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2014年2月の28件の記事

2014年2月28日 (金)

日本人が世界に誇れる33のこと/ルース・ジャーマン・白石

33 長男が二歳のときのことです。里帰り先のハワイでブランチを食べていました。(中略)
 さて、気持ちよく食事を終え、子供の散らかしたテーブルを整え、お皿を重ねていると、それまでざわざわしていたレストランが、突然静まり返りました。
 ふと周囲を見回して、ほかのお客たちやウェイトレスの視線を浴びていることに気がつきました。
 ウェイトレスがやってきて、こう言います。
「10年間ウェイトレスをやっているが、自分たちで後片づけをしているお客様は初めて! Great!」
「日本では普通ですよ。大丈夫、こちらでやります!」
 このやり取りが日本の「常識」と、世界の「常識」の差なのです。

著者は24年間日本に在住するアメリカ人。

著者が言いたいのは、日本にはとても大事なオンリーワンが健在だということ。

そのオンリーワンは、日本人にとってはあまりにも当たり前な部分で、日本人自身が海外に長期的に居住することでもなければ気づかないもの。

確かに、本書で記している内容は日本人としては当たり前のことである。

東京ではクラクションがほとんど鳴らないとか、

何かをされるとすぐにお礼の言葉を述べるとか、

現金の落し物をポケットに入れないとか、

これらは日本人にとっては当たり前のことである。

今、グローバル化ということが盛んに言われているが、それがもし欧米化と同義語であるならば、それは間違った方向性だといえる。

「グローカル」という造語がある。

「グローバル」と「ローカル」を合わせた言葉である。

今後求められるのは、何でも欧米に日本を合わせるのではなく、日本のよいものを発信し、それによって、日本化を進めていくという方向性ではないだろうか。

日本には日本人が気づいていないオンリーワンが多く存在する。

もっと日本人は自国の文明文化に自信を持ってよいということである。

2014年2月27日 (木)

超思考/北野武

Photo 死刑が極刑であるためには、ひとつの前提が必要だ。「人間がいちばん恐れるのは死であって、死は人生における最悪の出来事だ」という前提が。世の中の人がみんなそう思っていて、はじめて死刑が極刑として成立する。
 現代では、その前提が崩れてしまっている。生きることに価値があるんだかないんだか、よくわからないという人間がやたらと増えた気がする。
 自殺者がこれだけ増えているのも、不況のせいだけではない。一緒に心中してくれる相手だの、自分を殺してくれる人間だのをインターネットで募集するような時代に、死刑が極刑だと考えるのは幻想でしかないのだ。

今や先進国の中で死刑制度があるのは、日本とアメリカだけである。

しかもアメリカは州によっては死刑制度がない。

日本で死刑制度がいまだに存続しているのは、それが犯罪に対する抑止的効果があるからというもの。

また、被害者の家族の報復感情を満たす意味を持つというもの。

しかし、今、自殺者は年間3万人近くいる。

少なくともそのような人たちにとって死刑は抑止効果とはならない。

しかも、死刑になればもっとも苦痛のない楽な死に方をさせてもらえる。

ギロチンだって、元々はフランスの医者が死刑囚を苦しみから救うために考案したものだという話を聞いたことがある。

そのように喜んで死ぬ者を見ても、被害者の家族の報復感情は満たされはしない。

死刑に賛成とか反対とか言う前に、死刑の意味というものも時代によって変化するということを考えた方がいい。

本書でタケシの言っていること、意外と本質をついているような気がする。

2014年2月26日 (水)

判断と決断/中竹竜二

Photo 日本の社会においては、特に「決断」がおろそかになっているのではないかと思うことがよくある。
 低成長時代が続き、企業の業績が低迷する中で、リスクを回避する傾向が強い。だから、過去の成功事例やデータを一生懸命分析する。もちろん、それによって現状を正しく把握する、つまり、現状を判断することは大事なことだ。判断の甘さが、決断の失敗を招くことは既に書いた通りだ。
 しかし、たとえ正しい判断ができたとしても、未来に向かう決断を過去の成功事例やデータの分析にだけ頼っていたら、未来に新しいものは何も生まれない。同じことを繰り返すだけになってしまう。

著者の定義によると、判断とは、過去の事象について評価すること。

決断とは、未来の事象について方向性を打ち出すこと、である。

更に、判断は、過去から現在に起こった事柄が混沌としているとき、それを整理すること。

だから、判断には、過去から現在までのさまざまなデータ、情報を集めることが重要。

集めたデータや情報をある基準に照らして、いい・悪い、適している・適していないなどを見極められている。

これが、正しい判断を終えた状態。

混沌とした状態が整理されることで、人は冷静になれる。

一方、決断は、選択肢を前に迷っているとき、未来の方針を明らかにして、一歩踏み出すこと。

だから、決断には、過去から現在までのさまざまなデータ、情報から導いた判断を材料に使う。

それに加えて、未来をイメージして、不測の事態や新たな可能性も織り込む。

そして最後は覚悟をもって決断する。

覚悟がなければ、決断を実行していくプロセスでぶちあたる壁を乗り越えることができない。

見えない未来に向けて新たな方針を打ち出すことで、新しい未来をつくることができる。

強い決断をした後には、そこにワクワク感が生まれる、という。

そして、今は、未来をつくりだすようなワクワク感の生まれる決断。

これが必要ではないだろうか。

2014年2月25日 (火)

誰が坂本龍馬をつくったか/河合敦

Photo 龍馬の若いころにこんなエピソードがある。
 龍馬が信太歌之助という柔術の達人と立ち合ったときのことだ。
 龍馬は簡単に組み伏せられ、しめ落とされて気絶してしまった。勝負あったわけだが、龍馬は正気に戻ると、「まだまだ」と言って、再び信太に飛びかかった。しかし結果はまたも同じ。それでも懲りずに、何度も挑みかかった。最後はついに信太のほうが根負けし、「お前のような強情な奴は初めてだ」と呆れたという。
 そんな負けずぎらいの性格が、龍馬の実行力をさらに強固なものにしたといえる。そして、この粘り強さが、当時不可能といわれた「薩長同盟」実現に結びつくのである。

