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2015年6月の30件の記事

2015年6月30日 (火)

最強組織のつくり方/岩本仁

Photo「軍隊では、遂行すべきミッションを与えられ、遂行時の制約条件は伝えられるが、『どのようにやるか』という具体的な行動計画については、大きな自由度が与えられる。自由が与えられれば、責任感が生まれる。それゆえ、兵士たちは、自由を与えられたときに、100%以上の成果を出すことができる。ビジネスの世界でも同じである。明確なミッションを共有することで、メンバーの自律的な行動を引き出すことができるし、組織としてより大きな成果をあげることができる」

ベトナム戦争の前ぐらいまで、戦争は、一部の例外を除いて、国と国の正規軍同士が総力をあげてぶつかり合う戦いだった。

このような正規戦では、あらかじめ綿密で壮大な作戦が立てられ、実際の戦闘は、大きな単位の軍隊組織が作戦を着実に遂行する形をとった。

前線の将兵にとって、敵は目の前に陣地を構えている一定の戦闘集団であり、自軍が敵軍よりも兵力や作戦とその遂行力でまされば勝利、そうでなければ敗北という結果に終わった。

ところが、ベトナム戦争を境に、戦争はその姿を変えた。

国家間の正規軍同士の戦いから、対ゲリラ戦や対テロリスト戦に変わった。

対ゲリラ戦や対テロリスト戦では、事前に立てた作戦を大きな組織が遂行するといった戦い方は通用しない。

ゲリラやテロリストは目の前に陣地を構えているとは限らず、急に現れたり消えたりする「不確実な敵」だからである。

戦闘の勝敗も、作戦や兵の数や兵器の力の差によって決まるという単純なものではなくなった。

これは現代のビジネスと酷似している。

指揮命令によって全てが動くのが軍隊と考えていたが、現代の軍隊は全く違うということを本書を読んで知った。

2015年6月29日 (月)

突き破る日本経済/渡邉哲也

Photo そういう意味では、完全な自由主義により国境を取り払おうとするグローバリズムを信奉する者は、グローバリストではなく、アナーキスト(無政府主義者)というべきだろう。
 ここに大きな歪み、大きな間違いが生じている。そのような間違いを大きな声で語り、喧伝してきた代表格が朝日新聞を中心とした、自称「リベラルメディア」であるが、あんなものはリベラルでもなんでもない。

日本のメディアの特殊性は、国益という軸がないという点である。

本来、右だろうと左だろうと、国益というものを前提として物事を考えるべきである。

ところがリベラルを自称するマスコミや知識人は、国益を重んじない。

ひたすら自国民を貶める。

自虐史観に国民を導こうとする。

国旗や国歌を否定する。

海外のメディアはリベラルであっても、国益を中心に論ずる。

アメリカのリベラルの代表、ニューヨークタイムズやワシントンタイムズであっても、国旗や国歌を否定することはしない。

ここが決定的に違う。

本来、リベラルというのは、自らの言論を守るために相手の言論も尊重するという者であるはず。

自らの意にそぐわない者にレッテル貼りをしたり、それを一方的に否定するような者はリベラルですらない。

言論テロリストと呼んでもよいのではないだろうか。

彼らは明らかに日本の言論空間をゆがめている。

その罪は重い。

2015年6月28日 (日)

欲しい ほしい ホシイ/小霜和也

Photo 言語によって、ヒトは2種類の遺伝子を持つ生物となったということにもなります。

言語とはもう一つの遺伝子。

ナルホド!と思わされた。

確かに言語が伝わっていくことによって、やがてそれらは「文化」に発展していく。

音楽の楽譜、コンピュータプログラム、料理のレシピなどなど、本体ではなくその設計図を複製するやり方も、生命が遺伝子をデジタルコピーすることとよく似ている。

「伝える」ということは言語があることによってはじめて可能になる。

こういう生物は、他に存在しない。

人間が他の生物と異なる存在であるとすれば、それはここにある。

もっと言葉を大切にしたいものだ。

2015年6月27日 (土)

十年後の自分をつくる/水谷弘隆

Photo 同質社会はチャンスでもあります。変化に挑戦する人が少ないということは、それを突破した人にとってはライバルが少ない「ブルーオーシャン」になるのです。

日本は典型的な同質社会である。

「談合」「護送船団」「空気を読む」といった言葉に象徴されるように、出る杭は打たれる社会である。

しかし、これは考え方によってはチャンスである。

周囲とちょっと異質な考え方や行動をすれば異常に目立つ。

これを自己の存在を主張するために使えばチャンスが生まれる。

まさに「ブルーオーシャン」の状態を容易に作り上げることができるということである。

これを利用しない手はないであろう。

2015年6月26日 (金)

