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2013年5月の31件の記事

2013年5月31日 (金)

壁を越える技術/西谷昇二

Photo  どんな些細なことでも、どんな「いびつ」なものでも、自信のカケラを寄せ集めたものは、自分の成功の型となっている。自分では「型」と認識できなくても、それは成功のひな型となっている。
 新しいことに取り組むとき、人は自分自身の過去の成功体験をなぞっている。
 どんなものでも上達するための王道は、まず型を覚えることだ。

著者は、代々木ゼミナールのカリスマトップ講師。

受験という枠を超え、さまざまな壁を前に立ち向かう人へメッセージを送っている。

多くの成功者は型を覚えることの重要性を強調する。

これは、スポーツ選手、芸術家、経営者等々、共通していることだ。

どんなことでも、能率よく上達しようと思えば、まずは基本、型をみっちりやる。

野球なら素振り、柔道なら受け身、相撲なら四股、サッカーならトラッピング。

それを身体が覚えるまで、何百回、何千回と繰り返す。

同様に、成功にも型があるという。

成功体験を分析すると、そこには一定の成功の型がある。

まずはそれを「型」として認識すること。

そして、これを意識できるレベルまで引き上げる。

次にその「型」を身体が覚えるまで繰り返す。

成功体験を脳が覚えるまで、条件反射となるまで覚え込ませる。

それによって成功をつくりあげることができる。

ポイントは、自らの成功体験から型を見つけ、それを続けること。

シンプルだが、とても大事なことだ。

2013年5月30日 (木)

伝え方が9割/佐々木 圭一

9  ここに驚くべきデータがあります。世の中に存在して目にすることのできる情報量が、10 年で530倍になったことです。インターネット情報の増大が原因です。ビジネス書1冊ぶんしかなかった情報が10 年で本棚まるごと2つぶんに増えてしまったのです。とんでもない量の情報の洪水が、私たちの生活の中を駆け抜けています。
 これにより、世の中で何が起こっているかというと、ほとんどの情報が無視されているということです。
 ただでさえ溢れている情報の中で、個性のない普通のコトバは無視されるどころか、なかったものとして扱われます。そんなコトバは、深夜に通り過ぎる貨物船です。誰にも気づかれず、通り過ぎていくだけです。これまでの時代は、コトバを職業にする人だけが技術を磨けばよかったのです。でも今は、一般の人たちこそコトバ磨きが必要な時代といえます。

今、言葉は世の中にあふれている。

特にインターネットが普及して、その量は爆発的に増加した。

そして、その傾向は今後益々加速することだろう。

この言葉の洪水の中で、埋もれてしまわないためには、「伝わる言葉」のスキルを向上させることが重要である。

誰もが話すことができる。

しかし、そのレベルは著者にいわせると、温泉でのお気楽ピンポンレベルだと言う。

言葉は行き交うものの、そこには全く工夫がない。

みんながそのレベルだから、ちょっとスキルを身につければ、それだけで抜きんでることができる、と。

人の印象に残る強い言葉をつくるには5つの方法がある。

「サプライズ法」「ギャップ法」「赤裸々法」「リピート法」「クライマックス法」

これらは人間の本能に基づくものなので、グローバルに通用する。

つまり、言葉が違っても「サプライズ」があると人はドキドキする。

人種が違っても「ギャップ」があると人は感動する。

地域が違っても「赤裸々」なものに人は引き込まれる。

国が違っても「リピート」があれば記憶に残る。

文化が違っても「クライマックス」に注目する。

私も顧客の前で話す機会が多いので、その中の一つでも身につけてゆきたい。

2013年5月29日 (水)

重力とは何か/大栗博司

Photo  物理学の目的は、一つではありません。直接的に技術革新に結びつく実用的な研究も、たくさんあります。しかし、その真骨頂の一つが自然界の「基本法則」を発見することにあるのは間違いないでしょう。この世界はいったいどのように成り立っているのか――いわば私たちの存在の根源に関わる問題に答えるのが、物理学が果たすべき一つの大きな使命です。

本書では物理学、特にその中でも重力理論について、その変遷が記されている。

その理論の変遷に伴い、様々な人物が登場する。

ただ、この分野では素人の私が知っているのはニュートン、アインシュタイン、ホーキンス位のもの。

ほとんどは初めて聞く名前であり、別世界の出来事のように感じてしまう。

アインシュタインの名は誰もが知っているだろうが、本書を読んで改めてその存在感の大きさを確認させられた。

重力理論の進化も、アインシュタイン抜きには考えられない。

アインシュタインはニュートン力学とマクスウェルの電磁気学の矛盾を特殊相対論で解決した。

ニュートン理論では説明不能だった重力現象を一般相対論で乗り越えたのが、アインシュタインだった。

しかしそのアインシュタイン理論も、ブラックホールや初期宇宙の特異点といった極限状況には通用しない。

そのため現在では、アインシュタイン理論を乗り越える新たな重力理論が提案されている。

アインシュタインが既存の理論を打ち破り、今はアインシュタインを超える理論が求められているのである。

いずれにしてもアインシュタインを軸に重力理論が展開されている。

アインシュタイン理論の限界を乗り越え、その先に、自然界のすべての現象の基礎となる究極の統一理論があると期待されているのだという。

歴史に「if」はない、とよく言われる。

もしアインシュタインがいなければ、今、私たちが見ている世界は全く違ったものになっていたかもしれない。

そんなことを考えさせられた。

2013年5月28日 (火)

「もう、うんざりだ!」自暴自棄の精神病理/春日武彦

Photo 「自暴自棄」の反対語は何だろうか。個別の事例によって異なってはくるだろうが、たとえば「希望」が相応しいこともあるだろうし、「開き直る」とか「歯を喰いしばる」「淡々」といった言葉が当てはまることもあるだろう。「苦笑」という言葉が適切なケースもあるに違いない。
 だが、あえてひとつだけに限定するなら、「深呼吸」という一語をわたしは挙げたい。とりあえず立ち止まってみる、シンプルきわまりない動作に集中してみる、身体の内部を一時的に空っぽにしてみる。 そのようなプロセスを経て「我に返る」可能性を、深呼吸は孕んでいるからである(さらに気持ちを共有してくれる人が横にいれば、とげとげしい気持ちは希釈され薄まるだろう)。
 当然のことながら、我々はいつも呼吸を繰り返している。だが深呼吸は特別である。普段の呼吸の延長に深呼吸はある筈なのに、しかもそれには暴走しかけている気持ちを抑える効能があるというのに、肝心なときについ深呼吸を忘れてしまう。こんな簡単なことなのに。それが我々なのである。

自暴自棄に陥ることは誰にでもある。

本書は、人はどうして自暴自棄に陥るのか、その事例を自らの体験や小説の登場人物から紹介している。

ここで著者は、自暴自棄の反対語は「深呼吸」だと言っている。

ナルホドと思った。

何かの大きな役割を果たそうとする時や試験の前など、私たちは深呼吸をして自らを落ち着かせようとすることはよくある。

ところが、自暴自棄に陥っている時は、その余裕すらもなくなっている。

たとえば、自暴自棄に陥ってしまい、藁をもすがる思いで精神科医を訪ねたとする。

そしたら、精神科医から「深呼吸でもしてみたら」とアドバイスされたらどうだろうか。

おそらく「何のために高いお金を払って診てもらっていると思ってるんだ」と腹を立てるだろう。

あるいは「そんなことは無駄だ」と聞く耳を持たないだろう。

つまりそのくらい心の余裕がなくなっているのが自暴自棄の状態なのだ。

だから、逆説的だが深呼吸できるということは、自暴自棄の状態からある程度脱しているということがいえる。

「自暴自棄」の反対語は「深呼吸」

シンプルだが、本質をついた考え方だ。

2013年5月27日 (月)

