どの面下げての韓国人/豊田有恒
相撲は、世界でただひとつ、競技の開始を競技者同士で決めるスポーツである。ボクシングのようにゴングが鳴るわけでもないし、陸上競技のようにピストルが鳴らされるわけでもないし、F1レースのように旗が振られるわけでもない。もちろん、相撲にも行司というレフリーは存在するが、競技のスタートを決めるのは、あくまで対戦する力士同士なのだ。双方とも、対戦相手より早く立とうとするから、よほどの信頼と和がなければ、なりたたないスポーツである。つまり、暗黙の談合が機能するからこそ、力士双方の阿吽の呼吸で立合いが可能になるのだ。
日本が、いかに和と談合の社会であるかは、相撲の立ち合いを見ればよくわかる、と著者はいう。
日本人は、そういうものだと思っているから、別段奇異にも感じないのだが、外国人の目で見ると、異常なくらい奇妙なルールらしい。
相撲の立ち合いは、双方が阿吽の呼吸で同時に立つ。
どちらかが試合を有利にしようと一呼吸遅く立ち上がったら仕切り直しとなる。
これが日本人のコミュニケーションの基本にある。
つまり相手は自分のことを分かってくれるものだという前提の上に立ったコミュニケーションなのである。
日本人同士であればそれでもよいのだが、相手が外国人だとこれは通用しない。
「日本ではこれがルールなのだ」といっても相手にはわかってもらえない。
特に日本人と韓国人は、人種的にも言語的にも近縁であり、そのため文化も共通していると思われがちである。
しかし、当たり前と言えば当たり前だが、韓国人は、日本人とは、まったく異なる行動様式を取る。
たとえば、日本人は、言動がぶれることを嫌う性向がある。
ところが、韓国では、言動がぶれても、お得意の「ケンチャナ」(かまわない)で、あっさり済んでしまうことが多い。
なにしろ、ほぼ2000年のあいだに、960回も異民族の侵入を受けている。
これまで、確かだと思えたことが一晩でひっくりかえってしまったことなど、日常茶飯事である。
したがって、前言を翻しても、なんとかして生き延びる手立てを講じなければならない。
そして、悲惨な歴史の繰り返しだったため、他人の意見に耳を傾けることをしない国民性ができあがってしまった。
自分の主義、主張と反する意見に対して、事細かく論拠を上げて、論証したり反駁したりする習慣が、育たなかった。
自説と対立する意見には、恫喝するか、威嚇するか、激怒するしか、方法論を持たない。
では無視すればよいのか。
よく日本では相手の挑発的な言葉にいちいち反論しないのが「大人の態度」だと思われがちである。
「また、韓国人が騒いでやがる。放っておくのが、大人の態度というものだ」
この傍観主義が日本の立場を悪くしてきた。
世界では反論しないことは認めたことになる。
そのことに、多くの日本人は気づいていない。
世界を相手にする場合は、相撲の立ち合いのような阿吽の呼吸は通用しない、ということをしっかりと認識することだ。
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