« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年11月の30件の記事

2013年11月30日 (土)

高井戸の蛙、世相を覗く/江上剛

Photo  上海万博が終了した。入場者数が七千三百万人を突破した、と中国は大成功を連呼している。日本の大阪万博の入場者数六千四百万人を抜いたからだ。
 しばし待て。日本は一億人(当時)の人口で、六千四百万人が万博を体験した。中国は、十三億人のうちの七千三百万人だ。日本の六四%に対してたったの五・六%だ。圧倒的に万博を体験できなかった人のほうが多いのだ。
 日本は、ほとんどの国民が万博を体験することで、経済成長の夢と希望を抱いた。しかし、日本以上の成功だと自己宣伝する上海万博は、ほとんどの中国国民が、万博を体験できなかったのだ。できなかったことが約一二・三億人の共通体験になってしまったという現実は、問題にならないのだろうか。万博体験組の約〇・七億人と未体験組の一二・三億人との意識のずれが、各地で起きる反日デモになっているのではないか。

マスコミで報道される情報を表面的に受け止めたのでは実態を見誤ってしまうということはよくある。

上記の上海万博の入場者数もそうであろう。

表面的な数字では大阪万博を上回ったとしても、その数字の意味は全く違う。

著者は、この場合、入場できなかった94.5%の国民12.3億人に着目すべきだという。

そのように見ていくと、中国各地で起こっているデモの背景が見えてくる。

とかく富裕層ばかりが注目されるが、中国は、万博にも行けない貧民層12.3億人の国なのだという見方もする必要があるのではないだろうか。

2013年11月29日 (金)

入社10年目の羅針盤/岩瀬大輔

10 アップルコンピュータの創業者としてカリスマ的な支持を得ていたスティーブ・ジョブズ。彼がこんな言葉を残しています。

〝Why join the navy if you can be a pirate?〟
(「なぜ海軍に入るんだい? 海賊になれるっていうのに」)

 これはまさに、「ベンチャーやろうぜ」というメッセージそのものなのだと思います。

日本では、一生懸命勉強をして、いい大学を出た人たちが目指す就職先は、大企業や国家公務員などといったところである。

どんなに不況であっても、中小企業を希望する者は少数派である。

まして、最初からベンチャーを立ち上げる者などほとんどいない。

しかしジョブズからすれば、それはもったいないという。

そういった就職先というのは、安定はしているが組織の中にはレールが敷かれ、そこでやれることはだいたい決まっている。

つまりそれは、軍隊にいるのと変わらないということ。

大海原を航海するのには、海軍なんかよりも海賊のほうが楽しい。

ジョブズはそう言いたかったのではないだろうか。

2013年11月28日 (木)

「ない」といわれたところに市場はあった!/川北義則

Photo せっかく買おうと思ってお店に行ったのに、店員にしつこくまとわりつかれ、聞きたくもないセールストークを聞かされて、すっかり嫌になり、買うのをやめて店を出てしまった――。
 そんな経験、誰でも一度や二度はあるだろう。
 店に入った途端、「何かお探しですか」。
 あ、これいいな、とちょっと手にとったら、即座に「よかったらご試着なさいませんか」。
 これでは客は嫌になる。
「一人で静かに見させてくれよ。用があればこちらから聞くからさあ」
 客はそう思っている。若者ふうにいえば、「うざい」のである。
 黙って商品を見させてくれれば、買うものを。しつこく売り込むものだから、せっかく来店してくれたお客をむざむざ逃がしている。

「おもてなし」という言葉が流行語になったのは記憶に新しいが、実際にはこれと逆のことが行われていることが多い。

特に今の時代、押しつけは嫌われる。

家電量販店などに行って、商品を見ているとすぐ店員が近づいてくる。

商品を売りたいという思いがミエミエで、これを感じた途端、私などはその場を去ることにしている。

今のようなモノ余りの時代、そこだけでないと買えないというモノはそう多くはない。

家電であっても、量販店もあれば、アマゾン、楽天といったネット通販もある。

多くの選択肢があるなかで、人は選ぶ権利がある。

そしてモノを買う場合、やはり気持ちよく買いたいと思っている。

わがままと言ってしまえばそれまでなのだが、お客とはそのようなものなのである。

だから、今の店員には気持ちよく買っていただく接客が求められる。

まさに「おもてなし」が求められるのである。

不況でものが売れないから、余計に店員がしつこくなる。

それでまたお客を逃がす。

悪循環である。

要するに、接客の何たるかを履き違えているのだ。

接客とは、お客の買い物を手伝うことであって、商品やサービスを売り込むことではない。

そこにおいて重要になるのは、その人が買い物の手伝いを必要としているかどうかを一目で見抜く眼力、センスである。

客のそばに行ってあるていど説明した方がいいのか、それとも客が自分でじっくり商品を選ぶのを邪魔しない方がいいのか、

それを瞬時に見抜ける店員が優秀な店員である。

今と昔、商品の売り方も、店員に求められる能力も違ってきているということを知るべきだろう。

2013年11月27日 (水)

論理的に書く技術/出口汪

Photo 悪質なのは、意図的に主観と客観を入れ混ぜるケースだよ。自分の意見を押し通したいがために、意図的に客観的事実のように語るんだ。
 政治家の発言などにこういう例が多い。たとえば、「最近の中国は空母を装備するなど、軍事力が飛躍的に高まっている。安全保障面でアメリカの傘に依存している日本など、あっという間に中国に占領されてしまうだろう」といった発言などだ。この人は、中国が就航させた空母がロシアの二十年以上まえの中古であることや、日本の防衛費が世界六位であることなどには意図的に触れていない。つまり、「中国は危険だ」という自分の主観を通すために客観を装っているんだ。

主観と客観の混同、これは無意識のうちに使っていることが多い。

意図的であろうとなかろうと、主観と客観を混同したら、その文章は論理的に破綻する。

論理的な文章では、主観と客観を明確に区別して、主観的意見をデータや具体的事実などの客観的な材料で検証しなければならない。

だからこそ、その文章には説得力が生まれる。

しかし、テレビや新聞、雑誌の論調、客観性を装ってはいるが、その大部分は主観ではないだろうか。

注意する必要がある。

2013年11月26日 (火)

論理的に話す技術/出口汪

Photo・「イコールの関係」を意識するだけでも、会話は論理的になる

・「対立関係」が使えると、話に説得力が出る

・話をより論理的にしてくれるのは「理由づけ」と「因果関係」

論理的に話すポイントは、上記の3つだけだという。

まず、「イコールの関係」を意識する。

たとえば、自分の意見を伝えているときに、自分の考えと似た誰かの意見を引用したり、具体的な例をあげたりする。

「たとえば~」という具合に。

これは「イコールの関係」

レポートや企画書などでも、「イコールの関係」が使われる代表的な例。

まず自分の考えを述べて、それから自社や他社の似たような企画の事例をあげる。

これは「イコールの関係」だし、自分の考えの正しさを裏付けてくれる統計などを示すのもそう。

これは話すときでも同じ。

自分の考えを述べてから、他者の似た事例ではこんな結果が出ているとか、こういう調査結果がありますという話し方をすることがあるが、どちらも「イコールの関係」を使っている。

次に、「対立関係」を使う。

一般に、言葉や概念には「対」になるものがある。

「男と女」「天と地」「高いと低い」「大きいと小さい」など、こういった対になった言葉の間には「対立関係」という論理関係がある。

たとえば、海外勤務から戻ってきた人が、「日本はいいよ、やっぱり。安全で、夜中に一人で歩いていても、本当に安心だもの。向こうじゃ……」と、自分が暮らしていた国、街の治安の悪さを話したりする。

