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2015年8月の31件の記事

2015年8月31日 (月)

社長の器/高杉良

Photo「兄貴とは、価値観、人生観が違います。ニチベアはもっと大きくなるんじゃないですか。僕は会社を大きくすることよりも社員のことを先に考えたいですね。幸せの尺度なんて人によって違うんでしょうが、征一のような考えかたには与しません。かれは、会社は株主のものだと考えてるようですが、それはオーナー経営者だからこその発想で、カマドの灰まで自分のもの、という考えかたと変るところはないですよ。会社はそこに勤める従業員のものと考えるほうがまっとうなんじゃないですか。」

中小企業社長の父親が作った2つの子会社。

ニチベアは、名門紡績会社で兄・高原征一が経営し、

中小企業の啓発製作所は弟・高原高望が経営することになった。

エリート街道を歩み、冷徹な兄と優しく人情派の弟。

性格は正反対。

弟は従業員への還元を重視した経営を行い、衆議院議員になる。

しかし、その弟は50代で急死する。

弟の急死に伴い、弟が気に食わないエリート意識の強い兄は、弟家族への借金の催促等嫌がらせを行う。

正に骨肉の争いといったところである。

「社長の器」とは何かを考えさせられる。

2015年8月30日 (日)

しんがり/清武英利

Photo「会社が潰れて全員が不幸になったのか。否ですよ。会社の破綻は人生の通過点に過ぎません。私はサラリーマンとして、幸せな人生を過ごしました」

これは社内調査委員会を率いた嘉本隆正元常務の言葉。

山口証券の破たんと言えば、「社員は悪くありませんから!悪いのはわれわれなんですから!」と泣き叫んだ野澤社長の姿が思い出される。

しかし、この後多くの社員が再就職に奔走する中、その流れに逆らって、最後の仕事に取り組む社員がいた。

その仕事の一つは、二千六百億円にも上る債務隠しの真相究明。

山一という大企業を滅亡に追いやった「簿外債務」。

それはいつ、どのように、誰の決断で生まれ、どのような人間によって隠し続けられたのか。

社員自らの手で疑問を解き、去っていく同僚や家族に明らかにする作業。

もう一つは、一年半を要した会社の清算業務。

社員たちが集めてきた二十四兆円の預かり資産を、顧客に確実に返していく後ろ向きの仕事。

「後軍」(しんがり)という言葉がある。

戦に敗れて退くとき、軍列の最後尾に踏みとどまって戦う兵士たちのことだ。

彼らが楯となって戦っている間に、多くの兵は逃れて再起を期す。

会社破綻を企業敗戦ととらえれば、自主廃業の後で働いた社員たちは、しんがりの兵士そのものであった。

言ってみれば、「貧乏くじ」を引かされたということ。

ところが、あれから15年経った後、たまたま会った彼らに聞いてみると、ほとんどの者がそのことをむしろ肯定的に受け止めていた。

人はカネのためだけに生きるのではない、一番大事なのは「人としての誇り」なのだということを教えられた。

2015年8月29日 (土)

自分の気持ちをきちんと〈伝える〉技術/平木典子

Photo_2 アメリカのある心理学者は、人間関係のもち方には、大きく分けて三つのタイプがあると言っています。「第一は、自分のことだけ考えて、他者を踏みにじるやり方、第二は、自分よりも他者を常に優先し、自分のことを後回しにするやり方、第三は、第一と第二のやり方の黄金率ともいうべきもので、自分のことをまず考えるが、他者をも配慮するやり方」です。

相手に自分の気持ちを伝えることは難しいものだ。

やはり、本音を言えば、相手との良好な関係が壊れてしまうのではないか、という不安がある。

逆に、そう思わない人は、相手の心の中に土足で踏み込んでしまう。

これだともっと悪い。

しかし、アサーションとは、第三のやり方。

つまり、自分のことをまず考えるが、他者をも配慮するやり方である。

このことを本書を通して知った。

当然、このやり方を身に付けるにはトレーニングが必要になる。

しかし、ぜひ身に付けたいスキルである。

2015年8月28日 (金)

相手の気持ちをきちんと〈聞く〉技術/平木典子

Photo 人は育った環境、時代背景などによってつくられた枠組みで言葉を使い、理解します。

相手の話を聞くことは思いのほか難しい。

それは、人それぞれ、自分の枠組みの中で言葉を使い、理解するから。

そのため、言ったつもり、伝えたつもり、が起こる。

さらに「きく」には、「聞く」「聴く」「訊く」の三種類がある。

一つ目の「聞く」は、音が耳に入ってくる、聞こえるという意味。

二つ目の「聴く」は、相手の感じていること、伝えたいことを理解しようと耳を傾けること。

「聴」という漢字には「心」という文字が入っている。

「聴く」とは心を込めてきくこと。

いわば、「聞く」は受動的で、「聴く」は能動的。

三つ目の「訊く」は、知りたいこと、質問したいことを尋ねること。

「聴く」を目指したいのだが、そのレベルは非常に高いのが現実である。

2015年8月27日 (木)

「一生懸命」な「まじめ」社員を『稼げる』人材に育てる法/山元浩二

Photo 「一生懸命」で「まじめ」
 多くの中小企業の社員は、この2つの長所をもっているものです。
 では、ここで質問です。
 「あなたの会社の『一生懸命』で『まじめ』な社員は、社長の思惑どおりに成長していますか?成果を上げていますか?会社に利益貢献していますか?」
 「つまり〝稼げる〟人材ですか?」
 「NO!」という答えの社長が多いはずです。
でも、なぜでしょうか。よく考えると不思議ですね。
 だって、「一生懸命」で「まじめ」な社員が成長しないなんて!

