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2013年10月 7日 (月)

タテ社会の人間関係/中根千枝

Photo どの社会においても、個人は資格と場による社会集団、あるいは社会層に属している。この両者がまったく一致して一つの社会集団を構成する場合はなきにしもあらずであるが、たいてい両者は交錯して各二つの異なる集団を構成している。そこで興味あることは、筆者の考察によれば、社会によって資格と場のいずれかの機能を優先したり、両者が互いに匹敵する機能をもっている場合があることである。
 この機能のあり方は、その社会の人々の社会的認識における価値観に密接な相関関係をもっている。そして、そこにその社会の構造を端的に考察することができる。この点において最も極端な対照を示しているのは、日本とインドの社会であろう。
 すなわち、日本人の集団意識は非常に場におかれており、インドでは反対に資格(最も象徴的にあらわれているのはカースト──基本的に職業・身分による社会集団──である)におかれている。

本書は代表的な日本人論である。

例えば、ここで述べられている「場」を優先する日本人の集団意識について。

人間は、一定の個人を他から区別しうる属性による基準として「場」と「資格」のいずれかを使う。

「資格による」とは、たとえば、特定の職業集団、一定の父系血縁集団、一つのカースト集団などがその例である。

これに対して、「場による」というのは、一定の地域とか、所属機関などのように、資格の相違をとわず、一定の枠によって、一定の個人が集団を構成している場合をさす。

産業界を例にとれば、旋盤工というのは資格であり、○○会社の社員というのは場による設定である。

同様に、教授・事務員・学生というのは、それぞれ資格であり、○○大学の者というのは場である。

日本人が他人に対して自分を社会的に位置づける場合、好んでするのは、資格よりも場を優先することである。

記者であるとか、エンジニアであるということよりも、まず、A社、S社の者ということである。

また他人がより知りたいことも、A社、S社ということがまず第一であり、それから記者であるか、印刷工であるか、またエンジニアであるか、事務員であるか、ということである。

ここで、はっきりいえることは、場、すなわち会社とか大学とかいう枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっているということであって、個人のもつ資格自体は第二の問題となってくるということである。

この集団認識のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社とか官庁、学校などを「ウチの」、相手のそれを「オタクの」などという表現を使うことにもあらわれている。

ここから日本人の「ウチ」と「ソト」の意識が生まれる。

最近、グローバル化が盛んに叫ばれているが、にもかかわらず中々進まないのは、この日本人の「ウチ」と「ソト」の意識が根底にある。

雇用の流動化が一向に進まないのも同様である。

新聞の投書欄を見ていても、やたら出てくる表現が「元○○会社社員」とか「元教師」とか、そういう表現である。

引退したのであればもう「無職」でいいようなものを、「元○○」と表現するところに、いまだに「場」を意識する日本人の特性が見え隠れする。

本書が刊行されたのは1967年刊のことだが、50年近く経った今も日本人は本質的には全く変わっていないということであろう。

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