にはならない。

日本では、様々な分野について法が精密に作られているが、それが実際に適用されることはほとんどない。

法は象徴的に存在しているだけで、実際に社会内で起きたトラブルを解決するのは、慣行や話し合いなど法令や司法以外の様々な問題解決手段だった。

そしてそのような知恵者が非常に重用されたものだ。

その意味では何でも法令を最初から持ち出すアメリカとは全く違ったコンセプトで社会の仕組みがつくられているといって良い。

確かに法律は守らねばならないが、だったら自動車の運転で制限速度を守っている人がどのくらいいるだろうか。

60キロをちょっとでも上回ったら車を止められ罰金を取られたら、おそらく道路交通は完全にマヒしてしまうだろう。

それと同じことが今、日本社会で起こっている。

「思考停止社会」に日本が歩み始めているという警告は真に受け止めるべきだろう。

2012年4月 6日 (金)

「大人」がいない・・・/清水義範

C__docume1__locals1_temp_znp1e   たとえばテレビのトーク番組などで、スタジオ内にいる観客が次のような反応をするのを我々はよく見る。女優でも男優でもいいが、ある人が、私ももう三十五歳ですよ、などと言うと観客は大きくどよめくのだ。
  「え-っ!」
  その驚きの声は、そんなに老けているのか、という意味のものではない。こんなことにこそ日本人の意識が自然に出てくるもので面白いのだが、これは半分は素直に驚いているのだとしても、あとの半分はお世辞なのである。
  つまり、「え-っ、そんな歳にはとても見えなくて、もっと若く見える-」というのが、あのどよめきの意味するところなのだ。そこで、どよめかれた俳優は、少し嬉しそうな、まんざらでもない顔をする。 (中略)
  少し不思議な気がする。日本人には大人という言葉が、知恵ある一人前の人間という意味でもあるのに、その一方で、若いというのが大変なほめ言葉なのだ。
  私は外国のことをあまり知っているわけではないが、ヨーロッパ人などは、若いね、と言われて手ばなしでは喜ばないような気がする。個人主義が根底にある欧米人は、個人である自分を確立して社会と対峙しなければならないと感じている。だから、私は一人前の人間である、という自負が必要なのだ。まだ幼いだなんて、見くびられるのは我慢ならない、と感じている。
  『赤と黒』の主人公ジュリァン・ソレルだって、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフだって、実はまだ若いのだが、子供っぽいなんて思われてなるものか、と肩に力が入っている感じである。「若いね」なんて言われたら彼らは怒るであろう。

大人といってもいろんな意味がある。

生理的年齢が20歳を過ぎたということ、

人間として経験を積み重ね成熟してきたこと、

子供としての純粋さをなくしてしまったこと、等々・・・

良い意味でも悪い意味でも「大人」という言葉を使う。

しかし、著者がいうように、概ね多くの日本人は生理的年齢が大人になっても、若いと言われることを好む傾向にあるようだ。

映画を観ても、欧米は成熟した見応えのある大人の映画が多くあるが、最近の日本映画は若者向けの少し軽めの映画が多いように感じる。

テレビを観れば、お笑いの若手芸人が出てくるバラエティーがやたらに多い。

日本社会全体が大人として成熟することを否定するような風潮だ。

結果として、いつまでも人間として成熟しない、生理的年齢だけが大人になってしまった人間が増えてくる。

この傾向はやはり正常ではないと思う。

この状態を放置すると、社会的にも様々な問題が噴出してくるような気がする。

2012年4月 5日 (木)

NYビジネスマンはみんな日本人のマネをしている/マックス桐島

C__docume1__locals1_temp_znp22   また、ジェシーによれば、プリウスの騒動でトヨタに親近感を持った消費者も少なくないという。豊田章男社長が公聴会に出席するためアメリカ入りした際、全米のトヨタ販売店経営者がワシントンに集い、
「自分たちは百パーセント、親会社を信じている」
「トヨダ社長を信頼している」
  と明言したのだ。
  その言葉に涙する豊田社長の姿は、全米ネットのニュースで報道された。そして、家族愛にも似た日本的な会社への忠誠心が視聴者の感動を呼んだのだという。
  それ以前、GM倒産の際には、経営陣の手腕を責める自動車ディーラーのデモなどがクローズアップされていた。トヨタの騒動は、まさにその正反対。いがみ合う者より、互いを慈しみ合う者のほうが見ていて気持ちがいいのはどの国でも同じことだ。ディーラーとの間が「フェアウェザー・フレンズ(晴れのときだけの友好関係)」だったことが露呈してしまったGMよりも、「レイニーデイズ・フレンズ(悪天候のときでも守ってくれる友好関係)」であることをアピールできたことで、トョタの企業イメージはかなり回復されたのである。
「企業間の競争は、常に勝ちばかりじゃないんだ。時には負けたり、窮地に陥ったりすることがある。そんなとき、いかにしてグッド・ルーザー(よき敗者)として潔くなることができるか。企業の本質は、そこにかかっているんだよ」ジェシーの読みは、外れてはいなかったようだ。その後の世論調査によると、トヨタに好意的なイメージを抱いているアメリカ人は、全体の六○パーセントに達しているという。日本ならではの企業風土が、トヨタを最悪の危機から救ったのだ。

