これならわかる!ドラッカー思考/枝川公一
個人個人にそれぞれのプログラムが与えられている子どもたちの学習グループは、見るものを驚嘆させる。一人の子どもは、一つの科目を二時間続けて勉強し、その間学習速度を変えない。もう一人は、まずはじめに非常に速い速度で勉強し、やがて速度が落ちてくるとか、十五分くらいごとに科目を変えていくとかする。三番目の子どもはゆっくりと始め、だんだん速度をあげ一つの科目を一時間続けるが、つぎの科目は、二、三分だけ何度も何度もやり直す。こういうことだが、結局は、全員が、教科、科目のすべてについて同じことを学んでいる。しかもそれに要する時間もほとんど同じである。「断絶の時代」(1969年)
今、学校の現場ではいじめが問題になっている。
その原因の一つに、画一化した教育システムがあげられるのではないだろうか。
個人には、その人特有の学び方がある。
赤ん坊でも、一歳にならない前にしゃべりだす子がいる一方で、三歳になっても言葉が自由にならない子もいる。
これは、能力の差ではない。
それぞれが言語能力を身につける際の身につけ方が違うからである。
このような違いから個性がつくりあげられていく。
結局は、どちらも同じように話す子どもになっていく。
話すのが遅い子に、急いで言葉を教えても早く話すようにはならない。
今の学校は、子どもの個性をすっかりはぎとってしまっている。
教室に詰め込まれた生徒たちは、同じことを同じリズムで教えられ、一様に吸収することを強いられる。
ともかく、教師の言うとおりにおぼえこまなくてはいけない。
そして、知識をきちんと受け取ったかどうかは、やはり一律に行われる試験で判定される。
同じ問題を同じ時間内に、たくさん解けた生徒が「できる子」として評価を受け、少ししか解けない子は「できない子」である。
まるで解けなかったら「駄目な子」にまで成り下がる屈辱に耐えねばならない。
そしてこれが更にすすむといじめとなって現れる。
違いを受け入れない学校はやがて違いを認めない社会へとつながっていく。
以前テレビを見ていたとき、ある大学教授が「学校をなくしてしまわない限りいじめはなくならない」と言っていたが、案外当たっているのではないだろうか。
社会のシステムは、ここ数年、ものすごいスピードで変わってきているにもかかわらず、学校は全くと言って良いほど変わっていない。
もはや、学校のシステムそのものが、時代に合わなくなってきてしまっているのかもしれない。
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