まともな人/養老孟司
個性のあるのは身体で、頭にあるのは共通性だ。それを私は年中いうが、ほとんどの人はポカンとしている。やっぱり個性とは、私だけの思い、私だけの考え、私だけの感情だと思っているのであろう。それならそう思っていればいい。そういう世界では、学習は反復練習だ、身につけることだ、という常識は消えてしまう。だって個性を伸ばすのだし、個性は頭のなかだから、頭のなかを伸ばすのだろうが。頭のなかをどうやって伸ばすのか。
どうすればいいか、わからないはずである。私だってわからない。考えたことがない。
解剖学者の養老氏は、個性のあるのは身体で、頭にあるのは共通性だという。
説明を読んでナルホドと思ってしまった。
確かに身体には個性がある。
その人限りのもの、それはいくらでもある。
たとえば人の心臓はその人だけのものである。
それを他人に移植することはできる。
しかし実際には、免疫を抑制しなければ、決して定着しない。
身体はその心臓が「自分ではない」と、「だれにも教わらずに」知っているのである。
だから免疫系は、移植された心臓を追い出そうとする。
それを個性という。
でも、頭に個性があったら、どうなるか。
理屈であれ、感情であれ、その人だけのもの、その人しか考えない、その人しか感じない、そういうものが、頭の、つまり心の個性だとする。
そんなものがあったら、どうなる。
精神科に入院するしかないであろう。
皆が笑っているとき、一人だけ嘆き悲しんでいる。
その理由が納得できるものであるなら、つまり共感できるものであるなら、いい。
でも、そうでなければどうだろう。
病院に行った方がいいんじゃないですか、とだれでもいうであろう。
つまり、個性とはきわめて身体的なものということができる。
それを、ゆとり教育で「個性を伸ばす」なんて言い出したので、日本の教育がおかしくなってしまった。
個性が身体的なものであるのならば、反復学習をどんどんやればいいのである。
同じ反復学習をやっても、身体に個性がある以上、個性が死ぬようなことはない。
無理に個性を伸ばそうとしても意味がないということである。
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