日本に住んでいると、日本人的なことがあたりまえとなり、その良さに気づかないことが多いものだ。

本書では、ハリウッドで仕事をしている著者が、多くのニューヨーカーとの交流の中で発見した日本人の良さが記されている。

ここでは、あのプリウスのリコール問題が取り上げられている。

全米のトヨタ販売店経営者との集いで豊田社長が感極まって涙したシーンは日本でも放映された。

そのとき思ったことは、強いリーダーが好まれるアメリカで、豊田社長のあの涙はどのように受け止められるのだろう、ということであった。

どうも、アメリカの中にも好意的に受け止めた人がいたようだ。

日本的経営とか家族的経営というと、グローバル化が進んだ現在、時代後れという印象をもちがちだが、案外そうでないかもしれない。

もしかしたら、それが日本企業の強みとなる日がくるかもしれない。

そんなことを考えさせられた。

2012年4月 4日 (水)

宇津木魂/宇津木妙子

C__docume1__locals1_temp_znp28   十年ほど前から、日本リーグでは外国人選手が活躍するようになりました。アメリカのミッシェル・スミスや、オーストラリアのハーディングとローチの意識の高さに良い影響を受けた日本人選手もいるはずです。技術的にも、彼女たちと戦うことによって日本のレベルが大幅に上がったことは間違いありません。
  彼女たち外国人投手を見ていて思ったのは、
「自分の頭で考えて投げているな」
  ということです。もちろん、監督の采配を無視しているわけではないのですが、チームの動きのなかでも自分たちの個性を生かす術を知っているのです。そして、ソフトボールに対する取り組み方に甘さがありません。
  環境が良すぎるせいか、日本の女子選手はどこかに甘さがあるような気がしてなりません。もし、日本の選手が自分の限界まで挑戦できるほど精神的に自立したら、どんなに強くなるだろうと思うのです。何もスポーツだけでなく、家庭人としても、母親としても。

宇津木氏は女子ソフトボールの監督として2000年、シドニー五輪で日本代表監督を務め銀メダル、04年アテネ五輪で銅メダルを獲得した。

その後、日本代表は2008年北京五輪では金メダルに輝いた。

日本人選手を知り尽くしていると言っても良い宇津木氏が、ここではあえて苦言を呈している。

日本人投手と外国人投手の違いは「自分の頭で考えて投げている」かどうかの違い。

そして日本人選手は「自分の頭で考えて投げる」ことに欠けているという。

チームスポーツであっても、やはり個性は大事。

これはチームワークに対する日本と欧米の受け止め方の違いからでているかもしれない。

日本人は一般的に個を殺してチームに貢献することを求められ、これがチームワークだと理解する。

一方、欧米では違いのある個性をお互い生かすことにより相乗効果が生まれ、結果としてチームのパフォーマンスが上がることを目指す。

個の自立ということを考えると、欧米型のチームワークに一日の長があるような気がする。

2012年4月 3日 (火)

日本は世界5位の農業大国/浅川芳裕

C__docume1__locals1_temp_znp22 「私は自分がどんなに努力しても、農業経営者にはなれそうもありません」こう語ったのは、米国のオバマ大統領である。
「世界市場のなかで、高度な技術力とマーケティング力、そして経営判断が求められる、(大統領以上に)複雑な仕事です。学生時代にアルバイトしたとき、『あんた仕事できないわね』と、すぐにクビになりましたから本当です。さらにみなさんは家族を養い、地域社会を支え、世界の食生活に貢献していらっしゃるのですから、本当に素晴らしい」オバマ大統領にここまでいわせる農業は、あらゆる産業のなかでもっともグローバルであり、かつ高度な経営判断のいるビジネスなのである。

「国内産でまかなえる食料が半分以下では、万が一、輸入がすべてストップした場合に、国民の多くが飢えて苦しむことになる。そのためには自給率を上げて、国民の食料安全保障を磐石にしておかなければならない」というのが政府と農水省の主張だ。

ところが、この数字にごまかしがある。

農水省の出す数字はいつもカロリーベースの自給率。

それによると、自給率は41パーセントとなる。

ところが、世界中でカロリーベース食糧自給率などという指標を国策に使っているのは、世界で日本しかない。

それ以前に、自給率を計算している国も日本だけ。

農業の実力を評価する世界標準は、メーカーである農家が作り出すマーケット規模だという。

その基準からいうと、日本国内の農業生産額はおよそ8兆円。これは世界5位、先進国に限れば米国に次ぐ2位。

立派な農業大国である。

ところが、こんなことは政府も農水省も決して言わない。

彼らはいつも、「日本の農業は弱い、だから国が守ってやらなければならない」、と主張する。

自給率が伝播する思想は、そのイカサマもさることながら、生産者と消費者、この両者の健全な関係のなかに国家を入り込ませるところに恐ろしさがある。

結果として、真っ当な経営努力をしていこうとする生産者の邪魔をする。

いい生産物を作り、販売努力をして常に新しいお客さんを開拓する。

規模拡大や生産性向上を実行し、いいモノを適正な価格で提供して、適正な利益を得る。

その生産物が美味しくて、値段も手頃であればお客さんが食べる量もついつい増えるだろう。

口コミでお客も広がる。

それが正しい消費拡大であり、自給率向上である。

それを、自給率向上の目玉と銘打った国策が妨げている。

今、農業は成長産業として位置づけられている。

少なくとも、国に邪魔をしてもらいたくないものだ。

2012年4月 2日 (月)

