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2012年8月25日 (土)

私はなぜ「中国」を捨てたのか/石平

32291747 実は私が、日本語の「やさしい」という言葉の重要性に気がついたのは、ある中国人の留学生仲間との会話においてである。
 神戸大学留学中のある日、同じ中国・四川省出身の女子留学生Cさんが、私に電話をかけてきた。私のことを信頼できる(?)兄貴と思っている彼女は、自分が付き合っている異性との別れ話について、色々と相談してきたわけである。その時、たいへん面白い現象が起きた。
 私とCさんとは、同じ四川省の出身だから、普段の会話は当然、四川弁で交わされている。その日も当然そうであったが、Cさんが自分の彼氏のことについて色々と語っているうち、次の一言を発したのである。
「我覚得他還是一個很やさしい的人」(私は、彼はやっぱりやさしい人間であると思う)。
 ここで彼女は、中国語で喋っている。実際、この会話の真ん中に挟まれている「やさしい」という日本語の言葉以外は、すべて中国語であった。しかし、中国語で喋っていながらも、自分の彼氏のことを評価して「やさしい人間である」と言う時だけは、彼女は日本語を使った。
 そして私も次のように相槌を打った。
「対! 我也認為他是個很やさしい的人。作為男朋友還是不錯的」(そうだ、僕も彼はやさしい人間だと思う。ボーイフレンドとしては良い方かもしれない)。
 そこで私もやはり、自分の喋っている中国語の中に、「やさしい」という日本語の単語をごく自然に、挟んでいたのである。
 しかし、それは一体何故なのか。
 中国人同士が中国語で話しているのに、どうしてこの一個所だけ、日本語の単語を挟まなければならなかったのだろうか。
 Cさんと喋りながら、従来から日本語の使い方に敏感な私は、やはり不思議に思った。(中略)
「やさしい」という言葉は、そもそも、日本語にしかない独特の表現ではないのか。私たち中国人同士が喋っている中国語、あるいは中国語の方言としての四川弁には、日本語の「やさしい」という言葉の意味を、そのままぴったりと言い表せるような表現が、最初からないのではないか、ということに気がついた。

上記抜き書きは、石平氏が「やさしい」という言葉が日本語にしかない独特の表現だということに気づいたエピソード。

石氏とCさんは、同じ出身地の方言である四川弁で会話していながらも、Cさんの彼氏の「やさしさ」について話す時だけは、日本語の「やさしい」という単語に切り替えなければならなかった。

つまり中国語には日本人の言う「やさしい」に合致する言葉が存在しないということ。

これは非常に面白い視点である。

日本では「やさしい」は日常的に、そして頻繁に使われる言葉である。

それはその言葉を使わないと表現できない事象があるから。

言葉とは、何らかの事象があるので、それを表現するために生まれるもの。

「やさしい人間」は、日本では、むしろどこにでもいるような普通の人間、平均的な日本人像となっている。

だからそれを表現するために「やさしい」という言葉が生まれた。

そう考えると、中国には「やさしい」という言葉を使わなければ表現できないような事象が存在しないのではないか、あるいは非常に少ないケースなのではないかということが考えられる。

あくまで推測だが。

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