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2014年6月の30件の記事

2014年6月30日 (月)

「お金の流れ」はこう変わった!/松本大

Photo_2 新しい変化を運ぶ風は、一方向だけを向いているのではありません。バラバラに混じりながら吹いています。アメリカのある知人はこういいました。「ペシミスト(悲観主義者)は、逆風を嫌がる。オプティミスト(楽観主義者)は、風向きは変わると考える。そして、プラグマティスト(実際主義者)は、風の向きに合わせて帆を変える」。蓋し、名言です。ヨットは、追い風でも向かい風でも前進することができます。どんな風でも構わない。風が吹いていれば、そこに身を投じ、精いっぱい、クルーズをする。新しい変化は、上手な漕ぎ手とチャレンジャーに、きっと微笑みをもたらしてくれるでしょう。
 向かい風か、追い風か。
 それは、あなたの見ている方向で決まります。

著者の専門である株や為替のことについては本書を読んでもよくわからないところが多いのだが、

少なくとも、今、私たちは非常に変化の激しい時代に生きているということは確かなことのようだ。

著者がいうように、今、様々な風が吹いている。

それがどんな種類の風であろうと、

うまく風を利用して前に進んでゆくプラグマティストでありたいものだ。

2014年6月29日 (日)

未完のファシズム/片山杜秀

Photo するとどうすれば日本は「持てる国」に化けられるのか。けっきょく満洲です。満洲事変を起こし、満洲を事実上領有する。そこを基点に日本を世界に冠たる大産業国家にする。石原はこのヴィジョンのとりこになってゆきました。

大正から昭和の敗戦へと、時代とともに日本は神がかってきた。

世界最終戦論、一億玉砕、どうしてこのような思想が生まれたのか。

本書はこの時代の指導者や思想家の発言や文献を通してその流れを書き記している。

たとえば満州事変に至る道筋を開いたものとして、石原莞爾の世界最終戦争論という思想がある。

将来、日本とアメリカは必ず大戦争をする。

いや、しなければならない。

日本は東洋の、アメリカは西洋の代表。

その戦争は世界最終戦争となる。

というもの。

そしてその戦争に勝つためには日本は「持てる国」になる必要がある。

今の日本は「持たざる国」である。

その日本が「持てる国」になるためには中国を獲得しなければならない、と。

石原莞爾が満州事変を起こしたということには様々な論があるが、少なくともそのような考えが底辺に流れていたのは確かなようだ。

そしてそれを後押しするような世論があった。

それにしても当時の日本がタガが外れたように戦争に突入していくことから教訓として学ぶことは多いのではないだろうか。

2014年6月28日 (土)

経営者の条件/P.F.ドラッカー

Photo 成果をあげることは一つの習慣である。実践的な能力の集積である。実践的な能力は修得することができる。それは単純である。あきれるほどに単純である。七歳の子供でも理解できる。しかし身につけるには努力を要する。掛け算の九九を習ったときのように練習による修得が必要となる。b六、六、三六が何も考えずにいえる条件反射として身につかなければならない。習慣になるまで何度も反復しなければならない。

何度も読み返している本がある。

ドラッカーの一連の書籍などはその中の一つである。

さて、本書でドラッカーは「成果をあげることは一つの習慣である」と言っている。
「成果をあげる人に共通するものは、つまるところ成果をあげる能力だけである」とも言っている。

要するにドラッカーがここで言いたかったのは、成果をあげることは生まれつきのものではなく修得可能な能力なのでもっと努力せよということ。

ドラッカーはいろいろな組織のエグゼクティブと働いてきたが、いまだかつて、一人として、天性のエグゼクティブ、生まれつき成果をあげるエグゼクティブに出会ったことはない、と断言する。

つまり、成果をあげている者はみな、成果をあげる力を努力して身につけてきているのである。

そして彼らのすべてが、日常の実践によって成果をあげることを習慣にしてしまっている。

しかも成果をあげるよう努める者は、みながみな成果をあげられるようになっている。

成果をあげることは修得できる。そして修得しなければならない、と言うのである。

最近、労働法改正の議論の中で、労働時間ではなく成果によって報酬を決めるということに対して一部のマスコミが批判しているが、おかしな議論である。

ほかの人の仕事ぶりに責任をもつ経営管理者であろうと、主として自分の仕事だけに責任をもつ独立した専門家であろうと、成果をあげることに対して報酬を支払われることに変わりはない。

成果をあげないならば、いかに多くの知力と知識を使い、いかに多くの時間を使おうとも単なる徒労である。

さて、ドラッカーは成果をあげるために身につけておくべき習慣的な能力として次の五つをあげている。

(1)何に自分の時間がとられているかを知ること。

(2)外の世界に対する貢献に焦点を合わせること。

(3)強みを基盤にすること。

(4)優れた仕事が際立った成果をあげる領域に力を集中すること。

(5)成果をあげるよう意思決定を行うこと。

一つ一つ、重要なポイントだと思う。

これらを習慣になるまで繰り返し行うことが必要ということである。

2014年6月27日 (金)

外交回想録/重光葵

Photo しかし満州事変から日華事変になり、日本軍が華北から華中へ、華中から華南へと進み、さらに仏印に進駐するに至って日英関係はすでに大石を急坂に転がすようなことになった。日本軍が太沽から上陸して英租界を通過して天津に至り、ついに英租界を包囲してこれを封鎖して出入者を監視し、英国人を男女問わず脱衣検査を行うに至って英国の世論は沸騰した。婦女子が日本軍官憲の男子によって裸体にされて検査を受けたといって全英国人は極度に怒ってしまった。ネヴィルもついに「この侮辱に対して自分の血は煮えくりかえるばかりだが、英国は今日準備が足りないから隠忍自重のほかはない」と演説した。英国人はかくしてことごとく反日的感情をもったと言って差し支えない。いわんや左翼の宣伝や米国の勢力に躍らされている背景があるのである。