「折れない心」をつくるたった1つの習慣/植西聰

1  聞いた話なのですが、日本刀は、他の刃物に比べて、非常に折れにくいのだそうです。
 なぜかといえば、日本刀はしなる性質を持っているからだそうです。
 そのため、強い力が外から加わっても、しなることで、その力を受けながすことができ折れないのです。
 日本刀だけでなく、柳や竹など、よくしなるものは、簡単には折れません。
 人間もこれと同じです。
 しなる心は、外部からの圧力が加わったときに、折れずにいられる強さを持つことができます。
 そのためには、自分を枠にはめすぎないことです。
 今のままの自分を認めてあげたり、できない自分を許してあげることでその強さは身につきます。

今、日本では自ら自分の命を絶つ人が年間3万人近くいる。

また、ウツを訴える人が年々増加してきている。

その意味では、いかにして「折れない心」を持つか、ということは大きな課題だといえよう。

では、折れない心とは一言でいえばどんな心なのだろう。

ここで著者は、折れない心とは「日本刀のようなしなる心」だと述べている。

強さを求めるのではなく、しなやかさを求める。

どんなに強度の高い鋼材で作った刀も、それを超える力を加えればポキッと折れてしまう。

しかし、柔軟性のある鋼材で作った刀であれば、曲がることはあっても、折れることはない。

そして、その鋼材に復元力があれば、すぐもとに戻る。

では、これを人の心に置き換えると、どんな心なのだろう。

ポイントの一つは、「自分が価値ある存在」だと信じる心ではないだろうか。

本書にこのような話が載っていた。

ある研究チームの調査で、世界中の中学生を対象に、「あなたは価値のある人間だと思いますか?」 「あなたには人並み以上の能力があると思いますか?」というような質問をしたところ、アメリカや中国の子どもは50%近くが「はい」と答えたのに対し、日本の子どもで「はい」と答えたのは10%にも満たなかった、と。

つまり、日本は世界的に自己肯定感の低い人間が育ちやすい国だといえるのかもしれない。

自己否定は、少々のことでは妥協をせず、完璧を目指すという意味では、プラスに働くことがある。

日本独特の職人の世界などは、これが根底にあるような気がする。

しかし、これがあまりに強すぎると、自分を追い込むことにつながり、結局は袋小路に陥る。

その意味では、日本人はもっと「ありのままの自分を受け入れる」ことをすべきではないだろうか。

2013年5月26日 (日)

日本人しかできない「気づかい」の習慣/上田比呂志

Photo  気づかいで大切なのは、「ちょうどいい具合」。
 この感覚が非常に難しいのですが、行き過ぎた気づかいや重たい気づかいというのは、かえって相手の負担になってしまうのです。
 本当に気づかいができる人というのは、引きどころも知っています。
「そっとしておく」「放っておく」という気づかいができるのです。(中略)
  放っておくというのは、気をつかわない、無関心とは違います。
 気づかっているからこそ、放っておく。
 ただし、気をつかっているということが表には出ないのです。
 だから、相手も余計な気づかいをしなくて済む。
 これは日本的な気づかいの一つの到達点だと思います。

気づかいとは、他者を慮ること。

相手が欲しいと言う前にその気持ちを汲み取り、さりげない行動で示す。

これは日本人にしかできないもの。

欧米には「気づかい」に該当する言葉はない、という。

欧米にも「サービス」という言葉はある。

しかし、気づかいはサービスではない。

とても似ているが根本的な部分で違う。

その違いがもっともよく現れるのは、「そっとしておく」「放っておく」という行為であろう。

よく家電量販店などに行き、商品を物色していると、すぐに店員が近寄って来る。

別に商品の説明など求めていないのに、あれこれを説明をしだす。

私などは、店員が近寄って来ると、その意図がミエミエなので、すぐにその場を去っていく。

おそらく、その店は、それによって販売の機会を損失しているということに気づいていないのであろう。

これなど明らかに過剰サービスである。

逆に、相手の心を慮り、ある時には「放っておく」ことのできるのが日本的気づかいである。

たとえば、日本には無数の旅館が存在しているが、その中でも特に評価の高い旅館というのは、このあたりが実にうまい。

チェックインを済ませ、宿帳などを記入しつつ、世間話なんかをしながら部屋まで案内してくれるが、そのあとはそっと放っておいてくれる。

サイズ別、色別に浴衣や足袋が用意してあり、備えも万全なのでこちらからあえて呼ぶ必要もない。

つかず離れず、絶妙な距離感でお客様をリラックスさせてくれる。

来てほしい時以外には来ない、手を出してほしい時以外には手を出さない。

この絶妙なバランス感覚が日本的な気づかいの特徴ではないだろうか。

今、多くの日本の企業が海外に進出しているが、最も差別化できるのは、この「気づかい」というソフトの部分なのではないだろうか。

2013年5月25日 (土)

評価と贈与の経済学/内田樹、岡田斗司夫

Photo 「イワシ化する社会」っていうのは「脳化する社会」というのとおなじことだと思うんですよ。みんなが頭で考えて、脳だけで判断するから、その選択が自分の生きる力を高めるか、生き延びる可能性を高めるかということを吟味しないで、ふらふらマジョリティについてゆく。だから、ふつうならそんな極端なところまで行く前に気がつくはずの、極端に反生命的なことをして、「心が折れ」たりする。身体から送られてくる「こっちに行ったほうがいいよ、そういうことしないほうがいいよ」という生命についての情報を無視して、頭だけで考えているからだと思う。

本書は二人の対談形式になっている。

対談の中で二人は、新しい共同体のありかたを探っていく。

貨幣も、情報も、評価も、動いているところに集まってくる。

ならば、私たちはどのような動きをする集団を形成すればいいのか、と。

ここで、今の社会を読み解く鍵となるのが「イワシ化する社会」というもの。

イワシは小さい魚だから、普段は巨大な群れになって泳いでいる。

どこにも中心がいないのに、うまくまとまっている。

自由に泳いでいる。

これは見事に、いまの日本人なのではないか、と。

そのときの流行りとか、その場限りの流れだけがあって、価値の中心みたいなものがなくなっているんではないか。

イワシ的にシステム全体がなんとかうまく動いているおかげでまとまっているように見えるが、突発的になにかが起きたら容易にバラバラになる。

「イワシ化する社会」とはこんなイメージである。

確かに当たっている部分がある。

特に、日本人はみんな考えているようで考えていない。

それは思考と身体性が分離してしまっているからではないか。

心技体という言葉があるように、元々思考するとは身体性抜きには考えられないもの。

自分の身体に刻み込まれた記憶と頭で考えたことを同化させその化学反応によって新しいアイデアや考えが生まれる。

ところが、今の日本人は頭だけで考えている。

これは合理的であるようで全く合理的でない。

どこかで落とし穴に落ちてしまう。

そんなモロさや危うさが今の日本社会にある。

これは同感できる部分である。

2013年5月24日 (金)

英傑の日本史 激闘織田軍団編/井沢元彦

Photo  本能寺の変には、様々な黒幕がいたという説がある。しかし、そのどれにも私が納得できないのは、光秀が同じ京にいた信長の長男信忠に対し、最初は何の攻撃も仕掛けなかったことだ。
 黒幕が秀吉だったとしよう。確かに信長が滅んだことによって結果的に天下を得た。だが、それを可能にしたのは、信長と共に長男信忠が討たれたからだ。もし信忠が生き残っていたら織田政権の後継者は信忠で決まり、誰も口を挟めない。逆に言えば秀吉が黒幕なら光秀に必ず信忠を殺させなければ ならない。結果的に信忠も殺されたが、実はあの時、信忠は逃げようと思えば逃げられた。光秀は何の手配もしていなかったのだ。
 やはり、単純な結論ながら、あれは光秀の発作的犯行だろう。「発作的」であったからこそ、さすがの天才信長も「読む」ことができなかったのである。