人事コンサルの仕事をしていると、上記のことは日々実感しているところである。

高度成長期の頃は、企業が右肩上がりで成長していた。

だから、決められたことを真面目に一生懸命やる社員が優秀な社員であった。

なぜなら、そうしてくれれば企業は成長できたから。

しかし、時代は変わった。

一生懸命、真面目に働く社員ばかりではその企業は成長できなくなった。

なぜなら、今、企業に求められているのは戦略性だからである。

中長期的に会社はどこを目指すのか?

これが明確になっていないと、ただ真面目に働いただけでは会社も個人も成長できない。

だから、人事評価制度にも戦略性が求められるようになってきた。

問題は、このことが薄々わかっておりながら、人事評価制度に手を付けていない中小企業が大部分であるという現実である。

2015年8月26日 (水)

会社で落ちこぼれる人の口ぐせ 抜群に出世する人の口ぐせ/吉田典史

Photo 「日ごろ目で見たり、耳で聞いたりして考えたこと以外のことは、言葉にはできない。言葉は、人の意識や考え方を具体化したものにほかならない。言葉から、その人の脳の中がわかる。言葉は、生活や人生を如実に表している」

サラリーマンが出世するかどうかは絶対的な価値ではない。

特に最近は、管理職になりたくないという人が増えてきている。

しかし、上司や同僚、部下から評価されなければ出世することはできない。

このことを考えると、出世するかどうかは、その人が仕事の出来る人かどうかを見る目安になることは間違いない。

そしてそれは口ぐせを聞くとよくわかる。

仕事柄、多くの社員と接する。

すると、人それぞれ、一定の口ぐせがあることに気づかされる。

落ちこぼれる社員の場合、口ぐせは否定的、消極的、そして自己肯定的であり、自己を正当化する言い訳じみたことばが多い。

「忙しい、忙しい」を繰り返し、「言ったよね?」「聞いていないぞ!」「あいつはねぇ~」などと部下を威嚇し、抑えつける。

そしてその言葉を誰よりも聞いているのは自分自身である。

言っている内に、本当に人格までがその口ぐせに同化してしまう。

口ぐせは恐ろしい。

2015年8月25日 (火)

人間水域/松本清張

Photo 「あたしが君のパトロンになる。その代わり、一生、君を放さない」
 「うれしいわ」
 「その代わり、どのような犠牲を払ってでも、君の前衛水墨画における第一人者の位置を守ってあげる。あたしはこれでマスコミには発言力のあるほうだ」
 「存じています」
 「現在は、マスコミの世界だ。どのように実力があっても、世の中に知られなくてはなんにもならぬ。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、あらゆる音響と活字が、永遠に君を守るようにさせる」

清張の小説には珍しく、殺人事件は起こらない。

せいぜい傷害事件くらいである。

題材は、前衛水墨画の世界。

世間的にもそれほど注目されない世界。

そこに自らの美貌を武器にのし上がってきた二人の美女がいる。

実力以上にその美貌でマスコミにもてはやされた二人、

二人ともお互いを批判し合うが、そのやり方は共通している。

更にのし上がっていくために財界の有力者に取り入って庇護を受けようとさまざまな努力をする。

しかし、その先にあったのは、

一人はその美貌に硫酸を浴び破滅の道をたどり、

もう一方も、後から来る新進作家におびえ続ける。

人間の弱さ、醜さ、狡さ、そんなものがちりばめられている。

「人間水域」という題名も、そのことを暗示しているようだ。

人間とは所詮こんなものだ、と、著者が言っているようである。

2015年8月24日 (月)

数の風景/松本清張

Photo あれは、いわゆる「計算狂」というのである。精神病ではない。一種の強迫観念である。数えられるものは何でも数えなければ不安になるのである。
 ブルックナーは、木の葉も、星も、砂粒も数えたとある。著名な古典作曲家によくもまあ、梅井きく女に似た人物がいたものだと谷原は感歎した。

この小説、「数」が謎を解くキーワードになっている。

負債をかかえて自殺する場所を求め逃避行をしていた谷原は、たまたま同じ宿に泊まった設計士、板垣と“計算狂”の美女についての話をするうち、大金儲けのヒントを得て自殺を思いとどまる。

さっそく谷原は行動に移し、高圧線下の細長い土地を買収し、それをもとに電力会社を脅し、多額の補償金を得る。

電力会社から1億2千万円の補償金を獲て、さらに勝負に出ようとした矢先、結局それが過去の他の殺人事件を掘り起こすことになり、その関係者に殺されてしまう。

それにしても、読後、「計算狂の女」が一番印象に残るのは、いつの間にか清張の術中にはまっていたのかもしれない。

2015年8月23日 (日)

リーダーにカリスマ性はいらない/赤井誠

Photo だからこそ、リーダーはイシューからはじめてはいけないのである。そうではなく、目の前の小さなトラブルを数多く解決し、まずは短期間で目に見える成果を出す。
 そうすれば、その成果を社内・社外のステークホルダー(利害関係者)にアピールし、彼らの信頼を獲得できる。
 これこそがリーダーがまず最初にやるべき仕事なのだ。

「リーダーはイシューからはじめてはいけない」

多くの本は、これとは逆のことが書かれている。

つまり、リーダーはまずイシュー(本質的問題)をつかみ、これを解決すべきだ、と。

でもよくよく考えてみると、著者のいうことにも一理あることに気づかされた。

例えば新任リーダーがあるプロジェクトのリーダーとして立たされたとき、大事なことは経営者や部下からの信頼である。

では部下からの信頼を得るためにはどうすればよいのか?