本書は、満州事変から大東亜戦争に至るまで、激動の世界の中で外交官として活動した重光氏の回想録である。

読んでみて感じるのは当事者としての苦悩や緊張感である。

歴史に関する本を読むとき、学者や評論家の書いたものは、客観的であろうとする故に、どうしても第三者的な味気ない記述になってしまう。

それと比べ、当事者の回想録は生々しさがある。

ここでは英国民がどうして反日的感情をもつにいたったのかが、具体的に記されている。

このような国民感情が世論を形成し、歴史を動かしてゆくのであろう。

そして動き出したら歯止めが利かなくなってしまうというところからは、十分に学ぶ必要があるのではないだろうか。

同じ過ちを繰り返さないために。

2014年6月26日 (木)

大東亜会議の真実/深田祐介

Photo 戦後、バー・モウは、
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまたその解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない」(『ビルマの夜明け』)
 と述べる。
 この誤解している諸国民のなかに「日本国民」自身も含まれているところに、戦後日本の悲劇がある、といえそうである。

上記、ビルマ初代首相バー・モウのことばにすべてが集約されている。

戦後、日本はずっと東京裁判史観にどっぷりとつかっていた。

この裁判においては、「民主主義対ファシズム」という対立図式を硬直的、教条主義的に適用していた。

この裁判に基づく歴史観に戦後日本が支配されてきたのは、まことに不幸であった、といわざるを得ない。

私自身、日教組の教師に教えられ、日本はアジアを侵略した悪い国という考え方をずっと持っていた。

いや、私と同年代のものはほとんどがそのような考え方をもっているのではないだろうか。

しかし、様々な歴史書を読むと、どうもその考えはおかしいということに気づかされた。

そもそも大東亜戦争とか大東亜会議をいう言葉を発すること自体、極右と思われてしまうのが今の日本である。

人間はそれほど賢い存在ではない。

すぐに洗脳されてしまう。

それはあれほどの高学歴な面々がオウムの麻原に洗脳されてしまったことを見ても明らかである。

日本人は東京裁判史観にずっと洗脳されてきたといえる。

その意味で、今、もう一度、日本人が本当の意味で歴史と向き合う時期に来ているのではないかと思う今日この頃である。


2014年6月25日 (水)

人生はふんどし1枚で変えられる/中川ケイジ

1 人生初の越中ふんどしでした。
 な、なんなんだ! この快適さは!!
 素っ裸なんじゃないか! と思えるほど、身につけている感がない軽快さ。
 風が股の間を自由自在に通り抜ける通気性。
 大切な部分をやさしく包み込んでくれている安心感。
 これはただごとではないぞ!
 本能が直感しました。

タイトルのユニークさにひかれつい買ってしまった。

読んでみて感じたのは、今の時代、いたるところにビジネスのヒントが落ちているということ。

著者の場合、大学受験で失敗し、東京での一人暮らし、美容師から兄の会社に入ったがダメ上司のレッテルを貼られうつで休業。

そんな人生のどん底状態のとき越中ふんどしと出会い起業。

マスコミで話題になる。

そんな経緯をたどっている。

ふんどしというと、もう古いものという感覚があるが、そのようにすでに過去のもの、古臭いと思われているもの、捨てられたもの、そんな中にビジネスのヒントが潜んでいるのかもしれない。

たとえば、おしゃれな「ステテコ」の躍進。

ステテコもかつては白色しかなく、完全におじさんだけのモノだった。

しかし、それがカラフルになり、スタイリッシュな魅せ方をするブランドが誕生した途端、たちまちブームになった。

今の時代、価値観が多様化しているだけにいたるところにビジネスのヒントが潜んでいる。

ある意味、面白い時代に生きているといえるのではないだろうか。

2014年6月24日 (火)

僕たちの国家/三橋貴明

Photo 1つ興味深い事例をご紹介しましょう。日中間の尖閣諸島を巡る争いが激化した2012年(平成24)、中国の国家公務員試験の申し込みにおいて、東シナ海で巡視活動を展開する国家海洋局東海分局の海洋監視船員を募集したところ、「志望者ゼロ」だったとのことです。それに対し、日本の海上保安学校の入学試験は、10年、11年は受験生が約1万人程度だったのですが、12年は1万6000人に急増しました

これは面白いデータである。

この数字は何を意味しているのであろうか。

少なくとも、今の若者たちが何かのために命を懸けたいと思っているということではないだろか。

これを「若者の右傾化」とみるか、それとも「まだまだ捨てたものではない」とみるか、いろいろあるだろうが、

少なくとも、国家としては健全な形ではないだろうか。

2014年6月23日 (月)

ワーク・デザイン/長沼博之

Photo 生産性の大幅な向上は、人類を新たな段階へと引き上げた。しかし、結果として「大量消費によって経済を成り立たせるため」の「雇用」という概念を生み出し、残念ながら、昔ながらの「働く」こととは意味が大きく乖離してしまったのである(「働く」の語源は「傍を楽にする」こと、つまり「周りに貢献する」ことと言われる)。この、産業社会・消費社会を成り立たせるための「雇用」という位置づけは、ここにきてあらゆる側面から限界を迎えている。これまでの「雇用」=「働く」という図式が、世界的に崩れ始めているのだ。

長年続いてきた働くという形が今、変わろうとしている。

IT、ロボットの進化、人口の減少、高齢化、年金制度の崩壊等々、働く環境はどんどん変わってきている。

特にどこかの会社に就職して定年まで働き続けるという雇用の形は変わっていかざるを得ないであろう。

現代は、「働く」ということについて3つの価値観があるという。

1つ目は、「グローバル経済の中で、自社の影響力を大きくしていくことが幸せだ」という考え。

中堅企業や大企業に勤めていれば分かる価値観だろう。

2つ目は「自分のやりたいことを仕事にしながら、俊敏性を持ち、ネットワークを重視して生きることが美しい」という考え。

インターネットにつながれば仕事ができるノマドワーカーや、小さなチームで働くことを嗜好する人は、よく分かるのではないだろうか。

そして3つ目が「苦しむ人たちを助けたいという強い思いで、生きる意味と働く意味を一致させたい」という願い。

当然、NPOやソーシャルビジネスで働くことを望む傾向がある。

以上の3つの価値観が大きくかわることはないだろう。

ただし、これらとは全く違った価値観のもと、働く人たちがでてくるかもしれない。

見方によっては、非常に面白い時代に生きていると言えないだろうか。

2014年6月22日 (日)

