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2012年7月の31件の記事

2012年7月31日 (火)

油断/堺屋太一

53219327「これから、石油輸入が三割減ったという仮定で、日本の受ける影響を、時系列で追います。つまり、日本への石油輸入を減少せしめる事件が産油国側で発生した日、即ちD-0デーからの変化を、十日刻みで見ていくことにします」(中略)
「百四十日目」を告げた直後だった。みな、はじかれたようにそちらを見た。
「あの地図の上に出ている赤い点は何ですか」
「失礼しました、言い忘れました」
佐和子は声の調子を変えずに、ゆっくりと答えた。
「あれは、発生する死亡者の数を地域別に予測したものです」
「死亡者!」
 驚きの声が一斉に起こった。ITV拡声器からも同じ叫びが伝わった。
「一点千人となっています。全国累計は図の右下の数字で示されています」
 その数字はすでに二十万八千を超えていた。(中略)
 佐和子の全く変わらぬ声が、ついに「二百日目」を告げた。
 左の表の欄は全部埋まった。GNPは23。産業別欄に一桁のものがいくつもあった。
 右側の図は、もはや日本列島の形を保っていなかった。各府県の生産を示す白い四角形は斑点のようにばらまかれ、赤い点ばかりが目立った。その下にはもっと恐ろしい数字があった。死亡者数三百万人。
「二百日間に、三百万人の生命と、全国民財産の七割が失われるでしょう」
 佐和子の低い声が会議室を賑わせるほどによく聞こえた。
 小宮の横で、大河原鷹司がうめいた。
「太平洋戦争三年九ヶ月と同じ被害だ・・・・・・」

元通産官僚、堺屋太一氏の書いた近未来小説。

もし、中東から石油が来なくなったら、日本はどうなるかといったシナリオを小説化したもの。

本書は1975年刊なので、今から35年以上まえのものだが、全く古さは感じさせない。

細かい数字は現在とは違っている部分はあるが、日本のエネルギー基盤の脆弱性は全く変わっていないと言ってよい。

上記は、石油輸入が三割減ったらどうなるかをシミュレーションしている場面。

本書は小説だが、そこに出てくる数字は実際のものを使っているという。

そしてそこで描かれる図は、身の毛もよだつようなもの。

たった二百日足らずで三百万人もの命と何百年もかけて近代化してきた文明が音を発てて崩れ落ちていくという。

石油輸入が止まるということは、単に生活が不便になるとかいう問題ではない。

ちょっと我慢すればなんとかなるというものではない。

生死の問題なのである。

国家の存亡の問題なのである

311以降、原発問題がにわかにクローズアップされてきているが、今後日本のエネルギーはどうするのか、ここは感情的に流されるのではなく、正確なデータを基に、しっかりとした方向性を出して欲しいものである。

2012年7月30日 (月)

使える「孫子の兵法」/齋藤孝

25222571_1 この不況下でも業績を伸ばしている会社はいくらでもある。独自の目線で商機を見出し、それが成功しているということだろう。つまり「不況だからすべてダメ」というわけではけっしてないのである。
 そこで重要になるのが、判断力と行動力だ。それも自ら海原に漕ぎ出して網を放つような、いわば「漁師的感覚」である。
 昔から漁師は、風を読み、潮を読み、魚群を探り当ててきた。大漁になりそうなら長時間労働を厭わず、不漁と見るやさっさと漁場を変える。あるいは嵐が来そうなら早めに切り上げる。一歩間違えれば命取りになりかねない中で、一つひとつ冷静に状況判断を繰り返してきたわけだ。頼れるものといえば、長年の経験に裏打ちされた肌感覚だけだったに違いない。
 ただ「漁師的」といっても、多くの人には馴染みが薄いかもしれない。一方で「日本人は農耕民族」とよく言われる。たしかに地道な作業を積み重ねたり、少しずつ改良を加えたりが得意という意味では、農耕民族のDNAが色濃く残っているように思える。少なくとも、しばしば対比的に取り上げられる「狩猟民族」ではないだろう。
 しかし、四方を海で囲まれた日本人は、もともと海とのつながりも深かった。今日の“海の幸”の豊かさからもわかるとおり、ずっと海と格闘してきた民族なのである。その証拠に、かつては全国各所に漁村があり、漁業人口もきわめて多かったといわれている。縄文遺跡からさえ舟が見つかっていることは、周知のとおりだ。
 だとすれば、私たちは漁師のDNAも受けついでいるはずである。すっかり鳴りをひそめてはいるが、ちょっと鍛えることで、もう一度呼び覚ますことができるのではないだろうか。

昔からよく、日本人は農耕民族、欧米人は狩猟民族のDNAを受け継いでいると言われる。

農耕民族は生まれてから死ぬまで、ずっと同じ地域にで過ごす。

そのため隣近所との和を大切にし、台風や干ばつがきてもじっと我慢して災難が過ぎ去るのを待つ。

結果として日本人には、和の精神や忍耐力、コツコツと働く真面目さ、等がDNAとして受け継がれている。

一方、狩猟民族は、豊かな土地を目指して民族を移動させ、そこに土着の民族がいれば、争いも厭わない。

そこから欧米人には、行動力、決断力、強いリーダーシップといったものがDNAとして受け継がれている、と。

しかし、ここで齋藤氏は、海に囲まれた日本人は漁師のDNAも受け継いでいるはずだ、という。

つまり、風を読み、潮を読み、魚群を探り当てる力。

不漁と見るやさっさと漁場を変える臨機応変さ。

このようなDNAを受け継いでいるはずだ、と。

考えてみれば確かにそうだ。

日本は、世界でも有数の海洋国家である。

だったら、今のような時代こそ、眠らせてしまっていた漁師としてのDNAを呼び覚ます時なのではないだろうか。

2012年7月29日 (日)

金儲け弁護士の自己破産ビジネス/白川勝彦

300  何より私が恐ろしいと思うのが、その常習性です。「自己破産はどうしてもしたくない」と、自ら意思を持っている方はまだいいほうで、「弁護士に勧められるまま自己破産したものの、その後の人生がボロボロになってしまった」という、さらに悲惨な方もたくさん存在するのです。
 なぜなら、自己破産をした人の多くが、その後、何度も自己破産を繰り返す人生を送るようになってしまうことが多いのです。
 人間がもともと怠惰な存在であることを考えれば、致し方ないことかもしれません。
 しかし、「いくら借金を作っても、また自己破産して踏み倒せばいいや」という気持ちが一度芽生えてしまった人を、更生させるのは容易なことではありません。
 特に若い頃にこのループにはまってしまうと、人生を積極的・自立的に生きる機会を、その後死ぬまで失うことになりかねません。

本書は、元衆議院議員白川氏の、金儲け弁護士の自己破産ビジネス批判の書。

白川氏は「自己破産とは、単に借金を免責するものではなく、債務者の人生の崩壊を招きかねない」と警鐘を鳴らす。

現在、司法制度改革の一環として、法律家の大幅増が推進され、年間の司法試験合格者を3000人とする目標がたてられている。

これが本当にその数字通りに進んでいくと、様々な問題が噴出してくる可能性がある。

それでなくても、現在、弁護士の資格を取ったものの、就職先がないという弁護士が増えてきている。

仕事にあふれた弁護士が今後どのような動きをしてくるのだろうか。

現に、過払い金バブルが崩壊した今、死活問題に陥った弁護士は新たな金づるを求め、その一つとして、自己破産ビジネスを広げてきている。

自己破産とは借金を免責する法的手続き。

確かに、借金で、もうどうにもならない状態になっている債務者にとってはありがたい法律。

自殺者が年間3万人を超える日本の現状を考えると、これによって救われる人がいるのであれば、自己破産の手続きをしてあげるのは人助けだと言えなくもない。

一方、悪い言葉で言えば自己破産とは、借金の踏み倒しである。

当然、それによって貸した金を返してもらえず困る人もでてくる。

場合によっては不幸の連鎖を生む可能性もある。

だから、自己破産という法的手段に頼るのは、最後の手段だという認識が債務者にも弁護士にもなければならない。

軽く考えてもらっては困るのである。

「借りたお金は返さねばならない」という、人として生きる最低限のルールを、たとえ合法的だとは言え、破ってしまうのだから。

弁護士は、そのようなことを債務者にきちんと説明し、諭す位の精神性と倫理観が求められるのではないだろうか。

弁護士の量産が予想されている今後、弁護士にはこれまで以上の高いモラルが求められてくるだろう。

もしかしたら、今後、弁護士は「良い弁護士」と「悪い弁護士」にはっきりとわかれてくるかもしれない。

そんなことを本書を読んで考えさせられた。

2012年7月28日 (土)

彼はいかにしてマネージャーからリーダーへと成長したか?/アラン・プライス

41xckdfz9zl__sl160_「リーダーシップとは、人の情熱を目標に向けて解き放つことである。マネジメントとは、技術や能力を目標に向けて組織することである」
「すごくいい定義だわ。あなたが睡眠を取って定義を忘れてしまっても、私が教えてあげるから大丈夫よ。それと、はっきり言っておきたいのだけど、さっき、あなたが生まれつきのリーダーではないって言ったのは、誉め言葉なのよ」
「どういう意味ですか?」
「ほとんどのリーダーは生まれつきではなく、作られる。生まれつきの才能なんて、リーダーには全く関係ないの。生まれつきでも、作られたものでも、優れたリーダーは優れたリーダーなの。でもリーダーシップ開発では、この二人に違いが出る。生まれつきのリーダーは、他人のリーダーシップをどうやって成長させればいいのか分からない。彼らにとってそれは自然に与えられたもの。だから開発することの大切さが理解できないの。生まれつきのリーダーは、リーダーを育成するのではなく、リーダーを探そうとして組織全体をかき回す危険があるわ」

本書では、ある一人のエンジニアが、リーダーへと成長し、停滞した企業に再び活気を取り戻すまでが物語形式で書かれている。

この箇所では、生まれつきのリーダーと作られたリーダーについて語られている。

生まれつきであっても作られたものであっても、優れたリーダーは優れたリーダーであるということに変わりない。

ただし、生まれつきのリーダーは、自分と同じようなリーダーを育成することはできない。

なぜなら、生まれつきのリーダーにとって、リーダーシップとは生来のものであって、努力して身につけるべきものではないから。

それどころか、自分と同じリーダーを探そうと組織を引っかき回す危険がある、と。

一方、作られたリーダーは、リーダーを育成することができる。

なぜなら、自分自身がどのようにしてリーダーシップを身につけたのか、そのプロセスを体感しているから。

そう考えると、俗に言うカリスマリーダーという存在は、果たして組織にとって有益なのか、非常に疑問である。

現に、ドラッカーはカリスマリーダーは必要ない、とはっきりと言っている。

企業にはコーイングコンサーン、つまり継続するという社会的使命・責任がある。

その使命を達成するためにも、リーダーを輩出する仕組みを組織の中にしっかりと構築していく必要があるということであろう。

2012年7月27日 (金)