それは結果を出すことである。

なんだかんだ言っても、ビジネスは結果である。

だからこそ、「与えられた環境のなかでいかに確実に成果を出していけるか」がリーダーに求められる。

解決にコストや時間がかかるイシューばかりを追いかけていては、いつまで経ってもなかなか目に見える成果を上げることができない。

こういうリーダーは、部下からも評価されない。

だから、結果を出しやすい小さな難易度の低い問題から手を付けるべきだというのである。

リーダーとして結果を出してきた著者ならではの視点である。

2015年8月22日 (土)

クロネコヤマト人の育て方/水迫洋子

Photo 教育というのは『一人ひとりが活躍できる場、成長できる場をどれだけ見つけてあげるか、見いだしてあげられるか』。会社には当然、理念があり、めざすべき姿がありますから、会社として大切にしている思いを分かち合える人が活躍できる環境をつくっていくことだと思います。

人材育成は、「人を育てる」と表現する場合と、「人が育つ」と表現する場合がある。

「人を育てる」といった場合、あくまで主体は「育てる側」にある。

しかし、「人が育つ」といった場合、「育つ側」が主体であり、そのための環境作りをすることを指す。

実際には両方の要素があるものだが、どちらに軸足を置くかに、その企業の色がでる。

ヤマトグループは圧倒的に「人が育つ」に軸足を置いている。

会社は、社員が自ら成長していくための機会や環境を用意する。

それを社員に生かしてもらう。

ヤマトグループにとって、「人の育つ環境づくり」とは、社員を意のままにできる存在ではなく、「人」として見て正面から向き合うこと。

そして、方針や施策の一つひとつに〝魂〟を入れ、さらにしくみに落とし込んで生き続けていくようにする。

これは気の遠くなるような回り道を本気で選択することである。

でも、元来人材育成とは面倒くさいもの。

そして時間がかかる。

しかし、これができる企業は他者と圧倒的な差別化を図ることができる。

商品やサービスで差別化することが難しくなった今日、「人」で差別化するのは、一番確実な差別化戦略なのかもしれない。

2015年8月21日 (金)

9割の会社は人材育成で決まる!/小山政彦

Photo 「怒ること」と「叱ること」はまったく別ものです。
 私の定義では「怒る」とは、感情の発露です。冷静さを欠いて、自分の怒りの感情をそのまま相手にぶつけることです。
 一方、「叱る」のは、叱る人の頭の一部が冷静で、「部下がもっと成長すればよい」と思いながら、注意することです。声をあらげることはあっても、「部下のために叱る」という点で違います。

「怒ること」は感情の発露、「叱ること」は部下の成長を考えて注意すること。

これは社員研修などでもよく教えられることである。

しかし、最初は叱っているつもりが、だんだん感情的になり、結果として怒っていたということはよくある。

また、逆に、怒ったことを、「あれは叱ったんだ」と正当化することもある。

つまり区別することが難しいということである。

それに、怒ることがすべて悪だとも限らない。

例えば、本田宗一郎は瞬間湯沸かし器と言われるほど、怒りっぽかった。

怒るとげんこつが飛び、スパナを投げつけてきたという逸話が残っている。

しかし、それを語る人はそのことをむしろ懐かしげに語る。

そしてオヤジと慕っていた。

つまり怒ることも本田宗一郎のキャラクターの一部になっており、決してマイナスとはなっていないということ。

結局、「怒る」も「叱る」も、「誰が」という人格抜きには、良し悪しは言えないということではないかと思う。

2015年8月20日 (木)

ドラッカーの黒字戦略/藤屋伸二

Photo 「顧客ニーズ」を日常的な表現に変えると、「カネを払ってもいいから、とにかくなんとかしたい問題」となります。そうだとすれば、商品は「カネを払ってでも解決したい問題の解決手段」です。つまり、顧客は商品そのものを買っているのではなく、問題解決の手段を買っていることになります。

「顧客ニーズ」と言うとわかったようでわかっていない。

しかし、「カネを払ってもいいから、とにかくなんとかしたい問題」と言われると、ピンとくるところがある。

これを探すのが中小企業が生き残る道だといってよい。

たとえば、テレビを見ている人は、テレビそのものを見ているのではなく、「娯楽」や「情報収集」の手段として見ている。

どんな問題を解決するためにテレビを見ているかが分かると、競合がはっきりしてくる。

たとえばテレビ局は、「娯楽」においては、ゲームや家族旅行やLINEと競合している。

また「情報収集」においては、スマホやパソコン、新聞や雑誌などと競合している。

テレビ局は、このような現実を理解しないと、的外れの競合対策をして、努力が報われずにジリ貧になってしまう可能性が大きい。

大企業に比べて、ヒト・モノ・カネ・時間・ノウハウ・情報が圧倒的に不足する中小企業が価格競争に走り出すと業績は悪化する。

効率では、大企業にかなわないからである。

そうした意味で、顧客に不便やガマンをさせていること、つまり「カネを払ってもいいから、とにかくなんとかしたい問題」を発見することである

それが中小企業が生き残る道である。

2015年8月19日 (水)

