モノづくり幻想が日本経済をダメにする/野口悠紀雄
日本企業の閉鎖性を確かめるのは簡単だ。日常的にいくらでも実例を観察する機会がある。私の経験を二つ述べよう。
ホテルのエレベーターで、いつになっても扉が閉まらないので不思議に思っていたところ、誰かの到着を待って「開く」ボタンを押し続けている男がいる。しばらくすると、会社の社長らしき人が数人の男たちに囲まれて悠々と到着した。ボタン男は、うやうやしく頭を下げ、やっとのことで扉が閉まった。
もう一つの例。新幹線で予約したはずの座席に、見知らぬ男が座っている。「そこは私の席ですが……」とおずおず申し出たところ、その男は立ち上がって、「じつは、隣に社長がいる。この席を予約したかったのだが、取れなくて別の席になった。そちらに移っていただけないか」と言う。
このどちらの男たちの目にも、社長以外の人間はまったく入っていない。入っているのかもしれないが、少なくとも人間とは見なしていないようだ。
念のため繰り返すが、以上の二つは私が実際に体験したことであり、創作ではない。私が二回も体験したことから推測すれば、こうした人たちは、けっして例外的存在ではない。むしろ、日本の会社には典型的に見られる人たちと言うことができるだろう。
つまり、藩も会社も、社会に対して閉ざされた組織なのだ。それらの組織を動かすのは、「身内の論理」だけである。先に、「会社が家族の延長であり運命共同体だ」といったのは、そのような意味である。
日本企業の閉鎖性を象徴するエピソード。
しかし、サラリーマンであれば誰もが似たような経験をしているのではないだろうか。
以前読んだ山本七平著「日本資本主義の精神」で、
欧米企業は「機能集団」、日本企業は「運命共同体」と書いてあったことを思い出す。
ずいぶん昔読んだ本だが、今も全く変わっていない。
「運命共同体」だから、みんなで仲良く助け合って働く必要がある。
終身雇用、年功序列といった昔ながらの日本企業独特の制度も、それをうまく運用するための仕組み。
今は、終身雇用や年功序列は随分崩壊したが、本質的には変わっていないような気がする。
何よりも問題なのは、社内でしか通用しないルールがあるということ。
企業の不祥事がなくならないのも、根底にはこれがある。
つまりウチとソトを使い分ける文化があるということ。
もちろん、ウチとは社内ルール、ソトとは社会のルール。
サラリーマンにとって最優先すべきは社内のルール。
そして日本の専門職も会社内でしか通用しない専門職である。
高度成長期は、会社に対する忠誠心という形で、このことがむしろプラスに働いた面がある。
しかし、今のような変化の激しい時代では明らかにマイナス。
このままでは、国境を越えて情報やサービスが駆け巡るグローバル化時代に生き残ることはできない。
早く意識改革をし、変化に対応していくべきだ。