なぜあの時あきらめなかったのか/小松成美

9784569804941 荒川は自分が闘争心を糧に戦う選手でないことを知っていた。
「私は、人と争うことが好きじゃないんです。もともと、勝つことに執念を燃やすとか、勝負にこだわるとか、そうした意識の薄い選手でした。一九九八年に十六歳で長野オリンピックに出場して、子供の頃から抱いていたオリンピック出場という夢が叶ってしまった。それで、もうこれ以上は上を目指さなくてもいいんだ、と思ったんです。楽しくスケートができればいいかな、と完全に闘争心を封印して滑っていました」
 是が非でも世界の頂点を目指すという野心がなかった彼女は、オリンピックに拘泥することもなかった。(中略)
「限界を感じながら、それでもトリノオリンピックを目指せたのは、私にとって一番大事なことが順位やメダルではなかったからです。世界選手権で優勝した時の自分より、成長できたかどうか。そして、観てくださる方にフィギュアスケートの魅力を伝えることができるか。それが最も重要なことでした。自分の限界を超えることが唯一の目的だったんです」

常に勝つことを求められるアスリートたち。

トップに立つためには、強い闘争心が必要になる。

ところが、トリノオリンピック金メダリストの荒川静香選手には、元来、人に勝ちたいという思いが希薄だったという。

しかし、オリンピックで頂点に立つためには、厳しい日々の練習、ケガ、敗北、挫折、スランプ等々、様々な壁を乗り越えなければならない。

高いモチベーションを保ち続けなければ、金メダルなんて取れるはずがない。

では、闘争心の不足している荒川選手はどのようにしてモチベーションを保てたのだろうか。

それは、過去の自分より、今の自分が成長できたかどうか。

そして、いかにして観てくださる方にフィギュアスケートの魅力を伝えることができるか。

それがモチベーションの源泉だったという。

そして、その存在証明が「イナバウアー」だったという。

フィギュアの点数には全く反映されない「イナバウアー」

見方によっては、ムダと思える「イナバウアー」

ところが、荒川選手にとっては、点数に反映されないからこそ「イナバウアー」をやる意味があったという。

採点を優先し、点数にならない演技が削られていく中で、荒川選手のイナバウアーは、得点とは別な感動を観衆に与えていた。

そのチャレンジが功を奏し、金メダルという大きな実を結んだのである。

そう考えると、人によってやる気の源泉は違うのだとつくづく思う。

今の若者は闘争心が希薄だとよく言われる。

しかし、もしかしたらそれは年長者が自分のモノサシでみているから、そう見えるにすぎないのかもしれない。

世代によって、また人によって、モチベーションの源泉は違うのではないだろうか。

一番危険なことは、何でも自分のモノサシで見て、切り捨ててしまうことだと思う。

2012年7月26日 (木)

コンビニだけがなぜ強い?/吉岡秀子

402273437x さんざん繰り返しになりますが、これははずせません。コンビニ隆盛の最大の理由は、消費者のニーズの変化を察知して対応する力を持っていることです。(中略)
 そういえば世の中にあんな変化が起きたなぁと思うところに、コンビニに新商品や新サービスが現れている。心当たりがあったのではないでしょうか。移り気な消費者の関心を引きつけようと自らも変わりながら、あの手この手を打ってきた。自分の彼氏や彼女、家族だって、こんなに自分を見続け尽くしてはくれないでしょう。そんなふうに考えると、消費者の気を引こうと戦略を立て続ける企業努力に、もっと目を向けてもいいのでは、と思うわけです。

不況を続ける小売業界の中、唯一右肩上がりの成長を続けるコンビニ業界。

特に東日本大震災では、社会インフラとしての役割を果たし、改めてその存在感を世に示したコンビニ。

そのコンビニ業界で、特に中心となって成長し続けているのが、セブンイレブン、ファミリーマート、ローソンの3社である。

本書は、この3社を採り上げ、どうしてコンビニだけが強いのか、取材を続けてきた記録である。

一口にコンビニ業界といっても、この3社は独自の戦略をとっている。

トップの強いリーダーシップと、商品力とオペレーション力でコンビニ業界のトップを走り続けるセブンイレブン。

「らしさ」追求により復活したファミリーマート。

脱コンビニを掲げ、イノベーションを起こそうと挑戦を続けるローソン。

特に最近は、従来のコンビニのイメージから、さらなる変化をとげようとしている。

セブンイレブン「御用聞きへの道」、ローソン「多面化で個性のある店舗展開」、ファミリーマートの「グローバル展開」等、三者三様、独自の戦略をとっている。

しかし、そのように別々の道を歩んでいるように見える3社だが、共通しているものがある。

それは「変化対応力」である。

三者三様、それぞれ顧客の変化に伴い、アメーバーのように形を変えつつ、最適な形態を模索し続けている。

まさにコンビニとは「変化対応業」であるといってよいだろう。

しかし、「変化対応」が求められているのは、コンビニ業界だけではない。

極論すれば、すべての企業に「変化対応」が求められているといってもよい。

つまり、すべての企業は「変化対応業」であるといってもよいのではないだろうか。

2012年7月25日 (水)

十万分の一の偶然/松本清張

9784167697273 さて、二十七日付朝刊は、昨年度の年間賞である最高賞の作品「激突」と、優秀賞「緊急着陸十分前の機内」「マンションの火災」「沈没」とを一ページを全面に出した。当然ながら最高賞の「激突」の写真が最も大きく、派手な扱いだった。(中略)
 同ページに載った審査委員長、写真家の古家庫之助の選評。
「激突」は、すでに当時報道されたように死者六名を出した東名高速道路の大衝突事故の写真である。月間賞でも金賞だったが、ここに年間賞の最高賞を得た。カメラの迫真力をこれだけ発揮した作品は少ない。交通事故の現場写真といえば、発生後かなり時間が経っていて、車の残骸や、現場検証の警官や、これを遠まきにする群衆などか写っている写真が多いのに、これは発生の瞬間の写真といっていい。(中略)それにしてもこういう決定的瞬間の場面に撮影者が遭遇するとは、一万に一つか、十万に一つの偶然というほかはない。

本書は松本清張の社会派ミステリー。

この物語は、東名高速での凄惨な事故現場を捉えた報道写真が有力な新聞社の最高賞に輝いたことから、その写真を撮ったアマチュアカメラマンに注目が集まる、といったところから始まる。

果たしてこの写真は、本当に偶然に捉えた写真なのか、あるいは作られた写真なのか、といった疑惑から物語は進展していく。

結局、この写真を撮ったアマチュアカメラマンは、自ら事故が起こるような仕掛けをし、偶然を装って写真を撮った、いわゆる自作自演だったのだということが明らかになっていくわけだが、

このような「作られた報道写真」の問題は、今まさに起こっている問題でもある。

特に映像メディアの人たちにとっては、視る人に強烈なインパクトを与えるような「画が欲しい」というのは本音の部分ではないだろうか。

「だったら、ちょっと位、事実を曲げても・・・」というちょっとした出来心から、自分で画を作ってしまう。

悪魔のささやきに耳を傾けてしまう。

これが「やらせ問題」である。

ドキュメンタリーとうたっていても、実際には制作者のシナリオがあり、登場人物はそのシナリオ通りに演じているにすぎないということもある。

報道番組であっても、制作者の欲しい映像しか流さないこともある。

すべて根は同じである。

本書は1981年の作品だが、その扱っているテーマは、今日的問題だと言って良い。

松本清張の作品は、いまだにテレビドラマや映画の原作に使われているが、時代が変わっても変わらない、人間の本質の部分を扱っているからなのだろう。

2012年7月24日 (火)

F1地上の夢/海老沢泰久

10162870_1「わたしは、自動車をやる以上はまずF1からはじめるべきだと信じてこれまでやってきた。何かをやるときはもっとも困難な道を選ぶというのが、わたしのモットーだからだ。そして、ついに優勝した。勉強が実ったのだ。F1で得た貴重な勉強の成果はこれからホンダの市販車に大いに役立てられるだろう」

本書は「F1地上の夢」に取り憑かれ、命を賭けて闘った男たちの物語。

表記は、ホンダが初めてF1で優勝したとき、ホンダの創業者、本田宗一郎が記者会見の席で語った言葉。

経営とは、ある意味、合理性を追求するもの。

その考え方からいくと、F1に参戦するということは、合理性から外れている。

自動車が、もしなければ日常生活に不便をもたらすだろうが、F1は別に世の中になくても困りはしない。

言うならば「ムダ」なものである。

では「ムダ」はすべて排除すべきだろうか。

例えば、これから開催されるオリンピック。

これも考え方によっては「ムダ」なものである。

オリンピックがなくても、別に日常生活に不便をもたらすことはない。

世の中には、このような一見「ムダ」と思えるものかたくさんある。

スポーツ、音楽、文学、芸術、芸能といったものである。

しかし、この「ムダ」と思えるものが、実は人生を豊かにしたり、奥行きを与えたりする。

これらが世の中からすたれることがないのも、このような理由からであろう。

ちょうど、ハンドルにアソビの部分がないと、事故が起こってしまうように、

世の中の「ムダ」と思えるものに、実は確かな存在価値があったりする。

ホンダの創業者、本田宗一郎は、早くからF1への参戦を表明した。

一見、無駄と思える分野に命を賭けた。

経営的にそれほど余裕のない時代に、多大な開発費等、お金がかかるF1に参戦した。

これだけでも規格外の経営者だったと言えるのではないだろうか。

「わたしは、自動車をやる以上はまずF1からはじめるべきだと信じてこれまでやってきた。」

こんな言葉、並の経営者には言えない。

でも、こんな経営者だからこそ、ホンダを世界的な企業に成長させたのではないだろうか。

経営は合理性だけでは語れない部分がある。

「夢」とか「ロマン」とか、こんなことを大まじめに、かつ、真剣に語れる経営者、それが本田宗一郎だったのではないだろうか。

2012年7月23日 (月)