人生は出会いで決まる、という。

本書は坂本龍馬がその成長過程において様々な人々との出会いがあり、それがいかに龍馬の人格形成や思想形成に大きな影響を及ぼしたかを記している。

薩長同盟や大政奉還、あるいは船中八策といった龍馬が実現していった数々の政策や構想は、そもそも龍馬の独創ではなかった。

その大半は、龍馬が出会った第一級の人びとがすでに唱えていたことだった。

ただ、龍馬のすごさは、そうした人びとの意見をうまくまとめあげ、盛んに運動して、これらを実現せしめたことにあるといえる。

薩長同盟斡旋の経緯をみてもわかるように、龍馬は何事につけ、とにかくしぶとかったようだ。

いったん取り組んだ事物については、途中で投げ出すようなことは絶対にしない。

うまくいかなくても、二の矢、三の矢を放ち、最後まであきらめない。

この龍馬がもともと持っていた良い素材が様々な人びととの出会いで磨かれ、花開き、私たちが知っている坂本龍馬が誕生したといって良い。

いずれにせよ、勝海舟、久坂玄瑞、西郷隆盛等、多くの人びととの出会いなくしては、歴史上の偉人としての坂本龍馬は誕生しなかったといってよい。

2014年2月24日 (月)

慧眼/大前研一

Photo なぜ日本人は「What' If~?」の思考法が不得手なのか。理由は2つ考えられる。
 1つは、1000年以上にわたり中国や欧米から文明を受け入れてきたため、自分でゼロから考えなくても、どこかに存在しているはずの答えを見つけてくればいいことに慣れきってしまったこと。日本人にとって答えは考えるものでなく、探すものなのだ。
 もう一つは、日本特有の言霊信仰。悪いことはなるべく考えない。言ったら本当にそうなってしまいそうだから口にしない。言霊に対する畏れが日本人のDNAに組み込まれていて、最悪の場合を考えることを避けて通るクセがついてしまったのではないか。

物事をゼロから考える、日本人はこれが苦手である。

頭が良い、悪いの問題ではなく、苦手なのである。

原因は教育の問題と、日本独特の思考特性である「言霊」の問題だと考える。

特に、日本の戦後の教育は「答えを自分で探し出す」という教育を放棄してきた。

回答を求めて知識を詰め込もうと、ノウハウ本を次から次へと買う人は多い。

しかし、知識やノウハウをいくら詰め込んでも、それはしょせん、他人の意見。

重要なのは、がぶ飲みするのではなく、自分の頭で考える力である。

そしてもう一つの問題、「言霊」について。

これは日本人の思考法の根っこの部分を支配している。

それだけにたちが悪い。

言霊とは自分の口から発した言葉に魂が宿り実現してしまうという考え方。

そうなると「もしも・・・」という考え方ができなくなる。

「もしも、中国が攻めてきたら・・・」

「もしも、原油の輸入がストップしたら・・・」

こう発言した途端、「縁起でもない」ということになってしまう。

これを脱するには、まずそのような実態を知り、それを変える訓練を繰り返す以外にない。

未来永劫絶対に変わらないものだと考えないことである。

2014年2月23日 (日)

富の王国 ロスチャイルド/池内紀

Photo 同族経営、同族結婚は遅かれ早かれ破綻をきたし、手痛いシッペ返しをくらうものだが、ロスチャイルドは二十世紀になっても古いスタイルを守りつづけた。医学の声を入れて同族結婚は放棄したが、同族経営は原則としてゆずらない。

世界の大富豪ロスチャイルド。

この名は誰もが知っている。

大金持ちの代名詞にもなるほどだ。

しかし、その実態は意外と知られていない。

そのような問題意識のもと書かれたのが本書である。

そもそもロスチャイルドという名前。

これが商いの名前であることは知られていない。

イサーク・エルヒャナンという人物。

彼が、知られているかぎり、最初の〝ロスチャイルド〟である。

五百年ちかく前のことだが、フランクフルトの一角に金融業の看板を出した。

当時、金貸し業者は戸口に赤い標識をぶら下げる習わしがあった。

ドイツ語で「赤い」はロート、「標識」はシルト、そのころの書き方で綴りにすると、《Rothschild》である。

ドイツ語ではロートシルト、英語読みするとロスチャイルド、ずっとのちのことだが、商いの名を、そのまま姓にした、というのである。

その後、ロスチャイルド一族は、金融業を中心に富を蓄積していく。

そして政治的にも力を増していく。

時代の変化の先手を打つようにして、異分野の成長株に投資を怠らない。

七代目を迎えた現在にあって、ロスチャイルドは世界に君臨している。

しかも、ひそかに、めだたず、ひっそりと根を張って、君臨する者につきものの敵をつくらない。

ロスチャイルドは典型的な同族経営である。

同族経営は前近代的であるという印象があるが、やり方によっては極めて優れた経営システムにもなり得るということをロスチャイルドは示している。

同族経営を見直すという意味でも非常に面白い。

2014年2月22日 (土)

なぜ、間違えたのか?/ロルフ・ドベリ

Photo 「イメージのワナ」のせいで、わたしたちは、危険に関する誤ったイメージを抱きながら暮らしている。たとえば、航空機の墜落事故、自動車事故、または殺人犯に命を奪われるといったセンセーショナルな危険については、いつも過剰に敏感になり、必要以上に危険を感じる。ところが、糖尿病や胃がんといったあまりセンセーショナルではない原因に対しては危機感がない。爆弾テロが起こる可能性は、わたしたちが思っているよりもずっと低い。それよりもうつ病になる可能性のほうがはるかに高いのである。

私たちの判断がいかに間違いやすいかを本書は述べている。

ここで言っている「イメージのワナ」とは、物事をイメージによってとらえることによって本質的な部分を見失ってしまうというもの。

これは私たちの日常に多く起こっている。

例えば、多くの人は最近殺人事件が増えていると思っている。

しかし、統計の数字をみると殺人事件は年々減ってきている。

実際の数字と、人々の認識が違うのである。

それはマスメディアによる影響が大きい。

特にテレビはセンセーショナルな話題に飛びつきやすい。

やはり視聴率がすべてだから。

それによって、偏った報道になってしまう。

客観報道をうたっておりながら、実際はかなり偏りがある。

また、中には明らかに情報を操作しているというようなものもある。

悪意を感じられるような報道もある。

それにより、多くの視聴者は間違った判断を下してしまう。

マスメディアの責任は大きいと言えよう。

2014年2月21日 (金)

