「弱者」とはだれか/小浜逸郎
よく知られているように、放送禁止用語や、新聞など公共性の高い出版物の用語規制には、なぜこれが?と首をかしげたくなるような例があまりに多い。特に職業用語で、「百姓」「漁師」「八百屋」「床屋」「肉屋」「屑屋」「土建屋」「土方」「ドサ回り」「小使」などは、身分的な差別性があると考えられて禁止か要注意ということになっている。前にも述べたように、「さん」をつけてもだめなのである。
これらは、まったくその真意を測りかねる。たとえその用語自体にいくぶんかの差別的ニュアンスが付きまとっていたとしても、実際に使われる文脈のなかでは、その職業の持っている伝統的な親しみやすさを表現するために用いられる場合が多く、露骨に差別的に使われる場合などはほとんどないはずである。
「弱者」とは誰なのか?
分かっているようで分からないというのが本当のところである。
弱者と敗者とは違う。
「弱者には援助を、敗者にはチャンスを」とはよく言うことだが、その境界線はあいまいだ。
ホームレスは弱者なのか、敗者なのか?
おそらく両者が混在しているのだろう。
今問題となっている生活保護を受けている人達は、果たして弱者なのか、敗者なのか?
本当の弱者もいるだろうし、中には弱者モドキもいるだろう。
本書は弱者として、老人、子供、障害者、在日外国人、部落出身者、女性とあげている。
確かに一般論としては、上記の人々は弱者に分類されるだろう。
しかし、老人といっても元気で裕福な人もいるし、貧乏で衰弱してしまった人もいる。
金持ちの老人はむしろ強者と言えるかもしれない。
そう考えると、非常にあいまいな定義であることが分かる。
と、同時に、非常に扱いにくい問題でもある。
下手すると、この問題を取り上げると、弱者を攻撃していると受け止められかねない。
最悪なのは、このことをタブー視することである。
弱者なる概念を、触れてはならないものとし、それに関連する言葉を排除する。
その代表例が放送禁止用語である。
しかし、問題は言葉を排除しても実体はなくならないということ。
そして、「百姓」を「農業従事者」に、「漁師」を「水産業者」に置き換えても、生活臭や手触りに乏しく、かえって使う側の遠慮という過剰な意識が浮き出て、聞く方はぎこちない思いを強いられ、何とも気分が悪い。
過剰な規制の圧力によって、言葉の文化が貧困になっていくことのほうが問題だと感じる。
自分のことを「百姓」と称する農民はたくさんいるし、「床屋」と言われて怒る床屋さんなどいるはずがないのに。
過剰な言葉の規制は、問題のすり替えにすぎないのではないだろうか。
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