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2012年9月の30件の記事

2012年9月30日 (日)

モノづくり幻想が日本経済をダメにする/野口悠紀雄

Photo  日本企業の閉鎖性を確かめるのは簡単だ。日常的にいくらでも実例を観察する機会がある。私の経験を二つ述べよう。
 ホテルのエレベーターで、いつになっても扉が閉まらないので不思議に思っていたところ、誰かの到着を待って「開く」ボタンを押し続けている男がいる。しばらくすると、会社の社長らしき人が数人の男たちに囲まれて悠々と到着した。ボタン男は、うやうやしく頭を下げ、やっとのことで扉が閉まった。
 もう一つの例。新幹線で予約したはずの座席に、見知らぬ男が座っている。「そこは私の席ですが……」とおずおず申し出たところ、その男は立ち上がって、「じつは、隣に社長がいる。この席を予約したかったのだが、取れなくて別の席になった。そちらに移っていただけないか」と言う。
 このどちらの男たちの目にも、社長以外の人間はまったく入っていない。入っているのかもしれないが、少なくとも人間とは見なしていないようだ。
 念のため繰り返すが、以上の二つは私が実際に体験したことであり、創作ではない。私が二回も体験したことから推測すれば、こうした人たちは、けっして例外的存在ではない。むしろ、日本の会社には典型的に見られる人たちと言うことができるだろう。
 つまり、藩も会社も、社会に対して閉ざされた組織なのだ。それらの組織を動かすのは、「身内の論理」だけである。先に、「会社が家族の延長であり運命共同体だ」といったのは、そのような意味である。

日本企業の閉鎖性を象徴するエピソード。

しかし、サラリーマンであれば誰もが似たような経験をしているのではないだろうか。

以前読んだ山本七平著「日本資本主義の精神」で、

欧米企業は「機能集団」、日本企業は「運命共同体」と書いてあったことを思い出す。

ずいぶん昔読んだ本だが、今も全く変わっていない。

「運命共同体」だから、みんなで仲良く助け合って働く必要がある。

終身雇用、年功序列といった昔ながらの日本企業独特の制度も、それをうまく運用するための仕組み。

今は、終身雇用や年功序列は随分崩壊したが、本質的には変わっていないような気がする。

何よりも問題なのは、社内でしか通用しないルールがあるということ。

企業の不祥事がなくならないのも、根底にはこれがある。

つまりウチとソトを使い分ける文化があるということ。

もちろん、ウチとは社内ルール、ソトとは社会のルール。

サラリーマンにとって最優先すべきは社内のルール。

そして日本の専門職も会社内でしか通用しない専門職である。

高度成長期は、会社に対する忠誠心という形で、このことがむしろプラスに働いた面がある。

しかし、今のような変化の激しい時代では明らかにマイナス。

このままでは、国境を越えて情報やサービスが駆け巡るグローバル化時代に生き残ることはできない。

早く意識改革をし、変化に対応していくべきだ。

2012年9月29日 (土)

ドキュメント東京電力/田原総一朗

Photo 折よく帰国中の岡本和人に東大の物理学教室で会った。
 「石炭火力から出る放射能問題は、いまや、ポピュラーというか、非常に深刻でして、原子力は危険で、石炭は安全だなんて誤まれる常識が、まだまかり通っているのは、先進国では日本だけなのじゃないですか」岡本は皮肉っぽい口調でいった。
 「たとえば、出力100万キロワットの石炭火力発電所で、稼動率を70パーセントと仮定すると、年間に200万トンの石炭を燃やすことになり、大気中に放出される放射性物質は、私の計算では、ウラン238が13ミリキュリー、トリウム232が6ミリキュリー、ウラン235が0.6ミリキュリーとなった。これを原子力発電所と比較すると、約10倍ということになります」
 石炭火力は、原子力発電の約十倍の放射能を出す。しかも、原子炉から出る放射能は、大部分がβ線またはγ線であるのに対して、石炭火力から出る放射能はα線で、β線やγ線に比べてはるかに毒性が強いのだという。
 「さらに、石炭火力の致命的なことは、石炭は燃やすのに酸素、つまり空気が必要なので、原子力の場合と違って、放射能を密閉できない。どうしても外界に出てしまうのですよ」
 岡本和人はいった。
 これは重大な問題だが、それにしても、なぜ、こうした事実が一般に広まらないのか。
岡本に問うと、「石炭が危険だ、ということになると困る連中がいる、その連中が強い力を持っている、ということでしょう」と、苦笑しながら答えた。

原子力から放射能が出ることは誰もが知っている。

しかし、石炭から放射能が出るという事実はどの位の人が知っているのだろう。

しかも石炭から出る放射能は原子力から出る放射能より深刻な被害をもたらすという。

そして、「原子力は危険で、石炭は安全だなんて誤まれる常識が、まだまかり通っているのは、先進国では日本だけ」という事実。

“日本の常識は世界の非常識”と言われる所以である。

かくいう私自身も、この一文を読むまで全くこのことは知らなかった。

大事なことは、キチンとした事実認識のもとに議論をするということではないだろうか。

2012年9月28日 (金)

そうだったのか!現代史パート2/池上彰

Photo_2  広島の惨状は、イギリスの新聞『デイリー・エキスプレス』のウィルフレッド・バーチェット記者によって世界に知らされました。
 原爆投下からほぼ一カ月後の九月三日に広島に着いた彼は、被爆者の悲惨な様子を取材しました。原爆投下から何日も経っているのに、爆発から逃げ延びた者が、原爆症で次々に死亡していく様子を記事にしたのです。九月五日に掲載された記事の最後は、「ノーモア・ヒロシマ」という文章で締めくくられていました。
 この記事が出ると、アメリカ原子爆弾災害調査団は、東京で「放射能の影響を受けるはずがない」と否定の記者会見を行います。さらに、原爆に関するあらゆる資料の公表を禁止しました。日本はアメリカ軍の占領下にあったため、この命令を守るしかありませんでした。
 アメリカとしては、原爆の悲惨さが世界に知れ渡るのを避けたいという政治的な判断がありましたが、同時に、そもそも原爆が爆発すると、大量の放射能が発生し、これが人間を死亡させたり苦しめたりすることの恐ろしさを、まだ理解していなかったのです。

広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日のこと。

それから約1ヶ月後、イギリスの新聞記者が被爆者の悲惨な状態を記事にする。

しかし、アメリカはそのことを否定する。

起こっている事実を国が否定するという行為。

歴史を見ていくと、このようなことは様々な国で、様々な場面で、繰り返し行われている。

日本でも現場で起こっている事実を権力者の側が否定するという構図は多く見られる。

そして国民はそのことを何度も繰り返し見させられている。

今、日本で問題となっている原発やオスプレイ等の問題。

「原発は安全」「オスプレイは安全」でも、それって本当なの?

根本には、為政者に対する不信がある。

国は都合の悪い事実は隠す、という不信感である。

「本当に事実が公表されているの?」

「大事な事実を隠しているに違いない」

と言った不信が根本にある。

「嘘をつかない」とか、「約束を守る」とか、このような人間として当たり前のことを国が愚直に行うこと。

これ以外に今の政治不信を取り除くことはできない。

時間のかかることだとは思うが、ある意味、これが一番の近道である。

2012年9月27日 (木)

まず、戦略思考を変えよ/田坂広志

Photo  「湖畔の朝のビル・ゲイツ」というエピソードをご存知でしょうか。
 このマイクロソフトの会長、ビル・ゲイツは、ワシントン州シアトル市近郊のワシントン・レイクの湖畔に豪邸を持っています。ビル・ゲイツは、この豪邸において毎朝目覚めると、ワシントン・レイクを見ながらかならず考えるのだそうです。
 「マイクロソフトの隆盛も、今日がピークかもしれない。明日からは、下り坂になるかもしれない…」
 そしてビル・ゲイツは、こうした危機感をバネにして、マイクロソフトの業界トップの地位を維持するために、また精力的に仕事に向かうというエピソードです。
 様々なエピソードによって「天才」との賞賛を得ているビル・ゲイツですが、実は、このエピソードこそが、彼の「天才的資質」を物語っているのではないでしょうか。なぜならば、これは決して、彼の「果てしない貧欲さ」を物語っているエピソードではないからです。
 そうではありません。彼という人物が、現代の市場の持つ恐ろしい性質を、まさに「天才の直観」で理解していることを物語っているのです。