5%の人を動かせば仕事はうまくいく/長谷川和廣

Photo 私の経験からいって確実なことは、人に動いてもらえる人なのかどうかは、タクシーの運転手さんへの口の利き方を見ればわかります。運転手さんに行き先を尋ねられたとき、
「東京駅」
 というように、ぶっきらぼうに地名だけを告げる人は、まず人を動かせないタイプだと判断してかまいません。

5%の社員の心をやる気にさせ、その心に火をつけることができれば、その火はすぐに全体に飛び火して、組織はガラリと変わり始める。

これがこの本が言っていること。

では、そのように人に動いてもらえる人かどうかはどこを見ればわかるのか。

実は、タクシードライバーへの口のきき方でわかると言っている。

これは面白い視点である。

そして本当だと思う。

と、いうのは、私は昔、1年間だけ、東京でタクシードライバーをしたことがあり、その時の経験とも合致するから。

確かにそのときの経験でも、明らかに社会的地位の高い人の中にもドライバーに対して丁寧な口のきき方をする人がいた。

一方、若者や主婦の中には、非常にぞんざいな口のきき方をするものがいた。

そして、意外とそんなところを周囲の人は見ているものだ。

人の社会的地位や会社の役職によって露骨に口のきき方や態度を変える人、

おそらくそのような人は、人を動かすことはできないであろう。

 

2014年2月20日 (木)

憲法がしゃべった。/木山泰嗣

Photo さて、日本の「基本的なルール」だけど、僕が存在する1番の意味、わかるかな?
 それは、「国をしばる」ことなんだ。
 国の「基本的なルール」というのは、国の活動にしばりをかける。
 くさりでグルグルにしばる。
 そういうことなんだ。
 誤解されることもあるけれど、僕はきみたち、つまり日本の国民をしばるものではない。
 きみたちが自由になれるよう、国の活動をしばっているんだ。

憲法改正の論議が盛んになってきているが、そもそも憲法とは何なのか?

意外とわかっていない人が多いのではないだろうか。

憲法とは「国をしばる」もの。

この認識は意外とわかっていない人が多いのではないだろうか。

それを考えると、憲法96条はちょっとおかしいような気がする。

96条では、憲法改正には、両議院において、それぞれ総議員の3分の2以上による賛成と国民投票による過半数の賛成が必要だとされている。

これではまるで、政府が国民を縛っているような印象である。

国民が憲法を改正したいと思っても、国が反対すればできないのだから。

現に、日本では憲法は制定以来一度も改正されていない。

世界の憲法をみると、改正はけっこうされている。

韓国の憲法は1948年の制定から2010年までに9回、フランスの憲法は1958年の制定から2010年までに24回改正されている。

アメリカの憲法でも、1788年の成立から2010年まで約220年の間に、18回改正されている。

憲法をあたかも触れてはならない聖典のように扱っているのは日本くらいのものではないだろうか。

2014年2月19日 (水)

いざ志願! おひとりさま自衛隊/岡田真理

Photo 自衛隊が軍隊でないのは、多種多様な名称に表れています。
「表れています」というか「がんばって表しています」というか。
「軍」ではないので、自衛隊に「軍」と名の付くものは一切ありません。
 まず、自衛隊に属する人は「軍人」ではなく「自衛官」です。私も「予備役」ではなく「予備自衛官」です。
 防寒や保護のために手に被せる布は「軍手」ではなく「手袋」です。
 どこからどう見ても軍手のような材質、形状でも「手袋」です。
 足元には「半長靴」です。決して「軍靴」ではありません。
 そして自衛隊は軍隊ではないので「兵隊」もいません。
 いるのは「陸士」です(海上自衛隊、航空自衛隊は「海士」「空士」)。
「将校」もいません。「幹部」です。
 どんだけ重装備で実銃担いで何十キロと歩こうとそれは「行軍」ではありません。「行進」です。

本書は、酔った勢いで応募した予備自衛官補の試験に合格し、訓練に参加することになった著者の体験記。

あまり期待しないで読んだのだが、意外と面白かった。

普通に生活している国民にはあまり接点のない自衛隊が身近な存在として感じられてくる。

自衛隊は軍隊ではない。

少なくとも憲法では、日本は軍隊を保持しないということになっている。

だから、自衛隊で使われる用語も軍隊用語は排除されている、という。

でも、ここに日本が抱えている矛盾がよく表れている。

どんなに「軍手」を「手袋」と呼んだとしても、実体は「軍手」である。

「自衛隊」も、実体は「軍隊」である。

でも、いい加減、こんな言葉遊びはやめた方が良いのではないだろうか。

2014年2月18日 (火)

破天荒!/ケビン・フライバーグ、ジャッキー・フライバーグ

Photo「私たちは優れた顧客サービスを行う航空会社ではありません。たまたま航空業界に身を置いている、優れた顧客サービス組織なのです」

この言葉から思い出したのは、松下幸之助の言葉。

かつて松下幸之助はこう言った、

「松下電器は人を作る会社です。あわせて電気製品を作っています」

優れた経営者は、人を第一にするという共通点があるようだ。

サウスウエスト航空は、従業員ひとりひとりが経営者の立場で行動している。

また、従業員とその家族を会社という大家族の一員とすることで、人間関係を強固にしている。

そして正に破天荒なサービスを展開している。

そこで働く従業員は常識にとらわれず、仕事を楽しみ、人生を楽しんでいる。

サウスウエスト航空は、それまでのアメリカ企業の常識を破るような「破天荒な基本戦略」でビジネスの基本を変えた。

そして何よりも、創業者の一人であるハーブ・ケレハーという常識にとらわれない優れたリーダーがいた。

組織は一人のリーダーによってこうも変わるものか、と改めて考えさせられた。

2014年2月17日 (月)

世界中で採用されているのに日本人だけが使っていない日本流の働き方/原マサヒコ

Photo 「どうだ、これが5Sのうちの最初の2つ、整理整頓。せっかくだから、なぜこの2つが最初にくるかを教えておこう」
 「は、はい」
 「この2つはな、時間を作り出してくれるんだ。一歩よ、サラリーマンが1年間働くうちの、『モノを探している時間』はどのくらいか知っているか」
 「モノを探している時間ですか……いえ、ちょっと」
 「150時間といわれている。150時間と言ったらほぼ1か月。1年間のうちほぼ1か月の間、職場でモノを探しているということだ」
 「1か月? そんなにですか?」

整理というのは必要なモノとそうでないモノを区別して、必要でないモノを捨てること。

そして、整頓というのは『整理して残った必要なモノ』を分かりやすく表示させていくこと。

この二つがどうして大事なのか?