あなたの潜在能力を100%引き出すたった1つの方法/生田知久

100 力を抜いて、リラックスし、腕が放水車のホースになったようなイメージを持つ。すると、大人が曲げようとしても腕が曲がらなくなるのです。逆に、力を入れて踏ん張ってしまうと、どんなに頑張っても曲がってしまいます。この体験は衝撃でした。「イメージするだけ」で、「楽に強く」なれたのです。逆に、イメージを使わず力いっぱい頑張ると、「大変なのに弱い」状態となってしまうのです。

上記は、著者が子供の頃体験したという合気道の「曲がらない腕」というワーク。

これほどイメージの持つ力は強い。

そして、潜在能力を引き出すためにはイメージの力を利用すること。

なぜなら、人間の脳は、文字よりも、映像や画像を記憶するほうが圧倒的に得意だから。

夜寝る時、良いイメージを持って寝る。

それだけで、生き方が変わるという。

これなど簡単なことなので実行してみる価値はあるのではないだろうか。

2015年6月25日 (木)

仕事を任せる新しいルール/小室淑恵+工藤真由美

Photo 仕事を任せることには、2つのメリットがあるからです。
1.部下が成長し、残業も減ってチームの成績が上がる
2.任せた上司も自分の時間がつくれていっそう成長する

多くの管理職は仕事を任せるのが苦手だ。

プレイングマネジャーという言葉が日本のビジネスマン独特のものであることがそれを象徴しているのかもしれない。

部下のやるべき仕事を自らが抱え込み、忙しぶっている。

更に悪いことには、それによって部下の成長を妨げている。

もっと悪いのは、そのことに気づいていない管理職が大半であるということ。

仕事は確かに自分でやった方が早い。

場合によっては、その方が短期的には成果が上がるかもしれない。

大事なことは管理職が仕事を任せないのは悪だという認識を持つことではないだろうか。

2015年6月24日 (水)

未来をつくる起業家/ケイシー・ウォール

Photo_2 僕にとって起業のモチベーションは、世の中がもっとこういうふうになったらいいのに、という好奇心にあると思います。それがまだ世の中にないものであれば、「自分で作ろう」となりますし、その動機は発明家に近いかもしれません。

本書は、20人の起業家のインタビューをまとめたものである。

起業には多大な労苦が伴う。

うまくいくことより、うまくいかないことの方が多いだろう。

幾多の壁を乗り越えるには、単にお金を稼ぎたいとか、権力を手にしたいとか、それだけでは弱い。

やはり、これまでにない新しいものを作りたいとか、いわゆる使命感に類するものがないと乗り越えることはできないだろう。

本書に登場する20人は、多かれ少なかれ、これがある。

起業家には、いわゆる「純粋な動機」が不可欠だといえるのかもしれない。

2015年6月23日 (火)

人を殺してみたかった/藤井誠二

Photo 人を殺してみたかった――。私は、捜査員が会見の席で発表した加害者少年の供述内容を知ったとき、愕然とした。

平成12年5月に愛知県豊川市で、17歳の男子高校生が「人を殺してみたかった」という動機のもと、見ず知らずの主婦を殺害した事件は世を震撼させた。

結局、この少年は医療少年院送致となった。

「人を殺してみたかった」という言葉。

人を殺す動機としてはあまりにも軽い。

何かコンビニで買い物でもするような感覚で人を殺す。

そんなに人の命は軽いものなのか?

人の命は特別なものではないのだろうか?

そう思ってしまう。

いったい少年の内面で何が起きていたのか?

そのような問題意識からのルポルタージュなのだが、結論は「わからない」というもの。

確かにさまざまな形で推測することはできる。

親子の関係、子供の頃の体験、友達関係、メディアの影響、精神分析学からのアプローチ・・・等々。

何れも決めてに欠ける。

結局、「わからない」のである。

殺人には動機が必ずあるということも、もしかしたら思い込みなのかも知れない。

それほどにこの事件の真相は闇に包まれている。

2015年6月22日 (月)

チームを動かす!リーダー術/小室淑恵

Photo 一匹狼型のスタイルが限界を迎えたいま、単にトップの成績を収めている人がリーダーとして相応しいとは言えなくなっています。チーム全体の底上げを図る「底上げ型のリーダー」が求められます。