会議の魔術師/高野文夫

Photo ファシリテーターには3段階に成長してゆきます。
 第一段階は、会議のプロセスを設計し司会進行を行う会議のファシリテーター。
 第二段階は、チームをリードするチームのファシリテーター。
 最終の第三段階は、変革を促進する人材としての変革ファシリテーターです。
 組織内の風土改革の核になる人です。

ファシリテーターの成長3段階について、

第一段階はスキルの問題。

しかし、第二、第三段階については、スキルだけではできない。

特に第三段階はそれが明らかである。

先日、ある社長と話したとき、「できる営業マンとはどんな人か」という話題になった。

その時、社長の口から出たのが「やっぱり最終的には『人間力』だよな」という言葉。

人間力はよく聞く言葉だが、それを定義するのは難しい。

余りにも漠然としている。

しかし、これが人を動かし、影響を与える決定的要素であることは否定できない。

やはり最終的には人間力が問題となるのであろう。

特に日本では。

2015年8月18日 (火)

リーダーのための!ファシリテーションスキル/谷益美

Photo 世界は個の集合体。そして、みんな、様々な要素でつながり合っています。つながり合う相手と交わし合うのがコミュニケーションであるならば。
 コミュニケーションが変わると、対話の質が変わります。
 対話が変わると、人間関係が変わります。
 そして、人間関係が変わると、人生が変わるのです。

仕事上、会議の司会をすることが多いので本書を読んでみた。

会議はやり方次第ではムダな時間の浪費になってしまう。

そしてそのような会議が多いのが事実。

会社のなかで職位が上がると、どうしても会議の時間が多くなってくる。

課長や部長になると、給料も一般職よりは高くなる。

給料の高い人が、一同に集まり、生産性の低い話し合いをしているとしたら、これほどのムダはない。

会議無用論が出てくるのもそのような理由による。

しかし、本来、様々な考えの人があつまり、有意義な話し合いをすれば、よいアイデアが出るはずである。

「ファシリ」はラテン語で物事がストレスなく流れること。

物事がうまく流れると、楽しくなる。

楽しくなると、どんどんアイデアが出て創造的になれる。

それがファシリテーターの役割。

そのためにはやはりスキルが必要になる。

それがファシリテーション。

ぜひ身に付けたいスキルである。

2015年8月17日 (月)

海戦から見た日露戦争/戸高一成

Photo 世界史上類のない完全勝利を収めたことで艦隊は沸き立ち、国民は驚喜した。ロシア艦隊には負けるべき要素があまりにも多く、日本艦隊には勝つべき要素があった。しかし、東郷長官や秋山参謀にとってこの勝利は違った意味を持っていたのではないか。わが身を削るようにして立てた計画のすべてが無となってしまい、白紙の状態で戦った結果の勝利だったのである。

日露戦争の勝利に日本人は酔った。

興奮に酔えずに醒めていた何人かの男たちがいた。

連合艦隊司令長官東郷平八郎、連合艦隊参謀秋山真之、その他この海戦にまつわる最高機密に関わった男たちであった。

彼らは日本海海戦での勝利が奇跡的なほどの幸運によってもたらされたもののように感じていた。

あの秋山真之の 「本日天気晴天なれども波高し」という言葉。

これは「波が高いので奇襲作戦は決行できない恐れがある」との危機感を表す内容であったと著者は言っているが、そうは伝えられていない。

勝てば全てが美化され美談になってしまう。

人間は、負けたときには反省する。

しかし、勝ったはときには反省や検証することは忘れてしまう。

あるいは、いい加減にしてしまう。

大東亜戦争での敗北は、もうこの時に決まったといってよいのではないだろうか。

2015年8月16日 (日)

海戦から見た日清戦争/戸高一成

Photo 日清戦争は、戦争というものが単に戦場や海上での戦いで勝てば決着するというような単純なものでは無い事を、教訓として日本に教えたのである。これがあったがために、日本は次の国家衝突としての日露戦争に備える事が出来、勝利を得たのである。

日清、日露、大東亜と続く、この50年間の日本の歩をみていると、興味深いことに気づかされる。

それは、日露戦争の勝利は日清戦争の教訓の結果であり、大東亜戦争の敗北は日露戦争の教訓を生かさなかった結果であったということ。

日清戦争は勝利のうちに終結した。

しかし、日清戦争が果たして勝利の戦いであったのか、はなはだ疑問と言わざるを得ない。

対清国戦争としては、確かに勝利を得たが、その勝利の成果は、たちまちにして三国干渉で失われた。

そこで学んだ教訓は、戦争というものが単に戦場や海上での戦いで勝てば決着するというような単純なものでは無いということ。

この教訓は日露戦争に生かされた。

日露戦争の勝利は、再び日本に多くの教訓を残した。

国家戦争は、決して一国と一国の戦いではなく、それぞれの国の背後には、利害を共にする多数の国がそれぞれ手を握り、世界注視の中で戦うのだということ。

最終的には、第三国が仲介の労を取らなければ収まらないこと。

また、近代的兵器を駆使する戦いは、想像を絶する人的、経費的消耗を伴い、勝者といえども、大きな傷を負わねばならないこと等、そのほか多くの教訓があった。

しかし、世界の大国ロシアを破ったという表面的な勝利に酔った日本は、その多くの教訓を、真剣に検討することは無く、いわば歪んだ勝利体験のみを受け継ぎながら肥大化していった。