それはサラリーマンがモノを探している時間は、150時間にもなるから。

そして整理・整頓を徹底することによって、それを限りなくゼロに近づけることができるから。

このように数字で示されるとインパクトがある。

整理・整頓を徹底することによって、1年間に150時間の労働時間の削減が可能となる。

つまり、整理・整頓はカネになるということであろう。

本書ではトヨタがやっていることが物語形式で紹介されている。

5S、多能工、視える化、非常識な目標等々、世間でも知られている手法ばかり。

問題は、それらをどれだけ徹底できるかということであろう。

2014年2月16日 (日)

私の名前は高城剛。住所不定、職業不明。/高城剛

Photo いま、時代にとって必要なのは、あたらしい生き方の創造でしょう。デザイン、スタイルの時代を経て、生き方そのものに創造性を見いださなきゃいけないほど、時代は窮屈になってしまいました。あたらしい生き方を提案できる者、クリエイションできる者が、真の二十一世紀のクリエイターだと思います。

高城剛という人物のことを私はあまりよく知らない。

せいぜい沢尻エリカの元夫であるという位。

でも、この本を読んでみると、かなり才能のある人であるということがわかる。

会社を世界のいくつかの国で経営したり、そこで映像を作ったり、音楽を作ったり、ホテルを作ったり、循環農業システムを作ったり、風力発電所を作ったりしている。

日本ではファッションTVのクリエイティブ・ディレクターなど、メディア関連企業の仕事もやっている。

本のタイトルが職業不明となっているが、職業という枠組みになかなか当てはまらないという意味でそのように言っているのであろう。

今という時代、なんとなく日本全体が閉塞感に覆われているような気がする。

それだけに、著者が言うように、生き方そのものを創造することが求められている時代になってきているのかもしれない。

2014年2月15日 (土)

壁を越えられないときに教えてくれる一流の人のすごい考え方/西沢泰生

Photo「もし下足番を命じられたなら、日本一の下足番になりなさい。そうすれば誰も君を下足番のままにしてはおかない」by小林一三(阪急東宝グループ創業者/宝塚歌劇団生みの親)

一流の人とそうでない人との違いは何か?

それは「考え方」にある。

一流の人は超ポジティブな人が多い。

環境や人のせいにしない。

そもそも私たちがマイナスに考えていることの9割は起こらないという。

だったら、その起こらない9割のために悩むのは人生の無駄というもの。

上記の小林一三の言葉。

自分の仕事のことで悩んでいる人をハッとさせる言葉である。

自分の目の前の仕事に不満を持っている人はどの位いるのだろう?

おそらく、多くの人が不満を持っている。

特に新人の頃は、面白い仕事はやらせてもらえないもの。

その時、「なんで俺がこんな仕事を」と、くさってしまうか、それともその目の前の仕事に全力で取り組めるかによって、その後の人生が決まってしまう。

考えてみたら、多くの人が成功のチャンスの芽を自ら摘み取ってしまっているのかもしれない。

2014年2月14日 (金)

里山資本主義/藻谷 浩介;NHK広島取材班

Photo「すごくおいしい水もあって、森もあって、全部あるじゃないですか、いいじゃないですかって言うんですが、地元の人は、なんかやっぱりスーパーとか色んなものが買える場所があった方が若い人はいいんじゃないか、という考えをもっているらしいんです。そうではなくて、地元の人が持っている色んな知恵とか、自立して生きていける力とか、そういうことを今すごく必要としていて、それを学びたくてきているんですね」
 安達さんの言うことが常識になれば、地方は激変する。都会に住む人を巻き込んで、日本全体が大きく変わると、私たちは確信している。

里山資本主義は、「地域」が復権しようとする試みである。

大都市につながれ、吸い取られる対象としての「地域」と決別し、地域内で完結できるものは完結させようという運動が、里山資本主義である。

お金が機能しなくなっても水と食料と燃料を手にし続けるための、究極のバックアップシステムである。

グローバルな経済システムに組み込まれる中で、「仕方がない」とあきらめていた支出を疑い、減らしていけば、「豊かさ」を取り戻すことができるという発想。

そしてそれによって経済が「我々のもの」になっていくというもの。

それは単にグローバルに流通する資源からの脱却を目指すというだけでなく、「鉄やコンクリートといった硬くて強いもの」を好む20世紀型の「マッチョな経済」の形にまで疑問を投げかける、価値観の転換さえ含んでいる。

本書を読んでみて、「多様な生き方」という意味では面白いと感じた。

ただし、「資本主義」というところまで行くと、少し疑問を感じてしまう。

著者は「里山資本主義」を「マネー資本主義」の対立軸として捉えているが、これからの日本に必要なのは、この両方ではないだろうか。

グローバル化する世界経済の中で、あくまでその中で勝ち抜くことを目指し、世界と戦おうという道。

おそらくこれから逃れることはできないだろう。

一方、鳥がさえずる地方の穏やかな環境で、お年寄りや子どもにやさしいもうひとつの文明の形をつくりあげて、都会を下支えするような生き方を模索していこうという道もある、と。

このような試みであれば、あってもよいような気がする。

ただしこれはあくまで「資本主義」という大げさなものではなく、サブシステムという位置づけではないだろうか。

2014年2月13日 (木)

好きなことに、バカになる/細野秀雄

Photo 世の中、便利になりすぎたのではなく、いまだ便利が不足しているのです。科学の進歩が不完全で中途半端なのです。
 不完全で中途半端だから、公害のような弊害も生まれてくる。そう考えれば、進歩の過程で発生する一部の弊害を拡大してとらえ、「便利はいけない」「科学は悪だ」と非難することが短絡的な見方であることが理解してもらえるはずです。それはむしろ、科学の発展の足を引っ張り、その進歩を中途半端なままにとどめててまう恐れさえあります。

