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2014年3月27日 (木)

それでもドキュメンタリーは嘘をつく/森達也

Photo ある程度はキャメラの存在に馴れたとしても、絶対にゼロにはならない。自分に照準を向けるレンズの威圧感は凄まじい。市井で普通に生きる人にとって、キャメラは永遠に異物のままだ。まずはその現実を撮る側が自覚するところから、ドキュメンタリーは始められなければならない。ありのままの事実など撮れない。キャメラのフレームに映りこむ世界は、キャメラという異物によって触発され、加工された虚構によって再構築される現実なのだ。

ドキュメンタリーは事実を映像化したものだと思っている人は多い。

多くの場合、被写体は確かにプロの俳優ではないかもしれない。

でもキャメラの前で彼らが演技をすることなどいくらでもある。

いや、むしろ、普通の人であっても、レンズを向けられた途端、その人はキャメラの前で演じるようになる。

つまり噓をつく。

自覚的な噓の場合もあれば、無自覚な場合もある。

撮る側は時にはこの噓を利用し、時には別の回路に誘いこむ。

こうして撮る側の作為と撮られる側の噓が縦糸と横糸になって、ドキュメンタリーは紡がれる。

被写体はキャメラの前で作り話を演じる。

そして噓が多くなればなるほど、作り話は艶を増す。

つまりドキュメンタリーが捉える現実は、結局のところ虚構なのだ。

そもそも、どんな題材を選ぶかという段階から、ドキュメンタリーは事実ではなくなる。

そこに作者の主観が働くからである。

そして、被写体をキャメラに収めるという作業が始まる。

しかし、どの場面を撮るのか、時間内に収めるために、どの場面を切り捨て、どの場面を残すのか?

全て、撮ったものの思想や考え方が反映される。

その時点で、事実はかなりゆがめられる。

結果として、一つの作品として完成したドキュメンタリーは事実をきりばりした虚構となる。

最近の、佐村河内氏の問題など、その顕著な例である。

キャメラの前で、彼は確かに演じていた。

そして、あたかもそれが事実であるかのようにNHKは映像を垂れ流した。

ドキュメンタリーは虚構である、

このことをしっかりと肝に銘じておく必要がある。

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