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2013年2月の28件の記事

2013年2月28日 (木)

採用基準/伊賀泰代

Photo リーダーシップという概念ほど、欧米と日本での理解のされ方が異なる概念も珍しいでしょう。欧米の企業や大学の大半は、リーダーシップを社員や学生がもつべき最も重要な資質のひとつと考えています。それに対して日本では、リーダーシップをネガティブなイメージでとらえ、「自分の指示ばかりして、自分は手を動かさない人」などと、解釈されることさえあります。そのあまりの違いから、日本には文化的にリーダーシップという概念がそぐわないのではないかと思わされるほどです。
 リーダーシップという概念がここまで理解されていない背景には、日本では社会において、さらに言えばビジネスの現場においてさえ「成果が最優先されない場合が多い」ことが挙げられます。実はリーダーシップを考えるとき、常にセットで考える必要があるのが「成果主義」なのです。成果主義とは、「努力でもプロセスでもなく、結果を問う」という考えであり、成果主義を原則とする環境でなければ、リーダーシップは必要とされません。

マッキンゼーで12年間、採用業務を担当したという著者。

その経験の中で知った、これからの時代で本当に必要とされる人材について述べている。

コンサルティングファームといえば、ロジカルシンキングができたり分析力や地頭があることが採用基準であるかのように思われているが、それは誤解だという。

実際には、どんなに地頭が良くても、経営者と良い関係が築けなければ意味がない。

単なるロジカルシンキングも役に立たない。

どんなに精緻な分析ができてもそれだけでは絵に描いた餅。

むしろ、コンサルタントに必要なのは考え抜く粘り強さ、といった泥臭いもの。

そして、最も必要なのはリーダーシップ。

いや、リーダーシップはコンサルタントだけでなく、これからは全ての業種において必要になってくる必須スキルだという。

最近よくグローバル人材という言葉が使われる。

もはや日本だけで通用する人材ではダメだという意味で使われる。

しかし、本当に必要とされているのは、グローバル人材ではなくグローバルリーダーだという。

日本ではリーダーシップは組織のトップに必要なスキルだと受け止められている。

しかし、本来リーダーシップとはすべての人に必要とされるもの。

上司が部下を動かすとき、リーダーシップが必要だが、むしろ必要なのは部下が上司を動かすとき。

このときこそリーダーシップが問われる。

そう考えると、日本人がリーダーシップをいかに狭い概念でとらえているかがよく分かる。

2013年2月27日 (水)

コミュニケーション力/齋藤孝

Photo コミュニケーションとは何か。それは、端的に言って、意味や感情をやりとりする行為である。一方通行で情報が流れるだけでは、コミュニケーションとは呼ばない。
 テレビのニュースを見ている行為をコミュニケーションとは言わないだろう。やりとりする相互性があるからこそコミュニケーションといえる。
 やりとりするのは、主に意味と感情だ。情報伝達=コミュニケーション、というわけではない。情報を伝達するだけではなく、感情を伝え合い分かち合うこともまたコミュニケーションの重要な役割である。何かトラブルが起きたときに、「コミュニケーションを事前に十分とるべきであった」という言葉がよく使われる。一つには、細やかな状況説明をし、前提となる事柄について共通認識をたくさんつくっておくべきであったという意味である。もう一つは、情報のやりとりだけではなく、感情的にも共感できる部分を増やし、少々の行き違いがあってもそれを修復できるだけの信頼関係をコミュニケーションによって築いておくべきであった、ということである。

コミュニケーションということばは頻繁に使われる。

ところが、使っている本人が本当にその意味を正確に捉えているかというとあやしいものである。

ここで齋藤氏はコミュニケーションとは「意味」と「感情」をやりとりする行為である、と説明している。

「意味」と「感情」、おそらくこの二つの要素をつかまえておけば、コミュニケーションの中心を外すことはないであろう。

コミュニケーションを情報伝達の手段と捉えている人もいる。

だったら、メールで十分である。

いやむしろ、メールの方が記録に残るので、後から、言った、言わない、ということが起こらない。

ところが、コミュニケーションの問題は、メールで相手に伝えたつもりになっていることから起こることが多い。

なぜなら、メールでは感情は伝えられないから。

情報という言葉は、感情の次元をあまり含んでいない言葉だ。

情報伝達としてのみコミュニケーションを捉えると、肝心の感情理解がおろそかになる。

人と人との関係を心地よく濃密にしていくことが、コミュニケーションの大きなねらいの一つだ。

したがって感情をお互いに理解することを抜きにすると、トラブルのもとになる。

仕事上のやりとりで、一見、情報だけを交換しているように見えるときがある。

そういった状況でも、感情面に気を配ってコミュニケーションしている人とそうでない人とでは、仕事の効率や出来・不出来に違いが出る。

人間は感情で動くものだ。

情報交換をしているときでも、同時に感情面での信頼関係を培うことのできる人は、仕事がスムーズにいき、ミスもカバーしやすい。

トラブルが修復不可能にまでなるときには、必ずと言っていいほど感情の行き違いがある。

コミュニヶーションカとは、意味を的確につかみ、感情を理解し合う力のことである。

この点はしっかりと押さえておきたいポイントである。

2013年2月26日 (火)

世に棲む日日(四)/司馬遼太郎

Photo 分類すれば、革命は三代で成立するのかもしれない。初代は松陰のように思想家として登場し、自分の思想を結晶化しようとし、それに忠実であろうとするあまり、自分の人生そのものを喪ってしまう。初代は、多くは刑死する。二代は晋作のような乱世の雄であろう。刑死することはないにしても、多くは乱刃のなかで闘争し、結局は非業にたおれねばならない。三代目は、伊藤博文、山県有朋が、もっともよくその型を代表しているであろう。かれら理想よりも実務を重んずる三代目たちは、いつの時代でも有能な処理家、能吏、もしくは事業家として通用する才能と性格をもっており、たまたま時世時節の事情から革命グループに属しているだけであり、革命を実務と心得て、結局は初代と二代目がやりちらかした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる。山県狂介が、あるいはその典型かもしれない。

司馬氏によれば、革命は三代で成立するという。

松陰のように思想家として登場する一代目、

その思想を行動に移し乱世の雄として登場し最後は非業の死を遂げる、晋作に代表される二代目、

そしてその総仕上げとして、実務家として安定した世を築き上げる伊藤博文、山県有朋に代表される三代目。

そう考えると、今の日本はどうなのだろう、と、考えてしまう。

少なくとも今、日本は変わることを求められている。

長い間築き上げられてきた日本の社会の仕組みが制度疲労を起こし始めている。

つまり今求められているのは松陰型であり晋作型のリーダーである。

ところが、見回してみると、日本には現状維持型のリーダーがあまりにも多い。

この国の閉塞感も、こんなところから来ているのかもしれない。

2013年2月25日 (月)

世に棲む日日(三)/司馬遼太郎

Photo 晋作の胸に、炬のようにあかあかとした確答があった。藩はかならず亡ぶ、ということである。夷人どもは大艦をつらね、大挙して再来するにちがいない。そのときは長州武士がいかに刀槍をふるっても、敵うものではない。そのことは、上海で知った。防長二州は砲火で焼け、焦土になる。
(ならねばならぬのだ)
 というのが、松陰にはなかった晋作の独創の世界であり、天才としか言いようのないこの男の戦略感覚であった。敵の砲火のために人間の世の秩序も焼けくずれてしまう。
 すべてをうしなったとき、はじめて藩主以下のひとびとは狂人としての晋作の意見に耳をかたむけ、それに縋ろうとするにちがいない。
 (事というのは、そこではじめて成せる。それまで待たねばならぬ)
 と、晋作はおもっている。