そして、1941年、国益を守るための多くの対外交渉に破綻した日本はアメリカに宣戦を布告し、1945年、壊滅的状態で敗戦を迎えた。

今日改めて大東亜戦争を見直すとき、その開戦決意の背景には、日露戦争の勝利がある。

そしてその日露戦争の勝利の背景にこそ、苦難に満ちた日清戦争の勝利がある。

歴史に学ぶということがいかに重要かということをこのことは示していると思う。

2015年8月15日 (土)

海戦から見た太平洋戦争/戸高一成

Photo 結局、ミッドウェー作戦の失敗は、陸海軍に大打撃を与えた。特に南雲機動部隊の参加空母四隻喪失については、天皇にも報告することをためらい、遂に沈没は、「加賀」と「蒼龍」の二隻ということにし、ミッドウェー海戦直後の七月十四日付の、軍機・帝国海軍戦時編制表には、新編成の機動部隊である第三艦隊の付属として、何と沈んだ「赤城」「飛龍」の二隻が明記されていた。艦隊の編制は、天皇の大権事項であり、艦艇一隻の移動でも、天皇の直接の裁可を必要とする重要事項である。この時点で、軍令部は、天皇に虚偽の上奏をしたのである。

大東亜戦争の敗北の原因は、一般的には日米の物量の違いと言われている。

確かに、これは決定的な要素であろう。

しかし、それだったら、日露戦争だって似たようなものである。

だから、それ以外にも敗北の原因があるはずである。

上記のエピソードは、日本軍の中に、情報を隠す、捏造するというあってはならないことが起こっていたことを示している。

おそらくこのようなことは様々な場面で起こっていたのだろう。

典型的な例は、大本営発表。

意図的に情報を隠し、捏造し、ウソの報道をし、国民をだましていた。

情報に求められる第一の要素は正確さである。

これがなければ情報とは言えない。

でも、このようなことは今の日本のマスコミでも日常的に行われている。

その意味では、日本人は悪い意味で戦中と全く変わっていないといえるのではないだろうか。

2015年8月14日 (金)

一流の人はなぜ、A3ノートを使うのか?/横田伊佐男

Photo これまでの経験で、うまくいくプロジェクトは、規模の大小に関わらず、全体概要が必ず「紙1枚」にまとまっていました。
 一人で責任を負うプレゼンも、300名の力を集結するプロジェクトも、「紙1枚にまとめる」法則がうまくいく秘訣であることに変わりはありません。

全てのプロジェクトはA3ノート1枚にまとめることができるという。

これによって全体を俯瞰して見ることができるようになる。

プロジェクトのように、多くの人が関わる仕事は、部分最適に陥りやすい。

代表例は、先日の新国立競技場問題である。

当初のプランが発表されたときの1300億円という額にも驚いたが、それがあれよあれよという間に2520億円に膨れ上がった。

これなど、これに関わる人や組織の様々な思惑が絡んで、こうなってしまったのであろう。

問題は全体を俯瞰して見ることが出来なかったということ。

それを考えると、俯瞰思考がいかに大事かがわかる。

俯瞰思考は、一朝一夕には養われない。

高い意識、質の良い情報、絶え間ない努力が必要だから。

普段からA3ノートを使って繰り返し、練習することが必要なのではないだろうか。

2015年8月13日 (木)

戦争の条件/藤原帰一

Photo 明石康を事務総長特別代表として国連は平和維持活動を展開したが、米軍という力を背景に持たない国連の活動は失敗せざるを得なかった。ユーゴ戦争の終結は、米軍を含むNATO諸国の軍事介入を待たなければならなかった。

戦争を防ぐにはどうすればよいのか?