そうすると、いかに日本が安全で、安心して暮らせるのか、治安がいいのかが、よく実感できる。

これは「対立関係」を使った話し方。

ただ「日本はいい国だ」、「日本は安全で素晴らしい」と言われても、あまりピンとこないが、治安の悪い国や街のことを例に出して話されると、日本のいいところがよくわかる。

対比することによって、日本の良さが際立つ。

最後に「理由づけ」と「因果関係」を使う。

自分が意見を言ったなら、その証拠として具体例をあげる。

次にその具体例がなぜ証拠になるのか、あるいは具体例からどうしてその意見が導き出されるのかを説明しなければならない。

これを「理由づけ」と言う。

これによって自分の意見の説得力が増す。

わかりやすい文章、話し方というのは、どれが意見か、証拠か、「理由づけ」か、すぐにわかるもの。

読んだり、聞いたりしていて、それがわからないようなら、それは文章や話し方に問題があることになる。

つまり、論理的な構成が出来ていないということ。

論理的に話すための3つのポイント、

覚えておいて損はない。

2013年11月25日 (月)

論理的に考える技術/出口汪

Photo  ずばり、これまでの日本人に欠如していたのは、「他者」という意識だったんだね。ここでいう「他者」とは、単なる「他人」というような粗雑な捉え方ではなくて、「根本のところではどうやってもわかり合えない存在」という、ある種の絶望感といってもいいものがその奥底にはある。

日本人は論理性に欠けると言われる。

その根本には、日本人は同一民族でお互いに分かり合える民族だという前提があり、それが「他者意識の欠如」につながっているという。

論理性はどうして必要か?

それは相手に自分の意思を伝えるため。

お互いに分かり合えない他者に自分の意思や考えを伝えるには、どうしても筋道を立てて言葉を構築し伝える必要がある。

そんな環境から論理性は鍛えられる。

良く言われるのは日本は農耕民族であり、ヨーロッパはは狩猟民族だということ。

日本人は農耕民族で、共同体の和を大切にしてきた。

ある意味で、日本という国そのものが大きな共同体、村だったといってもいいかもしれない。

みんな仲間だから、そのいい関係を乱すようなことをいってはいけない、すべてをはっきり言わなくても、相手はわかってくれる、そんな意識を常に持ってきた。

ヨーロッパは基本的に狩猟民族だ。

狩猟民族もときには協力して大きな獲物を獲ることはあるが、もし、目の前にいる動物が自分の家族の飢えを満たす程度の大きさしかなかったら、他の人間はライバル、敵になる。

だから、他人は、「何となくわかり合える存在」には決してなりえない。

では、アメリカはどうなのか?

アメリカは移民によってつくられた国。

隣に住んでいる人は自分と文化も習慣も考え方もまったく違う人かもしれない。

隣の人とでも、「何となくわかり合う」ことは不可能な社会。

極端なことを言えば、彼らにとって、自分以外の人間はすべて他者、「根本のところではわかり合えない存在」。

だから、コミュニケーションを取ろうとしたら論理が必要になる。

日本人が論理性に欠けるの原因は、他者意識の欠如にある。

確かにそうかもしれない。

2013年11月24日 (日)

任せる技術/小倉広

Photo 任せることができない上司は、部下の仕事を自分で抱え込む。そして年がら年中「忙しい、忙しい」と額に汗をかく。自分は人一倍仕事をしている。そう思い込んでいるのだ。
 しかし、経営者から見るとその上司は「仕事をしていない」に等しい。つまりは本来の上司の仕事をしていない。部下の仕事を上司が奪っていることにしかならないからだ。

中小企業の管理職は、ほとんどがプレイングマネージャーだ。

仕事が忙しくてそうせざるを得ないという理由もあるかもしれないが、むしろ問題は任せることができない、というところにある。

しかも多くの管理職は、部下と同じ仕事しかしていない単なるプレイヤーであって、マネジメントなどやっていない。

経営者からすればこれは大いなる損失だ。

何のために部下よりも高い給料を払っているのか。

部下よりも給与の高い上司が部下の仕事をしているのだ。

その分部下が楽をしている。

これが損失でなくて何であろう。

しかも、上司は上司としての仕事に一切手がつけられていない。

これでは明るい未来はない。

そもそも部下の仕事とは、「今日」の食いぶちを稼ぐことにある。

一方で上司の仕事とは、「今日とは違う明日」をつくることである。

仕事を、重要度が横軸、緊急度を縦軸とするマトリックスの表を作って当てはめるとすると、

管理職の仕事は重要だが緊急ではない仕事をいかにするかにかかってくる。

例えば、業務フローを標準化し改善する、とか

営業戦略を立案する、とか

未来のビジョンを策定する、とか

部下育成をする、とか

これらは緊急ではないが、重要な仕事である。

これこそが、これまでとは違うやり方を示し、より良い未来へ踏み出す、管理職の仕事である。

部下の仕事を奪っている上司は、これを怠っているということになる。

目先の忙しさにかまけて本質的な上司の仕事を一切していないことになる。

「高い給与で部下の仕事を奪うこと」が目に見える損失だとすれば、「今日とは違う明日」づくりを放棄するということは目に見えない大いなる損失だと言える。

部下に仕事を任せない上司は二つの意味で上司失格である、と言えるだろう。

2013年11月23日 (土)

プレイング・マネジャー/本間正人

Photo  アメリカの野球でも、Playing Managerという言葉を使わないことはないのですが、Player-Manager というのが、より一般的な呼称です。大リーグでも、過去に何人か実例があります。
 しかし、ビジネスの世界で、
He (She) is a playing manager.
 と言っても通じません。米国でマネジャーと言えば、それは当然マネジャー専任者を指し、それほど、プレイヤーとマネジャーの役割は異なるものだと認識されているわけです。
 ところが日本では、課長クラスの管理職はほとんどと言ってよいほど、プレイング・マネジャーばかりです。私が研修を担当している企業でも、マネジャー専門でやっている課長さんと言えば、大きなメーカーの工場の製造課長くらいのものです。この場合には、部下が100人以上いて、10名以上の職長・班長を率いるような役割です。

私が関与している中小企業の部長、課長クラスを見ていると、ほとんどの場合、プレイング・マネージャーである。

ところが、米国のビジネスの世界でプレイング・マネージャーはいないという。

いや、そもそもそのような言葉もない。

「Playing Manager」とは和製英語であると。

これを読んで、やっぱりそうなのか、と思ってしまった。

そして、プレイング・マネージャーということばに日本の企業のもつ問題が表れているように感じる。

マネジメントの仕事をしながら、部下と同じ仕事をする。

営業課長であれば、部下のマネジメントをしながら、同時に、自らも部下と同じ営業の仕事をする。

そして、もっと実態を見てみると、中小企業の場合、部長や課長という役職はついているものの、やっていることは部下と同じ。

そもそもマネジメントなんかやっていない、という人が多く存在する。

いわゆる「名ばかり管理職」である。

どうしてこのような形になってしまうのか?

仕事が多すぎるというのももちろんあるであろう。

しかし、むしろ問題は、部下に仕事を任せることができないというところにあるのではないだろうか。

現場の仕事が多すぎる、ということを、マネジメントの仕事から逃げる言い訳の材料としているのである。

そして、上司が仕事を抱え込んでしまうので、部下はいつまでたっても成長しない。

これが実態ではないだろうか。

私はマネージャーとはある種の専門職だと考えている。

エンジニアやカメラマンという専門職がいるのと同様に企業にはマネージャーという専門職がいるのである。

そして多くの中小企業には実はマネジメントがない。

部長、課長という役職の人はいるが、彼らはマネジメントなんかやっていない。

単なる「上司」である。

マネジメント不在で企業が成長することはできない。

マネジメントとは何なのか?