伊藤博文から「動けば電雷の如く発すれば風雨の如し」と評された高杉晋作。

この言葉からは、瞬間湯沸器のように気が短く、狂気に近い行動力のある人物像が浮かんでくる。

確かに、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う等、過激な面があったのは事実だが、

反面、「機を見るに敏」という言葉が当てはまるような、戦略家の一面があったことがうかがえる。

時の流れを読み、自分の出番が回ってくるまで忍耐強く待つということのできる人物であったようだ。

当時、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行う。

これがやがては下関戦争に至るわけだが、

いざ藩が関門海峡で攘夷戦を始めたとき、晋作は萩城外の山で頭をまるめて坊主になっていた。

彼は、この藩がこれから辿るべき悲惨な運命を予見していた。

さらに予見しつつもそれを冷酷にながめようとしていた。

そしてついに藩が米仏の報復に逢い惨敗したとき、晋作は請われて下関の防衛を任せられる。

奇兵隊を結成したのはその後である。

晋作が英雄とか天才といわれるとすれば、それは彼のやった数々の奇策などにそれがあるのではなく、この戦略眼と心胆にあるのではないだろうか。

2013年2月24日 (日)

世に棲む日日(二)/司馬遼太郎

Photo 松陰はうなずき、ふたたび顔を伏せて高杉の文集を読んだ。
 やがて顔をあげ、最初にいったことばは、高杉が終生わすれられぬところであった。
「久坂君のほうが、すぐれています」
 と、いうのである。
 高杉は、露骨に不服従の色をうかべた。
 (おもったとおりだ)
 と、松陰はおもった。
 人を見る目が異常にすぐれている松陰は、この若者が、裏へまわってここへ入ってきた最初から、尋常でない男がやってきたという感じがした。ふてぶてしいというわけではないが、渾身にもっている異常なものを、ところどころ破れてはいても行儀作法というお仕着せ衣装で包んでいる。それも、やっと包んでいる。
ーー奇士が、二人になった。
 と、松陰はおもった。
 「松下村塾の目的は、奇士のくるのを待って、自分(松陰)のわからずやな面を磨くにある」
 と、かねて友人たちに洩らしている自分の塾の目的にみごとにかなった人物が、久坂のほかにいま一人ふえたという思いが、松陰をひそかに昂奮させている。
 しかし松陰は、高杉のような自負心のつよい男は一度その「頑質」を傷つけて破らねばならぬとおもった。文集をみると、明倫館ではなるほど秀才かもしれないが、学問や素養はまだ当人が気負っているほどには至らず、たしかに久坂に劣る。むしろ久坂に対する競争心をあおると、かならず他日、非常の男子になるとおもった。

上記は高杉晋作と吉田松陰との初対面の場面。

松陰は高杉をひと目見てその才能を見抜くが、その発せられた言葉は裏腹なものであった。

「久坂君のほうが、すぐれています」

これは高杉の異常なほどの負けず嫌いな性格を知った上での一言であった。

しかし、これほど高杉を発奮させることばはなかったろう。

その後、高杉は猛烈に勉学に励むことになる。

よく、人をみて法を説け、というが、

人の性格や能力をよく見極めて、最適な言葉を使う、

この能力が松陰にはあったようだ。

2013年2月23日 (土)

世に棲む日日(一)/司馬遼太郎

Photo ある夏のことである。その日格別に暑く、野は燃えるようであった。暑い日は松陰は大きな百姓笠をかぶらされた。この日もそうであったが、しかし暑さで顔じゅうが汗でぬはえか濡れ、その汗のねばりに蝿がたかってたまらなくかゆかった。松陰はつい手をあげて掻いた。これが文之進の目にとまった。折濫がはじまった。この日の折濫はとくにすさまじく、
 「それでも侍の子か」
 と声をあげるなり松陰をなぐりたおし、起きあがるとまたなぐり、ついに庭の前の崖へむかってつきとばした。松陰は崖からころがりおち、切り株に横腹を打って気絶した。(中略)
 玉木文之進は、兵学のほか、経書や歴史、馬術、剣術もおしえる。しかしそういう学問や技術よりも、
--侍とはなにか。
 ということを力まかせにこの幼い者にたたきこんでゆくというのが、かれの教育方針であるらしかった。
 玉木文之進によれば、侍の定義は公のためにつくすものであるという以外にない、ということが持説であり、極端に私情を排した。学問を学ぶことは公のためにつくす自分をつくるためであり、そのため読書中に頬のかゆさを掻くということすら私情である、というのである。
 「痒みは私。掻くことは私の満足。それをゆるせば長じて人の世に出たとき私利私欲をはかる人間になる。だからなぐるのだ」
 という。肉体を殴りつけることによって恐怖させ、そういう人間の本然の情(つまり私利私欲)を幼いうちからつみとるか封じこんでしまおう、というのがかれのやりかたであった。

吉田松陰は5歳から18歳までの間、玉木文之進から教育を受けた。

彼は「侍は作るものだ。生まれるものではない」という意味のことを絶えず言っていたという。

しかし、この教え方、現代であれば完全に体罰である。

玉木は現代であれば体罰教師である。

玉木の教え方は極端であったにしても、当時はこのような教育が当たり前だったのだろう。

むしろ、このような形でしか侍は作れないという共通の認識があったのかもしれない。

確かに昔から「身体で覚える」ということはよく言われる。

そして事実、体罰が「身体で覚える」ことに効果的であったことは事実であろう。

やはり、人間、体罰による身体の痛みは忘れないもの。

体罰必要論がいまだに根強いのもこのようなことから来ているのであろう。

2013年2月22日 (金)

稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか?/亀田潤一郎

Photo そこで気づいたのは、長年稼ぎ続けている社長というのは、すべからく「美しい財布を使っている」ということでした。そしてそのほとんどが、高級感のある、見た目もスマートできれいな「長財布」です。
 一方、いまひとつ経営が振るわない社長、資金繰りがずさんな社長というのは、えてして財布も美しくないものを使っている場合が多い。

著者によると、お金は、ちゃんとお金を気にかけてくれる人のところにしかやってこないという。

そして、それは財布にあらわれる。

つまり二つ折りの財布だとお金が真ん中から折れてしまう。

それではお金を大切にしているとは言えない。

だから、お金を大切にしている人は高級感のある長財布を使う。

稼ぎ続けることのできる人たちは、財布をはじめ、お金の周辺にあるあらゆる部分にこだわりをもっているからこそ、そしてお金そのものをもないがしろにしないからこそ、高い水準のお金を引き寄せることができる。

自分の手元に入ってきたお金を動きというのは、自分の生き方そのもの。

意識するしないにかかわらず、お金を使うのは紛れもなく自分自身。

だからこそお金の出て行き方には、その人の考え方や判断基準、生き方そのものが映し出される。

お金というのは、勝手にやってきて、勝手に出て行くわけではない。

そのやり取りには必ず自分が介入している。

自分の生き方がかかわっている。

そういった意味で自分の手元にあるお金の量は、過去の自分の生き方の総決算、とも言える。

毎年安定して儲け続けている社長、とくに資金繰りがスムーズにいっている会社の社長というのは、例外なく美しい財布を使っている。

だから稼ぐ人と長財布を使う人との間には相関関係がある。

著者の主張はだいたいこんなところである。

ナルホド、そういえば、私は二つ折りの財布しか使ったことがない。

お金がたまらないはずだ。

2013年2月21日 (木)

帝国ホテル厨房物語/村上信夫

Photo 帝国ホテルで、数え切れないほどの若い料理人に接してきた。前にも述べたが、無言のげんこつで鍛えるのは時代遅れだと考え、「げんこつ禁止令」を出した。言葉で丁寧に教え、秘伝だったレシピを公開することで、厨房に教え学ぶ連鎖を植えつけようと思い、実践したのだ。
 また、私が駆け出しのころは、シェフが持っているフランス語の料理書がうらやましくて仕方がなく、仕事が終わってから必死で盗み見たものだ。私は喜んで読ませ、コピーも許可した。だから、私の古典書はぼろぼろだ。
 叱るのではなく良い所をほめるのが、私の若手育成法の基本になっている。もちろん、注文をつけ、悪い点は指摘するが、感情的にものを言ったり、怒鳴り散らしたりはしないようにしてきたつもりだ。
 じつは、私が厨房で怒らないのには、もう一つ理由がある。味付けに影響するからだ。私の前に総料理長をつとめた一柳一雄さんは頑固一徹の職人肌で、どちらかというと瞬間湯沸かし器。だが、怒ったときは味付けはおろか、味も決して見なかった。怒ると塩味がきつくなることをよく知っていたからだ。
 怒ったときは塩味がきつくなる。だから私は、今の田中料理長がまだ若いころ、こうアドバイスをした。「朝、出社前に、奥さんとケンカするなよ」。