クライマーズ・ハイ/横山秀夫

Photo「俺は『新聞』を作りたいんだ。『新聞紙』を作るのはもう真っ平だ。忙しさに紛れて見えないだけだ。北関は死に掛けている。上の連中の玩具にされて腐りかけてるんだ。この投稿を握りつぶしたら、お前ら一生、『新聞紙』を作り続けることになるぞ」

この小説では御巣鷹山日航機墜落事故取材を軸にして一地方新聞内での内幕がリアルに描かれている。

おそらくこれは横山氏自身が上毛新聞の記者時代に体験したことなのであろう。

新聞社と言えども、ある意味、利益を上げなければ当然経営は行き詰まる。

ある時には、真実を報道することが、経営にとってはマイナスになることがある。

そんな場合、多くの経営者は経営を第一に考える。

妥協に妥協を重ねるようになる。

だから、新聞記者として真摯に取り組もうとすればするほど、経営陣とはうまくいかなくなる。

周りの者との軋轢も生む。

経営者はイエスマンばかりを周りに置くようになり、少しとんがった人材は組織でも窓際に追いやられる。

その中で記者たちは自分たちの存在価値や使命感というものを問われ続ける。

何のために自分は新聞記者になったのかと。

この小説で描かれていることは、おそらく横山氏自身が体験をしたことだったのであろう。

2014年6月21日 (土)

ぼくらの祖国/青山繁晴

Photo ぼくが祖国を知ったのは、大学を卒業して社会人になり、仕事で世界の現場を歩くようになってからだ。
 世界のどこの国の学校でも「祖国」を真っ先に教えることを知った。
 たとえばメキシコで公立の小学校や中学校を訪ねると、ぼくたちと同じように、週間当番がある。そして毎週月曜の朝に、当番が交代する。その交代のとき、メキシコの公立小中学校では、生徒たちが正装し国旗をかかげて校内のグラウンドを行進しつつ、国歌を高らかに歌う。それが交代式なのだ。子供たちが国旗と国歌にみずから敬意を示す行進が、「今週は自分たちが学校に責任を持つんだ」と自覚するためのセレモニーを兼ねている。

世界広しと言えども、祖国、そして祖国愛を教育の土台におかない国は日本しかない。

日本では祖国愛と言えば、右翼だと思われてしまうが、その感覚自体がおかしい。

自分の生まれた国を愛することは当たり前のことである。

今、サッカーワールドカップが行われているが、日本人が日本代表を応援するのは当たり前のことである。

それをナショナリズムだということの方がどうにかしている。

本書では、著者が3.11後の福島、硫黄島等を歩いて、自分の目で見て、感じて、考えて、思ったことを率直に語っている。

自分の生まれた「祖国」について深く考えさせられる本である。

2014年6月20日 (金)

元ドイツ情報局員が明かす 心に入り込む技術/レオ・マルティン

Photo 仕事上の関係にもプライベートな関係にもいえることだが、人間関係の根底にある前提は責任だ。自分は頼りになるパートナーだと最初から示すこと。一度だけこれ見よがしに見せるのではなく、繰り返し示す。最初はもとより、数年、数十年と経った後も繰り返し示す。頼りにならないという印象を一度でも与えたら、それは人間関係を傷つけるので、もう一度信頼を取り戻すために苦労することになる。情報員は約束を必ず守る。やると言ったことは必ず実行する。信頼関係を築く方法として、要求されなくても進んで約束を与え、それを必ず守る。

情報局員にとって重要な仕事の一つに優秀なV人材をいかに獲得するかというものがある。

V人材のVは、ドイツ語で信頼を意味する〈Vertrauen〉の頭文字、つまりV人材とは信頼できる人のこと。

犯罪組織内で揺るぎない信頼を得ている人がV人材。

この信頼のおかげで、犯罪組織内を自由に活動することができる。

だからこそV人材から得られる情報は重要なものとなる。

しかし、そのような人材を獲得するためのハードルはとてつもなく高い。

V人材は二役を演じることによってとてつもない危険にさらされる。

組織にバレた場合、運がよければ破門になるだけで済むが、消される可能性がある。

つまり自分の命を危険にさらすことになる。

犯罪の世界では、誰も二の足を踏まない。

組織に反する行動を取れば、血の報復を覚悟しなければならない。

V人材も、もちろんそのことを知っている。

ではそれまで面識すらなかった人に、危険きわまりないゲームに加わる決心をさせるにはどうするのか。

本書はそのためのテクニカルな部分が詳細に書かれているが、結局決めてになるのは「信頼関係」「責任」「約束を守る」という人間性の基本となる部分だという。

これらはビジネス、政治、教育等、どの分野でも共通していえるものと言えそうだ。

2014年6月19日 (木)

成長する管理職/松尾睦

Photo 過去の研究によると、何かを達成すべき状況において、学習志向が高い人は、挑戦的課題に取り組み、積極的に知識を獲得しようとするのに対し、業績志向が高い人は、自分の能力を証明することを重視するあまり、挑戦を避ける傾向があると言われている。

中小企業の経営者と話していて「うちにもっと優秀なマネージャーがいてくれたらなぁ」という言葉がよくでてくる。

では優秀なマネージャーとはどうすれば育てることができるのか?