この課題にしっかりと取り組む必要があるのではないだろうか。

2013年11月22日 (金)

考え抜く社員を増やせ!/柴田昌治

Photo 東京電力の企業努力に決定的に欠けているもの。形の上ではしっかりとした対策を取っているように見えてはいても、結局、肝心なところには触れないままに済まされてしまっていること。それは、要所要所で「意味・目的・価値などを事実に基づいて徹底的に考え抜く」という姿勢を残念なことに企業としてまったくと言えるほど持っていなかったためではないか、と私は考えています。そして、そのことと深く関連するのですが、東京電力が結局、「問題はあってはならない」「失敗というのは、してはならないもの」といった、精神論に縛られた価値観が支配する世界にどっぷりつかっていたということです。そのことが原子力を扱う者として絶対に欠かしてはならない「事実を客観的にみる」という姿勢を失わせてしまっていたのです。再発防止の企業努力は十分すぎるぐらいしたけれども、この〝精神論の世界〟から脱却しようという努力はまったくしなかったことが、すべての努力を無にしてしまったのです。

本書が言っていることは、「意味・目的・価値などを要所要所で事実に基づいて徹底的に考え抜く」という習慣を組織の中に育てていくことが、先の見えにくい、難しい今という時代だからこそ必要になってきている、ということ。

今の社員は効率ばかりをもとめられ、目の前のことをどう処理するかということには長けている。

ところが、自分のしている仕事はそもそもどんな意味があるのか?

社会にどんな貢献することを求められているのか?

と、そのような本質的なことを考えなくなった。

これが原因になって、企業は力を失ってきている、と述べている。

たとえば、東京電力はどうしてあのような人災を起こしてしまったのか?

それは「人間は失敗をする生き物である」という事実に立脚した当たり前の考え方をしてこなかったから。

この考え方の真逆にあるのが、「失敗というのは、してはならないもの」という精神論的な考え方。

この延長線上にあるのが、原子力発電は安全でなくてはならないし、安全である、というまさに精神論的な決め付け。

そして安全なのだから、避難訓練などする必要はない、と考える。

避難訓練がまったくなされなかったという驚くべき事実はこうした価値観を持っていたからである。

もちろん、原子力発電所は安全でなくてはならないのだが、「安全なのだ」と精神論で決めつけてしまっても安全は確保できるわけではない。

原子力発電はそもそも危険で極めてデリケートな存在。

だからこそ、安全に操業すべく、事実に忠実に細心の注意を持って最大限の努力が必要とされる。

東京電力が持っていたこうした精神論的な決め付けこそが事実を見誤らせ、再発防止のすべての努力を無にしてしまった元凶だったと著者は述べている。

「意味・目的・価値などを事実に基づいて徹底的に考え抜くという姿勢を会社としてしっかりと持つ」ということは、「自分の会社が社会の中で、どのような位置にあり、社会のために何ができるのか、を問う姿勢と能力を持つ」ということでもある。

このような本質的な問題を考抜く社員を育てる事こそ、今の会社に求められているのではないだろうか。


2013年11月21日 (木)

世界最高MBAの授業/佐藤智恵

Mba 授業終了後、大橋さんが意外に思ったのは、アメリカ人学生も結構プレゼンテーションが下手だということだ。アメリカ人はみんなスティーブ・ジョブズ並みにプレゼンができると思ったら大間違いだった。
 「最初の頃は、顔を真っ赤にして話す人とか、声が上ずってしまう人とか、まともにプレゼンができない学生がかなりいましたね。アメリカ人といえばプレゼン上手という印象がありますが、それはたまたま企業や学校で訓練された、上手な人たちが表に出ているから。普通の学生は、僕たち日本人とそんなに変わりません」

本書は、欧米の有名ビジネススクールで学んだ日本人留学生たちから聞いた「最も印象に残った授業」を紹介している。

ハーバードやスタンフォードなど、欧米の名だたるMBAが出てくるが、共通しているのは、経営学の知識を詰め込むだけではなく、実践的な内容になっているということ。

MBAの目的は、ズバリ、グローバルリーダーの養成である。

だから、多くの日本の大学でやっているような、教科書をただ読んで学ぶだけ、という授業はしない。

教科書は前もって自分で読んでくるのが前提で、その上に立って授業ではディスカッションしたり、ロールプレイやプレゼンテーションをする。

体験的な授業が中心である。

たとえば、欧米人はプレゼンテーションが得意だという印象があるが、それはちゃんと訓練しているからそうなのであって、最初からうまくはないのである。

スタートは日本人となんら変わらない。

しかし、MBAで学ぶことによって人を動かすプレゼンテーションができるようになる。

訓練によって感動的なプレゼンテーションができるようになるということは、オリンピック招致のための日本チームのプレゼンによって証明された。

日本の大学も、ただの学びではなく、もっと実践的な授業をすることが必要なのではないだろうか。

2013年11月20日 (水)

ミッション/岩田松雄

Photo  パチッ。パチパチッ。
 すっと伸びていくロボットのアームの先端。ピタッと動きが止まると、一瞬の間をおいて、突然、黄色い火花が散ります。
 人気のない工場のラインに光る、花火のような輝き。それは美しくもあり、また不思議な厳粛さをたたえていました。
「いいか、岩田」
 ぼんやりとその様子を眺めていた私に、ヘルメットをかぶった上司がこう言いました。
「この工場で価値を生み出しているのは、あの火花が散っている瞬間だけなんだぞ──」
 もう30年も前のことになります。大学を卒業して日産自動車に入社した私が、研修や工場での実習を終えて本社の購買管理部技術課に配属され、車体溶接工場を見学していたときのことです。

スターバックスコーヒーの元CEOである著者は、自らの仕事の原体験について日産自動車入社2年目の出来事を述べている。

まだ塗装されておらず、むき出しの、鈍いグレーの部品が、産業用ロボットに抱えられて次々に組み合わされる。

そこに溶接用のアームが伸びてきて、正確に火花を散らせ、つなぎ合わせて自動車のボディを形作っていく。

しかし価値を生み出しているのは、火花が散っている瞬間だけ。

火花が散る瞬間、つまりボディが形作られていくまでには、さまざまな工程がある。

ボディを運搬したり、向きを変えたり、部品を在庫したり。

しかし価値を生み出しているのは、あのまぶしい瞬間だけ。

この工程で価値を生んでいるのは、鉄板同士が溶接されてくっつくということだけ。

あとは何も関係ない。

部品の運搬をどう効率的にやろうが、在庫を抱えている時間が何日あろうが、会議で何を話し合おうが、それは本質的に価値を生み出していない。

あの火花が散っている瞬間だけが、価値を生み出している。

そういう目で現場を見る必要があるということを著者はそのとき学んだという。

この原体験は、後にスターバックスコーヒーのCEOを務めたときにも生かされた。

スターバックスコーヒーで火花が散る瞬間は何か?

スターバックスの店舗に足を運んでくださるお客様は、「すてきな空間で、おいしいコーヒーを飲みたい」という明確な意志を持っている。

そのお客様にオーダーをお受けしてお金を受け取り、でき上がった最高のコーヒーを、自信を持って笑顔でお渡しする瞬間。

この瞬間、火花が散っている。

その信念のもと、著者はスターバックスコーヒーのCEOを務め上げたという。

どんな仕事にもパチパチッと火花が散る瞬間がある。

それはどんな瞬間なのか?