一目でわかる! 世界経済のからくり

4569802001 こうした世界経済の現象を、経済歴史学者の故A・G・フランクは「リオリエント(reorient)」と呼んでいる。リオリエントとは「東洋へ戻る」ということを意味する。つまり、世界経済の中心がふたたびアジアへ戻ってきているというのである。
 そもそも19世紀初頭までは、中国とインドで世界のGDPの4割以上を占めていた。その後、欧米列強の植民地政策によってアジアは没落し、西洋が支配的となった。
 第一次世界大戦まではヨーロッパが、第二次世界大戦以降はアメリカが支配的になったが、アメリカはリーマンショックの後遺症で低迷期に突入。これによって流れはアジアに傾き、アジアがふたたび優位になりつつある。そして、ちょうどいまが「100年、150年に一度」といわれる歴史的な構造転換の真っ只中にあるというわけだ。
 もはやアメリカやヨーロッパだけが世界経済の動向を決める時代ではなくなった。今後はアジアの存在感が高まり、世界をリードするようになっていくと考えられている。

今や世界はリオリエントの時代に突入したといっていいだろう。

私達には、政治、経済、軍事等をすべて米国を中心に考える癖がついているような気がする。

長い間、それを当たり前のように考えてきた。

日本も、「アメリカに追いつき、追い越せ」でずっとやってきた。

しかし、考えてみたら、米国が世界の中心になったのはたかが百年位である。

百年といえば、人の一生よりも長いわけだから、すごく長い期間のように感じるが、歴史という大きな流れの中で見ると、「一瞬の出来事」といってもよいのかもしれない。

だから、リオリエントの時代に突入したといっても別に驚くことはないのである。

国の経済が発展する条件は3つあるといわれている。

人口、資源、国土面積だ。

このうち資源と国土面積は大きく変わりようがないが、人口は時代によって変化する。

一般に、人口が増えた国では労働者が増えるので、GDPも増える。

銀行に預金する人も増えて、企業への融資がスムーズになる。

また消費者も増えるからモノが売れ、企業の収益も上がる。

こうした循環により、国の経済が発展する可能性が高まるのである。

いっぽう、人口が減った国では労働者の数が減って生産力が落ちるので、GDPも減ってしまう。

この原則に従い、世界人口の推移を知れば、今後の世界経済の勢力図が見えてくる。

現在、地球上で暮らす人の数は70億人と言われている。

これがあと40年程度でピークを迎え、2050年にはなんと91.5億人に達すると見られている。

もっとも著しい増加が起こるのはアジアで、現在の41.5億人から2050年には52.3億人にまで増加するという。

世界の半分以上の人口がアジアに集中するわけだ。

そう考えると、リオリエントの流れは、根拠のある考え方だといえる。

そして、日本は長く経済大国を自負してきたが、少子化に歯止めをかけなければ、経済面だけを見ると衰退は免れないとも言える。

「経済だけが国の価値ではないだろう」という考え方もあるだろうが、問題は、この現実をどのように受け止め、この国のリーダーはどんな方向性を打ち出していくのかということであろう。

2012年7月22日 (日)

成功のコンセプト/三木谷浩史

Image   人類は歴史の中で様々な挑戦を繰り返してきた。失敗に終わった挑戦も無数になる。挫折の数だけ星を夜空にちりばめたら、夜は昼間のように明るくなるかもしれない。
  けれどその長い挑戦の歴史が、ひとつだけ証明した真理がある。
  この世に絶対に不可能なことなどひとつもないということだ。
  道はどこかに必ずあるのだ。
  普通の人間が垂直な崖を見上げたら、登れるわけがないと思う。登ることのできない理由は、それこそ星の数ほど見つかるはずだ。
  けれどフリークライマーは、その崖をカラダひとつで登ってしまう。奇跡のように見えるが、それは奇跡でもなんでもない。
  技術や体力の問題は、ここではひとまず忘れよう。彼が普通の人間には不可能にしか見えない崖を登ることができるのは、崖の見方が違うからだ。フリークライマーは登れない理由など探しはしない。彼は登るための手がかりになる、岩の突起や隙間だけを見ている。
  あの岩棚に達したら、あの亀裂に爪先を差し込める、その1メートル上に指のかかる岩の突起がある。フリークライマーはそういう視点で崖を見上げているのだ。
  それはビジネスでも同じことが言える。
  できない理由を探すから、不可能に思えるのだ。できる理由を探していけば、不可能を可能にする方法が必ず見えてくる。

ビジネスで成功するには、不可能と思える壁を一つ一つ乗り越えていくことである。

誰もが乗り越えることなど不可能と思える壁を一つ乗り越えれば、それだけで他と差別化することができる。

壁を二つ乗り越えれば、もう追いつけない位の差がつく。

では、そのためにはどうすれば良いのか?

楽天の創業者である三木谷氏は、それを垂直な崖を登ることにたとえている。

フリークライマーの視点を持つことが大事だと。

普通の人は、垂直な崖を見たとき、登れない理由を星の数ほどあげてくる。

しかし、フリークライマーはそんなことはしない。

最初から、どうすればこの崖を登ることができるか、という視点で崖を見上げる。

すると、普通の人には見えない、崖を登るための道筋がはっきりと見えるようになるのだ、と。

つまり、できない理由を探すから、不可能に思える。

できる理由を探していけば、不可能を可能にする方法が必ず見えてくる、と。

これはビジネスにそのまま当てはまる考え方だ。

確かに私のこれまで接してきた人を見てみても、高い目標を示されたとき、鼻からできない理由をゴマンとあげてくる人がいる。

逆に、目標を達成するための方法をいろんな角度から考え、チャレンジする人がいる。

どちらが成功するかは、火をみるより明らかである。

発想の違いとは、これほど決定的な結果の差をもたらす。

そしてそれと同時に、普段から、ビジネスのスキルを磨き、知的体力を付けておく必要があるのではないだろうか。

丁度、フリークライマーが普段からスキルを磨き、体力づくりをしているように。

2012年7月21日 (土)

動物化するポストモダン/東浩紀

4061495755  動物化とは何か。コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』は、人間と動物の差異を独特な方法で定義している。その鍵となるのは、欲望と欲求の差異である。コジェーヴによれば人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しかもたない。「欲求」とは、特定の対象をもち、それとの関係で満たされる単純な渇望を意味する。たとえば空腹を覚えた動物は、食物を食べることで完全に満足する。欠乏─満足のこの回路が欲求の特徴であり、人間の生活も多くはこの欲求で駆動されている。
 しかし人間はまた別種の渇望をもっている。それが「欲望」である。欲望は欲求と異なり、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。その種の渇望の例として、コジェーヴを始め、彼に影響を受けた多くのフランスの思想家たちが好んで挙げてきたのは、男性の女性に対する性的な欲望である。男性の女性への欲望は、相手の身体を手に入れても終わることがなく、むしろますます膨らんでいく。というのも、性的な欲望は、生理的な絶頂感で満たされるような単純なものではなく、他者の欲望を欲望するという複雑な構造を内側に抱えているからだ。平たく言えば、男性は女性を手に入れたあとも、その事実を他者に欲望されたい(嫉妬されたい)と思うし、また同時に、他者が欲望するものをこそ手に入れたいとも思う(嫉妬する)ので、その欲望は尽きることがないのである。人間が動物と異なり、自己意識をもち、社会関係を作ることができるのは、まさにこのような間主体的な欲望があるからにほかならない。動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。

日本文化の現状について考えようとするならば、オタク系文化の検討は避けて通ることができないであろう。

本書は、オタク系文化について、ひいては日本の現在の文化状況一般について、分析し批評している。

著者は、政治的イデオロギーが失われた後、人々は動物化していった、という。

そして、それが端的に表れたのが「オタク」だと。

なるほど、オタクたちが作品に向ける態度は動物化している。

つまり、欠乏─満足という単純な論理で動くものになっている。

そのコミュニケーションも大部分が自分が興味ある分野に限定された情報交換で占められている。

彼らの社交性は、親族や地域共同体のような現実的な必然で支えられているのではなく、特定の情報への関心のみで支えられている。

現実の社会の社交は、感情を持った目に見える相手のいる世界。

自分にメリットがないからといって、一方的にコミュニケーションを打ち切ることはできない。

しかし、オタクは、自分にとって有益な情報が得られるかぎりでは社交性を十分に発揮するのだが、自分にメリットがないとわかったら、すぐに降りる。

特にネット社会では、それが容易にできる。

このような行動様式はかつての日本人にはなかったもの。

ただし、このような行動様式を持つ人間が増えてきているという現実は、しっかりと認識する必要があるのだろう。

2012年7月20日 (金)

陸軍士官学校の人間学/中條高

Kds272653_l「われは専まりて一となり、敵は分かれて十とならば、これ十を以てその一を攻むるなり。すなわち、われは寡にして敵は衆なり。能く寡を以て衆を撃てば、すなわち吾がともに戦う所の者は約なり」(『孫子』)

 要約すると、次のようになります。
「同じ兵力で戦う場合を考えると、自軍の全兵力を一つの部隊に集中させ、敵軍を十個の部隊に分散させ、その一つをもっぱら攻めれば、それは敵の十倍の兵力で叩くことになる。自軍の全兵力が敵軍の全兵力に比べて小さくても、その小さい兵力で敵軍を倒すことができるのは、局面の戦闘において自軍の兵力が一つに結集し、相手を分散させ、その一つを攻めれば相手を上回ることになるから勝ち得るのである」
 たとえば、百人の軍勢で三百人の敵軍と戦っても、まともに当たれば勝ち目はありません。しかし、敵軍を十個に分けて、一隊につき三十人の小軍にする。それに対して、自軍の百人で攻めるよう作戦を立てれば、衆寡逆転して勝利を収めることができるというわけです。 ものは考えようです。自分よりも強大な敵と戦う時こそ、知略を働かせ、自らの優位性を高めよ、と『孫子』は教えています。
 そして、死地に陥っていたアサヒを不死鳥のごとく蘇らせたスーパードライこそ、一点集中の知恵から生まれた不世出のビールといっても過言ではないのです。

一時、シェアが10パーセントを割り込み、倒産寸前まで追い込まれたアサヒビール。

本書の著者は、陸軍士官学校生として戦争を体験し、戦後はアサヒビールの営業本部長として「アサヒスーパードライ」作戦で陣頭指揮をとった中條氏。

氏は、当時、アサヒを救うのはもはや兵法しかないと思い、兵法こそがアサヒ全社員の向かうべき道筋を「再生」の一点に合わせる、唯一無二の方策であると考え、それを実践していったという。