昭和の時代は、強いリーダーが求められていた。

能力の上でも、人格の上でも「すごい人」がリーダーになるべきだと考えられていた。

しかし、現在は「すごい人」がリーダーになる時代ではない。

また、能力の高いメンバーほど「すごいリーダー」ではなく、「自分の能力を最大限発揮させてもらえるリーダー」を求めている。

今はチームの一人ひとりが個性や能力をフルに発揮して、チームが力を合わせて成果を出すことが求められる。

つまり、チームの全員が存分に力を出せる環境づくりこそが、リーダーの役割といえる。

今、国も女性を管理職に任命することを目標に掲げるようになってきた。

その意味で、女性がリーダーになる環境が整ってきたといってよいのではないだろうか。

後は経営者の頭を切りかえることである。

2015年6月21日 (日)

MBB:「思い」のマネジメント実践ハンドブック/徳岡晃一郎、舞田竜宣

Photo MBBで要求される「思い」とは単なる希望としての思い、ナイーブな夢ではない。むしろ世の中にどうコミットしていくかという主体的な信念である。形式知化されて、その実行の決意表明として昇華されるものがMBBで言うところの「思い」なのである。

本書は「思い」のマネジメント実践本である。

世の中を変えるような企業を創った創業家に共通するのは、「世の中をこうしたい」という強い思いを持っていたということ。

アップルのスティーブ・ジョブズやスターバックス・コーヒーのハワード・シュルツなど、いずれも強い思いを持ち、それをもって会社を経営している。

未知の世界で大きなことを成し遂げるとき、思いの重要性は世界共通である。

大きな目標を達成するときには必ず困難が伴う。

それを乗り越え、一つひとつ問題を解決していくために思いに裏付けられた情熱が必要である。

このような思いをベースにした仕事やマネジメント、経営こそが世界を変える。

今この混沌とした世界でこそ、強い思いが求められている。

日本においてはなおさらだ。

そして、その思いを会社で共有するためには、「共通善」「実践知」「教養」が必要。

読んでみて、その必要性は伝わってくるのだが、それを実践するとなると、かなりハードルは高いと感じた。

2015年6月20日 (土)

「世界標準」の仕事術/キャメル・ヤマモト

Photo リーダーシップをとって仕事を進められる人がグローバル人材です。グローバル人材は、どんな立場でも、必ずリーダーシップをとります。

グローバル人材を多くの企業が求めている。

グローバル人材に求められる要素の第一がリーダーシップである。

なぜかと言えば、グローバル人材が手掛ける仕事は、必ず多様な人々をまきこむ必要があるから。

また、多様な人の力をうまく活用しなくてはできないような仕事ばかりだから。

そういう状況では、自分1人でいくら仕事ができても通用しない。

どうやって、他の人、それも日本人に限らない多様な人々を動かせるか、そこが鍵になる。

また先端的なグローバル企業は、分散型リーダーシップという方向に向かっている。

これは、チームのメンバーもグローバル人材である限り、何か強味や専門性をもっていて、その分野ではその人がリーダーシップをとるという意味。

メンバーもリーダーと対等の立場で、知恵を出して、汗を流す。

だから、縦横斜め、すべての人に、なにがしかのリーダーシップが求められるということ。

リーダーシップとはまさに人を動かす力である。

グローバル人材というとまず頭に浮かぶのが英語力だが、むしろ、それより大事なのはリーダーシップだということをしっかりと認識する必要かあるだろう。

2015年6月19日 (金)

乗取り/城山三郎

Photo この作品でわたしは、「普通の武器」でない武器を総動員し、「老人に指揮される既成勢力」という巨大なピラミッドに、ゆさぶりをかけようとした一青年の物語を書いた。『赤と黒』のジュリアン・ソレルを思わせるような、既成社会に挑むその姿勢の昂ぶりをえがきつくしてみたいと思った。

本書を読んで数年前のホリエモンのフジテレビ買収騒動を思い出した。

この小説の主人公、青井文麿はホテルニュージャパン火災の被告人として名が知れている横井英樹氏である。

モデルとなったのは白木屋の買収事件。

次々と手を打つ青井はエネルギッシュであり、善悪は別にして非常に魅力がある。

しかし、結局、青井は既成の勢力に負けることになる。

これもホリエモンのケースとよく似ている。

この小説は昭和35年に書かれたものだが、時代が変わっても人間のやっていることは同じだとな思わされた。

2015年6月18日 (木)

潜入ルポ ヤクザの修羅場/鈴木智彦

Photo 取材対象と一線を引くことは、暴力団取材の鉄則である。最後の指は汚してはならない。しかし、書くためにはまず対象を知らなければならない。リスクがあっても潜入しなければ、書く題材さえみつからない。

著者は暴力団の取材を本業としているライターである。

その場合、一番難しいのは対象物である暴力団との距離感だという。

心に秘めている本音を聞き出すためには、一線を越えた仲になるしかない。

犯罪行為に荷担して共犯者になるのが一番だろうが、さすがにそれは出来かねる。

やはり一線はひかなければならない。

そのような中で、いかにして自分を信頼してもらい、本音を引き出すか?