考えてみる必要があるのではないだろうか。

2013年11月19日 (火)

創造はシステムである/中尾政之

Photo  具体的に言えば、日本の製造業の生きる道は、個々の顧客の要望に全て応えた〝高級レストラン〟であろう。要求機能の数が膨大で、見かけは干渉だらけのインテグレイテッドな創造に見えるが、実はコンピュータ化して干渉を軽減させたモジュラーな加工手段を用いている。そして軍隊のようなモジュラー組織の大企業に見えながら、運営主体の個々のチームは仲間の顔が覚えられるほどのインテグレイテッド組織である。それぞれのチームは情報武装していて組織内の知識を自由に扱え、組織の壁が低くなったインテグレイテッド組織に化している。

組織はそれぞれの基本構成が独立したモジュラー組織と基本構成を互いに融合させ統合させたようなインテグレイテッドな組織に分類することができる。

一般にアメリカはモジュラー組織、日本はインテグレイテッドな組織だといわれる。

アメリカ人は仕事をするとき、個室を好み、命令系統はボス直轄、設計は独立設計という形態である。

一方、日本人は大部屋、チームで仕事をすることを好み、設計するときはお互いに干渉しあう干渉設計である。

ただ、日本も大企業になると基本構成が独立したモジュラーな組織が多くなってくる。

これはどちらが優れているというより、どちらも一長一短あるということである。

製品を組み立てる場合は、個々の責任を明確にするモジュラー組織にしておけば失敗は少なくなる。

でも誰でも組み上げるとできてしまうので、似たような商品になりやすい。

一方で、日本人は干渉が大好きである。

それにより優れた商品を生み出してきた。

たとえば、日本の自動車のバンパーは、トラックに付いているような、黒々とした肉厚のゴムではない。色がシャーシと同じだから、どこがバンパーなのか一目でわからない。

日本では、バンパーで隣の自動車をどかすこともないから、バンパーの主機能は退化してしまった。

副機能として、そこにフォグランプや方向指示灯を一体化して付けている。

だから、間違えてぶつけると大変である。

全部、取り替えないと、夜間に走れない。

でもこの「摺り合わせ」の干渉設計こそ日本の強みだと喧伝されている。

では、このアメリカ的でモジュラーな独立設計と、日本的でインテグレイテッドな干渉設計を比べてみるとどうなるか。

どちらの組織で創造が生まれやすくて、どちらの製品が失敗せず、どちらの仕事が面白く、どちらのデザインが美しくなるのだろうか。

おそらくインテグレイテッドの組織のほうが創造しやすい。

しかし、モジュラーの製品のほうが大規模になっても失敗は少なくメンテナンスしやすい。

一方で、インテグレイテッドの仕事のほうがオペレーターにとって技を盗めて面白い。

さらに、インテグレイテッドのデザインのほうが美しい。

結論として、モジュラーとインテグレイテッドを混ぜたハイブリッドな組織や設計が好ましいということになる。

組織論として非常に面白い考え方である。

2013年11月18日 (月)

戦術と指揮/松村劭

Photo  十八世紀初期、プロシャ建国功労者フレデリック・ウイリアム皇太子は戦陣において一人の少佐をよんで詰問した。
「なぜ、お前は作戦に失敗したか?」
 少佐は「私は皇太子からの直命のとおり作戦しました。間違っていません!」
「階級はなんのためにあたえてあるのか? 命令違反するときを判断できる者にあたえられているのだ。規則どおり、命令どおりするだけなら、貴様は将校ではなく、兵士でよい」とウイリアム皇太子。
 これ以来、軍隊の階級の意義は、この考え方が世界の常識となっている。

軍隊というと上位の命令に絶対服従という印象があるが、階級によってはそうではないことをもとめられることもあるという。

これは面白い。

つまり、現場の状況によってはトップの命令を自らの権限のもと、変えてもよいという。

そしてそのために階級が与えられているという。

しかし、考えてみたら、これは非常に合理的な考え方である。

現場のことが一番わかるのは現場の人間である。

もしトップの命令をそのまま実行すると負けてしまうと判断されたならば、それは自らの責任をかけて命令を変更することの方が合理的だ。

この権限が、ある階級には与えられているという。

これは軍隊に限られたことでなく、企業という組織も同様である。

トップの命令をそのまま実行するのではなく、自律的に現場で判断し実行していかなければ、変化の速い今の時代、勝ち抜くことはできないのではないだろうか。

また、そんな人材が求められているということではないだろうか。

2013年11月17日 (日)

なぜ、予想は裏切られたのか/夏目幸明

Photo  平野氏の発想のベースには、秀逸な人材論、組織論があった。
「私は、組織の中の個人個人が持っている批判や発想は、その組織が持っている潜在的なエネルギーだと思うんです。これをできるだけロスがないよう汲み取ることができれば、非常に面白い商品ができるかもしれない」

世の中の商品は、2つに分かれる。

一番のボリュームゾーンを狙った商品とニッチを狙った商品である。

ボリュームゾーンを狙う場合には、規模の経済が重要で、結果的に安いものを大量に、ということになる。

結果的に一部の大企業が勝ち組になり、あとはすべて負け組、そして撤退ということになる。

資源に限りのある中小企業の場合は、ニッチを狙う以外にない。

ニッチを狙う場合のネックになるのは多様化である。

多様な人材が化学反応を起こすことによって初めてニッチ型商品が生まれる。

だが、問題は、この多様な人材である。

日本の企業は伝統的に社員に同一性を求めてきた。

確かに企業のやることが決まりきっていた時代であれば、トップが「右向け右」と言えば全社員が右を向くような企業の方が競争力があった。

ところが、今のようにニッチ型商品を狙う以外にないような時代においては、多様な人材を取り込み、その力を最大化させるようなマネジメントが求められる。

ところが、多くの中小企業はいまだに男社会である。

女性の管理職が驚くほど少ない。

顧客は女性が主体になっている市場でも、商品開発は男性が行っているというケースがほとんどである。

ニッチ型商品を作るためには、まずこの部分から変える必要があるのではないだろうか。


2013年11月16日 (土)

日本人はなぜ足元を見られるのか?/杉江弘

Image 一九九九年二月、サッカーの日本男子代表チームをトルシエ監督が率いてフランスで合宿中のことである。宿舎に帰ろうと道路を歩いていた選手たちが車も来ないのに横断歩道で停まっていたので、トルシエ監督がなぜ渡らないのかと尋ねた。すると、選手たちは当然のように「赤信号ですから」と答えたという。トルシエ監督はそれを聞いて、個人の意思がなく集団や規則を重視する日本の文化、教育システムを変えて意識改革をしなければ勝てないと思ったそうだ。

車が通らないのに赤信号で止まるのは日本人だけ、と著者は言う。

これは私も実感したことがある。

これまで、イスラエル、ギリシャ、オランダ、韓国、ロシアに行ったことがあるが、確かに赤信号でも左右見渡して車が通らない場合、みんな平気で道路を渡っている。

赤信号であれば必ず止まる、これは、日本だけの特異な現象である。

考えてみれば、信号機は車社会でのスムーズな通行のために人間自身が創り出したものである。

したがって、車がどこからも来ないのに赤だから渡らないという行動は、人間が逆に機械に支配されているとも言えるであろう。

逆に考えれば、青信号でも車が止まらないということもあるわけだから安心しきって渡ってはいけないのである。

危険か危険でないかは、自分の目で確かめて、確認したうえで行動する。

この当たり前のことが日本人は意外とできていないということの象徴が、この赤信号では必ず止まるという行動に表れているといえよう。

2013年11月15日 (金)