「兵法」と聞くと、何やら軍国主義的で血なまぐさいものという印象を持つかもしれない。

しかし、兵法は戦争を奨励するものでもなければ、残酷なものでもない。

古今東西、あらゆる戦いを制するための知恵が詰まった、「勝利への教科書」が兵法なのだという。

まさに、戦いの勝敗がそのまま自分や同志の生死に直結する時代に編み出された、「究極の知恵」といえる。

これをビジネスに応用し、的確に実行に移すことができれば、負けるはずがないと著者は言う。

表記の孫子の言葉は、戦力を一点に集中させることの重要性を説いている。

そして、この一点突破を具現したのがスーパードライによる起死回生の戦略だった。

「辛口・ドライ」と銘打ったスーパードライが、ヒットを生むのかどうかなど、実際のところ誰にも分からなかった。

それでも樋口社長は、迷うことなく巨額の設備投資に踏み切り、スーパードライを徹底的に市場へと投入していく。

結果、スーパードライは、爆発的ヒット商品となる。

「必要なカネは惜しまない」というのが、樋口流経営術の基本。

氏は誰よりも市場の動向を見据え、先手先手の投資を行うことができた人物だった。

数字にこだわりつつも、大胆な選択と集中をやってのけた樋口社長の手腕は、見事としかいいようがない。

「選択と集中」という言葉は多くの経営者が使う言葉だが、それを大胆に実行できる経営者はそう多くはいない。

逆に言えば、これをいかに大胆に実行できるかどうかが、経営者としての器なのかもしれない。

2012年7月19日 (木)

なぜ日本人はとりあえず謝るのか/佐藤直樹

Bt000013065600100101_tl ところで「世間」を英語に訳せといわれたら、どう答えるだろうか?
 もちろんsocietyではないし、worldでも、communityでもない。訳せない以上、英語圏には「世間」は存在しないと考えるしかない。つまり、「世間」は現在でも、少なくとも英語圏においては存在しない人的関係のあり方である。
 日本人は「社会を離れては生きてゆけない」とは考えないが、「世間を離れては生きてゆけない」と固く信じている。つまり、「世間」を「はずれ」ては生きてゆけないと考えている。

日本には「世間」という魔物が棲んでいる。

日本は本当に法治国家であろうか?

日本の犯罪率が低いのは、法律が機能しているからではない。

「世間」からはずされること、つまり、村八分が怖いから。

それが最大の抑止力になっている。

日本人にとっては法律で裁かれるより、「世間」からはずされることのほうが怖い。

だから、子供が犯罪を犯した場合、親は世間に対してお詫びをする。

そのお詫びの態度が、いかにもしおらしく、同情をかうようなものであれば、世間からゆるされ、二次攻撃、三次攻撃から免れることができる。

ところが、もし、少しでもその態度が世間の反感や反発をかうようなものであれば、世間はいきなり刃をむく。

マスコミまで加担し、世間はより強固な存在になる。

そうなってしまったが最後、何を言っても受け入れられなくなる。

今、世の中で起こっていること。

原発の問題、オスプレイの問題、大津市のいじめの問題。

当事者である東電の社員や原発関係者、教育委員会、学校関係者、等々、

彼らが何を恐れているのか?

それは「世間」である。

いったん「世間」を敵に回してしまったら、もう何を言っても無駄。

「世間」は正論すらも封じ込める。

これまで「世間」の力によって封じられた正論は枚挙にいとまがない。

この「世間」という日本にしかない存在。

英語にも訳せない言葉。

これを抜きにして日本社会を語ることはできないであろう。

2012年7月18日 (水)

「ヤミツキ」の力/廣中直行、遠藤智樹

31oumweatl__sx230_  人類史上初めて地球外の化学物質を私たちに届けてくれた「はやぶさ」。そのプロジェクトはどうやって始まったのか?
 川口教授によれば、「興味のある人は集まってください」と呼びかけた、ただそれだけのことだったそうだ。
 私たちは、「はやぶさ」の何がどんなふうにスゴいと思ったか?
 このハイテク技術が日本の産業に大きな繁栄をもたらす? この技術的要素が数々の新製品を生む? このチームワークが学校や企業を伸ばす教訓を与えてくれる? アメリカや中国との競争に勝つソフトやハードの秘訣を教えてくれる? もちろんそれらはすべて正しいだろう。
 だが、あえて言えば、そんなことはひとつも大事なことではないのだ。
「こんなことがやってみたい」
「あの日比谷公園ぐらいの大きさの小惑星に何があるのか見たい」
 その動機が多くの科学者や技術者を動かした。 私は、それを「やみつき」の力だと思う。

本書は、人間が楽しみを求め、何かに夢中になる心理と、そういう心が人生を豊にし、自分でも気がついていない隠れた能力を引き出して輝かせてくれる可能性について考察している。

人間は生きていくために必要な最低限のことだけをやってきたわけではない。

生きるのが大変な時代でも、壮大なこと、美しいこと、楽しいことに夢中になり、そのための労力をいとわなかった。

そうした夢中になること、労力をいとわないこと、寝食さえも忘れてしまうようなことを、本書では「やみつき」と呼んでいる。

人間に「やみつき」になる性質がなかったら、今日のような文明を築くことはなかっただろう。

私たちの文明はどこか「やりすぎ」「行きすぎ」「剰余」といったものを土台にして築かれているのではないだろうか。

損得を抜きにして、時間の経つのも忘れて夢中になった、という経験を誰もが持っている。

特に子供のころ、何かに没頭し、のめり込んだ記憶は誰もが持っているのではないだろうか。

この「やみつき」とはどのような心理メカニズムが働いているのか?

本書では2人の心理学の専門家が、心理学的アプローチで、このことを考察している。

「やみつき」の力は、特に私たちの働くという行為を考えるとき、一つの問題提起を与えてくれる。

私たちは何のために働くのだろうか?

単に生活の糧を得るためだろうか?

もし、そうだとしたら、働くことは虚しい。

しかし、働くという行為の中にも「やみつき」の力が働くとしたら、働くということは単なる「労働」ではなくなってくる。

人間の根源的な動機に直結する行為が働くということ、という考え方もできる。

そう考えると、「やみつき」の力を解明することは、人間の持つ大きな可能性を探る意味でも、非常に重要なことのように思えてくる。

2012年7月17日 (火)

バカになれる人はバカじゃない/小宮一慶

4763131494  安藤忠雄さんが、なぜ世界的にも知られる著名な建築家になれたのか。それはきっと彼は建築の「本質」を徹底的に学んだからではないでしょうか。
 高校を出たあと、安藤さんはアルバイトをしながら一年間、建築学の教科書を徹底して勉強しました。大阪大学と京都大学の建築学科で使う教科書をすべて買ってきて、一年間ですべて読破したといいます。朝から夜遅くまで家にこもって勉強していたので、近所の人たちからは「忠雄ちゃんはおかしくなってしまった」と言われるほどだったそうです。
 それくらい集中して、一年間で建築学の「本質」を勉強した。私はそこに感服しました。その基礎があるから、一流の建築家になれたのではないでしょうか。

バカになれる人ほど強いものはない。

逆に、一番たちが悪いのは、自分は頭が良いと思い込んでいる人。

成功している経営者ほど、「バカ」になって、黙々と履物を揃えたり、トイレ掃除を欠かさず行っていたりしているという。

その愚直さが、成功のカギとなる。

世界的な建築家、安藤氏も例外ではない。

安藤氏の今があるのは、建築の「本質」をバカになって徹底的に学んだ、あの時期があったから。

これは安藤氏に限らず、一流と言われる人の話を聞くと、不思議と共通する点である。

ピカソは金にもならないデッサンを書き続けた時期が1万時間以上あったという。

ビートルズもメジャーデビューする前、1万時間以上、各地で演奏をし続けていたという。

逆にジャイアンツの長島、王は、一流と言われるようになった後も、毎日の素振りを欠かさなかったという。

本質を知る人と、知らない人、その差はあとあとになって明確になってくる。

器用な人は、表面的に事象をとらえて、上手に仕事をこなすことはできる。

でもそれでは一流にはなれない。

本質を勉強した人と、していない人の差は、はじめはあまりあらわれない。

しかし、ある程度の年齢になって、いろいろなことを総合的に判断しなければならない立場に立ったとき、本質を知るのと知らないのとでは大きな差があらわれる。

世の中は複雑で、年齢を重ね地位が上がるにしたがって仕事の複雑さは増していくのだから。

複雑なことを正しく判断するには本質を知らなければならない。

「バカになれる人」とは、そのようなことを愚直に、うまずたゆまず続けることのできる人ではないだろうか。

2012年7月16日 (月)

商店街はなぜ滅びるのか/新雅史

9784334036850 わたしは、過去の共同体を復活させるためではなく、生活保障となるべき地域の拠点として、商店街を定位したいと思っている。昨今、インターネットショッピングの普及やショッピングモールの増加によって、以前よりも距離の遠近に関係なく消費することが可能になった。しかし、障がいに苦しんだり災害を被ったりしたときに、やはり頼りになるのは地域社会における消費空間である。わたしはそのことを東日本大震災で確信した。
 わたしたちは、生きていくために必要な財やサービスを自分で生産していない。医療や介護サービスを整えるだけが生活保障となるのではない。地域の消費生活を支える商店街も同じように重要であるはずだ。
 また、社会学者のR・A・ニスベットも指摘するように、近代は、コミュニティの消滅に力を発揮してきたが、新しい型のコミュニティの生成という側面を欠いてきた。商店街には、近代社会においては例外的といっていいほど、一人ひとりの生活に根ざした形で新しいコミュニティをつくりあげた実績がある。
 過去の商店街のあり方をそのまま再生するわけにいかないのは当然である。しかし、商店街が実現しようとした理念は受け継ぐべきであるように感じている。

私の住んでいる地域にも商店街はあるが、昔の面影はなく、衰退の一途をたどっているといった感を免れない。

子供の頃、商店街に両親と共に行って楽しんだ記憶があるだけに、寂しい限りである。

商店街はなぜこうした崩壊への道をたどってきているのだろうか。

著者は、その理由は大きく二つあると言っている。

一つは、商店街が、恥知らずの圧力集団になったこと。

「商店街」という理念は、小売商の中間層化という大きな目的があった。

しかし、中間層化のためにあった規制は、しだいに主婦運動、生協運動、消費者運動と政治的な対立をくりかえすことで、イデオロギー的に解釈されるようになった。

また、その権益を維持するために、保守政党と政治的な結託を見せた。

こうしたふるまいは、商店街の存在意義を見失わせるに十分だった。

二つめの問題は専門性について。

「商店街」という理念は、専門店を一つひとつの地域につくるという目的があった。

しかし、行政官庁による免許付与は、専門性とはまったく関係なく行われた。

免許付与や出店許可は、その地域で営業していたかどうか、また地元業者が許可を出すかどうかにかかっていた。

こうしたことから、外部から規制産業に入ることは実質的に不可能だった。

また、小売店は家族経営が前提であったため、免許などの権益は親族のあいだで移譲された。

それはあきらかに権益の私物化であったし、親族間での経営移譲は小売店のイノベーションを妨げた、と。

私はこの指摘は当たっていると思う。

商店街に限らず、これはどの業界団体や企業にも言えることだが、規制に守られた組織は結果的には競争力をなくしていく。

国や自治体に要求ばかりをして自ら変わろうとしない組織は、やがては淘汰されていく。

当たり前のことなのである。

そして、残念ながら商店街はその選んではいけない道を選んでしまっていた。

今、日本はツイッターやフェイスブック等、バーチャルなコミュニティが浸透してきた。

しかし、丁度振り子が戻るように、フェイス・トゥ・フェイスのリアルコミュニティを求める人たちも増えてきているのではないだろうか。

その意味では商店街の社会的な役割や使命は十分ある。

ニーズは十分にある。

後は、自ら変わること。

国や自治体に要求や期待をするのでなく、

自ら変わるための努力をし行動することである。

そうすれば起死回生のチャンスは必ず訪れると私は思っている。

2012年7月15日 (日)