「もう充分に便利になったのだから、もうこれ以上便利になる必要はない」という人がいる。

それに対して著者は、「今だ便利が不足している、だから問題が起こるのだ」と主張する。

つまり科学の発展が中途半端だから様々な問題が起こるのだと。

自動車事故が起こるのは、まだ自動車の発展が中途半端だから。

飛行機が事故で落ちるのは、まだ飛行機の発展が中途半端だから。

もし、自動車に乗るから事故が起こる、だったら自動車なんかいらない、と言ったらどうなるのか。

自動車に乗るという便利さを捨てることになる。

自動車に乗れないという新しい不便さを生み出すことになる。

今の原発の問題も、このような発想で考える必要があるのかもしれない。

2014年2月12日 (水)

リー・クアンユー、世界を語る/グラハム・アリソン、他

Photo 私は民主主義がかならずしも発展につながるとは思っていない。むしろ、国家の発展に必要なのは民主主義ではなく、規律だと思っている。民主主義が蔓延しすぎると、無統制や無秩序につながり、国家の発展を妨げるからだ。政治制度の価値を最後に決めるのは、国民の大多数が生活水準を引き上げられる社会を確立する助けになるかどうか、加えて、個人の最大の自由が、他の人の自由とその社会で共存できるかどうかだ。

リー・クアンユーはシンガポールの初代首相。

首相就任以降、長期にわたり権威主義的政治体制、いわゆる「開発独裁」を体現し、独裁政権下ながらシンガポールの経済的繁栄を実現した。

リー・クアンユーが政権に就いた当時、1人当たりの国民所得は年に400ドル程度だった。

それを5万ドルを超るところまで発展させた。

彼に鼓舞された多民族国家が、アジア太平洋地域の情報と技術の中心地になっている。

彼の指導力が実を結び、中規模な都市が太平洋地域を結ぶ輸送ルートの拠点になったばかりか、世界有数の経済国家に変わった。

ここでリー・クアンユーが民主主義について語っている内容は興味深い。

彼は「私は民主主義がかならずしも発展につながるとは思っていない」と語っている。

確かに民主主義には多くの欠点がある。

民主主義はある意味、面倒なシステムである。

民主主義では意思決定は多数決による。

国民によって選ばれた議員が多数決によって意思決定をし、国の方向性を決めていく。

ところが、国民の支持が重要ということから、どうしても人気取りに陥りがちになる。

ポピュリズムや衆愚政治になってしまう恐れもある。

「決められない政治」になってしまうこともよくある。

意思決定はどうしても遅くなる。

それよりは優れた一人の指導者がその責任において独裁的な形で国を導いていった方がうまくいくという論は確かに一理ある。

そして、シンガポールはその一つの成功例であると言える。

また、他にも独裁国家で経済発展している例が多くある。

中国などはその最たる例であろう。

インドが中国に迫るような国民を抱えておりながら、中国ほど加速度的に経済発展しないのも、インドが民主主義の国家だからだとも言える。

ただ、多くの欠点があるものの、大多数の先進国はこの民主主義を採用している。

それは、現時点では民主主義がベストではないが、ベターな意思決定のシステムだと考えているからではないだろうか。

2014年2月11日 (火)

繁栄し続ける会社のルール/小宮一慶

Photo 私は常々こう思っています。人間は、働きがいを感じることができれば、お尻を叩かれなくとも自ら「動く」ものだと。お客さまのために良い仕事をしようと誇りや信念を持つ社員になるよう育てていけば、そして、それにふさわしい待遇と地位を与えていけば、ますます仕事に邁進してやる気も出る。最終的には、「この会社のためなら命を懸けてもいい」と思うまでになるのです。

会社という組織は、社員一人ひとりの働きによって成り立っている。

それだけにどうすれば社員が「働きがい」をもって働いてくれるか、は重要課題である。

人はお金のためだけに働いているわけではない。

だからどんなに給料を上げても、それによって社員か働きがいをもってくれるわけではない。

むしろ、自分の作った、提供した商品やサービスがお客さまの役に立っている、とか、

自分はほかの社員から頼られていると感じると、「働きがい」高まるもの。

それによって「働くことの意義を見出すこと」ができるからである。

つまり「働きがい」とは、「働くことに意義を見出すこと」ということができる。

では、「働くことに意義を見出す」と、どうして人は働きがいを持つことができるのか。

それによって「自尊心」や「自負心」が湧いてくるからである。

自尊心とは自分はかけがえのない存在だと思う気持ち、

自負心は自分ならできると思う気持ち。

これが「働きがい」を生み出す。

いかに「自尊心」や「自負心」を社員に持ってもらえるのか?

重要な経営課題だと思う。

2014年2月10日 (月)

人を動かせるマネジャーになれ!/ブライアン・トレーシー

Photo 連合軍によるノルマンディー上陸作戦が開始された日だ。あれは人類史上最大の海からの上陸作戦であり、激しい戦闘が何時間もくり広げられた。そして連合軍はついに勝利し、フランスのノルマンディーに上陸を果たしたのだ。その勝利は1945年4月のドイツ降伏につながった。上陸作戦が終わると、連合軍総司令官のドワイト・アイゼンハワー元帥は、作戦が失敗に終わったときに備えて用意しておいたメモを部下たちに見せた。マスコミに発表する内容を書いたものだ。
「上陸は失敗した。われわれの軍は撃退された。ノルマンディーに上陸することはできなかった。この作戦にともなうすべての決断において、責任はすべてこの私にある」
 メモにはそう書かれていた。

人を動かして目標を達成するのがマネージャーの仕事である。

では、どうすれば人は動くのか?

一言で言えば、感情によってだ。

人は理性では動かない、感情によって動く。

理性で動いているように見えても実際には感情で動いている。

そして、後付けで理性でもって説明する。

人を動かすのが仕事であるマネージャーは、常にこのことを頭においておく必要がある。

そのことにおいて、アイゼンハワーのエピソードは、参考になる。

偉大なリーダーの取りべき態度は一つ。

全ての責任を自分で引き受けること。

自分の指揮下で起こったすべての失敗や問題で、他人を非難するようなことは決してしない。

これがあって初めて部下は指揮官を信頼し自ら命を投げ出す。

全てのマネージャーに参考になるエピソードである。

2014年2月 9日 (日)

プロフェッショナルマネジャーの仕事はたった1つ/高木晴夫

Photo 優れたマネジャーは、「マネジメントに最も大切なたった1つのこと」を実践しているのです。ところが、世の中にマネジャーと呼ばれる人は山ほどいますが、その多くが、1つの「最も大切なこと」を実践できていないのです。
 こでちょっと視点を変えて、マネジメントされる部下の立場に立って考えてみてください。部下たちは多かれ少なかれ、次のような疑問や悩みを抱えています。
「自分にこの仕事が任された理由がわからない」
「自分の仕事は会社にとって本当に意味があるのか」
「自分の本来の力を発揮させてもらえない」
 つまり、会社における自分の仕事と存在の価値に対して、答えを求めているのです。

