知的経験のすすめ/開高健
現代人は頭ばかりで生きることをしいられ、自分からもそれを選び、それだけに執して暮らしていますが、これでは発狂するしかありません。発狂か。自殺か。または、たとえそうでなくても、それに近い状態で暮らすしか・・・・・・
心で心をきたえることは必要だし、避けられないことだし、誰しもそうせずには生きていけますまい。しかし、そのとき、自身の手と足で何事かを教えこんだ心をどこかに参加させておかなければ、無限の鏡の行列を覗きこんだのとおなじ結果になるのではありますまいか。心を覗く心がある。その心を覗く心がある。そのまた心をべつの心がどこからか覗いている、といったことになる。頭だけで生きようとするからこの凝視の地獄は避けられないのです。手と足を忘れています。分析はあるけれど綜合がない。下降はいいけれど上昇がない。影を見ているけれど本体を忘れている。孔子のいうようにバクチでもいい。台所仕事でもいい。スポーツでもいい。畑仕事でもいい。手と足を思いだすことです。それを使うことです。私自身をふりかえってみて若くて感じやすくておびえてばかりだった頃、心の危機におそわれたとき、心でそれを切りぬけたか、手と足で切りぬけたか、ちょっとかぞえようがありません。落ちこんで落ちこんで自身が分解して何かの破片と化すか、泥になったか、そんなふうに感じられたときには、部屋の中で寝てばかりいないで、立ちなさい。立つことです。部屋から出ることです。そして、何でもいい、手と足を使う仕事を見つけなさい。仕事でなくてもいいのですが、とにかく手と足を使う工夫を考えてみては?
特派員として戦時下のベトナムへ行き、生死の狭間を味わったり、熱心な釣師としてブラジルのアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げたり、開高健と言えば、「行動」という二文字が思い浮かぶ。
本書は、その著者のエッセイだが、ここでも「行動」することの大切さを記している。
現代人は、手足を動かすことを忘れている、と。
しかし、このエッセイが書かれたのは1987年。
つまり、ここで言う「現代人」とは、1980年代に生きた人たちのこと。
今から20年以上前の「現代人」が手足を動かしていないというのであれば、
2012年に生きる今の「現代人」はどうであろう。
あの当時よりもっと手足を動かさなくなっている。
ITの進化によって、現地にいかなくても疑似体験することができるようになっている現代。
「鬱」が増えるはずだ。
« プロフェッショナルの働き方/高橋俊介 | トップページ | 田中角栄に今の日本を任せたい/大下英治 »
コメント