本当は謎がない「幕末維新史」/八幡和郎
幕府でも老中の田沼意次は重商主義政策をとるなど、当時としては正しい方向へ舵を切ろうとしたが、田沼を失脚させて老中になった松平定信は、なんと反対に寛政の改革(一七八七〜九三)で商工業の発展や商品作物の普及、それに人口の都市への移動などを抑えようとした。
つまり、GDPを下げれば、米からの年貢に頼っていても、対GDP租税負担率は下がらないだろうという逆転したお笑い的発想の奇策だった。(中略)
つまり、経済を発展させず、生活水準を向上しようとしなければ、これまで通り封建体制は維持でき、民衆も生きていけるという、「生かさぬよう、殺さぬよう」という家康の理想を無理矢理にでも守ろうというものだった。
歴史の本を読む場合、歴史の教訓を現代に如何に生かすか、という観点で読むことが多い。
その場合大事なことは、歴史上の事実を美化することなく、ありのままを見るということである。
ここでは松平定信の寛政の改革のことについて述べている。
武士も農民も生活を切り詰めて支出を減らす、
米以外はリスクが大きく税も取りにくいのでできるだけ作らせない、
民衆に貯蓄や食糧の備蓄を義務的に行なわせ、場合によってはそのために資金を強制的に貸して藩が利子を稼ぐ、といったもの。
これは現代で言えば緊縮財政である。
この定信の改革理念は、幕末期に至るまで幕政の基本政策として堅持される。
結果、経済は発展せず国民の生活水準も上がらなかった。
江戸時代は鎖国していたから独立が守れた、江戸時代はエコロジー環境先進国だった、風紀が乱れていなかった、教育水準が高かった、などという人もいるが、
実際は、鎖国のために時代遅れの火縄銃しかなかったので幕末期に危うく植民地にされかかった、
物がなかったのでなんでも徹底利用しただけ、山も禿げ山だらけだった、
身分が固定されていたので競争がなかっただけ、武士は九九もできず庶民も漢字の読み書きがほとんどできなかった、というのが江戸時代の真実である。
結局は黒船という外圧によってしか日本は変わらなかった。
内向きの政策はこの国の発展に寄与しないという何よりの教訓ではなかろうか。
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