「配る」ということが、マネジメントの本質だ、と著者は言う。

マネジメントという仕事とは、ヒト、モノ、カネ、情報という経営資源を、部下を中心とした周囲に「配る」ことのくり返しである。

中でも、マネジメントにおいて、「情報」こそすべてのカギを握る存在。

マネージャーの仕事は、部下を動かして、仕事の目標を達成すること。

部下を動かすためには動機付けが大事。

つまり、マネジャーの本質的な仕事とは、「適切な情報を配る」ことによって、部下に動機付けを与え目標を達成すること。

動機付けのメカニズムはいたってシンプル。

仕事における動機付けで言うと、自分の仕事に対して何らかの「働きかけ」を行うと、仕事から「手応え」が戻ってくること、この条件さえ保たれていれば、動機付けは高く維持される。

手応えがプラスだろうとマイナスだろうと、 「働きかけ」→「手応え」→「働きかけ」→「手応え」→…… という循環構造さえ成立していれば動機付けは上がる。

その動機付けを上げるためにマネージャーは次の2つを行う必要がある。

第一に、ある仕事をさせて、手応えを得る、というサイクルを体験させること。

第二に、その仕事がどんな状況の中で、どんな意味を持つのかを認識させること。

マネジャーがまわりの状況をよく見て、部下にこの二つの「部下の行動をうながす」ような情報を配ると、マネジメントの質は上がる。

つまり「配る」ということが、マネジメントの本質。

これは、マネジメントの本質を捉えているのではないだろうか。

2014年2月 8日 (土)

コンピュータが仕事を奪う/新井紀子

Photo 絵画の真贋判定や脱税の摘発は、これまで専門家の仕事でした。特に、「どのように判定しているか」が言語化できないために、一層、それができる人の希少性が増し、労働の価値が高かった分野です。
 ところが、機械学習という技術が登場することにより、今まで、専門家が経験と勘によって「帰納的に」判断してきた「分類」という仕事の領域に、コンピュータが参入してきたのです。しかも、専門家が下した判断をコンピュータが覆すような事例も出てきたのです。

コンピュータが人間の仕事をどんどん奪っていく時代がやってきた。

たとえば、駅の改札にはもう切符を切る駅員の姿はない。

自動改札になったから。

かつてはタイプライターという筆記用具が存在し、女性の職業のかなりの部分をタイピストが占めていた。

けれども、タイプライターは既に博物館の展示物。

銀行の窓口の数も減った。

ATMがあり、各銀行のネットワークがつながっているから。

自宅の書棚を百科事典で埋めようとする人はもういない。

そこに検索エンジンがあり、ウィキペディアがあるから。

紙の新聞の発行部数は低下しつづけている。

ネットでニュースを読むことができるから。

中でもホワイトカラーは今後ますますコンピュータに仕事を奪われていくだろう。

20世紀後半に起こった情報科学という技術革新は、知的労働を代替するタイプの技術革新である。

その当然の結果として、その職を追われる人たちが出現する。

そしてそれは、コンピュータによって代替可能な職種についている人々、いわゆるホワイトカラーだということになる。

このことは、キャリア開発においても重要な視点になる。

私たちが「コンピュータが得意なスキル」を身につけても、勝負になるはずがない。

コンピュータが得意であるようなことを、いまさら勉強しても、それを職業として活かせる可能性は低い。

コンピュータはどのような仕組みで動き、何が得意で、何が不得意なのか。

一方、人間はどのように考え、何が得意で、何が不得意なのか。

それを理解した上で、コンピュータが不得意だけれども、人間ならば身につけることができるスキルを向上させることが、21世紀を生き抜くには不可欠になる。

コンピュータは知識を蓄積したり、手順どおりの作業をしたり、大量データから傾向をつかみとることが得意。

つまり、暗記と計算とパターン認識を最も得意とする。

だから、この分野でコンピュータと競争しても勝てるはずがない。

一方で、脳の働きのうち、論理と言語を駆使して高度に思考し表現する仕事は苦手。

また、人間の多くにとって容易な、見る・聞く・感じるなどの五感を使った情報処理も比較的苦手である。

人間は今後、コンピュータが苦手で、しかもその能力によって労働の価値に差異が生まれるようなタイプの能力で戦わざるを得ないということであろう。

人間の優位性を、私たちひとりひとりがいかに強化していくか。

それが、労働市場をコンピュータと争うことになる21世紀を生きる私たちにとって重要な課題になることは間違いない。

2014年2月 7日 (金)

孔子とドラッカー/一条真也

Photo  ドラッカーは大著『マネジメント』において次のように渋沢を絶賛している。
「率直に言って私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物のなかで、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界の誰よりも早く、経営の本質は『責任』に他ならないということを見抜いていたのである」

ドラッカーは経営の社会的な責任について論じた歴史的人物のトップに渋沢栄一の名を上げている。

渋沢は生涯で500以上の会社を設立している。

その範囲は、銀行、鉄道、海運、紡績、保険、鉄鋼、造船、ガス、電気、印刷、貿易、倉庫、ホテルというぐあいに経済のあらゆる面に関わる会社を設立した。

渋沢は会社というより500以上の業界をつくったといってよい。

彼の経営哲学は「論語と算盤」という言葉に集約される。

そして特筆すべきは、あれほど多くの会社を興しながら、財閥を作ろうとしなかったということ。

利益は独占すべきではなく広く世に分配すべきだと考えていたからであろう。

つまり、企業の社会的責任を常に考えていたといえる。

近年になって企業の不祥事が度々起こっている。

企業が儲け主義に走っているといわざるを得ない。

もう一度経営者は企業は何のために存在しているのかという「責任」から自らの経営を建て直す必要があるのではないだろうか。

2014年2月 6日 (木)