日本人にとって戦略思考は不得意科目だと言って良い。

長い間日本はまじめにコツコツ働いていれば食べてゆける時代が続いた。

ところが、IT社会となって状況は一変する。

情報が瞬く間に世界を駆けめぐることにより、もはや護送船団方式で、どの企業も仲良く一緒に生きていけるという時代は過ぎ去った。

今の市場は小選挙区と同じ。

一つの市場で一社しか生き残れない時代。

また、一つの市場でトップに立ったといっても安泰ではない。

油断すれば瞬く間に、奈落の底に突き落とされる。

そのため、業界トップに立った企業はナンバー2の企業をたたきつぶそうとする。

なぜなら「徹底的に勝つ」ことが、「生き残る」ための唯一の方策だから。

現代の市場は、あたかも「オセロ・ゲーム」のよう。

ほんのちょっとした打ち手の違いから、盤面の形勢が大逆転してしまう。

したがって、こうした市場においては、たとえナンバー・ワン企業といえども、決して油断はできない。

わずかな油断から生まれる小さな打ち手のミスが、一挙に盤面の形勢を変え、それまでの勝者が敗北に追いやられる。

ビル・ゲイツのエピソードはそのことを物語っている。

2012年9月26日 (水)

読むだけですっきりわかる世界史 近代編/後藤武士

Photo  ロベスピエールは極悪人だったのか。いやそうではない。むしろ善人だった。苦労人で頭もよく、弱い者への慈悲の心も強かった。革命以前は貧乏人専門の「赤ひげ先生」の弁護士版をやっていたほどなのだから。ただ、あまりにもまっすぐ過ぎた。正義(もちろん彼の考える正義だけれど)に一途だった。まっすぐで一途で頭のいい人間は、普通は人づきあいが苦手だから権力を握ることはない。が、何かの拍子で彼のような人間が権力を握ると、周りが見えなくなり、あまりに理想を追い求め過ぎるために、急進的で、過激で、結果としてとんでもない悲劇を生み出してしまうことは多々ある。
 現在のあらゆる人権思想のご先祖さまとでもいうべきルソ-。若きロベスピエールはルソーの思想に感銘を受け、本人に感動の面会も果たしている。そんな人物が、絶対王政期の国王も逃げ出すほどの恐怖政治を行うとは。人はこれを「ルソーの血塗られた手」と呼んでいる。

1793年、ルイ16世はパリの革命広場で断頭台によって生命を絶たれる。

その後権力を掌握したのがジャコバン派。

そしてそのリーダーがロベスピエール。

ここから、ロベスピエールを中心に、恐怖政治のための革命裁判所や公安委員会などの仕組みが整えられる。

初めは王党派や反革命勢力が、のちには同じジャコバン派内での非主流派やロベスピエールのライバルたちまでもが、次々と断頭台に送られていく。

まさに恐怖政治。

しかし、この張本人であるロベスピエール、絵に描いたような真っ直ぐな人間だったという。

歴史を振り返って感じるのは、このようなまじめで真っ直ぐな人間が権力を握ると、とたんに間違った方向に走ってしまうことがあまりにも多いということ。

どうしてなのだろう?

一つ言えることは、まじめで真っ直ぐな人間は、自分の中に正義があると固く信じているので、修正がきかなくなるのではないかということ。

普通、政治家になる人間は、良きにつけ悪しきにつけ、悪に染まっている部分がある。

清濁併せ呑むという言葉がある通り、様々な矛盾を内包して生きているのが政治家という人種であると言えるかもしれない。

しかし、そのような人間だからこそ、人の意見を聞きながらうまくその場を立ち回り、切り抜けてゆける。

ところがそのような世界に、間違って純粋培養種の人間が入ってきたらどうなるのか?

自分の信念にしたがってわき目も振らず、真っ直ぐに進んでいくかもしれない。

それが正しい道であれば良いのだが、仮に間違っていたらどうなるのか?

おそらく歯止めがきかなくなる。

ロベスピエールが行った恐怖政治は、そのことを物語っている。

歴史の皮肉としか言いようがない。

2012年9月25日 (火)

読むだけですっきりわかる世界史 中世編/後藤武士

Photo 「親愛なる兄弟たちよ、神から預りし私の言葉に耳を傾けよ。今日、私は崇高にして慈悲深き神のお言葉を諸君に伝えるためにこの地にやってきたのだ。東方の地で神に呪われたおぞましき異教徒のトルコ人たちが、聖地エルサレムを強奪したのを諸君は知っているか。奴らは神を侮辱し、教会を焼き尽くし、人々を蹂躙し、男を殺し、女を陵辱し、悪の限りを尽している。これを見すごしておいてよいものか。東方の兄弟たちの苦難を我らが素知らぬ顔で見捨てておくことは神の意志にかなうことか。いや、否である。今こそ我々は立ち上がらねばならぬ。等しく神の御加護を受ける兄弟同士で相争うときではない。即座に休戦し、共に手を携え、かの地の血塗られし異教徒どもから聖地を取り戻すべく戦わねばならぬのだ。神の御心は我らと共にある。立ち上がれ、神の勇者たちよ」

これは1095年のフランス中部クレルモン公会議でのローマ教皇ウルパヌス二世の演説。

この演説に、神の正義の名のもとに多くの人々が酔いしれた。

そして翌年、聖地エルサレムを奪還すべく、十字軍が結成された。

歴史上多くの戦争というものはこうして始まる。

異なる価値観同士の対立が、宗教やイデオロギーといった正義の名のもとに戦争が行われる。

そして神の名のもとに暴行、虐殺、蹂躙が始まる。

私は「正義」という言葉の中に限りない危うさを感じる。

アメリカの正義があり、アラブの正義があり、中国の正義がある。

それぞれが「正義」を主張する。

自分の側にこそ「正義」があるということは、自分以外の他者は間違っているということ。

しかし、民族や国が違えば価値観は違うもの。

自分と異なる価値観をすべて否定することは間違いである。

自分の価値観ですべてを判断してしまうこと、そして、異なる価値観を認めないこと。

諸悪の根源はこんなところにあるのではないだろうか。

2012年9月24日 (月)

実行力100%の会社をつくる!/大久保恒夫

Photo こんなこともあった。その会社は企画書が大好きな企業であった。バイヤーの販売計画はA3判の用紙にびっしりと書き込まれた芸術品のような計画書であった。パソコンを使いこなし、それはそれは立派な計画書であった。
 私は恐る恐る「素晴らしい計画書ですね、でもこれを売り場で実行できますか」と尋ねた。するとそのバイヤーは胸を張って、「そうなんですよね。この計画はレベルが高すぎて売り場で実行するのは難しいんです」と言った。売り場で実行できないような指示を本部が出し、売り場は何をしたらいいのか分からない状況を許す体質になっている。結局この企業はずっと業績が悪かった。
 小売業では現場での実行がすべてである。経営者が何を言おうと、現場で売り場で実行されなければ業績を上げることはできない。

大手スーパーが減収減益にあえぐ中、増収増益を続ける成城石井。

その元社長が、値下げせずに売る手法、組織を変革する手法を述べている。

城南石井の基本方針は、挨拶、クリンリネス、品切れの削減。

これ自体、それほど変わったことではない。

おそらく小売業者であればほとんどの会社がこれと似たような方針を掲げている。

ではどこが違うのか?

それはタイトルにあるように「100%実行する仕組み」である。

多くの会社は、立派な経営戦略や方針を打ち出すが、それで終わってしまう。

それをどのようにして社員一人ひとりの行動まで落とし込み実行させるかということまでやっていない。

城南石井では、まず経営者が全社戦略を明確にする。

経営者が自分の会社をどんな会社にしたいのか、それを実現するためにはどんな方針で進めていくのかを明確にする。

そして、経営者は現場の各部に対し、全社戦略を実行するには部単位で何をするべきなのか、ガイドラインとしての基本方針を箇条書で出していく。

各部はそのガイドラインに基づき、具体的にどうするか実行計画が策定される。

その実行計画は項目別に責任者が明確にされる・・・と、最終的には社員の行動まで落とし込み、実行する仕組みが構築されている。

本書を読んでみると、「ここまでやるのか」と思ってしまうのだが、逆に考えれば、ここまでやるから業績が上がるのであろう。

要は如何に愚直なまでに徹底して実行するか、ということに尽きるようだ。

2012年9月23日 (日)

映画は父を殺すためにある/島田裕巳

Photo 若者が大人になっていく過程を描いたアメリカの青春映画においては、父親という存在が重要な役割を果たしている。一方では、厳格で権威のある父親が登場し、子どもを抑圧するが、その一方では、堕落しただらしのない父親が登場し、息子の反発をかう。しかし、どちらにしても、息子は父親との確執に苦しみ、父親をのりこえていかなければならない点では共通している。『フィールド・オブ・ドリームス』や『スター・ウォーズ』のことを考えてみても、アメリカ映画では、父親をのりこえること、つまりは、父殺しを果たすことが重要な意味を持っている。主人公の若者が通過儀礼を果たし、自己を確立していくためには、父殺しが不可欠なのである。