日銀を知れば経済がわかる/池上彰

C__docume1__locals1_temp_znp21   金融とは、世の中で「お金が余っている所」から、「お金が必要な所」にお金を融通する仕事です。「金を融通」するから「金融」なのです。
  「お金が余っている」といっても、何も金持ちだけの話ではありません。あなただって、すぐには使う予定のないお金を銀行や郵便局に預けておきますね。すぐに使う予定のない資金。これが「余っているお金」です。
  一方、現在の仕事を継続させるための運転資金が必要な会社、新しい事業を始めるために資金が必要な企業が存在します。双方をつなぐのが金融の仕事です。
  とりあえず使う予定のないお金を持っている人は、ダンス預金しておくよりは、少しでも増やしたいと考えますね。どこかにお金を貸して利子を受け取れれば、多少なりとも資金を増やすことができます。
  しかし、お金を安心して貸し出す先を見つけるのは、素人には容易なことではありません。うっかり貸して、相手の企業が倒産したら、大事なお金が一戻ってきません。貸した資金がきちんと一戻ってきて、それなりの利子も受け取れるのは大変なことです。
  一方、資金を借りる側も大変です。まとまった資金を貸してくれて、法外な利子を要求せず、計画通りに資金を返済すれば文句を言わないという人や会社は、なかなか見つかりません。資金を借りたら、途中で金利の引き上げを要求され、断ったら資金を引き揚げられたりしたら困ります。
  そこで、「余っているお金」をまとめて預かり、きちんと返済する会社にお金を貸すという仕事が大切になります。この仕事をしているのが金融機関なのです。

これは池上氏の「金融」についての説明。

本当にわかりやすい。

「金融」について、このくらいわかりやすく説明された本を私はこれまで読んだことがない。

このくらいかみ砕いて説明してもらえれば、それこそ小学生でもわかる。

長い間、NHKの「週刊こどもニュース」のお父さん役で出演していただけのことはある。

しかし、ここで考えさせられたことは、私たちは「わかっている」と思い込んでいる事柄が意外と多いのではないだろうか、ということ。

本当に物事を深く理解しているならば、わかっていない人に対して、わかりやすく説明できるはず。

それができないということは、実は「わかったつもり」になっていただけで、実は「わかっていなかった」ということ。

そう考えると、自分の知識の浅さに反省させられること大である。

2012年4月 1日 (日)

この情報はこう読め/岡庭昇

Fax   事実はひとつしかないが、真実は無数に存在しうるのである。ただ、“わたし”を欠落させた、擬制としての客観主義が、新聞・テレビのニュースのスタイルである、という日本的な状況が、党派的な“真実”をあたかも動かし難い事実のように見せてしまうことこそが、問題なのだ。およそ“わたし”の存在しない報告というものは、ほんらい存在しない。あらゆる情報は、それが表現されたものであるかぎり、かならずなんらかの“わたし”を前提にした創造であり、純客観的な“像”などというものはありえない。
 純客観的な“像”こそ、わたしが批判し続けてきたニュージャーナリズムの錯覚である。もとは、この錯覚は、新聞の三人称・客観・中立報道というウソに発している。“わたし”が──“わたし”が立っている立場が──生んだ像にほかならないのに、“わたし”の責任を負おうとはしないため、かえってはなはだしい偏向になってしまう。マスコミ文体の、この倒錯は、よく記憶しておく必要がある。

基本的に客観報道というものはあり得ない。

報道する記者には、それぞれの立場、考え方、価値観といったものがあるもの。

そして、そのようなフィルターを通して見た事実を記事に書く。

当然、その書かれた記事はフィルターを通っているので、客観的ではあり得ない。

それを客観報道と言ってしまうので問題が起こる。

そもそも人間は主観的にしか物事をみれないのであるから、むしろ自分の立ち位置を明確にして記事を書いてもらった方が、読む方は迷わない。

たとえば著者がはっきりしている一冊の本であれば、読者は著者がどういう考え方をし、どのような見方をする人であるのか、ということをある程度知った上で、それを前提に本を読む。

そのため、本に書いてあることを鵜呑みにはしない。

「ナルホド、この著者はこういうふうに考えたんだ」と自分で判断できる。

ところが、新聞記事やテレビ報道で「これが事実なんです」と、あたかも客観的な報道であるかのごとく報じられると、正直判断に迷ってしまう。

このあたりに、マスコミの奢りがあるのではないだろうか。

« 2012年3月 | トップページ | 2012年5月 »