憲法が教えてくれたこと/伊藤真

4e27f17215d5253164f59659335c7e76 包みを開けると、中に入っていたのは真っさらなランニングシューズと一冊の本だ。うたこはいぶかしげな表情で本の題字を読み上げた。
「日本国憲法……?」
 早速、祖父の拓馬にメールを打ってみた。離れて暮らしているけれど、拓馬とは中学の頃からのメル友でもあるのだ。
「おじいちゃん、欲しかったランニングシューズ、ありがとう! でも、この本はどういう意味なの?」
 拓馬からの返事は首をかしげるばかりのものだった。
「その本は、いってみればダイコンにとっての畑、つまり日本国民にとっては大地みたいなもの。だから、もしもうたこの大地が揺らぎそうになったときとか、もっともっと自分らしく自由に楽しく生きたいと思ったときのお守りにしてくれればいいよ。きっと、うたこのためになると思う。まあともかく、陸上も高校生活もうたこらしく楽しくがんばって」

本書は、弁護士である著者が、日本国憲法のイロハについて、物語形式で語っている。

物語の設定としては「もしドラ」と良く似ている。

「もしドラ」は、主人公である女子高生が、高校野球のマネージャーの仕事を、間違って購入したドラッカーのマネジメントを読みながら考え、壁を乗り越えていくという設定だが、

本書も、主人公である女子高生が、入学祝いに祖父からもらった本「日本国憲法」を通して、所属する陸上部の部活で起こる様々な問題に向き合っていく、といった内容。

日本国憲法というと、何かとっつきにくく、私達の日常にはあまり関係ないことが書かれていると思いがちだが、実は、表現の自由や、個性の尊重といった日本人が生きることの根幹をうたっている。

著者が特に強調しているのは、憲法の真髄は、「個人の尊重、個人の尊厳」だということ。

「みんなと同じじゃなくちゃいけない」ではなく、「人と違っていいんだよ」「人と違うことはすばらしいことなんだよ」「もっと自分に自信をもって自分らしく堂々と生きていいんだよ」と、憲法はあらゆるところで一貫してそれを言っている、ということ。

それは、姿形もそうかもしれないし、ものの考え方もそうかもしれない。

誰を好きになるかということも、もちろんそう。

容姿、性格、勉強ができるできない、スポーツができるできない、ありとあらゆる面で、それはすべてあなたの個性であって、それはそのまま丸ごとすばらしいことなんだよ、と憲法は言っているのだと。

その意味で本書は、憲法というものを、身近なものとして受け止めるという意味では、一定の役割を果たしていると思う。

ただ、個人的には、憲法は国民の権利についてはしっかりとうたっているのだが、それと比較して国民の「義務」についての記述があまりにも少ないのではと感じている。

権利を主張し、自分らしさを求めるのも大事だが、同時に国民としての義務を果たすことも同じくらい大事だと思うのだが、どうだろうか。

とにもかくにも、憲法というと何かと「第九条」が話題になるが、それも含めて、もっと憲法というものに関心を持つべきだ、ということは確かなことだと思う。

2012年7月14日 (土)

戦略人事のビジョン/八木洋介、金井壽宏

9784334036836   結論を先に言ってしまえば、人事部門がオープンでないのは、社員情報をたくさん握っているからでも、何かをたくらんでいるからでもありません。一言で言えば、人事施策に戦略性が欠けているからなのです。
 多くの企業には定期異動があり、毎年決まった月に社員を動かしています。そうした異動や昇進が戦略に基づいたものならば、人事部門はそれについて詳細に説明し、社員の納得を得ればいいだけの話です。
 でも、異動や昇進に戦略性が欠けている場合、つまり単に社員を物のように右から左へと動かしているだけの場合はそうはいきません。人事部門として、「私たちは社員を物のように扱っています」と正面切って言うわけにはいきませんので、定期異動の内実は隠すしかなくなります。

一般的に言って、企業の人事部門はオープンではない。

八木氏は、それは人事部門が「戦略性」に欠けているからだと断言する。

マネジメントには「戦略性のマネジメント」と「継続性のマネジメント」がある。

そして日本の企業にもっとも欠けているのは「戦略性のマネジメント」だと。

「戦略性のマネジメント」とは、「現在」を見て、勝つための戦略を立て、それを企業内の各機能に一貫性をもって反映させるマネジメント。

戦略は外部環境の変化によってしばしば変わる。

そのため、その都度、各部門は変化に対応し、臨機応変に仕掛けを打ち出して、ダイナミックに動く。

そのような企業では、人事部門は、前例や制度やマニュアルに固執することなく、見識をもって変革をリードする役割を果たす。

これが「戦略性のマネジメント」。

他方、「継続性のマネジメント」とは、「過去」を見て、企業における歴史的連続性を重視するマネジメント。

こうしたマネジメントが行われている企業は、世の中の変化に対して鈍感になりやすく、臨機応変の仕掛けより、以前につくった仕組みの温存にこだわる傾向が強くなる。

そして、そのような企業では、人事部門は、前例踏襲を優先し、権限をたてに制度やマニュアルを固守するといった姿勢をとりがちになる。

そう考えると、日本の企業の人事部門は、ほとんど「継続性のマネジメント」しかやっていない。

人事部門がオープンでないのも、人事施策に戦略性が欠けているから。

そのため、人事異動、昇進、昇格、評価の内容を社員に説明できない。

説明できないからますますクローズされていく。

この悪循環に陥ってしまっている。

このことは私にも思い当たる節がある。

確かに、私が普段接している中小企業の人事の担当者から戦略の話はほとんどでてこない。

今ある制度をどう運用するか、といった内容がほとんどだ。

しかし、これからの時代、人事部門こそ戦略性を持つべきなのだろう。

八木氏のいう通りである。

2012年7月13日 (金)

秋元康の仕事学

0081476 僕が企画について講演会をしていたときの話です。講演を聞いていたOLの方が、「秋元さんは企画の話をしていますけど、私は社内でお茶汲みばかり。企画のできる部署だったらいいんですけど」と言ったんです。しかし、僕はこうお話ししました。例えば、そのOLさんが、部署内でお茶を出すとき、「この人は胃が弱い」「この人は昨日徹夜で眼が真っ赤」と、それぞれの体調に合わせて、効くと言われているハーブティを出してあげたら、この人は企画力のあるお茶汲みになります。タクシーの運転手さんでも、見ていると、企画力のある人がいます。例えば、どこを何時頃に走れば、お客さんがいるか? 無線タクシーであれば、どこで待っていれば、一番配車される確率が高いか? 自分がお客さんだったとして、タクシーを必要とするいろいろなケースを考える人です。ただ普通に流しているより、考えている人のほうが売り上げもいいでしょう。
 これは、あらゆる営業職の人にも通ずる話だと思います。つまり、企画とは、自分の居場所をつくることです。〝この人がいないとダメなんだ〟とまわりに認めてもらえる手段でもあるのです。オーバーに言えば、〝存在価値〟かもしれません。ですから、企画を考えるということは、実は誰にとっても身近なものなのです。

秋元康といえば、古くはおニャン子クラブの仕掛け人、美空ひばり「川の流れのように」の作詞、そして近年はAKB48のプロデュース等、ヒットメーカーである。

その発想や企画はどこから生まれるのか、おそらく多くの人が興味を持つことであろう。

本人は、企画力とは日常でのちょっとした気づきから生まれるものだという。

普段の何気ないことをちょっと角度を変えて見るという風に、ごく身近なものだ、と。

特別な情報収集をする必要もないし、分析手法があるわけでもない、と。

本書の中で、非常に興味深いエピソードとして、『とんねるずのみなさんのおかげです』の中のコーナー「食わず嫌い王決定戦」が生まれたきっかけが語られている。

これは、雑談から生まれた企画だという。

ある日、とんねるずの石橋貴明と元フジテレビの中村江里子アナウンサーと何人かで食事をしているときに、中村江里子がふと言った、「焼きそばに乗っている紅生姜が苦手なんです」という話から、何が食べられないかという話題で盛り上がった。

「〝食べられないもの〟って面白いね。人間、ひとつはあるものだよね」と。

そこから始まった企画だという。

つまり良い企画とは会議室で議論する中で生まれるものでなく、むしろ日常の中のちょっとした気づきから生まれるものだと。

私自身、企画力はそれほどあるわけではないが、日常の中で起こる様々な出来事を、ちょっと視点を変えてみる、ということは意識して実行してみてもよいような気がする。

2012年7月12日 (木)

日本再生論/魏晶玄

25219035_1 ハーバード大教授で経営学者のマイケル・ポーターはこう語っています。「日本の企業は、体で動いて頭で動いていない」
 まったく酷いことを言うものですが、つまり、日本の企業に最も足りないところは「戦略」だということです。(中略)
 戦略なきプロジェクトは、おおむね立ち往生するか破綻への道を歩みます。しかし、怪我の功名というか、それらは「臨機応変」という強みを有しています。これは一種の副作用ともいえるでしょう。ようするに、事業がうまく運ばなかったとしても、方向が定まっていないのが幸いして、どうにでも中身を変更できるのです。
 欧米の企業はスタート前に入念に準備を行ない、到達すべき目標をしっかり決めて走り始めるので、もしそれが間違いだと判明しても、なかなか舵を切りにくい。その点、日本企業は「走りながら考える」ことを得意とし、景色を見ながら変幻に対応していくのです。
 よく言えば柔軟性に富んでいるのだけれど、結局は場当たり的。「なんとかなる」という気分がプロジェクト全体を動かし、問題が発生すればその都度修正を加えていくという手法では、これから「多様化」を受け入れ、グローバルな社会システムのなかで生きていくのは難しいと思われます。
 事業が失敗しても、そこに至る過程を評価もせず、分析も行なわない。したがってフィードバックも一切なく、必然的に戦略を立てることもできない。このサイクルがないから、リスタートしてもまた同じ失敗を繰り返す。走り始めて道に迷っても、平気で方向転換して反省もしない──こういう企業が日本にはまだ数多く残っています。

