世に棲む日日(四)/司馬遼太郎
分類すれば、革命は三代で成立するのかもしれない。初代は松陰のように思想家として登場し、自分の思想を結晶化しようとし、それに忠実であろうとするあまり、自分の人生そのものを喪ってしまう。初代は、多くは刑死する。二代は晋作のような乱世の雄であろう。刑死することはないにしても、多くは乱刃のなかで闘争し、結局は非業にたおれねばならない。三代目は、伊藤博文、山県有朋が、もっともよくその型を代表しているであろう。かれら理想よりも実務を重んずる三代目たちは、いつの時代でも有能な処理家、能吏、もしくは事業家として通用する才能と性格をもっており、たまたま時世時節の事情から革命グループに属しているだけであり、革命を実務と心得て、結局は初代と二代目がやりちらかした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる。山県狂介が、あるいはその典型かもしれない。
司馬氏によれば、革命は三代で成立するという。
松陰のように思想家として登場する一代目、
その思想を行動に移し乱世の雄として登場し最後は非業の死を遂げる、晋作に代表される二代目、
そしてその総仕上げとして、実務家として安定した世を築き上げる伊藤博文、山県有朋に代表される三代目。
そう考えると、今の日本はどうなのだろう、と、考えてしまう。
少なくとも今、日本は変わることを求められている。
長い間築き上げられてきた日本の社会の仕組みが制度疲労を起こし始めている。
つまり今求められているのは松陰型であり晋作型のリーダーである。
ところが、見回してみると、日本には現状維持型のリーダーがあまりにも多い。
この国の閉塞感も、こんなところから来ているのかもしれない。
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