本書によると、マネージャーの成長の7割は、直接的な仕事経験によって決まるという。

例えば、「事業の立て直し」「プロジェクトへの参加」「ゼロからのスタート」「ラインからスタッフ職への異動」などの経験が、マネージャーとしての成長を促す。

しかし、ただやみくもに経験だけ積めばよいというものでもない。

やはり、それを生かせるかどうか、個々の特性によるところが大きい。

その中で、興味深く感じたのは、学習志向の高い人は、挑戦的な課題に取り組むが、業績志向の高い人は挑戦を避けるというもの。

普通、業績志向の高い人の方が挑戦的な課題に取り組むと考えがちだが、どうもその考えは間違っているらしい。

でも、考えてみればそうである。

業績志向が高いということは、業績を上げることに価値を見出している人ということ。

でもその業績とは、目標に対してどのくらい達成したかという意味での業績。

そうなってくると、当然、低い目標を設定した方が、目標達成しやすくなり、業績が上がっているように見える。

結果として、挑戦的な課題には取り組まなくなる。

一方、学習志向の高い人は、業績よりも自分がそのことによって何を学べるかということに価値を見出す人なので、結果として挑戦的な課題に取り組むようになる。

結果、学習志向の高い人の方が管理職として成長するというのである。

この視点は非常に面白い。

2014年6月18日 (水)

美しく怒れ/岡本太郎

Photo 青春は猛烈な実体だ。
 俗に〝若気のいたり〟などと、虚妄のようにかたづけたり、浮動の状態、夢としてやりすごしてしまう。まちがっている。
 それは混濁したまま、八方に通じる道だ。私はむしろ極言したい。青春こそがこの世界の肉体であり、エネルギー源である。
 官僚的だったり、アカデミックな、いわゆるおとなとして固まってしまった人間には、青春は甘美な思い出、または悔恨として、感傷の対象であるかもしれない。
 だがなまなましく生きている人間、激しく現実にぶつかっている人間の心の奥には、いつでも若い情熱が瞬間瞬間にわき上がっているのだ。人間の内にあって、精神の若さと、肉体の若さは猛烈に交流し、侵入しあっている。そういう流動的な状況が青春なのだ。
「青春」はだからいつでも現在的である。

岡本太郎の文章を読んでみて感じたのは、ほとばしるエネルギーである。

うまい文章ではない、支離滅裂なところもある。

ただ、文章の端々から、言葉の一つ一つから、エネルギーがほとばしる。

岡本太郎こそ、生涯、青春を謳歌した人だったのではないだろうか。

2014年6月17日 (火)

グロービス流 キャリアをつくる技術と戦略/グロービス経営大学院

Photo もし、あなたが今の仕事に満足しておらず、何となく自分らしくないという感覚を持っているのであれば、改めてご自身のアンカーを確認してみるとよいでしょう。 逆に、もし今の仕事にあなたが満足しているとしても、仕事に対する志向や動機、価値観、そして才能についての自覚を明確に理解しておけば、将来の意思決定が容易になり、さらに納得いくものになるでしょう。
 キャリア・アンカーに沿った仕事に就くことができれば、人生への満足度も高くなり、アンカーによっては、その仕事こそが生きがいとも言える状況で働くことができるでしょう。

誰もが自分のキャリアについて真剣に考えなければならない時代がやってきている。

しかし、そうは言っても、どこから考えていったらよいのかわからないというのが現実ではないだろうか。

その意味でも「キャリア・アンカー」の考え方は一つの指標になる。

キャリア・アンカーとは米国の心理学者エドガー・H・シャインによって提唱された概念。

アンカーというのは船の錨を意味する。

港に船を接岸する際、アンカー(錨)があることで船は海面を漂いながらも一カ所に留まっていることができる。

つまりキャリア・アンカーとは、自分がキャリアを選択する上でどうしても犠牲にしたくない、本当の自己を象徴する動機や価値観のことを指す。

自分のキャリア・アンカーがどういうものかということを理解していないと、外部から受ける報酬や肩書きなどの誘惑で自分を見失い、後から後悔することになるような就職や転職をしてしまうかもしれない。

「こんなはずじゃなかったのに」というようなことに陥ってしまう可能性がある。

その意味では、自分の中の動機や価値観を深く知ることは大事なことではないだろうか。

2014年6月16日 (月)

JR崩壊/梅原淳

Jr 筆者は本書を執筆する前からJR北海道に限らず、鉄道関係者に率直な意見を求めた。現業部門に従事する社員、それも管理職を含めてコストカットへの不満はとても多い。特に印象に残った意見は次の2つで、他の意見もほぼそこに集約される。
「本社から現業部門に派遣された管理職はコストの削減だけが頭にあり、お客様や現業部門の声は無視された」「破損したり故障したものを修繕したいと申請しても、社員に落ち度があるような指摘を受け、自分自身の評価に影響するのではないかと考えている」

昨年9月、JR北海道の函館線を走っていたJR貨物の貨物列車が脱線した。

調査の過程でJR北海道が実施した線路の整備作業に多数の不備が存在したことが判明する。

何と、整備基準値以上に広がった軌間の不具合が170カ所で発見されたというのだから驚きだ。

JR北海道のずさんな軌道整備を知って、正直あっけにとられたことを記憶している。

JR北海道の関係者への取材すると「軌間の広がりなどの軌道の歪みはわずかな時間で修繕できる」のだという声が聞かれたという。

「わずかな時間で修繕できる」という言葉の陰には、直そうとすれば直せるが、何らかの事情でそうできないという意味が潜んでいるように感じられる。

問題はその「何らかの事情」である。

JR北海道は軌道の整備を行う能力をもっていないのではない。

社内の風土、空気などの理由で軌道の整備を怠っていたものと推測される。

単なる能力の問題ではないだけに、この問題の根深さがあるように感じる。

今後、どのような改革が行われるのか、注意して見ていく必要がありそうだ。

2014年6月15日 (日)