本書は、奨学金を受け韓国から東大への留学を経験した著者の日本への提言。

日本人が書いたものでないだけに、少し距離をおいて、日本を客観的に見ている部分がある。

その中で、著者がマイケル・ポーターの言葉を借りて言っているのは「日本には戦略がない」ということである。

まさに日本にもっとも欠けているのは、この部分ではないだろうか。

ただ、著者が『日本企業は「走りながら考える」ことを得意とし、景色を見ながら変幻に対応していく』と言っているのは、少し違うのではないか、思ってしまった。

私の感覚では「走りながら考える」のは日本人はあまり得意ではない。

日本人は「考えてから走る」というパターンが多い。

そして、その「考えて」の部分にあまりにも長い時間をかけすぎるところに問題があるように感じる。

日本の組織は、とにかく意思決定が遅い。

みんなの合意形成ができるまで、根回しを繰り返し、じっくりと時間をかけて意思決定するものだから、とにかく遅い。

もっと言えば、意思決定なしに、何となくスタートしてしまう、ということもある。

著者が「事業が失敗しても、そこに至る過程を評価もせず、分析も行なわない」と言うのも、誰も意思決定しないため、責任の所在が曖昧だからであろう。

今、石原東京都知事や橋下大阪市長が人気を集めるのも、良きにつけ悪しきにつけ、トップダウン型のリーダーで非常に歯切れが良いからではないだろうか。

いずれにしても、今日本は、世界の中で生き残れるかどうかの崖っぷちに立っているというのは確かなことのようである。

2012年7月11日 (水)

「技術のある会社」がなぜか儲からない本当の理由/片山和也

4806142492 ビジネスは、「戦略」なしに行うと価格競争に陥るものです。そもそも「戦略」とは何かといえば、“自社の経営資源をどこに集中するかの意思決定”のこと。そして、どこに経営資源を集中すべきかといえば、自社が“一番”になれる可能性が高い技術、あるいは製品、エリアです。これは「価格競争を回避できる分野」と言い換えてもいいでしょう。「戦略」というと、何か堅苦しく聞こえるかもしれませんが、要は、「自社が価格競争を回避するためのストーリーをつくる」ことであるといえます。

日本人の中には、「良いものを作れば売れる」という思い込みがある。

神話といってもよいかもしれない。

ところが、近年、そうではない現実に多くの企業が直面している。

当たり前の話だが、戦略がなければ良いものを作っても売れないのである。

では戦略とは何か?

自社の強みを見極め、それを生かすことで一番になれる分野を探し、そこに経営資源を集中することである。

そうすれば中小企業であっても十分に生き残れる。

いやむしろ、そのような分野を探すのは中小企業の方が有利である。

本書の言っていることを一言でいえば、中小企業こそしっかりとした戦略を持つべきだ、ということ。

日本には「職人気質」という言葉があるように、ガンコな職人がコツコツとモノづくりをすることを良しとし、それを美化するようなところがある。

確かにそのような伝統は日本人のDNAとして残すべきだ。

しかし同時に、それだけでは生き残れない厳しい時代に突入したのだという認識も持つ必要がある。

「戦略」というと、何かうさん臭く、机上の空論のように思えてしまうという感覚の中小企業経営者は多い。

だが、もうそんなことを言っている余裕すらもないのが今の中小企業の現実ではないだろうか。

食わず嫌いはやめて、まず一歩を踏み出すことだろう。

時代は変わったのだ。

2012年7月10日 (火)

スローキャリア/高橋俊介

Photo キャリアという山は富士山のように、麓にいるときから頂が見えているわけではないから、あの頂上に立つのは何歳で、そうすると五合目は何歳で通過すればいいなどという計算も、当然成り立たない。
 登山口には木々がうっそうと生い茂り、頂上どころかどちらに行けば、目的の山があるのかすらわからないのがキャリアのスタートだ。しかしそこでじっとしていても、進む方向はいつまでたってもわからないから、とりあえずこっちだというあたりをつけて歩き出さなければならない。
 道を間違え引き返したり、崖から落ちて怪我をしたり、遭難の危機にあったりしながら、それでも歩みを続けていれば、突然視界が開け、めざす山の頂きが目に飛び込んでくるときが必ずある。
 しかしそれでようやく頂上に辿り着き、やれやれと周囲を見渡した瞬間、その山の後ろにさらに別の山があって、自分が登りたかったのは実はそっちの山だったということに気づくかもしれない。そうしたらまた一からやり直しだ。
 そういう試行錯誤を繰り返しながら、いつの間にか自分のやりたいことに近づいていくのである。
 兎にも角にも、最初の一歩をまず踏み出すことだ。

自らのキャリア形成について、多くの人が関心を持つ時代になってきた。

本書は、上昇志向のあまり強くない人はキャリア自律にどう向き合う必要があるのか、という著者の問題意識から生まれている。

世の中、強烈な目的意識をもって計画的に経験を重ね、キャリア形成をしていく人がいる。

たとえば、メジャーリーガーのイチローは小学校の作文で既にプロ野球選手になって活躍することを書いている。

自分で長期的な目標を設定し、達成するための計画を綿密に立て、日々の努力を積み重ね、一つ一つ階段を登ってゆくことによって、やがては自分の夢を実現する。

誰もが憧れる生き方だ。

ところが、実はそのような人は少数派。大部分は、むしろそれほど目的意識がはっきりしているわけではなく、なりたい自分も実はよく分からない。

自分が何に向いているのかもよく分からない。

でも、キャリア形成は大切だと思っている、という人たちである。

ではそのような人のキャリア形成とはどうあるべきなのか?

ここで高橋氏は、キャリア形成を登山にたとえている。

山の麓にいるときには、富士山の頂上は見えない。

しかし、そんな状態でもあたりをつけて、まずは一歩を踏み出してみる。

そのようにして歩き続け試行錯誤していると、ある瞬間、パッと視界が開けることがある。

頂上への道筋がはっきりと見えることがある。

そうしたら、まずは頂上を目指して一心不乱に歩けばよい。

しかし、頂上にたどりついたら、もっと魅力的な別の山の頂上が見えることがある。

「ああ、自分の登りたかった山は富士山ではなく、実はあの山だったんだ!」と。

だったら、そちらに向かってまた一歩を踏み出せばよい。

結局、自律的キャリア形成とはそのようなものなのだという。

これは本質をついている。

例えば十年後にこのような自分になろうと計画的にキャリアを積み重ねたとする。しかし、十年後にそのキャリアは無用になっているかもしれない。

今のような変化の激しい時代は、大いにあり得る話しである。

自分のやりたいことだってそうだ。最初から自分のやりたいことが明確な人はそれほど多くはいない。

でも、何かをやっている内に、ふと「自分のやりたかった仕事はこれだったんだ!」と、感じる瞬間がある。

その感覚を大切にすることだ。

多くの人は、目の前に与えられた仕事に懸命に取り組んでいるとき、その仕事の面白さを感じ、また自分の向き不向きに気づくもの。

かつてサッカー日本代表の監督をつとめたイビチャ・オシムは「走りながら考えよ!」と選手たちに言った。

単純だが、上昇志向のあまり強くない人のキャリア自律は「兎にも角にも、最初の一歩をまず踏み出すこと」、これが一番のポイントだと言えるかもしれない。

2012年7月 9日 (月)

日本人には「2つの性格」しかない/和田秀樹

178312_01_1_l  職場の関係を考えてみましょう。上司が部下と接する場合の態度です。
 まず、上司は自分から部下のところに降りていかないことです。打ち解けたい、部下の本音を知りたい、自分の気持ちを伝えたいといった心理はあくまでメランコ型だけのもので、シゾフレ型にそんな気持ちはありません。
 ところが往々にして、とくに団塊世代あたりは要注意ですが、かつての自分がそうだったようにゆっくり酒でも飲みながら話せば上司と部下は心が通い合うという〝錯覚〟をまだ持っています。
 これが大間違いなのです。
 たとえば昔でしたら、
「いやあ、昨夜は部長に無理やりつき合わされてしまった。愚痴もたっぷり聞かされて参った」 とか言いながらもこのサラリーマンは優越感がありました。同僚も、「そりゃあ大変だったな」
 と口では同情しても内心では「一歩先んじられたか」と悔しい気がしたものです。
 いまはまったくそんなことはありません。
 シゾフレ型にとって、上司と個人的に飲むようなことはゴマすりでしかないし、同僚から仲間外れにされても文句は言えないのです。「あいつはそういうやつなんだ」と軽蔑されておしまいです。
 したがって、上司の誘いはいい迷惑です。みんなと同じであり続けるためには断わるしかありません。
 このへんの心理をわかっていない上司は、あの手この手で部下の心をつかもうとしますが、それが懐柔策であるかぎりすべて逆効果になってきます。媚びてもムダだし、エコヒイキなんかしたらかえってその部下に疎まれるだけです。

本書は、人間というものは大まかにいうと「メランコ型」と「シゾフレ型」の二つのタイプにわけられるという和田氏の仮説が基になっている。

シゾフレ型の特徴は妄想。

魔術的、超自然的なものを信じやすく、考え方が首尾一貫していなくてそのときそのときでコロコロ変わってしまう。

別の言い方をすれば、暗示にかかりやすく、主体性がない。

シゾフレ人間は自分なりのしっかりした価値観を持たずに、流行やその場の雰囲気に従ってしまう。

したがって興味や好みもすぐに変わる。

ただ、本人は自分のコロコロ変わる言動を気にしていない。

そのつど、本気でそう思っているので、むしろ自分には首尾一貫性があると信じている。

シゾフレ型は、ある日突然、別人になってしまうし、そのことになんの矛盾も感じない。

そして、シゾフレ型は一九六五年以降生まれに多い。

一方、メランコ型の心の中の主役は、つねに自分。

「自分がやらなければならない」「他人にどう思われようと、自分のやり方でいこう」といった考え方が基本にある。

それが個性にこだわったり、他人との競争に負けたくないといった気持ちを生み出す。

そして、メランコ型は一九五五年以前生まれに多いという。

すると、表記の上司と部下との間のようなことが起こる。

これは単なる世代間ギャップという問題だけでなく、シゾフレ型の部下とメランコ型の上司との間の問題。

片方の価値観はもう片方には通用しないし、片方がイヤだと思うことがもう片方にとっては好ましいことだったりする。

シゾフレ型にとって当たり前のことが、メランコ型にとっては理解できないことだったり、その逆のケースも十分起こり得る。

もし、著者の仮説が本当だとすると、今、企業で繰り広げられている上司と部下とのコミュニケーションギャップの問題はかなり根の深い問題ということになる。

2012年7月 8日 (日)