刺激的なタイトルの本だが、要は人が自立したひとりの大人として成長するには「父殺し」いう通過儀礼が不可欠だということ。

「父殺し」といっても実際に父親を殺すということではなく、大きく立ちはだかる父という壁を乗り越えることを意味する。

フロンティアスピリットを高く評価するアメリカの社会においては、個人は自立した生き方を強く求められる。

西部劇に登場する孤独なさすらいのカウボーイは、自立した個人の典型だともいえる。

そのカウボーイが家庭を持ったときには、家族を外敵から守る強い父親であることを求められる。

そういった家庭に生まれた息子は、父親のようにたくましい自立した男に成長していかなければならない。

しかし、現実にはさまざまな矛盾が生じる。

父親があまりに厳格で、自分の思い通りに育てようとして、息子の自立を妨げることもある。

あるいは、だらしない父親で、息子のモデルになりえないこともある。

スター・ウォーズなどは、この父と息子の関係性がそのまま当てはまるようなストーリー展開になっている。

人はどのようにして父親を乗り越え、自立したひとりの大人として成長してゆくのか、

映画をこのような視点で見ていくのも面白いものだ。

2012年9月22日 (土)

桜井章一の「ぶれない生き方」

Isbn9784569669649  麻雀は人と人との戦いですが、私は他者には惑わされません。麻雀だけを見つめていればいい。人を見てしまうから動揺や恐れが生まれ、悪い結果に陥ってしまうのです。
 しかし、ほとんどの人は、対戦相手を見てしまいます。
 たとえば、「アイツ強いからなあ」と思って人を見てしまうと、麻雀との戦いではなく、人との戦いになってしまう。それは、みなさんが知識の中で打ってしまっているからなのです。
 だれが相手であろうが、人が見ていようがいまいが、己の姿勢を崩さない心をふだんから持ち続けなければなりません。
 欲も、緊張感も、心の揺れも、人間に与えられたものです。あって困るものではなく、むしろないと困るものです。ありすぎるからいけない。
 つまり、心は揺れて当然です。緊張感や、心の揺れや、欲をなくそうとするのではなく、それらを楽しめる、それらに負けない人間になればいい。
 揺れない心というのは、恐怖心を抑え込んで力技に徹するということではありません。端的にいえば、心理的バランスを保つということ。
 そのためには、恐怖心を抱え込んだまま、しかし、それに惑わされずに心を元に戻して打っていかなければならないのです。

本書は20年間無敗の伝説を持つ雀士、桜井氏が、「ぶれない生き方」について述べたもの。

ビジネス、スポーツ、芸術、賭け事、といった分野に限らず、一つのことを極めた人には、普通の人にはない何かがあるもの。

私自身は麻雀はやったことがないし、やるつもりもない。

ルールも全くわからない。

その上で本書を読んでみて、結局桜井氏の言いたいのは、勝負を決めるのは、相手ではなく自分自身の中にある、ということのよう。

これは麻雀に限らず、すべてのことに通ずることではないだろうか。

私たちはうまくいかない時はとかく他に原因を求めてしまいがち。

「相手が強すぎた」「時期が悪かった」「たまたま運が悪かった」・・・等々。

しかし、それでは何も生まれない。

結局、何かを成し遂げるには、いかに逃げずに自分に向き合うか、この一点に尽きるということではないだろうか。

2012年9月21日 (金)

使う!論語/渡邊美樹

Photo 位なきを患えず、立つ所以を患う。
 己を知ること莫きを患えず、
 知らるべきをなさんことを求むるなり。

 夢を描き、目標を設定することで、人生を充実させることができるという一点において、私たち人間は平等なのです。大切なのは目標に向かうプロセスの中で、自らを高めることにあるのです。
しかし、足の遅い亀が「どうせ俺は足が遅いから」と歩むのをやめてしまったら、どうなるでしょうか。すべては終わりです。
そうした観点に立てば、敵は自分自身です。私たち人間は人と競争するために生まれたわけではありません。対峙すべきは、夢に対して真剣になりきれない自分。目標から逃げ出そうとする自分。失敗を人のせいにして、言い訳ばかりしている自分。 そんな弱い自分にほかなりません。
人のせいにするのは簡単です。でも、それはちっぽけな人のすることです。
あなたに起こることは、あなたが起こしていることなのです。

本書の著者、渡邉氏は車の中やベッドの横に「論語」を置き、くり返し読んでいる、という。

ぶれない生き方をするためには、原点となる考え方が必要となる。

渡邉氏にとっては「論語」の言葉がそれにあたるようだ。

上記の論語からの引用文、

現代日本語に訳すと、

「地位のないことを悩んだりせず、地位を得るだけの力が不足していることを悩むことだ。また、世間が自分を認めてくれないことを気にかけたりせず、自ら求めなくとも世間に知られるように修養することだ。」となる。

一言で言えば、原因を他に求めるのではなく、自分の中に求めよ、ということ。

人生、思い通りにいかないことがほとんどである。

出世、昇給、あるいは合否、当落などさまざまな場で、自分のことは棚に上げて、他人や環境のせいにする人がいる。

そのときはそれでも良いかもしれない。

しかし、長い目で見たとき、その人はそうすることによって大事なものを失ってしまっている。

それは「自らの成長」である。

人が成長するためには、時には見たくない自分の本当の姿と向き合うことが必要になる。

もし自分に地位がないのなら、それは自分にまだ地位を得るだけの実力がないから。

もし自分のことを誰も理解してくれないのなら、それは自分が周りの人が理解してくれるような行為をしていないから。

見たくないものを見続けるので成長するのである。

時代が変わっても、人間の本質は変わらないものである。

2012年9月20日 (木)

ぶれない人/小宮一慶

Photo 「正しい考え方」とは、振り子の原理にたとえて説明することができます。
 振り子を思い浮かべてください。
 振り子は、ゆらゆらと揺れます。
 そして、必ず、原点を通って揺れています。
 振り子の原点にあたるところが、人間の原点であると考えてみてください。
 人間はいつも原点で静止しているわけではなく、振り子同様に気持ちがゆらゆらと揺れ動き、ぶれることがあるものです。
 そんなとき、原点というものをしっかりと持っていれば、どんなにゆらゆらと揺れているときでも、原点に戻る、あるいは、原点に気づくことができます。
 原点を通るたびにどうすればいいのか自問自答できるので、悩んだり迷ったりしてあらぬ方向に進みかけても、最終的には正しい道を進むことができると思うのです。

「ぶれない」という言葉が最近よく使われるようになったように感じる。

特に政治や企業のリーダーには「ぶれない」ことを要求されることが多い。

同時に「君子豹変す」という言葉があるように、リーダーには「臨機応変さ」や「柔軟性」が要求される。

一方では「変わらない」ことを要求され、もう一方では「変わる」ことを要求される。

こう考えると、一見矛盾したことを求められているように感じるが、実際のところはどうなのだろう。

そもそも「ぶれない」とはどういうことだろうか?

自分の考えに固執することだろうか?

それでは単なる、頑固者でしかない。

著者はそのことについて、「ぶれない人」とは「正しい考え方」という「原点」を持っている人、であると述べている。

つまり、原点があるからこそ、ある時には変化することもできる。

しかし、軸はぶれない、ということが可能になる。

では、何をもって「正しい」というのか?

