« 2012年10月 | トップページ | 2012年12月 »

2012年11月の30件の記事

2012年11月30日 (金)

日本の黒い霧(下)/松本清張

61i66cvxwfl__aa278_pikin4bottomrigh 帝銀事件捜査は、最初の段階では本筋の方向にむかっていたと思える。捜査要綱の中では、繰返し繰返し、帝銀の真犯人が医者や医療関係者であり、復員の陸軍衛生関係の公算が大であると強くうたっている。この事件に対して約五千人の容疑者が全国の警察で調査されたが、このいずれもが、捜査要綱に云っているような医薬関係者であった。
 しかし、ひとり平沢貞通だけには、この医療薬品業務関係がないのだ。彼は一介の画家であった。帝銀であれほど細密な計算や取扱いを行なったほど毒物に対する知識があるとは思われない。

下巻では、接収ダイヤ問題、帝銀事件、鹿地亘事件、松川事件、追放とレッド・パージ、朝鮮戦争が扱われている。

中でも一番印象的なのは、帝銀事件についての記述である。

帝銀事件については、本書を出すまえに、「小説帝銀事件」を著しているので、そこでも語られているのだが、本書で改めて推理を展開している。

粘着質では、と思えるような粘っこさだが、これが清張の真骨頂なのであろう。

そして読んでみると、明らかにおかしいのである。

どうして、毒物に対する深い知識がなければ起こし得ない事件の犯人に平沢が仕立て上げられたのか?

どうして、捜査は、初期の方針通り最後まで旧陸軍関係にむかわなかったのか?

どうして、毒物は「青酸カリ」であると断定されたのか?

帝銀に使われた毒物が青酸カリであったという決定的な実証は無い。

しかも、最初、検事は「青酸化合物」と云っていたが、いつの間にか、途中でそれが「青酸カリ」そのものとなってしまっている。

百歩譲って、毒物が「青酸カリ」だとしても、平沢がどうしてそれを入手していたかの経路さえ分っていない。

普通に考えれば、この事件の犯人は軍関係者に特定されるだろうに、捜査が軍関係にゆかなかったのはなぜか?

帝銀の真犯人は軍の衛生関係者に直結する、と考えながら、なぜ、医学知識ゼロの平沢に向かわねばならなかったか?

まさに「なぜ」「ナゼ」「Why」である。

とうしてこれで平沢を犯人だと断定できたのか?

まったく合理性がない。

これだけ疑問だらけなのだから、「裏に何かあるのでは」と勘繰りたくもなるもの。

事実、清張は本書でGHQが絡んでいると強く主張している。

「疑わしきは罰せず」という刑事裁判における原則から言えば、無罪となってしかるべきであろう。

まさに「日本の黒い霧」と呼ぶにふさわしい謎に包まれた事件である。

2012年11月29日 (木)

日本の黒い霧(上)/松本清張

61tcndqdgbl__aa160_ 既に強大となった日本の急進労働運動もなんとかして食止めなければならない。更に日本のあらゆる機関を一朝有事の態勢に持って行かねばならない。そのためには、自分の手で育成した日本の民主的空気を至急方向転換させる必要がある。それには、日本国民の前に赤を恐れるような衝撃的な事件を誘発して見せる、或いは創造する必要があった。マッカーサーの支持を得たGHQの参謀部第二部はそう考えたであろう。

松本清張が、GHQ占領下の日本の暗部にメスを入れた貴重なノンフィクション作品。

上巻では、下山事件、もく星号墜落事件、昭電・造船疑獄事件、白鳥事件ラストヴォロフ事件、伊藤律事件が扱われている。

いずれの事件も、GHQが重要なカギを握っているところに共通点がある。

上記は下山事件についての記述だが、ここでもやはり、GHQが当時の強大化した労働運動をどのように考えていたかが記されている。

下山事件は結局、自殺か他殺かもはっきりしないまま迷宮入りしてしまうわけだが、清張は他殺説を主張する。

証拠が十分でない中、独自の推理によってグイグイと事件の核心に迫っていく。

分断された事実を結びつけ、点と点をつなぎ合わせるようにして論理を展開していく。

清張が他殺を主張するのは、次のような事実による。

まだ下山総裁の生死の程が分っていない時、東鉄の労組支部の部屋で、東鉄渉外部員の前田某が「今電話が掛かって来たが、総裁が自動車事故で死んだ」と伝えて、みなで喊声を挙げた事実。

下山総裁が失踪する二日ぐらい前から、「下山を殺せ」「下山を暁に祈らせろ」というビラが新宿駅付近に貼ってあった事実。

総裁の失踪前日には、鉄道弘済会の或る青年が、下山殺しの予告電話をうけていたという事実。

GHQが日本支配以来、軍国主義の払拭に、方便として用いた共産党育成方針が思わぬ成果を上げ、日本のあらゆる分野において共産党、またはその同調者が急増したことから、今のうちに何とかせねばならぬと考えていたという背景。

下山総裁の貸金庫の中には、見られて恥かしい物の一つである春画があったという事実。

もし覚悟の自殺ならば、そんな物は必ず持ち出して処分しているであろう。

と、このような事実をいくつもつなぎ合わせ、一つの推理として下山総裁の死はGHQが何らかの形で関わっていると結論づけている。

私が生まれる前の事件だが、最近の推理小説やノンフィクションにはない、骨太で重厚な作品にしあがっており、非常に読みごたえがある。

2012年11月28日 (水)

新世紀のビッグブラザーへ/三橋貴明

Photo「君の言うとおり、第三地域の人々から、自分たちの過去や現在についての自信を奪い去ればいいのだ。
 今の自分たちはダメだ。過去の自分たちもダメだ。このままでは未来の自分たちもダメだ、と。第三地域の政治、行政、文化、経済、軍事、教育、治安、技術、その他諸々、あらゆることに関する自信を奪い去り、否定させればいい。
 さもなければ、この地を世界革命に巻き込むなど、夢のまた夢だ。今の自分たちに自信を持ち、満足している人々が、革命など望むだろうか。ラディカルな革新を実現するには、まずは現在を全否定してもらわねば困るのだよ。(中略)
「それで、メディア統制ですか・・・・・・」
「ああ、勿論、メディアも利用したとも。プロパガンダと呼びたければ、呼ぶがいい。」
 だが、メディアだけではないぞ。
 政治家、官僚、財界人、学者、企業家、宗教家、評論家、人権活動家、労働運動家、学校教師、大学教授、弁護士、歌手、俳優、コメンテーター。
 ありとあらゆる手段で、影響力を持つ彼らを籠絡し、この地の人々の自信を奪い去るべく発言させ、行動させたわけだ。

日本の進歩人が主張する「人権」「友愛」「市民」「共生」「環境」「護憲」等の耳触りの良い施策が実現したら日本社会はどうなってしまうのか?

本書は、そのような起こり得る未来を描いたシミュレーション小説。

タイトルの「ビッグブラザー」とは、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの名作『1984年』に登場する独裁者の呼び名。

三橋氏が書籍やテレビの討論番組等で主張している内容を、小説という形で表現している。

内容はフィクションだが、その中の「従軍慰安婦問題」「南京大虐殺」「無防備都市宣言」等の記述は事実をそのまま記している。

三橋氏が一番罪深いと言っているのは実はマスコミ。

政治家の暴走は、有権者の投票で止められる。

官僚機構や企業の不祥事は、それこそマスメディアが、ここぞとばかりに叩くであろう。

しかし、そのマスメディア自身の暴走や不祥事は、果たして誰が抑えることができるのか。

日本国民はマスメディアを管理、制御する手段を、いっさい持ちあわせていない。

しかも、そもそも各マスメディアが一方的に偏った情報ばかりを流しているとしたら、誰がそれを止められるのか?

