史伝 吉田松陰/一坂太郎
なぜ、学問が必要なのか。明日への希望を失いかけている囚人たちに、松陰は懸命になって語って聞かせた。
「人と生まれて人の道を知らず、臣と生まれて臣の道を知らず、子として子の道を知らず、士として士の道を知らず、豈恥ずべきの至りならずや。もしこれを恥ずるの心あらば書を読み、道を学ぶのほか術あることなし」
学問とは、人間が禽獣と違うゆえんを知るため、人間みずから真の人間となるために行うのだ。朝に道を聞けば、夕に死んでも良いとはこのことなのだと、松陰は説いた。
黒船への密航事件により野山獄に幽囚された松陰。
松陰は、この野山獄を、罪人が教育を受け、更生するための施設に変えようと考える。
そのころ日本では罪人を閉じ込め、苦しみを与える場所が牢獄だと考えられていた。
松陰はこれでは駄目だと考える。
松陰が見るところ、なんの見通しも与えられぬまま永く獄に繋がれることにより囚人は希望を失ってしまっていた。
そこで松陰は獄中教育を行おうと考える。
自らも捕らわれの身でありながらである。
でも松陰はどうして教育が更生に有効だと考えたのだろうか。
それは、「学問とは人間みずから真の人間となるために行うもの」だという信念からきたものではないだろうか。
本来学問とは根本的、本質的なものを修得するために行うもの。
それが後になって生きる力になったり、人を動かす影響力、リーダーシップの元になる信念になるのではないかと考える。
最近は学問というものにあまりにも即効性を求め過ぎているのではないだろうか。
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