難しい命題である。

ここまでくると宗教とか哲学の分野になってくる。

事実、著者は、正しい考え方を身につけるうえで大切なのは、長年読み継がれてきた本や、語り継がれた人の伝記などを読んでみること。

論語や仏教聖典、聖書など、古代から読み継がれてきた本には、多くの英知がぎっしり詰め込まれている、と述べている。

そう考えてみると、今の日本のリーダーにはそのような素養はあまり感じられない。

ぶれてしまうはずだ。

2012年9月19日 (水)

上杉鷹山の危機突破法/童門冬二

Books 「まず、私に火種になれと彼らはいっているのだろう。どんなに冷えた土地でも、火さえあれば、やがては、火と火が結び合って、大きな炎になっていくにちがいない。燃えなかった土地が燃えるようになるのだ。冷えきった土地に温もりが甦るのだ。それができるのは私以外ない。できるというのは、そうなることが私の責任だということだ。
 私は、この小さな火のようになろうと思う。まず、私が火種になる。どうか、おまえたちも、米沢に入ったら、城の持ち場持ち場で、火種になってほしい。そして、部下の何人かに、その胸の火を移してほしい。おそらく、部下のなかには、すぐには火を受けとめる者も少なかろう。しかし、根気強くこのことを続けたい。われわれの火種で、新しい火をおこそう。この米沢の地に」
 切々と語る治憲の姿に、多くの家臣たちが感動した。そして、自分たちも火種になろうと心に決めた。

財政難に陥った米沢藩を見事に立ち直らせた上杉鷹山。

若くして改革に取り組んだ鷹山には、当然、抵抗勢力というものが存在した。

人間の世界には三つの壁がある。

それは「物理的な壁」「制度の壁」「心の壁」の三つだ。

制度の壁や、物理的な壁はある場合には容易に壊せる。

しかし、いちばん壊しにくいのは「心の壁」である。

では、「心の壁」を壊すにはどうすればよいのか。

それにはまずリーダーが火種になるということ。

そして、その火を周りの者に次々移していくこと。

そのようにして大きな火となった時、本当に意味で改革が成功する。

大事なのは、リーダー自らが火種になるという覚悟である。

2012年9月18日 (火)

外交官が見た「中国人の対日観」/道上尚史

9784166607679  私は韓国を専門にしたため、若い頃から「歴史問題と外交」について、多くの人と議論をしてきました。その中で本質を突いていると強く印象に残ったのが、あるアメリカの歴史学者の「歴史は記憶に負けるな」という言葉です。
 たとえば戦争で愛する人を傷つけられた、殺されたという「個人の記憶」はあまりに痛切で、相手国に対する強い憎悪、敵愾心に傾いてしまいます。それがナショナルな次元で強化されて「国の記憶」になった場合、危険はさらに膨らみます。自国の正義だけが頭にこびりつき、相手を「悪」とみなす傾向に走り、公平かつ客観的な観点を持ちにくくなる。

今、日中または日韓で起こっている様々な問題。

その根本には「歴史問題」があると言われている。

でも、それは本当に「歴史問題」なのだろうか?

そうではなく「記憶問題」なのではないだろうか?

おそらくどの国も歴史を遡ってみると、加害者であった歴史もあれば、被害者であった歴史もあるだろう。

日本は、中国や近隣のアジア諸国への戦争や植民地支配をしたという加害者としての歴史がある。

同時に原爆の被害者であったという歴史もある。

どちらが強く記憶として残っているかといえば、当然被害者としての記憶であろう。

どの国であっても、戦争による親族の死を語る人に対しては言葉の返しようがない。

しかし「その記憶イコール歴史であり、他の歴史観は間違いだ」となると、それはちがう。

それは個人や集団の記憶であって歴史ではない。

歴史とは相手側からどう見えるかも視野に入れ、厳密で客観的な学術作業に基づくべきものなのだから。

政治的見地や感情で争うものではない。

そもそも「歴史」と「記憶」を混同してしまっているところに問題を複雑にしてしまっている一つの原因があるように感じる。

2012年9月17日 (月)

殴り殺される覚悟で書いた親日宣言/チョ・ヨンナム

516xszmnkel__sl500_aa300_ 私の夢はあのクソいまいましい派なんてものがないところで暮らしたいんです。派から解放されたいってことです。バランスを取ってみてはどうかつてことです。ジャージャー麺ばかりじゃなくてたまにはチャンポンも食べてみようじゃないかってことです。いつまで親米派っていうたったひとつのメニューで満足してなくちゃならないのかってことです。
 親日派、たくさんいますよ。学生が多い街、たとえば新村の裏通りに行けば日本の歌謡曲がガンガン聞こえてきます。でも、日本の歌が大好きな大学生も自分が親日派だなんてことは口が裂けても言えません。殴り殺されるかもしれませんからね。

「殴り殺される覚悟で・・・」とタイトルにあるので、さぞ過激なことが書かれているのかなと思って読んでみたが、内容はそれほどでもない。

それ程日本寄りのことが書かれているわけでもなく、ごくあたりまえの内容である。

むしろ韓国寄りのことが随分書かれているという印象である。

逆に言えば、この程度のことを書くことすらも「殴られる覚悟」がいるほど、韓国内で日本について自由にものを言う雰囲気はないということであろう。

そもそも日本では、日本人のことを好きな外国人のことを「親日家」と言う。

韓国のように「親日派」とは言わない。

そして韓国では「親日派」イコール「売国奴」である。

日本では、ある外国人が親日家かどうかは個人の好みの問題としてとらえる。

だが韓国で親日派とは自身の利権を確保するという明確な目的がまずあり、そのために日本と親しくしたり好意を持ったりする連中という意味。

個人ではなく連中だから「派」なのである。

そしてそのような連中の行為は売国的行為と類義語だということ。

だから著者も述べているように「日本の歌が大好きな大学生も」、もちろん宮崎駿アニメのファンも、自分が親日派だなんてことは口が裂けても言えない。

「殴り殺される」かもしれないから。

おそらく韓国では客観的な事実があっても、それが日本に有利な事実であれば、「殴り殺される覚悟」がないと言えないのであろう。

ちなみに、著者、チョ・ヨンナム氏は、本書をきっかけに韓国では彼の評価は一変し親日派として激しく糾弾されるようになり、芸能活動は事実上休業状態に追い込まれた、という。

だから韓国では、政治家も学者も芸能人もそして一般市民も親日派と言われることを恐れて発言する。

誰でも自分の身がかわいいもの。

日韓の話し合いがうまくいかないはずだ。

2012年9月16日 (日)

ビジネス力の磨き方/大前研一

56969080 私の手元には、その買収・開発資金を募るために、投資家を前にしてプレゼンテーションをするウォルト・ディズニーの様子を収めたビデオがある。
「いまはワニしかいないこの土地を、私がこのように変えてみせる」と、大きな紙に詳細に描かれた完成予想図をポインターで指しながら熱弁を振るう彼の姿は、まさに鬼気迫るという表現がぴったりのすさまじいものであり、私は何度見ても感動を禁じえない。しかし、情熱的なウォルトとは対照的に、彼の話を聴く投資家のほうは退屈そうで、どうみてもあまり真剣に投資を検討しているようにはみえないのだ。おそらく、ウォルトの描く未来は、当時の人々にとってあまりに荒唐無稽に過ぎたのだろう。
 ほどなくウォルトは志なかばで亡くなり、その遺志は完成予想図とともに、兄ロイに引き継がれる。
 その後も資金集めは困難を極めたが、決め手はその完成予想図だった。そこに描かれていた世界に魅せられた、テキサスの石油王で登山家としても有名なディック・バスが投資を名乗り出たのだ。まさにウォルトの執念が、完成予想図に宿っていたといえよう。
 そして、ウォルトの死の五年後に、フロリダ州オーランドにディズニーワールドが完成する。
 かつて、人の数よりワニのほうが多いといわれていたオーランドも、いまは人口約二百四十万人。年間約四千万人が平均四泊五日で訪れる大リゾート地となっている。

それがどんなに難攻不落な壁であっても、絶対に突破してやるという執念さえあれば、必ず活路は開けるもの。

ウォルト・ディズニーのエピソードはそのことを物語っている。

当時、カリフォルニア州にディズニーランドをつくり成功した彼は、次にアメリカ東部進出を目指す。

そこで、彼が目をつけたのが、フロリダのオーランド。

彼はここにテーマパークを築くとぶち上げる。

当時オーランドにテーマパークを築くなど、常識的に考えるならば不可能なことであった。

ところが、ウォルト・ディズニーは投資家たちに彼のビジョンを熱心に語る。

以前読んだ本の中に「リーダーとは右脳で考える人、マネージャーとは左脳で考える人」という言葉があったことを思い出す。

そのことから考えても彼は本当の意味でリーダーであったと言えるだろう。

リーダーとは皆にビジョンを示し、巻き込み、引っ張る人である。

ある意味、リーダーを常識的な考えの中に押し込めることは、あまりやらないほうがよいのかもしれない。

2012年9月15日 (土)

未来を拓く君たちへ/田坂広志

51rjsfjhmkl__sl500_aa300_人生において、「成功」は約束されていない。
しかし、
人生において、「成長」は約束されている。

もし、我々が、人生で与えられる
苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失を、
自分の「成長の糧」とする覚悟があるならば、
人生において、「成長」は約束されている。

我々は、かならず、「成長」していくことができる。

だから、覚悟を定めてほしい。

我々は、何をめざして、この山に登るのか。
この人生という名の山に登るのか。

それは、「人生の成功」をめざしてだろうか。
「夢」や「願望」を実現することをめざしてだろうか。
しかし、それがこの登山の目的であるならば、
我々がその山の頂に立つことができるかどうかは、分からない。