その部分、コンサルタントと顧客企業との関係性とも相通ずる部分があるような気がする。

2015年6月17日 (水)

「アジアインフラ投資銀行」の凄惨な末路/宮崎正弘

Photo 福澤諭吉は百三十年前に警告した。
 悪友とのつきあいを止めようと提唱した「脱亜論」の動機は、朝鮮独立運動を支援する過程で、背後にいる清の抜きがたい華夷秩序という障害、その時代錯誤を目撃し、絶望したからだ。
 日本はこうした国々と、まともにつきあってはいけない。「悪友とはおさらばしよう」と福澤諭吉は揚言した。現代に置き換えれば、「中国と韓国にはさようならをいおう」。彼らがもくろむAIIBなんぞ加盟する必要もなく、自滅を眺めていればよい、ということである。
 まさに、いまの日本を取り巻く状況とあの時代の環境が似てきた。いまの東アジア情勢は日清戦争前と構造的にはそっくりである。

AIIBについては、日経や朝日等、大手マスコミは「バスに乗り遅れるな」と日本政府の対応を批判した。

しかし、実態を調べてみると、どう考えてもメリットがあるとは考えられない。

また、うまくいくとも考えられない。

中国経済を見るとき、まず問題なのは、公表された数字がほとんどあてにならない、ということ。

だから、その他の指標を参考に判断する以外ない。

例えば中国の外貨準備金は3兆8400ドルあるとされる。

ところが虎の子の米ドルは、高級幹部や国有企業の経営者等によって海外へあらかた持ち出され、加えて無謀な海外投資、プロジェクトへの出資や外国企業の買収などで実質底をついているという。

きちんと分析すれば、うまくいかないと考える方が正しい。

それにしても日本のマスコミは何をみているのだろう?

2015年6月16日 (火)

最貧困女子/鈴木大介

Photo 貧乏とは、単に低所得であること。低所得であっても、家族や地域との関係性が良好で、助け合いつつワイワイとやっていれば、決して不幸せではない。一方で貧困とは、低所得は当然のこととして、家族・地域・友人などあらゆる人間関係を失い、もう一歩も踏み出せないほど精神的に困窮している状態。貧乏で幸せな人間はいても、貧困で幸せな人はいない。貧乏と貧困は別ものである。

今、格差が問題になっている。

しかし、単にお金がないということが不幸せとは限らない。

南米の国々など国家は貧しくても、意外と国民は陽気に暮らしている。

本書で取り上げている少女たちの多くは貧困に陥った結果、風俗に走っている。

家族・地域・制度という三つの縁をなくし、セックスワークで日銭を稼ぐしかない状態に追い込まれる。

そのことを非難するより、彼女らを受け入れる「場」が風俗しかないという現状に問題を感ずるべきだろう。

2015年6月15日 (月)

「家族神話」があなたをしばる/斎藤学

Photo 今の日本社会の特徴として言えるのは、格差社会の底辺・絶望層に棲むワーキング・プアたちが、かつては親の生き甲斐を担った「ナルシス王子」(自己愛に傷が入って、炎症を起こしたように自己愛肥大を起こした青年たち)であるということです。彼らは親と世間(親のメタファー)によって不当にも自らの地位を追われたと信じていますから、その恨みは深い。

自己愛を肥大化させ、親が悪い、同僚が悪い、世間が悪い、と思い込む。

この認識は明らかに間違っているのだが、このように思い込んでいる人が多くなっているのは事実であろう。

そのような人に対して、家族療法的アブローチは彼らの信念を揺さぶり、行動を修正することができる、という。

ある人の考え方・世界観を知らぬうちにしばる「家族」の「神話」。

それが生きにくさの原因となったり、うつ、引きこもり、過食・拒食、アルコール依存などを引き起こしたりする。

「家族」の「神話」がいかに人を縛るものであるかを知らされた。

2015年6月14日 (日)

ヒトラーの大衆扇動術/許成準

Photo 大衆の意見は中庸を好まない。彼らがついて来るようにするには、均衡のとれた論理より二分法的な論理を使う方が有効だ。中道的な論理は大衆の理性に訴えるのだが、二分法的で極端な論理は大衆の感性に訴えるからだ。

私の印象では、少なくともドイツ人は日本人より理性的に見える。

そのドイツ人がヒトラーにいとも簡単に扇動されてしまった。

何故なのか?