本書は、織田信長を軸に、その周辺の人物の謀略の数々と人間関係の妙を記しており、読み物として面白い。

「私は歴史上の人物としては信長が好きだけれども、この人物が現在のどこかの会社の社長だったら、絶対に仕えようとは思わない。」と著者は述べているが同感である。

その戦略は独創的で他の追随を許さない。

誰よりも早くに会社にやってきて、一番最後に帰る。

しかも、人にも厳しいが自分もバリバリ働き、決して手を抜かない。

こんな気の休まらない上司はいない。

そして、人間を道具のように見ているから、役に立たなくなった部下はばっさりと切る。

アップルの創業者ジョブズ氏も、傍から見ると魅力的な経営者だが、独裁者としても有名だった。

おそらく彼の周りの部下たちは戦々恐々としていたのではないだろうか。

同様に、信長より年上の光秀は体力気力の衰えと共に、その恐怖におびえただろう。

光秀は、歌も詠み王朝文化を愛する古典的教養主義者であった。

光秀という男は目先の損得よりも、「正義」や「哲学」で動く人間だったようだ。

まさにインテリである。

それに対して、信長は将軍義明や天皇さえも自分の野望を達成するための「道具」として利用する男である。

つまり、光秀の正義に反する男であったということだ。

信長はいかにも野蛮で、光秀とは水と油である。

そんな中、信長が少人数で本能寺に宿泊するという、千載一遇のチャンスに恵まれた。

もしこのことがなければ、光秀はあんな過激な行動には出なかったろう。

だが、天はそれを与えた。

本能寺の変は光秀の突発的な行動だった。

そのように著者は述べている。

ただ、本当のところは誰にもわからない。

歴史には解明されていないところが多くある。

そして、その部分はそれぞれが想像することが許されている部分でもある。

それが歴史の面白さではないだろうか。

2013年5月23日 (木)

ヤバい経営学/フリーク・ヴァーミューレン

Photo  経営合理化についてもう少し考えてみよう。効果は実証されているだろうか。また、今まで本当に効果があっただろうか。実はその答えは、一言で言えば、「効果なし」だ。(中略)
 カンザス大学のジェームズ・ガスリー教授とテキサス大学アーリントン校のディーパック・ダッタ教授は、この問題をもっと体系的に調査した。二人は、人員削減を行った122社の詳細なデータを集め、さまざまな統計的手法を使い、人員削減が利益率向上に貢献したか調べた。その結果は「貢献しない」だった。(中略)
 なぜ人員削減策がうまく機能しないのか。最初に言えるのは、想像のとおり、残った社員のモチベーションを下げるからだ。人員削減の後は社員のやる気も減退し、自己都合退職が増えることが、アカデミックな研究で明らかになっている。

米国のビジネス界では常識とされている経営手法がある。

M&A、リストラ、成果主義、等々である。

しかし著者は、これらの「常識」に対して疑問を投げかけている。

例えば、人員削減という手法。

業績を改善させる最も手っとり早いやり方は、固定費の大部分を占める人件費を削減すること。

つまり、人員削減という手法である。

これにより企業の収益は一気に回復する・・・と経営者は考える。

米国の企業ではこれは当たり前の手法として大部分の企業が実践している。

しかし、綿密な調査を行った結果、人員削減が利益率向上に貢献したケースは無かったという。

それどころか、それによって経営がおかしくなってしまった例があった、という。

最近よく出てくるグローバリズムという言葉。

日本企業も世界に出て行く以上、グローバリズムに対応しなければならない、とよく言われる。

そして、多くの場合、グローバリズムとはイコール、アメリカンスタンダードである。

しかし、米国発の経営手法がすべてうまくいっているわけではない。

中には弊害もある。

そして、日本の伝統的経営手法でよいものはいくらでもある。

日本の経営者はもっと日本の伝統的な経営手法に自信をもってよいのではないだろうか。

こんなことを考えさせられる本である。

2013年5月22日 (水)

東電OL禁断の25時/酒井あゆみ

25  企業戦士にとって一番の苦痛は〝暇〟だとよく言われる。彼らは、会社のために忙しく働くことこそが自分の存在価値のように思っている。子供の頃から頭脳明晰でエリートコースを歩んできた裕子さんも、東電に入社後は、ひたすら仕事で評価されることだけを考えて懸命に仕事をしてきた。 前出の東電社員も、「同期の中では間違いなくトップだったと言われていますし、本人もそれを自覚していたのでしょう。常に肩肘を張って仕事していたようです」と証言している。
 そんなふうに生きている人種は会社から切り離されて時間がポッカリ空いた時、自分の身の置き場所がわからず、程度の差こそあれ、みな一様に戸惑うようだ。
 裕子さんの場合は、ことにその戸惑いが大きかったのだろう。

東電OL殺人事件については、ジャーナリストの佐野眞一氏の著書が既に出ているが、本書は夜の渋谷で同僚だった著者が、風俗嬢の立場から被害者の心の闇に迫っている。

被害者が風俗に走ったのは、東電の関連会社、日本リサーチ総研に出向してからだと言う。

東電から日本リサーチ総研に出向した社員はこれまで一人もいなかったという。

先輩や同僚からの情報はほとんどなかったろうし、共通の知り合いもいない。

そんな中で、知らない人たちの中に一人ポーンと放り出される不安はそれだけでも大きなプレッシャーだったのではなかろうか。

そんな中で被害者が精神のバランスを崩していったのではないか。

そしてそのバランスを保つために〝何か〟が必要だったのではないか。

被害者は職場では入社以来「エイリアン」と呼ばれていたという。

つまり普通のOLとは一線を画すエリートだった。

あの時代、女性が保守的な風土の強い大企業で自らのキャリアを切り開くというのは、思った以上の大変なことだったのではないだろうか。

一頃、〝企業戦士〟という言葉がはやった。

高度成長期の企業の躍進を支えた男性社員のことをさしたものだが、

ある意味、この被害者も女性版〝企業戦士〟だったのではないだろうか。

しかも、その戦場で戦死してしまった戦士である。

今、女性の社会進出が課題になっているが、いろんな意味で考えさせられる本である。

2013年5月21日 (火)

ビジネスマンのための「儲かる発想」/鳥井シンゴ

Photo  水はある人にはタダの価値しかないのに、健康志向の方などは1000円の水でも惜しげもなく買ったりします。
 同じモノでも、年代や意識で需要がまったく違うのです。人は自分たちの常識の価値観でモノの価値を判断します。

一昔前であれば、「水と安全はタダ」が常識となっていた日本で、水が高額で売れるなど考えられないことだった。

タダ同然だったお茶が、あれだけ売れるとは誰も考えていなかった。

これらはすべてちょっとしたアイデアから生まれている。

本書ではアイデアを形にして儲ける手法を紹介している。

会社のロゴをQRコードにする、とか、

広告入りの傘を売る、とか、

普段の生活で感じる「困ったな」とか「こうなったらいいな」という思いを形にすることによってビジネスは生まれる。

今の時代、多くのモノがコモディティー化してしまっている。

モノだけでは差別化が難しい時代である。

単なるモノであれば、市場にあふれている。

だから、どうしても値引き競争になる。

それだけにアイデアが勝負になる。

これからは、アイデアを形にするスキルがますます必要になってくるのではないだろうか。

逆に言えば、アイデアさえあれば、いくらでも儲けることができる時代になってきたということであろう。

2013年5月20日 (月)