しかし、もし、我々がこの登山においてめざすものが、
「人生の成功」ではなく、
「人間の成長」であるならば、
我々は、かならず、その山の頂に立つことができる。

なぜなら、「人間の成長」をめざして、この山に登るならば、
その山道で出会う、すべての苦労や困難、失敗や敗北、挫折や喪失を、
自分自身の「成長の糧」としていくことができるからだ。
そして、「確かな成長」を遂げていくことができるからだ。

人生において「成功」は約束されていないが「成長」は約束されている、と田坂氏はいう。

「成功」と「成長」、一字違いだが、その意味するところは随分違う。

成功とは多くの場合、他者との関係性で成り立つ。

スポーツであれば、相手に勝つこと。

ビジネスであれば、他社より良い商品、サービスを顧客に提供することにより儲けること。

又は、ブランド価値を高めること。

全て相手との関係性によって成り立っている。

他者との関係性である以上、自分が努力すれば「成功」するとは限らない。

他者が自分以上に努力すれば成功する確率は低くなる。

また「運」という偶然性も影響する。

たまたま、運よく成功したという例は多くある。

逆に、運悪く成功しなかったという例も多くある。

つまり、「成功」には自分でコントロールできない不確定要素があまりにも多いのである。

一方、「成長」といった場合、他者はあまり関係ない。

あくまで自分次第である。

自分の努力、くじけない心、意思の力、心の持ちよう、物事の受け止め方、等、そう言ったものが一番問題となる。

つまり自分でコントロール可能なのが「成長」である。

とすれば、私たちが何を目指すべきなのかは明らか。

やはり「成長」を目指すべきなのだ。

なぜなら「成長」するかどうかは自分次第なのだから。

そして「成長」を目指して日々歩むことにより、「成功」するかもしれない。

しかし、それはあくまで結果である。

日々成長することを目当てとして日々歩むこと、これほど確かな歩みはないのかもしれない。

2012年9月14日 (金)

インテリジェンス人間論/佐藤優

133173  「マフィアの技法」とは、一見、喧嘩好きのように見えても、いちばん強い者とは絶対に諍いを起こさないという処世術である。マフィアは、さまざまな抗争を行うが、国家との正面対決だけは避ける。それは、国家が最大の合法的暴力装置で、それと戦った場合の痛手が大きいからだ。現下、国際社会においてもっとも強いのはアメリカ合衆国である。このことをよくわかっていた小泉氏はアメリカとは決して喧嘩をしなかった。(中略)
  中国、韓国とは喧嘩するが、いちばん強いアメリカとは喧嘩をしないという「マフィアの技法」が小泉氏が長期権力を維持した秘訣だと筆者は考える。

本書では佐藤氏が外務省在籍時代に間近で接した、歴代総理やロシア首脳、さらに歴史上の人物について論じている。

上記はその中の一人、小泉首相について。

佐藤氏は小泉首相は喧嘩上手だったという。

そしてそのやり方は「マフィアの技法」だったと述べている。

「マフィアの技法」とは、ちょうどマフィアがさまざまな抗争を行うが、国家権力とだけは正面対決を避けるように、

一番強い相手とは決して喧嘩せず、うまく味方につけて問題を解決していくというもの。

確かに小泉政権当時のことを振り返ると、小泉首相とブッシュ大統領との個人的な関係がそのまま日米関係につながり、関係は過去にないほど良好で強固なものになっていた。

それがよかったのかどうかは意見の分かれるところであろうが、少なくともそれによって外交政策は一本筋が通ったものとなっていた。

それに比べ今はどうなのだろうか。

中国、韓国との関係はこれまでになく不安定なものになっている。

そして、なによりも小泉政権当時と違うのは日米関係が揺れてしまっているということ。

領土問題では日本も中国も韓国もお互い拳を振り上げたものの、おろせなくなってしまっている。

今のままでは、どの国も損害を被る。

何もいいことはない。

このような中でうまく落とし所を探り、問題解決するのが政治家の手腕というものであろうが、今の政権与党にそのような人材はみあたらない。

喧嘩する場合には、どうやって終わらせるかをはじめから考えて行うべきということであろう。

2012年9月13日 (木)

P&G式 伝える技術 徹底する力/高田誠

20196_120130285_s 私はP&Gでの仕事において、目的を定義することにどれだけの時間を費やしたかわかりません。プロジェクトはビジネスのニーズから、さまざまな周辺状況をもとに、大体こんなことをやろうという合意で始まります。目的を的確に定めるには、具体性を突き詰めることが大切です。これも、紙とペンによる作業です。自分の考えを書き出していくことで、徐々に目的が具体化されていくのです。
しかし、この作業はそれほど簡単なことではありません。どこに具体性が足りないのか、どう具体化するべきかを考える、論理力をつける訓練です。毎回、しっかり時間をとって取り組み、繰り返し行うことでスキルが身に付きます。
「今、取り組んでいる活動の目的は何ですか?」
「明日の会議の目的は?」
  すぐに書き出せるでしょうか?目的は、自分が思っているより明確でない場合が多いのです。常に目的にこだわり、目的を明確化するために時間を使うことは、ビジネスに確実な価値を生み出します。

P&Gでは現在、全世界で13万人の社員が働く。

そこで徹底されているのは、目的を常に持って業務・事業に取組む姿勢を身につけることだという。

そのために、上司は部下が目的意識を常に持った状態に保てるよう、マネジメントする。

「消費者に素晴らしい生活を提供する」という大きな目的がまず第一にあり、そのために細分化された個々の仕事がある。

そしてその細切れの仕事にもそれぞれ目的がある。

仕事に目的があるのは当たり前であるかのように思えるが、実はそうではない。

目的のない仕事は意外と多い、

と言うより、目的を意識しないでやっている社員は意外と多い。

目的とは「何のために」ということ。

「何のためにこの仕事をやっているのか?」

「何のためにこの会議があるのか?」

この問いに明確に答えられる社員は意外と少ない。

「上司にやれと言われたからやっている」とか、

「やることに決まっているからやっている」とか、

そこには「何故」とか「何のために」がない。

つまり思考停止状態で、ただ機械のように仕事をやっているのである。

価値ある仕事をするためにも、仕事に取りかかる前にちょっと立ち止まり、

「この仕事の目的はなんだろう?」と考えることも必要ではないだろうか。

2012年9月12日 (水)

先送りできない日本/池上彰

Photo 次の文章は、トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』という本の中で、オフショアリング、つまり企業の海外移転について述べている部分です。

アフリカで毎朝、シマウマが目を覚ます。
一番足の速いライオンよりも速く走らないと殺されることを、シマウマは知っている。
毎朝、ライオンが目を覚ます。
一番足の遅いシマウマに追いつけないと飢え死にすることを、ライオンは知っている。
ライオンであろうとシマウマであろうと変わりはない。
日が昇ったら、走りはじめたほうがいい。

 誰がライオンで誰がシマウマなのか、私にはわからないが、これだけはわかっている。
 中国がWTOに加盟して以来、その両者と世界各国は、どんどん速く走らなければならなくなっている。中国のWTO加盟が、共同作業の別の形ーーオフショアリングを強烈に加速させたからだ。

中国がWTOに加盟したのは2001年。

それまでの中国は、安い人件費で世界から製造を請け負う「世界の工場」だった。

しかし、WTOに加盟するということは、輸出入や外国からの投資などについて世界基準のルールに従うということ。

そうなった途端、さまざまな企業が中国に乗り込んできた。

製品の一部を作るのではなく、そこに自国の会社や工場を建設し、安い賃金と税金で自国と同じ製品を製造し始める。

やがて中国は、海外からの仕事の注文を受け、海外の企業と合弁会社を設立することで、他国の高度な技術を身につけるようになってくる。

悪い言葉で言えばパクッたと言えなくもないが、それによって急激に製品の品質は向上する。

当初は、単純に真似したり、技術を盗んだりするレベルだったが、いまや、低品質の製品から高品質のハイテク製品を自前で製造する力を獲得している。

上記のたとえで言えば、さながらライオンのような存在が中国だろうか。

一方、人口約5000万人の小さな国である韓国は、世界を相手に輸出産業で生き残ることに照準を絞って、猛烈に商売を仕掛けてきた。

世界の主要各国とFTAを結び、貿易自由化で先行。

特にアメリカ、EUといった巨大マーケットとFTAを結んだことによって、韓国製品はこれから欧米では、関税ゼロで安く売れるようになる。

韓国は上記のたとえで言えばシマウマであろう。

速い足を持っていることに間違いはなさそうだ。

では、日本はどうなのか?

