世に棲む日日(三)/司馬遼太郎
晋作の胸に、炬のようにあかあかとした確答があった。藩はかならず亡ぶ、ということである。夷人どもは大艦をつらね、大挙して再来するにちがいない。そのときは長州武士がいかに刀槍をふるっても、敵うものではない。そのことは、上海で知った。防長二州は砲火で焼け、焦土になる。
(ならねばならぬのだ)
というのが、松陰にはなかった晋作の独創の世界であり、天才としか言いようのないこの男の戦略感覚であった。敵の砲火のために人間の世の秩序も焼けくずれてしまう。
すべてをうしなったとき、はじめて藩主以下のひとびとは狂人としての晋作の意見に耳をかたむけ、それに縋ろうとするにちがいない。
(事というのは、そこではじめて成せる。それまで待たねばならぬ)
と、晋作はおもっている。
伊藤博文から「動けば電雷の如く発すれば風雨の如し」と評された高杉晋作。
この言葉からは、瞬間湯沸器のように気が短く、狂気に近い行動力のある人物像が浮かんでくる。
確かに、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行う等、過激な面があったのは事実だが、
反面、「機を見るに敏」という言葉が当てはまるような、戦略家の一面があったことがうかがえる。
時の流れを読み、自分の出番が回ってくるまで忍耐強く待つということのできる人物であったようだ。
当時、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行う。
これがやがては下関戦争に至るわけだが、
いざ藩が関門海峡で攘夷戦を始めたとき、晋作は萩城外の山で頭をまるめて坊主になっていた。
彼は、この藩がこれから辿るべき悲惨な運命を予見していた。
さらに予見しつつもそれを冷酷にながめようとしていた。
そしてついに藩が米仏の報復に逢い惨敗したとき、晋作は請われて下関の防衛を任せられる。
奇兵隊を結成したのはその後である。
晋作が英雄とか天才といわれるとすれば、それは彼のやった数々の奇策などにそれがあるのではなく、この戦略眼と心胆にあるのではないだろうか。
« 世に棲む日日(二)/司馬遼太郎 | トップページ | 世に棲む日日(四)/司馬遼太郎 »
コメント