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2012年6月19日 (火)

オリンピア/沢木耕太郎

Photo   ところで、西田と大江にとっては翌日の表彰式がベルリン大会の棒高跳びにまつわる最後の儀式とはならなかった。彼らにはまだやらなくてはならないことが残っていた。
記録映画を作っていたレニ・リーフェンシュタールから、最後のシーンを撮り直したいので、もういちど跳んでくれないかという要望があったのだ。
  二人は承諾し、カメラの前に立った。
  しかし、それはレニの「その翌日、同じ場所で、同じ高さで跳び直してもらった」という記憶とは掛け離れたものだった。
  西田は言う。
  「だって、考えてもみなよ、次の日はまだ競技が行われていたんだから、いくら夜だといったって、撮り直しなんかできるはずがないよ」これは恐らく西田の方が正しい。単に当事者の記憶だからというだけでなく、客観的に判断して、その翌日に撮り直すことは不可能だと思われるからだ。
  撮り直しの際、レニが出す「そこでバーを引っかけて」とか「今度はきれいに跳んで」といった指示を、西田と大江に通訳したのは三段跳びの田島直人だった。しかし、棒高跳びの翌日には三段跳びの決勝があり、いくら試合後とはいえ、田島には通訳などをしている余裕も時間もなかった。実際に撮り直しが行われたのは、西田が陸上競技の最終日、田島がその次の日と記憶しているが、試合の翌日でなかったという点では一致している。
  さらに西田によれば、撮り直しの場所は「選手村に付属しているグラウンドだった」という。また、レニは三メートル五十くらいで撮ろうとしたが、選手たちが「同じ失敗するのでも、ある程度の高さがないとうまく跳べない」と文句を言い、最終的には四メートルくらいで撮り直したのだという。一度もクリアーしたシーンを撮ってもらえないグレーバーが、俺もきちんと跳びたいと申し入れたが受け入れられなかったともいう。
  このようにして、夜の決勝シーンの撮り直しが済んで、ようやく彼らの棒高跳びは終わったのだ。

ベルリンオリンピックでスタジアムの観客を沸かせた日本人選手として、棒高跳びの西田修平と大江季雄がいた。

彼らは、雨の中、アメリカの三選手と、五時間に及ぶ長く激しい闘いを繰り広げた。

結局、アメリカのメドウスが金、西田が銀、大江が銅に終わったわけだが、

この二人、競技が終わったと思ったら、記録映画の撮影の仕事を依頼されたという。

その映画の名は『オリンピア』

レニ・リーフェンシュタールの作品『オリンピア』は、1936年に催されたベルリン・オリンピックの記録映画である。

『オリンピア』は『民族の祭典』と『美の祭典』の二部から成り、全体では四時間になろうかという大作だが、現在もなお、事あるごとに映画館で上映され、テレビで放映されつづけている。

それは、かって撮られたオリンピック映画の中の最高傑作というばかりでなく、全映画史の中でもベストテンに入る作品だという評価まである。

事実、『オリンピア』が封切られた1938年には、その年のヴェネチア国際映画祭に出品され、グランプリにあたる金獅子賞を受賞している。

一方、あれはオリンピック映画の形を借りたナチスのプロパガンダだったという見方も存在する。

ナチス・ドイツを平和国家だと偽装するための宣伝として、大きな役割を果たしたというのだ。

それによれば、ベルリン・オリンピックはナチスの祭典であり、その祭司がアドルフ・ヒトラー、巫女がレニ・リーフェンシュタールだったということになる。

このように今でも様々な議論のある映画ではあるが、興味深かったのは、その撮影方法。

今だったら「ヤラセ」と批判されるような手法が当たり前のことのように使われているのである。

以前、ヤラセ問題が世間を騒がせたことがあったが、ドキュメンタリーの原点は、案外こんなところにあったのかもしれない。

そもそも、誰かが何らかの対象物を映像に残そうと思った瞬間から、何らかの意図が働くのは、考えてみたら当たり前のこと。

それが本書にあるように「演技」させるという、あからさまな形ではなくとも。

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