今のままでは日本の製品には関税をかけられるので、現代やサムスン、LGといった韓国ブランドと、圧倒的な価格差が生まれてしまう。

このままでは勝負にならない。

残念ながらいまの日本は、シマウマでもライオンでもない。

それこそ本書のタイトルにあるように「先送りできない日本」の状態である。

2012年9月11日 (火)

逃げない力/大橋未歩

9784569802916 打ち合わせ場所の会議室に入って、まっさきに視界に飛び込んできたのは、なんと「メイド服」でした。ご丁寧に、ふりふりのソックスやカチューシャまで、一式そろえてあります。
「え・・・・・・これ・・・・・・私が着るんですか?」
「うん」
「あの・・・・・・スカート、すごく短いですよね?」
「今回はほら、今秋葉原で流行している『絶対領域』っていうのを番組で取り上げるからさ。メイド服から少し出てるこの生足部分がオタク心をつかんでるらしいんだよ~。オタク文化ってのは社会現象にもなってるからさ。大橋に着てもらった方が、視聴者にもより伝わると思うんだよね~」
「え・・・・・・どうしても・・・・・・ですか?」
「ごめん!大橋!番組に勢いつけたいんだ。よろしく頼む!」
 会社の上司に頼まれて、結局、私はメイド服を着ました。
 入社前は「ニュースを伝える」「番組の進行をする」のが仕事だと思っていたアナウンサー。そのイメージと現実とのギャップに、たまに自分がどこに向かっているのかわからなくなります。

女性にとってあこがれの職業の一つであるアナウンサー。

ただ、それであっても理想と現実とのギャップはある。

局アナといっても結局は組織の一員、

好きな仕事だけやっていればいいというわけにはいかないのが、組織で働く者のつとめである。

そして、実は、仕事に必要な力というものは、やりたくない仕事をやる中で培われることも多い。

逆に、自分に合っていないとすぐに転職をしてしまうのは、何か大きなものを失っている可能性がある。

大事なことは、タイトルにあるように「逃げない」ことである。

いやな仕事であっても、その場にとどまっている限り、何か得るものがあるものだ。

2012年9月10日 (月)

リーダーは弱みを見せろ/鈴木雅則

9784334036737 私は、自分がどういう人間かを理解し、ほしいものを明確化すれば、ほとんどのことは実現可能だと信じています。しかし、ウォレン・ベニスは『リーダーになる』で、次のように述べています。
 「自分は何を求めているのか。この最も根源的な質問を自らに問う人はほとんどいない。答えようとする人はさらに少ない。それでも人生はつつがなく過ぎていく」つまり、自分が何をしたいのかをはっきりさせなくても、短期的には特に苦労することなく、人生は自動操縦で進んでいくのです。特に、現状にそこそこ満足している場合、ビジョンの明確化を行うインセンティブは低くなる傾向があります。しかし、人は人生の正午を過ぎる頃から、自分の人生に何かが足りないことに気づき始めるのです。やりたいことができていないと。
 ジム・コリンズが指摘するように、「偉大(Great)の敵は良好(Good)」なのです。

東日本大震災の後のゴタゴタと迷走、

決まらない政治、

最近の維新の会、橋下大阪市長の人気、

一連のこれらのことを通して、最近リーダー待望論が盛んだ。

ではリーダーシップとは何か?

本書によると、リーダーシップとは、ビジョンや戦略を明確にし、物事に優先順位をつけ、的確に周りに情報を伝え、巻き込み、実行していくこと、とのこと。

では、このようなリーダーはどのようにして生まれるのか、あるいは育成できるのか?

優れたリーダーが生まれる土壌というものがあるのだろうか?

その意味で上記の「偉大(Great)の敵は良好(Good)」という言葉は考えさせられる。

リーダーにどうしても必要な要素として、誰もが惹きつけられるような人格というものがある。

偉大さといっても良い。

ではその偉大さはどのようにして身につけるのか?

あるいは身につくのか?

例えば多くの修羅場をくぐってきた人には、惹きつけられるような魅力がある。

逆に、単に頭が良いとか弁舌がさわやかだとか、やさしいとかいう人からは、人を惹きつける引力のようなものは感じないもの。

つまり良好な環境からは偉大な人格は生まれないということ。

そう考えると、そもそも、今の日本は偉大さが生まれにくい土壌になっていると言えるのかもしれない。

ただし、著者はリーダーシップの考え方やスキルの大半は、過去の膨大な研究・実践から体系化されており、努力次第で誰でも身につけることが可能なものだと主張する。

逆説的ではあるが、日本のような自然発生的に偉大なリーダーが生まれない土壌だからこそ、体系的なリーダーシップ開発のプログラムが必要だと言えるのかもしれない。

2012年9月 9日 (日)

ソニーはなぜサムソンに抜かれたのか/管野朋子

16660792 韓国人の友人は日本の選手があと一歩のところでメダルを逃しても悔しさをあまりむき出しにしない姿を不思議がっていた。
「韓国の選手ならメダルを逃せばまず、『悔しい』と口にする。日本人はストレートに感情を表に出さないという気質の差かもしれないけれど、競技という勝負の世界ではもっと貧欲になってもいいんじゃないか。もちろん、韓国はメダルを獲れば兵役が免除になったり、年金が保証されたり、報奨面で日本より恵まれていると聞く。それでも選手ならばメダルは悲願だろう。日本人は本当に悔しくないのか?見ていると、一番でないことにどこか安心しているようにも見えた」
 無欲の勝利というのももちろんあるが、「あれでいつ金メダルが獲れるのか?」といわれるように、日本は韓国選手に比べて気迫という精神面でも確かに押されていた。
「外に向かって猛進する進取性は弱まり、社会の雰囲気はますます内向的になり、若者たちが草原の羊のように従順な小市民になっていっている」。こう日本の指導者は嘆くというが、日本の若者からハングリー精神が失われて久しい。01年には、奥田碩トヨタ会長が「日本はハングリー精神を失った。このままいけば日本は滅びる」と外信記者に訴え、02年にすでに「なんとか暮らしていけるから危機意識やハングリー精神が不足していることは私たちにはより大きな危機」とサン・マイクロシステムズの本田会長も指摘している。「草食国家・日本」といわれてしまうと愕然とするが、これほど今の日本の姿を的確に表現したものもないのかもしれない。

本書は韓国の男性と結婚した著者が、朝鮮日報のコラム、社説をベースに、韓国の視線を日本人に紹介したものである。

読み進めていくと、かなり偏った見方だという印象を免れないのだが、それはそれで、「こんな見方もあるんだ」と受け止めればよいのではないかと思う。

ここでは、金メダルに対する韓国人選手と日本人選手の執着心の違いについて述べている。

先日のロンドンオリンピックで、日本は38個という過去最高のメダル数を獲得した。

ところが、金メダルの数を数えてみると、僅か7個。

一方、韓国はメダル獲得総数は27個だが、金メダルは13個。

これは、どちらが優れているという比較ではなく、両国の国民気質をよく表しているように感じる。

おそらく一部の競技を除き、金メダルと銀メダル、銅メダルの差は紙一重であろう。

そして、その紙一重の差は、あともう一つの頑張りとか執着心とかいったもの。

ただ、そのわずかな差が、積もり積もって大きな差となってあらわれるのも確か。

いまさら精神主義とか根性という言葉を持ち出したくはないが、今の日本に欠けているものはこういった部分なのであろう。

はっきり言ってガムシャラさとかハングリー精神といったものが今の日本人にはあまりない。

草食動物という言葉が生まれるのもうなずける。

2012年9月 8日 (土)

超「高収益」会社の秘密/石尾和哉

_  未来工業では、開発のことを「工夫」と呼んでいる。工夫をしなければ売ってはならないという鉄則がある。どんなに他社が儲かっている商品でも、まったく同じ製品を真似て出すのは認められない。何かそこにオリジナルな工夫を加えることが求められるのである。開発と呼ばず、「工夫」ということで、営業担当者でも、製造担当者でも、誰でもアイデアを出せるように心理的な抵抗感を取り除いている。ユーザーにとって便利な工夫が見つかれば、先送りをせずにすべて製品化し、ユーザーに受けない場合はすぐやめる、というルールである。