これが本書を読んだ動機である。

読んでみてわかったのは、ヒトラーの演説の特徴は「神秘的な登場」、「分かりやすい内容」、そして「群衆を興奮させる熱狂的なスピーチ」に要約できるということ。

人は誰でも自由意志で行動しているようにみえるが、実は、人間なら共通に持っている心の動きがある。

それは、何か刺激を与えれば誰でも同じように反応するというもの。

例えば、暗い場所で隅から光が差してくれば、人は光の方向に目を向ける。

ヒトラーは、そういう人間の本能的な反応を利用した。

演説する時間と場所にも気を配った。

聴衆の心理的抵抗が最も弱い時間帯、つまり夕暮れ時に演説時間を設定した。

午前中は判断力も鋭いが、半日経って夕方になれば、だんだん鈍くなって心の防御を解き、他人が言うことも素直に聞きいれるようになる。

ヒトラーが演説に夕方の時間帯をよく使ったのは、このような原理を理解していたからだ。

彼は、知的レベルが最も低い人々でも理解できる単純なスローガンが非常に効果的だということを知っていた。

言葉は、繰り返されれば繰り返されるほど人の頭の中に強く刻印される。

圧倒的多数の愚昧な民衆が一方の方向に動くようになれば、知識人もその動きに押し流されるしかないということを彼はよく理解していた。

ヒトラーの演説が効果的だったのは、話す要点をいくつかに絞り、それを大げさなパフォーマンスで繰り返して、大衆の心に刻みつけたからだ。

要点をいくつかに絞って、それを多様な方式で繰り返す。

繰り返しが単調にならないように多様な演出でバリエーションを作る。

と、まあこんな具合で、よくここまで考えたものだ。

ただ問題は、動機が不純だったということである。

そして、やったことは決して許されるものではない。

2015年6月13日 (土)

ケネディ家の呪い/越智道雄

Photo_2 ケネディ大統領にも、「剣の刃の上を渡る」タイプの勇気、その結果自ら招き寄せた「呪い」という典型的なパターンが見られた。それこそが、1963年11月22日、ダラスで起こったのだ。

ケネディ家は数々の悲劇に翻弄されてきた。

暗殺されたJ.F.ケネディ大統領をはじめとして、実弟ロバート・ケネディの暗殺、飛行機事故三件・・・等々

まるで一族にかけられた「呪い」のよう。

ただ、あえてリスクを取るという一族の伝統がそのような悲劇を生み出したものまた事実なのではないだろうか。

いまだにケネディ家が〝王朝〟と称され、人気と影響力があるのも、そのような生き方に魅かれてのものだと思う。

2015年6月12日 (金)

「社員を大切にする会社」の人事評価/高橋恭介

Photo 日本のホワイトカラーの労働生産性が低いのは、1つは、横並び主義で、頑張っても頑張らなくても評価が同じだからです。会社に、ホワイトカラーが頑張れるメカニズムがないのです。やってもやらなくても評価が同じで、給与が変わらないのであれば、よほど自発的で、自分でドライビングできる人でないと頑張りません。
 本能的に、「じゃあ、頑張らなくてもいいかな……」
 という人たちが一定数出るのは当然です。

先日、著者の主催するセミナーに出席した関係で、本書を読んでみた。

私自身、多くの会社の人事評価制度を作っているのだが、抵抗感を持つ人も多い。

しかし、「やってもやらなくても同じ」という会社では、残念ながら

「だったらやらない」

と、なってしまうのもまた事実である。

勤勉が代名詞だったかつての日本の労働者の姿は、今はない。

今は、外国人労働者の方がむしろ真面目に一生懸命働くという声さえ聞く。

評価されることを前向きにとらえる風土を会社全体で作りあげることが必要ではないだろうか。

2015年6月11日 (木)

孫正義の参謀/嶋聡

Photo 社長室長に転じて四カ月。孫社長がきわめて楽観的な人に見えながら、最悪に備えているのを見て「この人なら成功する」と確信を深めていた。「悲観的に準備し、楽観的に行動する」のが最高のリーダーだからだ。

一流の経営者なら、最悪を想定しなくてはならない。

最悪の事態が起こったときの対処法、「大敗北」を喫したときの身の処し方をあらかじめ決めておき、「生き残り」のための方策を講じておくものである。

しかし、それだけでは経営者として成功することはできない。

経営者は大胆にかつ迅速に決断し実行しなければならない。

孫正義にはその両面が備わっている。

ボーダフォンやスプリントの買収劇。

犬が父親という白戸家のアイディア。

一つ一つ、繊細さと大胆さが同居する。

こんな経営者、ほとんどいない。

先日、孫氏は元Google最高幹部のニケシュ・アローラ氏を、後継者にする意向であることを明らかにした。

孫氏の後継者は大変だろうな、と思ってしまった。

2015年6月10日 (水)