ディズニー サービスの神様が教えてくれたこと/鎌田洋

Photo  大震災当日の入園者は、東京ディズニーランド、東京ディズニー・シー合わせて7万人。帰宅困難になりパーク内に留まったのは2万人。
 パークの中はいつもの歓声が消え、余震のたびに緊張感とざわめきに包まれた。
 閉園時間になってしまったら、どうしよう。泣きそうな声も聞こえてきた。
 けれども、パークの灯は消えなかった。
 日が暮れていく頃には、ゲストの心の中にほのかな希望と安心が灯っていたのだ。
 その灯りを点したのは、パークで働く1万人のキャストたち。(中略)
 自らの家が被災したり、被災地に家族や友人がいるキャストもいただろう。それでも、彼らは目の前のゲストを守りきることに全身全霊をかけた。
 すべてはゲストのために--。
 あのパニックの中、赤ちゃんから子どもたち、お年寄りの方までが集う、これほどの規模の施設で大きな混乱や負傷者もなかったというのは、1つの奇跡。

本書はキャストとゲストの交流を描いた4つの感動物語からディズニーの奇跡のおもてなし、その極意を紹介している。

東京ディズニーランドで働くキャストの9割以上はアルバイト。

多くの企業は、アルバイトには補助的な業務しかやらせない。

また、それほどのパフォーマンスも期待しない。

「給料がこれくらいだから、この程度のことをしてくれれば良しとするか」という感覚である。

しかし、東京ディズニーランドで働くアルバイトは、ゲストを感動させるサービスを提供する。

マニュアルもあるが、それを超えるサービスを提供している。

そこから数々の伝説が生まれている。

そして、それによって、リピーターが絶えない。

リピート率9割以上を誇り、日本でいちばん顧客満足度が高いと言われている。

多くのテーマパークが赤字であるにも関わらず、東京ディズニーランドは毎年増益を繰り返している。

人はお金だけが目的で働くのではない。

人に認められたり、仕事自体の面白さや使命感、目的意識、そのようなものが人のやる気を喚起する。

ディズニーの数々の伝説は、このことの何よりの証明であろう。

2013年5月19日 (日)

本質を見抜く「考え方」/中西輝政

Photo 「全員一致したら、その決定は無効」
 これはユダヤ人がサバイバルのために身につけてきた、歴史の大教訓です。何かを決める際に、全員一致の決定は無効になり、また一から議論をやり直さなければいけません。全員一致するようなことがあれば、それはもう誰一人として、真剣に考えていない証拠であるとみなすわけです。
 ユダヤの子供たちは、小さいころからその教訓をたたき込まれ、「みんなが一致している見方は、絶対に間違っている」と教えられて育っています。一人ひとりが真剣に考えれば、いろいろな意見が出て当然だと思っているからです。

考えてみたら、これは非常に合理的な考え方である。

人はみんな違った考え方を持っている。

だから、全員一致なんてあり得ない。

もし、全員一致になったとしたら、それは、真剣に考えていないか、あるいは、何かの力が働いているに違いない。

そういう発想である。

おそらくこれは何度となく民族の存亡の危機に直面したユダヤ人の知恵なのであろう。

しかし、それに比べると、日本は全員一致を良しとする風土がある。

それどころか会議で一人だけ異を唱えると「空気を読めないヤツ」と白い目で見られる。

何事も空気を読むことを求められる日本人ならではの意思決定の方法である。

しかし、このような決め方、意思決定の機能としては非常に脆弱だと言わざるを得ない。

2013年5月18日 (土)

なぜ、「これ」は健康にいいのか?/小林弘幸

Photo  何もしなければ、私たちの自律神経の力は、10年でおよそ15%ずつ低下していきます。それがいったい何を意味するか、おわかりになりますか。
 免疫力がしだいに低下し、健康を維持する力がしだいに失われていきます。
 見た目だけでなく、体全体の老化が進んでいくでしょう。
 体の動きがだんだん鈍くなっていくはずです。
 そして、ここぞというときの集中力を発揮できなくなります。
 つまり、いいことは何ひとつありません。自律神経を意識的にコントロールするということをしなければ、人生の質は10年でおよそ15%ずつ低下していくということなのです。

超高齢化社会を迎えようとしている今、多くの人が健康に関心を持っている。

そして、私たちの人生を有意義なものにするのに、自律神経は極めて大きな役割を果たしている、という。

自律神経は私たちの生命活動を24時間、365日休むことなく、縁の下で支えてくれる大切なシステム。

自律神経は「交感神経」と「副交感神経」に大別される。

交換神経が体を支配すると体はアクティブな状態になる

副交感神経が支配すると体はリラックスした状態になる。

そして体がもっともよい状態で機能するのは、交感神経と副交感神経が両方とも高いレベルで活動している状態のとき。

そして自律神経をコントロールするポイントは、一言でいうと「ゆっくり」である。

ジョギングよりウォーキングのほうが健康効果が高いのも、これによって説明できる。

なぜ、ヨガが健康にいいのか?

それもキーワードは「ゆっくり」である。

ゆっくりを意識し、ゆっくり呼吸し、ゆっくり動き、ゆっくり生きる。

そうすると、下がり気味の副交感神経の活動レベルが上がり、自律神経のバランスが整い始める。

また副交感神経の働きを高めれば、高血圧は改善されるという。

私自身も高血圧なので、ゆっくりを意識するようにしたい。

なかなか難しいことなのだが。

2013年5月17日 (金)

本当は間違いばかりの「戦国史の常識」/八幡和郎

Photo  よく知られているように、山口県は9人もの首相を出している。伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三、菅直人で、他の都道府県を圧倒している。
 出自でいうと、伊藤は父が農民出身だが、のち足軽の養子になった。山県は中間という武家奉公人、桂は上士、寺内は下級武士、田中は六尺という駕籠かき、岸・佐藤は無給通という下級武士、安倍は床屋、菅は宇部で生まれ育ったが、父は岡山県出身だから長州藩とは関係ない。
 こうして並べて見るとわかるように、人気のある人は少ない。長州人は日本人離れした理屈屋にしてリアリストなのであり、あまり日本人好みではないのだ。
 つまり、およそ日本人的な情緒的思考とは一線を画しているので、国家の命運を託するに足る安定した判断は得意である。

確かに長州出身の総理を見てみると、一部の例外を除いて人気のない人が多い。

でも、一国のリーダーにとって人気とは何だろうか。

例えば総理として立ったいじょう、人気がないよりあった方がいいに決まっている。

人気があるということは、自分や自分の考え方、政策が支持されているということであり、それだけ政権運用は容易になる。

人気があれば野党や反対勢力も表立って批判しにくくなる。

反対者の力が弱くなれば、自分のやりたいことができる。

でもこのことがだんだんエスカレートしてくると、今度は人気取りのための政策を打ち出すようになる。

ポピュリズムに走るようになる。

そして歯止めがかからなくなる。

逆に、国民に人気のない政策は取りづらくなる。

ここら辺りから、段々おかしくなってくる。

こんな歴史を何度も見せられてきた。

今の安倍総理、山口出身の政治家にしては人気があるところが気にかかる。

どこかで大きな落とし穴にはまり込まなければよいのだが。

2013年5月16日 (木)

心の扉をひらく「万能の鍵」/ラルフ・ウォルド-・トライン

Photo  すべては見えるかたちに現れて現実化する前に、見えないかたちとして存在する。この意味でいえば、見えないものが現実で、見えるものは非現実ということになる。見えないものは「原因」であり、見えるものは「結果」なのだ。見えないものは永遠で、見えるものは移ろい、変化する。
「言葉のパワー」という言葉は科学的な事実を指している。思考の力を通じてわたしたちは創造的なパワーを得る。語られた言葉はこの内なる力の働きが外に現れたものにほかならない。その意味で、語られる言葉は、思考の力が焦点を結び、特定の方向に向けられる手段だといえる。