勝つ組織/佐々木則夫、山本昌邦

Photo たとえば、なかなかシュートを打とうとしない状況を打破するために、「もっと打たなきゃダメだよ」と言っても、ハーフタイムの緊迫した状況では弱い。選手の心にはなかなか届かない。口には出さなくても「そんなのは分かっているけど、なかなか打てないんだよ」という気持ちを抱いているかもしれない。でもそのときに、
「宝くじは、買わなきゃ当たらねえだろう」
 と言うと、こんなときに何言ってるの? という驚きや疑問が走ります。選手たちは私の真意が気になります。そこで、本当に伝えたいことを明かします。
「シュートも、打たなきゃ入らないよ」

本書は、なでしこジャパンをFIFA女子ワールドカップ世界一に導いた佐々木則夫氏と、元アテネ五輪男子サッカー日本代表監督の山本昌邦氏の対談。

その中で、佐々木氏は指導者にとって言葉が如何に大事かを語っている。

野球の監督は、試合中であっても個々の選手に語りかけたり、バッターボックスに立つ選手にサインを出したりと、事細かな指導をしたり指示を出すことができる。

しかし、サッカーの監督は試合中選手を見守るだけ。選手交代をすること以外、やることはない。

よく野球とサッカーの監督の違いを映画監督と舞台の演出家の違いに例えられる。

つまり映画監督はワンカットワンカット、細かな指導ができる。

ところが、演出家は舞台までの練習では指導できるものの、本番では見守ることしかできない。

それとよく似ているというのだ。

そのようなサッカー監督が、試合中、唯一、選手を指導することが許されるのはハーフタイムの時間帯である。

サッカーのハーフタイムは15分間。

女子サッカーの場合、最初の2分間、選手は着替えをするため、監督はロッカールームに入ることはできない。

ということは、実質、13分間ということになる。

しかも、選手はある種の興奮状態にある。

その中で、選手の心に届く凝縮されたインパクトのある言葉を語る必要がある。

くどくどとした言葉では伝わらないし、時間もない。

ではどのような言葉を選ぶのか。

監督の手腕が最も問われる瞬間である。

たとえば、シュートが少なかった前半の戦いぶりがあったとする。そのことは他ならぬ選手自身が痛感している。
会場のサポーターからも「もっと打て」とヤジが飛んでるかもしれない。

その時「シュートが少ないだろう」と監督が迫ったら、歯がゆさが増すばかり。

「そんなことわかってんだよ」と反発されるかもしれない。

選手から精神的ストレスを取り除きつつ、シュートの意識を植えつけるためにはどんな言葉を選ぶ必要があるのか?

そんなとき、最初に比喩を使い、次に本質を突く二段階の指示は非常に有効だと佐々木氏は言う。

最初に「何ソレ」と思わせ、次に「ナルホド」と思わせる。

それにより、その短い言葉が選手の心の奥深いところに届く。

結果、意識が変わり、行動が変わる。

読んでみて、なでしこジャパンのFIFA女子ワールドカップ世界一は単なるフロックではなく、佐々木監督の日頃の創意工夫の積み重ねの賜物であったことが良くわかる。

サッカーの監督に限らず、指導者はもっと言葉に対する感性を磨き、工夫する必要がある、と考えさせられた。

2014年2月 5日 (水)

5年後、メディアは稼げるか/佐々木紀彦

Photo 2011年7月9日号の英『エコノミスト』誌は、「未来のニュース」をテーマに特集記事を掲載しています。その中で、これからのジャーナリズムで求められる倫理基準とは、「客観性」ではなく「透明性」だと結論づけていますが、その意見に私も大賛成です。筆者のバックグラウンド、経歴、そして、政治的なスタンスまで披露した上で、その人間が「私はこう思う」と述べるのは一向に構いませんし、議論を活性化させるはずです。客観を装いつつ自分の思想を紛れ込ませた記事より、自分の立場を明確にして意見を堂々と述べた記事のほうが、読む方もすっきりします。

「客観性」ではなく「透明性」

重要な視点である。

新聞や雑誌、またテレビといったメディアで、よく「客観性」が問題になる。

しかし、本当の意味で「客観的」な見方というものができるのだろうか?

伝えるのが人間である以上、どうしてもその人の主観が入る。

だから、私は客観的なものの見方などありえないと思っている。

事実を伝える記事であっても、その切り口によって記者の主観が入る。

その時点で客観報道ではなくなってしまっている。

むしろ危険なのは、「客観性」をうたっておりながら、その中に記者の思想を紛れ込ませること。

これが一番危険である。

そして客観性をうたっているだけにたちが悪い。

新聞で言えば、朝日や毎日は左寄り、読売や産経は右寄りの記事となっている。

私はそれを前提に記事を読む。

しかし、知らない人はどうなのだろう。

それを客観報道と思いこんで、知らない内に洗脳されることになってしまう。

そうなったら罪は思い。

ところが、多くのマスメディアは「客観報道」を建て前にしている。

逆に言えば、そのような建て前を全面に出すことによって国民をだましているとも言える。

もう、そのような欺瞞はやめるべきではないだろうか。

2014年2月 4日 (火)

本当は誤解だらけの「日本近現代史」/八幡和郎

Photo 中国が失敗し、日本が成功したのは「中体西用」に固執した中国とちがって、「和魂洋才」にこだわらなかったことによる。この態度は、現代においても意味をもっている。なぜ、日本が多くのノーベル賞を獲得し、中国や韓国は取れないのか。それはひとえに科学的精神という西洋的なものを日本人が受け入れたからによる。「和魂洋才」でなければというかたくなな気持ちであれば、それは無理だったろう。
 結果として、和魂であれ漢魂であれ、活用することを否定するのでない。ほかの東洋人と違って偏狭な自国愛へのこだわりを排除し得たことこそが、日本人の成功を生んだのである。

日本がアジア諸国でいち早く近代国家の建設を実現できたのは「脱亜入欧」の精神で
文明開化に成功したからだと言える。

ちなみに「脱亜入欧」とは、「後進世界であるアジアを脱し、ヨーロッパ列強の一員となる」ことを目的とした、日本におけるスローガンや思想である。

一方、中国には「中体西用」という言葉がある。

中国の儒教を中心とする伝統的な学問や制度を主体に、富国強兵の手段として西洋の技術文明を利用すべきだという考え方である。

結局はこの考え方はうまくいかなかった。

プロイセンの名宰相、ビスマルクは「海軍の強化を図るとき、日本はそれを運用する学問や制度も導入しようとするが、中国は艦船の性能の善し悪しにしか興味がない」と語ったという。