本書はそれをケーススタディ形式で問いかけている。

日本人は戦争という言葉そのものをタブー視する傾向がある。

戦争について語ると、好戦論者だと思われてしまう。

しかし、戦争を防ぎたいのであれば、戦争について考え語る必要がある。

なぜなら、戦争は国と国との関係がうまくいかなくなることによって起こるのであって、一国が武力を放棄すれば起こらないというものではないからである。

むしろ、逆に武力を持つことによって戦争を防ぐことができる。

例えば、A国とB国が戦争を起こさない状況は、どのような条件の下で生まれると考えられるか。

これは、本書に出てくる、まさに国際政治学の基本問題、平和の条件そのものの問いである。

第一の立場は、軍事力の均衡のほかに、戦争を起こさない状況などはありえないとするもの。

これは国際政治学におけるリアリズムと呼ばれる立場である。

国家権力の発動を実効的に規制できる主体が存在しない限り、国家間の戦争状態はなくなることがないことになる。

第二の立場は、A国・B国の両国に軍事力の放棄を求めるもの。

国家が軍隊を保持し、互いに戦争の準備を行う限り、戦争の可能性はなくならない。

もしここで戦争を排除しようとするのであれば、軍隊そのものをなくすほかに方法はないではないか。

このような絶対平和主義は、憲法第九条に戦力不保持を謳っていることもあって、大東亜戦争後の日本ではかなりの支持を集めてきた。

だが、軍隊を保持し、しかもそれを駆使する意志を持った国家がひとつでも残された場合にどうすべきかという問いに対して、絶対平和主義は答えることができない。

第三の立場は、戦争を違法化するとともに、戦争を始めた主体に対する制裁を認めるものである。

これが集団的安全保障の観念である。

多くの国はこの立場をとっている。

日本も国としてはこの立場をとっているのだが、国民はなかなかこれを理解しようとしない。

外交交渉も、武力を背景にしたものでなければ、相手の国は応じてくれない。

それは歴史が証明している。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。

この時期になると、あの戦争の悲惨さがテレビで放映されることが多い。

しかし、それは「経験」である。

もっと、歴史に学ぶ必要があるのではないだろうか。

2015年8月12日 (水)

人の心に火をつける/松本育夫

Photo サッカーを楽しもう――。正直なところ私はその言葉の意味がわからない。
 皆、試合に勝ちたいはずだ。だったら、そこに妥協はない。あってはならないと思う。勝負に強いこだわりを持たなければ、本質的な向上はない。本当の楽しさは、とことんやり抜き、苦しみ抜いた人間だけが最後の最後に知る果実である。プロセスが険しければ険しいほど、成果を出したときの喜びは大きい。

試合を「楽しむ」

アスリートからよく聞く言葉である。

しかし、その使い方を間違っていると感じる選手がいる。

彼らの「楽しむ」という意味は「楽する」という意味である。

中には、緊張したりあがったりしないために「楽しむ」というのかもしれない。

しかし、本来「楽しむ」とは、全力を出し切った結果得られる果実なのではないだろうか。

乗り越えるべき壁が高ければ高いほど、それを乗り越えたときの喜びは大きい。

それを「楽しかった」と表現する。

水泳の北島選手がオリンピックで優勝したとき、「チョー気持ちいい」と言ったことと通じるものがある。

その言葉にみんなが感動したのは、そこに至る気の遠くなるような努力の積み重ねの結果であることがわかるからである。

「楽しむ」という言葉も、使う場面や人によって全く違った意味になってしまうということである。

2015年8月11日 (火)

火花/又吉直樹

Photo その日は、世田谷公園を一緒に歩いていた。辺り一面の木々はいかにも秋らしく色づいていたのに、なぜか一本の楓だけが葉を緑色にしたままだった。
「師匠、この楓だけ葉が緑ですよ」と僕が言うと、「新人のおっちゃんが塗り忘れたんやろな」と神谷さんが即答した。
「神様にそういう部署あるんですか?」と僕が言うと、
「違う。作業着のおっちゃん。片方の靴下に穴開いたままの、前歯が欠けてるおっちゃんや」と神谷さんが言った。
 その語調には僅かな怒気が含まれているように感じられた。

今、話題の小説なので読んでみた。

この小説は、芸人仲間の先輩との交流を描いたもの。

寝ても覚めても笑いを取るネタを考えている芸人の日常を丹念に書いている。

特に、先輩とのふざけたやり取りが生き生きと描かれている。

この当りは本業の経験が生きているのだろう。

芸人が、日頃から言葉を大切にしているのがよくわかる。

そして、最後は堕ちていく先輩を描き、ほろ苦さを感じさせる。

一人の若者の成長の記録としても読むことができ、芥川賞を取ったのがよくわかる。

2015年8月10日 (月)

山峡の章/松本清張

Photo 自分の将来には、もっと未知の何かがある。その未知の何かが、いま、堀沢という夫のために挫折してしまった。夫に抱かれた昌子は、たしかに幸福感に似たものはあった。だが、その一方、堀沢という夫に自分の人生が決定されていくかなしさ、うつろさを感じないわけにはいかなかった。

男と女では結婚に対する考え方は大きく違うと思う。

特に昭和の時代は、女性にとって結婚は就職と同じ。

誰と結婚するかによって人生が決まってしまう。

結婚の人生に占める重さが今とは全然違う。

この小説はある女性が一人の男性と結婚することによって、思わぬ事件に巻き込まれてしまう、というもの。

もし堀沢という人物と結婚しなければ全く別の人生を歩んだはずである。

小説自体は面白く読ませていただいたが、そのあらすじとは別に、そんなことを考えさせられた。

2015年8月 9日 (日)

NEXT WORLD

Next_world 30年後には、30歳くらいになると、一生を通して若さと健康を保てる薬を処方されるようになるはずです。たった1つの薬で、ほとんどの病気の治療が行われている可能性もあります。そうすれば、100歳になっても、まるで20歳の若者のように、朝はベッドから跳ね起きて、元気にスケートボードを乗り回し、友達とパーティーを開いたり、恋愛を謳歌したりといった行動がとれるようになるでしょう。

本書は、NHKスペシャル『NEXT WORLD―私たちの未来―』で紹介したテクノロジーをさらに深く掘り下げ解説したもの。

30年後の世界はどんなものなのだろう?

テクノロジーはあらゆる分野で進化を遂げ、予想だにしない未来が来るかもしれない。

でも、それは人類にとって本当に良いことなのだろうか?

例えば、みんなが100歳になっても20代と同じような若さを保ち、行動できるようになったとしたら?