〝見えないものが現実で、見えるものは非現実〟

〝見えないものは「原因」であり、見えるものは「結果」〟

これと似たような言葉、どこかで読んだ本にもあったな、と思い返してみたら、ジェームズ・アレンの「原因」と「結果」の法則、だったことを思い出した。

そしてこれらの考え方の根本は聖書から来ている。

また、すべての原因は自分の中にあるという考え方、成功した経営者にもこのように考える人は多い。

ユニチャームの創業者、高原慶一朗氏も、その著書の中で「原因自分論」ということを言っている。

このように考えると、世の中には目には見えないが、確かな法則があるのだということはいえるのだろう。

本書が出版されたのは1897年のこと。

100年以上続けて読まれている本だ。

長い間読み継がれているのも、その中に普遍的なものがあるからではないだろうか。

2013年5月15日 (水)

生命の暗号/村上和雄

Photo_2   人間関係の基本はギブ・アンド・テイクと一般には考えられているようです。たしかにうまくいっている人間関係や取引関係は、ギブ・アンド・テイクで収まっていることが多いものです。
  「親孝行」も「義理」も「恩義」も、根底にギブ・アンド・テイクがあると思われています。でも心構えとしてはギブ・アンド・ギブが正解ではないかと私は思っています。遺伝子をONにもっていきたいのなら、ギブ・アンド・ギブのほうがはるかに効果的です。

ギブ・アンド・テイクというといかにも合理的な考え方のように思われる。

ところが、遺伝子的には必ずしも合理的ではないという。

著者によると私たちの持っている遺伝子にはONとOFFの作用があるという。

そして遺伝子をONにすれば誰もが無限大の能力を開花できるという。

遺伝子をONにさせる要素は3つある。

遺伝子自身と環境と心の働きである。

この中で一番誤解されているのは遺伝子自身。

よく「親の遺伝だからしょうがない」という人はがいるが、これはその典型。

自分の中には優れた要素があることを忘れてしまっている。

そうでなければ、天才の出現は説明できない。

天才は代々引き継がれてきた遺伝要素が何かのきっかけにONになった人。

「トンビがタカを生む」というのがこれ。

人間の遺伝子の中には、代々の先祖だけでなく、人類すべての可能性が宿っている。

だから、自分の中の遺伝子をONにすることにもっと注力すべし、ということ。

そして、遺伝子をONにするには、ギブ・アンド・ギブの考え方が効果的。

ギブ・アンド・ギブの典型は母親と赤ん坊の関係。

母親は赤ちゃんにひたすらギブ・アンド・ギブで見返りを求めない。

しかし、それによって至上の満足感、幸福感を与えられる。

そういう心境のとき遺伝子のONが起こっているのだという。

つまり、遺伝子的には、ギブ・アンド・ギブが最も合理的な考え方だといえる。

考えてみれば、世の成功者といえる人は、ギブ・アンド・ギブを実践している人が多いのではないだろうか。

2013年5月14日 (火)

世界でも珍しい「謝罪会見」という光景/マッド・アマノ

Photo   スイスのシンドラー社のエレベーター事故の時も、「とにかく謝れ、ひと言謝ればいいんだ」の大コールだった。しかし、同社はすぐに謝罪はしなかった。欧米ならそれは当たり前のこと。原因不明の段階での謝罪は現実的ではないし、科学的ではない。たとえば飛行機事故などの場合、操作ミスとか機械の故障ならいざ知らず、人知を超えた気候のせいということもあり得る。事故原因が不明の段階での「とりあえず謝罪」はナンセンスだ。

謝罪会見というのは日本独特のものらしい。

アメリカでも遺族に哀悼の意を伝えることはある。

「お気の毒に」とか「同情します」と。

しかし、これは謝罪とは違う。

ましてや、日本のようにテレビのを通じて公的に謝罪会見を開くことはないという。

不祥事を起こしたら社会的に制裁を受けさせればいいという考え方だ。

そして原因究明をし、二度と同じ過ちを繰りかえさないようにする。

これは極めて合理的な考え方である。

ところが日本は違う。

たとえば、企業が不祥事を起こしたら場合、「社長出てこい」となる。

そして社長はテレビを通じて公に謝罪をする。

しかし、その謝り方が横柄であったりすると、「何だ、あの謝り方は」「反省が足りない」となる。

マスコミもそれを増長させるようにバッシングをする。

いかにしおらしく、反省した態度をするかが問題となるのであって、真摯に謝っている姿勢さえ示せば、今度は「あれだけ謝っているのだから」と、世間は同情し味方をしてくれる。

それによって多くの人は溜飲を下げ、幕引きとなる。

ところが肝心な原因究明はどっかにいってしまう。

そして同じことを繰り返す。

今や当たり前となった謝罪会見。

日本人のメンタリティーを最も象徴する光景ではないだろうか。

2013年5月13日 (月)

「苦労話」はすればするほど職場がよくなる/高橋克徳

Photo_2  MIT(マサチューセッツ工科大学)のダニエル・キムは、成功する組織には次のような共通のモデルがあると言っています。
 成功する組織は、関係の質が高い。関係の質が高ければ、いい会話やいい対話と組織学習が生まれる。そうすると思考の質が上がる。思考の質が高まれば、いいアイデアが生まれる。それが行動の質を高める。
 行動の質が高まれば、いい結果が生まれやすくなる。しかも、その行動のノウハウがシェアされると組織全体の結果の質が高まっていく。お互いの知恵が結びついて生まれた結果を通じて、お互いを認め合い感謝し合うことができれば、関係の質が高まる。いい結果が持続的に生まれ続けるには、このサイクルが回り続けることが必要なのです。

本書は、同じ著者の前著「不機嫌な職場」の解決編のような形で書かれている。

「不機嫌な職場」では何が起こっているのか?

職場がタコツボ化した結果、お互いのことが見えなくなる。

同じ職場の同僚のやっていることがわからないので、他者に対して批判的な人が増えてくる。

自分は精一杯やっているのに、誰も見てくれない、認めてくれない、こうした意識が自己防御的な思考を増やしていく。

そうすると、決められたことや自分の成果につながることは行うが、余計なことはしなくなる。

自分の成果につながらないことは行わない人ばかりが増えていくと、目の前の仕事や決まった仕事にだけ閉じこもっていくので、他者との関係も希薄になる。

ますます誰からも見てもらえない、認めてもらえないと思うようになってくる。

自己否定感や無力感を強めていく。

これが「不機嫌な職場」で起きていること。

では、逆に、「ご機嫌な職場」になるためには何が必要か?

まず、お互いのことがよく理解できるようになること。

同僚のや部下、場合によっては上司が、これまでどんなことに悩み、苦しみ、ある時には失敗し、苦労してきたのか。

このことがわかって始めてお互い協力しようという意識が生まれる。

協力関係は強制では生まれない。

お互いのことが見えるからこそ、他者を認め、自分に対して謙虚になる。

そして、もっとがんばろうと思う人が増えてくる。

周囲の状況が見えている、個々人のがんばりがよく見える、だから、まだまだ自分も足りない、自分もがんばらないといけないと思う。

こうした意識が、周囲に自発的な行動を促していく。

目標として決めたこと以外でも、周囲が必要としてくれる、よりいい仕事につながるものであれば、自分からかかわる、手を貸す、知恵を出す。

そうすれば周囲からもいいフィードバックがもらえる。

「ありがとう」「助かったよ」「すごいね」「頼りになるね」

こんな言葉が自己肯定感と効力感を高め、さらにもっとがんばろう、期待に応えようという気持ちを引き出していく。

関係の質が高いとは、こういうことなのではないだろうか。

そのためには、お互いもっと苦労話をしたり、雑談したりする関係作りからはじめよと著者は勧めている。

昔を懐かしむわけではないが、確かに最近の職場は効率化ばかりを優先した結果、余裕がなくなり、余計な無駄話が減ってきたような気がする。

そして社員が疲弊してきてしまっている。

うつ病を訴える社員がどんどん増えてきている。

ブラック企業と揶揄されるような企業になる前に、もう一度気軽に雑談ができる職場作りから始めてはどうだろうか。

2013年5月12日 (日)

GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く/櫻井よしこ

Photo  現存する『眞相はこうだ』の最終回の放送で、GHQが日本国民に何を伝えようとしたのか、そのポイントは以下のようになる。

◎戦時中の日本軍大本営発表は嘘ばかりだった
◎捕虜になった日本兵は連合軍の待遇がよいことに驚き、自由の身に感謝の日々を送った
◎ポツダム宣言はこの上なく人道的で寛大かつ非懲罰的な降伏条件である
◎原子爆弾の投下は、膨大な被害を出した戦いをなお続けようとするなら、日本は迅速かつ徹底的な破壊を被るという連合軍側の予告を、日本の指導者が無視し、何ら回答しなかったために実行されたのだ
◎戦時中の軍指導者たちが戦争犯罪人の指名を受けるのは当然である
◎日本国民はこれまでの過ちを反省して、青年たちは世界に誇れる新日本の建設に立ち上がるべきだ

 こうした点を強調したうえで、これから日本は占領軍の指導によって、新しく生まれ変わるとして「真実に根ざした新日本を建設しよう」という青年たちへの呼びかけで、番組は終わる。

「眞相はこうだ」は、占領政策の一環として、敗戦後まもない日本から軍国主義思想を排除するため、GHQみずからが企画し、台本をつくり、演出を担当したラジオ番組である。

番組は10回にわたり、その後番組は「眞相はこうだ・質問箱」「眞相箱」「質問箱」と名称と体裁を少しずつ変えながら3年間続けられた。

これらの番組のもとになったのが「眞相箱」である。

本書は、この原作本を復刻し、それに著者の解説を加えるという形で構成されている。

読んでみて感じるのは、やはり米側の一方的な見方によって書かれているということであり、真実を巧妙にすり替えているところが見て取れる。

最近よく日本人の自虐史観が問題になる。

戦後の知識人と呼ばれる人たちがそのような史観を定着させたと言ってもよいのだが、その思想にもこの「眞相箱」が少なからず影響を与えているように感じる。

一人の人間の人格形成においても、自分に自信が持てないと、健全な人間として成長できない。

同様に、国家も、国民が自分の国に誇りや自信を持てないと、決して健全な国家は形成できないだろう。

行き過ぎたナショナリズムは確かに問題だが、日本の場合、あまりにも自分の国を否定する時代が長すぎたように感じる。

今、憲法が問題になっているが、この機会に、日本人のアイデンティティーについてしっかりと考える必要がありそうだ。

2013年5月11日 (土)

毎朝1分で人生は変わる/三宅宏之

Photo 「0→1の経路」
 実はこの仕組みは、「新しく何かを始める」ときにも、同じ習性が働いていると考えることができます。
「早起きをしたい」「英語の勉強を始めたい」「仕事の効率をよくしたい」というときに、まずその習慣の「0→1の経路」をつなぐことに集中する。
 一度経路がつながってしまえば、あとは先ほどと同じようなサイクルが今度はよい方向に回り始め、ほとんど自動的に、最終的にめざす目標まで進めていってくれます。
 このとき、「1」をどこに設定するかはあなた次第です。自分の現在の状態、目標のレベルに合わせて、自由に設定してかまいません。ただし、「必ず実行できる」高さのハードルにする。
 大事なのは、とにかく現在の「0」の状態から「1の行動」をまず起こしてしまうこと。

通常、私たちは、モチベーションが高まったから人は行動すると考えがちだ。

間違いではないのだが、モチベーションと行動との関係は、逆のことも言える。

つまり、まず行動することによりモチベーションが高まるということである。

本書は、そのことをうまく活用することを勧めている。

ちょっとしたアクション→意識の変化(やる気)→さらなるアクション→自信→新たなビジョン→そのためのさらなるアクション、というよいサイクルを回す。

そのためには朝の時間の活用がポイントだと。

そしてその時間は1分で良いのだと。

朝の気持ちが前向きなら、気持ちよく1日のスタートを切ることができ、その日1日全体の循環までよくなる。

そのためのキーワードが「0→1の経路」である。

何か新しいことを始める場合にも、悪い習慣を絶つためにも「0→1の経路」は有効。

例えば、タバコをやめたいとき、「1本だけでも」「1本だけなら」、そんな思いで最初の1本を自分に許してしまうと、3本、5本、10本・・・・・・と増えていくまでに時間はそうかからない。

「0→1の経路」がつながってしまうと、あとは「1→5→10→100」と加速度的に進み出してしまう。

だからこそ、最初の「0→1の経路」を絶つことが習慣を変えるときにはもっとも肝心。

これは言い換えれば、何かをやめたいときには、まずとにかく「0→1」の間をつながないようにだけ徹底して集中すればいい、ということ。

逆に、何かを始めたいならば、まずとにかく「0→1」の間をつなぐことだけ徹底して集中すればいい、ということ。

これはいろんな場面で活用できそうだ。

2013年5月10日 (金)

サッカー戦術クロニクル/西部謙司

Photo  オランダのトータルフットボールは近代サッカーの革命だった。74年のオレンジ軍団は「未来のサッカー」と称賛された。しかし、オランダのサッカーがそのまま現代で行われているかというとそうではない。ある意味、早すぎたチームであった。
 しかし、その後80年代末に現れたACミランの戦術は、現代サッカーにほぼそのまま受け継がれているといっていい。
 やはり1人の天才的なコーチがすべての出発点になった。アリゴ・サッキなくして、ミランの〝ルネッサンス〟は語れない。(中略)
 サッキは選手としての輝かしいキャリアを持っていなかった。それどころか、プロ選手ですらなかった。リヌス・ミケルスがそうだったように、名選手でなくても名監督となった例はいくらでもある。ただ、プロ選手の経験すらないとなるとさすがに珍しい。
「よい騎手である以前に、よい馬である必要はない」
 サッキは記者会見で名言を吐いたが、監督就任当初の風当たりは非常に厳しかった。

本書はトータルサッカーを軸に、サッカーの戦術の変遷について記されている。

現代サッカーを語る上で、エポックとなる出来事は、74年西ドイツワールドカップのオランダ代表チームのトータルサッカーであろう。

大会の優勝チームは西ドイツだったが、人々の記憶に残っているのはむしろオランダチームであった。

特にキャプテンのヨハン・クライフを中心に展開されるトータルサッカーは衝撃的だった。

この大会を機にトータルサッカーという言葉が世界中に広まった。

そして、それを更にチームの戦術として確固たるものにしたのはACミランの監督、サッキであった。

面白いのは、当時のサッカー界にとって革新的なトータルサッカーを取り入れ定着させて功労者であるミケルスもサッキも名選手ではなかっということ。

それどころかサッキはプロ選手ですらなかった。

これが日本のスポーツ界と大きく違うところ。

日本では野球、柔道、相撲というスポーツの監督は、偉大な成績を残した名選手がなることが多い。

しかし、これが大きな問題を最近ひき起こしている。

でも、考えてみたら、名選手が必ずしも名監督・名コーチになれるわけではない。

サッキ監督が言っているように「よい騎手である以前に、よい馬である必要はない」のである。

日本のスポーツ界が、なかなか変われないのも、こんなところにあるのかもしれない。

2013年5月 9日 (木)

日本国憲法とは何か/八木秀次

Photo 日本国憲法は、その字面と解釈運用との間に大きな齟齬があります。時代の動きに対しては、常に解釈運用でしのいできたのです。
 しかしこれは、法治主義という近代法の大原則から見ると、甚だ不誠実な対応です。あるルールが時代に対応できないのであれば、必ずそのルールをかえる。かえたルールを厳格に遵守しながら政治を行なっていく。これが法治主義の大原則です。諸外国が憲法改正を何度もしているのはそのためです。しかし日本国憲法の実態は、ルールを都合よく解釈し、そもそもつくった時とは全く正反対の解釈ができるようにしてしまっているのです。これは法治主義の原則から大きく逸脱しています。