本書の著者、村上氏は長年帝国ホテルの味を守り続けてきたフランス料理界の第一人者。

昔から、料理人は先輩の味を盗んで一人前になっていくものだという考え方がある。

先輩の下働きをしながら、鍋の底に残ったソースをなめて味を盗んだりして腕をあげていく。

ところが、先輩は先輩で、自分の味を盗まれまいと、鍋に塩を振って嫌がらせをする。

そんな辛い思いを乗り越えてこそ一人前になれるのだとよく言われたものだ。

今で言う体罰など日常茶飯事の世界である。

多くの職人の世界がそうであったし、今もそれが残っている世界はかなりある。

しかし、村上氏は、これは時代後れだと考え「げんこつ禁止令」を出したという。

また、秘伝だったレシピを公開したという。

これは料理人の世界では画期的なことではなかったろうか。

しかも、同時に非常に合理的な考えでもある。

怒りや恐怖からは決してよいものは生まれないものである。

しかし、いまだに古い考え方に凝り固まっている人達が多くいるのも事実である。

2013年2月20日 (水)

経済の自虐主義を排す/三橋貴明

Photo 歴史問題では見事な態度で自虐史観を否定する政治家であっても、なぜか経済的自虐史観からは脱却できていない。彼らと経済について会話をすると、「人口が……」「少子化が……」「アジアの成長が……」「高齢化が……」「地域の衰退が……」「国の借金が……」など、会話の節々から経済的自虐史観に染まったフレーズが聞こえてくる。この種の経済的自虐史観を何とか打破しないことには、日本国は繁栄の道へと進むことができない。

日本は長い間歴史問題で自虐史観が支配していた。

そしてそれと同様に、日本には経済的自虐史観があると著者は主張する。

確かに、今、押し進められているアベノミクスに対して、大手新聞社、テレビ局、経済評論家の多くは反対派あるいは慎重派である。

一挙してネガティブキャンペーンを張っているような形である。

先日もテレビのニュースを見ていると、円安による灯油価格の高騰で苦しんでいる東北の一家族の様子を報道していた。

円安になれば当然そのような現象が起こるだろうし、また今後、仮に物価が上昇すれば、当然、苦しむ庶民が出てくるだろう。

問題は、それをあたかも日本の庶民の大部分が不利益を被っているように大げさに報道し、したり顔でコメントするキャスターである。

確かにマスコミには、権力のチェック機能がある。

しかし、その守備範囲を超えた悪意の感じられる報道があまりにも多い。

著者はそれを経済的自虐史観と言う。

そして、本書ではそれを名指しで批判している。

これを読むと如何に日本のマスコミが偏った報道をしているかがよく分かる。

2013年2月19日 (火)

池上彰の政治の学校/池上彰

Photo このように、1月の予備選挙開始から11月の本選挙まで、生き残った候補者たちは徹底的に鍛えられて大統領になるのにふさわしい力をつけていくのです。ですから、11月の一騎打ちまで辿りついた人は、その組織力の点でも、個人の能力の点でも、どちらの候補でも大統領が務まるように自然になっています。つまりアメリカ大統領選挙というのは、政治家を「選ぶ」だけでなく、政治家を「育てる」仕組みだとも言えるのです。
 一方、日本の場合は突然、首相が生まれてしまいます。十分な準備がないまま、総理大臣になることもある。こんな調子だからお粗末なことが起きるのです。

池上氏が政治についてわかりやすく語っている。

中でも、一国のリーダーを選ぶシステムについての日米比較は興味深かった。

アメリカの場合、大統領になるためには11ヶ月間の選挙戦を勝ち抜かなければならない。

最初の時点での候補者の力関係で全てが決まるわけではない。

長い選挙戦の中で、ある候補は力をつけていくし、ある候補は力を奪われていく。

資金力があれば勝てるとも限らない。

僅かな資金で選挙戦を始めたとしても、勝つことによって全米を組織できる力を得るようになることもある。

まさにオバマがそうで、本当に僅かな個人の政治献金が次々と集まっていき、大きなお金になり、ついには大統領になってしまった。

一方、注目されればされるほど、候補者個人に向けられたネガティブ・キャンペーンも厳しくなる。

徹底的に身辺調査が行なわれ、スキャンダルもたくさん暴かれる。

それに耐えられない候補者はそこで脱落していく。

このような中で勝ち抜いた候補者が大統領になる。

つまり、この11ヶ月間は、大統領を選ぶシステムであると同時に大統領を育てるシステムでもある、ということ。

だから、それなりの人物が大統領になるのである。

それに比べ日本はどうであろう。

密室の話し合いで決まったり、派閥の力関係で決まったり、一国のリーダーを育てるシステムは全くないといってよい。

だから、総理大臣が猫の目のように変わるという現象が起こる。

日本も国のリーダーを選ぶ仕組みを考える時期に来ているのかもしれない。

2013年2月18日 (月)

統計学が最強の学問である/西内啓

Photo 看護婦として有名なナイチンゲールがあげた最も大きな業績の1つは、戦争に従軍した兵士の死因を集計した結果、戦闘で負った傷自体で亡くなる兵士よりも、負傷後に何らかの菌に感染したせいで死亡する兵士のほうが圧倒的に多いことを明らかにしたことだったそうだ。彼女はこのデータをもとに「戦争で兵士ひいては国民の命を失いたくなければ、清潔な病院を戦場に整備しろ」と軍のお偉方や政治家に迫ったそうだが、これもそうした「集計」の力の1つだったのかもしれない。

本書の主張はタイトルの通り、ズバリ、統計学は最強の学問である、というもの。

確かに、数字で語ることができるというのは大きな力になる。

しかも、それがキチンとした根拠に基づく数字であれば尚更である。

そして、その根拠のある数字を導き出す手法を体系化したものが統計学というもの。

なぜ統計学は最強の武器になるのか?

その答えを一言で言えば、どんな分野の議論においても、データを集めて分析することで最速で最善の答えを出すことができるから。

ところが、日本人はどうもこのような形の議論は弱いようだ。

代わりに、今だに幅をきかせているのは、カンと経験に基づく議論である。

会議でよく出てくる言葉に

「私の経験によると」とか

「それは昔やって失敗した」とか

特にこれを地位の高い、声の大きい人が言うと、どんなにいいアイデアが出ても、とたんに雲散霧消となる。

これではやるだけ時間の無駄である。

本書を読むと、統計学も随分奥の深い学問だということがよく分かるのだが、

せめて初歩的なレベルでもよいので、身につけておきたいものだ。

2013年2月17日 (日)

さっさと不況を終わらせろ/ポール・クルーグマン

Photo 一見真面目そうな人たちが、現在の経済状態について語るのをあれこれ聞いていると──そしてぼくは経済評論家でもあるので、まさにそれをやらざるを得ない──やがてその人たちの最大の問題点が見えてくる。みんなまちがった比喩を使って考えているのだ。アメリカが、苦境に陥った家族であるかのように考え、所得に比べて負債が多すぎるのだと考える。だからこの状況の改善への処方箋は、美徳と倹約だ。ベルトを引き締め、支出を減らし、借金を返済し、費用をカットしなければいけません、というわけだ。
 でも、これはそういう種類の危機じゃない。所得が落ちているのはまさに、支出が少なすぎるからで、支出を削れば所得はさらに下がるだけだ。過剰な負債という問題は抱えているが、その負債は外部の人に対する借金ではない。アメリカ人がお互い同士に行っている貸し借りで、これは話がまったくちがう。そして費用カットだが、だれと比べての費用カット? みんなが費用カットを試みたら、事態は悪くなる一方だ。

