動きが心をつくる/春木豊
生態心理学者として知られている佐々木正人が行った興味深い研究を取り上げてみよう。研究の詳細は省略するが、彼は漢字を思い出すときに、かなりの人が手を動かすということに気がつき、それを「空書」と称した。
そして、ある漢字を思い出すときに手を動かすことを禁じられた人と、手を自由に動かせる人とで、漢字の想起に違いが出てくるかどうか、比較実験を行った。その結果は興味深いものだった。手を動かせたほうが、明らかに成績がよかったのである。
この結果は何を意味しているだろうか。記憶を想起することは知的な作業である。心理学でいえば、認知心理学のテーマである。また脳科学でいえば、記憶の想起は海馬を中心とした大脳皮質全体の活動といえるだろう。
したがって記憶を想起することは、脳の活動だけによるものと考えやすいが、佐々木の実験は、知的な現象にも末梢である手の動きが関与していることを示したものであったといえる。記憶の想起という脳内活動は、その記憶が形成されたときの手で書くという身体の動きを無視できないということである。大げさにいうならば、記憶は手にあったということになる。
脳のことがわかれば、すべてが明らかになるとさえ考える人が多くなってきた。
たしかに現代の脳科学の進歩には目を見張るものがあり、心の活動に伴う脳の変化を逐一画像にして見せてくれたりする。
そのため心の働きもまた、脳によって説明できると思われるようになってきた。
そしてこの風潮は一般にも広がっている。
しかし、本当に私たちが認知している事柄はすべてが脳内のできごとで全て説明できるのだろうか。
これに対して、本書で繰り返し述べることは、脳という中枢の存在は、末梢である四肢の活動の経験の集積であって、末梢である身体なしに存在しえない。
始めに「末梢での経験」ありき、であって、その経験を以後の状況で能率よく生かすために形成されてきた器官が脳なのだ、という。
つまり、「始めに末梢の身体ありき」であって、中枢の脳があったのではない。
このことは動物の進化の過程をみれば明らか。
脳は進化の後半から生まれたのであって、多くの動物は脳なしで充分に生きてきたし、生きている。
ウィリアム・ジェームスという心理学者は、「われわれは泣くから悲しい、殴るから怒る、震えるから恐ろしい、ということであって、悲しいから泣き、怒るから殴り、恐ろしいから震えるのではないというのである」といっている。
つまり「始めに末梢の身体ありき」である。
私の実感もこれに近い。
やはり身体の活動と脳の働きとは密接な関係があるのではないだろうか。
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