今、憲法改正の論議が盛んだ。

特に第9条の問題はもう放置できないところまできている。

憲法では「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と謳っておりながら、強大な戦力を保持している。

外国人が第9条を読んだら、これをどう受け止めるだろうか。

おそらく日本は憲法を守っていないと考えるだろう。

著者によると、憲法には国内的な側面と対外的な側面の、二つの側面があるという。

特に対外的な側面は重要だ。

憲法を見れば、その国の政治の仕組みや伝統がどうなっているのかがわかるからだ。

その意味では憲法は、その国の政治のあり方を諸外国に知らせるためのショーウインドウの役目をしていると言えよう。

ところが日本の場合は、憲法に書かれているもの、つまりショーウインドウに並んでいるものと奥にしまっているものとが全然違う。

憲法というものが対外的な顔を持っているとするならば、諸外国に対してこれほど不誠実な対応はない。

憲法で戦力は持たないと明言しておきながら、強大な戦力を持っている。

これでは諸外国から信用されるはずがない。

日本という国は憲法でどんな規定を設けても、解釈運用でどうにでもする国だと思われてしまう。

日本は何をやるかわからない国だ、という不信感を招く恐れさえある。

これだけ解釈運用がはびこると法治国家とさえも言えないかもしれない。

憲法の条文を改正することなく、いわゆる解釈改憲を重ね、政府解釈で現状を追認するというやり方も限界にきているような気がする。

2013年5月 8日 (水)

「ついていきたい」と思われるリーダーになる51の考え方/岩田松雄

195351_01_1_2l リーダーの行動力、と聞いて、具体的に何をすればいいんだろう、と思う人もいるかもしれません。
 私は端的に、部下から「ついていきたい」と思われるリーダーに問われる行動は、ひとつの言葉に集約されると思っています。
「何か、困ったことはない?」
 多くの場合、部下が頭を悩ませているのは、ポジティブなことではありません。ネガティブなことであることがほとんどです。
 だからこそ「何か、困ったことはない?」が有効になるのです。部下は自分からはなかなか困ったことを言いにくい。でも、リーダーのほうからこういった声かけが絶えずあれば、相談してみようと思うでしょう。
 私はこれを、口癖にしていました。どこに行っても、現場を訪ねたときでも、「困ったことはない?」と聞いてみる。それはリーダーにしかできないことだと思っていたからです。

上司は部下に対して、「このリーダーについていきたい」と思わせなければならない。

役職が上であれば部下は指示命令により従うだろうが、心から「ついていきたい」と思って従っているかどうかは別である。

では、「ついていきたい」と思わせるためにはどうすればいいのか?

部下が本当に困っている問題を解決してあげればよいのである。

あるいは解決するヒントを与えればよいのである。

著者はことあるごとに「何か困ったことはない?」と声をかけたそうだ。

問題を解決するには権限がなければならない。

「ヒト」「モノ」「カネ」を動かす権限が必要だ。

しかし、部下は権限を持っていない。

だから問題を解決できずに困っている。

だが、その権限をリーダーは持っている。

もし、部下の「困っていること」を解決してあげることができれば、「このリーダーについていきたい」となるだろう。

「何か困ったことはない?」

この言葉、うまく使えば、それだけで「ついていきたい」と思われるリーダーになれるかもしれない。

困っていることを部下に聞いたりしたら、自分には解決できないようなことを言われてしまうかもしれない、という心配もあるだろうが、勇気をもってこれを口癖にする位になるべきではないだろうか。

2013年5月 7日 (火)

99%の人がしていないたった1%の仕事のコツ/河野英太郎

03525471_1 最も危険なのが、能力がないのにやる気がある上司です。やたらと口出しをして、あなたの足を引っ張ります。これはチームへの悪影響が計り知れないため、退場いただく措置を検討しなければなりません。こうした上司の相手をするための時間は、一切使ってはなりません。

「親と上司は選べない」とよく言う。

そして良い上司と出会うことは稀なことである。

ただ、サラリーマンになった以上、社長にならない限りは、必ず上司がいるものだ。

ということは、上司とどのように接していけばよいのかということは非常に重要な問題だといえる。

著者は上司を「能力」と「やる気」の2つの軸で分け、対処法を考えるように勧めている。

第一に、能力もやる気もある上司。

第二に、能力はあるものの、やる気のない上司。

第三に、能力は低く、やる気もない上司。

第四に、能力は低いがやる気はある上司、である。

例えば能力がありやる気もある上司。

こういう上司にはぜひついていくべき。

自分のキャリアモデルの一つとして、常に参考にしていけば勉強になるだろう。

しかし、このような上司に出会うことは奇跡に近い。

では、能力はあるものの、やる気がない上司はどうだろう。

これはそれなりに利用価値がある。

困ったとき、知恵袋として相談に乗ってもらうと有効である。

こういう上司は相談に来た人には一歩引いた客観的な助言をくれるケースが多いものだ。

次に、能力が低くやる気がない上司の場合は、少し注意が必要。

このような上司は、まず上司でいること自体が間違いである。

害はないが、かといって得るものもあまりない。

問題は、能力は低く、やる気はある上司。

これが一番やっかいだ。

やる気があるだけに無視するわけにはいかない。

しかも、自分が無能であことには無自覚。

そして周りに害毒をまき散らす。

私も20年間、組織の中で働いてきたが、このタイプの上司が一番多かったように感じる。

2013年5月 6日 (月)

「エコノミック・アニマル 」は褒め言葉だった/多賀敏行

Photo   例えば、英国の偉大な政治家であったウィンストン・チャーチルはよくポリティカル・アニマルと言われた。その意味するところは、その他の分野はいざ知らず、こと政治にかけては才能がずば抜けているという意味なのである。
  これと同様、「日本人はエコノミック・アニマル」というのは、「日本人はこと経済活動にかけては大変な才能があるので、日本は将来立派な経済大国になるであろう」という意味なのである。(1965年は日本は高度成長の最中で、まだ大国とは言えぬ頃であった)。ブット氏はオックスフォード大学を卒業し、その後同大学で教鞭をとったこともある人で、完璧なイギリス英語を話す人であった。

過去の歴史を振り返る時、その時代の人々のものの見方に決定的な影響を与えた言葉がある。
 
しかし、これらの言葉の中には往々にして話した本人の意図と異なった意味で伝えられたものがある。

マッカーサーの「日本人は12歳」発言や、「日本人はウサギ小屋に住んでいる」という報道、等がそうである。

例えば、日本人は「エコノミック・アニマル」という発言。

これはパキスタンのブット外相が語った言葉だが、本人は日本人を侮辱するためにこのことばを使ったわけではなかったらしいというのである。

著者が多くのイギリス人の知識人に聞いてみても、「エコノミック・アニマル」に侮蔑的意味はない、と答えるそうだ。

もし侮辱するのであれば「アニマル」でなく「ビースト(beast)」という言葉を使うそうだ。

また人が語る言葉には前後の文脈がある。

それを無視して問題となる発言だけを切り取って伝えると、全く違った意味になってしまう。

さらにその言葉だけが一人歩きしてしまう。

場合によってはそれによって政治家や企業のトップの首が飛ぶ。

こう考えると、マスコミの報道は要注意である。

テレビのニュースなどは、時間の関係もあるのだろうが、前後の文脈となる部分をカットして、問題となる発言だけを取り上げ報道することがよくある。

中には明らかな悪意を感じさせる編集もある。

情報が氾濫している今の時代であるだけに、何が本物の情報なのか、見極める目を持つ必要があるということではないだろうか。

2013年5月 5日 (日)