人の心がまるごとわかる心理学/植木理恵

Photo  先日、あの有名な「白虎隊」の子どもたちが通っていた、会津若松の寺小屋を訪れる機会がありました。私はそこで大ショックを受けたんです。それはなんと、「ならぬものは、なりません」……これが当時の子どもたちに教えていた教義だったのです。「なせばなる」の正反対じゃないですか。
 しかし私は、こっちのほうが、何だかしっくりくるなと思ってしまいました。全力を尽くしても、必ずしも何もかも達成できるわけではないのが人生。だからこそ後悔のないように、人事を尽くして天命を待つ。その哲学こそが、あの若い少年隊に最後までお城を守らせ、潔く自刃にまで至らしめたメンタリティーにつながっているのだと感じ入りました。

人を勇気づけようとして「なせばなる」という人がいる。

その言葉によって鼓舞される人もいるかもしれないが、逆効果になることも多い。

なぜなら、現実は「なせばなる」というほど単純なものではないから。

むしろ、どんなに頑張ってもどうしようもない事柄の方が多いかもしれない。

そのような現実が痛いほどわかっている人に対して「なせばなる」と言ってもしらけてしまうだけである。

しかし、常に悪いほうにばかり考えるということも問題がある。

そのような人は、最低の結果を招くことしかやらない傾向がある。

最初からあきらめてしまい、最高レベルを追求しない傾向がある。

「頑張ってもどうせダメなんだから」と最初からあきらめてしまう。

つまり「なせばなる」というのも問題があるし、「頑張ってもどうせダメ」というのも問題があるということ。

その意味で、「ならぬものは、なりません」という言葉。

この考え方は非常に合理的である。

全力を尽くし、あとは天命を待つをいう考え方である。

開き直りともとれる考え方だが、この方がスッキリする。

2013年11月14日 (木)

人間にとって法とは何か/橋爪大三郎

Photo  たとえば湾岸戦争のときに、クウェートが侵略されました。クウェートは主権国家であり、イラクがそれを侵略した、と国際社会が認め、国連の安全保障理事会もイラクの非難決議をだした。すると国連加盟国である日本国としても、クウェートの権益回復に努力をする最大限の義務があるはずです。そして多国籍軍が組織されました。多国籍軍がどういうものかというと、国連軍によく似たものではないかと思います。国連憲章を読んでみると、国連は集団自衛権を正当な権利として認めていて、それを行使する形態として国連軍があるわけです。どうして集団自衛権を認めるかというと、個別自衛権しか認められないなら、ごく小さい国が、中くらいの国や大国が攻めてきたときに自力で対抗しなくてはならないことになります。それは無理だからですね。小さい国は自衛のために、もっと大きい国と同盟を結んで、集団自衛権で対抗する必要があるわけです。ですから国連はそれを認めている。

現在の憲法の第一の問題は、日本国憲法の内容と、国際常識とが乖離しているという点であろう。

憲法は第9条で戦争放棄をうたっている。

これまでの政府の見解は、個別自衛権はある、だから自衛隊がある。

しかし、集団自衛権は憲法の精神からして行使できないというもの。

ところが、そのことと、国際社会の正義とが矛盾する。

日本は集団自衛権を行使できない、政府も国民もそう思っている。

でもこれは、国連の考え方とは違っている。

この矛盾は放置できない問題である。

今、政府は解釈によって集団的自衛権を行使できるようにしようとしている。

しかし、本来ならば、憲法9条の条文を変えるべきだろう。

この方がすっきりするし、すべてを解釈で乗り越えるのはむしろ危うさを感じるし、国家の暴走を助長しかねない。

しっかりと議論してもらいたいものである。

2013年11月13日 (水)

成功する人の残酷な思考法/いつか

Photo  成功者は、努力を見せない努力をする。人一倍努力して這い上がってきて、そこから、「天才」として見せるデフォルメの仕方がうまい。
 かつてアイデアの天才と呼ばれた人間と仕事をしたことがある。
 でも、私は知っていた。彼は、天才ではなかった。超秀才だったのだ。
 彼はひとつの仕事のために膨大な本を読んで研究する。プレゼンや企画会議の前などは、徹夜なんてザラである。そうして納得できる作品を、死にものぐるいで創り上げていたのである。彼の書斎に行ったとき、偶然、一冊の本が落ちてきた。パラパラめくると、ページが真っ赤に見えるくらい、びっしりと赤字が入り、自分の思うことが書きつらねてあった。そこから全部パクっている。
 努力家なんだな、と私は素直に尊敬していた。でも、そんな勉強量をねぎらうと、とたんに、耳を赤くして、本をサッと片づけた。そのあと、まるで何ごともなかったように振る舞った。

世に「天才」と呼ばれている人たちがいる。

その人は紹介されるとき「○○の天才」と呼ばれる。

彼らは「天才」と呼ばれるのを好む。

しかし本当の意味での天才はどの位いるのだろうか。

以前「天才」という本を読んだとき、印象に残った記述があった。

それは、世に「天才」と呼ばれている人たちを調査したとき、共通点があったということ。

そのキーワードは「1万時間」

つまりピカソやビートルズや、その他、誰もが天才と認める人たちが世に出るまでを調査したところ、彼らは共通して、最低でも「1万時間」、その技術・技能の習熟のために費やしていたということ。

それに当てはまらない人物は誰ひとりいなかったという。

つまり、彼らをもし「天才」と呼ぶのであれば、それは「努力の天才」と呼ぶべきだということ。

だだし、彼らはその努力の部分を人には見せない。

またそのことをもっとも嫌う。

一見、何の努力もしていないように振舞う。

だから周りは錯覚する。

この世には多くの成功者がいる。

しかし、彼らの大部分はその成功を手に入れるために凄まじいばかりの努力をして今があるのだということを忘れてはならない。

ただ、そこに至る階段を隠しているだけである。

見た目にごまかされてはならないということであろう。

そして、成功したいと思うならば、努力から逃げてはならないということである。

2013年11月12日 (火)

異形の日本人/上原善広

Photo 「ほんまにな、一般的にいうリラックスなんか必要ない。ほんまのリラックスちゅうのは有り余る力がある中で、力の入ってる状態をいうんや」
 そう言うと溝口はぐっと握ったこぶしを曲げ、さらに言葉を継いだ。
「一五〇キロのバーベルをただ手に持って下げてても、俺の手首はこうして曲がったまま。普段からこうしてトレーニングしてるから、力抜いてるつもりでも自然とこうなる。これが俺の言う、リラックス。ただ力抜いてブラブラしとるんと違う。例えばロック・クライマーが岩に手をかけて片手でぶら下がってるとき、完全に力抜いてるわけじゃないやろ。指先にはすごく集中して力こもってる。そういう感じ。だから俺はいつも、『一般的にいうリラックスなんかせえへん』ていう意味で言うてたんや。力だけで投げる言うんもそう。外人との差はなんやと。それはパワー、力や。だったらそれをつけたらええだけやんけ」

本書に登場するのは、ターザン姉妹と呼ばれた知的障害者、解放同盟に弾圧され続けた漫画家、パチプロで生活する元日本代表のアスリート、難病を患いながらもワイセツ裁判を闘った女性等々である。