今、アベノミクスが話題になっているが、その理論的な裏付けとも言うべきものが本書である。

クルーグマン氏の主張は極めて単純。

要は、現在の不況を脱出するために必要なのは、大胆な政府支出をド-ンと行なおうということだ。

昔ながらのケインズ的な財政出動をやろう。

赤字国債を出して、大量の公共事業をやろう。

今まで行なわれている景気刺激策は小さすぎる。

これまでの数百倍をドーンとやるべきだ。

ちゃんとGDPの需要と供給のギャップを見て、それを埋める規模のものを一気にやるべきだ。

そして中央銀行はそれを金融緩和で徹底的に支援すべきだ。

それに伴う財政破綻や金利上昇などはまったく心配する必要はない。

積み上げた負債はそんなに慌てて返済する必要はないし、それどころかまったく返済せずにすむかもしれない。

実は、負債が増え続けても別に悲劇ではない。

それがインフレと経済成長の合計よりも伸び率が低ければ、問題にはならない。

まとめればこんなところだろうか。

その実例として第二次世界大戦後のアメリカ経済のことをあげている。

第二次世界大戦末にアメリカ政府は2410億ドルの負債を抱えていた。

当時の感覚で言えば、返済不可能なほどの大金である。

多くの経済学者は、戦争が終わったらアメリカが不況に逆戻りすると思っていた。

でも代わりに起きたのは、民間支出の急増、特に住宅購入の急増で、それが経済をフル回転させ、やがて大恐慌は遠い思い出になってしまった、というのである。

素人の私には、そんな単純な話でいいのか? そんな簡単にいくだろうか? と、つい考えてしまうのだが、クルーグマン氏は心配する必要はない、と断言する。

アベノミクスを理解するには必須の本と言ってよいだろう。

2013年2月16日 (土)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 /米原万里

Photo ヤースナがまた突然口ごもった。顔が歪んでいる。
「ヤースナ」
 思わず、肩を抱きしめた。ヤースナは、私の右肩に顔を乗せたまま黙っていた。でも、ヤースナが全身で泣いていることが分かった。涙も流さず、声にも出さずに泣いている。カラカラに乾いた声でポツリと言った。
「マリ、私、空気になりたい」
「…………」
「誰にも気付かれない、見えない存在になりたい」
 何か言ってあげなくてはいけないと思うのだが、胸を突かれた私は失語症に陥ってみっともなく黙っているだけである。クラス一番の優等生で、美人で、いつも冷静沈着なヤースナが、ここまで追い詰められているとは思わなかった。涙が溢れてきて仕方なかった。

本書は、著者が9歳から14歳まで少女時代の5年間、チェコスロバキアの首都プラハのソビエト学校時代の思い出と、特に当時仲のよかった3人、ギリシャ人のリッツァ、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤスミンカに30年後に再会したときのことが書かれている。

当時のソ連は当然、共産主義、そしてプラハもその支配下にあった。

そして、その後ヨーロッパは激動の時代を迎える。

プラハの春、共産主義の崩壊、チャウシェスク政権の崩壊と公開処刑、ユーゴスラビアの内戦・・・。

これら歴史上の出来事に翻弄されながら生き延びてきた3人と著者が再会を果たす場面は感動的だ。

そのことが生き生きと記されている。

本書はエッセイの形をとっているが、単なるエッセイではない。

東欧の人々の生きた現代史である。

しかし、これらの人々の話しを読むと、日本人が平和ボケと言われていることがよく分かる。

2013年2月15日 (金)

「弱者」とはだれか/小浜逸郎

Photo よく知られているように、放送禁止用語や、新聞など公共性の高い出版物の用語規制には、なぜこれが?と首をかしげたくなるような例があまりに多い。特に職業用語で、「百姓」「漁師」「八百屋」「床屋」「肉屋」「屑屋」「土建屋」「土方」「ドサ回り」「小使」などは、身分的な差別性があると考えられて禁止か要注意ということになっている。前にも述べたように、「さん」をつけてもだめなのである。
 これらは、まったくその真意を測りかねる。たとえその用語自体にいくぶんかの差別的ニュアンスが付きまとっていたとしても、実際に使われる文脈のなかでは、その職業の持っている伝統的な親しみやすさを表現するために用いられる場合が多く、露骨に差別的に使われる場合などはほとんどないはずである。

「弱者」とは誰なのか?

分かっているようで分からないというのが本当のところである。

弱者と敗者とは違う。

「弱者には援助を、敗者にはチャンスを」とはよく言うことだが、その境界線はあいまいだ。

ホームレスは弱者なのか、敗者なのか?

おそらく両者が混在しているのだろう。

今問題となっている生活保護を受けている人達は、果たして弱者なのか、敗者なのか?

本当の弱者もいるだろうし、中には弱者モドキもいるだろう。

本書は弱者として、老人、子供、障害者、在日外国人、部落出身者、女性とあげている。

確かに一般論としては、上記の人々は弱者に分類されるだろう。

しかし、老人といっても元気で裕福な人もいるし、貧乏で衰弱してしまった人もいる。

金持ちの老人はむしろ強者と言えるかもしれない。

そう考えると、非常にあいまいな定義であることが分かる。

と、同時に、非常に扱いにくい問題でもある。

下手すると、この問題を取り上げると、弱者を攻撃していると受け止められかねない。

最悪なのは、このことをタブー視することである。

弱者なる概念を、触れてはならないものとし、それに関連する言葉を排除する。

その代表例が放送禁止用語である。

しかし、問題は言葉を排除しても実体はなくならないということ。

そして、「百姓」を「農業従事者」に、「漁師」を「水産業者」に置き換えても、生活臭や手触りに乏しく、かえって使う側の遠慮という過剰な意識が浮き出て、聞く方はぎこちない思いを強いられ、何とも気分が悪い。

過剰な規制の圧力によって、言葉の文化が貧困になっていくことのほうが問題だと感じる。

自分のことを「百姓」と称する農民はたくさんいるし、「床屋」と言われて怒る床屋さんなどいるはずがないのに。

過剰な言葉の規制は、問題のすり替えにすぎないのではないだろうか。

2013年2月14日 (木)

CEO仕事術/吉越浩一郎

Ceo 日本における成果主義は何が間違っているのか。
 それは、「成果主義」と言いながら、実際には社員に「ノルマ」を押しつけるだけになっている点だろう。会社の都合で決めた数値目標を掲げて「これを達成しろ」と命じるだけでいいなら、経営者は楽なものである。そこには「マネジメント」と呼べるほどの手間も工夫も不要だから、素人にでもできるに違いない。
 本来は目標を、段階を設定しながら達成していき、そのあいだに着々と成果を上げるための仕組み・環境づくりを、会社をあげてしていかないといけない。(中略)
 そもそも経営とは、会社が大きな成果を生み出すための「仕組み」を作り上げる作業であるのに、日本の経営ではそこが欠落しているケースが多いのだから、生産性が落ちるのは当然だ。いまや、一人当たりのGDP(国内総生産)でシンガポールにも負けている。
 それではシンガポールのビジネスマンが「ガンバリズム」で血眼になって働いているかといえば、決してそんなことはない。実際は残業もほとんどなく、実に効率よく「成果」を上げている。経営者が、そういう「仕組み」を作り上げているからである。

日本では、成果主義の評判があまりよくない。

かつての年功序列型の賃金体系が見直され、成果主義を導入した企業も多くあるが、「やはり日本人には合わない」「個人主義に走ってしまう」「短期志向になってしまう」といった不満が聞こえてくる。