人に認められなくてもいい/勢古浩爾

4569801188 わたしは、世間価値に準拠しながら、ある種の不可避性に促されて、自分の「意味」は自分でつくる(あるいは見出す)しかないと考える。なんのために生きるのか、なぜ働くのか、自分とは何者か、という問いは偽の問いであるとわたしは考えている。だが、どうしても考えてしまうのなら、自分がその「意味」を見出す(つくる)ほかはない。画一的な答えはない。自分だけの「意味」をもつことは、世間価値に従うよりも、逆に生きやすいかもしれない。そのほうが明らかに自由度が高いのだ。
 自分だけの「意味」が見つからなければ、わたしたちは生きていくことができないか。そんなことはない。「共我」だけで生きていくことができる。いくつかの承認がこの場所で叶わないからといって、あるいは一時的に叶わないからといって、あきらめる必要はない。別の場所がある。別の時間もある。この言葉がいい。

 人生とはやり直しのできない一筆書きのようなものだと思う。一度描いてしまった線は修正がきかない。できるのはその先をさらに描き続けることだけだ。たとえ予期せぬ手先のぶれで意図とは違う方向に筆が走ったとしても、そこから思いもよらない未来が開けることもある。(笹本稜平『還るべき場所』文藝春秋)

「認められたい」

これは誰もが内側にもっている欲求である。

人からほめられればうれしいし、自分のやったことを評価されればうれしいもの。

また逆に、バカにされると腹が立ち、無視されると落ち込む。

「私は人に認められるために生きているわけではない」と強がってみたところで、心は感じ、頭は考える。

これが人間が人間である所以であるが、同時にこれが人間の幸であり不幸のもとでもある。

そして、「承認欲求」があまりにも強いと、結果として、他人に振り回され、ある時には自分のやりたくない行動をすることになる。

自分がなくなってしまう。

でも本当に人は認められなければ生きていけないのだろうか。

そんなことはない。

自分なりの生きる意味と目的を持ち、自分なりの内なる価値観をしっかりと確立していけば、違った生き方ができるはずである。

「人生とはやり直しのできない一筆書きのようなもの」

心に残る言葉である。

でも、そうであるからこそ、しっかりと自分なりの足跡を残していく生き方をしていきたいものである。

2012年7月 7日 (土)

エースの資格/江夏豊

4569800483 落合とは一九八一年、ロッテと日本ハムでプレーオフを戦ったあと偶然に会って、「麻雀をしたい」と言うので連れていったんです。
 あのとき、落合がリーチをかけてきて、その待ちを私が指摘すると、「なんで江夏さん、わかるの?」って聞いてきた。私は「そんなもん、野球とおんなじで、おまえの読みなんてすぐわかるわい」と答えた。「野球でもじっと待たれるほうがピッチャーは怖いんだぞ」って続けたんですが、すると次の年、前に話したとおり、それまではなんでも一球一球、追いかけていた落合が、図々しく待つバッターに変わって三冠王を獲ったわけです。
 たぶん落合は、私の何気ないひと言を参考にしたと思うんですよ。もうシーズンオフでしたから、麻雀をしても自然に野球の話が出てきたし、彼にとっては「運命の麻雀」だったかもわかりません。

阪神時代はエース、移籍後はストッパーとして活躍した江夏が、いまのプロ野球を論じている。

江夏の言っている、「エースとはこうあるべき」とかいう主張は、野球については全くの素人である私にはどうでもいいこと。

だが、だだ一つ、落合とのエピソードは非常に面白く感じた。

それまでの落合選手は、なんでも追いかけるバッターだった。

江夏が日本ハムに移って初対戦のとき、落合は一球一球、追いかけてきた。

だから江夏にとっては楽な相手だった。

ところが翌年、図々しく待つスタイルに変わっていたという。

じーっと待って、ねらい球を絞ってフルスイングしてくる。

ピッチャーにとっての絶対的な鉄則である「フルスイングさせてはいけない」を完全に破られた。

落合が自身初の三冠王を獲ったのは、まさにその八二年。

その後、二度も三冠王に輝いている。

そういう意味では、追いかけるバッターから図々しく待つバッターに変わって、落合は超一流選手になったといえる。

そして、そのきっかけになったのが、麻雀のときになにげなく発した江夏の一言だったということ。

超一流になる選手と、並の選手で終わってしまう者との差はこんなところにあるのかもしれない。

つまり、普通の人であれば何気なく流してしまう言葉を、超一流になる人は見逃さず、自分のものにしてしまうということ。

これは何も野球選手に限らず、ビジネスの世界にも同じことが言えるのではないだろうか。

2012年7月 6日 (金)

杯(カップ)緑の海へ/沢木耕太郎

Photo ビールを呑みながら、私は先日アン君にした質問をチョンミさんにもしてみることにした。もし日本が一次リーグを突破して韓国ができなかったら、韓国ではどういう反応が起きるだろう、という例の問いだ。
 チョンミさんが答える前に、アン君の、どうして日本ができて韓国にできなかったか大議論が巻き起こるだろう、という意見を伝えた。すると、チョンミさんは、こう言った。
「それ以前に、日本に対する言い知れない憎しみが生まれそうな気がして怖い。議論はそうした感情が少し薄れてから起きるのではないでしょうか」
 そして、アン君とまったく同じ質問をされた。
「もし、その逆のことが起きたら、日本の人はどんな風に反応すると思いますか」私はアン君に対してしたのと同じ答えをした。すると、日本人を比較的よく知るチョンミさんも、そうかもしれませんね、と同意してくれた。(中略)
 私は代表チームというものについて考えていた。
 代表チームとは何なのか。ひとことで言ってしまえば、国を背負って他国と戦うチームということになる。だが、かつて日本ではサッカーの代表チームが本当の意味での「日本代表」だったことはなかった。サッカー・ファンという一部の人の代表でしかなかったのだ。むしろ、ある時期までの「日本代表」は、バレーボールの代表チームだったかもしれない。
 ある種目の代表チームが真の「日本代表」になりえているかどうかは、託されているものの大きさに関わっている。代表チームのユニフォームを着ていれば「日本代表」になれるというわけでもないのだ。しかし、この十年で、日本においても、サッカーの代表チームがようやく「日本代表」になりかけてきた。
 だが、国を代表するということになれば、歴史の長さからいっても、託されているものの大きさからいっても、サッカーにおける韓国の代表チームには及ばない。まさに、韓国の代表チームは、日本を打ち負かすことによって、真の代表チームになっていったのだ。
 代表チームは、勝つことでその国の人々に大きなものをもたらす。しかし、同時に、負けることでさらに大きなものを失わせることになる。この、負けることで大きなものを失う経験なしに、その国を代表するチームにはなれないように思われる。日本の代表チームは、一九九三年のドーハで、ほとんど初めて、負けることでどれほど大きなものを失うのかということを人々に示しかけた。
 サッカーの日本代表が真の「日本代表」になるためには、勝つことでなく、負けることによって失う経験を、まだ何度も繰り返さなくてはならないのかもしれない……。

 

本書は2002年日韓W杯の観戦記である。

沢木氏の約一ヶ月に渡る日韓サッカー渡航のドキュメンタリー的作品に仕上がっている。

沢木氏は単なるサッカーの試合だけでなく、それを観る日韓の人々の感覚の違いについても述べている。

サッカーの韓国代表は、単なるサッカーチームではない。

国を背負っている、まさに「韓国の代表」。

対する日本は、サッカーの日本代表チームではあっても、「日本の代表」ではなかった。

双方では背負っているものが全く違うのではないか、と述べている。

その負っているものの違いは、試合に負けた時の選手の姿に如実に表れる。

今でも覚えているが、日本代表チームが決勝トーナメントの第1戦でトルコと当たり負けた時のこと。

負けた日本の選手たちの表情は静かなものだった。

泣いている選手もいたが、ピッチに崩れ落ちたまま立ち上がれないというような選手はひとりもいなかった。

ところが、同じトルコに3位決定戦で破れた韓国選手の多くはピッチに倒れ込んだ。

その他、セネガルにゴールデンゴールで敗れたスウェーデンの選手は、試合が終わり、セネガルの選手たちがダンスを踊っているさなかにも、ピッチに倒れ込み、あるいはうずくまったまま立ち上がれない選手が何人もいた。

スペインにペナルティーキック戦の末に敗れたアイルランドの選手もそうだった。

それに比べたとき、日本の選手たちのクールさは際立っていた。

何か不完全燃焼の感があったことを今でも思い出す。

早いもので、あれからもう十年が経った。

今のサッカー日本代表は、本当の意味での日本の代表になったのだろうか。

2012年7月 5日 (木)

「女の勘」はなぜ鋭いのか/赤羽建美

4569701574 わたしはこれまでたくさんの女性と仕事をしてきたが、女性は仕事を非常に事務的にこなしているように思える。ここでいう女性にはあらゆる職業の人たちが含まれる。会社に勤めている女性も、漫画家のようにフリーランスで仕事をしている女性も、どちらも同じように仕事の進め方が事務的なのだ。そして、プライベートを優先するようなことはせず、公私をきっちり分けている。
 事務的であるのと公私を分けるのとは、実は深い関係がある。
 事務的とは、言い換えると仕事に妙な思い入れをしないということだ。漫画家やデザイナーのようなクリエイティブな職業の女性でさえ、仕事にどっぷり浸かるようなことはしない。アイデアやデザインを生み出すことを仕事と割り切っている。「事務的」といっても、「適当に」やっているわけではない。女性たちは仕事を一生懸命にやるが、決して私生活を犠牲にしたりはしない。とくにカレがいたり結婚していたりする女性は、忙しくても相手といる時間を大切にする。

女の勘は鋭い。

これは古くから言われてきたことだが、果たして本当にそうなのか?

長年、女性向け雑誌の編集者を務め、フリーランスの物書きとなってからは、女性向けの自己啓発書を数多く書いてきている著者が様々な角度から、このことを述べている。

女の勘の鋭さを示す実例として、必ずといっていいほど引き合いに出されるのが、男の浮気を見破るケース。

夫が外で女性と浮気をして家に帰ってくる。

もちろん、夫は何食わぬ顔をしているのだが、妻は夫が浮気を隠していることを直感的に見抜いてしまう。

こうして、ほとんどの場合、見破られまいとする夫の努力も空しく、浮気が妻にあっさりとばれてしまう。

よく聞く話しだが、どうして女性たちは、そんなに勘が鋭いのだろうか?