それはそれでまた違った問題を引き起こすような気がする。

2015年8月 8日 (土)

ヒラメキを、即、行動に移そう。/中谷彰宏

Photo直感は、3つの作業が連続しています。
「頭にひらめく」→「動く」→「続ける」
この3つがセットになって初めて直感です。
ひらめくだけでは、直感とは言いません。

ヒラメキを、即、行動に移すこと、

そう簡単なことではない。

ヒラメキは、意識下にある膨大なデータベースが反応したものだと、ある本で読んだことがある。

つまり、単なるヤマ勘ではないということ。

でも、それが正しいかどうかは行動してみなければ分からない。

行動すれば何らかの結果がでる。

これを繰り返し、成功体験を積み重ねることである。

勇気のいることなのだが。

2015年8月 7日 (金)

決定版・日本史/渡部昇一

Photo アメリカは、日本のような天然資源もない「持たざる国」がなぜ近代戦を戦えたのかと分析し、「その源は日本精神にある」という答えにたどり着いたのである。その「日本精神」を破壊するために、勝者が敗者を裁くという公平性の全くない東京裁判で、「戦前の日本は悪い軍国主義で、侵略国家である」と決めつけた。そして日本に戦争責任のすべてをなすりつけ、日本人に自分たちが悪かったという負の意識を徹底的に刷り込んだ。いわゆる「東京裁判史観」である。

8月になると、毎年、終戦関連の番組が多くなる。

ほとんどは、「あの悲惨な戦争は二度とやってはならない」といった類のものである。

もちろん戦争などは二度とやってはならないと思うのだが、それが情緒的な内容になっているのは気になる。

そこにかいまみえるのは、いわゆる「自虐史観」

そしてその考え方を作ったのは東京裁判であり、東京裁判史観である。

歴史の本をいろいろ読んでみると、一方的に日本が悪かったとする考え方がいかに偏ったものであるかがわかってくる。

方や日本は全て正しかったとするのも間違いである。

次期学習指導要領では高校での「近現代史」が必修になるという。

歴史には多様な見方がある。

光の部分もあれば、影の部分もある。

それらをキチンと見る教育をしてもらいたいものである。

2015年8月 6日 (木)

「ライフワーク」で豊かに生きる/本田健

Photo ライフワークという観点で見ても、多くの成功者が、「不思議な偶然」に導かれるようにしていまのライフワークに出会っています。ですから、その偶然に身を任せ、あとは目の前のやることに全力投球する、という態度が運気を高めると思います。「その偶然の連続をエンジョイすることが、楽しい人生を生きるコツ」だと、多くの幸せに成功している人は語っています。

「ライフワーク」、日本語に訳せば「天職」。

ライフワークが持てる人は幸せだと思う。

「これが私の天職です」と言える人はどのくらいいるのだろうか?

では、どうすればライフワークに出会えるのか?

著者は、「偶然に身を任せ、あとは目の前のやることに全力投球する」ことだという。

つまり計画的なものではないということ。

では「偶然」だから、何もしなくてもよいのか、というとそうではない。

「目の前のやることに全力投球する」ことが重要。

確かにこれは当たっている。

でも、これができない人が大部分だというのも現実である。

2015年8月 5日 (水)

あの戦争と日本人/半藤一利

Photo 昭和十六年十月二十六日の東京日日新聞、今の毎日新聞ですが、社説で、「戦わずして日本の国力を消耗せしめるというのが、ルーズヴェルト政権の対日政策、対東亜政策の根幹であると断じて差支えない時期に、今や到達している、とわれわれは見る。日本及び日本国民は、ルーズヴェルト政権のかかる策謀に乗せられてはならない」と煽っています。「早くやれ」ということだねえ(笑)。

あの戦争を始めた原因は何だったのか?

東条英機に代表されるA級戦犯、そして軍部の独走というのが定説になっている。

しかし、本当にそうなのだろうか。

日本は誰か特定の首謀者が意思決定し戦争に突入するという国ではない。

ヒトラーのような強烈なカリスマ性を持ったリーダーが意思決定し、みんながそれに従うということはほとんど起こらない。

なんとなく、そのような雰囲気になって、意思決定者もあいまいなまま、決定するということが多い。

あえて言うならば、「空気」が決めた、といってよい。

そしてそれをつくったのは、当時のマスコミと国民である。

当時のマスコミは、朝日や毎日を始め、全てが好戦的な論調であった。

それによって国民を煽った。

そして、煽られた国民に影響され、マスコミの論調は益々好戦的になる。

この相互作用が政治家を動かした。

それが実際のところだったのではないだろうか。

でも、この国民性、今も全く変わっていない。

2015年8月 4日 (火)

この国は誰のものか/牛島信

Photo プロフェッショナルは目先の利益を超えて専門職業的な使命を果たすものだという信頼が世間にある。だから、一定の資格を与えられているのだ。具体的には一定の社会的機能の独占を許されているということである。

本書は弁護士である著者のエッセイ集である。

雪印乳業の食中毒事件、ライブドアによるニッポン放送買収騒動、耐震偽装、等々、世間を騒がせた事件が取り上げられている。

これらの事件では、会計士や一級建築士、弁護士といったプロフェッショナルが関わっている。

彼らはこの事件にどのように関わったのか?

プロフェッショナルが事実に反すると知ってそれを無視したら?