中には、内容も深く理解しようとせず、「成果主義」という言葉そのものに拒否反応を示す人もいる。

私は様々な企業で人事制度を導入する支援をしているが、はっきりと言えることは、これは成果主義そのものがいけないわけではないということ。

多くの場合、成果主義に対する思い込みや誤解から来ている。

もし、成果主義が社員に達成すべき目標を与え、その達成度合いに応じて給料の差をつける制度だと考えている人がいたとしたら、それはあまりにも理解が浅い。

それは単なるノルマ主義である。

馬の鼻面にニンジンをぶら下げれば、馬は一生懸命走るだろう、という仮説に基づくものが成果主義だと考えているとしたらそれは大きな誤解である。

人間、そんなに単純なものではない。

与えたノルマを達成すれば○、達成できなければ×というやり方は、一見すると「成果主義」に基づいているように思える。

しかし、ただ目標を与えて「頑張れ!」と社員の尻を叩くのは、単なる「根性主義」だ。

いわば助走なしで無理やり「ここまでジャンプしろ」と命じているようなもの。

誰もそんな会社で働こうとは思わないだろう。

「ここまで跳べ」と、ややストレッチした目標を与えた上で、その目標を達成するための「プロセス」まで含めて支援する仕組みが成果主義である。

言葉を換えて言えば、成果主義とは、経営者と社員が一体となって成果を上げる仕組みである。

日本はいまさら年功序列に逆戻りすることはできない環境にある。

その意味でも、日本人もそろそろ頭を切り替えた方がよい。

2013年2月13日 (水)

「頭がいい」とはどういうことか/米山公啓

41awdldayul__sl500_aa300_ 人間は、目の前の物やできごとを、自分の目だけで見ているとか、感じているというように思うかもしれないが、実際には、脳の中では、同時に記憶の中から同じような情報を引っ張り出して、素早く比較、検討しているのだ。
 つまり、勘がいいとか、察しがいいというのは、目で見たこと、聞いたことだけでものごとを判断しているわけではなく、想像力が発達しているということになる。脳の記憶をいかにうまく使いこなしているかという差が表れてくるのだ。
 目の前のリンゴをいくら真剣に見ても、リンゴはリンゴでしかない。目で見ていると同時に、なぜリンゴがここにあるのか、いったい誰が置いたのか……など、そのリンゴに関係すると思われることをいかに想像できるかが、勘のいい脳ということになってくる。
 そのためにはまず多くの記憶の蓄積が必要である。勘を鋭くするには、できるだけたくさん情報収集しなければならない。

私達が使う「頭がいい」という言葉。

考えてみたら、定義は非常にあいまいだ。

頭がいい、とはどういうことなのか?

単に記憶力が良いことなのか?

あるいはIQの高い人のことを指すのか?

しかし、たとえ百科事典的な膨大な知識を持っていても、それが人生の成功を約束するものではない。

東大を出た人が高い業績を上げるとは限らない。

そういった例を山ほど見てきている。

だからこそ、頭がいいとはどういうことなのか、と、考えてしまう。

脳の働きについては、まだまだ解明されていない部分が随分あるという。

そして、知れば知るほどおもしろい。

新しい発見がある。

例えば、神経細胞は長い突起である軸索と呼ばれるものと、もう少し短い、アンテナのような樹状突起を持つ。

これはひとつの神経細胞にたくさんあって、10万個くらいある。

この突起はほかの神経細胞とのネットワークを作るのに必要で、数多いこのネットワーク作りは脳を作ることに大いに関係してくる。

このネットワークは常に更新され、変化していく。

極端な言い方をすれば、考える瞬間、瞬間でネットワークの構築を変えていく。

つまり、脳は今現在と1分後ではすでに構造が変わっていると考えるべき。

これはすごいことだ。

年をとると脳がダメになっていくと考えてしまいがちだが、脳は常に変化し、死ぬまで構造を変え続ける。

逆にいえば、脳は死ぬまで機能改善し続けているといってもいい。

これはほかの臓器にはない特徴。

心臓や肺の機能は、年齢とともに低下していく。

スポーツ選手を見ればわかるが、ある年齢でピークを迎え、そのまま衰えてしまう。

しかし、脳の機能は記憶力のテストのように時間制限を受けるようものでなければ、年齢に関係なく機能を高めることができるのだという。

そう考えると、年齢に関係なく、まだまだ開拓の余地が自分の中には随分あるのだと、希望を与えられる。

あきらめるのはまだまだ早すぎる、ということであろう。

2013年2月12日 (火)

飽きる力/河本英夫

51xi3r0v6ol__sl500_aa300_「明日考えましょう」
 おそらくこの映画全体のなかでも最も素晴らしい場面の一つであり、性格の強いビビアン・リーのコメディ性がよく出た場面です。パニックになったら、「明日考えましょう」というのは、「ビビアン・リーの鉄則」と呼んでよいほど貴重なやり方なのです。
 自分の境遇を嘆いたり、自分のあり方を反省したり、パニックになってあわてて動いたりしないのです。嘆いても何も変わらず、反省しても事態は改善せず、パニックになって動いても、芳しい結果は出ないのです。そうしてもがく自分に飽きているのです。そこで、「明日考えましょう」と言って、隙間を開くのです。こういうパニックのさなかのおおらかさが出てくるのも、飽きるという繊細な感性が働いているからなのです。

映画「風と共に去りぬ」のラストの場面。

自分の夫、レットバトラーに去られ、絶対絶命の状態に陥ったスカーレットの口からでた「明日考えましょう」という有名なセリフ。

これを著者は「飽きる力」だと評価する。

「飽きる」という言葉からは私達はあまり良い印象を持たない。

「飽きっぽい」というと、何をやってもモノにならないダメ人間を指すことが多い。

確かに何事もある程度続けなければ、何一つ身につかないのは事実である。

著者もそのことを否定していない。

むしろ、何事も最低限の基礎トレーニング期間として、三カ月はどうしても必要だと言っている。

ただ、「飽きる」と「あきらめる」は全然違う。

「あきらめる」というのは、たとえば、きついところで競っている試合で、どうも今日はもう追いつけないといって自分から集中を切ること。

そのほうが楽だから。

これはあきらめること。

つまり、粘り強さを自分で断念するということ。

これに対して「飽きる」というのは、

物事に没頭している自分の状態を客観視し、少し距離を置き、角度を変えて見たり、やり方を変えてみたりすること。

すぐにがんばりの態勢に入ったり、すぐにいつものパターンの作業に入るのではなく、少し距離をとって選択の幅を広げること。

実際、私達は、日常生活や職場で、さまざまな作業を行いながら、ふとした瞬間に、何かしっくりこない、何かもう少し違うやり方がある、と感じることがしばしばある。

もう少し工夫ができるはずだと感じることも多々ある。

そうした能力が、本書で取り上げている「飽きる力」である。

飽きることは、いまだ活用していない自分自身の能力をうまく発揮していくための貴重な通路だと言えるかもしれない。

2013年2月11日 (月)

「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート/コリン・ジョイス

Photo もし日本の社会を知りたいなら、プールに行けばいい。込み入った日本社会をくまなく教えてくれるとまではいかないが、三十分ほどの入門コースとしてはプールにまさるものはないだろう。それはおそらく、ごく限られた空間にものすごい数の人たちが押し込められているからかもしれない。まさに日本そのものだ。ぼくは東京でひと泳ぎするたびに、なんとプールはこの国全体の縮図となっているんだろうと思ってしまう。

著者は、英国高級紙『デイリー・テレグラフ』の東京特派員。

来日して14年の著者が、日本のことを英国人の目で面白おかしく紹介している。

中でも、プールが日本社会の縮図というのは、ナルホドと思わされた。

例えば、すべてが実に整然としていること。

泳ぐところ、水遊びをするところ、ウォーキングをするところと、はっきり区分けされている。

初心者と上級者が分かれて泳げるよう、レーンがグレード別になっているところもそう。

秩序と安全に対する日本人の姿勢がよくあらわれているという。

また、そのようになっていないところでも、日本人はうまく自主規制をして、だいたい自分に合ったレーンで泳いでいる。

とても泳ぎの遅い人が中級者向けのレーンで泳いでいるようなときなど、そのレーンで泳いでいる人たちはみな平泳ぎになって、辛抱強く列を作り、問題となっている人が出ていってくれるのをただひたすら待っていたりする。