つまり本質的なものを究明し、その根本から採り入れた日本と良い所取りをしようとした中国の差である。

黒船が来航して西洋文明の優位に衝撃を受けてからの日本人は、かなり大胆に旧来の考え方や制度を捨てて西洋文明を採り入れた。

しかも、文明を支える周辺の制度や考え方も同時に研究して、一体としての導入を心掛けた。

導入にあたっては、どの国のものが一番よいかを慎重に選び、あるいは改良すべきところは改良し、さらに最初は直輸入し、時間がたつにつれて独自のものをつくりあげて入れ替えていった。

結局はこれが成功した。

つまり日本の成功は、まさに「和魂洋才」だけではダメだということを理解したことに基づいていたということである。

日本の柔軟性が近代化を促進したということであろう。

そう言えば、今だに中国や韓国には偏狭な自国愛へのこだわりがある。

中国の中華思想、韓国のウリジナルなどその典型である。

これを捨てない限り、本当の意味での近代化はできないのではないだろうか。

2014年2月 3日 (月)

レジーム・チェンジ/中野剛志

Photo 公共投資には、「無駄」という批判が根強くあります。一般に、公共投資が無駄であると言われる時、それは、あまり利用されないような道路や公共施設を政府がやたらと乱造しているということを意味しているようです。
 しかし、今、議論している公共投資の意義は、建設された土木施設の有効利用についてではありません。あくまで、土木施設の建設という経済行為そのものが、需要不足を解消し、物価の下落を止めるというところにあります。

公共工事には、バラマキという言葉がすぐついてくる。

現に、今も、公共工事に予算をつけようとすると野党からバラマキという批判があがる。

しかし、これこそ「デフレ・レジーム」である。

インフレ時の公共工事は確かに、さらにそれを深刻化させるため、よくよく考えた上でやった方がよい。

ところが、今はデフレである。

デフレ時は、極端な話、無駄な公共工事であってもやる価値がある。

なぜなら、それによって仕事が生まれ、それに伴う雇用が生まれ、それによって消費が生まれるから。

だからタヌキや熊しか通らないようなところに道路をつくっても効果がある。

しかも、今は、日本全体の橋や道路、建物が老朽化のため、補修をしなければならない状態。

そして、日本は地震大国。

耐震化を進めることは、極論すれば命の問題になる。

首都東京は東京オリンピックまでに地震の起こる確率が3割以上だと言われる。

だから、急いで対策を進める必要がある。

インフレの抑制を目指す「デフレ・レジーム」から、デフレから脱却するための「インフレ・レジーム」へと、ありとあらゆる経済政策の向きを一斉に反転させる必要がある。

例えば、日本は生産性が低いと言われている。

しかし、非効率な企業や人材が多く存在するから、国民経済全体が非効率なのではない。

デフレだから非効率なのである。

言い換えれば、企業や労働者が効率的であるかどうかは、彼らの生産能力が高いか否かではなく、十分な需要があるか否かによって決まる。

「非効率部門を淘汰せよ」と言う論者は、原因と結果を取り違えている、というのが著者の主張である。

どうも私たちは、長い間続いたデフレによって、思考回路がデフレ・レジームになってしまっているようだ。

2014年2月 2日 (日)

アメリカの世界戦略に乗って、日本経済は大復活する!/中原圭介

Photo 世界経済の二極化が進む中で日本経済が復活するためには、日本はアメリカと強力なタッグを組むこと、すなわちアメリカの世界戦略に乗ることしか選択肢はありえません。幸い、アメリカが自らの世界戦略を達成するためには、日本の協力が必要不可欠となっています。その意味で、「軍事上の安全保障」「エネルギー安全保障」「経済上の安全保障(=TPP)」の3点セットは欠かせないものになります。

アメリカはシェールガス革命によって復活すると著者は主張する。

今のアメリカ経済は家計のバランスシート不況に苦しんでいる。

しかし、「シェールガス革命」と呼ばれる世界で最も安いエネルギーを手に入れたことで、アメリカが先進国の中でいちばん早く本格的に景気が回復する可能性が高まってきている。

現に、今年になってアメリカ経済がリーマンショック以前の状態にまで徐々に回復してきている。

出口戦略如何によってまだまだ予断を許さない状態が続くのは事実だが、概ねよい方向に向かって行っているのは確かなようだ。

何より、シェールガス革命のインパクトは大きい。

国際エネルギー機関(IEA)によれば、アメリカは2015年までに天然ガスでロシアを抜き、2017年までには原油でサウジアラビアを抜き、両方の資源の生産量で世界一になる見通しである。

留意すべきは、シェールガスの量産化ではアメリカが技術的に他国を凌駕していて圧倒的に有利な状況にある中で、シェールガスの生産量がまだ天然ガス全体の生産量の3割近くに達したにすぎないということ。

今後もシェールガスの生産における技術革新やインフラ整備が進み、産出量が飛躍的に伸びることは間違いない。

そうするとアメリカはもはやエネルギー資源を中東からの輸入に頼る必要がなくなる。

シェールガス革命は世界のエネルギーの勢力図を一変させるほどのインパクトがある。

そして日本もアメリカとよい関係を構築できればその恩恵にあずかることができるだろう。

しかし、それはアメリカのポチになれ、ということではない。

やはり、戦略的に関係を構築するしたたかさが必要になってくるのではないだろうか。

2014年2月 1日 (土)

2014年! 中国と韓国、北朝鮮の動きが15分でわかる本/中島孝志

Photo 全ての国は国益で動く。国益のためなら、日本の歴史などどうでもいい。正義がつねに通るなら戦争など起こらない。正義以上の決定的な要因で決まる。それが政治である。外交は戦争も含めて、したたかに物心ともに結びついた共鳴国をつくることだ。同盟国の時代ではない。共鳴国の時代だという認識をもたなければいけない。

「全ての国は国益で動く」

この視点は非常に重要である。

今、日中・日韓関係は最悪の状態に陥っている。

中国や韓国は世界各国で日本は戦前の軍国主義に戻ろうとしていると日本脅威論を展開している。

しかし、周りの国が見ているのは、どちらが正しいかではない。

どちらの国についた方が自国の国益につながるかということ。

結局は自国の国益で動く。

だから、そのためにすべきことは、どれだけ日本に見方すれば得するか、ということを実感させるかということ。

その意味では安倍総理のドーナッツ外交は戦略的に正しいと言える。

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