彼らに共通するのは、その異形であるが故に社会から排除されたということ。

冒頭の抜き書きは溝口和洋の言葉。

現やり投げアジア・日本記録保持者。

オリンピック出場二回。

日本人として初めて国際グランプリを転戦し、1989年度は総合二位となっている。

自己最高記録は87メートル60。

それは当時の世界記録に、あと6センチと迫る大記録だった。

それから20年以上たった今日でも、溝口のこの記録は破られていない。

彼は現役を終えた後、パチプロとして生活する傍ら、中京大学で室伏広治ややり投の三宅貴子をボランティアで指導した。

彼が異形とされたのは、その発言が当時の陸上指導者の教えに反するものだったから。

彼はリラックスなど必要ないという。

そして大きな筋肉ではなく、末端の筋肉に注目し、これを徹底的に鍛えた。

当時、一般の多くの指導者は「大きな筋肉を使おう」と指導していた。

そして末端の筋肉はできるだけ「リラックス」させる。

これが当時も現在も、最も一般的な陸上界のトレーニング理論。

ところが溝口はそれを真っ向から否定した。

そうでもしないと、今まで指導していたトレーニング法はいったい何だったんだとなる。

彼は「やりは力で投げるものだ」と言う。

それは彼なりに練習を重ねて掴んだ身体的な感覚だったのだろう。

日本は同じであることを求める社会である。

それに反する人は排除しようという有形無形の力が加わる。

日本に個性的な人間が中々育たないのも、このようなところにあるのではないだろうか。

2013年11月11日 (月)

戦略参謀/稲田将人

Photo「組織というのは、組織図、つまり組織の箱をつくればいいというものではない。それこそ、ただの箱、『バケツ』だ。やるべきこと、やらせたいことを明確に定義して、何をやるかの具体的なところまで、その部門の責任者とイメージを合わせ、同意を得なければいけないはずだ」

本書は、紳士服チェーンの再建に挑むストーリーを通して戦略参謀とは何たるかを示したもの。

自分のやっている仕事柄、どうしてもこのような本を読む場合、人事制度に目がいってしまうのだが、この本の中でも一番印象に残ったのは、「組織とは何か」という点である。

企業とは人の集まりである。

では人が集まれば組織になるのかといえば、そう簡単にはいかない。

単に人が集まっただけの状態であれば、それは集団でしかない。

そして、集団のままであれば、企業は何もできない。

そこで集団を組織化することが必要になる。

各人の役割を与え、命令を一本化し、共通のルールを作り、コミュニケーションを活性化し、目指す方向性を明確にする。

つまり、一つの目標を目指してより機能的に一人ひとりが動けるような体制を作るのである。

組織も人事制度も、経営の意思を分業化のために制度に落とし込むものだ。

組織図は責任と報告の関係を描いた、ただの箱である。

また、トップが戦略を打ち出したとしても、そこにいる人々が、前向きなエネルギーを発揮して真剣に取り組まないかぎりは、ただの「絵に描いた餅」にすぎまない。

社内の方向性を合わせ、社員に前向きなエネルギーを発揮させることが、本来の人事機能の使命といえよう。

そして、マネジメントも含めて全社が同じ方向を向いて業務に取り組むために、方向性を明示するのはトップの役割であり、そしてそれを翻訳して、自らの言葉で語るのは、中間管理層の役目である。

組織図を書いてそれで終わってしまっている状態の企業は多く存在する。

その意味で、多くの企業の課題は「組織化」であるといえよう。

2013年11月10日 (日)

欺かれた歴史/斎藤良衛

Photo 「三国同盟の締結は、僕一生の不覚だったことを、今更ながら痛感する。僕の外交が世界平和の樹立を目標としたことは、君も知っている通りであるが、世間から僕は侵略の片棒かつぎと誤解されている。僕の不徳の致すところとはいいながら、誠に遺憾だ。殊に三国同盟は、アメリカの参戦防止によって、世界戦争の再起を予防し、世界の平和を回復し、国家を泰山の安きにおくことを目的としたのだが、事ことごとく志とちがい、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと、死んでも死にきれない」

松岡洋右といえば、外交官ないしは外務大臣として、日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦前夜の日本外交の重要な局面に関与した人物である。

外務省外交顧問として松岡を支えた著者によると、松岡の国連脱退は本人に取っても不本意なことで、三国同盟はソ連を引き入れてアメリカを牽制し日米戦争を回避するためのものであったという。

これは、松岡が国連脱退を主導し、三国同盟によって日米開戦の原因を作ったとされる一般的な理解とは異にするものである。

松岡は親米と三国同盟とが少しも矛盾しないとした。

この同盟はアメリカを向こうに回して、抗争するためのものでは絶対にないと松岡は考えた。

万一アメリカを敵に回すことになれば、日本が勝てる望みはないということもよくわかっていた。

ドイツを同盟の相手方としたのは、日ソ国交調整の手段とし、日本の威力を増大して、アメリカに参戦を思いとまらせるための外交上の一時の便法にすぎない。

アメリカをヨーロッパ戦争に参加させないようにすることによって、太平洋で向かい合っている日米の二大国間の平和を保ち、ひいて世界の大動乱を予防するのが同盟の目的であるとした。

そして実際、松岡は戦争回避のために奔走する。

しかし、結果として三国同盟は日本を日米開戦に導いた。

政治は結果責任であるということから考えると、やはり松岡の考えは間違っていたと言わざるを得ないのではないだろうか。

2013年11月 9日 (土)

日本辺境論/内田樹

Photo 私たちがふらふらして、きょろきょろして、自分が自分であることにまったく自信が持てず、つねに新しいものにキャッチアップしようと浮き足立つのは、そういうことをするのが日本人であるというふうにナショナル・アイデンティティを規定したからです。世界のどんな国民よりもふらふらきょろきょろして、最新流行の世界標準に雪崩を打って飛びついて、弊履を棄つるが如く伝統や古人の知恵を捨て、いっときも同一的であろうとしないというほとんど病的な落ち着きのなさのうちに私たちは日本人としてのナショナル・アイデンティティを見出したのです。

著者は日本人を辺境人と規定している。

日本人にも自尊心はあるが、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。

それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなもの。

ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。

おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろう。

たとえば中国は世界の中心は自分たちであるとの中華思想がある。

だから、ある意味横暴にもなり得る。

しかし、日本にはそれはない。

日本人にあるのは、ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」があるという考え方。

だから、それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定さる。

しかし、著者はこのことを決して否定的にはとらえていない。

むしろ、積極的、肯定的にとらえている。

考えてみれば、極東にあるこの国がここまで発展してきたのも、外部のどこかに絶対的な価値があると信じ、それに必死にキャッチアップしようとしてきたからではないだろうか。

その意味では辺境人として生き抜くということも良しとすべきであろう。

2013年11月 8日 (金)

日本の「情報と外交」/孫崎享

Photo  つまるところ、日本ではいまだに、客観的な情報に目を向けることよりも、「空気」といっしょにいることが重んじられているのである。これは、外交政策にかぎらない。どのような政策決定を行おうが、問われるのは、その判断が事実に照らして適切だったかどうかではなく、空気といっしょにいたかどうかなのである。

最近、アメリカの盗聴が問題となっているが、

そもそも日本にはアメリカのCIA、イギリスのMI6、イスラエルのモサドに類する情報機関がない。

また、一方日本はスパイ天国とも言われている。

それは情報に関する感度が低いということを意味しているのではないだろうか。

国家の命運を左右する意思決定をする場合、決め手となるのは正しい情報である。

それらを分析して長期的視野に立った意思決定をすることができる。

ところが日本の場合、意思決定に決定的な影響を与えるのは正しい情報ではなく、「空気」である。

原発、普天間、外交問題等、これらに対して国家としてどのように意思決定していくのか、決定的要因となるのは「空気」である。

正しい情報に基づく、長期的視野に立った判断ができない、

これが日本である。

これが戦前、戦後、そして現在に至るまで綿々と続いている。

今、特定秘密保護法が議論されているが、個人的には国家に秘密があるのは当たり前だと思っている。

国家間の密約もおそらくあるのであろう。

公開される情報もあれば、公開できない情報もある。

それらを踏まえて、国は意思決定をするものである。

日本国内での議論を聞いていると、何かお門違いな議論をしているように思えてならない。

これもすべて最終的には「空気」が意思決定の決定的な決め手になる国であるからこそなのだろう。

最近、この「空気」と添い寝する傾向がますます強まっているような気がする。

このことにもっと危機感を持つべきだろう。

2013年11月 7日 (木)