もちろん、ときには泳いでいる人同士、ぶつかってしまうこともあるが、そのようなときでも、日本人はおたがいに頭を下げ合って解決する。

こうしたことはイギリスではあり得ないのだという。

イギリスでは子供たちは大騒ぎして跳ね回っている。

子供は水深が深いところに行ってはいけないことになっているのだが、しきりにプールサイドをつたって忍び込もうとする。

もし、誰かにぶつかりでもしたら、お互い決して謝ろうとせず、両者がにらみあい、険悪な雰囲気になる。

何しろフーリガンの国だから。

日本で100人がうまく利用できるプールがあるとすれば、イギリスでは同じ大きさのプールは60人も入れば泳げなくなってしまう、という。

もちろん、イギリスのプールにも規則はある。

ただ誰もそれを守ろうとしないし、守らせようともしない、というのだ。

一つ一つナルホドと思わされるが、つまり、日本人にとって当たり前と見えることが、英国人には当たり前ではないということ。

しかし、これは良い面と見ることもできるが弱点と見ることもできる。

規則正しく皆が黙ってルールに従うという面は確かに良い面ではあるが、反面、自主性と自己主張に乏しく、長いものには巻かれろという面も透けて見える。

今のこのグローバル化した世界で日本人が生き残り存在感を示すには、ここにあげた日本人の良い面を生かしつつ、弱い面を克服する取り組みが必要になってくるのであろう。

2013年2月10日 (日)

采配/落合博満

016268thumb208xauto21274 3割を超えられない選手の傾向を分析すると、3割を目標にしているケースがほとんどである。一方、3割の壁を突破していく選手は、一度も3割をマークしていないにもかかわらず、3割3分あたりを目指している。毎試合3打数1安打なら、打率は3割3分3厘になるというのが目標になる根拠だが、そうやって「達成するのは不可能じゃないか」と自分でも思えるような目標を設定して初めて、現実的に達成可能な目標をクリアできるのだ。
 そこには、メンタル面での理由もある。3割を目指す選手は、2割8分くらいまでは平常心で打席に立っていられるが、3割9分5厘と打率を上げてくると、自分の打撃を見失ってスランプに陥ることが多い。
 つまり、3割という数字が自分の中で「目標」から「ノルマ」に変わってしまうのだ。目標とノルマ。こうして文字を見ただけでも、ノルマには身を硬くしてしまわないか。ノルマにはどうしても義務感が伴ってしまものだ。そこから焦りが生まれ、平常心を失っていく。だからこそ、3割3分を目標とし9割9分から3割へ打率を上げていくのも、あくまで通過点だと感じられるようにしたほうがいい。

プロ野球選手にとって、3割打者になるかどうかは重大だ。

年俸でも数千万、場合によっては億単位の違いが出てくるであろうし、一流選手と言われる目安も3割打てるかどうかにかかってくる。

それだけに3割を目標に掲げる選手が多いというのは、理解できる。

しかし、落合氏は3割打ちたいのであれば、3割3分を目標にすべきだと述べる。

つまり3割3分という一段高い目標を掲げることによって3割を通過点と捉えられるようになる。

それがメンタルの面で良い効果をもたらす。

結果として3割を達成できる、という。

つまり3割打つことを目標ととらえると、選手はそれをノルマと捉えるようになり、2割9分あたりになると自分の打撃ができなくなってしまうというのだ。

これは目標の立て方にひとつのヒントを与えてくれる。

多くの人は、目標を立てる目的は、目標達成そのものだと考える。

それだと、どこまでだったら達成できるだろうか、という発想になる。

そうすると、目標そのものが自分を縛ることになる。

結果、目標をノルマと捉えがちになる。

では、目標を立てる目的を、自分のパフォーマンスを最大限に発揮させるため、と、発想を変えてみたらどうだろうか。

つまり目標達成そのものが目的ではない、あくまで自分のパフォーマンス向上のためだと、目的を変えるのである。

おそらくその方が目標設定にも自由度がでてきて、よい結果をもたらすのではないだろうか。

そういえば、落合氏も現役時代、毎年三冠王を目標に掲げ公言していた。

今考えれば、それも自分の打撃にもたらす心理的効果を狙ったものだったのではないだろうか。

2013年2月 9日 (土)

「世界標準」の仕事術/キャメル・ヤマモト

Photo 先端的なグローバル企業は、分散型リーダーシップという方向に向かっています。これは、チームのメンバーもグローバル人材である限り、何か強味や専門性をもっていて、その分野ではその人がリーダーシップをとるという意味です。メンバーもリーダーと対等の立場で、知恵を出して、汗を流します。だから、縦横斜め、すべての人に、なにがしかのリーダーシップが求められます。
 つまり、自分はリーダーの柄じゃないという人も、世界標準の仕事においては、必ず自分が専門とする分野や得意な分野ではリーダーシップをとることが期待されます。指示待ちはご法度、自分から動かなければ意味がありません。

日本ではリーダーシップというと、特定のポジションにつく人に求められるスキル、という捉え方が一般的だ。

例えば、多くの日本企業では管理職コースと専門職コースに分かれている。

組織の中で、自分の部下を束ね、リーダーシップを発揮することが求められる管理職コースと、

自分の専門性を高め、会社に貢献することを求められる専門職。

そして、後者の場合、往々にしてリーダーシップとは無縁の人がなることが多い。

中には専門バカと言えるような、内向きで対人関係に問題を抱えた人が専門職に進むこともある。

しかし、著者によると、その考え方は、少なくともグローバルな世界では通用しないという。

グローバルな世界では、専門職であっても、その専門分野ではリーダーシップを発揮することが求められる。

これは考えたら当たり前のこと。

組織の中でその専門性を生かすためには、同僚と話し合って合意形成をしたり、上司を説得したり、と、あらゆる意味でのリーダーシップが必要になるからだ。

今、多くの日本の企業でグローバル人材が求められているが、それを単に英語ができる人材、と、狭い意味で捉えている傾向がある。

おそらく多くの日本人にとって、英語よりも難易度が高いのは、リーダーシップの問題ではないだろうか。

日本人はもっとリーダーシップに真剣に取り組む必要がある。

場合によっては学校の教育プログラムの中に組み込むことも検討してよいのではないだろうか。

2013年2月 8日 (金)

会社を替えても、あなたは変わらない/海老根智仁

33403449  私が聞いたことのある、あるブラジル人サッカー選手の話をしましょう。
 彼は、日本のあるプロサッカーチームに所属しているフォワードの選手なのですが、日本とブラジルはどこが違うか、ということについて、以下のようにいっていました。
「大人になる、なり方が違う」(中略) 
 ベテランプレーヤーから教えてもらうことを鵜呑みにして、すぐにやってみるのだがうまくいかない、そしてまた自信を失う……。日々の練習でこんなことばかり続けている日本の若い選手を見て、彼らはいつ、どうやって大人になるのだろうと思ったといいます。
 ブラジルでは、若い選手だろうと、グラウンドに出ればプロはプロ。ベテランからいろいろアドバイスされても、あなたに教えてもらわなくても自分のサッカーは自分で考えますというくらいの気概で、突っぱねるのがふつうだと、彼はいいます。
 先輩を敬っていないわけではなく、自分のことは自分で判断し決めるという自立心が、そうさせるのだと。

日本のプロサッカー選手は自立していないと、あるブラジル人のサーカー選手が言ったという。

これはサッカー選手に限らず、多くのスポーツ選手、サラリーマン等に共通して言えることではないだろうか。

最近、女子柔道選手15人がコーチの体罰の問題で集団提訴したことが話題になっている。

でも、どうして「集団提訴」なのだろう、と、正直疑問に思った。

報道による限り、体罰は常態化していたようだ。

だとしたら、もっと前の段階で、「これはおかしい」「まちがっている」と思ったら、たとえ一人であっても提訴してもよかったのではないだろうか。

もちろん、コーチと選手という上下関係があったとしても、もし、選手が自立していればたった一人であったとしても提訴することも可能だったのではなかろうか。

それが15人が集まるまでは提訴に踏み切れなかったというところに、いかにも日本人的なところがある。

つまり、今回の体罰の問題は、個人が自立していないところに問題の根本があると私はみている

そして、個人が自立しないかぎり、このような問題は様々な形を変えて今後も出てくるのではないだろうか。

2013年2月 7日 (木)

