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2013年6月 2日 (日)

日本語教室/井上ひさし

Photo 「黒い目のきれいな女の子」――これはぼくが考えた文例ですが、幾通りもの意味があります。ちょっと例をあげてみましょう。

 黒い目がきれいな「女の子」
 黒い目の「きれいな女の子」
 黒い目のきれいな女の「子」
 黒い、目のきれいな女の子
 きれいな女の「目の黒い子」
 目のきれいな女の「色の黒い子」

 まだまだありますから、暇な折にみなさん考えてみて下さい。
 というわけで、日本語の順番はあいまいでいい加減です。

本書は井上ひさし氏が、母校・上智大学で行った伝説の連続講義を完全再現したもの。

日本と日本語について様々な角度で語っている。

ここで井上氏は、日本語の曖昧さについて語っている。

日本語は読み方によってどちらともとれるようになっている、と。

例えば、大江健三郎がノーベル賞を受賞した時の講演は「あいまいな日本の私」という題だった。

しかし、この講演のタイトルの意味についてよくよく考えてみると、

「あいまい」は「日本」にかかるのか「私」にかかるのかわからない。

そこを、大江氏はねらったのだろう、と。

そのほかにも例えば、

「新聞で汚れた国の大掃除」という、ある年の新聞週間の標語について、

おそらく言いたいのは、新聞というメディアの力によって、国の腐敗した政治や体制を正しい方向に持っていこう、ということを言っているのだろうが、

「新聞紙によって汚れた国」を大掃除しましょうというふうにも読める。

言葉についてのプロであるはずの新聞社でさえもこのザマ。

言葉はどのようにしてつくられるのだろう。

まず何らかの実体がある、それを人に伝える手段として言葉がつくられる。

ところが実体そのものが曖昧だと、どうなのだろう。

言葉も曖昧にならざるを得ない。

また曖昧さを好む国民性があったらどうだろう。

やはり、どちらにもとれるような曖昧な言葉を好むことになるだろう。

つまり日本語の曖昧さは、日本人の曖昧さを体現している、ともいえる。

卵が先か鶏が先か、の議論ではないけれど、

どちらが先かということでなく、両者相まって、曖昧な日本人と日本語が生まれたといえるのではないだろうか。

でも、日本人が世界に出て行ったとき、この曖昧さが障害になっている事実も多く出てきている。

やはり変えるべきところは変える必要があるのだろう。

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