中小企業経営者はいつも資金繰りに四苦八苦している。

そんな中、超高収益を上げ続ける会社がある。

上記は、その中の1社、岐阜県の中堅電設資材メーカー、未来工業について。

未来工業が属する電設資材市場は、大小多くの企業がシェアを競っている。

つまり「同質競争」の市場だということ。

未来工業はそこに最後発で参入した。

そんな中、未来工業がとった戦略は、個別単品の差別化であった。

すべての製品をまんべんなく提供するのでなく、特定製品のシェアを高めることでプライスリーダーになり、高収益を上げるというもの。

同質的な市場で生き残っていくために、創業当時の山田社長は考えた。

「他社と同じものはつくらない。必ず工夫を凝らす。これは原則ではなく、鉄則だ」と。

つまり、「工夫」とは未来工業が生き残っていくための生命線。

この徹底した経営者の姿勢から、社員の意識や姿勢も変わってきたという。

未来工業では毎月社員から100くらいの製品アイデアが出てくる。

その中から優先順位をつけて30くらいを選び、驚くことに、それらについてはすべて製品化する。

その結果、年間400件ほどの新商品を出し続けているという。

つまり同質的な市場で独自の市場をつくり出し、非価格競争で勝つ仕組みをつくり出しているのである。

今多くの企業は「同質競争」に陥っている。

同質競争の市場では価格競争に陥り、どの企業も利益を出せない消耗戦になる恐れがある。

体力のない中小企業にとってこれはきつい。

どう考えても大企業に勝てるわけがない。

その点からも、同質競争から脱却し、製品差別化を実現した未来工業には多くの学ぶべき点があるのではないだろうか。

2012年9月 7日 (金)

変化をチャンスにするマネジメント/小宮一慶

530 口先だけで「お客様第一」「患者様第一」を唱えることはそれほど難しいことではありません。しかし、人の生死を預かる医療の現場は慌ただしく、時として効率や組織の都合が優先されてしまいがちです。「患者様第一」を本当に実践していくことは非常に難しいことです。ところが、大雄会では来院した人々に嫌な思いをさせないという接遇が徹底されています。
 なぜ、そんなことが可能なのか。不思議に思った私が「なるほど」と頷いたのは、幹部の集まる会議に同席したときです。大雄会では、理事長や院長、副院長、看護師長などの幹部が集まる会議が頻繁に開かれていますが、その場でも会議参加者は患者のことを必ず「患者様」というふうに呼んでいました。患者さんのいる前で「患者様」と呼ぶことはできても、患者さんのいないところで最高幹部たちが必ず「患者様」と呼ぶことを徹底するのはなかなか簡単ではありません。会議などでは、侃々諤々の議論がなされることもありますが、患者さんに対する姿勢だけは一貫しています。

「顧客第一」だとか「お客様第一」を理念として掲げている企業は多い。

いや、今やほとんどの企業がそのことを掲げているのではないだろうか。

では、それが本当に実質化しているのか?

それを考えると疑問符がつく企業がたくさんある。

特に良くあるケースが、儲けるための手段として「顧客第一」をうたっている企業である。

いわゆる外に向けたアピールの手段としての「顧客第一」である。

しかし、今や消費者もかなり賢くなってきた。

そのような偽物はすぐにメッキがはがれてしまう。

では本物と偽物の違いはどこにあらわれるのか?

例えば、上記、大雄会の例にある通り、経営幹部が内々の会議の中で「患者様」と呼んでいるかどうか、

こんなところにあらわれる。

上に立つ、理事長や院長、副院長、看護師長などが普段の会議の席でも、「患者様」と呼んでいれば、その部下の医師や看護師も、患者のことを「患者様」と職場でも言うようになるだろう。

言葉とは不思議なもので、いつも「患者様」と呼んでいると、患者さんに対する対応が知らず知らずのうちに良くなっていくもの。

企業も、表面では「お客様第一」と言いながら、企業内部の会議では「客」と呼び捨てにしているようでは、本当の「お客様第一」など実践できないだろう。

まず言葉から変える、というのは一番大切なポイントではないだろうか。

2012年9月 6日 (木)

カリスマのつくり方/戸矢学

511ognzux2l__sx230_ なぜか? 何が違うのか? ディズニーランドも、テーマパークであり遊園地ではないか? しかも、特に高度な遊具がある訳でもなく、むしろ古風な遊園地といった設定で、奇抜な仕掛けなどはほとんど期待できない。
 ところが、ここにディズニーランドの最大の〝武器〟が潜ませてあるのです。ディズニーランドは、実はテーマパークでもなく遊園地でもなく「教育施設」なのです。
 たとえばレストランの建物の柱でさえ、一本一本に意匠が凝らされており、歴史や文化の由来があるのです。それは、何の時代の、何民族の、何文化の柱である、というように。 そしてその「学習」のための分厚いマニュアル(教本)が完備されており、学校の教師たちのためのセミナーも絶えずおこなっています。
 だから、ディズニーランドは「教育委員会推薦」の教育施設となり、校外学習や修学旅行にバスを連ねて団体でやってくるのです。
 これがもし一般の遊園地などであったなら、そこはただの「遊ぶ場所」なのだから、生徒を引き連れて学校行事として行く訳にはいきません。――これが、カリスマ=ウォルト・ディズニーが考えた戦略なのです。

カリスマは持って生まれたものではなく創り出すことができるもの。

ではどうすれば創造できるのか。

本書では、そのためのプログラムを紹介する。

上記はその一つ、ディズニーランドはいかにして神話・伝説を創り出したのか、について。

そこには周到に考えつくされた戦略があった。

今、多くのテーマパークは時代に合わなくなっており、そう簡単に人は集まらない。

もはや小手先のアイデアや、少しばかり刺激的な遊具を設置したくらいでは、飛躍的に入場者を増やすことは見込めない。

何しろ現在の日本には、他に「楽しい場所」も「楽しいこと」もたくさんあるのだから。

はるばる足を運ばせるだけの理由がなければ、もう人は来ない。

しかしそんな状況で、ディズニーランドだけは〝ひとり勝ち〟の状態。

しかも入場者のほとんどがリピーター。

なぜなのか?

その理由は、ディズニーランドの創始者であるウォルト・ディズニーにまでさかのぼる。

ウォルト・ディズニーはテレビ番組・ディズニーアワーに自ら登場し、知的な風貌と語り口で、子どもたちとその母親を魅了し続けた。

日本では1958年にNTVで「ディズニーランド」の放映が始まった。

力道山のプロレスリング中継と隔週で、金曜日の夜8時、スポンサーは三菱電機。

私自身、子供の頃に見たウォルト・ディズニーの姿はしっかりと記憶に残っている。

何よりも「良心的番組」の代名詞的存在で、ディズニーの映画も、ほとんどが文部省推薦のお墨つきがつくといった具合だった。

このコンセプトは、そのまま東京ディズニーランドまで徹底して継承されることになる。

つまりディズニーランドとは「教育施設」なのである。

ここが他のテーマパークとは決定的に違う点。

長い歴史の上に築き上げられたものであるだけに、ちょっとやそっとでは他のテーマパークは真似できない。

ここに他社との決定的な差別化が生まれる。

つまりカリスマとは戦略的に創り出すものであるということ。

これは本書を通して知った新しい発見である。

2012年9月 5日 (水)

まず動く/多胡輝

997375090x 昔、私が見たテレビに、大変傑作なものがあります。それはある会社の話で、この会社には特別室というものがあり、そこには碁からマージャン、将棋、トランプなど、ありとあらゆる遊び道具がそろっています。そして、この部屋の勤務を命じられた者は、一日中好きなことをして遊んでいていいということなのです。
 ところが、この部屋にも、一つだけやってはいけないことがあります。それは「仕事」です。なにをしてもいいが、仕事だけは、たとえ一秒たりともしてはいけないというわけです。
 さて、この部屋の勤務を命じられた人たちはその後どうなったかということです。じつは最初のうちこそこんな勤務ならいつまででも大歓迎とばかりに楽しくサボッていましたが、そのうち仕事がしたくてたまらなくなったのです。
 人間には、誰でも自己実現の欲求があります。自分を、自分のため、社会のために役立て、向上させたいという基本的な欲求があるのです。このドラマは、人間がその基本的な欲求を一時的に完全に断った場合どうなるかをよく示しています。自己実現の欲求は人間の基本的な欲求ですので、それを完全に断たれた時に、より強くこの欲求に目覚め、やる気を起こす結果になるわけです。

人は何のために働くのか?

誰もが一度は考えたことのある命題である。

まずまっ先に思いつくのが「食べるために働く」ということ。

確かに人間、金がなければ生活していくことはできない。

そして金を得るためには資産家でないかぎりは働く必要がある。

素直な答えだと思う。

しかし、有り余る金を持っていてもなお働く人がいる。

何のためなのか?

それは働くことによってしか得られない何かがあるから。

では、それは何なのか?

著者は、それは人間に自己実現の欲求があるからだと言っている。

「働いて社会のために役立ちたい」「人に喜ばれたい」「夢を実現したい」、これら全て、自己実現の欲求がその根っこにある。

このことで思い出すのが、「日本でいちばん大切にしたい会社」で紹介された日本理化学工業の話し。

この会社の障害者雇用率は7割。

そのきっかけになったのは、50年近く前のある出来事だった。

当時、大山社長(当時は専務)は障害者を数人雇用していたが、一つだけわからないことがあった。

どう考えても、会社で毎日働くよりも施設でゆっくりのんびり暮らしかほうが幸せなのではないかという疑問である。

なかなか言うことを聞いてくれず、ミスをしたときなどに「施設に帰すよ」と言うと、泣きながらいやがる障害者の気持ちが、はじめはわからなかった。

そんなとき、ある法事の席で一緒になった禅寺のお坊さんにその疑問を尋ねてみた。

するとお坊さんは

「そんなこと当たり前でしょう。幸福とは①人に愛されること、②人にほめられること、③人の役に立つこと、④人に必要とされることです。

そのうちの②人にほめられること、③人の役に立つこと、そして④人に必要とされることは、施設では得られないでしょう。

この三つの幸福は、働くことによって得られるのです」

と教えてくれたという。

普通に働いてきた大山社長にとって、それは目からウロコが落ちるような体験だった、と語っている。

働くということに多くの人は人生の半分以上の時間を費やす。

その意味では「何のために働くのか?」、それぞれ自分なりの答えを持つべきではないだろうか。

それだけで働くことがもっと楽しくなるような気がする。

2012年9月 4日 (火)

はじめての宗教論左巻/佐藤優

Photo 仕事はBeruf(ベルーフ)です。これが召命で、仕事というのは神に命じられた使命、天職のことです。だから、工場で働いている労働者であっても農民であっても、それは全部、天職です。それに対して、ちょろちょろと仕事を変えて、金だけ稼ぐような場合はジョブになる。だから、ドイツ語の場合ジョブというと侮辱的なニュアンスが出てくる。フリーターもドイツ語で言うとジョブになるわけです。しかし、たとえば同じようにコンビニで勤務していても、その仕事を自分の天職だと思っている人の場合は、ベルーフになる。

日本人にとって聖書は馴染みの薄いものであろう。

ところが、世界は聖書を中心に回っていると言っても過言ではない。

それほど聖書およびキリスト教の影響は大きいものがある。

特に欧米人の考え方を理解しようと思うなら、聖書を知らずしてそれは不可能であろう。

ここで著者は、天職の考え方について述べている。

天職とは単に自分に向いている、向いていないということでなく、神に召されてその仕事についているかどうかが重要なポイントになる。

ここが日本人の考える天職と大きく違うのではないだろうか。

つまり、ベルーフとジョブの違いである。

日本人の考える天職とは、ジョブの範疇である。

神に召されたということになると、それは好き嫌い、向き不向きを超越した世界である。

やりたいとかやりたくないも関係ない。

「神に命じられたからこの仕事をやっている」という考え方である。

しかし、考えてみたら、これほど強いものはない。

このような強い信念と召命感があったなら、どんなつらさや逆境にも負けないのではないだろうか。

私たち日本人の職業観が何か薄っぺらに感じてしまうのも、こんなところにあるのかも知れない。

2012年9月 3日 (月)

iPhoneをつくった会社/大谷和利

Amw0002 スティーブ・ジョブズは、何かの課題に直面した場合に、例えば100のアイデアを出して、そのうちの99が的外れだったとしても、残りの1つが他の誰にも思いつかないような素晴らしいものを提案できる力を持っている。このとき、的外れな99のアイデアを追いかけても何のメリットもないわけで、それらを素早く検証して切り捨て、残りの1つを選び出す必要がある。
 また、もし完成寸前までプロジェクトが進んでいても、万が一、プロジェクトを取り巻く環境に変化があれば、これを破棄したり、やり直しを行う勇気も必要だ。アップル社にも、陽の目を見なかったプロジェクトはいくつも存在する。
 多くのアイデアを素早く試し、即断即決で最も正しい答えを見つけ出す。そして、プロジェクトのどの段階でも、先がないと気づいたりより優れた方向性が見つかったりすれば、ゼロからやり直す。それができたからこそ、アップル社は生き残れたばかりでなく、業界をリードし、その枠を超えるビジネス展開が可能となったのだ。

アップル社は、今や時価総額世界一の企業に成長した。

その一番の原動力は何といってもスティーブ・ジョブズという存在と、彼が作り上げた文化であろう。

特にその意思決定の早さ、臨機応変さ、柔軟性は、日本企業が持っていないものである。

ひと昔前であれば、企画を実行する前に熟考し、ひとたび方向性を決めたら、それに従って突き進むという仕事の進め方が一般的であった。

しかし、現代のビジネス界で、そんな悠長なことをしては、流れに取り残されてしまう。

また、人間というものは、作業をある程度進めてしまうと、たとえそれがうまく行きそうにないとわかっても、なかなか引き返すことができなくなる。

これを防ぐには、数多くのアイデアを出しては試してみて、初期の段階でその可能性を見極め、見込みがない場合には、即刻プランを変更していく臨機応変さが求められる。

そのために必要なのはそれを可能にするリーダーシップと企業文化である。

アップルを復活させたスティーブ・ジョブズは、まさにそれを持っていた。

しかし、ジョブズは昨年、世を去った。

ジョブズ亡き後、アップルがどのように動くのか、非常に興味深い。

2012年9月 2日 (日)

できる社員は「やり過ごす」/高橋伸夫

Photo 社会心理学者、カール・ワイクは、つぎのようなおもしろい事例を紹介している。
 ある軍事演習で、ハンガリー人の小隊を率いる若い少尉は、アルプス山脈の凍てつく荒野に偵察隊を送りだした。ところが、その直後、雪が降りはじめる。雪は二日間降りつづき、送りだした偵察隊はもどってこない。安否が気づかわれたが、三日目になって偵察隊は帰ってきた。
 彼らがいうには「われわれは道に迷ったとわかって、もうこれで終わりだと思いました。すると隊員のひとりがポケットに地図を見つけたのです。その地図のおかげで冷静になれました。われわれはテントを張って吹雪を耐えぬきました。それからその地図で方位、位置をたしかめながらここについたわけです」。少尉がこの命の恩人となった地図を手にとってじっくり見ると、おどろいたことに、それはアルプス山脈の地図ではなく、ピレネー山脈の地図だったのである。

混乱しているときにリーダーがなすべきこと、

それは、たとえ間違っていようが、何らかの大まかな方向性を示すことである。

リーダーが確信をもって方向性を示せば、部下はとりあえず安心する。

そして一歩を踏み出すことができる。

この意味は大きい。

迷って不安のうちにその場にとどまっているより、とにかく一歩を踏み出した方が助かる可能性は高くなる。

このエピソードは、現代のような混迷の時代におけるリーダーのなすべきことを示している。

現代のような時代、正解は誰一人分からない。

だからみんな不安でいっぱいである。

このような時代でリーダーのなすべきことは何か。

間違っていようが、みんなの目指すべき方向性をはっきりと示すことである。

そして迷っている人たちに一歩を踏み出させることである。

この一歩を踏み出させることの意味は大きい。

リーダーとして一番の悪は、何も決めないことである。

2012年9月 1日 (土)

「坂の上の雲」50の知恵/北原義昭

Image 海軍の軍人になった秋山真之は、友人の正岡子規に人の老化と国家の老化についておもしろいことを語っている。
『たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる。人間も同じで、経験は必要じゃが、経験によって増える知恵とおなじ分量だけのかきがらが頭につく。知恵だけ採ってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ』

人は年を取ればそれだけ経験を積む。

知恵や知識も増える。

実際、「今の経験と知恵と知識が20代の頃にあったら、もっと違った人生を歩めたのでは・・・」と思うことがある。

確かに若い頃の自分を振り返ると、無駄なことを随分やってきたな、というのが実感である。

これは知識や知識や経験のもたらす良い面。

ところがこれらが足を引っ張ることがある。

これらが「固定概念」となってしまった場合である。

真之が「船底のかきがら」と表現したように、これらは前に進むことを妨げる。

「かきがら」は知らないうちに船底に付着する。

同様に、「固定概念」も無自覚のうちに固まっていく。

確かに自らを省みると、少し保守的になっている面がある。

それは守るべきものが多くなったからでもある。

独り身の頃は、守るべきものはそれほど多くはなかった。

ところが、結婚し、子供が与えられ、一定の仕事を持つようになると、その分、守ることにエネルギーを取られてしまう。

意識もそちらの方向に向いていく。

するとどうしても発想そのものが「守り」の方向に向かう。

致し方ない面もあるのだが、船が寄港すると、付着した「かきがら」を落とすように、

定期的に自分の中にある「かきがら」を落とす作業をすることが必要となってくるのではないだろうか。

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