100の結果を引き寄せる1%アクション/鈴木領一

100 毎日、自分がしたいことを1%だけでも継続し続けると、あなたの内面には、「私は私の好きなことができる人間である」というフレームが作られていきます。

フレームは、私たちに知られることなく、私たちをコントロールしている。

一度フレームができてしまうと、フレームの回路は自動的に動くようになる。

つまり、無意識の行動となる。

人は、目にするもの、体験するもの、すべてに何らかのフレームを作っている。

その数は無数。

一つのモノや出来事に対して、一つのフレームが一対一でひもづけられている。

友達に対するフレーム、政治に対してのフレーム、学歴に対するフレームなど、私たちの思考を構成する情報のすべてにフレームがひもづけられている。

そして、ひとたび一つのフレームがひもづけられたら、このフレームは無言で私たちの思考をコントロールするようになる。

だから、自分の人生を変えたいと思うならば、このフレームを変える作業をする必要がある、というのである。

そしてそのために必要なのが1%アクション。

毎日自分のやりたいことを1%だけ継続してやり続けることによって、「私は私の好きなことが出来る人間だ」というフレームをできるというのである。

自分自身のことを省みると、すでに実行していることに気づいた。

毎日1冊読書し、その中で1ヶ所印象に残ったフレーズを抜書きし、それにコメントを記入する、ということを毎日続けている。

確かに、これを続けるようになって物事がうまくいくようになった。

そう考えると、本書の言っていることには一理あるといえるのではないだろうか。

2015年6月 9日 (火)

無所属の時間/山本七平

Photo 日本全体が試行と模索の時代に入ってしまったと思われる。出版社だけでなく、社会のすべての方面で、勤勉力行だけでは解決のつかない問題に直面しはじめた。おそらくこの場合、今までのような型の積極性とは違った型の、自分のうちに予め原則を立てて、それに基づいてさまざまの着想を消去するという行き方が要請されるのではないかと思う。

本書が出版されたのは1978年のこと。

つまり、今から40年近く前。

ところが、ここでいっていることはまさに「今」のこと。

今、日本は、真面目で働くだけではどうしようもないところまで来ている。

「真面目」「勤勉」が代名詞だった日本の労働者も、それだけでは評価されない時代に突入した。

今では多くの人がこのことを指摘しているが、それを40年近く前に言っているところに、山本七平氏の「すごさ」があるのではないだろうか。

2015年6月 8日 (月)

日本はなぜ敗れるのか/山本七平

Photo 戦後は「自由がありすぎる」などという。御冗談を!どこに自由と、それに基づく自由思考と、それを多人数に行う自由な談論があるのか、それがないことは、一言でいえば、「日本にはまだ自由はない」ということであり、日本軍を貫いていたあの力が、未だにわれわれを拘束しているということである。

著者によると、日本人は戦前も戦後もそして現在も「ある力」によって支配されている、という。

戦前は、明治維新前の体制が否定され、徳川期は暗黒時代と定義された。

藤村の小説『夜明け前』の表題は、維新前を「夜明け前」と把握しているわけで、これは当時の人びとが、心底から疑わなかった常識である。

そして明治の〝夜明け〟の思想に基づいて、日本の過去の歴史を、それに適合するように再構成した。

そしてそれを信じないものは非国民だった。

これと全く同じ図式が、終戦とともに起る。

終戦直前は、戦後民主主義の「夜明け前」であり、明治から昭和二十年までは暗黒期になる。

そして、新しいマッカーサーの〝黒船〟とともに夜明けが来ると、以後は、この戦後民主主義の思想に基づいて過去の歴史を再構成してしまう。

そして、これを信じない者は、民族の敵、平和の敵と規定される。

つまり、「ある力」に支配されているということにおいては、現在も全く同じであるということである。

そしてこれが繰り返されている限り、われわれは常に「再構成された過去の虚像」の支配をうけ、その「力」に従うことを強要される、というのである。

何かわかったようでわからない指摘なのだが、確かに核心をついており、非常に考えさせられる。

2015年6月 7日 (日)

日本的革命の哲学/山本七平

Photo まずわれわれには、「法律問題になるのを嫌う」という伝統が厳然とある。極端な言い方をすれば、「法よりも示談」の世界、「法規よりも談合」の世界なのである。ある皮肉屋が「談合批判キャンペーンをやっている新聞記者もおそらく記者クラブで記事について談合しているであろうな」と言っていたがこれが日本の伝統であろう。