こうすればあなたの会社は「100年存続」できる!/小山政彦

513zs0a013l__sl500_aa300_ 人間という生き物はおもしろいもので、ハイテク・デジタル化が進めば進むほど、それと対極をなす「やじろべえ」のようなローテク・アナログを求めるものです。無意識のうちに精神的なバランスをとろうとしているのでしょうか。
 ビジネスの世界ではまだまだハイテク化が進展するでしょうが、趣味に関する市場では逆にアナログ化が進むのではないでしょうか。
 さらに、ビジネスの世界でも、ハイテク・デジタル化の流れが行き着くところまでいった後は、アナログ・ローテクヘの回帰現象が間違いなく起こると予想しています。なぜなら、アナログ・ローテクはハイテク・デジタルでは成しえない表現や情報伝達、臨機応変な情報処理が可能だからです。

今、ハイテク化、IT化が多くの分野で進んでいる。

もはやアナログ的なものはなくなってしまうのではないかという人もいるが、そうではないと著者は言う。

私もまったく同感である。

必ず揺り戻しが起こる。

かつて、ローテク・アナログ技術に頼りすぎた職人たちは、ハイテク・デジタルをバランスよく取り入れた商人たちにその座を奪われてしまった。

寿司職人などがその例である。

今、多くの寿司チェーン店では、寿司をにぎる機械が導入されている。

高い賃金の寿司職人を雇うよりはるかに安上がりである。

また難解なプログラムや複雑なシステムを開発したことに満足しているIT技術者も、この寿司職人たちと同じ憂き目に遭うかもしれない。

昔気質の寿司職人がローテク職人だとすれば、ハイテク一辺倒のIT技術者はハイテク職人とでもいうべき存在。

多くの場合、彼らはコンピュータと会話するのは得意でも、生身の人間とうまくコミュニケーションが図れない。

すると、ハイテク・デジタルに大きく振れた時代だからこそ、どこかの時点で、ローテク・アナログの大切さが再認識され、両者の融合を図ることが求められてくるのではないだろうか、ということが予想される。

おそらくハイテク化が進めば進むほど、アナログ的なものの価値がむしろ高まってくるのではないだろうか。

大切なことは、今のこの時代の流れを正しく見極めることだ。

2013年2月 6日 (水)

八日目の蝉/角田光代

51fkftdm3yl__aa278_pikin4bottomrigh「前に、死ねなかった蝉の話をしたの、あんた覚えてる? 七日で死ぬよりも、八日目に生き残った蝉のほうがかなしいって、あんたは言ったよね。私もずっとそう思ってたけど」千草は静かに言葉をつなぐ。「それは違うかもね。八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと、私は思うよ」

久しぶりに小説を読んだ。

きっかけは同名の映画。

映画を見て興味が湧き、原作である本書を読んでみた。

本書には二人の主人公が登場する。

一人は、不倫相手の子を身ごもったものの、中絶するよう請われ、結果子供の生めない身体になり、不倫相手の赤ん坊を盗んで逃げ回る希和子。

そしてもう一人は、その女に4歳まで育てられた薫。

二人とも、普通ではない生を体験する。

本書のタイトル、「八日目の蝉」とは、地上に出て七日間しか生きられない蝉が、もし八日目も生きていたら、きっとちがった光景が目の前に広がるはず、ということから来ているのではないかと思う。

つまり、主人公の二人は「八日目の蝉」の体験をするのである。

この小説は、生きるとは?親とは?母性とは?ということを問いかける。

別に解答を与えてくれるわけではなく、問いかけるだけである。

しかし、小説とはそんなものではないだろうか。

説教臭い小説など、誰も読みたくはないものである。

2013年2月 5日 (火)

やるだけやってみろ!/堀場雅夫

53231359 ご存じかもしれませんが、社是の「おもしろおかしく」というのは、仕事をおもしろくやるということです。私は、その方法は二つあると思っています。おもしろい仕事を選んで、おもしろい仕事ができるように努力する。例えば、いまはものを売っているけれど、開発するほうが自分は好きなんだと思ったら、会社の中で開発の部隊に移れるようにいろいろ努力して、おもしろい仕事をするというのが一つあります。
 もう一つは、いまやっている仕事をおもしろくするということです。自分は本来ものを売るのは嫌いだ、苦手だと思っている人も、例えば「こんなものを売れればおもしろい」と、自分のおもしろいような仕事を開発部隊にいろいろ仕掛けてつくらせて、自分の気に入るような商品に仕上げて売るということもあります。それから、売り方を工夫してみて、自分だけのノウハウをつくり上げるというやり方もできます。例えば、百人百様のお客の好みを整理してデータベース化し、お客のタイプを決めて、そのタイプごとの攻略法を考えてみる。こういう人にはこういうところから攻め込んだら確率が高いとか。一つのマップやソフトをつくってやってみると、成功する確率が三倍上がったとか。そうすれば、仕事もどんどんおもしろくなるはずです。

本書の著者は、分析機器のトップメーカー堀場製作所の創業者、堀場氏。

この会社の社是は「おもしろおかしく」

そもそも仕事とはおもしろいもの、いや、おもしろくするものという考え方が根底にある。

おもしろい仕事をしたいと多くの人は思っている。

しかし、こればかり追い求めていると、一生転職を繰り返すことになるだろう。

青い鳥症候群になってしまうかもしれない。

むしろ、今、目の前の仕事を面白くするということの方が現実的である。

堀場氏もそのことをここで言っている。

では、今やっている目の前の仕事を面白くするにはどうすればいいのか?

それは主体的に仕事をやることである。

仕事をやらされていると考えている内は、おもしろくないもの。

受け身からは何も生まれない。

それより、どうせやるなら、仕事を主体的にやることである。

創意工夫を加えてやってみる、

そうすると段々と目の前の仕事に興味が沸くようになり、おもしろくなってくるもの。

仕事がうまくいくようになれば、お客様から喜ばれたり、同僚から感謝されたりする。

これがおもしろさを加速させる。

そうすると今度は上司からも評価されるようになる。

ますます面白くなる。

要はこのような正のスパイラルが回るようにすることである。

多くの人にとって、働く時間は、一生の大部分を占める。

仕事は適当にやって、趣味に生きるという生きかたもあるかもしれないが、

どうせやる仕事であれば、おもしろくやりたいものだ。

将来、定年は70歳位になるかもしれないのだから。

2013年2月 4日 (月)

「原因」と「結果」の法則/ジェームズ・アレン

Mzl_samfjsgd_320x48075 人間が達成するあらゆる成功が努力の結果です。そして、努力の大きさによって結果の大小が決定します。そこにはいかなる偶然も介在しません。物質的、知的、精神的達成のすべてが、努力の果実なのです。それらは、成就した思いであり、達成された目標であり、現実化されたビジョンです。
 あなたが心の中で賛美するあなたのビジョン……あなたが心の中の王座につけるあなたの理想……それにしたがって、あなたの人生は形づくられます。それこそが、あなたがやがてなるものなのです。

多くの人は「環境が人を創る」と思っている。

しかし、アレン氏は「人が環境を創る」と言う。

あらゆる環境は自分の内面の結果である、と。

私たち人間は、私たちを存在させている法則でもある「原因と結果の法則」にしたがい、つねにいるべき場所にいる。

私たちが自分の人格のなかに組み込んできた思いの数々が、私たちをここに運んできた。

よって、人生には、偶然という要素はまったく存在しない。

私たちの人生を構成しているあらゆる要素は、原因と結果の法則が正確に機能した結果なのだ、と。

環境は人間を創らない。

気高い思いばかりをめぐらしている人が、邪悪な道に落ち、苦悩する、などということはけっして起こらない。

同様に、邪悪な思いばかりをめぐらしている人が、気高い目標を達成して真の幸せを感じる、などということも絶対に起こらない。

全ては「原因と結果の法則」なのだ、と。

本書は最初から最後まで、この考え方で貫かれている。

私達はとかく原因を外に求めようとするもの。

自分がこうなったのは親が悪かったのだ、学校の先生が悪かったのだ、上司が悪かったのだ・・・、と。

しかし、それでは進展はない。

堂々巡りに陥るのがオチである。

結局損するのは自分である。

でも、この「原因と結果の法則」を信じきって実践すれば、少なくとも人生を無為にすごすことはないだろう。

自分の人生で、成長という果実を摘み取ることができるのではないだろうか。

2013年2月 3日 (日)