ずる 嘘とごまかしの行動経済学/ダン・アリエリー

Photo   「どうにでもなれ」効果という観点か見ると、人はごまかしにかけては、ダイエットととても似た方法で行動することがわかった。いったん自分の規範を破る(ダイエットでずるをしたり、金銭的報酬を得るためにごまかしをする)ようになると、自分の行動を抑えようという努力をずっと放棄しやすくなる。そしてそれ以降、さらに不品行なことをする誘惑に、とても屈しやすくなるのだ。

人は誰もが嘘やごまかしをする。

「私はいまだかつて一度も嘘をついたことはありません」という人がいたとしたら、その人は100%嘘をついている。

本書は、人はなぜ嘘やごまかしをするのか、そのメカニズムを解き明かしたものだ。

人は誰もが好ましい自己イメージを保ちたいと思っている。

一方、ごまかしをしてでも利益を得たいという欲求をもっている。

そしてこの二つの矛盾する欲求の微妙なバランスをとろうとする。

ところが、何かの瞬間、そのタガが外れることがある。

それは丁度、ダイエットをしていて、自分自身に課したメニューをつい破ってしまった時、「もう、もうどうにでもなれ」と、どんどん好きなものを食べ出しリバウンドするのと似ている。

よく「身なりは人をつくる」というが、それはある意味、合理性がある。

なぜなら、よいものを身につけることにより、人は自分の内側も外見にふさわしくなろうという強い意識がうまれるから。

嘘やごまかしに自分の身を委ねないポイントの一つは、いかに「正しい自己イメージ」を持ち続られるかということのようだ。

2013年5月 4日 (土)

憲法とはなにか/櫻井よしこ

Photo   憲法には、自由や権利が強調されて書かれています。他方、国民の義務や責任についてはあまり書かれていません。たとえば日本国憲法の第三章は「国民の権利及び義務」の章です。この章を始めから終わりまで読んでみますと、権利、自由という言葉が各々、十六回と九回出てくるのに対し、責任と義務は各々四回と三回しか登場しません。文言からも日本国憲法が権利と自由を強調し、責任と義務を相対的に軽視していることが見えてきます。学校や社会の崩壊の根本には、このような憲法の歪みが影を落としているのではないでしょうか。

昨日が憲法記念日だったことから、憲法に関する本を読んでみた。

今、問題になっているのは主に9条と96条だが、ここでは第3章(第10条〜第40条)について述べている。

この章は「国民の権利と義務」についての条文で構成されている。

権利・自由ということばが頻繁に出てくるのと比較して責任・義務ということばは極端に少ない。

このアンバランスさがそのまま教育や社会の崩壊につながっていると著者は言う。

例えば学校における先生と生徒との関係。

これは上下関係であって平等ではない。

ところが自由と平等ばかりが強調されてしまい、おかしくなってしまっている。

今、体罰の是非論が問題になっているが、それ以前の問題である。

そもそも自由と平等とは何だろうか?

自ら勝ち取るものではないだろうか?

少なくとも与えられることを当たり前として享受するものではない。

何らかの義務と責任を果たした結果として勝ち取ったもの、これが自由・権利・平等ではないだろうか。

各国の国歌は革命歌であることが多いのもそのためではないだろうか。

例えば、フランスの国歌、ラ・マルセイエーズの歌詞は「武器を取れ 市民らよ、隊列を組め、進もう 進もう!、汚れた血が我らの畑のうねを満たすまで!」というもの。

どこかでボタンの掛け違えが起こっている。

その原因の一つは憲法にもあると考えるのは、間違ってはいないといえよう。

2013年5月 3日 (金)

上昇思考/長友祐都

Photo_2  この本のなかで僕は「動じない心」「大きな心」の大切さを強調しているけれど、折れない心というふうには書いていない。
  どうしてかといえば、そういう意識を強くしすぎると、心がくたびれてしまうからだ。
  それよりも、心がをやわらかく、ふにゃふにゃにしておく意識をもっておいたほうがいい。
  スポンジのようになんでも素直に吸収できる心ーー
  それをもつことを僕は目指している。

スポーツ選手にとってメンタル面の強化は非常に大切なこと。

ここ一番という場面で自分のパフォーマンスを最大化させるためには、強靭なメンタルが不可欠であろう。

そして長友選手の試合中の姿をみると、非常に強い精神力をもっているように感じることが多い。

後半の残り少なくなった時間帯で、周りの選手がバテバテになっている中で、長友だけが別次元のパフォーマンスを見せている姿を見ると、強い肉体と精神力をもっているということがうかがえる。

彼はどのようにしてそれを自分のものにしたのか?

持って生まれたものなのか?

確かに祖父は競輪選手だったというので、遺伝的な要素はあるのかもしれない。

しかし、それだけでなく、プラスアルファの何かがあるから、セリエAでも活躍できるのだろう。

ここで彼は「折れない心」という表現を使うことについては否定的に書いている。

「折れない心」ではなく、「スポンジのように何でも素直に吸収できる心」が大切だと。

おそらくそれは彼の経験から出てきた言葉なのだろう。

そういえば、今、長友はリハビリ中である。

「折れない心」でなく「スポンジのように何でも素直に吸収できる心」でこれを乗り越え、さらに大きくなって復帰して欲しいものだ。

2013年5月 2日 (木)

稼ぐ「デザイン力!」/大口二郎

Photo  デザインは「設計」という意味です。たとえば「ライフデザイン」と言えば「人生設計」となります。このようにデザインには「計画を立てる」という意味もあります。
 対してスタイリングは純粋に色や形、柄などの意匠の意味です。この二つの言葉はよく混同されて使われますし、デザイナー自身も混同して使っています。

デザインとスタイリング、厳密に言うと意味が違うという。

おそらく多くの人は混同して理解しているのではないだろうか。

いや、私自身も区別して使っていなかった。

デザインの意味は「設計」だということは、小手先のものではないということ。

だからデザインを考える上で大事な事は、そのコンセプト。

コンセプトを形にしたものがデザイン。

確かにアップルの商品であるiPadやiPhoneのデザインからは、アップルの「シンプル・イズ・ベスト」というコンセプトが見える。

企業は、デザインを通して企業のブランドを伝えている。

デザインを通して、企業の強みを色や形で表している。

企業の強みを商品のデザインで表現することで、ユーザーに「この商品にはこんな価値があります」「こんな人に使ってほしいのです」と伝える。

つまり、デザインとはユーザーと企業とのコミュニケーションのための道具であるとも言える。

そう考えると、デザインとは何と奥の深いものであろうか。

取り組む価値は充分にありそうだ。

2013年5月 1日 (水)

人生で大切なことはみんなマクドナルドで教わった。/鴨頭嘉人

414b7otlc3l__ss500_  マクドナルドではアルバイト・スタッフの事を〝クルー〟と呼びます。マクドナルドでは店舗を船と考え、その店舗という船を前進させる一人ひとりの存在の事をクルー(乗組員)と呼んでいるのです。その根底には「決してこの船はひとりの力では動かない、一人ひとりが全員の為に力を発揮したときマクドナルドという船は活き活きと前進していけるんだよ」というメッセージが込められているのです。

マクドナルドに行くことはよくあるのだが、アルバイト・スタッフのことをクルーと呼んでいるのを不思議に思ったことがある。

本書を読んで、合点がいった。

「ナルホド、クルーとはこういう意味があったんだ」と。

確かにマクドナルドの店舗のスタッフの大部分はクルーと呼ばれるアルバイトで占められている。

そして、そのクルーの善し悪しが、そのままマクドナルドのサービスの質を決める。

その意味ではクルーはマクドナルド・ブランドそのものと言えるかもしれない。

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