人民元改革と中国経済の近未来/原英資

Photo かつて、筆者は若干の誇張を交え、「中国は社会主義の仮面をかぶった資本主義国であり、日本は資本主義の仮面をかぶった社会主義国だ」と述べたことがあったが、これも関志雄と同趣旨の主張である。黒田篤郎が「中国は競争の国だ」と次のように述べているのも、関志雄のいう「原始資本主義の段階」の主張をミクロの視点からサポートしている。
「三年間中国とアジアの現場を回って、最も強く感じたことは、『中国は競争の国だ』ということだった。珠江デルタの工場のラインの中で隣り合う労働者間の仕事の競争、企業や工場の間で、少しでもコストを下げ、受注を増やそうとする企業間の販売競争、上海と深、珠江デルタと長江デルタというライバル都市や地域間の企業誘致や産業開発を巡る地域間の競争など、さまざまなレベルの競争が中国の中で爆発的に拡大している。中国はすさまじい競争社会になりつつある。」

中国は様々な矛盾を抱えながら発展している。

そもそも共産党支配の中での資本主義という、相反するものを一つにしているわけだから、問題が起きて当たり前だといえる。

格差、収賄、環境汚染、人権、高齢化、バブル等々、問題をあげたらきりがない。

しかし、それにも拘わらず成長を続けている原因の一つは、中国はすさまじい競争社会であるということである。

たとえば、格差の問題も競争社会の中では成長へのエネルギーになる。

みんなが上に上がりたいと思っている社会では、それはプラスに働く。

と、同時に、その過程において様々な問題を引き起こす。

今起こっている天安門前で車両突入事件や、共産党委員会の建物付近で起きた爆発事件もその副作用と考えてよい。

これからこの国がどんな発展をするのか、あるいは途中で失速してしまうのか、識者の意見を聞いても様々である。

同じ隣国であってもの韓国であれば、距離を置くということも選択肢の一つだろうが、中国の場合、規模が規模であるだけにそれも難しいだろう。

とにかく、日本にとってお隣の国であり、影響も大きいだけに、これからも目を離せない国である。

2013年11月 6日 (水)

中国はなぜ無茶をするのか/サーチナ

Photo 中国では「ルールといってもしょせん、人がつくったもの。つくった者が、自分らに都合がよいように定めたもの」との考えが強いのです。ルールをつくるものと適用される者では「立場」が違うのですから、「ルールがあっても、賢い者は抜け道を見出して、成功への道をつかむ」と発想する場合が多いのです。

日本人や欧米人は、法律などのルールを守るのはあくまで最低限の義務だと考える。

また、世の中には、ルールだけでは語り尽くせない社会規範が存在するのだということも無意識のうちに理解している。

それ以外に、日本はムラ社会なので、ムラの掟というものが存在し、それを守らなければならないという暗黙のルールもある。

だから、中国の領土・領海問題、国連安保理決議違反、知的所有権・商標権訴訟問題など、ルール無視の行為を見ていると、「中国は信用できない」となってしまう。

しかし、本書によると、中国と日本とではそもそもルールについての受け止め方が違うのだという。

「都合が悪いルールは守らなくてもよい」あるいは「都合の悪いルールは変えてしまえばよい」という感覚が中国にはある。

これが他国と様々な摩擦を引き起こす。

しかし、日本人が受け身的に、粛々とルールをただ守るだけというのも、ちょっと問題かもしれない。

スポーツの世界などで、日本人選手に不利なルールに突然変わってしまうことがある。

とくに日本の強い分野でそれが起こり、日本は不利になってしまう。

しかし、ルールとは所詮人間の作ったもの。

都合が悪ければ変えればよいという発想は、日本もある程度持つべきではないだろうか。

そうでなければ、各国がしのぎを削っている国際競争の世界では後手後手に回ってしまうのではないだろうか。

もちろん、中国のようになれと言っているわけではないのだが、ある程度のしたたかさは持つべきであろう。

2013年11月 5日 (火)

時代を見通す力/副島隆彦

Photo  関東軍参謀だった〝戦争思想の天才〟石原莞爾陸軍中将も、日本の満州権益を守るために彼自身が初期にかなり謀略的なことをした。けれども石原は戦争不拡大派だった。「中国本土には手を出すな」と言い続けた。石原はアメリカに対しても冷静だった。綿密で詳細な国力比較をした結果から、海軍の米内や山本たちよりずっと早くから「絶対に負けるから間違ってもアメリカとは戦争をしちゃいかん」と言っていた。それもあって左遷され、満州から日本に早々と帰された。東条首相とぶつかって、満州国の設計者の地位を追われた。四十九歳で京都師団長となってこのあと退役、昭和十六年には予備役に編入だ。石原たち「不拡大派」は主導権争いに敗れたのだ。
 石原莞爾みたいな軍事の天才はそうそういるものではない。彼の『世界最終戦争論』を読むとそのことがよくわかる。彼はハルマゲドン(世界最終戦争)という構図で、その後の原爆投下から戦後の世界体制のことまで自力で予見して当てている。見事である。

歴史の通説として人々の間で信じられているものの中で、間違っているものが随分あると著者は述べている。

たとえば先の世界大戦の原因として語られる陸軍悪玉論、海軍善玉論。

「海軍はアメリカと戦っても勝ち目はないと正論を言っていたのに、陸軍がそれに聞く耳をもたず暴走した」ということになっている。

こんなの真っ赤なウソだと述べている。

また、石原莞爾は満州事変を起こした張本人であり、日本を戦争に巻き込んだ悪玉の頭のような印象を持つ方が多い。

しかし、彼こそ軍事の天才であり、むしろ、アメリカとは決して戦うべきではないと主張していたと述べている。

著者の主張していることも、一つの歴史の見方ととらえるべきだろう。

とにかく歴史にはいろんな見方がある。

その意味で、それらを読み比べながら自分なりの見方を持つことが必要ではないだろうか。

2013年11月 4日 (月)

日韓がタブーにする半島の歴史/室谷克実

Photo  こんなことを書くと、日本には「この筆者は、物凄い偏見の持ち主だ」と批判を始める人々がいるが……と考えていると、思い出したのが『中央日報』(二〇〇八年十一月十日)の「腐敗不感症にはまった韓国の青少年」と題する社説だった。
 バングラデシュ、インド、モンゴル、韓国の四カ国の中高校生を対象にアンケート調査をして腐敗認識水準を比較したところ、韓国が最低だったというのだ。
「正直に生きるよりも、金持ちになることが重要か」との質問に、韓国の中高校生の二二・六%が「そうだ」と答え、バングラデシュより七倍も高かった。
 韓国の中高校生の六人に一人が「監獄で十年過ごすとしても十億ウォン稼げるなら腐敗に手を染められる」、五人に一人が「問題を解決できるなら、快く賄賂を使う」と答えた ─ というのが、この社説が紹介している調査内容だ。
 社説は書いている。「子どもは大人を映す鏡にすぎない」と。

