新常識主義のすすめ/渡部昇一
日本でも春闘のときなど、やはり労働組合の方が正義感が強い。だからきたないことをやる。国電に白いペンキできたなく書く。あれは正義感があるから書くのである。正義感がなければ決してきたなくしない。だから、正義感と形式の美はちょうど反比例するわけである。
歴史的に見ると、戦いのとき正義感の強い方がきたない手を使う、という。
これは案外当たっていると思う。
確かに自分が正義だと思うと、「何をやってもいい」という発想になりがちになる。
沖縄の辺野古移設問題でも、汚い手を使うのは反基地運動側である。
最近のパリ同時多発テロの問題でも、やはり汚い手を使うのはIS側である。
こう見てみると、「正義」という言葉がいかに怪しいものかということが分かる。
少しでも「自分は間違っているかもしれない」という疑念があるならば、方法論においても非がないようにするだろう。
その謙虚さを正義感は奪ってしまう。
正義という言葉ほど危ういものはないということを知るべきであろう。
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