プロフェッショナルは高い専門性を持っているはずである。

と、同時に、高い専門職業的倫理に支えられているはずである。

だから、仕事を任される。

もし、そのようなプロフェッショナルが故意にその職業的使命を無視したとしたら?

その罪はあまりにも重い。

つまり、このような世間を騒がせた事件には、プロフェッショナルがその職業的使命を見失ってしまったことが背景にある。

非常に考えさせられる。

2015年8月 3日 (月)

サムスンで働いてわかった韓国エリートの仕事術/水田尊久

Photo そもそもサムスンには、技術者といっても技術が好きだという人が少ないように感じます。技術は、あくまでサムスンに入って出世するためのツールという位置づけなのかもしれません。技術を深追いすることはなく、「上司から要求される水準をクリアすればよい」とする風潮があります。

技術に対する考え方は、日本と韓国は随分違う。

日本の技術者は技術にこだわりを持っている。

これが良い方向に働くこともあるのだが、一方、それは消費者のニーズを無視した過剰品質を生む。

一方、サムスン社員にとって技術はあくまで出世するためのツール。

つまり一定水準を満たせばよい、となる。

これはサムスンに限ったことではなく、韓国の過去の歴史において、技術者が尊ばれたことは一度もない、ということ。

これがマーケティングでは有利に働くことがある。

例えば、途上国では、それほどの高品質な商品は求められない。

それより、手ごろな価格で、それなりに使える商品、これが求められる。

サムスンはこれによって成長した。

しかし、今後はどうだろうか。

商品のコモディテー化が進んだあと、今度は「特注」や「自分仕様」つまりカスタマイズが求められるようになる。

こうなってくると、技術に対するこだわりが強みを発揮するようになるだろう。

すると、これまでの強みが弱みに、弱みが強みになる。

こう考えると、サムスンが今後、苦戦するであろうことは当然のこと、と言えるのかもしれない。

2015年8月 2日 (日)

韓国人が書いた韓国が「反日国家」である本当の理由/崔碩栄

Photo 例えば、2006年ドイツワールドカップの韓国対スイス戦で韓国が失点した際、審判がオフサイド判定を下さなかったことに対して韓国社会では大きな不満の声が巻き起こった。スイス側のプレーは明白なオフサイドで、スイスの得点は無効だという意見だった。多くの専門家、解説者も判定が間違っていると口を揃えるなか、現地でテレビ解説をしていた一人の解説者辛文善だけが「審判の判断が正しく、あれはオフサイドではない。韓国の失点だ」と明言した。しかし、その一言で彼はどうなったのか。彼は韓国で「裏切り者」「売国奴」と罵倒され、ものすごいバッシングに遭った挙句、翌日テレビ解説担当から外される。その後、彼はテレビから姿を消してしまった。逆に「オフサイドだ。審判の判定は詐欺だ」と叫んだ現役選手の解説者には熱い拍手が送られた。

私はこれまで3度、韓国に行ったことがある。

韓国の人たちと個人的に接したこともある。

個人的に接すると、韓国人は普通である。

確かに日本人と違うところがあるが、不愉快に感じたことはほとんどない。

ところが、これが「国家」とか「国民」となった場合、違ってくる。

例えば、韓国では政府とマスコミが「日本」を語る際、間違いや誇張が含まれたり、客観性に欠ける主張が少なくない。

日本人から見れば明らかにおかしいことが語られている。

しかし、韓国人は韓国と日本の主張が対立する時、無条件反射のように韓国の主張が正しいと思い、韓国を支持する。

そうしない人は「売国奴」であり、「裏切り者」である。

社会的な地位を抹殺されることすらある。

それは上記のエピソードを見ても明らかである。

だから、誰も「おかしい」ことを「おかしい」と発言できない。

著者は韓国の反日について3つのことを言っている。

第一に、現在見られる韓国の反日感情は「過去」に起因するものではない、こと

第二に、韓国社会には社会的「システム」として反日感情を生産、維持する装置がある、こと

そして、第三に、その「システム」の中に生まれ、育った人々は自分が限られた情報と報道しか見ていないことを認知できない、こと

こうなってくると、もはや対策の打ちようがない。

少し距離を置くのが正解ではないだろうか。

2015年8月 1日 (土)

本気になればすべてが変わる/松岡修造

Photo 合宿での僕は、子供たちを大声で叱りつけるのが常ですが、圭に対しては怒鳴りませんでした。もちろん練習は手加減しませんが、「ああしろ、こうしろ」とは、ほとんど言わず、できるだけほめるようにしていました。
 なぜなら、最初に圭と会ったとき、「この子は内気で恥ずかしがり屋だ。怒鳴ると萎縮してしまって逆効果になるな」と感じたからです。実際、みんなの前でスピーチをさせると、圭は緊張のあまり声も出ず、ただ呆然と立ち尽くすだけでした。

今、世界で活躍している錦織選手を見ていると、昔「内気で恥ずかしがり屋、スピーチは苦手」だったとはとても思えない。

つくづく「人間は成長するものだ」と思ってしまう。

同時に、人を成長させるためには、その人にあった指導が必要だということを知らされる。

著者である松岡氏は、一見して暑すぎてむさくるしい人、

テンションのめちゃめちゃ高い人、という印象だが、

意外にも、この本はとても理論的に書かれている。

少なくとも根拠のない精神論などではない。

何事も、ワンパターンではダメということであろう。

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