日本人の魂と新島八重/櫻井よしこ

51mxzou6uxl__aa278_pikin4bottomrigh もうひとつの特徴は、会津藩の藩士子弟教育の根幹にあるものが「武芸の重視」であることです。とにかく体を使って鍛錬することを幼少のうちから叩き込みます。
 人間は心によって動かされる存在ですが、その心は頑健な身体によって支えられています。そしてまた、敵を退けるのは最終的には力であるという武士の心構えを大切にしていたということでしょう。会津藩士にとって、「学問はなくても恥ではないが、武芸がないことは恥」だったのです。
 こうした武士の心構えは、男子ばかりではなく女子に対しても、家庭教育において徹底されていました。会津藩では、主君は主君として、家臣は家臣として、武士の妻は武士の妻として、母は母として、子は子として、それぞれの役割を認識して武士道を磨いていたのです。

NHKの大河ドラマ「八重の桜」のヒロイン、新島八重。

戊辰戦争で会津城に立てこもり、砲術を指揮し、銃を取って戦ったことで有名だ。

また、敗戦後新島襄と結婚し、同志社設立を支え、晩年は看護婦として日清、日露戦争時に活躍する。

その強さ、先進性、献身、チャレンジ精神はどこから来たのだろうか?

そのことを考えると、会津藩の藩士子弟教育にそのカギがあったのでは、というところに行き着く。

当時、会津藩では幼少の頃から、男女の区別なく、武士道を身体で教えていた。

そして、武士道で教える「大義」に生きたのが八重だった。

会津藩に限らず、かつて日本人は「自分は何のために生きるのか」という大義を多かれ少なかれ教えられ、自覚していた。

自分の意志を自由に、かたちにしていく八重のような人が現れるのも、「大義のために生きる」という精神が根底にあったからだろう。

大義とは、自分の都合ではなく、世の中のためになること、人のためになることを第一とする考え方。

それはときには、大いなる自己犠牲を大前提としなければ成りたたないこともある。

八重は女性ながら、本当の意味で武士道を実践した人ではないだろうか。

ひるがえって、現代の日本人は、すべてを自分のために還元するのが当然と思っている人が、あまりにも多い。

世の中で起こっている様々な犯罪や不祥事の根底にはこれが流れている。

そう考えると、子供の頃からきちんとした道徳教育をすることも必要なことではないだろうかと考えてしまう。

2013年2月 2日 (土)

シンメトリーな男/竹内久美子

9784167270148 話は少々はずれるが、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』を読むと、坂本竜馬がいかに女にモテる要素をもっていたかが窺える。それはそのまま、今ここで議論しているシンメトリー男の特徴とよく一致するのである。
 竜馬はまず第一に、背が高く、ルックスがよくて筋肉質である。身長は五尺八寸、つまり約176センチメートルもあり、当時,としては大男だった。しかし竜馬よりも凄いのは姉の乙女で、女でありながら身長は竜馬と同じ。坂本のお仁王さま、と呼ばれていた。
竜馬の剣術の腕は北辰一刀流の免許皆伝である。乗馬も得意。今ならスポーツ万能といったところである。彼はまた、乙女姉さん直伝の三味線の腕も確かで、ユーモアの効いた会話もこなす。これで女が放っておくはずもなく、芸者衆にモテモテだった。
 しかも性格は竹を割ったようにさっぱりし、大らかで愛橋がある。こうして当時の人々だけでなく、今日の我々も含めた万人に愛されているのである。竜馬がシンメトリー男でありそうな気配は極めて濃厚なのである。(中略)
 ともあれこうしてわかるのは、およそ男の魅力となっているものは、実はそのほとんどがシンメトリーと関係がある。つまりは神経系も含めた体の出来具合と関係がある。そしてその手掛りとなっているということである。

シンメトリーとはつまり対称性のこと。

本来完全な左右対称に発達すべき身体の部位だが、実は左右でほんの少しの違いがある。

せいぜい1ミリか2ミリという程度の極めて微妙なずれを問題にするわけだが、それらを研究すると、興味深いことが分かるという。

それは対称性が高い男性ほど女性から、モテるということ。

シンメトリーが研究の対象として注目されたのは、動物行動学者A・P・メラーの研究結果による。

折しも1991年のこと、原発事故後のチェルノブイリの地をこのメラーが訪れた。

ツバメの尾羽の研究をするためである。

分かったことは、シンメトリーな個体ほど遺伝的、環境的ストレスを受けていない、あるいは受けてもそれによく対抗する力を持っているということ。

逆にシンメトリーではない個体は、遺伝的、環境的ストレスを多く受けている、あるいは受けたストレスに対し、十分に対応することができない。

メラーは、動物行動学の分野に、特にメスがオスを選ぶという性淘汰の研究に、このシンメトリーという概念を取り入れた。

シンメトリーであるということはシンメトリーを脅かす存在に見舞われたとしてもそれに打ち勝ち、立派にシンメトリーに発達させることができたという証拠。

個体が、いかに体をしっかりと、安定して発達させられるか、という能力はシンメトリーに現れる。

つまり、シンメトリーはこうした体の性能について、その遺伝子の優秀さが最もよく示される現象なのである。

だからメスとしては何としても見逃すわけにはいかない。

メスはオスのシンメトリー度を本能で見抜くことができる。

これがシンメトリーな男性は女性にモテるという現象にあらわれる、というもの。

でも著名な研究者が大まじめにこんなことを研究しているのだからおもしろいものである。

2013年2月 1日 (金)

失敗の本質 戦場のリーダーシップ編/野中郁次郎

021552thumb208xauto22274 フランス版『失敗の本質』ともいうべき書物をご存じだろうか。作家、アンドレ・モーロウが亡命先のアメリカで筆を執り、1940年5月、ナチス・ドイツの猛攻の前に、わずか6週間で、なす術もなく敗れ去った祖国の敗因を詳細かつ冷静に分析した作品であり、日本も含めた世界じゅうでベストセラーになった古典的名著『フランス敗れたり』(ウェッジ、2005年)である。
たまたま最近、同書を手に取ったのだが、背筋に冷たいものが走った。そこで描かれている内容が、戦後日本、特に2011年3月の原発事故とその後の稚拙な対応に象徴されるいまの日本の政治状況にそっくりなのだ。
 独仏国境につくられた要塞=マジノ・ラインに象徴的な、非現実的な専守防衛的発想、「ナチズムは一時の麻疹のようなもので、ドイツにも早晩、健全な民主主義が根づくはずだ」という根拠なき希望的観測、国際連盟に対する過度の期待、あらゆる戦争を否定する平和至上主義、政治指導者の腐敗・堕落・・・ダイナミックな危機対応力に欠けた、いまの日本との類似点を挙げれば枚挙に暇がないくらいだ。

著者によると、ナチスドイツに占領される直前のフランスの状況と、現在の日本は酷似しているという。

言われてみればそうかもしれない。

根拠なき希望的観測や他力本願的な平和主義、ナルホド確かによく似ている。

今のままでは、丁度フランスがあっと言う間にナチスに占領されてしまったように、瞬く間に他国に負けてしまうこともあり得る。

これは何も戦争を意味するものでなく、経済戦争もそうである。

ビジョンや戦略なき国家、遅い意思決定、そしてリーダーの不在。

それが如実にあらわれたのが3.11とその後の対応である。

何かあった時にガタガタになってしまう組織の姿が表面化してしまった。

3.11を経験した日本は、今こそ、この失敗を教訓として変わるべきときではないだろうか。

この1~2年が勝負だと思う。

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