この指摘、非常に面白い。

確かに日本社会は法律よりも話し合いの世界である。

争い事があっても「法廷で白黒つける」となるのはごく稀なこと。

ほとんどは話し合いでお互い落としどころを探し、合意する。

このような伝統があるので、どんなに国が弁護士を増やしても訴訟はそれほど増えない。

よって、喰えない弁護士が増えることになる。

私の地元山口には「談合峠」という峠が山陽小野田市にある。

このこと一つをとっても、昔の人は談合を決して悪いこととは思っていなかったということをあらわしている。

そしてそれはいい意味でも悪い意味でも「日本らしさ」なのではないだろうか。

2015年6月 6日 (土)

日本型リーダーの条件/山本七平

Photo 日本の社会では、あれは人望がないからだめだと一言でおしまいになる。そこでストップになる。あるとき面白半分に、「人望なんかなくたっていいじゃないですか、なんで人望なんかいるんですか」といったら、「そんなこといったって人望がなければだめだよ」「どうしてですか」「どうしてだって、なければだめなんだよ」と先へ話が進まない。

日本の会社では、「あの人は人望がない」と言われるのは死刑宣告に等しい。

そのようなレッテルを貼られたら、どんなに能力があろうが、どんなに成果を出そうが、出世はできない。

ましては会社のトップにはなれない。

それほど「人望」とは絶対的なリーダーの条件なのである。

ではどうして人望が大事なのか?

それなりの説明はできるのだが、誰も明確に答えることはできない。

誰も説明できないが絶対的な要素、そして人を動かす根底に流れているもの、

これが人望である。

言われてみればその通りで、それが日本の組織の特殊性なのであろう。

2015年6月 5日 (金)

勤勉の哲学/山本七平

Photo いわば正三は、「働く」ということを、成仏の手段とした。これは決して、財の獲得それ自体を目的としたのではなかった。梅岩はこの考え方を消費の方向へと発展させたわけである。元来消費は常に何かの獲得を目的と考えるのが普通であり、彼は一応それを名聞・利欲・色欲とした。これは「働く」も元来は財の獲得を目的としたのと同じである。そして正三がこの「働く」を成仏の手段としたように梅岩もこの「消費」を「正直」に到達する手段とし、その手段として行う消費の方法を倹約と言ったわけである。

日本人はなぜ勤勉なのか?

そこには働くことこそ、人間としての自然の姿があり、働くことは仏教の修行と同じ意味合いがあるとする考え方があった。

そしてその考え方のルーツとして、鈴木正三と石田梅岩という二人の人物を上げている。

すなわち正三の「何の事業も皆仏行なり」で、世俗的行為則宗教的行為として一心不乱に働くことが、即ち修行であるとする考え方。

そしてその上に、梅岩の消費の倫理で倹約という「世俗の中の禁欲」。

これらが日本人の勤勉であることの根本であるとする。

一意専心働くことが、仏行となるから、日本人はひたすら働く。

ただ一心不乱、各々の仕事において、自己の身心を「ひた責に責て」モーレツに働くことは「病」ではなく、こうすれば精神的安定と充足感を得られるから。

この考え方は労働を宗教的救済の方法と見、これに徹する者ほど精神的に健康と規定しているわけで、これが日本人の農業観・労働観・職業観の基礎をなし、同時に日本的資本主義精神の基礎となっている。

この「成仏の方法=仕事」という発想はおそらく日本独特のものであろう。

2015年6月 4日 (木)

日本資本主義の精神/山本七平

Photo 軍とは、元来は国民の生命財産を守るために機能する組織である。しかしこれが「軍部」という形で共同体になると、この共同体を維持するために逆に国民の生命財産を勝手に使うという形になる。これが日本を破滅に追い込んだ。

会社とは本来機能集団である。

ところが、日本の会社は機能集団という面と、共同体という面が共存している、と著者は述べている。

この指摘、まさに日本の組織の問題の本質をついている。

会社が共同体になるということは、その共同体を維持することそのものが目的化するということである。

だから日本の会社では上司は部下の仲人をしたり、社員旅行があったり、社員運動会があったりする。

いい面もあるが反面、マイナスに働くこともある。

会社が機能集団ということであれば、できる限り筋肉質である必要がある。

ところが、共同体ということになれば、ぜい肉も必要ということになる。

日本の企業の生産性が低いのもこのことと無関係ではないであろう。

また、共同体維持に力を注ぐため、内部告発などできなくなる。

それがひいては企業不祥事につながることもある。

つまり共同体維持の原則が先に立って、何のために機能しているかが従になってしまう。

これが日本の、機能集団=共同体という状態が生みだす、最大の問題点であろう。

2015年6月 3日 (水)