消えたヤルタ密約緊急電/岡部伸

Photo ルーズベルトはあっさり回答した。
 「南樺太と千島列島がソ連に引き渡されることについては、なんら問題ではない」
 ここでスターリンはぼそぼそと答えた。
 「日本がロシアから奪い取ったものを、返してもらうことだけを願っているのです」
 ルーズベルトは相槌を打った。
 「取られたものを取り返したいというのは、きわめて無理のない要求でしょう」
 こうして、ソ連がドイツの降伏から二、三ヶ月後に日本に宣戦布告することと、その見返りにスターリンが要求する条件に、ルーズベルトはほぼ全面的に同意した。

1945年2月にクリミア半島のヤルタ近郊でアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談が行われた。

これがヤルタ会談だが、ここで密約が結ばれた。

その密約とは「ソ連はドイツの降伏より三ヶ月後に連合国側にくみし、日本に参戦する」というもの。

ところが、このヤルタで密約が結ばれたという情報を、会談直後に秘かに入手して、北欧の中立国スウェーデンから、機密電報で日本の参謀本部に打電した人物がいた。

帝国陸軍のストックホルム駐在武官だった小野寺信少将である。

しかし、その電報が何者かの手によって握りつぶされてしまっていた。

本書では、その人物とは瀬島龍三であったと推定しているが、本当のところはわからない。

もしこの情報が国の意思決定をするものに伝わっていたなら、終戦直後のソ連参戦に対して何らかの対策を講じることができたかもしれない。

歴史にifはないとよく言われるが、ついつい想像をめぐらしてしまうエピソードである。

2014年6月14日 (土)

書くだけで自分が9割変わる/中司祉岐

Photo たとえるなら、私たちが抱えた不安は「水」のようなものです。形がないのでつかみどころがありませんが、確実に存在します。
 ただ、水はコップに注げばコップの形になるし、ペットボトルに詰めればペットボトルの形になります。このように形を与えれば、水を飲んだり持ち運ぶことも簡単にできるようになります。
 私が「紙に書き出して問題を明確にしよう」と提案するのも、水に形を与えるのと同じことです。私たちを覆うもやもやとした不安は、きちんと見つめ直して具体的な問題として把握することで、いかようにも対応が可能になります。
 見えない敵との消耗戦は、もうやめにしましょう。

本書の著者、中司氏は一日7分間、今日起こったことをノートに書くだけで自分が変わるという。

これはある意味、合理的な考え方である。

人が不安を感じるのは、その対象物が得体のしれないものだからである。

つかみどころのないものであるが故に人は不安に感じる。

だったら、まず、書くことによって、何が問題なのかをはっきりとつかんだらどうだろうということである。

よく、私たちが不安に思っていることの9割は起こらない、という。

漠然としたものであるからこそ、人は不安に感じるのである。

言葉を換えて言えば、見えない敵と戦っているようなもの。

だったら、まず敵の正体をしっかりとつかんだらどうだろうということである。

見えない敵は、見えないがゆえに自分で勝手に想像して敵を巨大化させがち。

もし不安や懸念のもとをたどって問題を可視化すれば、じつは悩むべき問題ではないかもしれない。

もちろん問題を紙に書いて明確にした結果、じつは深刻であることがわかる場合もあるかもしれない。

ただ、深刻な問題であることが明確になれば、それはそれで問題解決に向けて一歩前進したことになる。

わからないまま放置して問題がより根深くなるよりいいし、気持ちの面でもすっきりするのではないだろうか。

実行してみる価値はありそうである。


2014年6月13日 (金)

全員で稼ぐ組織/森田直行

Photo では、社員が経営者と同じようなスタンスで仕事に臨んでもらうにはどうすればいいのか。稲盛さんは考え続けました。その結果、たどり着いたのが、経営に関する実績を社員全員にすべてオープンにすることでした。企業の経営状況を見える化し、自分たちの給料の源泉となる利益がどこでどのくらい生まれているのか、そして、その利益創出に自分はどれだけ貢献できているのかをひと目でわかるようにすれば、従業員が経営者に近い感覚で業務に臨んでくれると考えたわけです。

経営者と社員とでは会社の数字への意識において大きな差がある。

どんな経営者でも、会社の大切な数字はいつも頭に入っているが、社員の場合は無関心であることが多い。

社員にとって、会社の経営状況などは所詮他人事なのである。

では、それを「自分事」にするためにはどうすればよいか?

そのような考えで生まれたのが「アメーバ経営」である。

5~10人単位の小集団(アメーバ)に分け、各アメーバ間で「社内売買」をする仕組みを作る。

これにより各アメーバは「売り」と「買い」を持った会社のような採算単位になり、アメーバリーダーは利益拡大を追求するようになる。

自分たちの責任が明確になるために、当事者意識が生まれ、結果として行動が変わり、利益があがるようになる、というもの。

本書はその方法が書かれているのだが、機会があれば、どこかの会社に提案してみたいものである。

2014年6月12日 (木)

なぜ日本企業では情報共有が進まないのか/田坂広志

Photo 「監督、やはり勝因はデータ重視のID野球でしょうか?」
 しばしの沈黙のあと、野村監督が口を開きます。
 「データ重視の野球ならば、いまどき、どのチームでもやっていますよ。どのチームもスコアラーを派遣して、しっかりとデータは集めているのではないですか。大切な問題は、そうした膨大なデータのなかから、その試合に勝つためのポイントを直観的に見つけ出し、選手に、これとこれと言って簡潔に教えてあげることですよ」

上記は97年の日本シリーズで西武を破り、日本一に輝いたヤクルトの野村監督が、テレビのスポーツ番組に出演し、「ヤクルトが日本一になった勝因は?」との質問を受けたときの答え。

