成功する人の残酷な思考法/いつか
成功者は、努力を見せない努力をする。人一倍努力して這い上がってきて、そこから、「天才」として見せるデフォルメの仕方がうまい。
かつてアイデアの天才と呼ばれた人間と仕事をしたことがある。
でも、私は知っていた。彼は、天才ではなかった。超秀才だったのだ。
彼はひとつの仕事のために膨大な本を読んで研究する。プレゼンや企画会議の前などは、徹夜なんてザラである。そうして納得できる作品を、死にものぐるいで創り上げていたのである。彼の書斎に行ったとき、偶然、一冊の本が落ちてきた。パラパラめくると、ページが真っ赤に見えるくらい、びっしりと赤字が入り、自分の思うことが書きつらねてあった。そこから全部パクっている。
努力家なんだな、と私は素直に尊敬していた。でも、そんな勉強量をねぎらうと、とたんに、耳を赤くして、本をサッと片づけた。そのあと、まるで何ごともなかったように振る舞った。
世に「天才」と呼ばれている人たちがいる。
その人は紹介されるとき「○○の天才」と呼ばれる。
彼らは「天才」と呼ばれるのを好む。
しかし本当の意味での天才はどの位いるのだろうか。
以前「天才」という本を読んだとき、印象に残った記述があった。
それは、世に「天才」と呼ばれている人たちを調査したとき、共通点があったということ。
そのキーワードは「1万時間」
つまりピカソやビートルズや、その他、誰もが天才と認める人たちが世に出るまでを調査したところ、彼らは共通して、最低でも「1万時間」、その技術・技能の習熟のために費やしていたということ。
それに当てはまらない人物は誰ひとりいなかったという。
つまり、彼らをもし「天才」と呼ぶのであれば、それは「努力の天才」と呼ぶべきだということ。
だだし、彼らはその努力の部分を人には見せない。
またそのことをもっとも嫌う。
一見、何の努力もしていないように振舞う。
だから周りは錯覚する。
この世には多くの成功者がいる。
しかし、彼らの大部分はその成功を手に入れるために凄まじいばかりの努力をして今があるのだということを忘れてはならない。
ただ、そこに至る階段を隠しているだけである。
見た目にごまかされてはならないということであろう。
そして、成功したいと思うならば、努力から逃げてはならないということである。
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