情報とは、かくも恐ろしいものだと記している。

小説としての出来は正直、それほどでもないのだが、著者が普段主張している内容が小説という形で描かれると、また違った意味で考えさせられる。

2012年11月27日 (火)

ドラッカーさんが教えてくれた経営のウソとホント/酒井綱一郎

Photo「日本が依然として精神構造が製造業国家であることが、少子化問題と並ぶ重要な課題である。製造業で働く日本人は三割ぐらいだろうが、この比率を一割ぐらいまで低下させるべきだ。なぜなら、日本が世界市場で最も競争力を持っていた製造業は、もはや成長産業ではなく、競争が激化した成熟産業だからである」

ドラッカーは以前から、日本が依然として精神構造が製造業国家であることに大きな問題があると述べている。

そして、その言葉は今まさに現実になっている。

不況になると、決まって出てくるのが、「モノ作り大国の復活」といった言葉である。

確かに日本の製造業が優れた技術を持っているのは確かであろう。

ところが、その高い技術が逆に過剰品質を生み、グローバル化したマーケットの中で負け続けているという現実がある。

パソコンやテレビなどはどんどんコモディティ化してしまい、今や価格競争ではとても勝てない。

今年になってソニー、パナソニック、シャープといった日本を代表する企業が軒並み巨額の赤字を計上した。

この流れは今後あらゆる製品に及んでくるであろう。

ドラッカーは、製造業そのものを否定していたわけでない。

成熟産業にとって、品質の良し悪しだけでは、収益性を担保できないといっているのである。

日本のモノづくりを生かすサービス経済化が必要だと指摘したのである。

確かに、日本企業は技術開発力に優れている。

ところが、せっかくの技術開発力を収益に変える力が弱い。

また、イノベーションを起こしても先行者利潤を享受できず、海外のライバイルに追いつかれるケースがよく見られる。

日本企業はもっとイノベーションの収益化の方策を考える必要があるのではないだろうか。

2012年11月26日 (月)

反ポピュリズム論/渡辺恒雄

Bks12090907320001n1 悪しき民主党のスローガンはほかにもある。「脱官僚」と「政治主導」である。官僚を叩いて国民大衆の喝采を浴びよう、という魂胆がありありで、まさにポピュリズムの典型だ。
 吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄……と歴代の総理大臣は誰もが霞ヶ関の官僚を大いに活用したものだが、それでも政治主導だった。官僚を使いこなす力があったからだ。
 例えば田中角栄という政治家は、高等教育を受けていない人だったが、だからこそ官僚を大事にして知識を吸収した。道路特定財源を定めた道路三法も、私の前任の読売新聞社長である小林興三次さんが旧自治庁の財政局長、行政部長だったころ、小林さんが田中さんと頻繁に協議して田中さんのアイデアを採り入れながら法文化作業を行って出て来た。
 田中さんが自民党幹事長のころ、彼の事務所に行くと、当時の大蔵省の課長級まで載った電話番号の一覧表がテーブルのガラス板の下にある。それで大蔵省の課長たちに電話を直接かけて指示を出していた。事務次官や局長を飛び越して、課長クラスまで使いこなしているとは本当にすごいと感心したものだ。金権政治の象徴のようなロッキード事件に首を突っこまなければ、彼は歴史に残る大宰相になっていただろう。

本書で読売新聞グループ会長の渡辺氏は、ポビュリズムの危険性を述べている。

渡辺氏の主張に全て共感するわけではないが、一部分についてはうなずける点があった。

たとえば、民主党の「脱官僚」「政治主導」のスローガンはボピュリズムそのものであると言う主張。

これについてはその通りである。

最近の「中央集権打破」も同じような匂いがする。

官僚を悪者に仕立て、政治主導を打ち出すのは確かに受けが良い。

しかし、本当に官僚を敵に回してしまったら、政治家は何もできない。

むしろ、本当の政治主導は、うまく官僚を使いこなすことではないだろうか。

いずれにしても、選挙になると万人受けする公約がどんどん出てくる。

今度は騙されないよう、しっかりと見極めたいものだ。

2012年11月25日 (日)

池上彰のお金の学校/池上彰

9784022734174 金本位制は、第一次世界大戦の後、経済が大混乱するなかで世界中の銀行がやめてしまいました。金本位のどこが問題だったのか。
 それは金本位制を採用していると、その国の中央銀行が持っている金の量しか、お金を発行できないからです。でも政府としては、たとえば、景気が悪くなってしまった時などには、景気対策としてお金の流れを良くするために、市場に流通するお金を増やしたい。ところが、ある一定量までしか、つまり金の量までしかお金を発行することができないとなると、そうした金融政策に限界があります。
 金本位制では20世紀の経済の発展についていけない。そう考えた当時の先進諸国は、「これからは中央銀行が持っているお金の量に関係なく、お金を発行できるようにしよう」ということになりました。これが「金本位制からの離脱」という歴史的な事件です。この時以来、銀行の紙幣は「兌換紙幣」ではなくなりました。不換紙幣、つまり金とは交換できない紙幣となったわけです。

本書では池上氏がお金の成り立ちから、現在に至るまでの流れ、仕組みについてわかりやすく解説している。

良きにつけ、悪しきにつけ、私たちの経済活動はすべてお金よって成り立っていると言ってよい。

そのお金の成り立ちの上での大きなエポックは、金本位制からの離脱であろう。

金本位制をやめてしまって以来、紙幣は「信用・信頼」によって成り立つようになった。

言葉を変えて言えば、紙幣は共同幻想によって成り立っているということ。

だからその信用がなくなれば、紙幣は単なる紙切れになってしまう。

ただし、それを恐れて中央銀行が不況の時、何もしなければ景気は回復しないだろう。

無策では、何のための金本位制からの離脱なのかわからなくなってしまう。

先日、自民党の安倍総裁が、「日銀の輪転機で、お金をいっぱい印刷すれば、景気が良くなる」と発言したことが問題になっている。

でも、ある意味これは的を得ているのではないだろうか。

言葉の表現には問題があるのだろうが、そのくらい大胆な金融政策をしなければデフレは止まらず、景気も回復しないということ。

まだ選挙でどこが勝つかわからないが、新政権与党はどんな金融政策をとっていくのだろうか。

2012年11月24日 (土)

AKB48がヒットした5つの理由/村山涼一

Thumbnailimage_32938 商品やサービス、ビジネスが売れるための法則のひとつに、『未完成の法則』がある。
 これは、人は誰しも未完成なものを完成させていくプロセスを楽しむところがあるので、あえて完全にしないで、未完成な状態で提供すると売れるというものである。
 例えば、プラモデルやジグゾーパズルがそうだが、少しずつ時間をかけて、作り上げていくのを楽しむ。完成させる手間を消費者に委ねて、未完成であることを特徴にしていることがポイントである。

本書はAKB48がヒットした理由をマーケティングの視点から説明している。

それを読んでみると、これまでのアイドルの売り出し方とは明らかに違う手法で売り出していることが分かる。

その中の一つが、未完成の素人を使うというもの。

踊り一つをとっても、韓流の少女時代やKARAのような完成度はない。

どこかに素人っぽさを残している。

秋元氏はAKB48を「リナックス」にたとえている。

リナックスはオープンリソースの考え方を取り入れたソフトで、ユーザーが自由に手を入れて自分の使い勝手をあげるところに特徴がある。

AKB48もファンの自由な意見を反映し、ファン好みに仕上げられるような工夫がこらしてある。

総選挙やジャンケン選手権等もそのような趣旨であろう。

未完成の素人だからこそ、素人を応援していく楽しみと、成長していくのを見守る楽しみを味わうことができる。

そしてファンは自分のひいきのメンバーに深い愛着を持つ。

また特定の個人に支えられているわけでもないので、たとえメンバーが抜け、ファンが入れ替わっても、進化し続けることができ、つねにファンのニーズを反映させることができる。

これは一つのビジネスモデルと言えよう。

しかし、AKB48を儲かるビジネスモデルとして作り上げた秋元氏の手腕はさすがというべきものがある。

2012年11月23日 (金)

のぼうの城(下)/和田竜

32487253 三成はなにやら笑いが込み上げてきた。
 そして
「負けた負けた、完敗じゃ」
 供回りの者がきくのもかまわず、大声で叫んだ。それは清々しいとさえいえる敗北の宣言であった。
 吉継は、しきりに首をかしげていた。
「わからぬ。なぜあの総大将が、ああも角の多い侍大将どもを指揮できるのか」
 田楽踊で、あの大男の将器を確信した吉継だったが、最前の大広間での、正木、柴崎、酒巻ら重臣どもの成田長親に対する物言いをきいて、とうてい統率できているとはおもえなくなっていた。
「できないのさ」
 三成は、当然のようにいった。
「それどころか何もできないんだ。それがあの成田長親という男の将器の秘密だ。それゆえ家臣はおろか領民までもが、何かと世話を焼きたくなる。そういう男なんだよあの男は」

石田三成は2万の兵をもってしても、僅か5百人の忍城を攻め落とすことができなかった。

成田長親が守る忍城を落城させるため、石田三成は「水攻め」作戦を思いつく。

堤防を築堤し、利根川と荒川の堰を切り、城を水で囲み降参させようとする。

しかし数日後、奇跡が起こる。

なんと堤防は決壊し、三成軍の兵士が多く溺死する。

なぜそのようなことがおこったのか?

舟の上で、田楽を踊るところを敵の銃弾によって撃たれた長親の姿を見て奮起した村人たちが堤防を決壊させた、と、この小説では描かれている。

領民から愛される長親の人柄が堤防決壊へと導いたのだ、と。

でも、本当なんだろうか?

少し出来過ぎのような気がする。

ただ、忍城が石田三成率いる2万人の攻めに屈せず、最後まで徹底的に抵抗したのは歴史上の事実である。

おそらくいくつかの偶然が重なって、この奇跡と思えるような出来事が起こったのではないだろうか。

この小説で描かれている成田長親も、かなりデフォルメして描かれているような気がする。

ただ、リーダーシップを考える上では、少し考えさせられた。

つまりリーダーは必ずしも部下よりも優れている必要はないということ。

強くある必要はないということ。

完璧であることは求められていないということ。

普段からよい人間関係を築くように働きかけ、信頼関係を熟成していく。

そして、いざというときには「あの人のためなら」と、命令されなくても自ら進んで戦うような部下を育て上げておく。

よく言われる「サーバント・リーダーシップ」である。

つまりリーダーを一つの型にはめる必要はないということ。

リーダーの特性や、必要とされる場面によって、求められるリーダーシップの型は違ってくるということ。

そして、あの時、あの場面で、長親のようなリーダーシップがうまく機能したということではないだろうか。

2012年11月22日 (木)

のぼうの城(上)/和田竜

09408551「和戦いずれかを訊こうか」
 正家は、歯噛みして耐える関東人どもの姿を存分に堪能すると、ようやく本題に入った。
「降るなら、城、所領ともに安堵してつかわすが、小田原攻めに兵を差し出せ。戦と申すなら、我が二万三千の兵が揉みつぶす。当方としてはどちらでも構わぬが、腹は決めていよう。早う返答せよ。わしは朝飯を食うておらぬ」
 薄ら笑いすら浮かべながら、正家はいった。
 ──これよこれ。
 正家は内心歓喜に沸いた。上段の間の田舎者は、恐れに恐れて言葉も出ぬではないか。
 正家はそうおもうなり、忘れていたかのように最後の要求を突きつけた。
「それと、成田家には甲斐とか申す姫がおるな。それを殿下に差し出すよう」
 家臣どもは無言で色をなした。一様に怒りで顔を紅潮させ、小刻みに身体を震わせた。
 だが、長親だけは、違った。みるみる怒りで表情を変える家臣らのなかで、この男はただひとり何を考えているのか一層わからなくなった。
「腹は決めておらなんだが、今決めた」
 長親はようやく言葉を発した。
「なら早ういえ」
 正家がそういった次の瞬間、のちの忍城城代にして忍城方総大将、成田長親は、この田舎城を戦国合戦史上、特筆すべき城として後世に位置付けさせる、決定的な一言を発した。
「戦いまする」
 長親は、そういったのだ。
 家臣どもは皆、唖然となった。言葉は誰からも発せられなかった。

最近、テレビで盛んにこの映画のプロモーションが流れているので興味が湧き読んでみた。

「のぼう」とは「でくのぼう」の略で、この小説の主人公、成田長親のあだ名。

農作業が好きで、よく領民の作業を手伝いたがるが、不器用なため、どちらかというと迷惑をかけている。

表情に乏しい背の高い大男で、のそのそと歩く。

当主の従兄弟であるのに、家臣はおろか百姓らからも、その姿から「でくのぼう」を略して「のぼう様」と呼ばれている。

その長親、愚鈍な人物と思われているが、実は非常に誇り高い人物。

戦わずして城を明け渡すようにと高飛車な態度で要求を突きつける長束正家に対して、「ノー」を突きつける。

2万人の豊臣軍に対して、5百人で立ち向かったということだがら驚かされる。

しかも、これは実話だという。

まだ、上巻を読み終わったところなので、その後の展開は知らないのだが、話しとしては非常に面白く、小説や映画にはもってこいの題材だと感じた。

2012年11月21日 (水)

なぜ取り調べにはカツ丼がでるのか?/中町綾子

51xevhlod7l__sx230_ ベタ、それは誰でも展開が読めるパターン化された言葉や行動のこと。ありきたり、つまらないといった否定的な意味で使われることが多い。しかし、実はベタとは笑いや感動を誰とでも共有できる、最強の共通言語なのです。

著者は、テレビドラマのベタな表現に注目する。

ベタな表現の推移を見ていくと、そこから時代が見えてくる、と。

例えば表題にもなっている、取り調べとカツ丼の組み合わせ。

劇中で、カツ丼は刑事の人情を表すシーンで用いられる。

戦後間もない日本では、人々の暮らしは貧しく、やむにやまれず罪を犯す者もいた。

長時間の取り調べで粘る容疑者に対して、刑事は「腹減ったろう」と出前のカツ丼を振る舞う。

刑事は、両親や子供を思ったやむにやまれずに犯した犯罪だったことに同情する。

「罪を憎んで人を憎まず」と言えば陳腐に聞こえるが、このシーンの根底には、罪を犯した者も同時代を生きる一人には変わりないという共感が示されている。

だから、この取り調べとカツ丼の組み合わせは、長い間、刑事ドラマのベタな表現の定番として何度も使われる。

私自身、記憶に残っているのは「太陽にほえろ」の中で露口茂の演じた「山さん」である。

劇中では、山さんが取り調べ中の容疑者に食事を与えるシーンが幾度となく描かれた。

やはり、それは時代を映していたのだろう。

しかし、90年代後半から2000年代にかけて、犯人に共感するだけでは解決しきれない事件が描かれるようになる。

それと同時に、事件を追う刑事のキャラクターや捜査の手法も変化を遂げていく。

「アンフェア」では味方すらも信じられないという、現代の人間不信が描かれている。

「相棒」では、情緒よりも論理、足で稼いだ情報よりも計算から導き出した証拠によって事件を解決していく刑事たちが描かれている。

彼らが容疑者にカツ丼を差し出したり、故郷に住む母親の話しを持ち出して泣き落としにかかる姿はちょっと想像できない。

彼らが信じるのは、論理的、科学的根拠のある背景や証拠である。

と、まあ、そんなことが書かれていた。

つまりテレビドラマで使われるベタな表現を追っかけていくと、そこから時代が見えてくるというのである。

私自身、テレビドラマはめったに見ないのだが、

これは、非常に面白い切り口だと思ってしまった。

2012年11月20日 (火)

スウェーデンはなぜ強いのか/北岡孝義

Isbn9784569790220 われわれ日本人が学ぶべきは、スウェーデンの個々の具体的な福祉政策ではなく、福祉政策をうまくワークさせているスウェーデンの国民の制度や政治に対する信頼だ。信頼という無形の社会資本である。そして、その信頼がどのように形成されているかをスウェーデンから学ぶべきだ。
 信頼という無形の社会資本は、スウェーデンにあって日本にないものである。

本書を読んでみて、スウェーデンは本当に不思議な国だと思った。

税金は日本よりはるかに高いのに国民からの反発は少ない。

福祉が行き届けば国民はやる気を起こさないはずなのに、スウェーデンの国民は勤勉であり、労働生産性は日本よりはるかに高い。

そしてH&Mやイケアといった世界的な企業がこの国から生まれている。

スウェーデンは大きな政府と言われているが、米国以上に市場原理主義的だ。

政府は企業のリストラに反対するどころか、リストラを容認している。

スウェーデンを代表する自動車会社ボルボやサーブの破綻に際しても、政府は一切救済しなかった。

つまりスウェーデンは日本とは真逆の国だということ。

だから、スウェーデンのやり方をただ表面的に真似してもうまくはいかないだろう。

ただ一つ、すごくうらやましく感じたことがある。

それは国民が政治を信頼しているということである。

スウェーデンにあって日本にない最も大きなものはこれではないだろうか。

やはり問題は、著者が言うように政治に対する信頼なのだろう。

2012年11月19日 (月)

心配ぐせをなおせばすべてが思いどおりになる/齋藤茂太

Ek0027660 「心配事の80%は起こらない」と言われているのをご存じだろうか。逆に言えば、「残りの20%は、心配した通りになってしまう」ということだが、悲観することはない。このうちの大半は、心配事をリストアップして整理し、準備を整えて対応すれば解決できるものである。
 つまり、手の打ちようのない心配事というのは、ほんの数%にすぎないと見ることができる。
 この数字を聞くと、「言われてみれば、そうだなぁ」と納得するのではないだろうか。実際、過ぎてみれば「あんなことに心配するほどのことではなかった」「心配して損をした」と思うことは、自分で認識しているよりずっと多いものである。

自分は心配性だという人は多くいる。

偉大な経営者として知られる松下幸之助は「心配こそ生きがい」だと断言していたそうだ。

また、ソフトバンクの孫正義は、体が弱かったことと在日韓国人であることから「日本の企業にはいっても将来はないだろう」と心配し、19歳のとき自分で会社を興す決心をしたと伝えられている。

だから、心配性であるということはよいことなのである。

人間は心配する動物だといってもよいかもしれない。

少なくとも、犬や猫は10年後のことを心配したりはしない。

また、世の中に心配する材料が多くあるのも事実。

少子高齢化、不況、年金、原発、日中問題等々、問題をあげたらきりがない。

これらに加えて日常の心配事がある。

だから心配するなと言われても無理な話しなのである。

ただ、心配するということの中に、起こりもしないことにまで心を奪われ煩わせてしまうということが含まれている。

やはり、無駄な心配はしないほうがよいだろう。

著者が言うには「心配事の80%は起こらない」という。

この数字を知っているだけでも、無駄な心配事から解放されるのではないだろうか。

2012年11月18日 (日)

プロフェッショナルを演じる仕事術/若林計志

Photo ビジネスをやっていれば「絶対に売れると思っていた商品が売れない」「絶対に当たると思っていたキャンペーンがうまくいかない」といった事は日常茶飯事です。このような厳しい現実を目の前に、「これを買わないお客さんの方が間違っている」などと考える経営者がいたら、その会社はとっくに潰れているはずです。つまり事実を受け入れるためには、いい意味で、自分の負けを認める事が必要なのです。
 その際に最も重要なのは受け身の方法を習得する事です。スキーでも柔道でも、まず初心者が習う事は受け身です。なぜならそれは受け身ができなければ大けがをしてしまうからです。また受け身を身につけているからこそ、慣れてくると大技にどんどん挑戦できるようになります。

どうすればビジネスに成功するのか?

多くの人がこのことを考える。

ところが最初から、いかに上手に負けるか、を考える人は稀だ。

でも、よくよく考えてみると、ビジネスで成功するための一番の近道は、負けから学ぶということ。

「負けた」という現実を真摯に受け止めることにより人は大きく成長する。

逆にうまく負ける方法を知らなければ、はじめからハードルを下げたり、一度の失敗で立ち上がれないほどダメージを受けてしまったりする。

つまりリスクをうまくコントロールし、そこから学ぶことが必要。

そのためには何が必要か?

おそらく、そのために必要なのは、マインドの問題、スキルの問題、制度や環境の問題であろう。

まずはマインドの問題。

負けを真摯に受け止める真摯さ、

そして負けても折れない精神的タフネス、

これらが必要。

次にスキルの問題。

負けたことの原因を究明し、そこから成功のエキスを吸い取るには、

やはりそれなりのスキルが必要であろう。

そして最後に制度や環境の問題。

例えば日本でベンチャービジネスが生まれにくいのは、「一回失敗したらおしまい」という風土にあると言われている。

日本では事業に失敗した人間に再度チャンスを与えることは稀。

投資家もそのような人材に投資しようとは考えない。

米国は逆だと言う。

失敗したからこそ次は成功する確率だ高いと投資してくれるという。

また日本の企業でも、失敗を奨励する会社はまだ少数派。

多くの企業は減点主義、場合によっては失敗したら傍流に押しやられ、二度とチャンスを与えられない。

つまり、上手に負けるのは意外と難しいのである。

しかし、もしそれらの問題を解決することができれば、

もっと大きなことにチャレンジすることができるようになり、可能性を大きく広げることができるだろう。

2012年11月17日 (土)

残念な人の仕事の習慣/山崎将志

51aqjup2a4l__sl500_aa300__2 残念な人は、やる気OK、能力(読み書きそろばん)OK。ちゃんと学校を出て、入社試験もクリアした。役に立つ資格も持っている。そして、やる気も十分あり、夜遅くまで懸命に働いている。しかし、何かが間違っているために、結果が今ひとつになってしまう。
 そして、その間違っている「何か」とはモノゴトを考える、行動するにあたっての「前提条件」である。
 残念な人とは、決して「バカな人」という意味ではない。「もったいない人」と言い換えてもよい。

残念な人とは決してダメな人ではない。

能力のない人でもない。

やる気のない人でもない。

能力のない人が結果がでないのは当たり前。

やる気のない人が結果がでないのも当たり前。

むしろ、能力もあるしやる気もある、だけど結果がでない。

なんともモッタイナイ人という意味。

本書では、その残念な人の例をいくつも上げている。

例えば、一生懸命メモをとる人。

なぜ、これが残念な人なのか。

メモをとることがいけないのではない。

むしろ、多くの会社では、特に新人にはメモをとるように教えている。

問題は「何のために」メモをとるかという目的意識もなく、

ただ単に、上司から言われたからメモをとる、とか、

メモをとることが目的になってしまうことにある。

ほんのちょっとズレているのである。

こんな例も載っていた。

仕事は基本的につまらない、と思っている人。

なぜ、これが残念な人なのか。

基本的に、世の中には、面白い仕事とか、面白くない仕事というのはない。

面白い仕事の仕方と、面白くない仕事の仕方が存在するだけ。

そして、面白い仕事の仕方をしていると、結果として仕事が面白くなる。

仕事がつまらないと思っている人は、面白い仕事の仕方をする努力や工夫を怠り、仕事のせいにしてしまっている。

つまり残念な人とは、自分以外との関係性の中で物事を見られない人のこと。

でも、このような残念な人、世の中には掃いて捨てるほどいる。

本当に残念なことだ。

2012年11月16日 (金)

偽りの日米開戦/星亮一

Photo 昭和天皇は日米戦争には懐疑的だった。一九四一(昭和十六)年九月六日、対米戦争の和戦を決するとき、陸軍参謀総長の杉山元と軍令部総長の永野修身を呼び、総理大臣近衛文麿を陪席させ、いくつか質問を試みた。
 当時、陸軍は三ヵ月で対米戦争を片づけると豪語していた。
天皇「日米戦争が起こったら、陸軍はどれぐらいの期間で片づける確信があるのか」
杉山「南方方面だけは、三ヵ月で片づけるつもりであります」
天皇「杉山は支那事変勃発当時、陸軍大臣として、事変は一ヵ月ぐらいで片づくと申したが、四ヵ年の長きにおよんでいまだに片づかないではないか」
杉山「支那は奥地が広く、予定どおりに片づかないのは、恐懼の至りでございます」
天皇「支那の奥地が広いことは、初めからわかっている。広いがゆえに四ヵ年もかかるというなら、太平洋は一層広いではないか。いかなる根拠をもって、三ヵ月と申すか。それを説明せよ」
 杉山は顔面蒼白となり、一言の弁明もできず、立ち往生した。
 

日本軍幹部は、勝てないとわかっていながら日米開戦を曖昧に決断する。

通常、勝てないと分かっていて戦争するなどあり得ない。

スポーツなら強い相手に向かっていって花のように散るのは、ある意味カッコよく感じる。

しかし、戦争はスポーツとはと違う。

指導者の決断によって、多くの人の血が流れ命が失われる。

少なくとも勝てない戦争はすべきではない。

ところが、上記、昭和天皇の質問に対する杉山元陸軍参謀総長の受け応えを読むと、全く論理性がない。

希望的観測と感情論でしかない。

この陸軍参謀総長の部下たちは悲劇である。

本書では満洲事変、国際連盟脱退、日中戦争、ノモンハン事件・・・と、日本を崩壊の道へと向かわせた無知無責任な日本軍幹部の姿が描かれている。

でも、論理ではなく、感情や空気で動いてしまうというところは現在もほとんど変わっていないのではないだろうか。

2012年11月15日 (木)

自分で考える技術/鷲田小彌太

Photo 書物は、十分に楽しんだ後は、思考の回路を教え、思考にさまざまな膨らみを与える、貴重な武器庫になります。しかし、一番の禁物は、一冊の本に、何から何まで、学ぼうとする態度です。むしろ、全部忘れても、記憶の片隅に残っているチリ、あえていえば、エキスみたいなものが、非常に貴重なのです。エキスとは、こんなものです。

最近、活字離れが進んでいるという。

ネットサーフィンをして読む文字も、活字といえば活字なのだが、やはり一冊の本を読むことには及ばない。

一冊の本を読んでも、すぐに知識が増えたり、賢くなったりすることはない。

むしろ、数日たてばほとんどの内容は忘れてしまっていることが多いもの。

ただし、著者が言っているように、記憶の片隅にエキスのようなものが残る。

これが重要だ。

これらが積もり積もって、その人の人格を形成する。

それは人生の様々な場面でにじみ出てくる。

言葉の端々や、何気ない態度にあらわれることもある。

自分で意識しなくても、無理して出そうとしなくても、自然に内側からにじみ出てくる。

これが人間性とか人となりとかいうものではないだろうか。

即効性を求める今のような時代だからこそ、そのような目に見えないものの価値を大切にしたいものだ。

2012年11月14日 (水)

孤独と不安のレッスン/鴻上尚史

Photo 「一人であること」は、じつは、苦しみでもなんでもありません。「本当の孤独」を体験した人なら分かりますが、ちゃんと一人でいられれば、その時間は、とても豊かな時間です。
 「一人はみじめじゃない」と思うことができれば、一人の時間は、びっくりするぐらい豊かな時間になります。
 さまざまな発見を経験する時間になるのです。

人には一人になることへの恐怖心がある。

仲間外れにされることや、シカトされること、

多くの人はこれを極端に恐れる。

もし、この恐れから解放されたなら、人間関係の多くの問題は解決するのではないだろうか。

例えばイジメの問題。

この背景に「友達のいない人は問題のある人」という価値観が蔓延していることにある。

もし、一人であることが平気であれば、逆に価値あることだと思えれば、イジメのエネルギーは半減するであろう。

一人であることはそんなに悪いことだろうか?

私たちは自分と向き合うことによって成長する。

そしてそのためには一人なる必要がある。

一人になることによって私たちは自分の深い部分と対話することができる。

孤独はそんなに悪いことではない、むしろ価値あることである。

孤独になることの意味とその価値をもう一度見直す必要があるのではないだろうか。

2012年11月13日 (火)

稼げる人、稼げない人/高城幸司

Photo 差がどんどん開いていく状況になったときに、差をつけられた側は決まってこうこぼす。
 「俺はいわれたことをきちんとやってきた。ミスもないし、サボってもいない。確かに会社に貢献してきたはずだ。あと2年頑張れば管理職だったのに、なんで今、俺はこうなっちゃったんだろうか」と。この発言で特徴的なのは「いわれたことをきちんとやってきた」ということと「ミスもないし、サボってもいない」という部分だ。この人物は、ミスをするとか、問題を起こすとか、職場の上司に嫌われるとか、決定的な失点をしない限り、自分にとってマイナスになるようなことは起こるはずがない、と思っていたのだ。
 ところが、会社が経営統合し、組織をスリム化するといった流れにさらされたとき、こういった意識の人が再編の調整弁となり、出世とは縁遠くなってしまう。命じられたこと以外に価値を見出せる仕事をしていた人との差がついてしまうのだ。

近年、会社が社員に求めるものが明らかに変わってきた。

以前は「真面目に言われたことをキチンとやる」ことが良い社員とされてきた。

いまでも新入社員については、ある程度このことが必要かもしれない。

しかし、ある程度の経験を積んだ社員が、いつまでたっても「言われたことをキチンとやる」ことしかできないようでは、真っ先にリストラの対象になってしまう。

そして、いまや、そのような仕事は期間雇用や派遣社員の仕事になってしまっている。

著者は社員一人ひとりが「稼げる人」にならなければならない、と主張する。

では、「稼げる人」とはどんな特性があるのか?

本書によると、

第一に、営業力のある人。

つまり、細かい仕事の一つひとつがどの程度、収益を上げるのか、具体的な数字を想定しながら行動できる人。

第二に、創造力のある人。

これは組織からの指示に付加価値をつけて成果を出すという力。

第三に、斬新力のある人。

たとえば、顧客に、明日までに商品をもってきてくれといわれたときに、その商品だけを手配するのではなく、

命じられた商品の特長や期限が明日までという条件を吟味して、注文以外の商品も提案してみるとか。

「まとめてお送りすれば、商品ごとの配送料がお得になりますよ」などとささやくアイデアを発想できる力。

第四に、再現力のある人。

稼げる人は成果を再現できる力をもっている。

成果は偶然で発生したものではないのだ。

第五に、削減力のある人。

稼げない人は仕事の成果がデコボコで、ムラがある。

これは仕事の仕組み化ができていないがゆえで、やらなくてもいいこともやってしまっているから。

また、過去の成功体験がある人に限って、自分の成功体験を捨てられない傾向がある。

稼げる人は、ムダを省くために捨てる勇気を持っている。

と、まあ、こんなことが書かれていた。

これら全てを備えている人はそうはいないと思うが、社員に求められるものが変化してきたという認識はしっかりと持つ必要があるのだろう。

2012年11月12日 (月)

働き盛りがなぜ死を選ぶのか/岡田尊司

Photo 統合失調症の社会的回復率と雇用状況との関係は、仕事というものが人間の存立基盤において、不可欠な要素となっていることを強く印象付けるものである。
 仕事をすることは、生活費を稼ぐために仕方なく行う必要悪ではなく、人間が人間らしく生きるために必要な営みなのである。それを適度に活用することが、生活を安定させ精神的な健康を維持するためだけでなく、人生の意義や人間としての尊厳を保つために必要なのである。

1998年、突如、自殺者の数は前年よりも35%も増え、3万人の大台を大きく超えるという異常な事態が起きた。

それ以降、自殺者はずっと年間3万人を超えた状態が続いている。

そして近年の日本における自殺者の傾向は、表題にあるように「働き盛りの自殺者」が非常に多いということ。

では、どうして働き盛りの自殺者が増えているのか?

精神科医である著者は、一番の原因は失業率の高止まりにあるという。

働き盛りの人に仕事がないということが何を意味するのか。

それは人としての尊厳が保てなくなってしまうことを意味する。

そして仕事をすることは、人間が人間らしく生きるために必要な営み。

だから対策としては何よりも完全雇用を第一に考えるべきであると述べている。

この著者の主張を読んで、確かに一面では同意できる面もあるのだが、反面、少々疑問も残った。

それは、日本よりも失業率が高いけれども自殺者数および自殺者率が日本よりも低い国はいくらでもあるからである。

国際比較でいうと、日本の失業率は決して高くはない。

にもかかわらず、自殺者の数は突出している。

私はむしろ、仕事に対する日本人特有の考え方がその根本にあるよう気がしている。

たとえ働き盛りの年齢の人に定職がなくても、それによってその人の人生や人格そのものが否定されるものではない。

それこそケセラセラの精神でいけば、自分を追い込むこともないのではないだろうか。

仕事は仕事、その人の人生は人生、と、切り離して考えても良いのではないだろうか。

あくまで個人的な考え方だが、仕事と自分の人生を一体化して考えてしまう、日本人特有の考え方が、自殺者の高止まりの一因となっているような気がする。

2012年11月11日 (日)

世界基準のビジネススキル/長束佑

51qzy2iitdl__aa278_pikin4bottomrigh 言葉に心がうたれることがあります。
「Choose the Harder Right, instead of the Easier Wrong」
 日本語にすると「安易でも間違った道ではなく、困難でも正しい道を選べ」ということです。もう少し言葉を足せば、「困難でも正しい道を選び続ける」ということだと思います。
 安易な道を選ぶとき、人は言い訳をします。「みんなもそう言うから」、「必ずしも間違っているとは言い切れない」、「現実的に考えると」。
 どれもとても誘惑的で、従いたくなります。どこか心に引っかかりを感じながらも、従いたくなるのです。

本書のサブタイトルは「ごく普通の日本人が出逢った外資系企業の世界」。

「ごく普通の日本人」である著者が、世界を舞台に戦う外国人達のいろんな考え方や価値観について記している。

内容的には、特別なことが書かれているわけではないのだが、最後に著者が、心うたれる言葉として記した「安易でも間違った道ではなく、困難でも正しい道を選べ」は印象に残った。

「困難でも正しい道」を選ぶということ、そう簡単にできることではない。

人間、とかく現状に満足したり妥協したりすることの多いもの。

特にある程度の年齢に達し、家族を与えられ、安定を手に入れたとき、これは非常に難しい。

人生は様々なターニングポイントがあり、また日々様々な選択をしながら私たちは生きている。

そんな中、自分はどんな道を選んできたんだろうか?

残念ながら安易な道を選んでしまっていることが多いことに気づかされる。

「間違った道」まではいかなくても「安易な道」を選ぶことは多いもの。

そして「安易な道」を選び続けていると、こんどはこれに加速がつく。

一度この誘惑に負けてしまうと、丁度坂を転がり落ちるように弾みがつき、どんどん加速がつくもの。

最後には、このことに慣れてしまい、何も感じなくなってくる。

そしてその「安易な道」が「間違った道」であるかもしれない。

これが一番怖い。

「困難でも正しい道を選び続ける」

これを貫くことが出来たら、それだけで人生は価値あるものになるだろう。

そんな生き方をしたいものだ。

2012年11月10日 (土)

ゲームばっかりしてなさい。/浜村弘一

07100201_m ネットワークゲームで登校拒否が引き起こされるという論旨を展開した番組もあったが、ボクはその逆の例がたくさんあると思っている。外部の人間との接触が苦手な子供が、ネットワークゲームを通じてさまざまな人とコミュニケーションする。その中で人の暖かさを信じ、やがて自分の心の殻を壊していくことだってできるはずだ。ネットゲームをきちんと理解して、周囲の大人がちゃんと指導してあげれば、その可能性はとても高くなると思う。

本書は、著者とそのひとり息子とが、ゲームを共通のコミュニケーションツールとして過ごしてきた日々を描いている。

多くの親はわが子がオンラインゲームにのめり込む様子をみて非常に不安になる。

いや、これは他人事ではなく、私自身、現在引きこもりになっている次男がネットゲームばかりをしているのを見ると、正直不安になることがある。

一昔前は森教授の「ゲーム脳理論」が話題になったこともある。

今では、その理論は全く根拠のないものとして否定されているが、

そうは言っても、マスコミを通して流れる情報は、オンラインゲームは子供の成長に有害だというものばかり。

プラス面の報道はほとんどない。

しかし、最近私は逆の考えをするようになってきている。

もし、引きこもりの状態で、ネットゲームがなかったらどうなるか?

おそらく、外の世界との接触が完全に絶たれてしまうだろう。

今、子供にとって外界とのパイプは両親とオンラインゲームである。

この関係さえ保っていれば、必ず時がくれば回復のきっかけが掴める。

そう考えている。

その意味で、この本はコミュニケーションツールとしてのゲームという視点で書かれており、特に同じような不安を抱えている親に多くのヒントを与えてくれる本である。

2012年11月 9日 (金)

11のスタンダード/指南役

11 たとえば、20世紀の偉大な芸術家の一人に、パブロ・ピカソがいる。
 「ゲルニカ」に代表される、きわめて前衛的な画風の“キュビスム”を確立した人で有名だが、そんな彼も、青の時代と呼ばれる若き日の作品では、みごとなデッサン力を見せてくれる。なにせ、当時の画家仲間の間でも、若きピカソのデッサン力のレベルの高さは評判だったという。
 つまり、デッサンカという磐石なスタンダードがあったからこそ、ピカソはみごとな個性を開花できたのだ。

 日本が誇る漫画・アニメーション界の二人の天才ーー故・手塚治虫さんと宮崎駿さんにも同じことがいえる。
 あまりに作品のトータルな評価が高いので見過ごされがちだけど、二人とも優れたクリエイターである以前に、優れた“描き手”でもある。
 まあ、素人の僕らから見たら当然そうだけど、同業者から見ても、二人の画力は卓越したレベルにあるらしい。事実、今もジブリの宮崎作品は、監督自身がすべての絵コンテを描いているし、生前、手塚さんはフリーハンドでコンパスのように正確な円を描くことができたという。
「この円が描けなくなったら、僕は筆を折るよ」それが、死の直前までの手塚さんの口ぐせだったらしい。
 そう、個性を主張したり、変化球で奇をてらったりする前に、スタンダードをきっちり身につけようではないか。世の天才たちは、個性的である前に、徹底してそれを極めていたのだから。

個性的であること、オンリーワンであることに価値を求める人は多い。

以前、大ヒットしたSMAPの「世界に一つだけの花」もそのことにひと役かっているのかもしれない。

しかし、それよりも大事なことがある。

それはスタンダードを身につけるということ。

本書は、そのことを様々な例をあげて説明している。

例えば元プロ野球の落合選手。現役時代、落合選手は「練習嫌い」を公言し、マイペース調整を信条としていた。

しかし実は、陰で人一倍努力をしていたのは有名な話。

遠征先のホテルの中庭で、皆が寝静まった夜中に、延々と素振りする落合を目撃したチームメイトは少なくない。

それが証明されたのが、落合が中日の監督になった時。

落合は12球団一の猛練習を選手に課し、それによって常勝チームを作り上げた。

チームが強くなるには練習しかないということを知っていたからであろう。

落語の世界を思い浮かべてみよう。

毎年、いくつもの創作落語が発表されるが、それらが後世に残ることはほとんどない。
結局、今も私たちを楽しませてくれるのは、昔ながらの「古典」である。

古典落語とは、先人たちが何代にもわたって磨き続けてきたもの。

残念ながら、その積み重ねに勝る「創作」はそうそうない。

と、こんな風に、スタンダードを身につけた者が結局、強いということを述べている。

やるべきことをやらずして「オンリーワン」と言ったところで、それは単なる場違いの発言でしかないということであろう。

昨今、ともすれば「個性的」ということが重視される風潮があるが、それらの発言の多くは、本筋を理解していない。

本来、個性的というのは、本筋を理解した者が、その先にたどり着く種類のものではないだろうか。

2012年11月 8日 (木)

無印良品の「改革」/渡辺米英

41f7cjjtzkl__sl500_aa300_ 松井は社長就任直後に「今後はカリスマ型の経営から駅伝型の経営に転換を図る」と語った。木内が「創業者」の強力なリーダーシップを発揮し、同社を大企業に成長させた後、新たにバトンを託された松井は、創業者とはまた違った経営スタイルを掲げたのである。
 松井の言う「駅伝型の経営」とは、「シンプルなルールに基づいて組織を動かす仕組み」の徹底である。

独自のブランド戦略でどこまでも伸び続けると思われた無印良品は2000年に突如売上高を大きく落とす。

本書では、同社がその後会社を挙げて様々な改革を断行し、見事2006年に過去最高益を達成するまでの過程を綿密に取材している。

その内容を要約すると次のようになる。

同社はナショナルブランドが持つさまざまな無駄を省くことで、良品を低価格で提供するという「ブランドを否定したブランド」を打ち出す。

そしてそれを支えたのが「わけあって、安い。」という衝撃的な広告コピー。

無印良品のコンセプトはそのネーミングにすべてが凝縮されていた。

それは、生活者の立場に立って商品の原点を見つめ直し、実質本位の商品をより安く提供する、というものだった。

無印良品のコンセプトと感性は時代を凌駕し、創業時から20年近い間は進化や仕組みを考えなくても売れ続けた。

ところがスタートからちょうど20年が経過したころに、良品計画の業績は突然の失速を見せる。

この間、ブランドに磨きをかけるのを怠ってきたことが、業績低迷の大きな要因だった。

更にコンセプトや感性を生かし「進化」させる「仕組み化」の「実行」が求められたときに、ひたすら拡大路線に走ってしまったのも大きな失敗要因。

「仕組み化」ができていなかった一つの例として、物づくりの中身や過程が「見えない」というところにあらわれていた。

そのころまでは、どこの工場にどれだけ発注して、生地や付属品はどうか、前年のデータは、といったことはすべてMDの頭の中だけにあった。

ほかの人にはそれが見えない。

だからどんなものがいつ出来上がってくるのかは、本人にしか分からなかった、と言う。

そこでお手本にしたのが、小売業のなかで最も標準化が進んでいたしまむらだった。

「お百度参りをして教えを受けるのが一番手っ取り早い手段」だと判断し、しまむらの本社を訪ねて、同社の店舗開発の仕組みをつぶさに学ぶ。

そこで見たのが、多岐にわたる項目で構成された「出店基準書」である。

それを基に総合的に判断して、基準を満たさない物件には出店しないという、店舗開発のバイブルだ。

良品計画には従来から、そういった基準書のたぐいがなかった。

もう1つは、それを生産や販売、在庫などの計画につなげる仕組みづくり。

これによって、以前は各個人のパソコンや頭の中に入っていたものが、共有化できるようになる。

このような取り組みを通して、無印良品は業績回復を果たす。

キーワードは「進化」と「実行」と「仕組み化」。

特にカリスマ型の創業経営者から経営を受け継ぐ2代目経営者には参考になる事例が多く記載されている本である。

2012年11月 7日 (水)

わが「軍師」論/佐々淳行

Photo 石原知事は、こう切り出した。
 「これから会見を行いますが、まずその前にメディアの皆さんを通じて都民の皆さんにちょっとお詫びしたい。私の不徳ですが、説明が足りずに誤解を与えたり、ご心配をおかけして申訳ありません」場内は、一瞬シーンとなり、そして騒然となった。記者たちは顔を見合せている。
 「あの倣慢不遜な慎太郎が謝った!!」声には出さないが全く意外な第一声にみんなとまどっている。私の脳裡には各社・各局が用意していた明日朝刊の予定原稿の見出し「倣慢不遜な石原知事、出馬記者会見で開き直り!!」が点滅して、そして消えた。
 これで勝った!慎太郎、よくぞ男らしく謝ってくれた。

これは前回の東京都知事選でのエピソード。

当時、石原都知事は四男への特別の公費支出をしたことで税金無駄遣いの公私混同だとマスコミにたたかれていた。

佐々氏は石原氏に、マスコミの前で素直に頭を下げるように進言する。

石原氏のようなワンマンな政治家にそんなことを言える人はそうはいない。

しかし、佐々氏は「自分のいうことを聞かないのであれば選対本部長を引き受けない」と石原氏に強く迫ったという。

そして、選挙の流れはこれを機に変わり結局、石原氏は三選を果たす。

つまり、軍師とはリーダーに言いたくないことも勇気をもって進言することができなければならない存在。

そしてリーダーがその持てる力を十分に発揮するためには、優れた軍師が必要だと著者は主張する。

確かに、田中角栄には「早坂茂三」、中曽根康弘には「後藤田正晴」、小泉純一郎には「飯島勲」がいた。

ところが近年、鳩山、菅、野田の各首相には、そのような存在が見えない。

やたらに失言、失態が目立ち、軽く感じるのも、そのようなところに原因があるのかもしれない。

2012年11月 6日 (火)

ファーストクラスに乗る人のシンプルな習慣/美月あきこ

Book_top エコノミークラスでは、「肩をもめ」「座席がガタガタして腰が痛いからシップを貼れ」といった、勘違いの注文も多いものです。
 ビジネスクラスもしかりです。
 法人の部長・課長クラスが多いクラスですが、近年は時代のあおりを受けて、社長クラスも搭乗していらっしゃいます。まさに企業戦士が集うクラスです。
 ファーストクラス同様、お客様のお名前を呼ぶサービスを行なっています。ここが興味深いのですが、ファーストクラスとは異なり、「自分をエグゼクティブだと評価してほしい」「特別な客と扱ってほしい」といった自尊心の高さがうかがえます。
 搭乗回数や肩書きにこだわる人が多いのが特徴で、「ビジネスクラスに乗っている、高ステータスカードを持っている自分」を強く主張されます。
 また、大きな荷物(ピギーバッグ)を持ち込み、CAに荷物棚に入れさせたがる、という妙な共通点もあります。秘書がついていないことが多いせいか、機内での秘書役をCAに求めていらっしゃるようです。
 クレームが多く、トラブルが尽きず、CAへのリクエストが多いのがこのクラスです。

飛行機を利用する場合、座席はエコノミー、ビジネス、ファーストの各クラスがある。

私などはエコノミークラスしか乗ったことがないのだが、著者によると、それぞれの席を選ぶ人達には明確な特徴があるということである。

まずファーストクラスに乗る人。

ビジネスエリートが圧倒的に多いという。

特に、自身が起業してファーストクラスに乗るまで上りつめた創業社長が多い。

彼らはなぜ、ファーストクラスを選ぶのか。

それは、時間と空間の質に着目するのか、料金の安さに執着するのかの違い。

彼らは時間と空間の質の大切さを知っている。

ファーストクラスではプライバシーが守られる安心感がある。

ファーストクラスは、顔が知られているがゆえに起こりうるトラブルを完全にシャットアウトしてくれる、“安心”を確保してくれるスペースという感覚。

次に、ファーストクラスは、気力や体力を養える空間を提供してくれる。

ファーストクラスは疲れを癒し、目的地に到着してすぐにフル活動できるよう、態勢を整える場所という受け止め方である。

そしてこの人達には、メモをマメに取る、読書家が多い、人当たりがやわらかい、腰が低い、話しやすい、といった特徴があるという。

正反対なのが、ビジネスクラスに乗る人達。

自尊心が高い、威張りたがる、自分を必要以上に大きく見せようとする、と、そう言った特徴があるという。

「本当に仕事のできる人」と「自称仕事のできる人」との違いであると言えよう。

座席の選び方一つで、このような違いが見えてくるというのは非常に興味深い点である。

2012年11月 5日 (月)

日本人として知っておきたい近代史/中西輝政

832555 「西洋のモノではなく、日本人のこころにこの国の未来を託す。そのためには、若者の教育しかない。」
 幕末動乱の時代に、この一点を読み違えなかったところにこそ、私は兵学者、つまり国家戦略家・吉田松陰の真骨頂を見る思いがします。「戦略」の根本は「精神」にあり、この一点が立てば、その二つは、深く一つのものに凝集するということです。
 近代国家の運営において、どの国でも重要なことは、「国家としての進むべき道とその方法、つまり戦略を考える立場の人間がどれほど物事を深く考え、同時にそれがその人たちの使命感や生き方とどれほど深く結びついているか」ということです。それによって国の運命が決まってくるのです。

歴史を見るときに、時代の変わり目といえる時期がある。

それが幕末維新ではないかと思う。

この時代、大人物が次々と輩出されている。

時代が人物をつくり、その人物が時代をつくっている。

日本が欧米列強の強い圧力にさらされ、大きくもまれつつ、新しい時代を懸命に模索した激動期である。

著者はこの様な時期を「結節点」と言い、その「結節点」において、吉田松陰ほど重要な存在はいないと言っている。

そして、その松陰が最も力を尽くしたのが若者の教育である。

事実、松下村塾から高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋といった時代を変える人物が多く輩出されている。

この国を動かす根本の力が「モノ」ではなく心、すなわち教育によってつくられる「人間」とその「こころ」にこそあることを、先見の明をもって見抜き、自ら実践した吉田松陰。

今のような混迷の時代だからこそ、もっと光をあててよい人物ではないだろうか。

2012年11月 4日 (日)

新・スカートの風/呉善花

Photo このように、「侵略者=日本」対「被侵略者=韓国」という位置づけを現在にまで引っ張ることによって、技術移転や投資など日韓の経済関係について、「韓国はいまはまだ力が弱いので力のある日本に助けて欲しい」と言うべきところを、「日本は過去に韓国に対して被害を与えてばかりきたのだから、今は困っている韓国を助けるべきだ」といった高姿勢で出ていくことにもなる。そして日韓摩擦には経済面でも拍車がかけられていく。
 こうした韓国人の高踏的な姿勢の背景には、「韓国は古代以来、日本に対して文化を伝え教えてやった兄貴分だから、今度は弟分の日本が韓国を助けるのが当然だ」という意識が根強くあり、また、持てる者が持たざる者の面倒をみることを当然とする、古い貴族社会に根をもつ「ふるまい」の倫理、あるいは旧農村に根をもつ相互扶助の倫理がある。

李明博大統領の竹島訪問を機に日韓関係が悪化してきている。

これまで何度もこのような摩擦は繰り返されてきているのだが、その根本に日本人と韓国人の考え方の違いがあるように感じる。

日本人と韓国人は同じような顔をしている。

日本語と韓国語も文法は非常によく似ている。

それ故にお互いの文化がわかりあっていると無意識に思ってしまっているのではないだろうか。

自分たちの文化を相手側に投影し、そして相手も当然同じ考え方をするというふうに考えているのではないだろうか。

これが相手が欧米人だとこうはならない。

最初から、日本人と欧米人とは違うという前提に立って相手との付き合い方を考えようとするからだ。

日本人と韓国人は考え方が全く違うと言ってもよいということが本書を読んでみるとよくわかる。

例えば、日本人は物事への観点を、一定の幅をもった中位、中間におこうとする傾向が強い。

日本人は極端を嫌って平凡さを好む。

熱烈な好き嫌いよりは曖昧性を好む。

アンケートをとっても、一番多いのは「イエス」「ノー」ではなく「どちらかというと○○だと思う」という回答である。

一方韓国人は、日本人とは逆に中位、中間を排する傾向がことのほか強い。

右か左か、上か下かの極端を指向し、好き嫌いの感情が激しく、立場や姿勢の暖昧性を嫌う。

上記抜き書きの例でも、日本の経済的・技術的な援助に対してとる韓国側の態度は高慢としかうつらない。

援助してもらいたいならそんなに偉そうにしないで、もっと謙虚な態度に出るべきだとつい思ってしまう。

これも「日本人ならこうするのが当然」という前提に立って考えるので、腹が立つのであろう。

日本人と韓国人は顔が似ているだけで、物事の考え方、受け止め方、文化等は全く違うのである。

著者が言うように、日本人と韓国人は、欧米人との間のように、お互いに相手が外国人だとの自覚を持ち、その点を配慮し尊重しあって付き合うことが重要ではないだろうか。

2012年11月 3日 (土)

部長の経営学/吉村典久

Photo 花王会長をつとめた常盤文克氏は、つぎのように述べています。
「企業の利害関係者には顧客や株主もいるが、新しい製品やサービスを創造することが経営の本質と考えると、その源泉は社員の『知』だ。社員がつくり出したものが顧客の評価を受けて、初めて株主に報いることができる。株主にとって最良のことをするという判断からは、顧客を満足させる経営は生まれない。顧客の支持を得なければ社員に報いることも無理。重視すぺき順番を反対に考えてはいけない。」

「企業は誰のものか」、ということが話題になったことがある。

商法的に考えれば、企業は株主のもの、というのが答えとなるのだろうが、

実際の企業経営は株主を第一に考えるとうまくはいかない。

顧客を第一に考えてはじめて株主にも利益をもたらすことができる。

今、顧客のニーズは多様化してきている。

その多様化してきた顧客ニーズに応えるためには、社員の『知』を引き出さなければならない。

そのために大きな役割を果たすのはミドル層、つまり部長や課長といった存在である。

本書は、この部長・課長といったミドル層の新しい使命について論じている。

時代は「作れば売れる」から、市場が成熟を迎え「作るだけでは売れない」へと変化してきている。

当然、部長や課長といったミドルに求められる役割も変化してきている。

トップの決定をたんに受けて、そして流すだけではダメ。

より主体的に、従来からの商品作りや仕事の進め方に疑問を投げかけていく。

社内常識や業界常識に囚われることなく、それらを打ち破る。

そのプロセスをつうじて、「自社のこれまでとは、まったく違った」あるいは「他社とは、まったく違った」、

ときには「お客さんの想像を超える」商品を市場に投入していく。

こうした取り組みの旗振り役として活躍することが、ミドルに求められるようになってきた、という。

ミドルにとっては非常に厳しい時代がやって来たといってよいだろう。

ただトップのいうことを忠実に下の者に実行させるという従来型のミドルは、おそらくこれからの時代、価値を失ってゆくのではないだろうか。

2012年11月 2日 (金)

フリー/クリス・ アンダーソン

41v654sqavl__aa278_pikin4bottomrigh 私が(ウィキペディアで)魅了されることのひとつは、もしも1950年、60年、70年、80年、90年、さらには2000年当時の経済学者に「ウベキペディアは成功するか?」と尋ねたら、ほとんどの人が「いいや」と答えただろうということだ。彼らはこう言ったはずだ。「無理だね。なぜならそれをやっても何も栄誉が得られないからだよ。利益もない。誰もがただ乗りするだろう。ウィキペディアがあったら読むけれど、フリーライダーの問題があるのですすんで項目を書く人間などいないはずだ」。でも、彼らは間違っていた。フリーライダー問題を乗り越えるほどの強い喜びがあることをわかっていなかったのだ。(中略)
 リーは記す。「この大勢の観客が、サイトに貢献する強力な動機付けになる。人々は、百科事典が大勢の読者を抱えているからこそ投稿しようと思うのだ。大量の『フリーライダー』、別名、『ユーザー』こそが、ウィキペディアの編集者になることの最大の魅力のひとつなのだ」
 つまり、オンラインでフリーが機能する理由を理解するのに学位は必要ない。ただ、経済学のテキストの頭から10章くらいを無視すればいいのだ。

タダより高いものはない。

昔からそう言われてきた。

タダだと思って安易に手を出したら、とんでもないことになるぞ、という警告である。

しかし、今やネットの世界はフリーであふれている。

グーグル、ヤフー、楽天といったサイトを使うのはタダ。

ユーチューブではタダの動画をいくらでも見れる。

フリーのソフトもあふれている。

わからないことがあればウィキペディアで調べればいい。

もちろん、中には少し変な記述内容もあるが、注意して使えば問題はない。

全く報酬をもらわないライターは掃いて捨てるほどいる。

今やネットの世界はそのような人たちで成り立っている。

これは多くの経済学者の予想を誤らせたという。

人間は、何らかの金銭的な報酬が得られるのでネットに書き込みをする、という前提は間違っていたのである。

全く無報酬でネットに書き込みをするのは、今では当たり前のこと。

なぜ、人々は商売っ気なしでネットに書き込みをするのか?

それはマズローの欲求5段階説の上位2つに関係する行為だからではないだろうか。

つまり、「生理的」「安全」「所属」「承認」「自己実現」の欲求の内、

ネットに個人が書き込むと「承認の欲求」と「自己実現の欲求」が満たされる。

まず、知らない人から「いいね」と反応が返ってきたりする。

これは「承認の欲求」である。

また、ウィキペディアに書き込めば、数万人という人が自分の書いた文章を読んでくれる。

それこそ「自己実現の欲求」がそれによって満たされるということ。

フリーの世界は、これからますます広がっていくのだろう。

そして、多くののビジネスは、このフリーをどのように絡めていくのかということがポイントになってくるのだろう。

大事なことは固定概念を持たないこと、思考の壁を設けないことである。

2012年11月 1日 (木)

ギリシャ危機の真実/藤原章生

25309255_1 イタリアの映画監督、故フェデリコ・フェリーニは来日後、ローマに戻ったとき、こう言ったそうだ。
 「日本はすごいぞ。ストと言っても、会社に残って、腕に赤い腕章をして黙々と働いているんだ。それでストだっていうんだ。やっぱり日本人はすごいよ。ストでも働くんだ」
 監督の友人だった俳優、クラウディオ・チョッカさんが教えてくれた。
 ストライキ、デモといっても国それぞれだ。(中略)
 会社が危ないとき、日本の場合、やはり労働者が弱いのか理解があるのか、いつまでもストを続けない。まあ今回は仕方ないと、給与削減やボーナスの減額を淡々と受け入れる。
 だが、ギリシャの場合は違う。ゼネストは年に数回としても、省庁や民間企業が個別によくストをする。自分たちだけでやる分はいいが、ときに一般人を巻き込むのが面倒なところだ。(中略)
 「この財政危機下で、デモばかりやっていては対外的なイメージを悪くするのでは?」「デモをすることで解決につながりますか?」
 ギリシャの学者や政治家、共産党員らに聞いてみると、みな同じことを言う。
 「まあ、デモはこの国の文化ですから」

日本もこのままいけばギリシャのように破綻する。

ギリシャの財政破綻は「対岸の火事」ではない。

最近よく聞く言葉である。

でも、本当にそうなのだろうか?

確かに日本政府の債務は約1000兆円でギリシャより大きい。

ただし、日本の国債を買う人、企業の大半は日本国内だが、ギリシャの場合8割以上を国外に買ってもらっている。

ギリシャ人そのものが自国の国債をあまり買いたがらない。

この点が日本と大きく違うところ。

そして何よりも違うのがその国民性であろう。

本書を読んでみて、確かに日本人とギリシャ人は国民性が全く違うということをつくづく感じた。

日本人はストを行うにしても、ある程度理性が働く。

ところが、ギリシャの場合、政府が潰れようが、周りが迷惑しようが、周辺諸国がどう思おうが「デモは文化だ」と言ってはばからない。

そもそも国民は国なんか信じていない。

この点が大きく違うところだ。

日本とギリシャは全く違う、といってもいいくらいだ。

もちろん、このままではいけないと危機感を持つことは大切なことなのだが。

« 2012年10月 | トップページ | 2012年12月 »