日本人とは何か。(下巻)/山本七平

Photo_2 徳川時代の政治体制は、分権的でありながら集権体制であるという、世界でも稀に見るものであった。韓国、李朝の完全な中央主権体制と、ヨーロッパ中近世の完全なる分権体制と較べてみると、両者をほどよく結合した形になるのである。すなわち、ここにもいわば二元体制があったといえる。しかも、両者の調和があり、これは今日においても、日本の経済力が非常に適応力があることの原型になっているのである。

徳川時代に現在の日本の発展の原点がある、という。

この分権的でありながら中央集権体制は、世界でもまれなユニークなものであった。

徳川幕府は、大名分国という分離構造を前提にした政権体制を置いた。

諸大名による領地の分有と、その自治的な統治は、安定した土地所有関係によって、農業生活力を向上させ、経済と経営の観念を育てた。

しかし、諸大名が力をつけすぎることは、幕府にとって脅威となる。

そこで参勤交替制という非常に巧妙な発明をした。

これは、諸大名の勢力拡張を抑え込んで、幕府の集権体制を強化し維持する手段であった。

そして参勤交替制は、経済発展に大きな役割を果たした。

参勤交替制による、隔年ごとの諸大名の江戸への往来は、物資の流通、道路の整備、貨幣経済の発達など、全国的経済圏の形成を促進した。

こうしてみると、非常によく考えられた制度であることがわかる。

2015年6月 2日 (火)

日本人とは何か。(上巻)/山本七平

Photo 簡単にいえば「かな」がなければ日本は無く、そうすれば日本文化は当時の超先進大国中国の、漢字文化の中に包摂され埋没してしまったかも知れないということである。

日本の歴史を語る上で「かな」の影響は計り知れない。

平安前期までの日本は、ほとんど中国文化のとり入れに明け暮れた。

その中で本当に創造的な仕事といえるのは、仮名の発明ぐらいである。

「かな」によって日本人は自らの言葉を記す自らの文字を創造した。

そしてそれによって自らの古典を記し、それと並行して組織的な統一国家を形成した。

つまりこのときに日本ができたと言っても過言ではない。

自分の考えを自分の言葉と自分の文字で、何の束縛もなく自由自在に記しうること、

それが広く庶民にまで普及して識字率を高めたこと、

また和歌・俳句を生み出して日本的な感性を育んだこと、

この重要性はいくら強調しても強調し足りない。

『古事記』『万葉集』から『竹取物語』や『源氏物語』『伊勢物語』『平家物語』『徒然草』等、全て「かな」文学である。

つまり「かな」がなければ、現代の日本文化は無かったといってよい。

この意味で日本を考える場合、「かなの創造」は、忘れることのできない画期的事件と言ってよい。

これがなければ文化的に中国の属国になっていたかもしれない。

日本人が「かな」をつくり「かな」が日本文化をつくった、と言えるのではないだろうか。

2015年6月 1日 (月)

曙光の街/今野敏

Photo オギエンコは、じっとヴィクトルを見つめていた。
「どうやら、おまえのことを見くびっていたようだな」
「そう。あなたに仕込まれたのですからね」
「カーチャという名だった……」
「何だって?」
「エレーナの母親だよ。いい女だった……」
 そのとき、エレーナがさっとヴィクトルに近づき、拳銃を奪い取った。そして、オギエンコに銃口を向けて言った。
「今までの怨みを晴らしてやる。この日をどれだけ待ち望んだか……」
 初めて、オギエンコの眼に絶望の色が浮かんだ。
 エレーナは、続けざまに三発撃った。そのたびにオギエンコの体が跳ね上がったが、やがて動かなくなった。
 エレーナは、それでも銃口をオギエンコに向けていた。肩で息をしている。見ると、涙を流していた。

主人公は元KGBで日露混血のスパイ、ヴィクトル。

ヴィクトルはロシアンマフィアから暴力団組長の暗殺を命じられ日本に潜入する。

その情報を得た日本の公安はやる気のない倉島警部補が担当を命じる。

やがてこれはエレーナというヤクザに囲われた女の復讐劇へと進展していく。

そのようなストーリーだが、読んでいて飽きない。

小説の中には、作者が何かを訴えるために描いたものもあるが、これは単に楽しんでもらえばそれでよいというスタンスのもの。

エンディングはもちろんハッピーエンド。

たまにはこんな小説を読むのも気分転換にはよいと思った。

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