インタビューアーは「勝因はID野球」という言葉を聞きたかったのだろうが、監督の口からでた答えは違ったものだった。

データを集めただけでは意味はない、問題はその中から勝つためのポイントを見つけ出すこと、という監督の言葉は本質をついている。

これは企業経営にもそのまま当てはまる。

たしかに、現在のITの進化の流れの中で、「ビックデータ」「情報共有」といった歌い文句が飛び交っている。

あたかも最先端のデータベースを導入すれば、黙っていても情報共有が進み、企業の戦力がアップするような錯覚に囚われてしまいがちだ。

しかし、この野村監督の話は、こうした錯覚から目を覚ましてくれるものである。

実際、企業情報化において、どれほど膨大なデータを集め、どれほど最先端のデータベースを構築しても、それだけでは、決して企業の戦力アップにはならない。

それらの膨大なデータのなかから、大切な「ポイント」や「要点」をつかみ取り、現場の第一線で顧客や他社と格闘している部隊に対して、これとこれと言って簡潔に教えてあげなければ意味はない。

そして、その役割を果たすべき立場にあるのが、マネジャー。

更に、今、求められているのは、ナレッジ・マネージャーだと著者は言う。

以前、ITが進化するとマネージャーが不要になるのではという議論がなされたが、どうも逆の流れが出てきている。

膨大な情報を生きた情報にし組織で共有する働きをするナレッジ・マネージャーが本当に必要な時代になってきたようだ。

2014年6月11日 (水)

あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。/日野瑛太郎

Photo 日本では、「働くことは尊い」といった考え方に代表されるように、「労働」をすばらしいものだと考える風潮が強いです。
 「働くこと」に何か特別な意味を見出そうとしている人も少なくありません。働くことは単にお金を稼ぐ手段ではなく、自己実現の手段でもあり、生きることそのものだ──という考え方は我が国ではとても一般的です。

面白いタイトルなのでつい買って読んでしまった。

でも、もし、採用面接のとき、本書のタイトルの通りのことを言ったらどうだろう。

おそらく百パーセント不採用であろう。

つまり、日本人は仕事に金銭以外の「やりがい」を求める社員が多い、ということ。

著者はこのことを否定的にとらえているが、どうだろう?

私はあながちこのことが悪いことだとは思わない。

そもそも西欧と日本人とは労働に対する考え方が違う。

欧米人は労働を「苦行」のように考えている人が多い。

だから、長期間の有給休暇を取得し、バカンスを楽しむことが人間らしい生き方だという考え方が主流である。

しかし、日本人はちょっと違う。

日本人は労働に金銭以外の価値を求める傾向が強い。

そして、あながちそれは悪いことだとは思わない。

むしろそれが日本の独自性を生んでいるのではないだろうか。

なんでも他国に合わせることが良いことではない。

むしろ日本の独自性を発信することも必要ではないだろうか。

2014年6月10日 (火)

トヨタから学ぶ“ひもとき”の魔法/石井住枝

Photo 今、改めて考えると、トヨタで行っていたことは、決して新しい特殊な技術やスキルが必要ではないことばかりだったことです。
 例えるのならば、子供の頃に言われた「しつけ」の徹底でした。
 小遣い帳をつけて買いたいもののために貯金をすること、廊下を走らない、間違ったら謝る、失敗してもあきらめないこと、発言に責任を持つこと、明日の準備は前の日にすること、そんなことばかりだったのです。
 トヨタを離れてはじめて、その当たり前のことが実は一番難しいということ、トヨタはそれを徹底している会社だからすごいのだということを知りました。

今、自動車業界はトヨタの一人勝ち状態である。

では、その秘訣は何か?

それは「当たり前のことを当たり前にやる」ということ。

ごくごく単純なことなのだが、これを徹底できている企業はほとんどない。

少なくとも私がこれまで関与してきた企業の中で、それができている企業はゼロであった。

トヨタ方式は多くの書物で紹介されている。

でもマネできない。

マネしようとしてもマネできない。

これがほんとの意味でのトヨタのすごさなのだろう。

2014年6月 9日 (月)

サッカーの見方は1日で変えられる/木崎伸也

Photo 試合でボールだけを見ているとつい忘れてしまうが、選手一人ひとりがボールを触っている時間は極めて短い。一般的に90分間のうち、トータルで2分程度だと言われている。つまり、フィールドプレイヤーというのは、ボールをもっていないときにどう動くかがとても大事なのだ。

今週からサッカーワールドカップが始まる。

私自身、高校時代サッカーをやっていたので、非常に関心があるのだが、

私がやっていたころとは、同じサッカーでも、そのレベルや内容は全く違ってきている。

ただ、共通していることがある。

それはサッカーではボールを持っていない者の動きが大事だということ。

どんなにボールが集まる選手であっても、試合中、ボールに触る時間は2分程度だと言われている。

ということは、あとの88分はボールを持っていないということ。

しかし、その時間、何もしていないわけではない。

むしろ、良い選手は、このボールを持たない時の動きが違う。

また良いチームも、ボールを持っていない選手の動きの質が高い。

0対0の試合でも面白いと感じるかどうかは、そのような目を持って試合を見ることができるかどうかということであろう。

でも、とにもかくにも、日本チームには勝ってもらいたいというのが本音である。

2014年6月 8日 (日)

官僚とメディア/魚住昭

Photo 事件記者たちが当局の捜査を批判する記事のスタイルを持っていないのは、日本のメディアの報道が「客観報道主義」に基づいているからだ。記事のスタイルはこの客観報道主義に基づいて交通事故や窃盗事件から誘拐殺人のような大事件にいたるまでそれぞれに応じて決められており、新人記者はそれを覚え込まされる。

客観報道とは何であろうか?

それは主観を極力排する書き方をするということ。

ということは、情報源から質の良い情報をいかにしてもらうかが勝負になる。

そうすると、普段から情報源との人間関係が大事になる。

そうしてこそ良い情報がもらえるから。

間違っても情報源を批判する記事など書けない。

そんなことをしたら、次からはもう情報がもらえなくなってしまう。

このようにして情報源との癒着が始まる。

もしその情報源が官僚だった場合は、官僚とメディアとの癒着となる。

官僚は自分たちに都合のよい情報を流す手段としてメディアを利用するようになる。

このような持ちつ持たれつのズブズブの関係ができてしまったのがメディアと官僚との関係である。

それを防ぐためにはどうすればいいのか。

それは「客観報道主義」の看板を下ろすことである。

もともと客観報道なんてないのだから。

2014年6月 7日 (土)

仕事に効く 教養としての「世界史」/出口治明

Photo これは人によって解釈が違いますが、バークやトクヴィルの保守主義とは何か。大前提になっているのは、次の認識だと思います。
 「人間は賢くない。頭で考えることはそれほど役に立たない。何を信じるかといえば、トライ・アンド・エラーでやってきた経験しかない。長い間、人々がまあこれでいいじゃないかと社会に習慣として定着してきたものしか、信ずることができない」
 こういう経験主義を立脚点として、次のように考えます。
 「そうであれば、これまでの慣習を少しずつ改良していけば世の中はよくなる。要するに、これまでやってきたことでうまくいっていることは変えてはいけない。まずいことが起こったら、そこだけを直せばいいだろう」
 こういう考え方が、バークやトクヴィルの「保守」の真の意味だと思うのです。

英国のエドマンド・バークとフランスのトクヴィルは、近代的な「保守主義」という考え方の元祖ともいうべき人物。

国をつくるのに、よるべとする歴史のないアメリカは、憲法という理念を礎に建国した。

その影響がフランス革命に、行きすぎた平等性や人工国家性を持ち込むことになった。

アメリカの建国やフランス革命を見ていて彼らが懸念したのは、人間の理性、すなわち人間の頭ってそんなに賢いものだろうかということ。

そこから、理性を信じ人間が頭で考えることが正しいと慢心した人工国家に対する反動として、近代的な保守主義が生まれた。

と、そのように著者は述べている。

私たちは、一つのイデオロギーによってもたらされた悲劇をイヤというほど見てきた。

イデオロギーも所詮は人間の頭で考えだした仮説に過ぎない。

それを絶対的なものと信じ込んでそれをもとに社会を変えようとするところから、悲劇が生まれる。

逆に、真の保守主義には、イデオロギーがない。

観念的な上部構造が持っている世界観と、保守主義は無縁である。

人間がやってきたことで、みんなが良しとしていることを大事にして、まずいことが起こったら直していこう。

それが保守の立場である。

フランス革命やアメリカ革命はイデオロギー優先である。

自由・平等・博愛とか憲法を旗印にしていて見た目はカッコいい。

それらは確かに頭で考えたら正しくて素晴らしい思想には違いない。

しかし人工国家的はどこかでひずみがでてくるもの。

バークやトクヴィルが、提起したのは、人間の理性に対する一つの懐疑としての保守主義であった。

人間ってそんなに賢いのだろうか?・・・と。

大上段に思想を振りかざすのではなく、要するに、社会を少しずつよくしようという地についた考え方。

とても共感できる考え方である。

2014年6月 6日 (金)

働き方革命/駒崎弘樹

Photo「先進国は先進国でも『課題先進国』さ。どこの国よりも早く少子高齢社会に突入する。それによる労働人口減少。年金をはじめとする社会保障の破綻危機。日本が先頭を切って、そうした今日的な社会問題にぶつかる。アジアだったら韓国と台湾はいずれ今の日本のようになるし、1人っ子政策を取る中国はもっと極端な形だが、日本と同じ問題にぶつかるだろう。我々は何の因果か、1人で早めにテストを受けなくちゃいけなくて、過去問もなく、カンニングもできない状況なんだよ。」

日本はこれから超高齢化社会を迎える。

人口はどんどん減っていく。

政府の借金、破たんしそうな年金財政、等々、

まさにこれから多くの国が直面するであろう問題に日本は真っ先に直面する。

それだけにこれに対する明確なソリューションが確立できれば、大変な財産を手に入れることになる。

その場合にキーになるのが日本人の働き方である。

高度成長期は、会社のために滅私奉公、長時間労働は当たり前という感覚であった。

しかし、このような働き方もそろそろ制度疲労を起こし始めてきている。

今、求められているのは「働き方革命」である。

「長時間がむしゃら労働」から「決められた時間で成果を出す」スマートワークへ

「自分のための仕事」から「自分を含めた社会のための仕事」へ

「仕事とプライベートを完全分離し、生活のために稼ぐことを『働く』と定義すること」から「プライベートを含めて、他者に価値を与えること全てを『働く』と定義すること」へ

そろそろ発想を変える時期に来ているようだ。

2014年6月 5日 (木)

ライク・ア・ヴァージン/リチャード・ブランソン

Photo 管理職や経営者は、この傾向にぜひ注意を払ってもらいたい。従業員が「会社が」という言葉を連発するようなら、その会社は問題を抱えている。従業員に会社への帰属意識がなく、「われわれ」という表現を使わない場合、それは組織の上層部と現場の意思疎通が図られていないサインだ。そうであれば、開発から顧客サービスまで、会社全体にその弊害が表れているはずだ。

本書の著者、リチャード・ブランソン氏は、売上高約2兆円、世界34カ国にて5万人を雇用するヴァージン・グループ創業経営者。

著者が本書で繰り返し何度も言っていることは、会社にとって従業員は最大の資産であるということ。

企業はヒトの集まりにすぎない。

そしてヒトこそ、ほかとは比較にならないほど重要な資産。

たぶんほとんどの企業では、社員こそが製品だろう、と。

そして、会社がこのビジネスの基本を理解していないと、経営陣と現場スタッフの間に〝会社vsわれわれ〟という対立関係が生まれる。

多くの問題はこのような構図から生まれるのだ、と。

その意味では社員が日常的に「われわれ」ということばを使うか、それとも「会社が」という言葉を使うか、注意深く耳を傾けておく必要がある。

そういえば、私が関与している会社でも、少し問題がある会社は、社員は「会社が」という言葉を使っている。

「われわれ」という言葉は決して使わない。

著者の言っている通りだと思う。

2014年6月 4日 (水)

一流を育てる/秋山利輝

Photo 二十一世紀型の職人とは、「人に気遣いができる職人」「感謝できる職人」「人のことを考えられる職人」「はいわかりました、やらせていただきます」と言える職人のことです。
 つまり、人柄が一流の「できた職人」です。

本書の著者、秋山氏は神奈川県で注文家具をつくる社員数三十数名の中小企業「秋山木工」の経営者。

秋山氏は現代では珍しく徒弟制度によって家具職人を育てている。

その期間は8年間。

この8年間で職人の心構えと生活態度、基本の訓練、段取り、心得、技術など、職人として必要なすべてを身に着け、9年目からは独立していく。

秋山氏は、「一流の職人は技術より人柄」という。

だから、修業の間は日々、技術を磨くと同時に、人柄を磨く猛訓練を課している。

人柄が一流だと認めないうちは、いくら技術があっても秋山木工では本物の「職人」とは認めないという。

昔は「ガンコ職人」という言葉があるように職人といえば腕は確かだが、偏屈だという固定概念があった。

しかし、現代ではそれだけではダメ。

やはりお客様に対してもきちんとした接し方ができなければ職人として一人前とは言えないという。

しかし、職人に限らず、どんな職業でも最後は「人柄」ということになるのではないだろうか。

2014年6月 3日 (火)

いますぐ妻を社長にしなさい/坂下仁

Photo 女性の言語能力、おしゃべりをするパワー、駆け引きのうまさは、誰もが認める女性の先天的な能力なのではないでしょうか。
 女性の言語能力が高いことを示唆する一番身近な例は、言語系の大学や学部への女性進学率の高さです。
 たとえば東京外国語大学の女子学生の比率は7割ですし、関西外国語大学も名古屋外国語大学も似たような比率です。外国語大学に限らず、外国語学科や文学部あたりも、他の学部学科に比べて女性の比率が圧倒的に高いですよね?
 同時通訳者も女性の比率が高いですし、バイリンガルと呼ばれている言語能力の高い逸材も、圧倒的に女性のほうが多い。

本書で言っていることを一言でいえば、サラリーマンの節税対策のためには妻を社長にするのが一番ということ。

妻をプライベートカンパニーの社長にすることによって、多くの出費を会社の経費にしてしまうと節税効果大であり、お金がたまるようになるというのである。

それは確かにそうなのだろうが、そもそも私は節税にはあまり関心がない。

だから、金がたまらないのだろうが、納税も国民の義務だと妙に自分を納得させている。

なので、本書で主張していることにはあまり興味がない。

ただ、優れた女性のコミュニケーション能力や言語能力の故に、女性は社長に向いているということは確かにその通りだと思う。

むしろ、そのような埋もれた才能を開花させるという意味で妻を社長にするということであれば、別の意味で価値のあることではないだろうか。

2014年6月 2日 (月)

集団的自衛権/佐瀬昌盛

Photo 私は二百に近い世界の独立国のすべてについて調べたわけではないから日本が最多だと断定する自信はないが、これほど多数回にわたり集団的自衛権の保有が国際条約上、確認されている国がきわめて珍しいことだけは間違いない。そのうえ、日本国憲法第九八条二項では、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と規定されている。そのくせ、「国際法上は保有、だが憲法上その行使は不可」という牢固たる政府解釈がある。こんな解釈を持っている国は、日本以外にない。

今、集団的自衛権についての議論が盛んになってきている。

そのため、少しは内容を知ったほうがよいと考えて読んでみたが、読めば読むほど、複雑だと感じる。

ただ、わかったことがある。

それは、こんなことで大まじめに議論している国は日本以外にはないということである。

そもそも国連憲章で集団的自衛権が定められており、日本はそれを順守すると憲法で規定しているわけだから、本当はそれで議論は終わらせてもよさそうなもの。

ところがこれまでの憲法解釈の経緯から、この議論は複雑化してゆく。

そして今、日本では右や左の大騒ぎ。

感情論に走ることなく、もう少しまともな議論をしてほしいものだ。

2014年6月 1日 (日)

会社に入ったら三年間は「はい」と答えなさい/園部貴弘

Photo 近年、仕事に「楽しさ」や「やりがい」を求めている人が増えている。しかし、僕は声を大にして言いたい、「楽しい仕事なんて、本来、何一つないのだ」と。

どうせ仕事をやるなら「楽しさ」や「やりがい」があったほうがよい。

ただし、それはあくまで「結果」だと思う。

元来、仕事とは高い要求水準を求められるものである以上、そんなに楽なものではない。

つらいことや、精神的に追い込まれることもある。

でも、そのような壁を乗り越えて何かを達成したとき、はじめて達成感や成長実感、やりがい、楽しさというものを感じるものである。

ここで間違っていけないのは、最初からそれらのものを求めるものではないということ。

あくまで「結果」として与えられるものであるということ。

最近、せっかく就職したのに辞める人が増えている。

それは最初から「楽しさ」や「やりがい」をもとめるからではないだろうか。

社会人になり立てで、仕事をやり始めた頃は、特に楽しくない、面白くないと感じてしまうかもしれない。

そもそも「物事のスタート時」は、楽しいもの、面白いものは何もない。

どんなものでもそうだろう。

最初は仕事の基本を学ばなければならない。

どんなに「クリエイティブな仕事をしたい」とか、「自分で企画を考えたい」と思っても、最初からそんな仕事を任されるはずもない。

仕事のやりがいなんていうものは、それこそやってみない限りわかるわけがない。

いや、やってみても、やり続けない限りわからないものも多いぐらいだ。

どこかボタンの掛け違えがあるように思えてならない。

その意味で、著者のこの言葉、その通りだと思う。

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