男であれば誰もが不思議に思うこと。

ここで著者は女性は仕事を事務的にこなすと言っている。

仕事とプライベートはきっちりと分けるという。

これは意外だ。

でも考えてみたら、確かにそうなのかもしれない。

「オタク」は圧倒的に男性である。

役に立ちそうもないものを一生懸命集めるコレクターもほとんどが男性。

男は何かにのめり込むことにこの上ない無常の喜びを感じることがよくあるもの。

そして何かにのめり込んでしまった時、周りが見えなくなってしまうのも事実。

というより、極端な話し、どうでも良くなってしまうのである。

その意味では、男は永遠のロマンチストなのかもしれない。

それに比べ、確かに女性は事務的である。

現実的と言ってもよい。

徹底したリアリストなのだろう。

勘の鋭さもそんなところから来ているのかもしれない。

私は男なので本当のところはわからないのだが・・・

2012年7月 4日 (水)

修羅場の経営学/黒岩一美

4344998448 人間には「恒常性維持機能」がある。「自分が慣れた、快適な環境で生きていきたい」「なるべく仕事のプレッシャーから逃げたい」「無理な努力は嫌だ」と考えるものなのだ。
 したがって、快適な労働環境だと思っている年収600万円の課長に、「きみ、明日から取締役になってくれ。年収1500万円にするから」という人事を行ったとして、「やった」と喜ぶ人はまずいない。会社からは、「その代わり半端じゃないよ。気合入れて死に物狂いでやってくれ」とハッパを掛けられる。
 家に帰れば家族は「よかったね、やった!」と祝ってくれるが、本人はやる前から憂鬱で死にそうだ。その立場でその報酬をもらうには、相応の大変な仕事をこなさないといけないことが分かるからだ。自分のイメージと現実とのギャップを感じ、できるかどうか分からない、という不安と恐怖が芽生え、元の心地いい立場に戻りたくなる。快適な場所から出たくないという人間の意識は強い。家族のためであっても、自己犠牲を払うことができないのだ。
 経営者には、この気持ちが全く分からない。

馬ニンジン方式というやり方がある。

馬の鼻面にニンジンをぶら下げれば、馬はそのニンジンを食べようと必死に走るはずだ、という仮説である。

ところが、会社の経営者が社員にこの方式を当てはめようと、様々な試みをしても、まず9割方失敗する。

なぜなのか?

社員は経営者とは違うからである。

多くの経営者はハングリーである。

上昇志向のかたまりのようなところがある。

もっと会社を大きくしたい、もっと儲けたい、もっと新しい事業をしたい・・・、と。

逆に言えば、このような上昇志向があるから、会社を立ち上げたのだろう。

だから、社長はこう考える。

「俺だったら、役員にしてやると言われたら必死に頑張るのに」

「俺だったら、新しい仕事の責任者にしてやると言われたら・・・」と。

ほとんどが社長の思い込みである。

社長と社員とは違うのである。

社員の中で、社長のような上昇志向を持っているのはせいぜい1割ぐらい。

いや、1割もいないのではないだろうか。

社長にはこれがどうしてもわからない。

だから、「俺がこれだけ報いてやってるのにどうして頑張らないんだ」と、思ってしまう。

著者のいう通りである。

いきなり「給料上げてやる。役職上げてやる。だから頑張れ」と目の前にニンジンをぶらさげて尻を叩くだけでは、社員は絶対走らないのである。

2012年7月 3日 (火)

マリリン・モンローという生き方/山口路子

4404041489 彼女は愛することを知らなかった、と言う人がいる。
「愛すること、それはあなたを殺しかねない支配力を相手に与えること」
 愛することを知らない人から、こんな言葉は生まれない。
 彼女の頭はやはり弱かった、と言う人がいる。
「私はこれから物事をはっきりと、ただしく見つめるわ。私の内部にある真の核心を見きわめて、それからあたらしい眼で外の世界を見つめるの。見つめるということは人をそれだけ寛容にするわ。寛容さは、この世でいちばん大切なことの一つですもの」
「人はいつだって何かを失っているのよ。それでも私たちは生き続けなければならない、そうでしょう?」
 頭の弱い人間の言葉ではない。
 マリリン・モンローは、純粋な人間しかもちえない「美」を惜しみなく与えた女優だった。そしていまも、その甘くてやわらかな肉体、儚く美しい声、そして海のように深い「女性」性で、私たちに夢を与え続けている。
 マリリン・モンロー。女であることのすべてを使って生きたひと。見つめ、人生を生き抜いたひと。
 マリリン・モンロー。劣等感を魅力に変容させたひと。
 マリリンの人生に、あらためて思う。
 何年生きたかではない。どのように生きたのか、何をなそうとしていたのかが、大切なのだと。

マリリン・モンローがこの世を去ったのは1962年のこと。

私が物心ついた頃にはもう死去していたため、生前のモンローを生で見た記憶は私にはない。

にもかかわらず、私が生まれてからずっと、モンローは伝説のスターであり続けた。

そしてモンローに関する著書も数えきれないほど出版されているのではないだろうか。

本書もその一つであるわけだが、素顔のモンローが記されていて、興味深く読ませてもらった。

おそらく彼女はスクリーン上でマリリン・モンローというスターを演じていたのだろう。

セクシーでかわいく、少し頭の弱いモンローを。

しかし、素顔の彼女は全く違った女性だったようだ。

そのギャップが重荷となり彼女を死へと急がせたのかもしれない。

若くしてこの世を去ったスターは多い。

ジェームス・ディーン、ブルース・リー、そして、マリリン・モンロー。

そして、それ故に伝説のスターになったのだと言えなくもない。

何しろ、彼ら、彼女らは、この世を去った年齢以上には決して歳をとらないのだから。

2012年7月 2日 (月)

騙される脳/米山公啓

459405465x 多くの人はブランドやクチコミに判断を惑わされています。ホンモノにせよ、ニセモノにせよ、マーケティングの結果としての情報に人間は騙されている現実があります。
 こうした現実に、都合よく騙されないためには独自に自分の価値観を持つことが重要です。これは何かのブランドに裏付けられたような価値観とは別のものと考えてください。
 この価値観を持つためにどうしたらよいのでしょう。
 まずは、極端なようですが「新しいものはない」と知ることです。
 今まで見てきたように、大脳科学の報酬系でいちばん大きな要素は「新しいかどうか」。「新しい」と思えば、人間は無意識のうちに飛びついてしまうのです。

著者によると、人間の脳ほどだまされやすいものはないという。

特にそのカギを握っているのがドーパミンという物質。

このドーパミンが分泌されると、人は快感や気持ちよさを感じ、やめられなくなってしまうそうだ。

人は「新しい」ものに弱い。

新商品、新発見、新技術、等々・・・

このように、人が「新しい」ことに弱いのも、ドーパミンというキーワードで説明がつく。

ドーパミンがいちばん分泌されるのが、他人より先に「新しい」ことをやれば満足な結果が得られると「予測して」する場合。

この「新しい」「自分で」「予測してやる」この三要素がそろい、その結果が出た瞬間に、快楽の脳内物質ドーパミンが脳内で分泌される。

これが、今いわれている「報酬系」という働き。

例えばインターネットをするという行為は、この「報酬系」を刺激する。

インターネットで何かを調べようと人は検索をする。

検索をすれば新しい結果が得られるだろうと、予測してやるわけだ。

ネットサーフィンなどをして自分だけの情報を得た際の充実感は「新しい」「自分で」「予測してやる」この三要素がドンピシャリそろったから。

つまり、ネット検索とは、脳の中でドーパミンが出ている状態を作り出すシステムともいえる。

ネット検索にハマッテいる人など、まさにこのシステムに組み込まれているのだと言えよう。

そう考えると、私達は知らない内に「騙されている」ということになる。

大事なことは、「自分はいかに騙されやすい存在か」ということを知ることではないだろうか。

昔から言われているように「己を知る」ということが大事だということであろう。

2012年7月 1日 (日)

あの演説はなぜ人を動かしたのか/川上徹也

4569773753   絶望の谷間でもがき苦しむのは、もうやめようではありませんか。今日は、私は友であるみなさんにそう告げたい。今日明日、たとえ、さまざまな困難に直面しようとも、私にはまだ夢がある。それはアメリカン・ドリームに深く根ざした夢です。

 私には夢がある。いつの日かこの国が立ち上がり、「万人は生まれながらにして平等である。我々はこの真理は自明のことだと考える」という独立宣言の信条を本当の意味で実現する日が来るという夢が。

 私には夢がある。いつの日か、ジョージアの赤い丘でかつての奴隷の息子と、かつての奴隷所有者の息子が、兄弟のように同じテーブルを囲む日が来るという夢が。

 私には夢がある。不正と抑圧の熱波でうだるように暑いミシシッピ州でさえも、いつの日か、自由と正義のオアシスに変貌するという夢が。

 私には夢がある。いつの日か、私の幼い四人の子供たちが、肌の色ではなく中身によって判断される国に生きるという夢が。

上記は、あまりにも有名な、キング牧師の演説の一部。

人を動かす演説には、共通点があるという。

それはストーリーを語るということ。

ストーリーは世の中にあふれ返っている。

しかも、その構造はどれも驚くほど似ている。

なぜなら、人はある特定のストーリーのパターンに出合うと、思わず心が動いてしまう性質を持っているから。

この人の心を動かすストーリーのパターンは具体的に言うと、以下の三つの要素が含まれている。

第一に、何かが欠落した、もしくは欠落させられた主人公。

第二に、主人公がなんとしてもやり遂げようとする遠く険しい目標・ゴール。

第三に、乗り越えなければならない数多くの葛藤・障害・敵対するもの。

本書では、オバマ大統領、小泉首相、田中首相、ケネディ大統領、キング牧師、等の演説を取り上げて説明しているが、驚くほどこのパターンに合致している。

たとえば、キング牧師の演説も、人間としての正当な権利をもたされていない黒人(=欠落した主人公)が、

偏見という障害や人種差別主義者という敵(=数多くの葛藤・障害・敵対)を乗り越えながら、

白人と平等に扱われるという高い目標(=遠く険しい目標・ゴール)に向かって進んでいく、

というストーリーである。

とてもシンプルな構成だが、それ故に多くの人の心を動かす名演説になっている。

リーダーの仕事は、人の心を一致させ、ある時には感動させ、一つの方向に向かわせること。

そのために、人を動かす演説は、必須スキルではないだろうか。

それにしても米国のリーダーに比べ、日本のリーダーの演説はあまりにもお粗末。

悲しくなってしまう。

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