本書は、三国史記を読み解くことによって、日本で常識として信じられていることが、いかに間違っているかを述べている。

三国史記は、高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成した、三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書であり、朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。

たとえば、稲作は朝鮮半島経由で日本に来たと信じられているが、本当は、稲作は朝鮮半島経由ではなく東シナ海経由で日本に来た。

また、日本の古墳は韓国由来であると信じられているが、本当は、韓国の日本式古墳は日本の古墳よりもずっと後のものしかないということ。

そして韓国社会には「どんな手段を使ってでも、得られる利が大きければいい」という考え方が社会の底流に渦巻いているという。

「約束は守らなくてはいけない」とする意識が希薄だという。

国際金融専門家の間では「OINK」という隠語が使われているということは初めて知った。

「オンリー・イン・コリア」の略で、「韓国でしか、あり得ないこと」という嘲笑的な意味を持つという。

超夢想的朝鮮民族絶対主義史観はOINKの一類型であり、韓国の国定教科書は明らかにこの史観の強い影響を受けているということ。

これらから言えることは、韓国は特殊な社会であるということを前提に付き合う必要があるということではないだろうか。

2013年11月 3日 (日)

悪韓論/室谷克実

Photo 韓国語を知らない日本人でも、ソウルの町工場・修理工場を何軒か回れば、嫌でも覚えてしまう韓国語が二つある。
 一つは「ヒドゥロヨ」。本来は「力が入る」の意味だが、生産・作業現場では「やっかいだ」「面倒くさい」といった感じで使われる。
 もう一つは、韓国通の間では既に有名な「ケンチャナヨ」だ。様々な意味を持つ言葉だが、生産・作業現場では専ら不正確さを容認する言葉として使われる。
「構わんさ」「いいじゃないか」「これで良かろうよ」といった感じだ。時には、違法・不正を容認する意味にもなる。
「ヒドゥロヨ」と「ケンチャナヨ」が頻繁に聞かれるのは、生産現場や修理工場に限ることではないが…。

日本は職人を尊敬する文化があるが、韓国は職人を蔑視する風潮があると著者は述べる。

韓国では生産現場で汗を流す人々は、どこまでも冷遇されている。

彼ら自身、自分がしている仕事に誇りを持っていない。

いや、誇りを持てなくするような、李王朝以来の勤労観が、いまも韓国社会を支配している。

異様なまでの学歴崇拝と、職種に対する強烈な貴賤意識が形づくる現代韓国の事実上の身分制度は、それ自体が「差別の文化」と言える。

額に汗する仕事そのものを蔑視し、そうした仕事をする人を露骨に軽蔑し、そして、そうした仕事に携わる人自身も、自分の職業に何らの誇りも持っていない。

彼らが作る半製品、部品が精度に欠けるのは、当然の帰結なのであろう、

と、このようなことを著者は述べている。

日本の強みは、精度の高い部品を作る中小企業が多く存在するということ。

おそらく、この部分は韓国と圧倒的に差別化できるところなのであろう。

なぜなら、これはスキルの問題ではなく、文化・風土の問題だから。

単なるスキルの問題であれば、努力次第で追いつかれるのだが、その土台の部分となるとそう簡単にはいかない。

逆に言えば、日本はこの強みをもっと生かす戦略をとるべきなのであろう。

また、これらをことを知るにつけ、日韓が同じ価値観を共有することは極めて難しいと思ってしまった。

今の日韓関係がそのことを象徴しているような気がする

2013年11月 2日 (土)

中国人と日本人/邱永漢

Photo  一口でいえば、日本人は職人的気質の国民であり、中国人は商人的性格の国民である。職人は自分の仕事とか、仕事の出来栄えに対しては一家言を持っているが、それ以外のことについてはほとんど意見を吐かない。国際会議に出ている日本人の演説をきいて、日本人には主体性がないとか、自己主張がないという批判をよくきくが、職人に自己主張を期待するのはないものねだりであろう。職人は政治や外交についてはもともと関心がないし、意見もない。その代わり自分の守備範囲内の物のつくり方やできあがった製品の完成度に関しては、仕事熱心なだけに一家言も二家言も持っている。

著者によると、日本人は職人気質の国民、中国人は商人的性格の国民だという。

これはある意味、当たっているかもしれない。

確かに日本人は小さな改良や改善が得意だ。

料理人でも、大工でも、機械工でも、コンピュータ技術者でも、世間を驚かすような大発明は滅多にやらないけれども、小さな改良や手直しを怠らないので、消費者が喜んでくれるような商品が次々とできてくる。

最近話題になっている〝おもてなし〟も、職人気質との関連が強い。

接客を究めると、おもてなしになる。

オタク文化もそうである。

自分のやっていることがお金になるかどうかは関係なく一つのことにのめり込む。

そこにあるのは、究極の自己満足の世界である。

これはおそらく日本独自のものなのだろう。

今後世界はますますグローバル化してゆくだろう。

そんな中で勝ち抜くためには、日本人の特質である職人気質という強みを最大限生かすことであろう。

それらを生かした商品やサービスを提供できる企業が生き残っていくのではないだろうか。

2013年11月 1日 (金)

習近平と中国の終焉/富坂聰

Photo  外国人が共産党支配を過大評価してしまうのは、13億人にもおよぶ国民がいかにも権力に抑えつけられて大人しくしているように見えるからであろう。この視座で見たとき、共産党が何を基準に判断し行動するのかを理解するのは難しくなる。
 中国共産党は、常に国の本当の主役である人民を意識して政策を行っている。はっきりいえば、共産党は人民を恐れている。

中国で問題が起きると必ずといって良いほどテレビのコメンテーターとして登場する富坂氏。

氏は、中国共産党が一番恐れているのは人民である、と述べている。

そしてこの視点で見たとき、すべてが見えてくるという。

日本から見ると、いかにも中国共産党が人民を押さえつけているように見える。

しかし、中国共産党にはそんな力はない。

情報統制するのも、尖閣問題で強硬になるのも、すべて人民が恐いからといえる。

社会主義の中国が改革開放の名の下で市場経済の要素を持ち込んだ瞬間から、国民は豊かな暮らしを求めるようになった。

豊かさに触れた13億人の国民は、やがてお腹いっぱいに食べられ、子供に教育を与え、1年に1回は家族旅行ができるような生活を希求するようになっていく。

では、それを等しく国民に与えることはできるのか。

答えはノーである。

そうした等しく豊かな社会を思い描くことが13億の人口を抱える国にとって巨大な幻想であることは、いまや誰もが知るところである。

今、中国の社会を支配しているのは、社会主義的な平等ではなく、自由競争が生んだ格差である。

今や、群衆デモは年間20万回ないしは30万回に及ぶという。

こうした事態を前に、中国共産党はさらにその先を恐れている。

今後もし中国が本格的な経済の失速段階に入ったらどうなるのか。

人民の矛先は中国共産党に向かうことは明らか。

昨年、尖閣諸島を日本が国有化したことをきっかけにして日中間に軍事衝突の危機が囁かれる場面があった。

戦争によって両国経済におよぶ被害、さらには国際社会のなかでの地位の低下などを考えれば、手にできる利益などほとんどないことは中国共産党もわかっているだろう。

だが、彼らが絶対に戦争に踏み切らないかといえば決してそうとはいえない。

対日政策に憤りを感じた大衆によって権力の座から引きずり下ろされるという恐怖が迫ったとき、指導部がどのような判断を下しても不思議はない。

大衆による為政者への圧力は、それほどの力を秘めているといえる。

中国共産党vs人民という構図。

今後もしっかりと見極めていく必要がありそうだ。

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »